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関ヶ原合戦の真実 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net


人間七七四年 [sage] 2017/03/17(金) 22:00:17.80:4YKgt8yC
慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原で徳川家康らの東軍が石田三成らの西軍を破った戦い。
豊臣秀吉の死後、天下の実権を握った家康は三成と対立し、それぞれ諸大名を
糾合して戦ったが、小早川秀秋の寝返りにあった西軍は惨敗し、三成らは処刑され、
豊臣秀頼は摂津・河内・和泉60万石の一大名に転落した。この結果、徳川氏の覇権が確立。
俗に「天下分け目の戦い」という。
次スレはでお願いします。無理な場合は次レス番を指定してください

前スレ
関ヶ原合戦の真実 Part6 [無断転載禁止]©2ch.net
ttp://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1477565218/
人間七七四年 [sage] 2017/03/17(金) 22:00:39.02:4YKgt8yC
過去スレ
関ヶ原合戦の真実 Part5
ttp://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1474112000/

関ヶ原合戦の真実 Part4
ttp://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1470915006/

関ヶ原合戦の真実 Part3
ttp://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1464347783/

関ヶ原合戦の真実 Part2
ttp://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1453807317/

関ヶ原合戦の真実
ttp://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1430516022/
人間七七四年 [sage] 2017/03/17(金) 22:45:54.83:LsvFn44O
いちおつ
人間七七四年 [sage] 2017/03/19(日) 12:33:33.66:M7XRloHj
いした゛は しほ゛うしました
人間七七四年 [sage] 2017/03/19(日) 22:21:24.08:n50sNqT/
新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い
白峰 旬 (著)
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4863669283

関ヶ原合戦にはよく知られたおなじみのエピソードが多い。
しかしそれを歴史的に検証するとどうなのか?
本書では一次史料を用い、小早川秀秋への「問鉄砲」はフィクションであり、
小早川秀秋は開戦と同時に裏切り石田三成方は瞬時に敗北したこと、
家康の小山評定は歴史的事実とは言えないことなどが、次々に検証されていく。
生駒利豊書状の真に迫る白兵戦のすさまじい描写、細川忠隆の首注文史料の数字が語る実戦の具体性も
本書の見どころである。

【序章】関ヶ原合戦はどう語られてきたのか―江戸時代に誕生した関ヶ原合戦像?

【第一章】関ヶ原合戦当日の虚像を剥ぐ?

【第二章】関ヶ原合戦以前の通説を正す

【第三章】小早川秀秋を裏切らせた「問鉄砲」はフィクションである

【第四章】『日本戦史』の布陣図に歴史的根拠はない?

【終 章】すりかえられた天下取りの戦い
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 08:27:21.95:BMfFcT8D
白峰本のテンプレはもう要らんでしょ。定着せずに消え去る説ばっかりだしさ
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 15:12:11.12:D3EFdDfL
最新刊でも普通に取り上げられてるけどな

戦国史の俗説を覆す
ttp://www.kashiwashobo.co.jp/book/b244530.html


まぁ認めたくないだけだろうけどw
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 18:57:18.54:BfGlc/6W
もう要らんな
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 19:18:13.04:U+/zItlG
別にあっても良いけどな
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 20:49:14.47:D3EFdDfL
白峰のぞいたらスレがますます閑散になるから却下
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 20:55:27.53:TFJUUQOk
笠井比呂彦と光成準治はどちらの著書が良いですか?
人間七七四年 [] 2017/03/20(月) 21:31:07.51:pi6MFAXi

お前ら通説もろくに知らないのに俗説を覆す本読んでどうすんだよw
かえって変な歴史感を刷り込まれるぞ。
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 22:14:44.22:BMfFcT8D
通説に覆されるような新設を取り上げるくらいなら閑散としてた方がマシだろ。

白峰氏の主張が通るのって、問鉄砲などとっくの昔に否定されてたもの説ばかりで
小山評定などガッツリ通説に負けてる状況だもの。
人間七七四年 [sage] 2017/03/20(月) 22:15:21.47:U+/zItlG
前スレで西軍の畿内制圧方針に不備は無かったって結論だったけど
上杉の方針はどうだろうね?

ま、三成が主張した即時関東討入りは無謀以外の何物でも無いけど
人間七七四年 [] 2017/03/21(火) 08:10:24.60:UuzaRP9A

問鉄砲、「歴史の虚像を衝く」やミネルヴァからでた「徳川家康」を読んだ感じ
笠谷はいまだにあった派みたいなんだよなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/03/21(火) 10:20:57.45:P4nDV+DT
瞬殺とか頭悪すぎる
人間七七四年 [sage] 2017/03/21(火) 10:22:18.70:P4nDV+DT

布陣によってはあり得る

ただ根拠史料がないらしいが
人間七七四年 [sage] 2017/04/02(日) 17:06:17.40:9ON/b8G7
「伏見ニハ内府御座候て、 諸職被成御肝煎候へと 御意候 、 城々留守ハ徳善院、長東大蔵仕、何時も内府てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、 無気遣上可申由、 被成 御意候事」

そーいや上記文は「家康を伏見周辺の雑務処理係に命じただけ」説を聞いたんだけど、これって何か根拠があったりするの?
「何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へ」と会わせれば徳川前田両頭体制を指示してるとしか思えないんだけど。
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 06:55:11.87:YJxsOWoe

雑務処理係じゃなくて承認行為のみだと言う説だね。

城の留守を命じられたのは奉行衆であり、政策の承認を求めるのも奉行衆だという解釈だね。
家康も利家も伏見や大坂への在城はできず、相談された内容に対して許可するだけだという話。

素直に読めば割と妥当な解釈ではある。
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 13:51:29.00:xAYyr22A
「伏見ニハ内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へ」
「何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へ」
で徳川が政務担当で、徳川前田の両頭体制示唆かと思ってたわ。

法度違反への対処権が五奉行持ち等、
徳川が全権委任されたわけではないのは知ってるけど。
でも庄内の乱の対処とかは徳川主体で動いてたよね?

「承認行為のみだと言う」説は現時点で「通説」レベルなの?
それとも一部研究者の「新説」レベル?
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 14:54:36.44:XnTu8plC
秀頼の成人を停止条件とし、秀頼のために家康が許されるのは保存行為のまであり、遺産分割は、秀頼成人まで待つべきと考えられている(星野、四宮、川井、加藤、内田)。
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 16:09:19.75:3N3PM9od
秀吉の遺言が秀頼成人まで全政策凍結というそもそも実現困難なものだから
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 20:00:10.74:zlmmWweM
蔵入地の保全なら兎も角、庄内の乱とか宇喜多騒動とかあったら
「全政策凍結」とか不可能だもんな。特に伊集院は豊臣直臣扱いだったから「大名の減封」に相当するけど、まさか所領安堵するわけにもいかないし
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 20:44:49.24:Ik9GrMFG

一行目だが

家康は伏見にいる

役職者は家康の承認を得る

この2点では?

承認を得ると明記はないが
話をするだけなら制度として意味がない
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 21:53:57.61:ujLjrclj
別に今みたいに憲法や法律で統治の方法について決められていたわけではなく
結局は秀吉の武威を背景にした統治だから
秀吉の変わりは徳川前田で務めてね程度の文章でしかないんじゃないかな
で大老奉行がそれを各々が好き勝手に解釈した結果が
私婚問題から関が原に至るまでの盛大な内輪もめになったのでは
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 22:55:54.66:WJkl1/IZ
「承認を得る」が国事行為みたく儀礼として形だけの「承認」なのか、
上位者としての決定権・拒否権を持っての「承認」なのかで変わってくるねそれ。
後者なら秀吉死後は徳川前田主導体制で、
徳川は政務担当と言って差し支えないとおもうけど。
秀吉死後直ぐに奉行衆が対徳川想定で輝元に接近しているところ見ると、
逆説的に家康にそれなりの権利が有ったと見ていいのかな?
人間七七四年 [sage] 2017/04/03(月) 23:08:02.42:l7nQKacd
ここで提示されたものからすれば
承認だけおこうなう

奉行らが立案実行
家康が承認
人間七七四年 [sage] 2017/04/04(火) 03:04:09.63:Sp7LxrIm
太閤様は、居並ぶ重立った諸侯の前で、その大名(引用者注:家康)
を傍らに召して、次のように語った。
「(中略)予は息子(引用者注:秀頼)とともに日本全土の統治を
今や貴殿(引用者注:家康)の掌中に委ねることにするが、
貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、
かならずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。(中略)」

って記録しているイエズス会日本報告集の記載もあるんだけどな
人間七七四年 [sage] 2017/04/04(火) 06:15:07.15:EqwN5CYC
家康に主君(引用者注:秀頼)の後見役と、日本国全土の統治を任せ、その同僚として四名の重立った家老を与えた。
彼(引用者注:秀吉)はこうすることによって多くの者がこの栄誉に参画し、国家を統治する権力においては同等のように
して互いに平和を保つようにした。

この記載のほうでしょ。内容のほうは
人間七七四年 [sage] 2017/04/04(火) 07:15:00.16:7qclAo6M
秀吉の遺言自体が微妙だけどね。五月に出したものが基本ではあるが直筆のものは八月五日。
さらに八月十日には大老連署で秀吉の仰せは回復するまで請けないと書かれる始末。

最後の方はかなり支離滅裂になっていて、それが死後の政局混乱を招いたのかも知れん。
人間七七四年 [sage] 2017/04/04(火) 15:01:50.21:Sp7LxrIm
7/1の伊達政宗の手紙では
「御諚には秀頼様いまだ御幼少の義に御さ候間、
太閤様以来は内府・大納言あづけ御申候間、御うしろ見なされ、
如何様にもとりたて御申あるべき由」
ってなってるからやはり徳川前田が中心だったのは周知の事実か?
人間七七四年 [sage] 2017/04/04(火) 16:20:34.03:d/Uh2twg
菅沼かよ
人間七七四年 [] 2017/04/07(金) 21:24:52.94:7d+X+5vH
別スレにあった「太閤様御覺書」を見ると

太閤樣被成御煩候内ニ被爲 仰置候覺

一 内府久々りちきなる儀を御覽し被付、近年被成御懇候、其故 秀ョ樣
  を孫むこになされ候之間、秀ョ樣を御取立候て給候へと、被成 御意
  候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、

一 大納言殿ハおさなともたちより、りちきを被付御存知候故、秀ョ樣御
  もりに被爲付候間、御取立候て給候へと、内府年寄五人居申所にて、度
  々被成 御意候事、

一 江戸中納言殿ハ 秀ョ樣御しゅうとになされ候條、内府御年もよられ、
  御煩氣にも御成候者、内府のごとく、秀ョ樣之儀、被付御肝煎候へと、右
  之衆居申所にて、被付 御意候事、

一 虫ト肥前殿事ハ、大納言殿御年もよられ、御煩氣にも候間、不相替 秀
  ョ樣御もりに被爲付候條、外聞實儀忝と存知、御身ニ替り肝を煎可申
  と被 仰出、則中納言ニなされ、はしたての御つほ、吉光之御脇差被下、
  役儀をも拾万石被成御候事、

一 備前中納言殿事ハ、幼少より御取立被成候之間、秀ョ樣之儀ハ御遁
  有間敷候條、御奉行五人にも御成候へ、又おとな五人之内へも御入候
  て、ゥ職おとなしく、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと、被成 御意候事、

一 景勝、輝元御事ハ、御りちきに候之間、秀ョ樣之儀御取立候て給候へと、
  輝元へハ直ニ被成 御意候、景勝ハ御國ニ御座候故、皆々ニ被爲 仰置
  候事、

一 年寄共五人之者ハ、誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、さけさや
  の躰にて罷出、双方へ令異見、入魂之樣ニ可仕候、若不屆仁有之而きり
  候ハゝ、おいはらとも可存候、又ハ 上樣へきられ候とも可存と、其外
  ハつらをはられ、さうりをなおし候共、 上樣へと存知、秀ョ樣之儀
  大切ニ存知、肝を煎可申と、被成 御意候事、

一 年寄爲五人、御算用聞候共、相究候て、内府、大納言殿へ懸御目、請取を
  取候而、秀ョ樣被成御成人、御算用かた御尋之時、右御兩人之請取を
  懸 御目候へと、被成 御意候事、

一 何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成 御意
  候事、

一 伏見ニハ内府御座候て、ゥ職被成御肝煎候へと 御意候、城々留守ハ
  コ善院、長束大藏仕、何時も内府てんしゆまても、御上り候ハんと被仰
  候者、無氣遣上可申由、被成 御意候事、

一 大坂ハ 秀ョ樣被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと
  被成 御意候、御城御番之儀ハ、爲皆々相懃候へと被 仰出候、大納言
  殿てんしゆまても、御上り候ハんと被仰候者、無氣遣上可申由、被成
  御意候事、

右一書之通、年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候、以上、

徳川、前田が他の三家より優遇されてる気がする
だからこそ五奉行連中が秀吉が亡くなると早々に
十人衆に拠る合議に持ってたんだと思ったんだが
人間七七四年 [sage] 2017/04/08(土) 01:38:27.10:jTD9pVz1
秀吉の構想は徳川前田の二家による政権運営及び相互監視体制だろうね
とはいえ前田家単体では徳川家に対抗することは難しいので
五大老同士での縁組をするよう指示して(実現はしなかったが)
前田-宇喜多-毛利、徳川-上杉と姻戚関係を結ぶ事によって東西勢力の均衡を意図したものと思われる
人間七七四年 [sage] 2017/04/08(土) 08:32:33.70:6Ww5enk4
前田はあくまで傅役プラスアルファ位だと思う
人間七七四年 [sage] 2017/04/08(土) 13:13:45.02:Hl/UoBe/
傅役って、いざとなったら若君を守って反乱勢力と戦う人だから
徳川に対抗できるのは前田であり、徳川と前田が組むことは無い、って考えはあったんだろ
人間七七四年 [sage] 2017/04/08(土) 13:50:40.14:or2Gud4k
その役割は寧ろ後見人兼外戚としての家康に期待してたんじゃないだろうか?
人間七七四年 [sage] 2017/04/08(土) 23:24:42.36:J62tFCra

そもそも秀吉には前田を徳川に対抗させるなんて発想自体が無い。
小説の読み過ぎだよ。
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 00:49:13.71:Zmnalu4b

んじゃ、なんで、わざわざ前田を傅役にしたんだよ?
徳川を全面的に信頼してるんなら、大坂城に常駐させて、秀頼の養育も政治も全部見させりゃいいだろ。
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 01:12:00.63:hWVqBy6M

幼君の筆頭家臣に政務養育全委任なんて他の家臣の不満を煽るだけじゃん。

つーか徳川が嫌がるんじゃないか?
全国政務+傅役なんて下手すれば業務過多で秀忠召喚になりかねないし。

傅役に「若君を守って反乱勢力と戦う人」なんて意味合い無いし。
徳川前田が伏見と大坂で役割分担って割と合理的だと思うが。
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 07:50:09.89:+ujpQSk0
傅役というのは若君の身辺警護兼教育係で、常に側にいる必要があるから
それプラス政務担当だと、秀吉が家康の過労死を狙っているとしか思えん
人間七七四年 [] 2017/04/09(日) 20:49:46.45:ZfZWQObJ
徳川、前田は息子にまで言及しているのに
残りの三家の扱いが軽いんだよな
内容的にも三人の能力にはあまり期待していない感じだし
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 21:01:31.46:sb103eUO
遺言書で名前が挙げられた順番は
徳川家康、前田利家、徳川秀忠、前田利長、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元

家康→利家の順からして重臣、重用されてる順だと思うが、
そうすると秀忠、利長は三大老より前なんだよな。
三大老に期待していないていうよりは、徳川前田が別格扱いだわ
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 21:02:52.16:otuhDj88

それはたまたまじゃないかな。
この時点で秀家はまだ若いし、輝元は息子が生まれたばかり。
(毛利秀元はすでに輝元の養子をやめている)
景勝にいたっては息子どころか養子すらいない。(これはこれでどうかと思うが)
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 21:20:37.85:2ltbEB17
官職で言えば秀忠は家康と利家以外の3人と同格だしな
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 21:49:21.45:sb103eUO
秀忠は14歳で中納言だから相当だよな
家康の後釜だから四大老を追い越すのは既定路線だったにしても
この時点で既に三大老と同格ってのが
人間七七四年 [] 2017/04/09(日) 22:12:02.84:ZfZWQObJ

>この時点で秀家はまだ若いし

毛利、上杉は兎も角、秀家は元亀三年(1572年)生まれで
秀忠は天正七年(1579年)生まれだから秀家の方が年長なんだけどね
ついでに言えば利長は永禄五年(1562年)生まれ
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 22:23:40.49:Bl5EdsBc

秀家は若いからその子供にまでは言及されてないってことじゃない?
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 22:31:35.62:sb103eUO


「宇喜多上杉毛利の後継者は若少、不在だから当主だけに遺言した。
一方、徳川前田はたまたま元服した後継者がいたからそいつらにも遺言を残した。
もし宇喜多上杉毛利に元服した後継者がいたらきちんとそいつにも言及したはず」

って主張じゃないかな。
個人的には宇喜多上杉毛利に元服した子供がいても言及は無かったと思うけど
人間七七四年 [sage] 2017/04/09(日) 22:52:41.59:otuhDj88

それであってます。言葉足らずですいません。
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 00:33:13.86:zCfgl2O6
司馬遼太郎の小説によると利長は利家以上の器量で
もう少し早く生まれていたら自力で一国をもぎ取るくらいの武将だと書かれていたが
何を根拠に司馬は利長を評価していたのか?
城塞だと本多正信の倅に全てを任せ表に出ようとしなかったのに
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 00:39:44.38:Up0Z8Kzm
所詮どっちも小説の話だろ?
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 00:39:56.52:cwDft/DG
司馬遼太郎(笑)
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 00:49:49.76:zCfgl2O6
おまえら司馬大先生をバカにするなよ。。
根拠がなく利家以上の器量なんていくら小説でも書かないだろ
利長は司馬作品ではモブキャラなのでわざわざ持ち上げる必要がないじゃないか
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 01:05:35.82:6v74Df0y
吉川英治にもっと歴史の勉強をしろと言われたんだっけ司馬遼は
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 02:31:47.01:r80d+Q+q
小説は創作が入ってくる
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 02:41:11.79:DppOP9zQ
別に作品をまたいで人物の評価を統一しないといけないわけではないしね
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 03:01:57.17:Up0Z8Kzm
例えば司馬は作中で、騎兵を有効に用いて軍を勝利に導いた例として
義経の一乗谷と信長の桶狭間を挙げてるな。

所詮小説は小説よ
人間七七四年 [] 2017/04/10(月) 07:05:11.70:JKjrn3ef
メッケルの西軍勝利の逸話とかいまだに信じている人いるからなぁ
蜂起した頃の味方宛ての書状を見ると鼓舞の意味もあっただろうけど、
三成自身西軍の勝利を疑ってなかったんだろうなって感じる
人間七七四年 [] 2017/04/10(月) 13:41:29.62:SHqyhRwk

真田や松井佐渡に宛てた書状を見ると敵に対しての見通しの甘さを感じるけどね

去廿一日に両度之御使札、同廿七日於江佐に到来、令拝見候

一、右之両札之内、御使者持参之書に相添覚書幷御使者口上得心事

一、先以今度意趣、兼而御知も不申儀、御腹立無余儀候、然共内府在大坂中、
  諸侍之心いかにも難計に付而、言発儀遠慮仕畢、就中貴殿御事迚 
  公儀無御疎略御身上に候間、世間如此上者、争ととこほり可在之哉、
  いつれも隠密之節も申入候ても、世上不成立に付ては、御一人御得心候ても無専儀と存思慮、
  但今は後悔候、御存分無余儀候、然共其段も、も志や不入事に候、千言万句申候ても、
  太閤様御懇意不被亡思食、只今之御奉公所希候事

一、上方之趣、大方御使者見聞候、先以各御内儀かた大形少馳走被申候
  可御心安候、増右、長大、徳善も同前に候、我等儀者、使者如披見候、
  漸昨日伏見迄罷上躰に候、重而大坂御宿所へも人を進之候而御馳走可申候事

一、今度上方より東へ出陣之衆、上方之様子被承、悉帰陣候、然者於尾・濃令人留、
  帰陣之衆一人一人之所存、永々之儀、秀頼様へ無疎略究仕、帰国候様に相と候事

一、大略無別条、各々無二之覚悟に相見候間、御仕置に手間入儀無之候

一、長岡越中之儀、太閤様御逝去巳後、彼仁を徒党之致大将、国乱令雑意本人に候間、
  即丹後国へ人数差遣、彼居城乗取、親父幽斎在城へ押寄、二の丸迄討破り候之処、
  命計赦免之儀、禁中へ付而御侘事申候間、一命之儀被差宥、彼国平均に相済、御仕置半候事

一、当暮、来春之間、関東為御仕置可被差遣候、仍九州、中国、南海、山陽道の人数、
  既八月中を限、先江州に陣取幷来兵糧米先々へ可被差送之御仕置之事

一、羽肥前儀も 対 公儀毛頭無疎意覚悟に候、雖然老母江戸へ遣候間、
  内府へ無疎略分之躰に先いたし候間、連々、公儀如在不存候条、
  各御得心候て給候へとの申され分に候事

一、ヶ条を以蒙仰候処、是又御使者に返答候、又此方より条目を以申儀、
  此御使者口上に御得心肝要候事

一、自此方三人使者遣候、右内一人は貴老返事次第案内者そへられ、此方へ返可被下候、
  残弐人は会津へ之書状共遣候条、其方より慥かなるもの御そへ候て、ぬまた越に会津被遣候て可有候、
  御在所迄返事持来帰候者、又其方より案内者一人御そへ候て上着待申候事

一、豆州、左衛門尉殿、以別帋雖可申入候、貴殿御心得候て可被仰達候、
  委曲御使者可被申伸候

  恐惶謹言 七月晦日 三成
  真房州
  御報
人間七七四年 [] 2017/04/10(月) 13:41:52.66:SHqyhRwk
急度申入候、太閤様後不慮以来、内府被背御置目、上巻誓帋被違、恣之働無是非次第に候
殊更今度景勝可被相果段、不謂儀に候間、種々理申候へ共、無同心下向、如此之上、
秀頼様可被取立、非所行候之間、各申談、守御置目、秀頼様御馳走之為可申、上方之儀一篇に相固、
御仕置申付、関東へ罷立候衆も妻子人質於大坂相究候間、不可有異儀候歟、勿論上方在京在国之衆は、
何様にも、秀頼様へ御忠節可申上由、無二之覚悟に候、就之伏見之城在番に関東二千計在之間、
即時に諸手より乗崩、大将鳥居彦右衛門始候て、一人も残討果候、誠以天罰与申事に候、
次丹後之事、羽柴越中兄弟余多在之内、一人秀頼様へ御目見をも申させす、悉召連関東へ罷立候、
其上御忠節も無之に、新知召置候段、不相届儀候間、人数を遣城々何も請取、田辺之城町二ノ丸焼崩押詰仕寄候て、
堀際迄責詰候、落居不可有程候、其表之儀堅固の被仰付、秀頼様への御忠節此時候、
左候者各々被相談、御外聞も可然様に可申談候、恐々謹言
八月二日  長大正家
      増右長盛
      石治三成
      徳善玄以
    芸中輝元
    備中秀家
 真田安房守殿 御宿所

急度令啓候、内府去々年以来、太閤様被背御置目、上巻之誓紙を被違、恣の働付而、今度各申談、
及矛楯候、関東之儀も伊達、最上、佐竹、岩城、相馬、真田安房守、景勝申合、色を立候に付而、
則八州無正躰事候、上方より罷立候衆も、妻子人質於大坂相究候故、是又懇望候、
就其越中方之事、大勢兄弟之内、一人秀頼様へ御目廻をも申させす、悉関東へ罷立、
其上何之忠節も無之、新知召置候儀、不相届に付而、丹後之事城々悉請取、田辺一城町二ノ丸まで令放火、責詰仕寄申付候、
落居不可有程候、貴諸之事、太閤様別而被懸、御目、知行等まで被下候間、秀頼様へ御忠節可在之義候、
於様子者太田美作守方へ申渡候て差下候、其郡之事、速可被明渡候、何かと候ては不可然候、恐々謹言
八月四日  長大正家
      増右長盛
      石治三成
      徳善玄以
  松佐 御宿所
人間七七四年 [] 2017/04/10(月) 13:42:16.28:SHqyhRwk
巳上 態申入候

一、此飛脚早々ぬまた越に会津へ御通し候て可給候、自然ぬまた、会津之間に他領候て六かしき儀在之候共、
  人数立候て成共、そくたくに成共、御馳走候て御通しあるへく候

一、先書にも如被申候、貴殿事早々小室、ふかせ、川中嶋、すわの儀、貴殿へ被仰付候間、
  急度可有御仕置候、可成程御行此時に候事

一、とかく物主共城々へ不罷帰御才覚肝要に候事

一、会津へも早々関東表へ御行被仰談、行に可被及之由申遣候、貴殿よりも御入魂候て、可被仰遣候事

一、従越後も無二に秀頼様へ御奉公可申旨、申越候間、妻子も上方に在之事候条、偽も在之ましく候、
  羽肥前儀、母江戸へ遣故候か、未むさとしたる返事候、剰無二に上方へ御奉公と申羽柴五郎左へ
  手前へ人数を出候間、自越後越中へ人数可被出申越候、定相違有間敷候事

一、関東へ下上方勢、漸尾三内へ上り、御理半に候、それそれに承候儀究候て相済候事

一、先書にも申候伏見之儀、内府為留主居、鳥居彦右衛門尉、松平主殿、内藤弥次右衛門父子、
  千八百余にてこもり候、七月廿一日より取巻、当月朔日午刻、無理に四方より乗込、
  一人も不残討果候、大将鳥居首は御鉄砲頭すすき孫三郎討捕候、然而城内悉火をかけ、
  やきうちにいたし候、鳥居彦右衛門尉は石垣をつたい、にけ候よし、誠かやうなる儀、
  即座に乗崩候段、人間之わさにて無之と各申合候事

一、先書にも申候丹後之儀、一国平均に申付候、幽斎儀者一命をたすけ、高野之住居之分に相済申候、
  長岡越中妻子は人質に可召置之由申候処、留主居之者聞違、生害仕と存、さしころし、
  大坂の家に火をかけ相果候事

一、備之人数書、為御披見進之候、此方之儀可御心安候、此節其方之儀、公儀有御奉公、
  国数可有御拝領儀、天之あたふる儀候間、御由断在之間敷候事

一、拙者儀、先尾州表へ岐阜中納言殿申談、人数出候、福島左太只今御理申半に候、於相済者、
  三州表へ可打出候、もし於不済者、清洲へ勢州口一所に成候て、可及行候、
  猶言事可申承候、恐々謹言

八月五日   三成
  真田房州
  同 豆州
  同 左衛門介殿
      人々御中
人間七七四年 [] 2017/04/10(月) 13:43:38.61:SHqyhRwk
去五日之御状、今日於濃州大垣令拝見候事

一、度々爰元之様子、其地之儀申越候、未無参着候哉、只今の御書中無御心元候事

一、羽久太儀、何様にも秀頼様次第と度々到来候間、羽柴肥前老母幷家老之人質、江戸へ遣取、
  未御事請不申、剰加州小松表へ人数を出なとと風説候条、急度越中へ乱入可在之旨
  度々申遣候、定而早々被面へ可及行候事

一、石玄番事は大坂に妻子其上兄弟在之事候間、致推量に公儀慮外難成身上候間、
  石備前を以巨細申候き、定而別条在之間敷歟難計事

一、羽右近事、定而兎角に内府儀無二に可存候、新知拝領候、其上上方に妻子一人ならて無之、
  兎角貴所より早々可被及御行事

一、石玄事も済候へは能候、不済候はは、是又其方より可被御行候、越後より之道明候へは、
  会津へ之通用共に自由候事

一、信州之儀は不及申、甲州迄も貴所御仕置可在之旨、輝元をはしめ各被申候事候、
  拙□より能申候へとの事、此段先書に申候、早々人をも御拘候て、方々へ之御仕置此時候、
  拙子儀しかと濃州に在陣候、長大勢州に在陣候、此口之儀、家康ほとの者十人上り候共可御心安候
  討果候より外他事不可在之候、今度関東へ罷立めんめん、尾、三州の間に集居候て、懇望申族も候、
  又江戸にて人質をしめられ、致迷惑族も在之事候、味方説に申候哉らん、家康急度上るなとと申成候由候、
  あわれ上り候へかしと念願迄候事

一、兎角早々会津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被迎合候、不及申候へ共、
  国ならひにて物のそかどを申方□候間、如此御入魂上は、少々出入りはいらぬ事候間、
  物やわらかに、彼方気に入候様に被仰越、御入眼此時候事

一、先書にも如申、伏見之城、家康留守居鳥居彦右衛門をはしめ七頭歟千八百余残置候処、
  此時宜候間、関東へ明退候へと申候へ共、りくつ申候間、去朔日四方より乗入、
  一人も不残討果候、鳥彦右首は御鉄砲頭鈴木孫三郎討捕候、此間、御殿中雑人はらふみけがし候間、
  不残焼払候、大坂の儀も西之丸に人数五六百ほと残置候を追出、伏見へ追入、輝元被入替候、
  是又伏見にて同然に討果候、伏見にて各手を砕乗崩候、九州なとの衆別而手柄を被仕候、
  大坂には増右被居候、輝元も在城候、伏見にも六七千にて、掃除、普請以下申付候、
  然間京都、大坂静に候、勢州江安国寺、吉川壱万余召連、長大同道にて罷越候、尾、濃へは拙子罷越候、
  島津其外九州衆佐和山へ被参候、人数入次第、尾、濃之間へ可打出候、丹後之事はや一円平均に申付候、
  幽斎事可被成敗に義定候処、自 叡慮色々被 仰出、命之事相助、九州中流罪之躰候、則諸方へ之備書立進入候、
  此備書立之内に在之面々□、無二 秀頼様可抽忠節覚悟候、せいしにまて相究候、此外先手に在之衆、
  書此立に不乗衆も可在之候、右之段先書に雖申候、不相届候哉、又申入候、恐々謹言

  八月十日  石治少三成
    真田安房守殿
    同左衛門尉殿  御報 

そういやネットで見たら、決戦直前増田に出した書状には偽書説もあるみたいだね
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 19:07:23.90:QNZN8CNL
中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方」で論じられてるね。
 ・正直なところ、これが三成の書いたものそのままとは思えない。
  通常の三成文書と文体・内容ともかけ離れているからである。
 ・もしこれが本当に三成の書いたものであるなら、三成は精神的に相当追いつめられて、
  自分自身を見失っていたのかもしれない。
 ・ただし原文をどこまで忠実に伝えているのかはともかく、
  三成が最後に思い描いたであろう戦術が、そこには記されている。

岐阜城陥落による戦略崩壊で三成が精神的に追いつめられていた可能性は十分にあるから、
偽書と断定するには弱い気がするけど。
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 21:41:44.21:Z2sCLGaM
小説とかでは逆に杭瀬川で勝ったさあこの勢いで家康討つぞーみたいなのが多いよな
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 21:57:23.32:xw9VDINF
杭瀬川は家康の赤坂着陣が西軍内に知れ渡って
逃亡する兵士が相次いだ中での士気回復が目的だったからね。

逆に言えばそういう対処療法が必要なくらい西軍内が動揺してたことになる
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 22:30:00.30:VuEJXoAb

三成がよく使う言葉じゃなく別の言い回しを使ってたり条々の構成もおかしいから
偽書ではないがどっちかというと真書を直接見たものが内容があってれば
細かいことはいいだろうと精密ではなく大体な感じで書き写した写しじゃないかなと個人的感想
人間七七四年 [sage] 2017/04/10(月) 23:01:24.78:aEmhC6Cw
あの三成書状は、北面の某が奪って赤坂にいた家康に届けたという話が、
『慶長太平記』にある
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 03:10:56.06:5Qnqeza6

意外と知らない人が多いけど、宇喜多秀家の正室の豪姫は秀吉の養女で有ると同時に
前田利家の実の娘ですからね。
前田の領地が約80万石って言っても、姻戚関係考慮するとかなりの大勢力なんだよね。
但し、利家が生きてないと効果は半減でしょうけど。
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 03:14:09.06:JlnRfeFM
秀吉東国対西国で綱引きをさせながらバランスを取ろうとしてたかもしれないけど机上の空論過ぎる
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 03:42:41.12:PheMBxh4
上手く行ったら行ったで鎌倉公方と関東管領の仲が良い室町幕府状態になりそうだ
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 07:50:17.33:Zfj4bBXE

西国大名は在伏見。東国大名は在大坂と決めつつ
家康は伏見、利家が大坂なんだから、その発想はなさそうだ。
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 08:03:30.02:HVSUc83q

なお、これに従えば五大老の内、利家・景勝は在大坂、他は在伏見になる
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 08:17:27.22:Zfj4bBXE

秀家が大坂に居続け、家康からのクレームで伏見へ移されてたね。
輝元はいつの間にか伏見に居た。景勝は所在がよく判らない事が多い。
人間七七四年 [sage] 2017/04/11(火) 10:57:53.58:W9s8IhLw
景勝は移封絡みでちょこちょこ帰国しとるしな。
秀吉の遺言でも唯一「此処にいないからお前らに言っておくわ」って書き方されてるし。
出典忘れたけど秀吉に3年間の上坂免除してもらってたとも聞いた。
事実なら五大老合議体制は秀吉の意志じゃないことの傍証になると思うけど
人間七七四年 [] 2017/04/11(火) 16:32:58.12:gRkIvEKA

山岡荘八に怒られたんじゃなかったっけ?
人間七七四年 [sage] 2017/04/12(水) 08:12:29.26:Vp7w8Bho

景勝はちょこちょこ帰ったりしてないよ。
慶長3年10月に上方に到着してから翌年7月までずっと上方に居た。
人間七七四年 [sage] 2017/04/12(水) 10:49:31.85:Wki2TYtg

慶長3年8月の秀吉死去以降は関ヶ原合戦後まで上坂無し?
人間七七四年 [] 2017/04/12(水) 22:23:46.29:/uk5D/r9

小早川裏切りの話も石川康通の書状を見る限り
当初の予定通りでは無く、やっpり裏切りと見ている感じなんだよな

早々御飛脚本望存候、其様子則御耳に立申候、然者去十四日赤坂に被成御着、十五日巳之刻関ヶ原へ指懸被為及一戦、
治部少輔、島津兵庫頭、小西、備前中納言十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、関ヶ原へ一所に打寄申候つる
此地之衆幷井兵又福嶋殿、為先手其外悉打続く、敵切所を抱有所へ指懸、とりむすひ候刻、筑前中納言、
わき坂中書、小河土佐父子、此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討に無際限うちとり申候、
大将分は大谷刑部少輔、嶋左近、島津中務、戸田武蔵平塚因幡此外討取り申候へ共、先人之存候衆は此分に候条、
打捨はなをかき候て捨申候間、誰を討捕申候も、然々と不被不存、又十六日に佐和山へ指懸とりまき候て、
田中兵部水の手をとり、本丸へ押懸申候へは石田杢父子、治部少輔しうと父子、同治部おや、妻子一人も不残きりころし、
てんしゅに火を懸、悉焼払落城仕候、其刻城より三百人ほと取○、手前へ罷出候処を一人も不残うちとり申候、
皆々小姓共まて高名いたし候間、可御心安候、治部少補は十五日之合戦場より行かた于今聞へ不申候、
将又安国寺をは吉川、ふく原両人思食にからめ出し申候、輝元御訴詔被申候由候へ共、如何可有か不被存候
猶替儀候者追々可申入候、恐々謹言

九月十七日   石川長門
        彦坂小刑部
  松平和泉守殿へ
人間七七四年 [sage] 2017/04/13(木) 01:20:03.57:yUo3QHgY
西軍派の公家の日記でも小早川の裏切りとなってるし当初の予定通りというのは根拠が希薄やね
人間七七四年 [sage] 2017/04/13(木) 05:06:06.93:SUIuV4Ep
そりゃ小早川は伏見城落としちゃったしなぁ
織り込み済みの裏切りでも、世間から見たら裏切りに見えてもしゃーなし

しかも決め手の一撃になったのが最悪
人間七七四年 [] 2017/04/13(木) 08:30:53.10:p3mFRYK6
BSプレミアム『英雄たちの選択』実況より(自分ではないです)

小早川は東軍でも西軍でもない第三勢力
それを裏切り者とか言ってるからハナシがおかしくなる

自分も「裏切り」というよりは「西軍瓦解」というほうが合ってるんじゃないかと思います。
小早川の軍が大きいからね。
石田・大谷は小早川より格下(格上の家が「裏切った」は変だと思う)
小早川を毛利の分家→主家(宗主)に背くのは〜も、
毛利から一代だけ養子に行ってるだけだから、秀秋は分家の扱いを受けるいわれもなかろう。
人間七七四年 [sage] 2017/04/13(木) 10:08:10.54:zOVbZ3lE
秀吉の親族の秀秋の意思が尊重されず裏切り者扱いになるほど西軍の毒は回ってたってことだな
人間七七四年 [sage] 2017/04/13(木) 22:10:52.93:lMaLSWmM
石田たちが周囲の言うことを聞かなくなったので切り捨てられたというのが正しいだろうね
秀吉の権威を振りかざすことにあまりにも慣れすぎて
秀吉を除けば自分たちが日本で一番偉い、周囲が自分の命令に服従して当たり前と思い上がっていた
人間七七四年 [sage] 2017/04/13(木) 22:29:03.95:n6QI9sl/
東軍側の史料の「板坂ト斎慶長記」でも、「筑前中納言殿むほんと風聞候」って記述有るし、
本人の意思は兎も角、当時の東西両軍から「小早川は(表面上は)西軍」と思われていたのは事実だろう。

その後の東軍鞍替えを「裏切り」「謀反」「離反」「瓦解」どう表現するかは、発言者の主観次第だな。
人間七七四年 [] 2017/04/14(金) 07:37:08.94:BL38wLGC
三成の書状を見ると、秀吉の御恩振りかざせば、ほとんどの武将は味方に附くと本気で思っていたんだろうな
人間七七四年 [sage] 2017/04/14(金) 08:35:10.31:zqlUxQBs
テキトーにageる
いい加減な内容でツッコミ待ち
自演書き込み

いつもの荒らしパターンの予感
人間七七四年 [] 2017/04/14(金) 10:40:19.09:YMSY66qV
石田三成を西軍の総大将と見ると、三成は秀秋から見たら家来筋の人なので【裏切る】のも変な気が。
というか、石田が「総大将」ってありえただろうか?(首謀者とは全然違う)
毛利を西軍総大将としても、小早川は同族の親戚か、秀吉親類なので小早川のほうが格上になる。
となると、小早川がかなりの軍を擁してたのも当然と言えば当然で、大将レベルで【離反】したことになる。
毛利と小早川はもともと別の家で、一代だけ隆景が養子に入っただけで、隆景没後は主筋面されるいわれはない。
【謀叛】としちゃうと、東軍全部が謀叛ということになってしまう(誰に対して謀叛だ?という問題が)。
そもそも、そこまで豊臣秀頼に忠誠を誓ういわれがあったかも疑問だ(cf.信長没後の織田の扱い)。

武田信玄の信州攻めで、高梨氏は最初武田についたが、離反して武田が大敗したことがある。
この高梨を批判するのは、ハッキリ言って信玄びいきの崇拝者だけだろう。
戦いの途中で攻防軍が分裂するのは乱世の習いで、武士の感覚では「やられるほうが悪い」だろう。
上杉謙信の小田原城攻めも、攻め手が分裂して敗れたとも言える。

信長崇拝者は明智光秀を裏切者、謀叛人とののしるけど、
信長が足利義昭・斯波義銀を追放したことを批判することはない。
信長は死ぬまで義昭を主君と奉ってたと神田千里(歴史学者)は説く。
旧主追放も、NHKがいうような辱めではなく、さすがに主君を弑するのは気が引けたのかも知れない。
下剋上が強調されてきたせいで誤解されてるかも知れないけど、当時の人だって下剋上を称賛してたわけじゃなく、悪と考えていたわけで、
織田は足利の引き立てで大きくなった家でもあり、恩義の念は豊臣恩顧以上だったかも知れないよ?
人間七七四年 [] 2017/04/14(金) 10:51:40.81:YMSY66qV

外様、特に織田信長旧臣系統でない大名は秀吉を恨んでたぐらいじゃないか?

笠谷先生によると、三成の徳川攻めは本当に急に打ち明けられたものらしい。
最初に告げられた大谷も、会津攻めに行く気満々だったとも。
どんだけ上杉は嫌われてたんだよって話(いや、単にそういう大勢になっただけだろうけど)。


極論すると、小早川が大谷を攻めたら、小早川に呼応するのが「西軍の正義」で、
小早川に敵対した西軍大名を「西軍の叛徒」と見なすこともできなくはないと思う。
小早川は西軍のトップの1つだから。

江戸時代「治部(三成)殿御謀叛」と書く人いたけど、これもちょっと徳川に迎合しすぎじゃないかなあとも(だから、誰に対する謀叛なのだと)
人間七七四年 [sage] 2017/04/14(金) 11:22:27.27:re4C+TZe

高梨を引き合いに出したら説得力低いよ
小山田か穴山(滅亡に直結した)連中出さないと/(^o^)\
人間七七四年 [sage] 2017/04/14(金) 11:26:00.39:6vo126Lp

真面目な話、どんな立場だろうが「体制」に対する反逆は「謀反」と呼ばれた。
元弘の乱では後醍醐天皇に対して「主上御謀叛」と記録されたんだぞ。
三成も家康を中心とした新豊臣体制に反逆したのだから「謀反」で正しい。
人間七七四年 [sage] 2017/04/14(金) 12:22:12.58:LIRRgoyQ
また菅沼かよ
人間七七四年 [sage] 2017/04/14(金) 12:43:13.49:AFuOeH3K
ttp://www26.atwiki.jp/dagamatome/pages/76.html
人間七七四年 [sage] 2017/04/14(金) 13:41:54.10:/aiiYTBy
>>秀吉親類なので小早川のほうが格上になる
んな分けないだろ。
何で小早川が、秀吉に名指しで「秀ョ樣之儀御取立候て給候へ」と
遺言された輝元より格上になるんだよ。

慶長三年九月八日付の三成宛て輝元書状でも輝元は
小早川を敬称無しの「秀秋」と呼び捨てで書いてる。
仮に小早川が秀吉の親族扱いで格上なら、秀吉在命中にこんな真似はせんだろ。

秀吉からの小早川上洛命令も毛利家経由で命令しているみたいだし、
公的にも小早川は毛利の家来筋扱い。
人間七七四年 [sage] 2017/04/15(土) 22:18:54.22:YUnzMRZb
家来筋どころか毛利の最大の重臣に位置する両川が共に東軍と戦わないというのだから
これは輝元も内々に認めている毛利の意思といって問題ない
最終的に上手くいかなかったから下が勝手にやったと後から輝元が責任転嫁しただけ
人間七七四年 [sage] 2017/04/16(日) 17:56:54.12:QXWPbZ08
小早川は隆景が隠居した時点で毛利との縁が切れてる。
中国地方から連れて行った重臣もいなくなっちゃってるし。
人間七七四年 [sage] 2017/04/16(日) 19:38:32.11:eLH5t83d
切れてないぞ
越前転封までは旧隆景家臣も多く残ってたぞ
人間七七四年 [sage] 2017/04/17(月) 06:39:50.42:91hATucp
毛利と小早川が完全に切れたのは、慶長四年に秀秋室が離縁されてからだろ。
あと広家は勝ち目がないから和睦しただけで、輝元の指示には忠実に従ってる。
人間七七四年 [] 2017/04/18(火) 09:03:17.16:ziwIDTIf

この本だと関ヶ原の戦いの戦闘経過は
まず島津家臣の資料から考えると
早朝に最前線である関ヶ原エリアにいた大谷軍が
小早川、徳川方主力に挟撃され壊滅した
西軍主力武将ので大谷軍の武将だけ戦死したのはそれが理由
その後石川康通の書状にある巳の刻に山中エリアで
石田方の主力と戦闘が始まり、午の刻くらいに戦闘が終わった
そのため正午ころ問鉄砲が起こるなどあり得ないって主張だっけ
人間七七四年 [sage] 2017/04/18(火) 09:56:04.61:Nmkpj1Jt
問鉄砲エピは、次第にエスカレートし、大砲になったり(葵)、挙げ句には、大砲が炸裂弾になったり(TBS正月トンデモ)、一人歩きしている。
人間七七四年 [] 2017/04/18(火) 14:31:16.11:nG6/Fwv9

関ヶ原エリアは分かるけど、山中エリアってどの辺りの事を言っているのかな
人間七七四年 [sage] 2017/04/18(火) 14:40:51.26:vNCbX7xh

笹尾山まわりのことやろ
人間七七四年 [sage] 2017/04/18(火) 15:01:18.06:JdP80cme

古田織部をふもとから投石器で飛ばして
松尾山の金吾のところまで届かせた作品も
人間七七四年 [sage] 2017/04/18(火) 17:23:06.66:7+1W4u6n

不破の関の奥まった所
人間七七四年 [] 2017/04/21(金) 21:33:05.01:wiB4S8QP

問鉄砲の否定の根拠は一次史料が無い事みたいだが
島津家家臣や石川の史料の信憑性はどの程度のもなのかな
特に島津は話を膨らませるイメージがあるけど
人間七七四年 [sage] 2017/04/21(金) 22:20:29.26:3La9PcLt
島津「つれーわー鳥居元忠に入城拒否されちゃったから西軍につくしかないわーつれーわー」
元忠「かなり前から西軍として行動してるくせに何言ってんだこいつら……」
人間七七四年 [sage] 2017/04/22(土) 03:24:33.36:Wgumo+ol
義久「義弘が勝手にやったことだから!本国は西軍荷担してないから!」
清正「小西領に援軍派遣しておいて、いけしゃあしゃあと(ピキピキ」
人間七七四年 [sage] 2017/04/24(月) 01:54:21.85:gk7JYvgI
義久「国境防衛のために派遣しただけだよペロペロ」
清正「ぐぬぬ」
人間七七四年 [] 2017/04/24(月) 09:01:20.17:VR8HFF4q
清正って何かと評価されてるけど、正則と比べると
関ヶ原の時、大して役に立っていないような気がする
その所為か福島家は大名として改易された後
上級旗本家として再興して貰ってるけど
加藤家は改易されてそのままだし
人間七七四年 [sage] 2017/04/24(月) 11:19:04.95:Y74R7mE5

肥後に侵攻して清正方の城を攻撃しておいて
「国境警備」って言い切ったなら大したもんだと思うわ。


そりゃそうだろ。
清正は家康に嫌われて在国だったんだし。
人間七七四年 [sage] 2017/04/25(火) 08:29:33.20:VPDEhn+Q
不興を蒙った時期もあったろうが、この時期の清正は家康への情報提供をマメにしてるし
「尾張まで出陣したら動いても良いよ」という家康の指示も忠実に守ってた。
人間七七四年 [sage] 2017/04/25(火) 12:16:15.11:PPzgr0GD
加藤って復帰打診を断っていなかったっけ?
人間七七四年 [] 2017/04/30(日) 20:53:45.00:Zhe7eWhi
鳥居彦右衛門、たいていは最期まで戦い華々しく散った事になってるけど
を見ると石垣をつたって逃げたとあるが、どちらが正しいんだろうか
人間七七四年 [] 2017/05/02(火) 21:39:35.48:3o68KSTy
三成側としては敵将を貶める事により敵は大した事無いと
味方を鼓舞したいだろうし、
家康側としては自軍の将が最期まで戦い抜き討ち死にした事によって
味方の戦意を高揚させたいだろうから
どちらの可能性もあって分からないなぁ
まあ勝者側の家康の方が史料を残すと言う点では有利だけど
人間七七四年 [sage] 2017/05/03(水) 00:04:11.00:wCd60Jd0

福島正則は、関ケ原の勝因の一つを作ったって功績が解りやすいですよね。
清須城の兵糧だけでも、本来は徳川軍が西進した場合に籠城する為だろうしね。
家康って、本音じゃ加藤や福島嫌いだったんじゃないのかな?
人間七七四年 [sage] 2017/05/03(水) 00:51:00.33:OKwHafO5
>清須城の兵糧だけでも、本来は徳川軍が西進した場合に籠城する為
これってホントなん?
清洲城の備蓄米は20万石以上あったらしいけど、
渡海で出費がかさんでいる福島が5年弱で備蓄できるとも思えない。
恐らく、前城主の秀次が備蓄したんだろうけど、
関白で次期天下人の秀次が「徳川軍が西進した場合に籠城」ってオプションを選択するかね?

単に東海地方の物資集約地だったってだけじゃね?
人間七七四年 [sage] 2017/05/04(木) 05:28:30.85:yY+zV+pr
正則は文禄の役でしか渡海してないけどね。
しかも割と帰国してる事が多いし
人間七七四年 [sage] 2017/05/04(木) 09:32:58.22:HVo0nK1q
慶長の役の増員の司令官に内定してたっぽいけどね
秀吉の死で計画中止になったけど
人間七七四年 [sage] 2017/05/04(木) 12:30:31.39:ttJdGM4b
清洲城の兵糧は畿内で反乱が起きた時に
東から集めた軍勢に渡して兵站線を確保して素早く反乱鎮圧するためのものだからな
福島が東軍に清洲城の兵糧を渡すのは当初の運用どおりで正しい

対徳川での清洲城に篭城を想定していると言う人もいるが
その場合は駿河・遠江・三河の大名がみんな徳川に味方している想定になり
その状態で清洲城だけ敵対して篭城というのは事前の想定としては無理がある
関ヶ原という結果論と西軍視点を混ぜ込んで後からこじつけているだけだろう
人間七七四年 [] 2017/05/25(木) 20:19:26.55:L0S0r8Q+
>>61>>63
例えば中国遠征で秀吉が戦で苦労しているところとか見ているはずなのに
三成の戦に対して、特に敵や味方の心情への考え方とか甘いのは何でだろう
人間七七四年 [] 2017/05/25(木) 20:44:35.33:lN7rs8ZT
関ヶ原ていってみると清々しい田舎やなぁ

なかなか散策するには良かった
しかし、実際歩いてみると各部隊の間隔が以外と近いんやね
家康の最終陣地も石田隊のすぐ近くとは言わんが馬を走らせたらすぐなんやと感じた

驚いたのは大谷良継は自分の陣地から徒歩5分ほどの距離のところで切腹したんやね、、そらバレるわ
自分を運んでくれる部下に悪いと感じたのか、、

さすがに全部を回る元気はなかったがなかなか見ごたえ抜群で楽しかったですわ

また行きたいなー関ヶ原♪
みどころあったら教えてください
(資料的なところはいまいちだったが、、)
人間七七四年 [sage] 2017/05/25(木) 21:45:09.95:srt88Vyf
その陣屋跡とか作られたのは昭和に入ってからやで
人間七七四年 [] 2017/05/26(金) 07:25:08.03:SgNNPo3U

えっ‼正確やないんですか?
人間七七四年 [sage] 2017/05/26(金) 11:03:15.82:upliYfx/
正確にはわからんやろうなぁー
このへんちゃう?って感じで置いてみた
人間七七四年 [sage] 2017/05/26(金) 19:22:53.58:g5pb4y1c
かまってちゃん一人芝居を始めるの図
人間七七四年 [sage] 2017/05/26(金) 19:54:33.19:8xtprWi3

確かに決戦、開戦の地はあの混乱の中でよくわかったなぁ、、ては気はしますが
人間七七四年 [sage] 2017/05/26(金) 20:07:33.07:g6cQUOKr
元にした江戸末期の布陣図が正確じゃないからね
人間七七四年 [sage] 2017/05/26(金) 20:45:32.70:Nwz1Cc92
有名になりすぎて俗説が一人歩きしてるのも関ヶ原合戦の特徴だよな
桶狭間も同じ感じだけど
人間七七四年 [sage] 2017/05/27(土) 07:21:26.23:P52EGPYD
みんなそうじゃん
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 10:21:54.62:NdJUesEU
関ヶ原でさへよく解ってねぇってんなら、他の史実はどんだけ眉唾なんだってね
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 11:42:34.24:gDn+m4IK
今頃になって幸村じゃないとか言い出すしな
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 12:02:05.23:N+DBd7VG

知ってる限り10年以上前から言われてるんだが
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 12:38:14.90:gDn+m4IK
アポロが月に行ってるんだぜ
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 14:40:05.18:11JUq4Lq
問鉄砲とか割と昔から否定されてるけど
鉄砲三弾撃ちほど「創作だ」って広まってないよね
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 16:06:55.72:ZYCK/xEh
問い鉄砲が創作なら
秀秋は何を契機に参戦?
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 16:21:19.19:11JUq4Lq
「舜旧記」「当代記」は関ヶ原開戦と同時に西軍を攻撃したって有るけどね
(つまり逡巡も日和見もしていない)
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 17:09:17.81:4lBNl6NH
じゃあ小早川の参戦で勝負が決まったというのも
創作か
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 19:01:00.56:qou/iH4c
よくわからん。
鎧袖一触で東軍が西軍を突き崩したところに、山から下りてきた小早川軍がダメ押しになったって話もあるし。
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 19:28:13.69:4lBNl6NH
一瞬で決まったなら小早川は関係ない
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 21:24:42.78:11JUq4Lq
各時代の「問鉄砲」の記述については、
 寛永年間以前:記載無し
 寛永年間:藤堂高虎隊単独
 延宝年間:藤堂高虎隊と京極高知隊
 元禄年間:福島正則隊単独
 正徳年間:福島正則隊と布施孫兵衛(徳川家康の家臣)隊
 享保年間:布施孫兵衛隊単独

らしいね。「だから家康が指示した」ってのは創作の疑い濃厚
人間七七四年 [sage] 2017/05/28(日) 21:46:03.16:AVsBafpm
結局は藤堂が小早川隊に向けて撃ってみて反撃が無いから
ちゃんと内応してんなと安心して横っ腹見せながら
宇喜多を攻撃したという話に尾ひれがついたちゅう感じでいいのかな
人間七七四年 [sage] 2017/05/29(月) 08:13:57.25:gfwoMaTy
菅沼劇場
人間七七四年 [] 2017/05/30(火) 12:34:41.57:0RIZiuGI
小山評定、問鉄砲あった派といえば笠谷でなかった派といえば白峰か
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 13:13:43.02:DmTkv5AE
小山評定はわからない
問いでっぽうはないなw
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 15:36:11.54:h1nOucB/
菅沼劇場
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 15:41:32.31:cl7uKQ4b
問鉄砲がなかったとすれば、小早川への工作が磐石だったというだけだろ
小山評定がなかったとすれば、東軍の意思統一が最初から一糸乱れぬものだったことになる

あまりにも完璧でつまらないからフィクション入れたくなるよなw
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 17:30:32.42:0ZpDvoTb
小早川はとっとと裏切っててしかも小早川が裏切る前から西軍先鋒は崩れてたとか決戦感もロマンも何もない
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 17:36:10.50:V6uNfRzK
小早川が開始から参戦したのなら
謀略感が薄まる

小早川裏切論も力を失う
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 18:16:29.72:0ZpDvoTb
よく意味が解らんな
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 20:22:56.93:q4t4aQK7
「板坂ト斎慶長記」にすら「筑前中納言殿『むほん』と風聞候」って書かれてるんだけどな
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 20:25:47.35:sXapBBGr
裏切ったタイミングが決戦前か決戦中かだけの違い
人間七七四年 [] 2017/05/30(火) 22:16:35.74:0lHwnUMV
高虎隊が小早川陣に砲撃して、反撃がなかったことから脇腹見せても大丈夫と判断して西軍に攻め入った…それにつられて小早川軍も西軍に攻め入った…とか?
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 22:37:53.99:DmTkv5AE
小山評定があったかどうかも定かではないが
あったとしてもドラマじみた逸話は全部ウソだな
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 22:59:16.60:evUGAw5m
三成が謀反を起こしたので鎮圧しに行くぞという連絡会議があっただけで
全員から嫌われている謀反人を殺しにいくのにドラマじみた評定なんて必要ないな
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 23:05:16.30:q4t4aQK7
そりゃ上杉討伐にきた大名達を全軍反転させるわけだしな
この時点で「黙って俺に従え」が出来る権力があるわけでも無いし
人間七七四年 [sage] 2017/05/30(火) 23:15:16.54:iNNTcbnR
当たり前のことやってるだけだよね
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 09:22:43.44:oXmUxoOx
白峰「一次史料にないから創作!創作ですぞー!」
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 10:27:57.99:0e0Qtfgy
白峰は典型的な疑古派
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 13:53:51.71:KgEJ4XVQ
小山評定の件では光成氏の説をちゃんと検証せずにテキトーに上乗せしたのが失敗の元だったな。
根拠はあっさり否定され、一次史料まで出てきたし…
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 14:01:08.44:TDWCmWsU
小早川秀秋が裏切って松尾山に布陣したのを攻撃するため西軍が関ヶ原に布陣したって説はどうなりましたか?
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 16:35:07.11:TbxfRxSj
鳴かず飛ばずでそのまま
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 17:19:31.30:0e0Qtfgy
あれは家康が到着してビビって撤退も十分あり得るのに、そういう方向性の新説は、
あまり学者連中から聞いた例がない
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 17:58:36.67:TDWCmWsU
ありゃま残念
中々斬新な発想だとは思ったんだけど
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 19:02:18.53:EulUzQTE
佐和山を攻める(のち、大坂へ進む)という、第一義的に三成固有の利害に関わるものを、西軍全体が理解してくれて、関ヶ原の西の口を閉じて布陣したということですか?
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 20:00:08.40:ijZ7VWIe

斬新も何も、
根拠は慶長年中卜斎記の
「此時備前中納言殿・小西摂津守・石田治部少輔、大柿を出て関原へまいられ候由。
子細は筑前中納言殿むほんと風聞候。仕置いたすべきとて出られ候由。」
で、割と有名な話ですがな
人間七七四年 [] 2017/06/01(木) 21:36:48.22:dmwJPGwl

『家や死伝説の嘘』を読んだ感じ、白峰に言わせると上杉討伐は
家康の一存で決めたのになぜ中止の時は諸将と協議するのかって話になるらしい
しかし上杉討伐だって奉行とかが反対意見を度々言上したうえで、
それを押し切っての討伐決定なんだから意見の聞いたうえでの決定で
攻め口だって協議の上決めてるんだから、家康の一存では無いと思うんだけどね
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 23:20:09.20:X69XBZQ7
西軍は三成の一存で蜂起を決めたから中止も協議できなくて
毛利や小早川も三成に黙って内通するしかなかったからな
協議することの重要性を西軍が身をもって教えてくれた
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 23:28:05.22:ijZ7VWIe
毛利と宇喜多は事前に三成蜂起を了承してたろ明らかに
というか三成の戦略自体、
毛利と宇喜多の軍事力が前提になってるし
人間七七四年 [sage] 2017/06/01(木) 23:57:31.19:8OoB+wpw

基本的に、三成自身と一族の所領じゃせいぜい30万石の勢力ですよね。
これにこれに小西行長みたいな縁の深い大名を加えても兵数にして10000から15000だしね。
宇喜多は最初から根回し済みって考えないと、そもそも挙兵計画自体がおかしな事に成ると
思います。
結局、毛利、宇喜多、上杉の三大老と奉行衆が同盟して徳川を討つって形に成ったから
西軍が膨れ上がったんだし。
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 00:22:52.04:fpEVGb2A
増田はどっちだろうな?
7月12日付毛利輝元宛前田玄以,増田長盛,長束正家連署状(@)で
西軍総大将就任を要請している一方で、
同日付で家康側近の永井直勝宛てに
「今度樽井に於いて大刑少両日相煩、石治少出陣の申分、
ここもと雑説申し候、猶追々申入るべく候」 (A)
とも報告している。

時系列は@→AでAは情報攪乱の為の策だったのか、
時系列はA→@で7/12の会談で三成に巻き込まれて逃げ場を失ったのか
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 05:54:51.32:pmrs7pJM

決断式みたいなのをやる意味はある
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 07:44:24.25:VL6iE1eS
奉行連中は巻き込まれたと考える方が自然じゃないかな。家康独裁体制で干された訳じゃ無いし、失脚した三成の復権に協力する理由が無いし
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 08:44:03.50:vuuTCctH
旧記雑録後編の「七月十二日之夜半、大坂へ旅庵被差下御条書之案文也」と書かれた案文はこんな感じだな
一 伏見御城本丸・西丸之間ニ御番可仕之由、及両度ニ雖申理候、無御納得候事、
一 秀頼様 御為、可然儀ニおひてハ各御相談次第と安国寺へ申候事、
一 安国寺御留之事、
一 伏見・大坂之しまり之事、
一 増右より参候書状、小摂へ遣申候事、
一 如右御城内へ不致在番候者、大坂へ罷下、 秀頼様御側へ可致堪忍存候事、
一 同名中務太夫(島津豊久)、爰元へ召留候事、
一 御奉行衆之内御一人、伏見へ御在番候事、


十二日の夜の段階では、西軍は未だとりまとめ中のようで安国寺が走り回ってるね。

義弘自身は「各御相談次第」と安国寺に言ってるので決起するなら参加するよと西軍加担を受諾した状態。
「増右より参候書状、小摂へ遣申候事、」とあるので増田長盛は西軍に加担してるが小西行長は微妙。
「御奉行衆之内御一人」と書かれてるので輝元、秀家は既に加担。

安国寺恵瓊の情報を元にした義弘の認識がこうだったという話だけど、事実に近いんじゃなかろうか
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 17:08:44.64:R/71JrFf
毛利は出陣までの動きが早すぎるから
7/12以前に話は聞いていたと思うし、
宇喜多も早い段階で出陣式やってたから事前に知ってたはずだけど、
奉行衆はそれらしい動きないよな
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 19:20:35.28:XRtsCDEl
また菅沼かよ
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 19:40:34.58:BQ2F47My
瞬殺説の根拠は?
人間七七四年 [sage] 2017/06/02(金) 21:07:38.06:4hGgMmK6

これみると鳥居元忠が島津の参加を拒否したのは、全く正しい判断だと思う
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 00:00:22.95:oAtk6JyZ

当代記
九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状写
十六・七世紀イエズス会日本報告集
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 05:56:16.49:3lRMNfiP

相手が鳥居元忠かは分からないですけどね。
この時点の伏見留守居は木下勝俊だった可能性もあります。
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 06:37:36.93:Ocx/aH4+

イエズス会って誰か見ていたのか
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 09:19:58.59:Z7QESFte

これら例えば九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状写は
「敵切所を抱有所へ指懸とりむすひ候刻、筑前中納言殿・わき坂中書・小河土佐父子、
此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討ニ無際限、うちとり申候、」
とある

これを「戦っている最中に裏切りで敵は直ぐに負けた」と読めるが、
「戦い初めて直ぐに裏切りがでて敵は負けた」と読めるとは思えない
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 09:41:31.02:Cz8r/0zn
指懸とりむすひ候刻は会戦当初の解釈のほうが妥当でないかな
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 09:52:52.60:Z7QESFte
「合戦を行った」以上の意味は無いと思っている
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 12:36:39.77:FDheEmiG
指懸だけなら合戦当初でもよかろうけど、とり結ぶがつけば
合戦もたけなわ、ってトコじゃないの。
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 18:39:52.49:pR4q+IGh

同意

他に瞬殺説の根拠は?
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 19:03:34.85:3lRMNfiP
「指懸とりむすひ候刻」と一続きになってるから「合戦たけなわ」
よりは「すぐに」の方が自然だと思うけどな。

瞬殺説の補強は「大重平六覚書」もあるな。
石田殿、一時もこたえず候て、中書様陣場へ崩れかかり候」
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 20:06:48.94:YpUCc06D
解釈次第だが近衛前久の書状でも「青野カ原ニテノ合戦ニテ候。即時ニ切立得大利候。」とあるな
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 20:33:59.46:/bV1KWMV
一時は瞬間なのか?
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 20:35:46.95:/bV1KWMV
指懸けの解釈は?
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 20:39:20.84:GIbJdlXp
一時って2時間位じゃないの?
江戸時代の話で悪いが、一時ってそれ位の時間だって聞いた事あるけど。
まあ、関ヶ原の規模でその位の時間なら相当早いと思う。
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 21:15:46.24:Z7QESFte

正確には
「即時ニ切立得大利候、番ヒニ金吾手ヲカヘサレ候」
で「番ひ」は「頃合い」の意味を持つ
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 22:51:51.66:3lRMNfiP
こんなのもある。

吉川広家自筆書状案(書いたのは九月十七日らしい)
「山中之儀、即時被乗崩、悉被討果候、嶋津などゑり勢三千にて、随分一合戦ハ可仕之由候つれ共、中々馬を被入不相成候て其身一騎のりぬけ伊勢地を被退候」
「一昨日十五日内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」

帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」
人間七七四年 [sage] 2017/06/03(土) 23:07:54.93:Z7QESFte
即時というのはかなり幅が広い表現だと思うし、開戦直ぐの裏切りで勝敗を決したとはならないかと
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 07:02:47.36:Nt7Tc/6P
瞬殺されたなら、敵中突破は
なかったのか

東軍の死傷者はほとんどいないのか
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 07:03:52.96:Nt7Tc/6P
左近の奮戦もガセなのか
それとも敗走中に奮戦?
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 08:06:37.13:g8HmjdgI
三成が狼煙をあげたり
島津に支援要請して断られたのもガセか

家康が勝てなくて焦ったのもガセか

忠吉が抜け駆けして
その瞬間に西軍敗北か

軍律はともかく忠吉が軍功一番なのか
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 09:21:08.91:g8HmjdgI
松野が参戦拒否したというのもガセなんだな?
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 09:21:44.48:4Nz7Ym0D
この手の学者先生の考察は、通説は家康顕彰が前提と考えて、それを否定する方向で論を立てるからなぁ
その通説は『日本戦史』発が多いことをスッパリ忘れている
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 09:26:01.75:g8HmjdgI
家康が本陣を前進させたというのも嘘なんだな?
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 10:07:47.57:1XgoUZhL
菅沼は朝から発狂しすぎだろ
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 10:28:25.39:g8HmjdgI
狂ってるのは瞬殺野郎
人間七七四年 [sage] 2017/06/04(日) 16:00:58.07:eVmdFqO4
「大谷吉継の軍勢は敗北し大谷吉継は討死した。小早川秀秋の反逆によるものであり、巳の刻であった。」
舜旧記9月15日

なんてのもあるな。
瞬殺なんてことはないし旧来の正午過ぎまで小早川がぐずぐずしてたというほどでもないちゅうとこやろな
人間七七四年 [sage] 2017/06/05(月) 06:21:32.30:UrUGIfLo
巳の刻は戦闘開始時刻だろ。
人間七七四年 [sage] 2017/06/05(月) 15:40:32.75:iqYJ0WZw
巳刻に開戦して、巳刻に討死…
瞬殺やん
人間七七四年 [sage] 2017/06/05(月) 16:57:38.28:VWmUI+/u
『舜旧記』も原文は
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田・長岡越中・加藤左馬助、合戦之由、□大□之勢、敗北大谷刑部少輔打死、
余吾殿依叛逆也、巳刻也、棹山落城、」
となる。なんというか色んな情報を箇条書した感じなので、秀秋寝返りが巳の刻かと言われると、チト疑問
人間七七四年 [] 2017/06/05(月) 21:43:12.37:SEGw0iIG
の石川の書状にもう少し長めのがあるけど
西軍の四将が大垣城の外曲輪を焼払って関ヶ原に出たって事は
ある程度の覚悟を持って出陣したんじゃ無いかなと思うけど
あまり取り上げられないのは何でかな
人間七七四年 [sage] 2017/06/05(月) 22:35:57.68:VWmUI+/u
『板坂卜斎覚書』に似た記述があるからかと
「日暮六ッ過に大垣外の小屋、十計りも焼亡、此時備前中納言殿、小西摂津守、石田治部少輔、
大垣を出て、関ヶ原へ被参候由」
人間七七四年 [sage] 2017/06/06(火) 05:56:24.18:+3S80lTV
吉川広家自筆書状案
然處筑中御逆意はや色立仕合候、就其大柿衆も、如山中、大刑少陣無心元之由候て、被引取候、是ハ佐和山へ二番重引可仕覚悟と相見え候

関ヶ原から二日後の吉川広家による所見。
書状案なんで付けたり消したりが矢鱈と多いが、この部分も「如山中」の前にあった「彼地被居候事不成候而」が消されてたり、
最後の「と相見え候」の代わりに最初は「眼前候」とか書かれてた。
人間七七四年 [] 2017/06/11(日) 21:33:44.85:sXypYaOE

徳富蘇峰の影響で関ヶ原は家康の陰謀通りに進んだみたいな通説が根深かったしね
その点では笠谷とかの功績は大きいと思うけど、笠谷は関ヶ原後の二重公儀体制に
拘りすぎているのがなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/06/12(月) 09:27:55.20:8q9WwduV
テキトーにageる
いい加減な内容でツッコミ待ち
自演書き込み

いつもの荒らしパターンの始まり
人間七七四年 [sage] 2017/06/12(月) 10:39:19.21:nKbKRsAa
∧_∧
(・ω・ )    ∧_∧ ,;
と_⌒))💨💨;)д`)∵
  (_ノノ ⊂ O)
      '/  ヽ
      ∪ ̄\)
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 03:29:42.72:TZU7UhGS
東軍は小山評定で三成討伐を決定したけど西軍の総大将は毛利輝元だよね
なんでなの?
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 04:28:48.32:MmifZVpN
小山評定自体有ったか無かったかで大論争なってるのに
「小山評定で三成討伐を決定した」なんて一次史料存在するの?
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 06:30:17.64:Rc/dqMTd
ない
あるって強弁してる人もいるけど
いつ だれが どこで 何を のどれもはっきりと書いてないような手紙にすぎない
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 07:21:44.18:Pi+DzYUO
無かったとすると、なんの意思決定もなく諸将が家康の下知に従ったということになり、
東軍は最初から徳川の家臣扱いされてたってことになるんだけどな
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 07:32:54.93:ElYdQ69V
誰も決めてないのにどうやって決めたかね
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 07:35:51.40:Rc/dqMTd
小山評定があるかどうかわからないといってるだけで
はなしあいや指示がなかったとはいってないだろう
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 07:36:50.45:Rc/dqMTd
小山でのいろんなエピソードはただの妄想だってこと
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 07:41:30.04:hi1hpJRw
小山評定があったとされる日時は、黒田長政はすでに遠江に差し掛かっていた。
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 08:37:57.78:bZhdDGze
小山評定があったとされる日に、小山で集まりがあり、会津征伐の中断と上洛が決定したと、
浅野幸長書状にあるので、小山評定はあったと見るべき
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 10:59:02.39:ElYdQ69V
小山じゃなきゃ どこで決めたんや
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 11:04:48.84:lswy4aUE
てか小山評定を批判する人は小山評定の何が気に入らないのかねえ

家康がカッコ良すぎることを言ったから?
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 11:26:27.58:ElYdQ69V
ドラマ仕立て?
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 11:39:58.71:Rc/dqMTd

だからわからないっていってるじゃんw
わからないことはわからないでいいだろ
これから資料が出てわかるかもしれないし
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 11:41:25.85:Rc/dqMTd

だからいつだれが集まって何を話したかロクにかいてない書簡だっつの
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 12:24:00.56:uTYXY6Mu
菅沼の一人芝居はつまらん
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 12:45:13.09:bZhdDGze

一次史料が二次史料を完全に否定する記述が無い限り、
二次史料の内容を概ね追認するべき

最近多いのだよ、一次史料のみを採用して、二次史料を
否定した結果、二次史料の替りに自身のトンチンカンな
意見を唱える学者先生
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 13:30:38.87:ElYdQ69V

書状を見てみないとわからんが
状況的に小山会議があったと見るべき
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 17:48:24.54:oUcY0+Ku
ワンパターンな流れ
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 20:36:23.19:zyA7lkdq
小山スレでやれ。だな
人間七七四年 [] 2017/06/13(火) 22:22:54.11:I0HR15Hv
南宮山の毛利への備えとされた池田や浅野、山内達は
退却する長宗我部は追撃しても毛利勢には手を出さなかったてことは
毛利の内応を知っていたって事なんだろうか
毛利が退却を始めてから追撃無用の使者を家康が出しても
間に合わない気がするが、それとも本多あたりが知らせたのか
関ヶ原で本陣が奮戦しているとき、池田等が動かないでいるというのも
勿体ない気がするけど
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 22:27:35.62:zyA7lkdq
南宮山の備えは毛利が山奥に布陣したのままなのを見てとっとと本戦場に行きましたとさ
人間七七四年 [sage] 2017/06/13(火) 23:31:37.99:MQs9VxcR
菅沼はワンパターンすぎるな
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 00:31:52.93:b/bTek2J
具体的な反論も出来ず、菅沼、自演連呼するしか出来ない奴がいるけどなんなの
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 02:55:38.78:PY+W8pd5
池田輝政の4500を残してみんな主戦場に移動してるな

長束安国寺長宗我部だけでも強襲しかければ面白いことになったかも知れんが。
つーか盛親6600も兵数持っててなんでそんな端っこでじっとしてたんや
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 03:47:36.84:i0T70AQO
吉川毛利抜いて攻撃は出来んでしょ(∩´∀`∩)
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 08:16:16.66:83xlGtrt
長宗我部軍は山の裾に陣取っていた
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 11:02:21.87:ovGeZXiT
小山と問鉄砲がなくなるととたんに過疎る
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 11:09:09.71:tNIh7MfX
家康が即時の上洛を中断したのも、西軍の規模が予想外なのでビビったとするが、
実際は水野忠重暗殺や田中吉政の不審な行動で、東軍先鋒の新たな人質が江戸に
到着するまで待っていたから

本能寺の変の経験から、家康は暗殺を特に警戒していた
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 12:09:24.54:b/bTek2J
関ヶ原合戦といえば全国規模の戦役なのに、本戦の関ヶ原以外の地方の戦いが軽視されるのがなぁ
東北とかは上杉がいるからかまだマシな方だけど、北陸とか四国や九州とか扱いが軽いよな
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 12:21:56.12:v4gRaEtN
菅沼の一人芝居にはうんざり
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 12:33:45.91:XYQTxyVh
北陸在住だけど、北陸じゃ大した戦してないからな。前田は兄弟で分かれて
東西どちらが勝ってもいい体制だし、途中で反転したのは大谷刑部の計略に
引っかかったともされてるけど、そもそもが戦意も南下の意志も低かったからだろうし。
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 12:38:34.24:83xlGtrt
でも浅井畷合戦では丹羽長重軍の攻撃に、あやうく前田利長が討たれそうになってとか
人間七七四年 [sage] 2017/06/14(水) 13:42:25.51:XYQTxyVh

なにその火葬戦記的ストーリー。
 
利長本隊とは離れていた別働隊の殿軍だった長連竜勢に仕掛けた戦いだったというのが実態だと思うが。
人間七七四年 [sage] 2017/06/15(木) 21:30:18.24:ODXP9Zy2
東国方面だと秋田とか佐竹とか曖昧な行動を取っているのも多いな
九州だと伊東あたりにちょっと興味があるけど
人間七七四年 [sage] 2017/06/15(木) 23:07:19.77:3yOXX0rj
盛親は出兵せずみんなが留守の四国を制圧しても良かったな。
南軍を名乗って如水みたいに独立勢力化。
人間七七四年 [sage] 2017/06/15(木) 23:59:21.61:GsXw7blz

輝元「そうか。じゃあ目付にウチの将付けるわ」
人間七七四年 [sage] 2017/06/16(金) 15:10:53.83:zGhd3yaZ
個人的に謎なのが蜂須賀。
三成襲撃の7将でもあるのに、なんであんな日和見だったのだろう?
人間七七四年 [sage] 2017/06/16(金) 15:23:11.15:BIxlC3Pc
家政は西軍が蜂起した時に在坂だったし、
大坂で西軍相手に徹底抗戦は流石に無理じゃね?

毛利と敵対してるから、
瀬戸内海通って阿波帰国も厳しいだろうし
人間七七四年 [sage] 2017/06/16(金) 15:30:43.81:Xt1OPYvz
大坂入城した輝元に抗議したため阿波接取され高野山に蟄居。まぁ大坂城にいたから何も出来んわな
人間七七四年 [sage] 2017/06/16(金) 22:36:00.99:pDRkW0GA
けど嫡男の至鎮を少数とはいえど家来を従わせて
家康の下に従軍させてるんだからしたたかだよな
人間七七四年 [sage] 2017/06/17(土) 18:42:23.14:MrSJOHMl
朝鮮に行くときは7200も動員してたし結構な戦力持ってたんじゃないの?
人間七七四年 [sage] 2017/06/17(土) 18:50:58.45:4d2g99Ra
阿波衆はどこに消えていたのか。
蜂須賀家政の大坂蜂須賀屋敷周辺に駐屯させていたわけでもなし(あっさり身柄を拘束されている)、蜂須賀至鎮(豊臣豊雄)は僅かな供回りだけで家康に従軍していた。
また、本国阿波は毛利勢によってあっさり平定されていた。
とすると、阿波衆はどこにいってしまっていたのかという疑問がわく
人間七七四年 [sage] 2017/06/17(土) 19:15:07.75:MrSJOHMl
指導する人間がいなくて母国でも大阪でも幸福なんだろう
人間七七四年 [sage] 2017/06/17(土) 19:28:45.13:zdyXqhWs
wikipediaには、
関ヶ原の戦いでは、病気を理由に積極的参加はせず、領国である阿波を豊臣家に返上、
自身は剃髪し、蓬庵と号して高野山光明院に上り、軍勢のみを毛利氏に預けるという形をとった。
北国口の防衛に2000程の兵を向けている(真田文書)

まぁ、大坂城下で家政本人拘束→阿波領地、阿波衆を毛利が接収、だろうな
北国口防衛の兵は家老が率いていたらしいし、
家政が人質状態なら阿波衆も刃向かわないだろう
人間七七四年 [sage] 2017/06/19(月) 21:50:16.34:e0FcCZdP
三成襲撃の七将って加藤清正、浅野幸長、蜂須賀家政、福島正則、
藤堂高虎、黒田長政、細川忠興でほぼ確定だっけ?
本に拠っては池田輝政や加藤嘉明、脇坂安治とか入ってる場合があったけど
それらは何を根拠にしたんだろう
人間七七四年 [sage] 2017/06/19(月) 22:21:46.00:PGkScoRo
閏三月五日付けの家康の返書の宛先が
 丹後少将殿
 蜂須賀阿波守殿
 清州侍従殿
 藤堂佐渡守殿
 加藤主計頭殿
 浅野左京大夫殿
 黒田甲斐守殿
だからこの七人で確定。

どーも「利休七哲」みたく秀吉子飼の猛将の内、七人をまとめて「七将」と称するようで
偶々三成を襲撃した武将も「七人組」だったんでいつの間にかごっちゃになった模様
人間七七四年 [] 2017/06/20(火) 04:35:19.34:mNBpUG7e
ここまで時代の主要人物に嫌われながら再起謀るとか無駄にメンタル強すぎるな
最近三成ってドラマに出てくるような冷静キャラじゃなく
山本太郎みたいな面倒くさい性格だったんじゃないかと思えてきたわw
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 10:50:33.53:1vo5TLYK
頭の良い山本太郎だとものすごい基地外だろうから
皆腫れ物に触るような感じだったんだろうな
そもそも三成ではなく秀家の方が首謀者のような気がするが
上杉が終わったら理由は沢山あるし次は宇喜多討伐するだろ
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 12:39:02.36:fzeuL1jR
次は毛利な
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 12:45:29.05:RS2zn/yR
そもそもとして大名らによる合議制など無理な話であって
豊臣政権を維持するなら徳川独裁にするしかないからな
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 13:42:51.19:5+7k43VB
豊臣家には近江か播磨に13万5000石を与え、徳川の一大名の地位に甘んじるべきであった
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 14:33:18.92:F5lA6MU4
そんな畿内に近い位置に置くわきゃねーだろ
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 19:41:17.35:fzeuL1jR
四国か
人間七七四年 [sage] 2017/06/20(火) 21:02:28.95:Ip8lNGfR
なぜ13万5千石
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 00:34:28.71:bDreReI0
一応摂関家だし、秀次旧領の大和で公家大名化あたりが妥当なところでないの。
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 00:36:18.50:bDreReI0
おっと ×秀次旧領 ○秀長旧領
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 05:20:16.56:TPikD9K4

徳川独裁の時点で豊臣政権でも何でも無いと思うけど?
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 06:31:43.49:r3AGJQ9o
今更気づいたんだけれど、秀吉が死んだ時って戦時中なわけで日本が手を引いても相手が逆に攻めてくる可能性があった訳で。
そんな状態で秀頼が成人するまで、誰が主導権を握るかわからない合議制で政治をしようとか無理じゃね?
最初は徳川前田の2頭体制で非常持を乗り切って、落ち着いたので合議制にしようとしたら権力抗争に発展、関ヶ原へとか考えてみた。
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 08:09:07.57:ambGU9zL
秀吉が織田秀信に13万5000石を与えた故事に倣ってのことだ
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 09:14:35.73:EwvGLrHe
朝鮮は日本本土逆上陸計画練ってたもんな
北部九州は戦場になったかもしれん
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 19:14:58.82:4QH+hvK+
国内の荒廃と世子問題で末期状態なのに
んなこと出来るわけ無いだろ
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 23:23:17.13:Hc22nrUE
そんな内情は日本は知らないし、撤退が大失敗していたらもっと長引くのは考えられる事態ではないかな?
人間七七四年 [sage] 2017/06/21(水) 23:51:01.99:LMtFHGKS
無いな。いくら日本側が撤退に失敗しても
「日本本土逆上陸計画」を実施できない国内状況に変わりは無い
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 00:12:35.29:ciXtbeHN
その国内状況を(日本からすれば国外情報)を把握した上で、秀吉が自分の死後の政権運営をどうするか考えてたの?
撤退に失敗すれば半島での戦も長引く可能性もあるし、合議制でどこまで対応させるつもりだったのかなって疑問だったんだよ。
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 00:25:40.59:QE9snAU7
その話が「朝鮮国内情から見た日本本土逆上陸計画の実施可否」とどう関係があるの?


「日本側の政治形態云々以前に、当時の朝鮮側に逆上陸可能な能力は存在しない」
って言ってると思うんだけど
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 00:32:39.60:v5JYvB8C
日本勢が引き上げた後も、ガクブルで明軍に駐屯継続を懇願してたのに九州逆上陸とか、ま−たドラマや小説の話なのかね。

韓国人には史実とフィクションの区別が全然付かないってのは知られてるしなw
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 05:52:00.83:ciXtbeHN
九州逆上陸がありえたかではなくて、戦が長引いたりしたら秀吉死後の政権運営や権力闘争がもっと変わった形になるかなぁ、と思いましたと書いてるだけだったんだが・・・
明朝鮮の逆上陸の話は私も聞いたことがないしよくわからん。
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 07:52:10.37:q0iQPscD
半島が荒廃して云々は散々聞くが、朝鮮の反攻計画は流石にここで聞いたのが始めてだわ。
何か史料があったんなら提示して貰えりゃ、後学のためなんだがな。
まあ秀吉逝去時に限れば実際は反攻所の状態じゃ無いけどさ、明軍を含めても。
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 08:03:42.53:BwLDWajZ
出来るかどうかは兎も角として朝鮮に備えようとするのは普通じゃないの?
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 09:57:15.90:xyc39bd2

ただその場合対応するのは北九州の諸大名の可能性が高いのだが
鍋島も小早川も黒田も上杉征伐軍に参加する予定で軍勢を東に行かせてるのよね。
もし反攻計画の噂がわずかにでもあったのならそいつらを遠く東北の地まで
従軍させるわけがないと思う。
そう考えると関ヶ原のころにそんな話あったのかって思ってしまうのだが。
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 14:04:56.98:nFd8XObw
陸続きならともかく船が必要な連中なんか、そんなに早く攻めてこれねーよw
人間七七四年 [sage] 2017/06/22(木) 16:26:06.75:FDUlhfyY
菅沼の一人芝居はつまらん
人間七七四年 [sage] 2017/06/23(金) 12:15:03.14:kBJboiWe
この頃の朝鮮は明の意向が無きゃ日本への反抗なんて無理だろう
昔から倭寇に反感を持っていたとは言え
この頃の明にそんな計画があったって史料でもあるの
人間七七四年 [] 2017/06/25(日) 20:59:55.94:Syfe2MY7
上杉討伐の契機となった藤田信吉の出奔だけど
兼続あたりがもう少し上手い事やって
防げなかったものかね
人間七七四年 [sage] 2017/06/25(日) 21:01:55.93:44z89pVa
はめられた
というか仕組まれた?
人間七七四年 [sage] 2017/06/26(月) 22:12:03.10:G2caEenr

兼続が上手い事やるって時点で無理ゲーな気がするのは何故だろう…。
つーか兼続が追い出したようなもんだろ、アレ。
人間七七四年 [sage] 2017/06/27(火) 03:48:56.52:w13xdR2r
藤田信吉はもともと徳川との交渉役で家康と対立するのは上杉のために良くないと主張して
家康に釈明したりしてたら兼続に内通者扱いされて出奔したんだよな
兼続が上手くやるっつても信吉の主張を容れる気がないならどうにもならない気がする
殺したり押し込めたりすればそれはそれで別の口実になるし
人間七七四年 [sage] 2017/06/27(火) 12:36:03.07:xriTOGdR
そんな器用な人間だったらわざわざ家康を激怒させる手紙を送らないだろうしな。
(現存する直江状の真偽とは別に、直江の返書に家康が激怒した記録はあるらしい)

直江の逸話ってどれも基本的に至らんこと言いの皮肉屋だし。
三陪臣の「直江は知恵が足りない」もそういうニュアンスだろうな
人間七七四年 [sage] 2017/06/27(火) 13:23:47.86:2+Y/6Wg2
直江状は江戸期の軍記物に書かれた話で当時の文書では見つかっていないと聞いた。
それどころか、上杉は上洛を検討した時期もある
人間七七四年 [sage] 2017/06/27(火) 16:50:36.31:FOi8efRf
宇喜多、毛利、佐竹、(前田)とか家中真っ二つが当たり前の時代で藤田以外団結しちゃった兼続以下の上杉家臣団が逆に異常
あれ以上上手くやれつわれてもな
人間七七四年 [sage] 2017/06/27(火) 19:34:51.87:EsRrFzfN
鹿苑日録の5月11日条に「自直江来状之返礼調之」という記載があるので
兼続が返書を送ったことは確実。
また5月7日付 長束正家・増田長盛・前田玄以・中村一氏・生駒親正・堀尾吉晴連署にも
「今度直江所行不届之儀、御腹立御尤ニ存候」との記述が有るので、
「端から見ても激怒して当然」返書をだったのだろうと推察できる。

加えて景勝書状にも直江状と酷似した内容が記載されており、
現存する「直江状」の真偽は兎も角、元になった書状は存在したと思われる。
人間七七四年 [sage] 2017/06/28(水) 07:18:55.82:mNzq7q8p
中村・生駒・堀尾が連署してる時点であからさまな偽書なのだが
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 09:17:41.52:oic3fg/I

その割に長谷堂の戦いとか不甲斐なかったような
宇喜多だって一応本戦ではそれなりに頑張ってたし
毛利も関ヶ原では何もしなかったけど、西国では
色々とやってたし、それを考えると上杉だけ
上手くやれてたとは思えないが
まあ佐竹は結局、何をしたかったか分からんが
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 09:28:30.70:6FmXtpDs
佐竹義重と佐竹義宣の意見が合わず、まとまった軍事行動が取れず、傍観に終始した
戦後、佐竹義宣は江戸に凱旋する秀忠に相模平塚まで出向き、臣従を誓ったが、もう遅く、出羽久保田に石高を指定されないまま、流された
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 11:49:03.66:CKdflh6v

不甲斐ないも何もあと数日あれば落城したでしょ
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 13:05:21.90:cvZsLqNC
最上は国境近くの諸城を放棄して山形盆地の外周の城に集中させる戦術をとってて
長谷堂城を抜かれたら山形城まで遮るものが無いから義光も後詰に来る総力戦
かたや上杉は主力は徳川と対峙してて最上攻めは兼続と与力と庄内組の2将だけ
結局最上24万石と兼続組+α32万石余とそれほど差のない戦いであり
最上の命運がかかってる城を2週間で落とせなかったから不甲斐ないとはちょっと理解できない
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 16:51:42.88:eAnmgksv
兼続は少しコミュ力と武力が高い上杉版三成だろ
戦犯だよ兼続は
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 18:07:56.07:mndFMT1l

いや、むしろコミュ力は全くないだろ、兼続は。
後、戦犯ってのはどうかな。むしろ景勝の共犯って気がするが。
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 18:30:22.42:1b4volTr
景勝は直江兼続の提案を受入れてる気がする
人間七七四年 [sage] 2017/06/29(木) 20:02:55.38:U4rpshNo
まぁ会津征伐自体が上杉の自棄の結果みたいなもんだしな
人間七七四年 [sage] 2017/06/30(金) 06:52:40.84:RdcphUo6
武門の意地やね
人間七七四年 [sage] 2017/06/30(金) 09:22:24.61:kBZ6BYr1
部下になめられたら終わりの戦国大名やでな。意地見せた後じゃないと土下座もできん
人間七七四年 [sage] 2017/06/30(金) 10:44:13.67:NtqFPXVD
ある意味ヤクザだから
人間七七四年 [sage] 2017/06/30(金) 10:45:04.28:NtqFPXVD
謙信でさえ度々反旗を翻されている
人間七七四年 [sage] 2017/06/30(金) 11:46:30.99:qHZzKwIi
謙信でさえってwむしろ常時誰かが反乱してるレベル
人間七七四年 [sage] 2017/06/30(金) 21:39:28.84:mcAmhH2k

はっきり敵対してきた奴より、ずっと何考えてるか分からず
結果が出てから頭下げてくる相手の方が、人間腹立つ場合があるからな
人間七七四年 [sage] 2017/07/01(土) 00:03:24.58:/j438M7q
真田と小山田みたいなもんか
人間七七四年 [] 2017/07/01(土) 21:01:58.73:FxMn96Hj

最上と言えば戦後秋田を家康に讒言しているな
秋田、弁明して家康の嫌疑を晴らすことには成功したが
宍戸に転封された反面、従五位下秋田城介に正式に補任されたし
結局家康は秋田をどう見ていたんだろう
人間七七四年 [sage] 2017/07/01(土) 21:15:46.04:/j438M7q
秋田の処分については
佐竹処分の巻き添え+関ヶ原合戦東北方面MVPの最上の顔を立てた
って気がしなくもないな。

秋田本人については特に何とも思ってなさそう
人間七七四年 [] 2017/07/09(日) 09:02:39.18:JP2krSZy

佐竹が西軍として動いていたら、もっと面白い展開になったかのかな
人間七七四年 [sage] 2017/07/09(日) 09:08:36.05:41B1k5y2
徳川が勝ったら江戸に近い佐竹は真っ先に国替えされることは分かっていたハズだと思うんですよ
徳川に与力した里見は加増されたとは言え、まったく縁もゆかりもない米子に国替えでしたからね
人間七七四年 [sage] 2017/07/09(日) 11:02:03.10:Cjf8yFZv

それ何処の異世界?
間違いが多すぎだろw
人間七七四年 [sage] 2017/07/10(月) 01:47:45.25:rxanVVyA

確か、里見は良く分からない事で改易されてますよね。
江戸に近い房総半島に外様はいらないって事だろうけど、哀れな結末。
佐竹は、小田原征伐の戦後処理で独立大名として認められんかった連中を大量に
組下大名に入れてるんで、相当豊臣に贔屓されてますね。
まあ、徳川勝てば普通に取り潰し食らうよね。
秋田に転封で済んだだけでも儲けwwwwww
人間七七四年 [sage] 2017/07/10(月) 19:40:37.35:A1hRnkNP

大久保忠隣に連座でしょ
人間七七四年 [sage] 2017/07/10(月) 23:41:20.61:SW0SCKz7
今夜の、にっぽん!歴史鑑定で問い鉄炮の検証で、幕末のレプリカ大砲を空砲で撃って
松尾山でその音が聞こえるかどうか、という訳ワカメな事をやってましたな。
で、結論は聞こえたけど、小さかったから当時は戦場の喧噪に紛れて届かなかっただろうと
いうもの。

ちなみに個人的には問い鉄炮はあった方が面白いだろう派。大筒じゃなく、朝鮮役でも活躍した
射程数kmの大鉄炮を数十挺ならべて釣瓶撃ちすれば、脅し効果絶大だったんじゃね、みたいな。
人間七七四年 [sage] 2017/07/10(月) 23:42:40.50:MDwkGTHo
禿同
人間七七四年 [] 2017/07/11(火) 21:14:40.12:IAzgwql7
笠谷あたりは小早川の兵は山頂付近に全員陣取ってるわけでは無く
山全体に布陣しているはずで、麓あたりに布陣している兵士達に銃声が
聞こえれば、当然その兵達から秀秋達に報告がいくはずだから、
山頂付近まで銃声が届く必要はないって考えだっけ?
人間七七四年 [sage] 2017/07/11(火) 21:50:42.76:/pxiB3nk
それや
人間七七四年 [sage] 2017/07/11(火) 22:07:14.35:OGDO8aRu
つか福島に同行してた徳川鉄砲奉行が撃ったんだからほぼ麓だろ。
いちいち本陣から撃って無駄な実験すんなやちゅう
人間七七四年 [sage] 2017/07/11(火) 22:46:23.79:zIT5PsqS
いろいろいっても問鉄砲とかないから
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 01:29:30.66:TZOiToUE
ロマンはあるさ
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 02:42:37.71:hKFsmJKj
問鉄砲といっても威嚇したというより早く裏切るよう催促しただけだろ
山頂にいても徳川の部隊がやって来て発砲したこと位は確認できるだろうから、
もともと裏切る手はずになっていたとすればきっかけとしてはそれで十分
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 02:44:43.04:SV2yKqIu

山の麓の部隊に向けて射撃したら約定違反の敵対行為って思われねーの?
小早川の性格的にキレそうかなと思うけど
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 02:50:26.83:rbfK81Z3
140 人間七七四年 2017/05/28(日) 21:24:42.78 ID:11JUq4Lq (3/3)
 各時代の「問鉄砲」の記述については、
  寛永年間以前:記載無し
  寛永年間:藤堂高虎隊単独
  延宝年間:藤堂高虎隊と京極高知隊
  元禄年間:福島正則隊単独
  正徳年間:福島正則隊と布施孫兵衛(徳川家康の家臣)隊
  享保年間:布施孫兵衛隊単独

 らしいね。「だから家康が指示した」ってのは創作の疑い濃厚
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 05:20:15.97:aRAOhCt8
問鉄砲ないとすると開戦と同時に
小早川参戦説か?
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 07:49:26.07:y1fOlVq3
霧が晴れるまで動かず、晴れて状況確認したら参戦
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 07:54:13.11:+jdzOPMp
そもそも鉄砲撃ちかけて寝返りの履行を迫るなんて習慣がないからなぁ

※326
それは別問題。
史料に記載されてるのはいずれも東西が戦闘中に小早川が裏切ったというものばかり。
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 08:02:23.12:7+ZcAXLS
霧中で参戦したというのは常識的に考えると無理がある
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 08:05:16.08:7+ZcAXLS
小早川が視界が開けた後に独自判断で参戦したとすると
なかなか優れた判断力があったことになる

また逡巡はしなかったことになる

常識的とは言え卓越した判断力
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 08:25:33.61:rbfK81Z3
伊達政宗宛て徳川家康書状
「今十五日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言、島津、小西、石治部人衆悉討捕候」

帖佐彦左衛門宗辰覚書
「防戦よふなく柴田(島左近か)即時に敗軍すれば、石田軍皆陳破れて敗北す、然れば午の刻の事なるか」

大重平六覚書
「石田殿、一時もこたえず候て、中書様(島津豊久)陣場へ崩れかかり候」

九月十七日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状
「十五日巳之刻関ヶ原へ指懸被為及一戦」
「敵切所を抱有所へ指懸とりむすひ候刻、筑前中納言殿・わき坂中書・小河土佐父子、
 此四人御味方被申、うらきりを被致候、則敵敗軍仕、追討ニ無際限、うちとり申候、」

舜旧記
「美濃堺、於柏原、内府先勢、福田(福島か)、長岡越中、加藤左馬助、合戦之由、
 □大□(谷か)之勢、敗北大谷刑部少輔打死、余(金か)吾殿依叛逆也、巳刻也」

当代記
「関ヶ原には石田治部浮田中納言大谷刑部島津兵庫小西摂津守将陣の処に、
 金吾中納言内府公属味方之間、敵敗北、数百討取」

十六・七世紀イエズス会日本報告集
「(戦闘が)始まったと思う間もなく、これまで奉行たち(西軍)の味方と考えられていた
 何人かが内府様の軍勢の方へ移っていった」
「こうして短時間のうちに奉行たちの軍勢は打倒され、内府様は勝利をおさめた」

近衛信尹宛近衛前久書状
「青野カ原ニテノ合戦ニテ候。即時ニ切立得大利候。
 番ヒニ金吾手ヲカヘサレ候。其太刀場ニテ、大谷刑部討死候テ、其マヽキリ崩候」

吉川広家自筆書状案
「山中之儀、即時被乗崩、悉被討果候、嶋津などゑり勢三千にて、
 随分一合戦ハ可仕之由候つれ共、中々馬を被入不相成候て其身一騎のりぬけ伊勢地を被退候」
「一昨日十五日内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 08:59:14.73:lg7izZM3
>威嚇したというより早く裏切るよう催促しただけだろ

だからそれを威嚇という
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 09:14:39.13:LOLJU9TN
島津豊久って島津の支藩の大名だから普通にでかい首だよね
人間七七四年 [sage] 2017/07/12(水) 13:28:40.49:2mx9lrCB

まとめ乙
人間七七四年 [] 2017/07/13(木) 10:19:35.12:9TT8eXc2
白峰は小早川は開戦と同時に参戦して家康本陣と交戦していた大谷隊を
挟撃して殲滅。西軍諸将の中で大谷のだけ戦死したのはそれが理由
その後戦場が移動して西軍本隊と交戦しこれを撃破って主張だっけ
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 10:26:00.58:RNWpQZpm

5を読んでから来いよw
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 11:38:27.45:lKbvRvew
毛利、宇喜多の二大老の下、内府ちがひの条々を三奉行が出したことによって東軍の公儀性が剥奪されたっていう人いるけど、
東軍にだって徳川、前田の二大老と奉行筆頭の浅野がいるし、それほど容易く大義が奪われたとは思えないんだが
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 11:43:49.53:hRPYW4BO
清洲城駐屯の東軍諸将は寝返らずに岐阜、竹ヶ鼻に兵を進めた
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 12:07:56.18:OS6Q2IJZ
公議生が失われることはない

公儀がある者が公儀を奪える
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 16:16:50.59:EwrJTF4D
なんで宇喜多は実質西軍主将、てなくらい徳川に楯突いたんやろ
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 16:19:14.91:OS6Q2IJZ
宇喜多は実質豊臣

小早川は実質毛利ではない
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 16:40:12.33:dOdx+7md
宇喜多は幼少なのに宇喜多家継がせてくれたんやぞ(背景があるとしても)そりゃ親豊臣にもなる

小早川秀秋は兄貴をぶち殺されて、小早川家に放り込まれて、改易されかけたんやぞ
豊臣に尽くせって無理があるわ!
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 17:19:05.21:OS6Q2IJZ
厳封された秀秋を家康が元に戻した

あとはわかるな?
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 18:02:43.37:lzLDxxJg
秀秋の兄が殺された?
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 18:33:11.25:hRPYW4BO
筑前名島36万石から越前北之庄15万石への国替えは秀吉の死によりウヤムヤになった
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 20:24:07.04:a5klOCcz

三成「義兄と同じ関白にしてやるから味方してや」
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 20:34:24.69:OS6Q2IJZ
オレも殺す気か
人間七七四年 [sage] 2017/07/13(木) 22:12:29.62:1pNPmkS0
秀次「俺がいたら、豊臣家はもうちょっと持ったのに…」
前野、田中、堀尾、中村、山内「そうだよな」
黒田「ああ」
人間七七四年 [sage] 2017/07/14(金) 20:09:34.48:T5OLdCqP
宇喜多は関ヶ原で勝てば宇喜多騒動のあれこれがうやむやにできる状況だった
人間七七四年 [sage] 2017/07/14(金) 20:19:50.57:rjylkey/
秀次政権を前提に秀次に近い大名を東海道に配したが、秀次処分により、一気に彼らが徳川に靡いてしまった
人間七七四年 [sage] 2017/07/14(金) 20:32:39.24:hd6jhmgI

宇喜多は宇喜多騒動で家康に恥をかかせられた様なものだしね
秀吉の傘の下で育ってきた秀家にすれば、もしかして初めて味わう
本格的な屈辱だったんじゃ無いか
人間七七四年 [sage] 2017/07/14(金) 20:47:53.94:rjylkey/
輝元に実子が産まれた為、世子の座を譲った毛利秀元に対する所領分配問題でも家康は介入し、輝元は痛く体面を汚されたと、光成の書籍に書いてあった
人間七七四年 [sage] 2017/07/14(金) 22:02:53.32:g9f+EWp8
秀元の件もそうだけど、三成襲撃事件の時に家康宛てに
「父とも兄とも思う」って誓詞提出して屈服してるんだよな輝元は。
秀家も家康と利長宛てに「お二人に従います」って誓詞を提出。
それに前後して利長も加賀征伐未遂で家康に全面屈服

会津征伐の段階で上杉以外の大老は
家康に従う姿勢を公にしてたっていうね
人間七七四年 [sage] 2017/07/15(土) 06:03:34.85:QGbqOnal
仮に会津で上杉が徳川を敗退させていたらどんだけの掌返しが起こっていただろうか
人間七七四年 [sage] 2017/07/15(土) 07:25:24.77:qskiC5RS
そらお前、毛利一藩に全国からの連合軍30万が粉砕されたときと同じだろうよ
人間七七四年 [sage] 2017/07/15(土) 08:09:53.38:Phh8RwqO

一応甥なんだから、死の直前に許すつもりに成っても別におかしく無いのでは?
問題は、馬鹿だから秀秋が意味を理解しなかっただけで。
人間七七四年 [sage] 2017/07/15(土) 10:52:26.58:qskiC5RS

秀吉が許したりしてねえよ。
転封をだらだら引き延ばしてうやむやにしただけ。
うやむやにするのを許したのは、家康ら後継政府。
秀吉関係ない。
人間七七四年 [sage] 2017/07/15(土) 12:36:34.36:mfF6RVTh
司馬史観で釣り?
菅沼はセンスなさすぎだろ
人間七七四年 [] 2017/07/16(日) 16:17:02.13:OVPJIrDz

一度表面的には屈服した態度示しても、内面ではいまに見てろくらい思ったとしても不思議ではないな
人間七七四年 [sage] 2017/07/17(月) 14:00:17.09:erBYoUwY
そりゃ進んで屈服したがる奴なんていないからな。
実際三成と組んで復権クーデター起こしてるし
人間七七四年 [] 2017/07/18(火) 21:31:58.51:lSWWwmN0
福嶋と池田も岐阜攻めでお互いの体面崩されそうだと
争っているくらいだしな
人間七七四年 [sage] 2017/07/18(火) 22:55:27.37:sSxkyU2S

秀頼可愛さのため親族の粛清を始めたけど
これによって逆に秀頼を支えてくれる親族がいなくなってしまったからな
老害痴呆秀吉は本当に迷惑な存在に成り下がった
人間七七四年 [] 2017/07/20(木) 22:08:41.38:UxLbfTjH
秀吉の張良、陳平と称された竹中、黒田の二家は結局徳川に付き
秀吉の創成期から支えてきた蜂須賀、浅野も徳川方に、前野は粛清
徳川の対抗馬と見込んだ前田も徳川方に、福島、加藤と言った
子飼い連中も徳川に付き、残ったのは秀吉の下で甘い権力の蜜を啜っていた
奉行連中や秀家、家康に対抗心燃やす外様の連中という有様だからな
人間七七四年 [sage] 2017/07/21(金) 21:28:06.91:UGvfQ540
黒田、寺沢、加藤、藤堂、生駒、蜂須賀なんて従軍義務も無いのに
わざわざ会津討伐に参戦してるしね
人間七七四年 [sage] 2017/07/21(金) 22:24:15.10:xZSsRhqp
従軍義務ないの?
人間七七四年 [sage] 2017/07/21(金) 22:58:40.48:C/hwx326
他の西国大名はみんな大坂京警護だからな
人間七七四年 [sage] 2017/07/23(日) 04:12:26.62:DmGy0FM7

本来対等のはずの、大老の上杉家を討伐対象にしてる時点でね。
建前は兎も角、本音では徳川に臣従しない大名は討伐するって事だから。
徳川牽制の為の上杉を討伐対象にしてる時点で、ああそのつもりね...に普通成る。
反徳川の挙兵まで計算済みで従軍希望なんだろね、後の挙兵規模理解してたら従軍したか
解らんとは思うけど?
人間七七四年 [sage] 2017/07/23(日) 06:28:05.93:4SGF15x3

とりあえず徳川と上杉は対等じゃないと思う。
人間七七四年 [sage] 2017/07/23(日) 07:11:52.97:75KBPiJW
「徳川が上杉に出頭せよ」じゃなくて、「豊臣公儀として上杉に対して出頭せよ」と伝えたわけだから、
徳川の正当性は明らかだろ。
そもそもの発端は堀とかの周辺大名からの提訴なわけだし、これで上杉は出頭しなくていい、って
ことになると、豊臣公儀に属する大名家が何を言っても五大老は詮議されない、ってことになる。
公儀としての公平性への信頼が全く無くなる。
人間七七四年 [sage] 2017/07/23(日) 11:27:12.69:2DnCsXuK
三成ら奉行連中および三成と親しい毛利・上杉・宇喜田などは
自分たちが何をしても処罰の対象にならない、取調べも受けない特別な存在だと奢っていた
ところが秀吉が死んで特別扱いがなくなり、周囲とのトラブルや御家騒動を咎められるようになり
不満を爆発させて豊臣公儀を乗っ取ろうと謀反を起こしたというのが実情だからな
人間七七四年 [sage] 2017/07/24(月) 00:12:47.75:7okYWUSW

完全に対等じゃ無いにしろ、同じ大老なんで保々近い立場でしょ、そうでないと合議制なんて
機能しないんだから。
江戸時代、有力外様大名の隣に監視役の譜代大名が入るって普通に有った。
例えば、佐賀藩に対して譜代の唐津藩、福岡藩に対して小倉藩とかね。
上杉は、明らかに徳川牽制の為に置かれた大名なんで、そこに攻め込むんじゃ悪意を
疑われても仕方無いでしょ。
人間七七四年 [sage] 2017/07/24(月) 06:40:13.56:LLhh+HPa
圧倒的に戦力差がある徳川が一方的に三成をフルボッコにした。小早川は最初から裏切っていて問い鉄砲などなかった
人間七七四年 [sage] 2017/07/24(月) 07:47:56.41:vXfewXqr

大老に公儀のルール違反の疑いがあれば、他の大老・奉行が合同で詰問する、って先例を徳川の婚姻問題で、石田・前田が作ってる。
周囲の大名からルール違反の訴えがあった上杉を呼び出して詰問するのも同じやり方。
徳川と上杉が同等の大老と考えれば、上杉は大坂で詰問されるのが当然だし、上杉が拒絶できると考えていたなら、徳川にも
許されない特別扱いが自分だけには許されると考えていたことになる。

どちらにせよ、素直に上坂しなかった上杉が悪い。
人間七七四年 [sage] 2017/07/24(月) 11:58:31.54:YYICDkD6

そもそも合議制なんて何時決まったという話だし
人間七七四年 [] 2017/07/27(木) 07:21:20.53:JhNbERKn
遺言で決められた徳川、前田の二頭体制に反発を感じた三成ら奉行連中が残りの大老を巻き込んで
秀吉の死後遺言をひっくり返して決めたんじゃなかったかな
subo [] 2017/07/28(金) 22:18:25.63:XAaZ3gOZ
関が原の戦いは西軍百済VS東軍新羅、西軍平氏VS東軍源氏、西軍南朝VS東軍北朝(基本である
人間七七四年 [sage] 2017/07/28(金) 22:47:46.88:KHT7382w
ツマンね
subo [] 2017/07/29(土) 20:30:52.59:lDzAiU9x
関が原の戦いは西軍ニッポンVS東軍ニホンである
人間七七四年 [sage] 2017/08/01(火) 16:28:02.29:if8W+lH8
関ヶ原はいかに語られたか

〔序文〕関ヶ原の戦いのイメージ形成史 井上泰至
石田三成―テキスト批評・中野等『石田三成伝』 井上泰至
小早川秀秋―大河内秀連著『光禄物語』を中心に 倉員正江
〔コラム〕大阪歴史博物館蔵「関ヶ原合戦図?風」について 高橋修

大谷吉継―軍師像の転変 井上泰至
小西行長―近世の軍記から演劇まで 原田真澄
島左近―『常山紀談』の逸話などから 田口寛
〔コラム〕関ヶ原合戦図屏風の近世 黒田智

吉川広家―「律儀」な広家像の形成と展開 山本洋
安国寺恵瓊―吉川広家覚書と『関ヶ原軍記大成』を中心に 長谷川泰志
黒田長政―説得役、交渉役として 菊池庸介
関ヶ原合戦と寺社縁起 黒田智
福島正則―尾張衆から見た関ヶ原の戦い 松浦由起
加藤清正―関ヶ原不参加は家康の謀略によるものか? 藤沢毅
島津義弘―島津退き口の歴史叙述 目黒将史
伊達政宗―近世軍書に描かれたその姿の多様性 三浦一朗
〔コラム〕「北の関ヶ原合戦」をめぐる史料について 金子拓

徳川家康―天下太平への「放伐」 濱野靖一郎
ttp://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&cPath=9_14_38&products_id=100790
人間七七四年 [sage] 2017/08/01(火) 18:25:53.43:vgYzmn2y
おもろそう
人間七七四年 [] 2017/08/01(火) 19:00:37.88:I2IBCLWK
日本最古のサイダー「養老サイダー」復刻資金クラウドファンディングで募集中

ttps://www.makuake.com/project/yoro-cider/

かつて「東の三ツ矢サイダー、西の養老サイダー」と称され
1900年(明治33年)製造開始した日本最古のサイダーで
人気を博しつつも2000年に惜しまれながら製造中止となった幻のサイダー
「養老サイダー」復刻の資金集めがクラウドファンディングで行われています
養老改元1300年祭の目玉として企画され、初回の生産量は5400本
実現すればコースに応じて返礼品として復刻版サイダーや関連商品が贈られます

募集期間は8月21日(月)まで
ネット販売はされないとのことで、これを逃したら当分は手に入らないかもしれません
特に遠方の方はこの機会に往年の味を復活させ飲んでみて
幻の味を味わい販売継続の一助となってはいかがでしょうか

【Asahi】三ツ矢サイダー NIPPON(8月8日発売)
ttp://www.asahiinryo.co.jp/company/newsrelease/2017/pick_0725.html
人間七七四年 [sage] 2017/08/01(火) 21:36:46.44:IEsdRtGk
はて、関ヶ原とどんな関係が?
subo [] 2017/08/02(水) 00:21:13.02:JQr3WrdY
三ツ矢サイダー NIPPONは南朝なんだな(西軍である
subo [] 2017/08/02(水) 00:23:26.84:JQr3WrdY
出雲、筑紫倭国→新羅→源氏

畿内ヤマト→百済→平氏   (基本である
人間七七四年 [sage] 2017/08/02(水) 01:01:00.59:l9snjljA
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 電波を感知しました。 |
|__________|
              / /
              /
      _         ビビビ
     /||__|∧    /
  。.|.(O´∀`) /
  |≡( ))  ))つ
  `ー| | |
    (__)_)
subo [] 2017/08/02(水) 01:07:56.58:JQr3WrdY

新羅は白旗を掲げて百済は赤旗を掲げて戦いました
また源氏は白旗を掲げ平氏は赤旗を掲げて戦いました

日の丸の白は源氏、赤は平氏なのです
人間七七四年 [sage] 2017/08/02(水) 03:10:30.64:l9snjljA
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|  電波が強すぎます。. |
|__________|

             /
           //ビビビビビィィィ!!!
    どかーん!  _
       从";从 /||__|∧,
      (( ; ;"、; :(O´Д`)
     ((;";从.")と ))  ))つ
     `;Y ;"、 Y ノ ノ ノ
          (_ノ、_ノ
subo [] 2017/08/02(水) 12:31:16.30:JQr3WrdY

赤組・・・狗奴国、畿内ヤマト、百済、平氏、南朝(楠木正成、織田信長、水戸黄門、吉田松陰

白組・・・邪馬台国、出雲、新羅、源氏、北朝(足利尊氏、明智光秀、徳川家康、松平容保
人間七七四年 [] 2017/09/02(土) 21:09:02.75:mJ7gK6Y0

上杉も最初上坂する予定だったみたいだけど
急遽取りやめた理由は何だったんだろう
人間七七四年 [sage] 2017/09/02(土) 21:52:11.27:R/YVr6f/
徳川とは合意が出来たけど、いわゆる五奉行側と折り合いがつかなかったとかいう文書がなかったっけ?
逸話だったかもしれんが
人間七七四年 [] 2017/09/02(土) 22:39:27.48:OyjVvEK3
ただ上坂して誤解を解くだけならいいけど、「前田も尻尾振ったぞ」とか言われりゃムカつくんじゃない?
人間七七四年 [sage] 2017/09/02(土) 23:14:05.54:vXsrAWJJ
上坂しても、上方にだれも味方がいないので、訴訟に勝つ見込みがないって気が付いたんじゃないの?
奥州征伐の前から上杉の窓口は三成だったのに、その三成が失脚してるんだから、奉行衆に親しい相手が残ってない。
その奉行衆は前田と徳川がもめた時に、積極的に徳川を支援。
前田はもう徳川の犬。
毛利も家康を兄貴分に立てて、外形的には徳川派。
四大老四奉行で味方してくれるかもしれないのが、宇喜多だけ。
これじゃ、上坂しても負けるのが目に見えてる。
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 01:28:03.88:rJpchuM8
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 07:26:43.48:txxeRQSt
布陣図は後世の創作らしいけど、西軍の方は史実だよね?
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 09:52:33.45:yBeVQtqG
山中村まで進出してたとか島津が二陣だったとかで西軍の方が創作つう話だろ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 18:55:23.77:YfCIuKib
合戦場山中説でずっと気になってるのが、
太田牛一の記した太田和泉守記の
「御敵石田三成・島津義弘・小西行長は旗頭を見せ藤古川を越え、
不破の関屋より北野の原小関村を出て南辰巳へ向かって軍勢を備える。
大谷吉継・宇喜多秀家・平塚為広・戸田重政は石原峠に着陣し、
ここを下り谷川を越え、関ヶ原北野へ軍勢を繰り出し、
西北の山手を後ろにする。」【太田和泉守記】
っていう記述なんすよ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 18:56:00.82:YfCIuKib
太田和泉守記って信憑性はどんな感じなんですっけ
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 19:12:06.14:2jlaZ92U
島津軍が動かなかったのは、戦意乏しかったのではなく、遊撃部隊の役割からだ、という説があるが真偽はどうなんですか?
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 19:30:28.47:yBeVQtqG

信憑性は高い
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 20:03:00.82:k9Us5Ojd

合戦翌年にはもう書かれている
人間七七四年 [] 2017/09/03(日) 20:10:30.14:YfCIuKib
>>400
太田牛一の記録によると石田島津小西が布陣した小関村ってのは笹尾山周辺で、大谷宇喜多が布陣したのはおそらく中山道付近となりますね
とすると通説と大幅には変わらない気がするんですけど、、
石田島津小西と大谷宇喜多を区別しているのも面白いですね
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 21:59:03.78:yBeVQtqG
おっしゃるとおり他の初期の軍記同様に石田達と宇喜多達を別々に記述してある
これは石田軍と宇喜多軍の二軍体制だったということで横並びに布陣していた従来の布陣図はだいぶ変わる

あと合戦場山中説については自分的には正直可能性はあまりないと思う
吉川書状同様に太田和泉守記にも大谷が山中に陣を敷いたとあるが
時系列的には、大谷が山中に陣を敷く、大垣から後退してくる石田らとともに大谷も後退する、
大谷は宇喜多軍に所属して石原峠に着陣す。と読み取れるから
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 22:23:15.34:k9Us5Ojd
東軍も西軍も合戦前と直前で大分位置関係変化したから、
どの時期を抜き出して記述したかで、大分変わる
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 22:26:43.56:yBeVQtqG
大谷にとっては前進か
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 23:03:56.07:/VA/24P0
「石原峠に着陣し、ここを下った」とあるので、結局天満山付近になるんじゃないかなあと思ったんですよね。
大谷、宇喜多がひとかたまりと言うよりは、宇喜多は天満山にいて山中方面の大谷と小関村方面の軍とを繋ぐ位置にいたのかなあと
島津の全面に宇喜多が布陣していたという記述もあるので
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 23:09:07.03:/VA/24P0
吉川書状にもあるとおり、西軍は佐和山に二重退きする作戦だったとも考えられますが、あくまで東軍の追撃への対応、もしくは南宮山方面の味方の撤退のために関ヶ原でしばらく踏みとどまる手はずだったのかなあと勝手に推測してます
人間七七四年 [sage] 2017/09/03(日) 23:10:49.06:/VA/24P0
ただ、確かに通説の布陣のように横並びというよりは、西軍の防衛戦vs東軍の直線的突撃という色合いが濃いですよね
人間七七四年 [] 2017/09/04(月) 20:24:03.45:tC/jbP7D
問い鉄砲が無くなり
戦場が関ヶ原で無くなり
ついに首謀者が石田三成で無くなった

応仁の乱を超えるぐっだぐだ
西軍なんて無かったんや
人間七七四年 [sage] 2017/09/04(月) 20:40:43.74:kKOiP/Sp
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ
人間七七四年 [sage] 2017/09/04(月) 20:46:21.92:WCMuuXiC
白峰は仮想戦記並
人間七七四年 [sage] 2017/09/04(月) 20:51:10.28:AJEcpeGK
いやいままでの定説が仮想戦記だったんだろ
人間七七四年 [sage] 2017/09/04(月) 21:40:31.20:tC/jbP7D
ずっと司馬遼を読んでいたんだが
炊飯器はまだ噴いてもいなかった
人間七七四年 [] 2017/09/04(月) 22:04:06.26:+iozTLc4
スレが伸び出すとすぐ菅沼言い出す莫迦は何なんだ
それより一部の研究者が五奉行の権威、必要以上に高く評価している気がする
三奉行プラス三成が西軍付いたから西軍が官軍とかおかしいと思う
人間七七四年 [sage] 2017/09/04(月) 22:29:37.33:st50f2Xp
白峰くれえの話じゃねそれ
人間七七四年 [sage] 2017/09/05(火) 08:58:05.07:TjpMjxKZ
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ
人間七七四年 [sage] 2017/09/05(火) 09:02:18.98:XYtiS8mf
白峰は仮想戦記並
subo [] 2017/09/05(火) 11:06:08.89:cxfTFD+5
スレが一月ほど停滞したのは俺のせいじゃないからな
勝てば官軍、負ければ賊軍だ
人間七七四年 [] 2017/09/06(水) 10:43:18.66:yz8lTcxb
よく関ヶ原で石田軍は奮戦したと言われるけど実際にはどうなのかな。

早々に左近が怪我を負って、あとは柵の中から大砲を打っていただけということはないかね。
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 15:42:24.02:Rx2IHhBe
あれは三人役を単純に当てはめたら、石田と戦った連中の兵数が凄いことになったから
実際は黒田・細川・加藤といった西国勢(含む藤堂)は三人役以下だった
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 15:53:57.10:c6eXa9u0
黒田5400、細川5000、田中3000、加藤3000、織田450が集中して攻めてきたわけで、よく持ちこたえたとは言える
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 15:59:40.81:HtQQowVf
石田先鋒は早くに崩れていた(島津系覚書)
相手の黒田細川は従来言われていた兵力の半分(福島人数覚書)
霧で遅れただけで合戦は比較的短期間に終わっていた(慶長年中記、太田和泉守記)

文字通りの奮戦というか戦下手キャラ設定の三成の割には頑張ってた程度かなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 16:38:24.10:Rx2IHhBe

うん、その兵数がそもそも事実ではない
人間七七四年 [] 2017/09/06(水) 17:39:12.59:MF/nRc8v
黒田と細川は兵力半分というより、半分づつ休ませながら波状攻撃をかけたということはない。

戦いづくめじゃ疲れるだろう。
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 17:48:44.69:kVMUE56I

持ちこたえたってなぜ言える?
最近の検証では勝敗はかなり早く朝方に決したようだし、従来説のとおりだとしてもせいぜい午前中で終わったんだが
人間七七四年 [] 2017/09/06(水) 17:53:17.55:MF/nRc8v

三成にしてはでしょう。
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 18:01:36.00:Rx2IHhBe
通説でも昼まで戦って、昼に秀秋裏切って以降は夕方まで残敵掃討
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 18:31:16.17:caUbmdMB
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ
人間七七四年 [] 2017/09/06(水) 19:16:53.38:Lim55WqC
豊臣系武将の奮闘で西軍が早々に敗走じゃ都合が悪いから
家康が本陣を前進させた事や問鉄砲の逸話とか創られたのかな
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 19:49:49.89:p9n7KPPz
資料上、問鉄砲で最初に名前が出てくるのは家康ではなくて高虎だそうだね
人間七七四年 [sage] 2017/09/06(水) 19:52:59.62:HtQQowVf
問鉄砲つか撃って見て反撃が無いからちゃんと調略されてんなじゃあ前横切ろうっていう
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 07:18:32.59:4pBvLUf9
天下分け目の決戦というわりには、意外にあっさり決まってしまったから、
後でいろいろと脚色や演出を加えたということだな。

左近が早々にケガして三成が奮戦したというのがどうも?だったから。

大砲は本当に使っていたのかな?
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 07:50:15.42:lqsawXqC
あわてて大垣城から東軍の脇追い越して布陣したのに足手まといの大砲持ってくる余裕があったとは思えない
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 07:52:59.38:lqsawXqC
むしろオレにとっての最大の謎は東軍を追い越すようにすぐ近くを通って関が原の西へ行軍する西軍を
すでに布陣済みの東軍はなぜ襲わなかったのか?
西軍はなぜ東軍の脇を追い越すのは危険と思わなかったのか?ってこと
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 08:03:32.63:xIBJfij3
小規模の夜襲でもない限り、夜間の戦闘は行わないもの
夜間行軍すら大量の脱落者が出るし、疲労するので慎むべき

西軍は合戦当日は疲労困憊していたと思う
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 08:10:43.31:lqsawXqC
そうだよな
危険だし、疲労もかなりしてただろうし、陣も整ってたとは思えない
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 08:11:52.09:lqsawXqC
夜間に強行軍して披露したまま暗くてよく見えないなかで陣立てするって相当混乱すると思う
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 09:46:13.43:OEuyWVvh
東軍は基本野営続きでよくやった
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 12:35:43.28:X+m+8pQ+
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 14:23:05.44:pHdJNrXC
前夜の移動で両軍とも疲れておる。
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 14:49:21.95:dlz+ouNE

初期軍記の記述だと「大筒」。
大筒というのは土嚢などに据え置きて使う持って撃てない位でかい火縄銃であって大砲じゃない
大砲は当時の記述だと「石火矢」。あとは仏狼機やら国崩しやら
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 19:31:06.05:4pBvLUf9
本当だ。
ウィッキにあった。

今でいえばバズーカーみたいだな。

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kuniyoshi_Utagawa,_The_actor_17.jpg
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 19:32:43.08:4pBvLUf9
ドラマに騙されていたなw
人間七七四年 [sage] 2017/09/07(木) 20:45:39.75:PX8dBxEM

あるんじゃね?
史実はわからんし、
後の講談で盛り上げるためってのもかあるし。
人間七七四年 [sage] 2017/09/08(金) 22:46:53.18:0mWw6fMl
歴史群像の新しいのはどんな感じ?
白峰も書いてるみたいだけど。
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 18:22:26.18:n2/HiHE2
このスレの住人なら当たり前の本だと思うが今笠谷和比古とかいう人の関ヶ原合戦という本を
読んでいる途中なのだが、この人は関ヶ原の重要な要因の一つとして北政所と淀君の対立を
上げているけど、そんなの本当に影響したのか?

まあ、小早川秀秋や福島、清正当たりが北政所と関係が深いというのは分かるけど、
三成と淀君なんてそんな関係か?
もし三成が淀君に重用されているのなら西軍の軍資金や兵糧を豊臣から出していたのではないか?

それと秀頼が二条城に言ったときに北政所派が付き添っているのをどう説明しているのかな?
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 18:24:18.63:n2/HiHE2
二重公儀については、まだそこまで読んでいなけど、これも怪しいな。

この人本当に京都大を出ているのか?
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 19:02:37.31:LuGApfMV
近江閥と尾張閥とか文官派と武功派とか北政所派と淀殿派みたいな派閥抗争は全く無かった訳じゃ無いんだろうけど、後世の創作や脚色も多いからな
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 19:17:17.40:hnXvbksF
文治派石田派閥、文治派徳川派閥、武断派前田派閥、武断派徳川派閥、外様徳川派、外様毛利派、事なかれ派、その他
こいつらがくっついたり離れたり状況に流されたりだから単純な色分けは無理
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 20:07:39.38:yBquO8LX
結局のところ豊臣政権(執政徳川家康)の政策に不満・危機感を感じた面子が西軍でしょ
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 20:26:44.47:pozdrvhm
昔と違っていまでは淀が東軍派で北の政所が西軍派じゃなかったっけか
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 20:53:55.46:hnXvbksF
どっちも東軍支持西軍支持の声明出してるわけじゃないから何とも
どちらかがどちらってのも今の所こじつけに近いし
西軍の真ん中で東軍支持は発表できんが西軍支持はいくらでもできる状態で何にもしてない事から
とりあえず両者とも西軍支持ではない程度しか言えん
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 21:58:45.88:LuGApfMV
西軍の大半は会津行く途中で取り込まれた消極的家康支持派だろ
人間七七四年 [sage] 2017/09/09(土) 22:00:52.90:giCsT3vo
笠谷は「歴史の虚像を衝く」を読んだ感じ
北政所自体は自分の境遇に特に不満は無かったが
東軍の連中が勝手に北政所の境遇に同情したり、
その境遇を小早川の説得に利用したりって考えじゃ無かったかな
人間七七四年 [] 2017/09/09(土) 22:32:16.76:MgB80nO1

二重公儀は豊臣に対して過大評価だよね
諸大名とは別格扱いがせいぜいの評価で
公儀と呼べるほどの権限もなければ
業績もない
人間七七四年 [] 2017/09/09(土) 22:55:59.29:2cxw6zBQ
従来通りだと、著書が売れないから。
西軍挙兵で家康の公儀正当性ぐらい喪失させとかないと、
西軍はただのクズ集団になってしまうからな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 00:15:16.72:zBdzOcix
鞆に移転した後の室町幕府は、何の権限も無くて、権威だけしかないけど、一応、幕府として認められていて、公儀としての指示も出してる(効果は無いけど)
大坂の秀頼も同様に、公儀としての体裁だけはもってる、けど実効性は無い、ってことじゃない?
豊臣家の公儀を停止する、って大政奉還みたいに宣言したわけじゃないし、大坂公儀は存在し続けた、と言えると思う。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 00:23:15.82:JM7WtMbw
足利義昭は一応征夷大将軍だった
秀頼は関白じゃない
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 02:54:58.81:i/Z7IFZt
ほんと、なんで秀次頃しちまったんだ?
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 04:10:32.55:Xys5s36m
関ケ原とワーテルロー 「姉妹古戦場」協定に調印
ttp://www.sankei.com/smp/west/news/170909/wst1709090092-s1.html
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 06:54:01.45:BC8XaZCR
クーデターしたんだからそれが短期間だろうが基盤が弱かろうが2重政権だったことは間違いない
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 07:20:51.84:H8v4MIPZ
クーデターをしたのは三成だろう。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 07:25:01.92:H8v4MIPZ
天皇家と徳川家の二重公儀制というのなら、まだ分からなくもないが
そこに豊臣なんかが入る隙はないよな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 07:52:16.46:BC8XaZCR

もちろんそうだけど?
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 07:53:35.51:BC8XaZCR
三成がクーデターおこして政権を掌握した
短期間であれそういうことでしょ
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 07:54:58.45:BC8XaZCR
三成グループおよび毛利がって言ったほうが正しいが
人間七七四年 [] 2017/09/10(日) 07:55:19.00:H8v4MIPZ
二重公儀はは関ヶ原の合戦以降のことを言っているから、
合戦中の話は今いらない。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 08:15:17.69:zBdzOcix

それを言ったら、秀次死後は政権内に関白がいないから、秀次の死をもって豊臣公儀は終了した、ってことになるけど
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 08:24:17.80:edY5i+3v
秀忠将軍就任までは二重公儀制も成り立つがそれ以降も二重公儀というのはただの過大評価
人間七七四年 [] 2017/09/10(日) 08:41:59.07:q0DYite9

問題は形式論ではなく実際に権限があったかだからな。
関ヶ原以降秀頼にどういう権限があってそれを実際にどうやって行使したかだな。
人間七七四年 [] 2017/09/10(日) 08:52:19.49:q0DYite9
ただその形式論で考えた場合、秀次失脚のあともまだ豊臣家が関白に就任できる権限を持っていたが、関ヶ原後に公家が就任して秀頼の立場が危うくなったとも考えられるな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 10:03:11.35:zBdzOcix
豊臣家が摂関家としての格式を喪失したわけじゃないから、特に立場は変わらないと思うけど。
秀頼成人後の関白就任は朝廷側が約束してたわけじゃなくて、秀吉がごり押ししようとしていただけだし。

豊臣家が存続して、千姫に子供が生まれてれば、幕府にとっての朝廷内の足掛かりとして、
徳川家の血を引く豊臣家の摂政・関白が誕生していた可能性もあるし。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 11:01:40.56:1vxq5Kbx
もちろん秀頼が関白になる可能性がゼロになった訳ではない。
ただ、摂家側のこの行動は豊臣政権に対する大きな挑戦に感じるけどね。
政権ってのは勿論実力がある事が何より大事だけど、ふさわしい権威を保持する事も当然大事だと思う。
豊臣政権においてはその地位は関白なんだから、その地位に他家の人物が就任する事自体問題だろう。
正直、家康の将軍就任なんてこの出来事に比べたら事件としては大した事ないと思うけどね。
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 11:07:38.79:JM7WtMbw
形式で言うなら秀次の死後は秀吉、秀吉の死後は家康が関白の職務を代行して、関ヶ原の後に家康の将軍就任と関白を藤原五摂家に返上で名実共に徳川が公儀になったという事だろ
確かに秀頼と豊臣家が大人しくしてたら関白に就任出来たかも知れないが、それは公儀云々とは別の話だな
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 14:01:16.35:qpXz5/wl
菅沼の荒らし方はワンパターンすぎるわ
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 16:54:47.65:vFse5+2q
茶々が且元の身代増やしてもらえるように家康に頼んでいるくらいだから、公儀としての権限はほとんどなかったんじゃないかな
人間七七四年 [sage] 2017/09/10(日) 17:32:01.78:zBdzOcix

且元は徳川家が豊臣家に付けた付家老だからじゃね?
且元の所領は家康から与えられたもので、豊臣家の直臣じゃない。
人間七七四年 [] 2017/09/10(日) 18:19:25.94:K0naJw+6
長州藩の古老が涙ながらに関ヶ原の話するんだよ




明治維新の頃な()
人間七七四年 [sega] 2017/09/11(月) 01:15:43.29:DRNBmDel

関ヶ原だけ部分的に立ち読み。

2016年史学論叢からさらに踏み込んでる。
9月初旬の戦況は、東軍先手が大垣城を包囲し始め、
伊勢路の西軍が南宮山に後詰に来たと解釈。
赤坂着陣後の家康の戦略は大垣は後回しにして先に
南宮山を叩くというもの。南宮山はこれを逃れんと
輝元に無断で降伏した。

根拠にする史料の原文がわからないので信憑性は
何とも言えないが、家康側の戦略構想はしっくりくる。

氏の見解に関わらず、俺は南宮山は東軍の優先目標に
なるのを逃れるために停戦交渉をしたと思ってる。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 06:18:55.96:7sX80FxC

付け家老を付けられる公儀()
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 06:42:13.87:WKxcuh20
いま6時30分ころ、東軍の布陣も完了
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 13:44:10.85:wdg4PnWa
歴史群像のやつ
・石田大垣隊2万+毛利弁当隊1万5000で計3万〜四万もない?
・東軍は7万で大垣城包囲、南宮山毛利も殴りにいく
・大垣城は小城

って単純に西軍が不利すぎるな
こりゃ小早川も寝返る罠
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 18:10:13.33:/yIZ+fV7

大垣城包囲から毛利援軍は『旧記雑録』内の書状から確認できる
家康の戦力は清須辺りから伝わった情報を政宗が記した書状から確認できる
因みに南宮山は家康の手勢で攻撃する予定だった
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 18:37:35.89:DRNBmDel

大垣の宇喜多・石田隊2万は少なすぎると思う
宇喜多は57万石、石田、小西は各20万石
3人だけで通常の動員でも3万人くらいはいたと思う。
真田昌幸に宛てた手紙の数字ともかけ離れている。
人間七七四年 [] 2017/09/11(月) 18:41:14.06:DRNBmDel

旧記雑録って素人が簡単に閲覧できるのかな
俺も読んでみたい
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 18:49:19.53:NI9S8d5p

石田は岐阜城に出した援軍が崩壊してるし、宇喜多は宇喜多騒動のダメージから全く回復しておらず、クーデター直後に京で大慌てで浪人を募集する始末。
さらに岐阜城陥落で西軍では足軽たちの脱走が起こっていたのは当時の記録からも察せられる。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 18:55:42.73:ju2qrVE0
東軍は大垣城を素通りして関が原に西向きに布陣した
西軍は東軍の脇をすり抜けて追い越してわざわざ東軍の正面に布陣した
なぜ西軍は東軍の後ろにいたのにそのまま後ろから襲わなかったか?
ホント不思議
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 18:56:51.71:ju2qrVE0
そしてなぜ東軍は徳川本隊が西軍から直接襲われないと高を括れたのか?
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:00:38.21:9dqNj2h8
松尾山は元々城跡で砦とかあって守ることも出来るし大軍を一気に動かすこともできるけど、
南宮山は大軍を動かすのは難しいみたいだったみたいだな。

山から降りる場合は大軍を一気にというのは難しいみたいだ。
下手に降りたら少しづつ狙い撃ちをされるのではないか。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:00:46.87:DRNBmDel

基本的に西軍の戦力が弱かったってのはあまり異論は
ないのだが、数字の根拠としては疑問だなってところ

石田勢は岐阜城攻防戦では大して戦ってない。
むしろ兵を小出しにして岐阜城を失ったようなもんだ。

宇喜多は質はともあれ頭数は揃えてたんじゃないのかな。
脱走とはいってもそんな何割も脱走するような事態に
なったらもう軍は崩壊だろう。

大垣勢がもしそんなにボロボロだったら、白峰氏が寄稿文で
推理したように、大垣城を出て関ヶ原方面から家康勢(南宮山攻撃)
を側面攻撃するなんて作戦は成り立たないんじゃないか。

むしろ、素直に「佐和山に逃亡するつもりだった」説の方が
説得力を感じる。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:27:28.29:9dqNj2h8

だから白峰の説によると広家のほうから停戦交渉をして条約を結んだ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:31:10.61:9dqNj2h8
白峰の論文は自分も立ち読みで少しあやふやだけど、
三成たちは佐和山に撤退するために関ヶ原の少し後ろの中山に陣を敷いたと
書いてなかったか?

側面攻撃するなんてあったか?
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:34:22.62:ju2qrVE0

広家の話じゃない
大垣城にいた三成その他のこと

三成らが大垣城をでるときには東軍は大垣城を通り越して大垣城に後ろを見せて西に向かってた
人間七七四年 [] 2017/09/11(月) 19:35:32.92:DRNBmDel

佐和山撤退説は樋口氏の説じゃなかったかな
人間七七四年 [] 2017/09/11(月) 19:41:54.41:DRNBmDel
歴史群像での白峰氏の説は側面攻撃で南宮山を支援するもの。支援対象の毛利勢が降伏して自分が主目標に切り替わったのに気付かず不意討ちを食らったと筋書きしている。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:44:36.69:ju2qrVE0
ここでは陽動とか書いてるけど
普通後ろを見せて行軍中の敵がいたらそれを後ろから襲うことをまず考えるだろ?
しかも黒田ら先鋒は家康より西に行ってるわけで家康を直接襲撃できる
なぜわざわざ全軍強行軍で布陣済みの敵の正面に回って戦う必要がある?
家康とて後ろから襲われない確信がないとこんなことはできないはずでいったいそれは何か?

ttp://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/feint.html
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 19:49:58.08:ju2qrVE0
上記URLでは西軍が先に動いたように書いてるが、そこまで西軍が間抜けだったとも思えないし
籠城態勢の軍勢が東軍が全く動いてないのに全軍城を出るとは思えない
もし西軍が先に城を出たとしてもそれなら東軍は西軍が大垣城を出終わったところで襲えばいいだけにおもえる
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 20:29:29.45:ClmzAENT

大垣城は小規模らしいから2万が籠城なら納得できる気がする
石田の大垣軍が有効な兵力なら家康先手衆に包囲されて無力化されないだろうし
京極が西軍に見切りつけて大津籠城するくらいだし、美濃方面西軍は東軍の半分くらいの総力はアリかと
人間七七四年 [] 2017/09/11(月) 20:32:40.60:KyXtiPKv
大垣城から見たら東軍が街道を封鎖して兵糧攻めの準備を始めたように見えたので、完全包囲される前に夜陰に紛れて慌てて脱出。
関ヶ原で陣を整えて取りあえず戦闘可能な状態にはしておいた
東軍の方は同士討ちするとまずいから夜間戦闘は避けたのでは
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:02:45.29:E4gjPWE7
大津城攻めの軍勢との合流を考えていたとか
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:10:09.26:/yIZ+fV7

『旧記雑録』は「図書館向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可能
ttp://www.ndl.go.jp/jp/service/digital/index.html
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:18:57.07:6VwNwB9f
秀忠「」
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:22:17.65:DRNBmDel



それぞれ在り得る解釈だと思う。
ただし、大垣城が包囲されてるのに2週間も放置した西軍てどうよ?
田辺城は籠城500人に1万以上(らしい)
大津城は籠城2000人に1万5千でしょ。
前線が包囲されるほど劣勢だったら田辺も大津も包囲戦力だけ
残して大垣周辺に詰めるんじゃないのかな。
私見としては家康が到着するまでは戦力は拮抗程度じゃなかったのかなぁと。


ありがとさんです。早速見てみます。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:23:09.22:/yIZ+fV7

一応言うけど、図書館で無いと見れないから
人間七七四年 [] 2017/09/11(月) 21:30:08.75:DRNBmDel

そうみたいですね。
デジタルコレクションではないのですね。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:32:58.76:cMzkO7tw
あ、囲まれるだけで落とされることはないんだ。と第二第三の大津城が
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:34:15.48:/yIZ+fV7

著作権保護期間なので仕方がないです
人間七七四年 [] 2017/09/11(月) 21:50:03.58:KyXtiPKv

三成からしたら、いつ来るかわからない秀忠軍もかなりの脅威では
大垣に留まったまま秀忠軍到着で身動きを封じられたまま西軍諸隊を各個撃破されながら飢えるとか最悪ですし
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 21:53:16.83:E4gjPWE7
小早川の動向が定かではないっていうのも西軍の戦略に影を落としてるような
仮に家康の背後を襲って東軍の西上を足止めできたとして小早川が東軍に付いたら
やはり近江との連絡を遮断されてしまう恐れが大きいから
人間七七四年 [saga] 2017/09/11(月) 22:42:22.85:DRNBmDel


西軍は初動は良くても関東勢が転進して来てからは戦略的に完敗している印象だなぁ。

俺、個人的には白峰教授のアンチ家康の執念が苦手なんだけど、
この人の研究って史料を重ねるほどに家康の完勝像が浮かび上がる
気がしてならない。
人間七七四年 [sage] 2017/09/11(月) 23:40:44.45:9dqNj2h8
真夜中に大規模な戦闘は行わないものってこのスレの少し前に言っているじゃん。
まだ言っているのかよ。

東軍は西軍が動いたのを聞いてから動いたはそれでいいんじゃないの。
三成はマヌケだったというか、ルートを遮断されるのが怖かったのだろう。
松尾山をもう裏切るのを確定している小早川に取られたし。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 00:06:24.65:Oj0RNqep

秀忠軍の存在を知っていればね。
家康軍が目の前に来るまで気づかなかったのだから
秀忠軍の存在なんて知らなかったのではないか。

真田との交信は8月10日で終わっているし。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 00:10:34.87:Oj0RNqep

あやふやで悪いけど白峰説によると小早川の裏切りは確定的であの地域の最重要拠点
である松尾山を取られたのが大きいみたいなことを書いてあったな。

三成は松尾山をもっと強力な軍勢で固めておくべきだったんだよな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 00:20:33.43:jrqBmuv0
松尾新城は二層三階の天守閣をもち、本丸、西の丸、佐渡丸、石見丸、紀伊丸、越中丸が設営された大規模な要塞である
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 01:53:38.54:6C62tfm1
基本的に徳川史観は強敵○○をブッ倒した神君家康公はネ申!!理論だから
実体を暴くと実は余裕のよっちゃんイカだったというのは想像に難くなかったな
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 03:50:10.72:Uyb5DszF
なんか掘れば掘るほど関ヶ原本戦消化試合説っぽくなってしまうな
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 12:54:11.88:ajAVKt/+
輝元の兵は大坂城に何人くらいいたのかな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 13:05:41.01:TRT+0UJw
余裕すぎて秀忠を待つ猶予すらなくなって
結果的に豊臣恩顧の武将らに多くの恩賞を与える羽目になったという
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 13:31:17.77:6C62tfm1
そのばら撒いた恩賞を改易で取り返す将軍秀忠ぐう有能
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 14:11:26.17:ajAVKt/+
豊臣恩顧の武将に手柄を立てさせて所領を与えたから豊臣恩顧はその時は利用されただけということに気付かなかったんじゃん。

関ヶ原で手柄も領土も徳川武将に与えたらあとで揉めるに決まっている。
笠谷とかいう学者もそうだが家康の高等戦略を分かっていないよね。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 14:14:14.38:pg+BwzUM
ただ公正だっただけやろ
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 14:17:42.00:ajAVKt/+
福島なんて関ヶ原のとき自分の家来が侮辱を受けて切腹したから徳川の旗本を切腹しろと要求して通したんだろう。

あとからだと考えられないけど、この時家康は我慢していたんだろうな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 15:04:45.26:qolPM7bT
まだ豊臣体制だった

その時のこともあってか
徹底的にマークされるようになった
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 17:31:04.68:5H6tJUSN
普通に徳川の軍勢も活躍しているから問題ないでしょ
豊臣恩顧「しか」活躍していないなんて根拠ないし
豊臣恩顧「が」活躍したのは外様が先鋒という慣例上当然だし
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 18:07:08.27:2gXu+m0A
東軍としては反乱軍を豊臣正規軍が討つ構図だから恩顧が主力なのは当然なんだよね
人間七七四年 [sega] 2017/09/12(火) 18:07:30.96:iu1Y7hwi
二重公儀論の笠谷氏は外様の加増率が高いと指摘しているが、
徳川家も譜代と息子の大名を含めると600万石相当にはなっている。
加増率では決して劣ってはいない。その後、金山や貿易港の奉行職も掌握。
これ以上取ると独り占めに対する反発が出かねないんではないか。

論功行賞で家康の気にした点は戦後体制をいかに維持していくかだと思うよ。
現実的には改易処分が決まった途端大名の将兵が消滅するわけでもないし、
徳川系の部将に加増したところで、突然訓練済みの軍隊が湧いてくるわけでもない。

関ケ原の戦役では、上杉や毛利のように兵力を温存したまま改易・減封された
大名が多い。もし豊臣恩顧の大名たちが恩賞に不満をもって元西軍と結託すると
徳川の将兵だけでは抑えきれなくなる。占領地を支配し続けるためには豊臣恩顧
大名の訓練済みの軍隊の力も必要だろう。

加増転封された豊臣大名たちは、敵地の占領軍だから支配基盤が弱い。下手を
すれば一揆がおきるから、支配を軌道に乗せるまでは徳川のバックアップが欲しい。
家康にしては、遠方の敵方の領地などという支配コストのかかる土地に徳川の軍事力
を割くのが惜しい。

家康としては覇権を握るためには当面は江戸から京都までを確保出来れば十分だった
のだと思う。上手い事相互利益が成り立つ論功行賞をしたもんだと思うよ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 18:12:07.18:pg+BwzUM
史料上豊臣恩顧を狙い撃ちで改易したなんてことは無いからな
譜代も容赦無くバッサバッサな時代で外様は割と手を尽くして残そうとしてる
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 18:49:24.52:ePqXIWmz

口が裂けても徳川公儀から
そんなこと言えないからな。

お前は豊臣恩顧だから改易すると。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 19:31:55.79:5H6tJUSN

譜代の方がより容赦なく改易されているが
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 19:48:13.58:yOsPm+1R

関ヶ原の時点では豊臣内部の争いじゃないの?
普通はそう思われてるだろうから豊臣恩顧が外様って表現は違和感がある
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 19:48:29.28:iu1Y7hwi
実際のところ、豊臣恩顧で狙い撃ちで改易された疑いがあるのは福島正則ぐらい
じゃないんか。大坂の陣の時には大坂方の蔵米摂取や、一門の大坂参陣を黙認
したり、それまでの態度でそれなりに失点は重ねてるんだよ。

加藤清正の息子の忠広は豊臣滅亡後16年後だから最早関係ないと思うわ。
忠広は相続時に幼少で幕府にテコ入れしてもらいながらなんとか成人まで家が
回るように後見して貰ってるくらい。家康の外孫の婿だし、むしろ徳川大名と
言っていいほど庇護下にある。幕府にその気があればいつでも改易できた。

あとはだいたい無継嗣断絶。
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 20:09:53.33:kseKzp1w
福島家も大名としては改易されたけど、のちに高級旗本として取り立てられているんだよね
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 20:10:30.24:5H6tJUSN

そういう理屈だと、譜代大名は当時の基準では徳川陪臣になるけど、
人間七七四年 [] 2017/09/12(火) 20:31:07.49:ePqXIWmz
バランスを取りながら一番厄介なのを潰す賢いやり方だな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 20:39:35.92:jrqBmuv0
加藤忠広は、家光と将軍の座を争って命を落とした、駿河大納言忠長卿に近かったとされるうえ、加藤光広が偽造手紙で火遊びをしたため、取り潰しのターゲットになった
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 21:00:01.26:yOsPm+1R

豊臣からみれば陪臣でいいんじゃない?
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 22:10:18.44:MuHUW9pU
>>534
俗説とかだと徳川の陰謀で改易された豊臣恩顧の大名と言うと
福島と両加藤がよく名前が挙がるけど、加藤嘉明の家系の方は
明治維新まで近江水口の大名として続いているんだよな
三成の息子達だって助命されてるし
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 22:20:49.59:45HDMU9R
両加藤は藤堂高虎が死んで庇ってくれる人が居なくなったからな
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 22:25:01.46:5H6tJUSN

豊臣からの視点が全国的なのは関ヶ原合戦までで、
加増後はもう違うし
人間七七四年 [sage] 2017/09/12(火) 23:02:02.50:iu1Y7hwi
加藤嘉明は家康外孫の蒲生忠知と入れ替わりで会津43万石を任されてるしな、
平和な時代には珍しい栄転、幕府が敵視してたらそんな矛盾したことはしない。
息子の明成の改易は家光時代だし、原因は豊臣系とは無関係だと思う。
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 00:09:15.60:2oeaCXco
熊本加藤、福島の跡には細川浅野が加増転封やでな。豊臣恩顧の力をそぐなんてやってないな
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 00:42:50.06:RlELXajZ
豊前小倉37万石の細川家に加増の打診があったが、豊前のまま加増、筑前に転封、長門周防に転封、肥後に転封のいくつかの選択肢があった
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 03:09:51.22:HVCG2dBe
両加藤と福島で約150万石を回収出来たんだろうw
まあ、これだけ回収出来ればあとの雑魚はどうでもいいよな。

3人とも7本か。

まあ、同じ豊臣恩顧と言ってもこいつらと細川は性格が全然違うよな。
浅野も長政が冤罪で隠居してからは家康に近侍していたらしいし。
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 03:16:41.76:HVCG2dBe
まあ、福島は置いとくとして両加藤の後継者は両方とも暗愚だったらしいな。
秀吉の子飼なんてアホが多いから潰されたのは偶然かもしれないけど、
そもそもが大名になる血筋ではなかったのかもしれないな。
人間七七四年 [] 2017/09/13(水) 20:29:26.45:/Om8WE09

黒田基樹によると片桐家の大坂城での権限は大きく
秀頼の書状の添状発給者など取次者が見える131通の内
片桐家が取次を務めているのが121通(内且元が100通
弟の貞隆が21通)で大坂城門の番所の7カ所の内
6カ所を片桐家が管理(うち5カ所を且元が、1カ所を貞隆が管理
ちなみに残り1カ所は有楽が管理)してる有様で
この片桐家が家康の管理下なら豊臣はとても公儀とは言えないだろう
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 20:39:13.65:bLgvrIo0
父が貴族の細川、腐っても武士階級の黒田と違って
農民の加藤や福島ではね
まともな教育もできてないだろうし改易も仕方ない

土民が一時でも良い夢を見れた・・・というべきか
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 22:08:31.28:avTxsCrX

そんなパワーバランスなのによく二回も反抗したな
浅間山荘かよ
人間七七四年 [sage] 2017/09/13(水) 23:14:14.10:axli7Sqv
大坂の陣で江戸留め置きされたのは
福島正則・黒田長政・加藤嘉明だっけか。

特に黒田は何度も誓詞提出させた上での江戸留め置きで
どんだけ警戒されてたんだよって言う
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 02:07:34.06:D1efsoX1
そういう>545の家柄は旧華族様だったりするのかしらん?
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 06:38:44.65:6dzt0Mmf
sageなしから荒らすのは菅沼の手口だと言うのに...
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 07:42:50.58:hSqk/95k
黒田なんか忠臣なのに…
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 09:41:48.80:UKWN3A4P
黒田は黒田騒動の時長政のおかげで改易避けられたし
大坂の陣でも藩としては忠之が代わりに出陣してるしなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 10:22:23.79:zxx4eeTQ

貴族
武士
農民
土民

おまえ階級を表す言葉の使い方全部間違えてるぞ
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 12:09:33.54:0l5orMPC
>父が貴族の細川

細川澄之だな…
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 18:55:34.02:c6aQE1nV
加藤清正の息子は熊本城を恐れられてでっち上げで潰されたのだろうな。
熊本城は要塞みたいなものだからな。あんなのを暗愚の武将に住ませたら
怖いよな。

加藤清正は身分不相応の城を作って子孫が没落したということかもしれない。
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 19:18:55.01:iI4LLE4q
加藤嘉明は、関ヶ原の恩賞が10万石から20万石と、パッとしないことに不服を持ち、本多正信に文句を言ったらしいが、貴殿が大禄を食めば必ず禍を招く、といって慰留された
25年経ってから会津若松に石高倍増で40万石にて移転した。正信の危惧が的中したわけでもなかろうが、息子の代で没落してしまった
人間七七四年 [] 2017/09/14(木) 19:30:38.02:xV+UtLO9

熊本城を恐れるねぇ。
堅城かもしれんけど地勢的にそんなに要地じゃないんだよなぁ。

代々譜代の名門が入った姫路とか大和郡山なんかと比べると
外様の細川に任せっぱなしだったことを考えると、幕府が
そこまで気にしたとは思えないけど。

家光の時代になると豊臣の残滓とかは大した問題じゃなくて
本当の脅威は身内になってくる。徳川忠長とか御三家とか。
忠広の場合は秀忠の死去、忠長の蟄居と同年だから、
自身がターゲットというより忠長の粛清に巻き込まれたんだろう。
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 20:23:50.03:zxx4eeTQ
熊本城はほぼ対薩摩専用で、薩摩方面以外の防御はガバガバ
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 20:34:26.89:SKGUBDiX
清正は島津大嫌いだったみたいだしな。
伊集院支援してるし、関ヶ原後の島津討伐も加藤黒田連合軍だけで実行する気満々だったし。
家康のストップ指示で取り止めたけど、
井伊相手に盛大不満ぶちまけてるしな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 20:52:28.08:cdFbG2hs
でも、細川氏の移封後の熊本城は
修理を頻繁にしてような…
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 21:03:12.60:zxx4eeTQ
つーか清正時代の熊本城は、ほぼ今の本丸だけの比較的小規模な城。現在の規模に拡張されたのは細川時代
人間七七四年 [] 2017/09/14(木) 22:07:37.73:rJ8KBWQS
織田上総高ころびの安国寺も自分の未来は予見できなかったが
鬼上官も国許で何やってたんだろうな。 如水ばかり目立ってw
人間七七四年 [sage] 2017/09/14(木) 22:24:32.75:xV+UtLO9

本丸というと語弊があるな。
だいたい震災前の有料区間が清正時代。
櫨方門から五連の桝形を連ねた大手通路は清正の傑作。
決して小さな城ではないが、敷地面積をほとんど石垣の起伏と
通路が占めてしまって居住スペースが非常に狭かった。
平和な時代の政庁には全く不向きだったので、細川時代には
平城の二の丸、三の丸が整備された。
人間七七四年 [] 2017/09/15(金) 01:25:18.12:Reb27X8A
西南戦争で燃えてアレしたらしいねw
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 06:07:12.82:PVUrhvOC
sageなしから荒らすのは菅沼の手口だと言うのに...
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 08:44:53.02:9VUU57ej
白川新説で思ったけど、西軍の大垣〜松尾山〜南宮山のラインが防衛線にするには頼りなさすぎない?
もっと他で迎撃すればよかったのに思うけど、近江は守りにくいんですかね
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 10:47:31.12:vKSxZ6mC
三成が自領を荒らされるのを嫌ったんでしょう
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 12:08:56.43:6j2TuJ3+
長浜-佐和山ラインまで下がっても有利になる理由が見当たらん
瀬田まで下がれば大津包囲軍と合流できるし大阪も近くなるがもうただの撤退レベルやし
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 12:12:39.85:aY7SC4kI
東からの敵軍に近江に侵入された畿内の政権は大半が崩壊している
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 12:31:29.96:/u2lyUEE
佐和山まで下がると伊勢伊賀大和方面がカバーできなくなるからじゃないの
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 12:36:49.91:udyCSoV4
関ヶ原は伝統的な要衝
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 12:41:32.59:1CqQXk+D

どの時点かによるけど、大垣と赤坂で戦力が拮抗している状況で
大垣城を捨てる選択をすると士気・威信にかなり悪影響だと思う。
離反者も出やすくなる。

関ヶ原は古来不破の関があった場所で、東山道を進む敵を迎撃するには
悪くない地形ではある。隘路だから寡兵でも包囲される心配が薄い。
松尾山に信用のできる者が入っていれば固かっただろうね。

できるだけ大垣で粘って各所の西軍の集結を待つつもりだったんだろ。
しかし先に到着したのは家康軍だったと。

家康が着陣した後では、大垣から撤退するつもりだったかもしれんね。
関ケ原の合戦は西軍が意図した決戦ではなくて、繰り引きする西軍を
東軍が補足殲滅したものとする見解もある。
人間七七四年 [] 2017/09/15(金) 13:27:28.28:KkWSsLUV

熊本が重要拠点でなくてもこんなとこで
謀反お起こしたりキリシタンに奪われたら大変だろう。

それと本丸は居住性を無視した
要塞なみの防御力だつたらしい。
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 16:03:07.92:zU1tlw9o

>謀反お起こしたりキリシタンに奪われたら大変だろう。

どこでも大変だとおもう
人間七七四年 [] 2017/09/15(金) 18:15:00.61:1CqQXk+D


加藤忠広の改易はそもそも島原の乱がおこる前や。
キリシタン対策をして、別のところで起きた。
すげえズレた先見の明だったな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 18:17:03.99:6j2TuJ3+
熊本にそんなにキリシタン居るんかい?
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 18:58:13.68:zU1tlw9o

天草は熊本の対岸で同じ肥後国だからかな?
まあ、どこだろうと謀反おきたりキリシタンに占拠されたら
大変だなあと思っただけで…
加藤家は普通に統治能力不足で改易されただけだとおもうわ
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 20:47:46.31:FI+VvkX2
藤堂高虎は肥後熊本藩加藤家、讃岐高松藩生駒家、会津若松藩蒲生家など、多数の外様大名の政務輔翼の役割を担当したが、高虎が死去すると皆さん改易
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 20:56:04.78:OQEtQBII
>575
小西旧領もあるから細川時代にも影響は当然残ってた模様
人間七七四年 [] 2017/09/15(金) 21:20:33.78:vze0jST7
戦友たちの遺した二世三世を守っていた・・・というのは高虎らしくないな

幕府の命で、自分の死後にまとめて処分できるように暗躍していたんだろう

そういう人間だよ彼は

出世のためなら自分以外の人間を全て売り渡す人非人だ
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 21:23:27.94:6j2TuJ3+
小説かな
人間七七四年 [sage] 2017/09/15(金) 22:54:37.81:1CqQXk+D
そもそも蒲生家は無継嗣断絶
家康の外孫の家系で池田家並みの扱い。名字だけで判断する奴ぁ勉強が足らん。

蒲生秀行は家康の三女振姫の婿 関ケ原後家康の後ろ盾で旧領会津60万石に復帰
蒲生忠郷、忠知は二人の息子、家康の外孫。秀行は1612年30歳で病死。
忠郷相続時は10歳で60万石の差配は困難だったが、家康の肝煎りで存続。

1627年 忠郷病死 疱瘡と伝わる 継嗣なし 
末期養子の禁の原則に反して弟忠知が継承、会津60万石から松山24万石に
1632年 藤堂高虎死去
1634年 忠知病死 27歳 継嗣なしにつき除封

毒殺だとでもいうのでなければ蒲生家の除封と高虎や幕府の意向は関係ないと思うぞ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/16(土) 01:06:21.80:g6iQ0YwS
sageなしから荒らすのは菅沼の手口だと言うのに...
人間七七四年 [sage] 2017/09/16(土) 18:12:05.53:AL4M0uQP
結局徳川と信長秀吉の差は譜代家臣の扱いだったような気がするな
バンバンよそから引き抜く、育てていくって改革が死後を考えると結局は上手く回らなかった
個人には従順でも家には仕えてくれない奴等
北條今川武田など滅亡後の人材拾いも怠らなかった。つかそれ自体北條のパクりだよな
人間七七四年 [sage] 2017/09/16(土) 18:24:13.34:b0dr/KQI
北条もある意味、今川のパクリだし、武田も
全ては今川に通じる
人間七七四年 [sage] 2017/09/16(土) 18:40:35.74:J9kwqrSX
秀吉の場合、大名の陪臣でこれぞと思った武将を独立の大名にしたり、豊臣姓を乱発したりするのがせいぜいだった
七本槍も実際の活躍の有無より俺にも直臣がいます的な宣伝目当てだったし
人間七七四年 [sage] 2017/09/16(土) 18:53:25.18:GRuAJ6Jq
豊臣性乱発ってありがたみ全然ないよな
現代の我らもほとんど触れないじゃん?いまひとつだな
人間七七四年 [sage] 2017/09/16(土) 18:58:21.11:ZV6/dxJa

徳川だって、井伊とかの今川・武田の旧臣も取り込んでるよ。
全部譜代だけで回してたわけじゃない。
人間七七四年 [sage] 2017/09/17(日) 11:56:28.21:RGtcI4lK
笠谷の関ヶ原を読んだけど、笠原の二重公儀制説って噴飯ものだったな。

あんなの秀吉厨のアホな関西人でも2chに書かかない代物で突っ込む気にもならないけど、
笠原はあの説をみんなに笑われて撤回したのかね。

笠原は兵庫県出身で京都大らしいけど、関西人は変なバイアスが掛かってこういう作業には
向かないよな。
もしくは歴史学者のレベルが著しく低いのか。

笠原は二重公儀制を唱えるなら公儀というものはどういうものか、ある程度の定義をしない
と話が混乱するだけだよな。笠原自身が公儀とは何かという認識が曖昧で話が二条城で
どっちが上座というかどうでもいい話で空中戦をしているマヌケな感じだよな。

そもそも笠原は権威と権力の違いを分かっていないよな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/17(日) 12:19:08.67:RGtcI4lK
自分は歴史の素人だけど自分の解釈だと関ヶ原以降の豊臣家というのは徳川幕藩体制の初期
にあった特異な存在という感じかな。
笠原が言う豊臣家と他の大名と違い別格の存在だったのは大名でありながら摂関家の
性格も持っていたということだろうな。

秀吉死後はまだ豊臣家に関白就任の優先権があったけど、関ヶ原以降の九条兼孝の
関白就任で豊臣家の優先権は失われて他の摂関家と同列になったと解釈するべきだよな。
それでも大名でありながらも摂関家でもある立場は失っていない。

家康の征夷大将軍任命で武士の棟梁の立場も失われ、秀忠が二代就任ということで
征夷大将軍も徳川家で世襲されるものとなり、結局は家康は豊臣家の持っていた権力ではなく
権威を段階的に落としていってということだよな。

だから大坂の陣では豊臣側に付く大名は誰もいないで徳川家に恨みのある輩衆の集まりで
戦うしかなくなるということだな。

つまり家康は関ヶ原の合戦で権力は手中にしたけど、権威はまだ豊臣家にもあったから、
それを削ぐ動きをしていたということだな。

それを分からずに能天気に二重公儀制とか言っているアホ歴史学者はお目出たいというか
三成なみのアホだな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/17(日) 12:28:49.56:RGtcI4lK
東洋経済の記事で鎌倉幕府の成立は1192年ではないというのが最近の学説で
歴史学は進歩しているみたいな書き方をしていたから読んでいたけど、
単に1192以前に頼朝の政治体制は出来ていたから1192年だはないという論拠らしいけど、
そもそも幕府の定義がされていないから話が曖昧だよな。
何をもって幕府なのかということを書いていねくて、1192年だはないとか言っているマヌケさ。

自分は朝廷から征夷大将軍を任命されたのが幕府の始まりだと思っていたけど、
そうではなければ、そこを突っ込んでもらわないとな。


だけど、一般素人は、鎌倉幕府がいつからというより、鎌倉、室町、江戸を
幕府というけどその共通点と性格の違いとかを知りたいよな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/17(日) 20:02:57.33:SQZyW1Xo
笠谷は福島家改易や肥後加藤家改易の徳川陰謀論を否定したりしたりしているので
豊臣贔屓って訳じゃ無いと思うけど、なんか史料の解釈が偏ってたり、
いまだに古い説を引きずったりしてるところがあるのがなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/09/17(日) 23:02:35.94:D+PaGkYF
笠谷氏は明らかに家康好きだよ。著書のタイトル見ればわかる。
『徳川家康:われ一人腹を切て、万民を助くべし 』(ミネルヴァ日本評伝選)
今年の出版物。

ただ、この方の家康像は仁徳の人なんだよ。
たぶん研究の目標は家康の悪人的イメージを緩和することであって、
その結果家康の武人・政治家としての評価は下がっても良いというスタンス。

笠谷氏の主張する二重公儀論は、家康が一大名になり下がった豊臣家を
イビリ殺したというイメージを覆したくて展開しているように見える。
そのために関ケ原合戦後の徳川家の体制が盤石ではなく、危ういバランスの
上に成り立っていたことを描き出そうとしている。

豊臣家に一定の影響力が残ったことや、関ケ原合戦後の体制が盤石では
なかったことは事実だろうし、納得できる部分もあろうが、二重公儀体制は
豊臣の過大評価であろうし、関ケ原合戦の論功行賞が徳川にとって不本意な
内容であったというのも過小評価だと思う。

実際、後発の研究者たちの提示する一次史料から、関ケ原の合戦の本戦自体は
大して苦戦していないらしいことが分かってきているので、それが論功行賞で
豊臣恩顧有利に働いたとか、200年も続く江戸時代の分権社会を決定づけた
という論理展開には疑義が生じてきている。
人間七七四年 [sage] 2017/09/17(日) 23:15:51.18:0LJAT2cV
菅沼ポエム劇場だな
人間七七四年 [sage] 2017/09/18(月) 08:14:17.58:eHh0hgkW
豊臣家を幕藩体制黎明期の例外的な存在として扱うならいいけどな。

この時代に摂関家の大名というのは珍しいからな。
(この時代なのか、どの時代を通じてもか分からないけど)
人間七七四年 [sage] 2017/09/18(月) 08:19:35.82:eHh0hgkW
自分が思うに江戸時代までの公儀(公権力)の力で大きいのは知行の配分権だよな。

関ヶ原以降家康がそれを掌握したのが大きいよな。
豊臣恩顧に3分の2の領土がいったと言っても、それを配分できるのは
徳川のほぼ独断だからな(まあ、大義とかの理屈はある程度必要だが)。
人間七七四年 [] 2017/09/18(月) 08:58:34.28:eHh0hgkW
3分の1の間違いだなww
人間七七四年 [sage] 2017/09/18(月) 10:24:16.35:h0ioN/Wo
ttps://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51KyS6XD9yL._SX351_BO1,204,203,200_.jpg

ついにゴップが表紙に!
思えば遠くへ来たもんだ
人間七七四年 [sage] 2017/09/18(月) 10:24:47.79:h0ioN/Wo
スレチ失礼
人間七七四年 [sage] 2017/09/18(月) 22:21:17.52:P5X24paE
関ヶ原以降羽柴の苗字をある程度の期間まだ使用していたり「秀」を偏瑋で貰ってたり
祈祷の際豊臣氏の人々を徳川家の人々より優先したりしている大名がいて
それが豊臣の影響がまだあったみたいに言っている人間もいるけど
羽柴の苗字を使用している池田輝政が徳川家の取次をやって近衛信尹がそれはおかしいと
不満を言っているくらいだしなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/09/18(月) 23:09:58.74:43pK4AT3
笠原はちょっと前に自説を集めた本出してたから
二重公儀もそのまま主張してるよね。
あれはあれでまとまってるから読みやすくていいわ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/19(火) 10:57:05.24:O1Kd/srw

輝政とか家康の婿と福島との先陣争いくらいしか目立った逸話ないのに勝ち組だよね
人間七七四年 [] 2017/09/22(金) 09:05:07.76:ROqK8qH1
家康の関東移封後に秀吉によって東海に配置された大名家の中で、勝ち組は池田と山内くらいか
人間七七四年 [sage] 2017/09/22(金) 10:10:26.31:28jNCVD5
横須賀の有馬
人間七七四年 [sage] 2017/09/24(日) 20:16:35.45:eimyIy9m

家康好きねぇ。なんか作家とか研究者で家康を運が良い
もしくは忍耐が強いだけの凡人にしたがる人が多いからなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/09/25(月) 10:39:14.49:Yv5QrDSm
逆に秀吉死後の政争は一から十まで家康の構想通りっていう、
深謀遠慮の化け物にしたがる人もいるから。

極端な人は何処に出もいる
人間七七四年 [sage] 2017/09/25(月) 10:47:50.22:lumtRpD8
白峰か
人間七七四年 [sage] 2017/09/25(月) 11:37:26.62:ryK1DQ4l
家康は戦略慎重、戦術大胆の人だから
人間七七四年 [sage] 2017/09/25(月) 22:08:30.97:SVc7IQLl
戦場では結構短期らしいからな、家康
爪かじったり、手がボロボロになるまで
鞍叩いたり、前線に顔出したりしたらしいし
それらを考えると、関ヶ原で使番に切りつけたり
旗の竿切ったりしても全然おかしくはないんだよな
人間七七四年 [sage] 2017/09/25(月) 23:43:43.93:48uk4Xk/
そういうのは大胆の証じゃなく、むしろ逆だな。
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 12:30:07.31:ekvlaez4
黒田家譜のフィクションなのにな
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 13:05:52.69:GEUUzO/d
板坂卜斎覚書が出典だよ、使番や旗竿は
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 17:51:48.70:MoqyhZHA
昨今では家康は、いわゆる関ヶ原の決戦の時はまだ進軍中だった説が出ていて、一次史料から見るとこれが信憑性高く、
ということは「板坂卜斎覚書」はフィクションだという結論に成る
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 18:43:32.01:GEUUzO/d
家康が指揮を執った明確な記述がないから、一次史料に無いというのは、
白峰がよくやる論法

小山評定否定でも同じことした
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 18:57:36.99:i9IUUtQh
実際小山評定はあったかどうかわからないけどな
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 20:51:48.64:nZiiPfg9

その説は初めて聞いた。
進軍中ってどこを?
さすがに岡山の本陣には到着してるよね


白峰氏は通説否定までの論証はそれなりに見るべきものがある。
だが、自分の見解を述べる段では論理飛躍が激しい。
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 21:44:26.76:GEUUzO/d

小山で何らかの軍議があり、結果として会津征伐中止と上洛が決定したのは、
事実と見られこれだけ事実だと、後の逸話が史実が否かは大した問題ではない
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 22:04:32.88:i9IUUtQh
5W1Hがはっきりしない手紙1通でそう結論付けるのこそこじつけ
人間七七四年 [sage] 2017/09/26(火) 23:22:37.85:GEUUzO/d

そんな懇切丁寧な史料が常にあるという歴史認識なら、
白峰の大学教授という看板も随分と安くなったものだな
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 00:50:44.20:oHqeGRVL
白峰も地に落ちたものだな
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 07:15:12.05:DqUUKOTt
白峰氏の史料解釈はいつもおかしいからなー。

関ヶ原関連だと発給者の違う書状で地名が統一的であるべきだと前提が異常。
そして言葉遊びに成り下がっていると言うお粗末さ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 07:46:38.79:vQvWn2Cr
発想が2ちゃんねる以下なんだよね

分析はいいんで分析専門にしたほうがいい
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 07:57:59.02:sqTYPIB+
ここは白峰って出た瞬間に必死で叩くキチガイがはりついてんからね
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 08:14:38.43:PoBZAyK0
そりゃ、ネット界隈でそんなこと主張したら、即座に袋叩きされる根拠で、
新説を語るんだもん、しかも大学教授が論文で

矢部健太郎も同類だけど
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 08:26:32.77:DqUUKOTt

むしろ白峰氏の説をネタにして荒らしてやろってケースばかりなのだが
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 08:31:47.05:sqTYPIB+
ほらねw
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 09:06:09.91:NG+R9rNT
教授とは思えない

というか判断能力が低い
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 09:10:11.66:r6PC5JI+

日本語理解してる?
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 10:00:16.36:GAh7jTj7
白峰は仕方ないだろ
上杉征伐から西上への変更と意思決定がどのように行われたかを何ら明らかにするものではなく、
小山評定の家康がカッコよすぎるから否定したいという動機しか見当たらないから、
2ちゃんねる以下と評されるのは仕方ない
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 12:40:53.87:Dk1wt+Ts
問鉄砲の件とかの通説否定の史料検証は割と良いと思うけどね白峰さん。

ただ小山会議のアレは引っ込みが付かなくなってるだけな気がすw
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 12:55:27.95:oHqeGRVL
小山評定は石田が大谷ら与党を誘って兵をあげたことを前提にした会議で、二大老三奉行が同心したことを前提にしたものでは無かった
それゆえに家康は江戸に留まって清洲の兵が進軍して隔意なきことを示すのを待っていたのである
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 12:59:09.17:my195MJK
白峰説は専用スレがあるからそこでやれ
毎回ぶり返すのも同じ奴なんだろうけど付き合うのもばかばかしい
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 13:02:44.17:sqTYPIB+
いやココが白峰スレだからw
白峰の著作がスレタイじゃんww
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 14:23:48.44:4yrL+j13
白峰氏の関ヶ原に関する主張って
小山評定はなく、東軍の西上は家康の一決で決まった
西軍が官軍
小早川の開戦当初から東軍
問鉄砲はなかった
大谷軍は開戦初期に挟撃され全滅、西軍諸将の中で大谷だけ戦死なのはその為
戦場が移動して西軍も早々に敗北
あたりかな
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 14:27:57.48:sqTYPIB+
注目に値する
 小山評定はない
 小早川の開戦当初から東軍
 問鉄砲はなかった
 大谷軍は開戦初期に挟撃され全滅
 戦場が移動して西軍も早々に敗北

憶測がすぎる
 西軍が官軍
 東軍の西上は家康の一決で決まった
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 15:20:30.04:XLnJOVji
官軍はない

それとも朝廷が討伐命令出したのかな
人間七七四年 [sage] 2017/09/27(水) 21:00:32.30:Owu0QUa+

上杉征伐の時家康は増田等の反対を押し切り協議無しで決めたんだから
中止も協議無しで行えるはずって理屈らしいけど、反対を押し切ったって時点で
一応協議はしたんじゃないのかと思うんだけどね
人間七七四年 [] 2017/09/28(木) 09:38:34.74:ERokUJT/

関ヶ原エリアで大谷隊が正面から来た家康等東軍主力と
開戦早々裏切り背後から来た小早川に挟撃され全滅し
その後戦場が西軍本隊のいる山中エリアに移動し
巳の刻に戦闘が始まり午の刻には終わったって主張だよな
無理はないかなって感じだが、どうだろう
人間七七四年 [sage] 2017/09/28(木) 10:18:40.85:wMLCMSJ8
通説配置の大本で、翌年に書かれた太田和泉守記をまるっと無視している。
人間七七四年 [sage] 2017/09/28(木) 12:06:11.57:lpdfEDMS

協議はあったかもしれないけどどこにだれが集まって何を話したかまったく明確な資料はない
人間七七四年 [sage] 2017/09/28(木) 12:09:16.60:lpdfEDMS
すくなくとも巷間に流布してるような福島が口火を切って豊臣恩顧の大名がいっせいに同調したなんていう小山評定は全く根拠がない
人間七七四年 [sage] 2017/09/28(木) 16:58:04.61:wMLCMSJ8

書状の前後から小山と言え、内容は会津征伐中止と反転上洛となるから、
大筋は通説通り
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 14:10:21.07:Oy+0d93z
本多とか旧説は、勝った、って感じだけど
白峰陣営は、一次史料が出ない限り引き分け、ってふいんきだね。
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 18:04:25.32:ueExpmmW

こじつけなんだよ
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 18:26:29.86:BQPh03MH

難癖なんだよ

通説に沿う一次史料があるのだから、通説の大筋は認めろ
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 18:27:34.65:ukk5EXnD

白峰氏の主張は崩されたままだろうに。
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 19:46:51.40:ueExpmmW

5W1Hのどれも不明な1次資料を好きなように解釈してるだけ
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 20:16:35.20:uh2Dg91z

官軍というか公儀として政権を成立させたって主張だな
論拠としては

石田・毛利連合政権成立の論拠
【1】豊臣秀吉の後継者である豊臣秀頼を直接推戴した
【2】毛利輝元が公儀の城郭である大坂城に入城して豊臣秀頼を直接補佐した
【3】自らを「公儀」と称した
【4】政権の所在地である大坂を中心とした上方を完全に掌握していた
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた
【6】大名に所領(知行)を与えた

主張のソースが
ttp://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk05213.pdf?file_id=5363
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 21:36:28.62:BQPh03MH

そんな都合の良い史料があるかw
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 21:36:44.42:OgluVtUn
戦乱期の公儀論なんて研究者の贔屓陣営を正統化したいだけの詭弁に過ぎんよ。

ふつうは政権成立はある一定期主体的な統治ができなければ認められないだろう。
前政権を打倒したわけでもないし、挙兵依頼3か月も維持できなかった西軍を公儀
と言えるのかね。端的に言って高校教科書に石田・毛利政権が誕生したなんて言える
レベルなのか。
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 22:33:14.23:NYe+rA4L

官軍ではないという根拠だな

しかも秀頼の承認を得ていないから
反乱軍
人間七七四年 [sage] 2017/09/29(金) 23:00:35.56:lMUnoYI8
大坂城は家康の西の丸を占拠しただけで本丸には手出し出来なかっただろ
人間七七四年 [] 2017/09/30(土) 20:01:27.22:xlAD7p47
白峰氏の主張ほとんど鵜呑みにして記事書いてる人がいるね

関ヶ原の戦い「よく聞く通説」はウソだらけだ
ttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170930-00190643-toyo-bus_all&p=1
人間七七四年 [sage] 2017/09/30(土) 20:11:58.07:55/FIpJB
実際ウソだらけだろ
人間七七四年 [sage] 2017/09/30(土) 20:38:07.93:lOzyOqBP
これは酷い
人間七七四年 [sage] 2017/09/30(土) 21:52:27.03:+mhmOnGB

三成側が公儀で家康が完全に悪者(反逆者)で秀忠の真田攻めは予定の行動とも言えるが
遅参の理由は秀忠が稚拙せいとか、白峰並みの西軍寄りの史料解釈だな
人間七七四年 [sage] 2017/09/30(土) 21:57:09.51:mNcL2Go5
東洋経済はけっこう酷い歴史コラムを書いてるよな。
色々読んでる人は失笑する程度だけど、
一般紙に載るってのは妙な拡散をするから嫌な感じだ。
人間七七四年 [sage] 2017/09/30(土) 22:26:47.82:Pbll4OZ1

>【3】自らを「公儀」と称した

これは西軍が犯した致命的なミスだな
豊臣の建前としては、秀頼そのものが公儀であり、大老・奉行は公儀たる秀頼をサポートしているだけという形式だ
確かに現実は大老・奉行が公儀を形成し、秀頼など存在しなくてもいい置物でしかないが
それでは秀頼の存在価値に傷がつくから言ってはいけないタブーなのに
西軍は大老・奉行が公儀であり秀頼は単なる道具であるとタブーに踏み込んでしまった
家康に対抗しようとするあまり墓穴を掘り謀反人へと堕落してしまったのが西軍の敗因とも言える
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 08:03:18.22:ZVQdysLZ
公儀アピールしまくって負けたせいで、
世間には「秀頼」が「家康」に屈服したイメージが付いて
豊臣家自体が、信長に反抗して和睦した後の足利義昭みたいな扱いになったというね
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 08:57:09.41:/Cb1oOc7
ぶっちぎりの石高と官位を持つ筆頭大老たる家康でさえ自分が公儀だなんて自称していないし
秀頼を抱きかかえて威張り散らすなんてしていないのだから
家康よりも遥か格下の連中が自分が公儀であると自称し、秀頼を印籠のように扱って威張り散らしたら
正当性があるどころか思い上がっている・豊臣を蔑ろにして謀反を起こしたとなるよな
公儀をアピールすることが謀反になるなんて少し考えれば分かるはずなんだけど
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 12:36:38.96:jKGMN5to
裏付け無しに官軍とか皇帝というのは
賊軍の証
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 12:42:20.96:zCKgi1Fg

どうだろう建前としてはとにかく別に西軍は豊臣家の為に挙兵したわけじゃないし
むしろ勝利した場合を考えればミスとは言えないのでは?
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 19:33:49.61:t6839D36
公儀自称してあの求心力(小早川まで寝返り)ってどうなんですかね
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 19:38:44.83:zCKgi1Fg
どうにもならない(^^)v
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 19:40:36.52:RHBlsLXY
政権とっても全く求心力なくて短命な例なんか他にもいくらでもあるでしょ
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 20:52:59.72:G0TY6WMm
【5】大名(細川忠興)を改易にして、近隣の諸大名に城受け取りを命じた

公儀からの命令なら細川は早々に開城しなければならないはずだけど
徹底的に抵抗された上、漸く関ヶ原の二日前に開城
しかも歌道が絶たれることを懸念した勅命が開城理由
公儀としての影響力がまるで感じられない
毛利、宇喜多、上杉の三大老と増田、長束、前田の三奉行と
元奉行の石田が西軍に付いたとは言え
大老筆頭の徳川と次席の前田、五奉行筆頭の浅野は東軍な訳だし
そもそも家康をはじめ東軍の面々が位階や官位、領地を剥奪されたわけでもないし
毛利。石田川が公儀とかよく論じられたよな 
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 23:10:01.55:2/mpSUHl
クーデターやって政権樹立を宣言したけど周りは認めていないという古今東西にありがちな状況だわな
人間七七四年 [sage] 2017/10/01(日) 23:19:12.53:jKGMN5to
松尾新城は急ピッチで改装工事が施され、本丸に三層天守閣、佐渡丸、石見丸、紀伊丸、越中丸、主馬丸など、廓が装備されたことが、明らかになった
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 00:44:34.01:pOQPXywF

まさにその通り。
西軍公儀説の実態はそんなもんでしょう。

実効的な政策を何一つ実行することなく3か月ももたずに瓦解、参加者がボロボロ
寝返って、しまいにゃ総大将が同志を放って単独和睦するっていうね。こんなもの
普通の歴史では政権とは呼ばないでしょ。

そもそも今時、他所の時代の研究者では「どっちが正統」なんて事にこだわる人は
いないよ。権力闘争、政権交代の歴史に正統もクソもない。信望を失った旧政権が
支持者の多い新興勢力に取って代わられる。それが政治史の常。
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 00:49:06.72:pOQPXywF
ところで思ったのだけど、

毛利輝元が大坂城を退去する際に、罪の不問、本領安堵が条件だったそうだけど、
総大将なのに西軍参加諸将の助命については交渉してないんだよね。

俺だけ助かれば、同志はどうなっても構わないってことだったのだろうか。
この和睦条件が公になった時点で、輝元の声望も地に落ちたんではなかろうか。
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 01:07:47.87:BOggKfOX
そらまぁ毛利は江戸時代通じて馬鹿にされてたくらいだからな。その恨みで幕府倒しちゃったけどw
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 01:24:17.22:PATXwn71
関ヶ原の恨みで倒幕ってまた通説的な
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 01:46:11.00:fZLt0DEv
まぁ、250年恨み続けていたわけじゃなく、倒幕の理由付けで
ちょうどいいんで持ち出したんだろうけどな。
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 07:57:34.27:RS366UCS
まぁ明智が政権握ったか握ってないかていうのとおなじだわな
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 08:44:16.90:FJe/Sk1O
テルは西軍総大将のつもっりはなかった
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 12:22:55.60:5VjBgcEv
輝元は使者が来たら早々に上坂しているし、西国には積極的に出兵しているからなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 13:05:13.38:7/X5Ofuh
輝元の上坂は萩藩の江戸時代の参勤交代より遥かにスピードが早く、また、阿波、讃岐、伊予、豊後に大規模な軍事行動を起こしているから、もはや知らなかったでは済まないレベルである
人間七七四年 [sage] 2017/10/02(月) 20:09:05.54:CX7Jlg6r
諸大名の関所止めも毛利宇喜多の軍勢の存在が大前提だからな。
逆に毛利宇喜多の参加確約が無かったら三成も決起してなかっただろうさ
人間七七四年 [sage] 2017/10/03(火) 00:19:31.97:CqNnsm8Q

毛利の目的はあくまでも徳川に取って代わることだからな。
徳川排除の三成とは目的が明確に異なる。
目的が同じ同士ではなく、互いの目的の為に相手を利用している感覚だったんだろう。
人間七七四年 [] 2017/10/03(火) 10:24:15.41:CEOVJ2Qh
桃配山の家康本陣を狙えばよかったのにな最初から
松尾山のアレが内通してるとわかっていそうなものなのに
人間七七四年 [sage] 2017/10/03(火) 13:52:33.36:wgsf60Z0
菅沼はいつまで一人芝居を続けるんだ?
人間七七四年 [sage] 2017/10/03(火) 22:01:30.09:vuUzziW4

輝元が広島を出発したのが七月十五日で大坂に到着したのが十九日らしいけど、光成氏に拠れば十七日に大坂に到着した可能性もあるみたいだね
何故なら秀元が十七日に大坂城西の丸を占領したらしく、それは秀元の独断による行動とは考えにくいから、
輝元が予め指示しておいたか、輝元が十七日には大坂に到着していて指示を出した可能性が考えられるらしい
まあ、どっちにせよ輝元としては準備万端で広島を出発したわけだな
人間七七四年 [sage] 2017/10/03(火) 23:32:02.17:m4rrEUID
準備万端で広島を出発して総大将に就任したたけど
四国や九州に縄張りを広げるのに夢中で東軍本隊と戦う気はなかった
人間七七四年 [] 2017/10/05(木) 20:35:12.33:nc3XlVVU
島津義弘にしたって島津家中での義久との主導権争いで有利に立つために
参加したって説もあるもんな
人間七七四年 [] 2017/10/06(金) 11:24:09.92:x2I4O+Yh
何か西軍贔屓の研究者って、西軍は公儀の下纏まっていて、東軍は反逆者にされて個々の思惑で動いたみたいにしたく感じるけど、実際は逆だよね
人間七七四年 [sage] 2017/10/07(土) 09:02:33.01:ZyloinB1
西軍贔屓の研究者って、三成の脳内と現実を混同する傾向があるね
三成の脳内では公儀になった西軍の下で諸大名は一致団結し
謀反人にされた東軍は混乱してバラバラになるはずだと思い込んでいたのは間違いないが
小説家ならまだしも研究者が現実より三成の脳内を優先させるのはダメだろ
人間七七四年 [sage] 2017/10/07(土) 20:19:36.91:70w1UfW/
三成が昌幸とかに出した書状を見ると
自分の都合の良い状況分析とそれに基づく
自信で満ちてるしな
人間七七四年 [] 2017/10/08(日) 05:34:48.86:3SqspYi9
治部の息子とかいう話もあったが秀頼公
結局どうなのかわからんな

空手形じゃなかったら甲信二か国だったんだのにな〜w
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 13:41:21.99:0SuorgX7

有名な、増田長盛が家康に書いた内応の書状がそれ以前の日付けですよね。
つまり、毛利、宇喜多が本当に動くか心配で保険を掛けたんでしょう。
7月19日に毛利の主力が到着で空気が一変したって事だろうね。
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 13:55:11.96:oYna7xBj
毛利が到着して周りの空気が一変したのに
その毛利自身の空気が一変して戦わないというのは歴史に残る詐欺だな
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 14:29:59.66:oq52bWJT

味方に付けようとする相手に、自軍に不利な状況分析や
先行きに自信がないことを吐露するような書状を送って
どうすんだよw
人間七七四年 [] 2017/10/08(日) 20:31:00.48:GLFlS0Dm
内応していた増田、前田のうち
増田は改易、前田は安堵とその差は
何だったのか。前田は茂勝は改易されたけど
正勝の家系が残ったみたいだし
あと増田は三成失脚後、豊臣の蔵入地を
一括管理してたとか言われるけどどうなんだろう
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 20:43:39.93:tH3TV+Yw

内府違いの条々に署名したかしないかの差だと聞いた事がある
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 21:26:38.21:JWPvAoLE

増田・長束・前田三人とも署名しているよ。

三人の処分の差の明確な理由は不明というべきだろうな。
前田玄以については弾劾状以外に目立った敵対行為を
していないためであるとか、朝廷の作法に詳しい玄以に
利用価値があったためとか、そういう推測がなされている。
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 22:06:13.51:oYna7xBj
常識で考えたら内府違いの条々に署名して家康が戻ってきたら無事ですむはずがないのだから
殺らなきゃ殺られるくらいの覚悟で必死に戦うように思えるが
宇喜多を除けば毛利と三奉行の行動にはそれほどの危機意識があるようには見えない
もしかしたら宇喜多と石田が弾劾状だと大騒ぎしていただけで
実は内府違いの条々は4人にとってはたいした文書ではなかったのかもしれないな
例えるなら内部で見せ合っていた愚痴日記を宇喜多と石田が勢いで公開しちゃったような感じかな
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 22:28:25.56:/4eAWY2l

増田が管理していた蔵入地の収益を上手く利用出来れば西軍はもっと優位に立てたのに、増田がそれを怠ったから負けたとかいう論があったような
人間七七四年 [sage] 2017/10/08(日) 23:19:15.50:/QS8gexk
いや、西軍も東軍も税収とかが影響するような状況になってないだろ。
短期決戦で終わったんだから。
人間七七四年 [sage] 2017/10/09(月) 18:41:26.59:KxD3Q7nH

玄以は病臥してたから、書判も花押じゃなくて黒印だった。
勝手に使われたなんて言い訳が通ったのも
人間七七四年 [] 2017/10/09(月) 20:19:02.46:EeNHAO5g

収益は兎も角蔵入地百万石以上有ったらしいから
そこから動員できる兵を投入したら多少は戦況に
影響があったかもね
人間七七四年 [sage] 2017/10/09(月) 20:26:51.80:Gut1ivsQ
蔵入地には動員できる兵はいませんよ
人間七七四年 [sage] 2017/10/09(月) 21:46:33.54:txbgwClD
徴兵制があったという誤解が根強いからねぇ
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 08:00:17.27:DofDESVz
ゲームじゃないんだから、全国各地に散っている蔵入地から百姓を連れてくることなんてできません。
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 08:06:20.84:Xrx2FDxv
蔵入地は諸大名の領地から一定量の米を豊臣に上納させているだけだから
兵の動員は関係ない
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 08:14:49.24:smSBvtcg
蔵入地の収入から傭兵するは可能
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 11:30:51.58:0df3acXx
結局金使うったって浪人雇う程度だな
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 13:45:14.56:ImEDgC4x
大谷吉継の軍は蔵入地補正が大きいんじゃないの?
じゃないと大谷レベルの二軍大名が方面軍大将格になれないような
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 14:01:04.71:0df3acXx
補正なしでも準五奉行の大谷なら小大名軍団の大将役やっても別に不思議じゃないが
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 14:44:37.99:lkoCGziD
百万人を
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 14:46:38.39:4lPbZPTv

蔵入地は行政向け予算や戦費・兵糧・給人への俸禄に宛てられるためのもの。
全国に散らばっていて各地の大名が管理しているので、帳簿上の石高相当の年貢を
大名から税のようにして取り立てた。ここに直接軍事動員を掛けることはできない。

大坂の陣のように軍資金をバラ撒いて臨時で傭兵を集めることはできるだろうが
それは単純な貯蓄分の切り崩しであって蔵入地の規模とは相関関係にない。

臨時徴募の兵士がどれほど役に立つかは不明なところがある。
宇喜多秀家は前年のお家騒動で有力な侍大将の半数近くが宇喜多家を出奔することに
なったが、このため秀家は京都で牢人を大量に徴募している。秀家は急造の軍勢で
関ケ原合戦を戦った。本戦でわずか一刻あまりの間に崩れたのにはこれが関係して
いるとも指摘されている。

また奉行にすぎない増田長盛が豊臣家の貯蓄を切り崩して募兵するにあたって、
適当に雑兵を雇って各大名にバラして送りつけるなら簡単だろうが、新規でまとまった
軍勢を編成するとなると秀家の急募以上に問題も多かろう。編成した軍勢は誰の指揮下
に入るのか?
人間七七四年 [sage] 2017/10/10(火) 16:14:31.17:smSBvtcg

各地の大名が蔵入地の収入流用して、傭兵を得たとは思うよ
後、指揮官では無く平侍・足軽は傭兵の率は結構高い
人間七七四年 [] 2017/10/12(木) 20:56:28.85:5ZATmDQX

笠谷によると第二次上田合戦で徳川方で中山助六郎、
戸田藩平、小野次郎右衛門、鎮目市左衛門、山田十太夫、
辻佐次右衛門、太田甚四郎の七人が「上田の七本槍」と言われ
(小豆坂の七本槍に肖ったんだろうけど)武功を讃えられたと言うが
ほとんど名前も知らん連中だし、本当なのかって思えるんだが
人間七七四年 [sage] 2017/10/13(金) 22:22:40.62:bvvUycdc
徳川方があやかるなら、蟹江七本槍の方じゃ無いか
人間七七四年 [sage] 2017/10/13(金) 22:34:17.85:lsPI6bHJ
蟹江敬三の福島正則
人間七七四年 [sage] 2017/10/14(土) 08:05:50.93:x7YCgRIG
まーだ疑っておいでか!
人間七七四年 [] 2017/10/14(土) 20:06:50.55:X7xozvT5
今回の総選挙の野党を西軍に例えると?
人間七七四年 [sage] 2017/10/14(土) 20:13:29.36:0xVceVKs
当てはまらない
人間七七四年 [sage] 2017/10/14(土) 20:56:33.11:q/69fxFO
関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか

ttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171014-00191937-toyo-bus_all&p=1

相変わらず酷い記事だが、本郷和人とかもそうだけど
この山岸良二って人なんで自分の専門の時代以外に手出すかな
バックナンバーも試しに読んでみたけど、流行の本少し読んで
記事書いてるように思えるんだが
人間七七四年 [sage] 2017/10/14(土) 21:06:46.18:wLrRm1J3
運の問題ではない
人間七七四年 [sage] 2017/10/15(日) 12:04:26.30:fZKdAsht
台所の失火が火薬庫に引火して三時間で陥落しましたとかならともかく、
十日以上も粘った鳥居元忠を不運な末路の代表として挙げられても困るわ

だいたい「一次史料の解読が進み、日本史は「進化」している」と主張しつつ、
>兵力に劣る真田氏が卓越した戦術で何日も抵抗を続けた
なんて講談みたいなことを言われても説得力0だよなぁ……
人間七七四年 [sage] 2017/10/15(日) 17:47:19.46:XyPQeSKS
運の良し悪しで語れるケースが一つも無いのに笑ったw
人間七七四年 [sage] 2017/10/15(日) 19:52:27.43:sQ0XdFaA


秀忠は不運つーか、家康の逆切れだと思うね。
人間七七四年 [] 2017/10/15(日) 20:06:30.01:BU/Otc4x
東洋経済オンライン関ヶ原で検索すると
過去色々見られるけど、ツッコミどころ満載過ぎて
こうなってくると次はどんなネタ提供してくれるのかと
思えてくるな
人間七七四年 [sage] 2017/10/15(日) 20:36:30.19:OQFsfygN
飛躍がない分白峰よりはマシだが
人間七七四年 [sage] 2017/10/15(日) 23:52:12.85:7wEcvAl5

秀頼はむしろ関ヶ原処理で幸運だったのでは?
運が悪けりゃ神輿にされてよけい立場が悪化したり、大阪城も失ったかも
家康〜且元体制で一応は平穏で良かったじゃん
人間七七四年 [sage] 2017/10/16(月) 09:22:59.53:IMe5rnGm
関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか
ttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170916-00187790-toyo-bus_all

あと上の関連記事の関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか?と
関ヶ原の戦いは「裏切り者を見抜く」教科書だも色々とネタ満載だね

西軍贔屓が露骨だな
人間七七四年 [] 2017/10/16(月) 10:52:39.51:/FyKpgmy
秀家の長寿で凌駕とか昌幸の名声で凌駕とか、どちらも流人で生涯終えているのに勝者はないだろう
人間七七四年 [sage] 2017/10/16(月) 14:08:00.96:aCtSW7jt
「いっきに学び直す日本史」一派は江戸時代の軍記物・明治の立川文庫や講談・昭和の時代小説で人気者になれば最終的な勝利者という解釈だから仕方がない
そして創作物で酷い扱いをされているから小早川秀秋や徳川秀忠は関ヶ原の敗北者
人間七七四年 [sage] 2017/10/16(月) 15:29:39.69:QXoahInP
後世の評価ってのは当然の見方だろ
人間七七四年 [sage] 2017/10/16(月) 16:39:32.00:X9MJfpZ4
現代でも大人気のジャンヌダルクは歴史の勝者なのか・・・・
俺にはどうしてもそうは思えない
人間七七四年 [sage] 2017/10/16(月) 17:06:16.77:9ang+oZF
後世に影響を与えたのならまだしも、ただ負けた側を後世では人気だからって勝者というのはさすがにないわ
人間七七四年 [sage] 2017/10/16(月) 20:04:10.26:hKnSYQMA

南部の馬鹿なラテン野郎を連れ込みやがった
そんな風に思っている北仏の人たちも20世紀にはいたみたいだよ
いまは知らんが
人間七七四年 [] 2017/10/17(火) 19:35:57.93:kpvtJj0X

人気があれば勝者なら三成だって勝者だよね
人間七七四年 [sage] 2017/10/17(火) 21:25:54.41:zY7LmzW6
三成は人気無いだろ
人間七七四年 [sage] 2017/10/17(火) 21:36:21.68:Sm1PeejK
有名なのと人気あるのとはまた違うよな
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 00:35:53.65:4KMFvlQT

三成は江戸・明治・昭和を通じた創作物でぶっちぎりの不人気ナンバー1だろ
史実の戦で惨敗した上に創作物でも酷い扱いをされているから最終的な一番の敗者だな
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 06:35:47.25:QW6cJf3S
最近の歴女たちの中では三成は大人気だ
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 11:59:19.63:L24UYXUZ
いや家康を悪とすれば
三成はGishou

公儀だというとんでも学者もいる
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 13:44:07.71:3ehJAF+C
>三成はGishou
>公儀だというとんでも学者もいる
白峰か
西軍=公儀(正義という意味ではない)と石田ヲタが大喜びしそうな主張をしているのに、
「開戦と同時に小早川の攻撃で大谷隊は秒殺された」
「東軍が攻めかかると石田隊・宇喜多隊も瞬殺された」
とも書いているせいで石田ヲタにガン無視されるという謎のバランスが取れている人物だな
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 13:51:52.50:H/nPvj9r
江戸幕府の体制下で、三成は肯定できんだろう。
三成は不人気だが、江戸時代でも島左近、大谷吉継、直江兼続等は大人気だけど。
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 14:03:42.86:QHH/2N96
徳川史観の史書は置いといても判官びいきの江戸時代で不人気なんてよっぽど
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 17:38:50.23:yCHAoxJL
三成忠臣説を言い出したのは水戸光圀じゃなかったかな
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 17:52:14.62:SHzxPbUW
今宵も、おなじみの顔でござる。
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 18:18:48.00:LoGTco8T
やれやれだな
人間七七四年 [] 2017/10/18(水) 20:47:34.88:EagDv3lt

中野等とか堀新とか曽根勇二とか山岸良二とか
矢部健太郎あたりも西軍公儀説じゃ無かったっけ?
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 22:47:21.96:4KMFvlQT

公儀というのは天下人もしくは天下人を目指す者が主張するものだからな
西軍=公儀というのは三成が天下人宣言をしたことになるから忠臣説は崩壊する
石田ヲタにガン無視されるのは仕方がないだろうね
人間七七四年 [sage] 2017/10/18(水) 22:57:07.83:SHzxPbUW
中野石翁とか堀久太郎とか曽根晴美とか葉山良二とか
加地健太郎あたりも西軍公儀説じゃ無かったっけ?
人間七七四年 [sage] 2017/10/19(木) 12:49:50.46:wdd/E87j
中央政界復帰のためにクーデターをおこした石田三成がなぜか忠臣・義将になってしまう
大久保忠隣や酒井忠清も失脚後に外様大名を抱きこんで「君側の奸を除く」と挙兵したら歴女()に大人気だったのかな
人間七七四年 [sage] 2017/10/19(木) 14:31:49.91:tlcGwrSI

まぁ挙兵した方が、後世の人からの受けは良かったろうな
歴史好きは大抵戦好きやし
人間七七四年 [sage] 2017/10/19(木) 20:23:45.07:QAbTG6gi
国家安康
君臣豊楽
人間七七四年 [] 2017/10/19(木) 20:50:12.04:3e6H6Z14
三池純正の「義に生きたもう一人の武将 石田三成」とか
中野等の「石田三成伝」とか太田浩司の「近江が生んだ知将石田三成」とか
中井俊一郎の「石田三成からの手紙―12通の書状に見るその生き方」とか
加藤嶺夫の「捕縛 石田三成の無念と執念」とか矢部健太郎の「関ヶ原合戦と石田三成」などなど
三成を取り上げた本、ここ数年の間に結構出てるからな
人間七七四年 [sage] 2017/10/20(金) 00:01:37.46:qSil11pz
豊臣の忠臣の仕事内容

欲望のまま関白を殺したり復権目当てにに謀反を起こすだけの簡単なお仕事です。
讒言で海の向こうで戦う武将を嵌められればなおよいです。
ただし嵌められた武将から襲撃されたり処刑されたりする危険があります。
豊臣家としては支援しませんので、自己責任でお願いします。
人間七七四年 [sage] 2017/10/20(金) 00:12:29.33:F2spABfo
ツマンネ
人間七七四年 [sage] 2017/10/20(金) 09:55:25.70:K1yULNmo

義に生きたとか知将とか過大評価だな。まあ三成に限らず、清正や輝政
あるいは真田や大谷等、豊臣関連の武将は過大評価される奴が多いけど
人間七七四年 [sage] 2017/10/20(金) 13:35:39.97:+RwynuhA
あのな、学会の動きが家康悪者、豊臣側に大義があるってなってるのに
おまえら何様だよw
人間七七四年 [sage] 2017/10/20(金) 13:43:44.49:9luni0t8
菅沼学会w
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 01:42:32.74:sHaoC5FT
豊臣側にも自分の権力維持と保身しかないんだから大義も何もないだろ
別に豊臣のために日本国が存在しているわけでないぞ
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 16:39:34.54:sF41ygd+
家康が天下取りに乗り出したせいで何人死んだと思うんだ?
人間七七四年 [] 2017/10/21(土) 17:05:39.62:8KlerLcq
秀吉の無謀な明征伐の為にどれだけの人が死んだと思っているんだ
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 17:27:59.26:r2c/jjFc
問題は人命を犠牲にした後、世の中が良くなったかどうかだろうな
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 17:41:57.06:sF41ygd+

秀吉に文句があるなら生きてるうちに反旗を翻せばいい
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 18:46:56.59:NhJ2xGNj
さすがに生まれてないわ
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 19:38:05.69:drycao64

親の因果が子に報うって言葉、知ってる?
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 20:10:06.80:H4QTNKaC

秀頼は秀吉の子じゃないのに・・・
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 20:27:08.52:xgiJaOgU

DNA鑑定した訳じゃないんだからそういう事を断定的にいうのはちょっと・・・。
後、この場合の親と子っていうのは遺伝子的な親子のような狭い意味ではなく、
政権の先代と後継者(この場合は豊臣家)位の意味合いでいいだろう。
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 22:00:17.59:sHaoC5FT

三成が権力の座に返り咲こうとしたせいで死んだ人間の方が圧倒的に多いだろ
三成が馬鹿なことをしなければ死んだ人間なんてほとんどいない
人間七七四年 [sage] 2017/10/21(土) 22:59:53.70:Z5bfBuYw
来週の諸説ありは関ヶ原の戦い一次史料シリーズ第二弾
・戦い時に三成が居た場所が特定
・家康は関ヶ原に居なかった?
人間七七四年 [sage] 2017/10/22(日) 00:52:01.01:rEQqy3Xp

だから家光は島原の乱で虐殺をしたんだな。
名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! [sage] 2017/10/22(日) 09:44:06.59:ONXivgXE

三成に文句があった大名たちがきちんと三成が生きているうちに反旗を翻したじゃないか
人間七七四年 [] 2017/10/23(月) 21:06:46.41:J3hFdKgf

三成は大名達の主君じゃないんだから、反旗を翻すって表現はおかしくないか
人間七七四年 [sage] 2017/10/23(月) 22:14:10.21:Ci8UCyFE
三成が豊臣に反旗を翻して謀反を起こしたから鎮圧したという意味だろうな
人間七七四年 [sage] 2017/10/24(火) 07:14:31.26:d5FnpPrp

頭大丈夫?
人間七七四年 [sage] 2017/10/24(火) 22:50:19.05:7r9vHdhw
確かに三成は朝鮮での偽講和や秀次抹殺事件の頃から明らかに豊臣に反旗を翻して乗っ取りの謀略を繰り広げているから
関ヶ原で豊臣に反旗を翻したわけではないな
人間七七四年 [sage] 2017/10/26(木) 21:23:44.33:DBIKcJsJ
秀元の領地配分で秀吉の遺命無視してるしな
人間七七四年 [sage] 2017/10/28(土) 02:24:23.16:eIY9pbOe
このスレは良識派が多くて感心する
兄である朝鮮国を攻撃した秀吉の犬である三成が
最大級の恥辱にまみれた最後を迎えるのは当然である
同士である徳川家康には敬意を表さずにはいられない
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 08:14:32.46:ag5IwOfI
永引けば、家康は負けていたよな
藤壮司 [] 2017/10/28(土) 08:32:20.71:1OAhgRoE
そんなことはない
家康は、十分に策を練ってたのだから、たとえ
小早川が、裏切らなくても勝っていた
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 08:38:05.75:zTrLysOy
家康は、小牧長久手の戦いを想定してたんだよ
あのとき、秀吉には、何の大義もなかった
吉法師以外に大義がなかった
つまり、家康は、永引けば、大義のない戦いを
諸大名に気付かれるのを恐れた
藤壮司 [] 2017/10/28(土) 08:46:09.31:tKgh6NaG
おそらく、そのときは、停戦していたやろ
家康は、賢い男だから、停戦後のことも考えているはず
大阪の陣は、家康が最初から考えていたこと
15年延びたが、やはり、永引いても、家康の勝ちやろ
人間七七四年 [sage] 2017/10/28(土) 08:48:55.49:QjLa2w1m
秀忠隊が到着しないうちなら勝てると踏んだことが西軍が短期決戦に応じた理由だとすれば、
秀忠の遅参は東軍を大勝利に導いた大きな原因ということになる
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 08:52:05.90:IWmN8291
じゃあ、黒田官兵衛は?
藤壮司 [] 2017/10/28(土) 08:53:11.08:S5JYEyx0
家康は、黒田官兵衛の存在すら、知らんかったやん
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 08:54:01.90:Vxwnemr6
つまり、家康の天下はなかったことになるな
藤壮司 [] 2017/10/28(土) 08:56:26.00:yTUJOIIg
だから、早く関ヶ原を終わらしたかったんやろ
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 08:58:26.05:CynjW5l1
はい、論破
藤壮司 [] 2017/10/28(土) 09:05:18.56:Z7OtxEL9
=アホ
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 09:05:50.86:Hp+cvo3U
負け惜しみか?
藤壮司 [] 2017/10/28(土) 09:08:10.69:0lxrRFgp
負け惜しみではない
人間七七四年 [] 2017/10/28(土) 09:08:53.85:HzIJ3AI+
負け惜しみでなけれぱ何?
人間七七四年 [sage] 2017/10/28(土) 09:40:56.41:7BTZ4dEf
空威張りでござる。
人間七七四年 [sage] 2017/10/28(土) 13:55:30.61:eIY9pbOe
IDを変えてどれだけ自演しようとも犬である石田三成の
敗北は決定的だった。少数派の豊臣のクズは投稿するな。
人間七七四年 [] 2017/10/29(日) 12:06:45.22:JdygApsz
輝元の西軍参加は元就や元春隆景らに押さえられてた時代の劣等感の反動とかあったのかな
人間七七四年 [sage] 2017/10/29(日) 12:35:20.53:wYQ1hwwT

それが全てではないだろうが、西軍参加(輝元的には利用)理由の一部ではありそう。
特に北九州に大友を派遣したのはそうだろうね。
北九州はかつて旧大内領の帰属をめぐって毛利家と大友家が激しく争った場所。
そして結局は北九州は大友の手に落ちた。
もし、ここで輝元が北九州を手に入れれば、輝元は偉大なる祖父や輝かしい実績をもつ父や叔父が
達成できなかった事を達成した事になる。しかも、彼らに辛酸を舐めさせた大友を利用して。
そうなれば、自分は父や叔父、あるいは祖父をも超える声望と実績を手に入れられる。
・・・とか考えてたかもしれないね、輝元は
人間七七四年 [sage] 2017/10/29(日) 15:15:57.49:rrOA9p/b
いつまで三文芝居を続ける気なのか
人間七七四年 [sage] 2017/10/29(日) 20:32:52.87:fSxGvEnK

両川より一回りも若い家康を親と称す事となり下風に立たされたことに反発もあったのかな
ただ光成準治氏に拠れば、南宮山の先陣に配置されていたのは吉川ではなく
恵瓊の可能性が高いらしいから、毛利の消極的態度は輝元の意思で恵瓊も
了解済みだった可能性があるらしいね
まあ、ここ最近の西軍の早々の敗戦が本当なら、俗説のように三成が広家や恵瓊に
督戦する暇もなく、恵瓊等が態度を決める前に早々に戦況が決まっちゃったのかも知れないけど
人間七七四年 [sage] 2017/10/30(月) 00:25:33.50:hSdS3GSr
諸説ありで関ヶ原に触れてたな
大軍引き連れてきて勝手に松尾山に布陣した小早川の寝返りは計画的な物、
家康は特に何もしてなく殆ど黒田福島細川加藤藤堂などの手柄ってのは知ってたけど、
布陣とかああいう全貌は知らなかったや
人間七七四年 [sage] 2017/10/30(月) 04:21:52.10:74qyP15W
新説だしな
人間七七四年 [] 2017/11/02(木) 20:47:06.61:qWKs1IC0
家康と言えば浜松城の天守閣の展示場に家康の30代の頃を
3D化した人形があるみたいだな
ちなみに浜松にある元城町東照宮は秀吉と家康の2人の天下人が
関わった土地にあると言うことで、日本有数のパワースポットらしい
人間七七四年 [sage] 2017/11/02(木) 20:49:40.26:FtCvM16R
浜松に秀吉が直接関わった事はない。デタラメは止めろ
人間七七四年 [] 2017/11/02(木) 22:01:14.56:KBYVIz1f
調べてから言ったら、秀吉が松下家奉公時代に関わった場所らしい
人間七七四年 [sage] 2017/11/03(金) 12:20:46.71:bz/2leYa
>秀吉と家康の2人の天下人が関わった土地

その理屈だと近畿中心に西は名護屋から東は小田原まで
パワースポットだらけじゃねーのw
人間七七四年 [] 2017/11/04(土) 12:19:21.30:O3lsBQOa
本当にご利益があるならいいけど、実際のところわからないからなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/11/04(土) 13:21:26.24:J/mu7oZi
吉川元春、小早川隆景亡きあと、毛利の両川を自負していたのは毛利秀元であった。
筑前名島の小早川秀秋は豊臣家からの養子で毛利家とは血の繋がりもなく、その存在を無視してのことである
人間七七四年 [] 2017/11/04(土) 20:37:06.38:L0c+BDwO
秀吉としたら家康に妹を嫁がせたり、秀忠に養女の江を嫁がせる事により
一門に取込もうとしたように、秀秋を小早川の養子入れることにより
毛利一門も自分の一門化しようとしたんじゃないのかな
失敗だったけど
人間七七四年 [sage] 2017/11/04(土) 21:12:44.64:2m9NcCoW
もともとは輝元の養子として入れるつもりでいたんだからそうでしょ
人間七七四年 [sage] 2017/11/04(土) 21:20:18.34:J/mu7oZi
世嗣の座を離れた毛利秀元に対してどう処遇するかが毛利の課題だったが、最終的に徳川の介入を招き、輝元には遺恨が残った
人間七七四年 [sage] 2017/11/04(土) 22:19:35.26:O3lsBQOa
毛利は広家とか秀元とかの大身の一族が厄介だからなぁ
人間七七四年 [sage] 2017/11/05(日) 09:26:26.23:GbYdKiUE
島津とかも一族でゴタゴタ
人間七七四年 [] 2017/11/05(日) 20:32:01.83:Lkmq8t4R
義弘も三成に協力する事によって、義久に対抗し
家中での自分の権威の確立を目指したって話も
あるがどんなもんかね
人間七七四年 [sage] 2017/11/05(日) 20:53:24.33:+8msS+N0
薩摩に戻った後の手際の良さを思えば
嶋津が揺れてたとも思えぬが
人間七七四年 [sage] 2017/11/05(日) 21:20:18.23:SniNyENZ
伏見城籠城に島津軍が加勢する約束があったのは本当だったのか、本当だったならなぜ鳥居元忠にその連絡が来ていなかったのか、その辺が良くわからなかった
人間七七四年 [sage] 2017/11/05(日) 23:55:02.83:OvCVrntx
島津は豊臣政権との取次役である伊集院をぶっ殺しているし
豊臣政権と絶縁して中央のことに一切関りたくなかったというのが本音だろうね
だから義弘から兵を送ってと言われても応じる気がまったくなかった
人間七七四年 [sage] 2017/11/06(月) 09:06:19.72:PL8lPf7x
島津は金欠みたいで無い袖は振れない
朝鮮でも義弘面目無し
関ヶ原でも
人間七七四年 [] 2017/11/07(火) 10:01:21.92:/kYMqfnA
義久は豊臣嫌いだったんだろうね
義弘としては豊臣と結んで上手くやっていきたいって
感じがあるんだけど
人間七七四年 [sage] 2017/11/07(火) 10:30:55.31:x61KxEMW
義久、義弘、忠恒、と島津家は、リタイア含め当主、当主候補が複数出ると混乱する。
重豪―斉宣―斉興とか
人間七七四年 [sage] 2017/11/07(火) 11:02:57.01:QxHWzXSV

最近ではなかったって言われてるな。
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 18:49:11.05:ftAN+X9g
初カキコです 関ヶ原本戦に居た徳川家康軍は中山道を進行中だった徳川秀忠隊より弱いとなってますが
本多忠勝・井伊直政・奥平信昌・大須賀忠政・成瀬正成・渡辺守綱・永井直勝・本多康俊・本多政重・内藤信正・松平忠明などかなり豪華なメンバーですが これでも秀忠隊のが強かったのですか? 旗本の寄せ集め(家康隊)と師団を率いてる(秀忠隊)の差ですか?
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 19:33:24.11:SAOErJo/
軍団をまとまった規模で連れてきたのは井伊軍のみで、本多は子息忠政に大半を預けて500人のみだったし、大須賀は確か、館林の警守をほっぽりだして単身参加したと思われる。
あとの武将はよくわからん
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 19:59:58.26:dGEf5Jne
家康の方が本隊
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 20:01:58.54:wIqpSQ4E

家康軍と秀忠軍はほぼ同じ編成です。
ただし家康軍は豊臣恩顧大名から提供された東海諸城に大名クラスの家臣を
城番として次々に入れながらの行軍だったので関ヶ原に着いたときは目減りしてましたが。
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 20:14:42.71:fYmWMyFu
松平忠吉(10万石)が家康隊にいることをお忘れなく
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 20:38:13.52:ztjsXsoN
東海道の諸城に番勢が入ったのは8月中でなかったかな
掛川の松平康重は8月8日、他の城もこれぐらいなのでは
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 20:42:40.54:D3Rzwqd2
この戦と現在の山口組の抗争とどっちがスケール大きいの?
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 20:46:51.99:ztjsXsoN
松平忠吉は大成だったかでは家康隊にはいってるけど
戸川達安書状で8月下旬には清州にいたことがわかる
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 20:51:36.88:ftAN+X9g




即レスありがとうございます やはりほぼ同じ編成だったんですね
東海道の要地に城番として置いたなるほどです!
そうです松平忠吉忘れてましたね!補足ありがとうございます!
関ヶ原の家康軍が旗本の寄せ集めで弱いと書いてある事が多かったので
長年疑問だったのですがこれでしっくり来ました!
人間七七四年 [] 2017/11/08(水) 20:57:16.63:IRhLmBba

渡辺守綱って笠谷によると家康の信頼も厚く
「渡辺半蔵あるところ家康あり」とまで
言われた人物らしいけど、いまいち影が薄いな
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 21:08:27.65:ftAN+X9g

そうですね 徳川家康の家臣ってだいたい四天王位しか知られてない? もしかしたら四天王も?かもしれないですよね
最近は徳川家康の再評価が高まって徳川家康の家臣団にもスポット当てられて色々調べてます 渡辺守綱は徳川16神将
ですしね 尾張徳川の付家老ですしね 成瀬正成も尾張徳川の付家老ですね
関ヶ原の家康本隊の方が秀忠軍より戦経験が豊かな武将が多いのでこちらが本隊だったのでは?って思い書き込みしました
最近の研究では東軍の圧倒的な勝利だったみたいですので関ヶ原の真実っていう事で色々このスレは参考になります
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 21:31:56.38:fYmWMyFu

あれは西軍の明石宛なので、ある程度割引いてみるべき
忠吉は小山評定前に駿府へ先発し、家康出陣までそこの城番をした
人間七七四年 [sage] 2017/11/08(水) 21:56:01.94:KL1n8OjC
明石掃部宛の書状内で秀家嫡子の秀高を家康の婿にってあるけど単に明石を引き込むためだけの方便だったんかね
人間七七四年 [sage] 2017/11/09(木) 02:53:04.52:67Jz2w+I

旗持ちだからそりゃ居るよね・・・w
人間七七四年 [] 2017/11/12(日) 21:50:25.20:PtW0FRFa

輝元も秀家も家中のゴタゴタの時の事で
家康に恨みや憤りを覚えてたのかな
人間七七四年 [sage] 2017/11/13(月) 03:39:28.35:VNTdCZsn
輝元は解らんが、宇喜田の家康嫌いは元々だ。
秀吉に最も忠実な家来だからな。子飼いより忠実だよ。
人間七七四年 [sage] 2017/11/13(月) 06:21:36.06:tuYWfZFk
なんで秀吉に忠実だと家康嫌いになるの?
人間七七四年 [sage] 2017/11/13(月) 12:50:10.33:VhHRIy/l
最も忠実な俺よりも優遇されてる家康嫌いとか?
人間七七四年 [sage] 2017/11/13(月) 22:32:01.80:wreUrR11
なんで俺よりもあのじじいの息子の方が優遇されてんだクソが!みたいな?
人間七七四年 [sage] 2017/11/14(火) 21:44:47.27:7tFZh9zY
家康が天下を狙うのが解ってたからだろ
人間七七四年 [sage] 2017/11/14(火) 21:53:12.01:AK2toRIB
秀家は五大老見習いの立場から脱したかったのだろう
人間七七四年 [sage] 2017/11/14(火) 22:17:10.30:ws6wI9I2

関ヶ原前の家康の行動で天下取りを確信出来るものって特にないぞ。
『豊臣政権内』での権力や政治的発言力を高めることを天下取りというんなら間違ってないけど。
正直家康のやってる事って関ヶ原前の行動に限定すれば、朝廷における藤原氏とか、
鎌倉幕府における執権北条氏と変わらんと思うぞ。藤原氏が朝廷を滅亡させたか?北条は鎌倉幕府を滅ぼしたか?
関ヶ原の後なら豊臣を越えようとする意思は感じるけど。
正直、西軍が関ヶ原なんてものやらなければ家康って筆頭大老のままで死んだんじゃないかと思うけど。
まあ、死ぬまでに他の大老と奉行は全員屈服させるか排除するかとはおもうけどさ。
人間七七四年 [sage] 2017/11/14(火) 22:48:50.65:WV2H8aGD

死ぬまでに他を屈服させていってたら、結局は家康死後に報復を招くんじゃない?
徳川の安泰を諮るためには何らかのかたちで完全に豊臣の上にたって乗っとるしかないと思うわ
人間七七四年 [sage] 2017/11/14(火) 22:58:44.58:ws6wI9I2

執権北条氏は鎌倉に報復される事もなく最後まで命運を共にしたし、
朝廷は別に藤原氏を排除なんかしなかったぞ。まあ、事実上融合したようなものだが。
徳川と豊臣の関係もそうなるんじゃね?いわゆる豊徳合体政権みたいになるんじゃないの。
つーか、秀吉の狙いって最初からコレな気もするけど。
人間七七四年 [sage] 2017/11/14(火) 23:56:10.14:nRBbjqnI
豊徳合体政権になると最も困るのは一番の既得権益層たる奉行だからな
しかも三成なんてエゴが強すぎて秀吉がいなくなったら誰もコントロールできないレベルだ
豊臣が長期安定政権になるためには豊徳合体政権しかないけど
奉行の私欲が豊臣の公益を上回ってしまったのが豊臣滅亡の要因だろう
人間七七四年 [sage] 2017/11/15(水) 09:54:16.91:FM3h7Wn1
豊徳合体といえばへうげものか
連載終了した?
人間七七四年 [] 2017/11/15(水) 12:05:18.14:Q8UYMsDg

あれまだやってるの?
人間七七四年 [sage] 2017/11/15(水) 12:21:16.13:/0cr9nrK
大坂の陣が終了して、織部と家康が切腹の場でお互いのタマを取ろうとジジイ二人で取っ組み合い中。
多分もうすぐ終わる筈。
人間七七四年 [] 2017/11/16(木) 22:09:20.05:1mQwPt/b

奉行連中なんて石高見ても官位を見ても秀吉有っての奉行だと思うが
長年権力を行使できた立場にいると、やっぱり勘違いしちゃうものかね
三成とすれば浅野以外の奉行を取込めれば権威では勝てるとでもおもったのか
人間七七四年 [] 2017/11/17(金) 21:33:57.32:+Fz9nF7m

輝元と秀家と言えば秀吉の遺言状と言われるものの中で
自筆遺言状案と遺言覚書書案と言われるものでは五大老の
名前順が家康、利家、輝元、景勝、秀家という風に
輝元の名前は秀家の前に来ているのに
太閤様御覚書では出てくる名前順が
家康、利家、秀忠、利長、秀家、景勝、輝元と
秀家の方が前に来ているのはなぜなんだろう
人間七七四年 [sage] 2017/11/18(土) 13:45:54.95:tqyZJDMb
他のと違って秀忠、利長が加わってる次世代メインの遺言状だからかな
人間七七四年 [] 2017/11/19(日) 05:50:56.77:QTrtgdmw

兄じゃねーよ!バカチョンは黙ってろ!
人間七七四年 [sage] 2017/11/19(日) 06:33:45.60:oK5Z9YKT
ほう。
人間七七四年 [] 2017/11/19(日) 06:34:45.74:oK5Z9YKT
深い考察がされておりますスレですね。
人間七七四年 [] 2017/11/20(月) 09:29:57.18:gZ04jCkI

この時代、席順とか名前順とか戦陣の順とか名誉に関わるから、結構面倒くさいと思ったけど
人間七七四年 [sage] 2017/11/20(月) 10:08:53.50:jBIg7kVx
太閤様ボケてる
人間七七四年 [sage] 2017/11/21(火) 02:38:31.63:XYAltPSN

そうではなくて、秀家の方が心情的に近い、とかそういう風な話ではないのですかね。
人間七七四年 [sage] 2017/11/21(火) 08:41:58.11:aqIawwyN
心情で一番近いのは秀家
人間七七四年 [sage] 2017/11/21(火) 10:18:26.52:VQqNtffC
お焼香の順番みたいにまず身内から序列順にって印象だな
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 00:12:59.34:SoGNFCOc
両川は寿命で仕方がないにせよ穂井田が健在だったらどうなっていただろうか?
毛利本家の筆頭家老的存在かつ秀元の親父だったんだろ?
人間七七四年 [] 2017/11/23(木) 03:35:52.92:/fnguSFb

穂井田ひとりではどうにもならないと思えるのだが。小早川隆景が生きていたらな。
人間七七四年 [] 2017/11/23(木) 03:35:58.07:ZHPaXgTa

穂井田ひとりではどうにもならないと思えるのだが。小早川隆景が生きていたらな。
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 06:50:22.17:b3JFUzdm
むむ、連投でございますか。
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 09:28:22.81:dA+x9K4l

超ロングパスのキャッチで悪いが
家康本隊というのは旗本衆の集合体の3万の軍勢を差し
井伊・忠吉隊と本多隊は含まないからだよ
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 09:59:24.21:FjlyBcTi

そもそも当時の部隊編成は所領の違いがあっても、結局は編合・分割で
数百人程度の備の集合体になる
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 10:11:21.86:dA+x9K4l

うん
だから井伊・忠吉隊6,500は家康本隊とは別だろ
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 10:12:45.46:dA+x9K4l
そもそも備えの位置が違う
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 10:19:07.53:FjlyBcTi

そうですね。更に言うと三万という値もあまり根拠がない
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 10:19:10.58:NBO7+uFn
徳川本隊とするから分かりにくい
家康隊とすれば良い
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 10:23:56.72:b8sWoMNb
質問者の意図が譜代大名を含む家康隊と秀忠隊の比較なのに
徳川本隊だけ切り出して何が言いたいか分からん
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 10:51:07.90:NBO7+uFn

質問者の理解が間違ってるって事だろ
元々が秀忠が引き連れてくる部隊と家康隊との比較であり
3万何某は家康周りの護衛隊の事を指しているのだから
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 11:19:47.99:cXwKInQ1
中身は同じ部類

秀忠だけ精鋭ということはない
むしろ家康護衛が精鋭
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 11:24:03.45:FjlyBcTi
当時の徳川家は

家康隊(総予備)
秀忠隊(東北道本隊から中山道隊)
秀康隊(東北道先手隊から東北道隊)
忠吉隊(東海道隊)
信吉隊(留守居隊)

という5軍団編成
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 11:48:16.92:z6r/fu1f
たいかうさま
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 12:14:57.41:sM9N5HUw
井伊の軍勢は徳川では単体で別働隊としての役割も果たしていた
奥州仕置などでもわかる
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 12:23:44.17:sM9N5HUw
だから家康本隊に井伊と松平忠吉の隊は入っていない
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 20:26:27.21:StpHPZuX
井伊は徳川の先鋒だから。先鋒が本隊と離れて最前線で戦うのは常識だろ。
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 20:35:43.58:Lsr+JKtb
いや話の流れがわかってないだろ
人間七七四年 [sage] 2017/11/23(木) 22:08:34.02:FjlyBcTi
あくまで形式的だが、東海道の諸城に入った大名と、東軍先鋒目付の井伊直政(+本多忠勝)は、
松平忠吉麾下の東海道隊という括りだと思う
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 10:37:55.29:otEAiKMC
忠吉が形式的にでも東海道隊を差配してる史料とかあるのかな
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 11:07:17.52:tekiEDEF
忠吉は実子だから名目上の大将

でも東海道組は豊臣恩顧の合議だね
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 11:23:15.19:SYv7iL4k
忠吉は清洲から一旦江戸に帰ってる
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 11:37:19.96:otEAiKMC
史料上は井伊、本多、忠吉の3人は先手衆、内府御先手衆と呼ばれてて
その上合流して関ヶ原に臨んで先鋒役務めているわけで
忠吉らと家康軍を別個に考えるのは形式上実情ともそぐわないわな
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 11:50:04.68:hgCJzJWo

それは無いかと

忠吉は小山評定前に駿府城へ向かい、そのまま城番を務め、
家康上洛時に同道して関ヶ原へ到着

なので東海道隊と言っても、城番を務めた譜代大名や、
先鋒の目付(井伊・本多)の名目上の大将という位置づけ
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 17:50:05.42:WrROcCkm
東海道隊は何事も井伊直政の指図通りに動けと
豊臣恩顧の大名に家康が書状をだしている
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 18:45:43.99:hgCJzJWo
その直政の娘婿が忠吉という関係
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 21:15:11.64:bTzDzl2K
豊臣恩顧を率いる東海道隊は徳川からは井伊直政のみの予定だった
家康が福島正則や浅野幸長などの諸侯に
「井伊兵部に全て一任しているので井伊の指図通りにするように」と書状を出しているように
東海道隊を纏めて進軍するのは直政の役割だった

出発前に直政が生死をさまようような病に罹ってしまい
急きょ秀忠隊に加わる予定だった忠勝が先発で東海道隊に加わる
病が少し回復した直政が数日後に出発し追いつくという状況だった

忠吉は家康と家康本隊と共に到着する
その後は義父である直政の後見のもと井伊隊と共に着陣


こういう流れ
人間七七四年 [sage] 2017/11/24(金) 22:17:38.28:hgCJzJWo

自分は東海道隊は城番の譜代大名と目付(井伊・本多)を指しているつもり
豊臣恩顧大名による東海道上洛軍(東軍先鋒)とは、分けているつもり
人間七七四年 [] 2017/12/03(日) 20:15:53.87:sGIZDPih
城番はあくまで城の守備が主目的だし、周辺の城や砦を攻略してた別働隊もいるけど
それらを東海道隊と呼ぶのは違和感有るな
人間七七四年 [sage] 2017/12/05(火) 23:48:43.94:Kz0wvBeT
ttps://youtu.be/mXMf90QXOfc

関ヶ原で戦が発生したことと、
新幹線が関ヶ原を通っていることには、
地理的な共通した要因があるのだな。
人間七七四年 [sage] 2017/12/06(水) 20:20:17.53:85VxPCRA
何を今更w
人間七七四年 [sage] 2017/12/06(水) 20:59:27.35:TzXwo+yw
進めーっ。進めーっ。止まる奴はぶった斬るぞーっ!
人間七七四年 [sage] 2017/12/06(水) 23:06:57.58:1fAeGh3N
イケメ〜ン!
人間七七四年 [sage] 2017/12/06(水) 23:07:56.43:1fAeGh3N
「おっかぁ…」
ドサッ
人間七七四年 [] 2017/12/16(土) 22:21:44.53:UFSrU1Hu
>
水野勝成も別働隊で三成出撃後の大垣城攻めて、福原長堯から正宗分捕ってんだよな
人間七七四年 [] 2017/12/29(金) 08:17:09.79:vyrauVVA

その正宗は福原が三成から貰った奴で、三成は秀康にも
別に正宗あげているんだよな
正宗は当時でも貴重品だと思ったけど、三成は結構な数保有していたのかな
人間七七四年 [] 2017/12/30(土) 09:47:35.93:laEg1QzX
戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか

ttps://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171229-00201966-toyo-bus_all

相変わらず、底が浅いな
人間七七四年 [sage] 2017/12/30(土) 10:26:55.12:GYnRCrAH
お前は底が深いのか?
人間七七四年 [sage] 2017/12/30(土) 12:09:46.18:rN6h+aQ6
底が浅いというかコメントにもあるけど番狂わせじゃないのばっかじゃねっていう
人間七七四年 [] 2018/01/05(金) 21:51:58.35:jYhjWXqK
関ヶ原はあくまで豊臣政権下での勢力争いみたいに説明してる本もあるけど
当時の公家とかの日記を見ると、普通に徳川対豊臣の対立捕らえてる人も
結構いたんだよな
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 00:03:31.89:xT+XklSe
実際は豊臣政権下の家臣の争いにしてあるけど豊臣秀頼(淀君)サイドからしたら自分達に脅威は感じたのは本音で公家なんかは豊臣秀頼(淀君)と徳川家康が対立って見たんだろうね
歴史は勝者が書き換えるから実際は公家の書いた事が本音なのかもしれない
西軍でまともに戦ったメンツ見れば納得行くし
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 00:14:13.81:nlQj/KnW
家康の場合、勝者になっても歴史を気にしてないが正しい気がする。
史書の編纂が始まったのって江戸時代に入ってかなり経ってからの話だし
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 01:44:07.53:xQM6DcxN
関ヶ原を豊臣家の内部対立と見なさずに西軍を豊臣政権の正規軍として考える場合だと
前者より後者の方がより豊臣家の地位の低下が酷くなってしまうんだけど
公家は秀吉の死んだ豊臣家には何の価値も感じていなかったということか
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 02:57:51.58:c4Q2jSOh

そら、歴史を作るよりも体制を盤石にするのに忙しいからねえ
人間七七四年 [] 2018/01/06(土) 08:17:40.49:6gAisDr6
諸説あり

ttp://www.bs-tbs.co.jp/culture/shosetsuari/

1/6 夜10時〜【#関ヶ原の戦い スペシャル】
過去2回の放送をまとめた“関ヶ原の戦い”決定版!
▼主戦場は #関ヶ原 ではなく、戦いはわずか2時間で終わった
▼#石田三成 は関ヶ原にいなかった!突き止めた本当の陣地
▼#徳川家康 は関ヶ原にいなかった!家康の真の狙いは…
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 09:06:42.46:vqoadDpU
家康はあれだけ出版に傾注したのに、そういう人物がやりそうな
自己を正当化する出版はしていないからね
精々、『吾妻鑑』出版時に世良田を得川にした位?

なお、秀吉はプロパガンダの雄
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 16:22:05.73:qS2wCwc6
秀吉のプロパガンダは徹底してて凄いよな
独裁者がやりがちな事ではあるけど日本では珍しい
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 17:26:45.27:nlQj/KnW

出版したり貸借してる書物を見てると、古典にしか興味がなかったんだろうね。
人間七七四年 [sage] 2018/01/06(土) 23:28:34.50:OhWqBQJ/
今後は白峰説に変わって行くの?
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 00:49:58.83:JPB6U3uY

参謀本部の関ヶ原も駄目だけど、白峰説も穴だらけなのでたぶん無理。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 01:09:42.95:JqQRxQvz
今日の『諸説あり!』
ヲタクの自慢話聞かされている様で観てて疲れた
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 08:40:40.95:bZX9eC4D
そもそも、白峰の関ヶ原の説は全て査読無しの紀要が出典だし
無料でインターネット閲覧できるので広まったようなもの
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 10:08:45.18:cfmymAVI
白峰面白いが論理破綻が惜しい

指摘のみなら良い
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 12:21:02.43:JPB6U3uY
現状、確実なのは開戦時刻が巳刻であった事、
問鉄砲は存在しなかった事、西軍が比較的早い時期に崩れた事くらいかな。

その他の諸説は史料間で相違があるので要検討って感じだろう。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 13:37:27.40:6AzawUmP

一応大老時代に「内大臣家康公は漢の周勃や霍光のように秀頼君を支えるであろう」みたいな文章を貞観政要の奥書に書かせたりしてる
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 13:39:56.30:cfmymAVI
その3つとも根拠は?
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 14:35:07.94:JPB6U3uY

開戦時刻については同時代の一次史料、二次史料ともに巳刻になってる。西軍が早く崩れたのも同様。
問鉄砲は江戸時代に入ってかなり経ってから書かれているので、明らかに後世の創作。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 14:47:31.80:cfmymAVI
開戦時刻の一次資料とは具体的に?
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 16:45:10.06:1XdDipWs
石川康通彦坂元正連署状や舜旧記とかやろ
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 18:00:22.09:bZX9eC4D
時刻も開戦は小競り合いからか、本格戦闘からか
終戦も多勢が決した時か、敵が崩れた時か、追撃を停止した時か
これだけの条件がある
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 18:15:39.20:JPB6U3uY
それなら巳刻以外の史料を出してくれよ
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 18:22:05.20:mcfh7jfv
まあ時間はどうやって測ったんだろう

いわゆる抜け駆けの時間を誰かが開戦と
判断して日時計で測ったのか?
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 18:26:39.50:mcfh7jfv
今で言う00分なのか
秒は?
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 20:51:43.21:bZX9eC4D

『本多家武功覚書』『関原始末記』には辰の刻からとある
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 21:06:43.20:JPB6U3uY

成立遅すぎでしょ。同時代史料からほど遠いじゃないか。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 22:14:50.84:ew9dECzm

同じ史料でも自説に都合いい部分だけ取り上げて他は無視とかなー。

まぁ、あの番組はまともに見ちゃダメってのは重々承知してたつもりなんだが、
矢竹が育ってるから三成の陣城跡とか、ホント訳ワカラン。普通に考えれば
対松尾山の付け城とかじゃなく街道監視の砦跡とか土豪の居城とかでしょ。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 22:15:08.77:bZX9eC4D

に二次史料とあるので
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 23:01:13.44:9PqP1gVW
あの説だと、金吾さん優秀で、大活躍なんですね。
後世の評価が変わりそう。

大谷刑部に恨まれるのは同じだけど。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 23:30:19.60:mcfh7jfv
何でも自分の都合のよいように解釈

金吾は巻き込まれたから
恨まれるのは筋違い
確か大谷は恨んでない

恨んだのは宇喜多
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 23:36:47.67:ew9dECzm

あぁ前半は、秀秋、天才軍略家扱いでしたな。
人間七七四年 [sage] 2018/01/07(日) 23:46:29.16:JPB6U3uY

同時代って書いてるよね
人間七七四年 [sage] 2018/01/08(月) 04:04:53.62:2c+YeBPm
大谷は小早川の裏切りじゃ崩れなかったそうですが、なんで壊滅したのですか?
普通に藤堂に負けたとか?
人間七七四年 [sage] 2018/01/08(月) 08:55:20.90:fH1yz6wd

同時代の二次史料て何?
人間七七四年 [sage] 2018/01/08(月) 10:10:08.24:dmq8SHsX

当時の経験者の覚書等だよ。
人間七七四年 [sage] 2018/01/08(月) 20:16:46.80:fH1yz6wd

『関原始末記』は上田合戦に従軍した酒井忠勝による編纂だよ
人間七七四年 [sage] 2018/01/12(金) 14:25:24.61:oItdmQPe
最近は一週回って本当に家康は賊扱いだったような気がしてきた
それでもあんなに味方がいたのはそれだけ大きい存在になっていたから
口八丁に騙されたとかじゃなく、普通に秀吉亡き豊臣を見限って徳川の天下に鞍替えしてたんじゃないかね
人間七七四年 [sage] 2018/01/12(金) 14:40:45.48:O/2ec9gx
豊臣秀吉なき跡は、@豊臣家を頭にする緩やかな上下間係となり、実態は割拠型と捉えた毛利、上杉と、A次代の至高の権力者を据えるべきと捉えた徳川と、B引き続き豊臣秀頼を至高の権力者と捉えるべきと考えた石田、CBと同じだが石田がいては不味いと考えた福島、加藤
1600〜1615の動きは、@BとACがぶつかり、まず@Bを排除し、ついで、AがCを排除したのである
人間七七四年 [] 2018/01/13(土) 18:01:42.47:QI8L45eb
山本昌之が文藝春秋の連載の中で関ヶ原について書いているけど、どう思った?
人間七七四年 [] 2018/01/13(土) 21:30:40.87:e3EMNxxK

山本じゃなくて山内じゃないのか
人間七七四年 [sage] 2018/01/13(土) 22:05:34.51:C3mIsWFd

文藝春秋の記事で学問的に通用するものなんて皆無だろうに
人間七七四年 [] 2018/01/14(日) 06:25:26.18:magOE1qz

そもそも冒頭の黒田長政の文章、意訳らしいけど、本当にあるのか?
あるとしたら出典は何?
人間七七四年 [sage] 2018/01/14(日) 06:48:24.93:LU8pnKTn

出典は長政が死ぬ二日前に書き残した元和九年八月二日付小川内蔵充・栗山大膳宛 黒田長政遺言覚でしょ
人間七七四年 [] 2018/01/15(月) 13:05:08.05:pBz4prNM
俺が付いていたら西軍が勝ったとか長政らしいといえば長政らしいけど
人間七七四年 [sage] 2018/01/17(水) 11:08:58.12:6rFRPCy+
言ったとしても大ぼらとは言い切れないな。
福島正頼と金吾は奴の口車に乗せられたからな。
人間七七四年 [sage] 2018/01/20(土) 10:15:43.13:ishKLekv
関ヶ原時の輝元47歳
関ヶ原時の三成40歳

今川滅亡時の信玄47歳
桶狭間時の義元40歳

家康自身の成長はもちろんだけど相手の器量にも差があるような
人間七七四年 [sage] 2018/01/20(土) 17:22:55.60:FQN2+Csc
関ヶ原時の武将年齢
徳川家康:58歳
毛利輝元:47歳
石田三成:40歳
黒田長政:32歳
小早川秀秋:18歳

桶狭間時の武将年齢
今川義元:40歳
織田信長:27歳

歳もあるが実力がある人が勝つ
人間七七四年 [sage] 2018/01/21(日) 16:15:31.82:QDjG7IVn
輝元と家康10歳ほどしか離れてないのに輝ボンクラ坊っちゃん扱いなのかわいそう
人間七七四年 [sage] 2018/01/21(日) 17:58:07.40:5gfbLTv5
家康がいなければ十分重鎮扱いされる年齢なのにな
人間七七四年 [sage] 2018/01/23(火) 15:10:22.18:+zq0Tm+R
祖父・叔父の後見受けてた期間が長すぎるせいか
人間七七四年 [sage] 2018/01/23(火) 20:29:45.40:2vyM9to5
輝っちアラフォーになっても後見されていたんだな
人間七七四年 [sage] 2018/01/23(火) 20:30:31.85:QPWFMBR1
秀就ちゅうさらなるボンクラが控えてるというのに
人間七七四年 [sage] 2018/01/24(水) 13:45:24.72:qgDrQ8rd
輝元はよくやったと思うけどなぁ
事前に準備しておいて素早く大坂城に乗り込んだ手腕といい、
豊後に大友義統を送り込み、伊予加藤領を攻撃、伊予藤堂領で一揆を煽動、讃岐生駒領・阿波蜂須賀領を接収、
紀伊・伊勢沿岸を水軍で強掠、西軍盟主として長宗我部留守居に伊予派兵を命令、この積極的領土拡張といい凡人ではないでしょう
家康が関東割拠策さえとっていれば西国に毛利大帝国が出現して天下獲り目前だったのに…
人間七七四年 [sage] 2018/01/24(水) 15:28:30.48:GHHnzEUK
小早川隆景亡きあとのこの状況下で毛利輝元は良くやったと思うね
ブレーンは安国寺恵瓊と吉川広家か
吉川広家と安国寺恵瓊は別に仲は悪く無かったみたいだな
一枚岩になれなかったのが惜しい
やはり家康は一枚も二枚も上手だな
人間七七四年 [sage] 2018/01/24(水) 18:10:15.79:S0BChb+b
せめて穂井田が生きてればな・・・
人間七七四年 [sage] 2018/01/25(木) 20:46:03.43:eihrPyvH
尼子は叔父を殺したことが滅亡の遠因と言われ
毛利は叔父がいすぎて当主が頼りないと言われ
けど本当に酷いのは叔父に半ば見限られた宇喜多
人間七七四年 [sage] 2018/01/25(木) 21:10:59.06:plJV4STO
伯父が養父だけど実父が関ヶ原に突撃鹿児島に引き篭もって家康に国を安堵された家久は外交は強い
人間七七四年 [sage] 2018/01/25(木) 22:06:22.82:vTmFWARm
家久ってDQNなボンボンを地でいってるよなあ
人間七七四年 [sage] 2018/01/25(木) 22:26:32.01:el1vbVdX
ぜんぜんちゃうだろ
人間七七四年 [sage] 2018/01/26(金) 14:46:27.56:qoXt8Kcl
九州征伐後の島津は体制が複雑だったからなぁ
養父と組んで家康に通じて実父を追い落とす、けどバランスを取る為完全に排斥はしない
威名で抗しえない二人とも死ぬまで待って一人勝ちの家久は辣腕だと思うよ
人間七七四年 [sage] 2018/01/26(金) 16:21:25.26:wPx+OsLm

本当に酷いのは叔父に見限られた三村
人間七七四年 [sage] 2018/01/26(金) 19:27:37.68:ExskufPf
久保が生きていたら家久は風雅三昧の生活をおくれたのかな
それとも関ヶ原後あたりに野心が鎌首をもたげるかな
人間七七四年 [] 2018/01/26(金) 21:09:43.04:8/mJ8wz3
西軍の敗因は、地元武将の裏切りにあった!

用意周到に合戦の準備を進めていた石田三成の戦略は、
竹中半兵衛の子で関ケ原の領主、竹中重門の翻意によって、
静かに崩れ始めていた――
生活の場を戦場にされた百姓たちと、領地と領民を守るため
苦渋の決断をした地元領主の動向が、
「天下分け目の戦い」を大きく左右することとなった!

領地を戦場にされた側から見た、異色の合戦論!

『竹中重門と百姓の関ヶ原合戦』
地元領主・領民から見た「天下分け目の戦い」

ttp://www.yosensha.co.jp/book/b341642.html
人間七七四年 [sage] 2018/01/28(日) 22:03:04.57:dOyNzkic
ttps://i.imgur.com/V2pcvh1.jpg

石田三成の陣に甲冑を着た人がいましたね。
人間七七四年 [sage] 2018/01/28(日) 23:41:30.00:l+2Fv9pE

島左近だよ
人間七七四年 [] 2018/01/31(水) 20:40:53.81:CL9PYPQE
島左近も変に持ち上げられている人物だよな
もし最近言われているように、西軍が早々に
崩壊したのなら、大して役に立っていない気がする
人間七七四年 [sage] 2018/01/31(水) 22:29:51.99:N3VvG1f3
関ケ原で亡くなったのか、逃亡したのかも不明だよね
謎多き島左近
人間七七四年 [sage] 2018/02/01(木) 01:23:36.79:vmfxy4gd
生きてたら大坂の陣で姿を現したんじゃないかなぁ・・・
人間七七四年 [sage] 2018/02/01(木) 01:28:27.59:Q9lTWCqt
それも美化された島左近像からの連想だよなぁ
人間七七四年 [sage] 2018/02/01(木) 02:12:45.69:rkghGy88
島左近って関ヶ原で戦死せずに後々旗本になった説と
遠江国(現浜松市)に逃れて土着した説があるよね
戦死してないやん!
人間七七四年 [sage] 2018/02/01(木) 11:31:54.27:I+NaHYvb

説≒事実
人間七七四年 [] 2018/02/03(土) 08:46:40.48:ke20UpLZ
通説でも戦闘初期で負傷した事になっているし
蒲生頼郷の方がよっぽど頑張っていたように思える
人間七七四年 [sage] 2018/02/03(土) 10:33:09.05:BxptxZv6
島左近つえぇ!つうことは倒した俺たちもっと強いと黒田家が持ち上げただけだから
人間七七四年 [] 2018/02/03(土) 13:39:32.99:nZJ7pOEE
関ヶ原関連だと、黒田は何かと出てくることが多いな
人間七七四年 [] 2018/02/03(土) 21:52:29.10:ke20UpLZ
東軍の勝因の一つは長政の謀略だし、長政自体俺が西軍に付いてたら
西軍が勝っていたってくらい自分の力に自信もっていたからな
人間七七四年 [sage] 2018/02/03(土) 22:03:39.75:o0YsX5z2
だからこそ、親父はムカついて仕方なかったんだろうか?
人間七七四年 [sage] 2018/02/03(土) 22:29:39.39:BxptxZv6
ソースは偽書説が出てる家臣の家に残っていた遺言状だからなんとも
人間七七四年 [sage] 2018/02/04(日) 02:56:46.65:3nItfVbM
小西は関ヶ原で戦った相手も家臣も知名度低い
人間七七四年 [] 2018/02/04(日) 09:43:00.99:Vdmfn9Ja
小西行長は肖像画も残ってないんだっけ?
人間七七四年 [sage] 2018/02/04(日) 10:47:43.17:ep1/JIdB
大谷とかも肖像画残ってないだろう
あの有名な白頭巾姿は後世の創作っぽいし
人間七七四年 [sage] 2018/02/04(日) 11:53:40.82:8K/oStAq
菩提寺か後継の家がちゃんとしてないと残りにくいからな
人間七七四年 [] 2018/02/04(日) 12:20:38.20:Vdmfn9Ja
大谷家は三男の家系が福井松平家に家老格で仕えていたんじゃなかったか
先祖の寿像くらい描かせなかったのかな
人間七七四年 [sage] 2018/02/04(日) 12:42:14.86:8K/oStAq
そらまぁ先祖の寿像は描けないだろうな
人間七七四年 [] 2018/02/05(月) 12:55:00.76:bvQeBYiB
大谷はただの眼病だったのが、いつの間にかハンセン氏病にされたって説があったな
人間七七四年 [sage] 2018/02/05(月) 17:05:34.09:ldEuLbf+
>小西は関ヶ原で戦った相手も家臣も知名度低い
古田織部なのか古田重勝なのかよくわからんぐらいのマイナー勢

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