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記号論について教えて欲しいんだが [転載禁止]©2ch.net


考える名無しさん [sage] 2015/04/20(月) 04:27:00.10 0
小説とかの作品解釈にメディアがどのくらい影響を与えているのかを考えて色々調べてみてるんだが少し触れた記号論ってのがかなりヒントになりそうだったから教えて欲しい
何人か論者がいると思うがソシュール、バース、エーコの3人に絞って各人の論を教えて欲しい
本を読んだんだが上手く整理できないんだ、できる限り簡潔に頼みたい
考える名無しさん [sage] 2015/04/20(月) 04:28:37.60 0
説明しにくいかも知れないから自分のやらんとしてることについて質問などがあればレスしてくれれば見て返すので書いていってくれ
考える名無しさん [sage] 2015/04/20(月) 11:08:08.72 0
概要をwikipediaで読んでみるとかじゃあかんの?
考える名無しさん [sage] 2015/04/20(月) 12:22:50.52 0
この板に記号論について説明できる人は居ません
考える名無しさん [sage] 2015/04/20(月) 12:28:32.78 0
シニフィアンとかシニフィエとか述べる人はいるよ
記号学に詳しいかどうかは知らないけど
考える名無しさん [sage] 2015/04/20(月) 13:05:54.86 0
文芸評論なら文学板にある文学理論スレの方が詳しい人多いよ
多分
考える名無しさん [sage] 2015/04/22(水) 08:28:08.54 0
レスついてた
Wikiはさらったけどうまく掴めないからここで聞いてみたんだが、別の板行ったほうがよさそうだな
ありがとう
考える名無しさん [sage] 2015/05/09(土) 21:27:25.50 0
シニフィアンとシニフィエくらいだろ有名なの
考える名無しさん [] 2015/06/03(水) 21:38:56.14 0
シンギュラリティ
考える名無しさん [sage] 2015/06/04(木) 11:03:39.02 0
記号学2.0の入り口で止まったまま
考える名無しさん [] 2015/06/14(日) 04:06:34.66 0
熟女趣味の洗練について
考える名無しさん [sage] 2015/06/14(日) 04:49:40.18 0
表層的にキモヲタでつ
考える名無しさん [sage] 2015/06/26(金) 01:45:27.84 0
丸山なんとか先生しか本書いてなくないか?
考える名無しさん [] 2015/07/13(月) 11:17:18.15 0
見えている世界は記号世界、非記号とは非現象の見えない世界である。
考える名無しさん [sage] 2015/07/13(月) 23:50:06.80 0
そんなあなたにペンローズ
考える名無しさん [] 2015/07/14(火) 03:56:20.66 0
 
お世話になります。
私、責任者の加茂と申します。以後、宜しくお願い致します。
ttp://www.apamanshop.com/membersite/27009206/images/kamo.jpg
浪速建設様の見解と致しましては、メールによる対応に関しましては
受付しないということで、当初より返信を行っていないようで、今後につい
てもメールや書面での対応は致しかねるというお答えでした。
ttp://www.o-naniwa.com/index.html 事務員 東条 南野
ttp://www.o-naniwa.com/company/ 岡田常路
このように現在まで6通のメールを送られたとのことですが、結果一度も
返信がないとう状況になっています。
ttp://www.apamanshop-hd.co.jp/ 加茂正樹 舟橋大介
ttp://s-at-e.net/scurl/nibn-apaman.html 大村浩次
私どものほうでも現在までのメール履歴は随時削除を致しております
ので実際に11通のメールを頂戴しているか不明なところであります。
 
 ・friends もののけ島のナキ ttp://s-at-e.net/scurl/NakionMonsterIsland.html
 
 ・妖怪ウォッチ ttp://s-at-e.net/scurl/Youkai-Watch.html
 
 ・崖の上のポニョ ttp://s-at-e.net/scurl/Ponyo.html
 
 ・スター・ウォーズ/フォースの覚醒 ttp://s-at-e.net/scurl/SWfa.html
  
 ・A ttp://s-at-e.net/scurl/ia-A.html
 ■ttp://s-at-e.net/scurl/ia-Pos.html
 
大阪府八尾市上之島町南 4-11 クリスタル通り2番館203
に入居の引きこもりニートから長期にわたる執拗な嫌がらせを受けています。
この入居者かその家族、親類などについてご存知の方はお知らせ下さい。
hnps203@gmail.com
考える名無しさん [sage] 2016/01/21(木) 00:06:54.67 O
クリばかり攻める。
考える名無しさん [sage] 2016/02/09(火) 00:07:44.12 O
クリばかり攻める。
考える名無しさん [sage] 2016/03/12(土) 00:14:58.47 O
クリばかり攻める。
考える名無しさん [sage] 2016/04/10(日) 00:08:29.79 O
クリばかり攻める。
考える名無しさん [sage] 2016/05/04(水) 00:53:32.47 0
クリばかり攻める。
考える名無しさん [sage] 2016/05/15(日) 09:00:39.38 0
【ソシュール】記号論【パース】 [転載禁止]©2ch.net (873)のスレで、

>ERROR: このスレッドは512kを超えているのでもう書けません!

というメッセージが出て、もう書き込ませてもらえないようなので、
こちらに続きを書くことにする。


誤解のないように補足しておくと、「オープンダイアローグとは何か」という
著作において、ダブルバインドが統合失調症の原因となるという説が引き継が
れているわけではない。「ダブルバインド」という概念の重要性が指摘されて
いるだけで、「オープンダイアローグ」との関係で「ダブルバインド」について
踏み込んで論じられているわけでもない。

ここで私が問題にしている「ダブルバインド」は、統合失調症との関係に限定
されてるようなものとしてではなく、極めて日常化されたコミュニケーションの
パターンとしてである。
考える名無しさん [] 2016/05/15(日) 09:02:14.78 0
スレの保守のためにageておく。
考える名無しさん [sage] 2016/05/15(日) 09:12:18.13 0
のダブルバインドの説明は、ダブルバインドをその構成要素によって
説明しているが、とても分かりにくい。なぜなら、なぜそのような
コミュニケーションのパターンが生じるのか、そのようなコミュニケーション
の手法が何を「意図しているのか」について、一切触れられていないからである。

この説明だけ読むと、ダブルバインドは、何か特殊な心理実験の設定の
ように見えるが、実際には、誰でもが普通に日常的に経験するコミュニケーション
の手法である。
考える名無しさん [sage] 2016/05/15(日) 09:42:37.57 0
ダブルバインドとは、相手に対して暴力を行使することができる立場にいる者
が、その立場を、相手が自分に対して負う義務に変換する手法であり、暴力
行使の潜在力を、いわば、債務者に対する債権者の立場に変換するコミュニケーション
の手法である。
考える名無しさん [sage] 2016/05/15(日) 10:43:57.45 0
例えば、企業で働いている人々が、自分の仕事の目標数値と計画書を提出する
ように求められるとする。人事評価は、目標数値の実現度によって厳しく
管理されており、実現した数値を誤魔化すようなことをすれば、即解雇理由
となると誓約させられる。その一方で、その人々は、提出する目標数値
によって仕事の意欲を評価され、意欲の低い人間はリストラの対象にされる
と周知される。そこで、実際に上司が、低い目標数値を提出してきた人間
を叱責して、計画書を書き直すよう要求することを繰り返し、非現実的な
高い目標数値を掲げる人の計画書だけを受け付ける。

すると、その企業で生き残ろうとする人々は皆、実現不可能な目標数値を
自らの計画として上司に提出するようになり、自分で提出した目標数値を
実現できない人々は、いつでも叱責されて、「申し訳ありません」、
「努力します」と繰り返すしかなくなる。自分で提出した目標数値を
「約束」として実現するようにさらに厳しく上から追求されれば、それが
「正当な」解雇理由となることを承知しながら、実現した数値を「自主的に」
誤魔化して上に報告することになり、数値が誤魔化しであることが
発覚したとしても、責任があるのは誤魔化した本人と、せいぜいその
直接の管理者ということになる。
考える名無しさん [sage] 2016/05/15(日) 11:10:44.94 0
私は、哲学において最も重要なのは現実を的確に言葉で表現する
ことだろうと思う。私には、自分の記述や表現がどれだけ適格
であるのか分らないが、ここで私が言い表そうとしている現実
をより的確に表現することができたとしても、それによって
より高く他人から評価されるようになるわけではないことを、
私は確信している。
考える名無しさん [sage] 2016/06/07(火) 08:48:09.45 0
「さそ(誘)ふ」というのは、文字どおり、「さ、さ、さ」と「さ」を
「そ(添)ふ」ことなのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 08:52:50.60 0

この場合の「そ(添)ふ」は、英語の「over」や仏語の「sur」と同様に「(既存の
ものに対する)重複(=追い重なり)として「再帰性」に近いニュアンスを表して
いると解釈されることになり、英語の「take over」が「(我が身に)引き受ける」
ことを表し、仏語の「surencherir」が「競り上げる」ことを表すことと比較できる。

同様に「〜+そ(添)ふ」と分析できる可能性の考えられる表現として、
「お(襲)う」、「きそ(競)う」、「よそ(装)う」、「あらそ(争)う」などがある。
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 08:55:37.00 0
「お(襲)う」(誤)
「おそ(襲)う」(正)
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 10:41:17.16 0

いま気づいたけど、いつものことながら、何でMicrosoftのIMEは、
同じ入力の変換を文章の途中で勝手に別の候補に切り換えるのだろう
(「的確」が途中で「適格」に変更されている)。AI技術の進歩
がどうのこうのと言う以前に、機械なのに機械的に処理すること
すらまともにできない。
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 11:42:19.56 0
「よそ(装)ふ」の「よ」は、私には「寄(よ)す」の「よ」と同根であると
感じられる。

学研全訳古語辞典

よそ・ふ 【装ふ】

@身づくろいする。飾り整える。
出典万葉集 一七七七
「君なくはなぞ身よそはむ」
[訳] あなたがいないならばどうしてこの身を飾りましょうか。

A整え設ける。準備する。支度する。
出典源氏物語 絵合
「女房のさぶらひに、御座(おまし)よそはせて」
[訳] 女房の詰め所に御座所を準備させて。

B(飲食物を)整え用意する。器に盛る。
出典平家物語 八・猫間
「飯(はん)うづだかくよそひ」
[訳] 飯を山もりに器に盛り。
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 13:04:07.11 0
「ご飯をよそう」という表現について、NHKのサイトに以下のように
説明されている。
ttps://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/070.html

「ご飯を盛る」と「ご飯をよそう」とは、どう違うのでしょうか。

次に「よそう」についてですが、これは「身だしなみを整える」の
「装<よそお>う」と同じ語源で、「整える」というのが本来の意味です。
ここから、食べ物を器に整えて用意することを「よそう」と言うように
なりました。「よそう」をこのような意味で使った例は10世紀ごろには
すでに見られます。ことばの成り立ちから、やや上品な意味合いを帯びる
ことがあります。
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 13:16:20.61 0
しかし、の文例から見ても、「よそふ」が単に「整える」、「準備する」
を意味していたとは私には思えない。むしろ、@〜Bのすべてに関して、
既にあるものに重ねるというニュアンスを伴っていると考えるのが自然
であると考える。だからこそ、「よそふ」が「盛る」に近い意味として
解釈されることにもなったのだろう。

@については、身ひとつに何かをそれ以上重ねて飾ることを、Aに
ついては、単に整えるのではなく、さらに飾りを加えることで設える
ことを、Bについては、すでに椀に入れられた飯にさらに飯を
加えることを表現していると考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2016/06/09(木) 13:51:45.26 0
この場合、想起されるのは、例えば、フランス語の「rajouter」である。

プロヴァンス風 クリームチキン - NHKオンライン
ttps://www.nhk.or.jp/gogaku/euro24/recipe/french10.html
Rajouter alors l'oignon et le poulet et faire sauter le tout à feu vif.
考える名無しさん [sage] 2016/06/10(金) 08:21:39.52 0

このサイトで解説者/回答者は、次のようにも説明している。

>「みそ汁」は盛れないと考える人が多いでしょう。いっぽう「よそう」には
>そのような限定はなく、「ご飯」だけでなく「みそ汁」も器によそうことが
>できます。

これが正しいとすれば、「よそう」を「よ−そ(添)ふ」と分析できる可能性は、
否定されるのだろうか。私は、そうは思わない。
考える名無しさん [sage] 2016/06/10(金) 08:36:33.13 0
私の言語感覚では、「ご飯」は「よそう」ものであるのに対して、「みそ汁」
は「つぐ」ものであり、「みそ汁」を「よそう」と言うのは不自然に感じる。
しかし、どう表現するのを「自然」と感じるかは、その人が育った家庭や
仲間内でどのような表現が慣習的に使われていたかに大きく依存するので、
誰の言語感覚がより「自然」であるかを言い争ってもあまり意味がないだろう。

重要なのは、どのように解釈すれば、全体としてより整合的な説明が得られる
かである。さらに言えば、全体的な整合性を追求することは、すべてを
一平面に並べて、平面的に捉えようとすることではない。
考える名無しさん [sage] 2016/06/10(金) 09:00:58.51 0
この解説者の育った家庭では、おそらく、「ご飯」を「よそう」という表現と
同じように「みそ汁」を「よそう」という表現が用いられていたのだろう。
同様に、「ご飯」を「つぐ」という表現を用いる人も多くいるので、「よそう」
と「つぐ」が、単に「椀に入れる」ことを表す表現として互換的に用いられたと
しても、何の不思議もない。

どのように解釈するのがより自然であるかは、「よそう」や「つぐ」が、より
広い文脈でどのように用いられているかによる。「つぐ」は、「お茶をつ(注)ぐ」
のように「そそぐ」ことだけではなく、より一般的に「接続させる」ことを
表すように用いられる。したがって、ご飯やみそ汁や「つぐ」場合、この表現
が表しているのは、「こぼれないように椀に入れる」ことである。みそ汁を
「よそう」という表現が用いられるとすれば、それは、「つぐ」(≒「こぼれな
いように椀に入れる」)という表現が用いられる状況との隣接性から、類推に
より、「よそう」を「(こぼれないように)寄せ添えて(椀に)入れる」ことを
表しているとする意味解釈が生じたためではないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/06/10(金) 09:12:45.84 0
コンンセンスを追求することは、物事を分りきった平凡さ(banality)に解消
することではない。コモンセンスの追求により見出されるのが単に平凡さ
であるとすれば、それは、その追求が反省的ではなく、自己満足/独善
(complacency)に陥っている証拠である。物事を知れば知るほど、自己の
正しさが確認されて安心するという博識な人々の慣習は、コモンセンスの
追求(critical commonsensism)とは相容れないのである。
考える名無しさん [sage] 2016/06/12(日) 10:59:20.93 0
>うまし国そ蜻蛉島大和の国は

「うまし」は、「美しい」と現代語訳されることが多いが、既に述べたとおり、
幼児語の「まんま(=うまうま)」や「あま(甘)」と結びついた表現であり、
英語に訳すなら「rich」に相当するだろうと私は考える。むろん、「うまし国」
を「富国」と現代語訳すれば、直ちに軍国主義時代が連想されることになる
ので、「不都合」が生じるが、標語(宣伝文句)としての用法としては、むしろ、
「美しい国」より「富国」の方が「うまし国」と共通性が大きいだろうと思う。

ちなみに、ドイツ帝国の「Reich」も語源的には「reich(豊か)」と共通する
表現から来ていると考えられている。そのように考えた場合、日本語の
「うまし国」は、それが幼児語を連想させて、情動的なイメージがより強い
というだけで、特に「大和独特の」感性を表しているわけではなく、
英語で言い表すなら「motherland」と「richness」の複合と考えること
ができる。

ttps://en.wiktionary.org/wiki/Reich
Etymology
From Old High German rīhhi ‎(“power, might, empire”), from Proto-Germanic
*rīkiją, itself either a substantivised *rīkijaz ‎(“rich, mighty”) (whence
also German reich ‎(“rich”)), or a direct borrowing from a Celtic language;
compare Middle Irish ríge ‎(“kingdom”).
考える名無しさん [sage] 2016/06/27(月) 13:07:37.16 0
「rutschen」(独語)と「つるつる」は似ている、というかほとんど音の順を
入れ替えただけだな。つ「るつ」る滑る。
考える名無しさん [sage] 2016/07/07(木) 10:39:54.61 0
If another is equal to oneself, two things that have the same
value for oneself ought to represent the same value for the other
as well. Conversely, if two things that have the same value
for oneself equally represent the same value for another,
the other must be equal to oneself. Such are the inferences that
lie at the basis of the principle of reciprocity.
考える名無しさん [sage] 2016/07/07(木) 10:47:57.65 0
日本語の「ひと(1)」の概念とは、そういうことだろう。
考える名無しさん [] 2016/07/22(金) 10:07:33.73 0
今年2月にエーコ亡くなってたんだね。癌だそうだ。
考える名無しさん [sage] 2016/07/23(土) 19:58:56.04 0
中本裕之(なかもと ひろゆき)元弁護士(新62期)=長文=奈良県について(2016年2月)

性別: 男、未婚
年齢: 36歳以下(昭和54年4月2日以降生れ)
国籍: 日本人?(本人談: 2012/03/26 パスポート取得)
住所: 奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)?
最寄駅: 近鉄・生駒線 竜田川駅?
実家: 不動産を所有する資産家の分家
家族: 実家で母親と同居、兄、弟、妹?、父親と確執?
母親: 世界真光(まひかり)文明教団の信者
宗教: 聖書は半分くらいしか読んでいない
既往症: ノイローゼ(2013/1/15)
常用薬: リスペリドン(2013/1/7)
禁忌: 奈良駅には行けない事情がある
職歴: 元弁護士(新62期、大阪弁護士会、登録番号 41908)、LECでの答案添削、家庭教師
資格: TOEICスコア 680 (2011/10/01現在)
高校: 奈良県 私立帝塚山中学・高等学校卒?
大学: 京都大学法学部 大石眞ゼミ?
大学院: 関西地方の法科大学院修了
受験: 旧司法試験の東京での申込み状況を知っている
勉強: 合格まで10年かかった。『事例本』シリーズ(辰巳1997年〜絶版)を使用
ゼミ: 憲法のゼミに所属(本人談: 右寄りといえば右寄りの方)
奨学金: 毎月1万円返済、返済期間10年以上(2013/10/22現在)
体重: 63.6キロ(2011/12/20現在)
好物: 水炊き、うどん
好きなアニメ:  ザンボット3(1977年)、太陽の牙ダグラム(1981年)、聖戦士ダンバイン(1983年)
偏愛: 伊藤かな恵(声優)、明坂聡美(声優)、高倉陽毬(アニメキャラ) 、小・中学生のホモ
憧れ: 大学教授、公務員
常駐先: 緊急自然災害板(原発情報)、哲学板(千葉雅也、東浩紀)、模型板、声優板ほか
2012/09/01 小・中学生の時にホモってフェラするのが最も良い
2012/09/05 わたしはとにかく、奈良駅にはいけないのです。
2013/10/22 中途半端に頭がよかったのが不幸の始まるなのであろう。
考える名無しさん [sage] 2016/08/16(火) 19:14:38.68 0
生成言語だろう?
チョムスキーの話も出て居たけど
あの爺の話を少しだけ気にして
調べた事が有るが

言葉は文化に依存する事無く
生得的に獲得する能力を持っているという話だったがな

一々くだらない解釈をしなくていいよ
生得的に知っているのではない(生まれたばかりの赤ん坊が言葉を巧みに扱ったりはしない)が
文化に依存せずに生得的に
獲得する能力を持っている(人間科学で解明できるパターンがある)
と言う事を言っているだけで人間科学に都合の良い話を出しているだけだし

生得的では無いと言う解釈が
奇妙で笑えるんだが

生得的に生成言語とやらで解釈出来る
言葉の基本構造は覚えられて
それにマッチする直接の語が国によって違うだけだと言う話だった

要するに生得的に言語を扱う能力を
完全に持っているという話だ

生得的なものと言ってくれよ頼むからと言う程度の話だ
流石にうんざりする程の馬鹿だなと思う

大体の意味で言えばな
大体の意味で言葉を使う奴が論戦でもしているつもりかよ?
考える名無しさん [] 2016/10/20(木) 07:50:10.84 0
意味と非意味を区別したまえ
考える名無しさん [sage] 2016/10/20(木) 19:52:26.10 0
つとめて=つと(early [hours])・め(rather)・て(towards)
≒towards rather early hours

この分析は我ながら結構気に入ってるんだけど、反論ないのかな?
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 01:10:51.52 0
もはや私には何の疑いもないのだが、日本語には再帰表現がとても多い。
不思議なのは、国語学でも、言語学でもそれを明確に指摘して、詳しく研究
してきたように見えないことだ。日本語の研究において、再帰表現の理解は、
それが意図的であるかどうかは知らないが、隠蔽されている。

「似つかはし」=「に(似)+つ(付/着)く+あ(合)ふ(再帰を表す助動詞)」の
形容詞形である。(英語では「befitting」、仏語では「convenable」という
表現が想起される。)
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 18:59:29.96 0
このようなことを指摘すると、大抵の場合、人々からは次のような反応が返ってくる。

@そんなことがどこの辞書、どこの文法書に書いてあるのか。どこにも書かれて
いないなら、そんなものはデタラメだ。
Aその解釈は辞書に書かれていることと違うので、間違っている。
Bそんな当たり前のことを指摘してなんの意味があるのか。そんなことを
わざわざ指摘してもらわなくても、日本語の表現の意味はきちんと理解して
いるし、外国語に訳すこともできるのだから、それで十分だろう。
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 19:34:01.85 0
確かに私の主張が誤っている可能性はあるだろう。しかし、誤ってる
可能性があるからといって、表現の解釈の可能性を探る試みを控える
べきだとはまったく思わない。そのように考えることは、、喩えるなら、
化学の研究において、実験に失敗する可能性があるから、教科書に書か
れた化学反応の再現実験以外はやってはならないというようなものである。
私は自分が無知であることをよく自覚しているが、そもそも何かを知って
いるか、知らないかということにほとんど関心がない。試みが、自分の
今まで知らなかった世界の可能性を見せてくれるかどうかにしか関心が
ないのだ。
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 19:41:47.35 0
では、一体、日本語の「〜あふ」という表現が多くの場合、再帰表現であると
指摘することによって何が得られるのだろうか。どのような新たな解釈の可能性
が開かれるのか、具体的に見てみよう。

学研全訳古語辞典

かげろふ 【陽炎】
名詞
春の晴れて直射日光の強い日などに、地面からゆらめいてのぼる気。
あるかないかわからないもの、はかなく消えやすいもののたとえに用いら
れることが多い。[季語] 春。◆「かぎろひ」の変化した語。
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 20:12:12.58 0
岩波古語辞典で「かぎろひ」を引くと「《カガヨヒ、カグツチ》と同根。
揺れて光る意。」とされ、Aに「立ちのぼる水蒸気に光があたり、光が
複雑に屈折してゆらめいて見えるもの。陽炎。」と説明されている。

そこで、《カガヨヒ、カグツチ》の「カガ」や「カグ」が何を表している
のかを同辞典でさらに確認してみると、「かげ【影・陰・蔭】」の項目
に「《古形カガの転。カガヨヒ、カグツチのカガ・カグと同根。光によって
できる像。明暗ともにいう》」と説明されている。いうまでもなく、
「かがみ(鏡)」=「影見」の「かが」や、「おもかげ(面影)」の「かげ」
も同根であり、英語で言い表すなら、この場合の「かが」や「かげ」は、
必ずしも「dark image」ではないので、「shadow」や「shade」というより、
「cast image」(名詞句)ということになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 20:29:38.68 0
ここで再び「かげろふ」、「かぎろひ」に戻ると、これらの表現がもともとは
動詞形であったのではないかという可能性が見えてくる。私は専門的な音韻論
などの素養がまったくないので、語の古形をどのように再構成すべきか知らない
が、私には、「かげろふ」、「かぎろひ」の原形として「かげる+あふ」、
「かぎる+あふ」のような用法があったのではないかと思える。つまり、
英語で表現するなら「to cast an image」の再帰形ということになり、
意味的には「投射される像を自ずと生じる」と解釈できる。したがって、
その名詞化である「かげろふ」、「かぎろひ」は、「自ずと生じた投射
される像」と解釈できることになる。
考える名無しさん [sage] 2016/10/22(土) 20:35:23.05 0
「かげろふ」、「かぎろひ」のもともとの意味を「自ずと生じた投射される像」
と解釈することは、例えば、英語の「mirror(鏡)」と「mirage(蜃気楼/幻影)
≒(かげろふ/かぎろひ)」の関係や、スペイン語の「espejo(鏡)」と
「espejismo(蜃気楼/幻影)≒(かげろふ/かぎろひ)」の関係を考えてみれば、
私には、それほど突飛なことには思われない。
考える名無しさん [sage] 2016/10/23(日) 01:13:19.66 0
ところで、「天香具山(あまのかぐやま)」の「カグ」もやはり、語源的には
「かげ【影・陰・蔭】≒(cast image)」なのだろうか。そのように解釈した
場合、「天香具山」は、「天の投射される像の山」ではないかという憶測が
導かれる。

「天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば」(万葉二五七)
考える名無しさん [] 2016/10/23(日) 01:20:11.32 0

ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=mirage
mirage (n.)
"optical illusion of water in sandy deserts," 1812, from French mirage (1753),
from se mirer "to be reflected," from Latin mirare (see mirror (n.)).
考える名無しさん [sage] 2016/10/23(日) 13:20:35.35 0
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/カゲロウ

「日本語のカゲロウという名は、空気が揺らめいてぼんやりと見える
「陽炎(かげろう)」に由来するとも言われ、この昆虫の飛ぶ様子からとも、
成虫の命のはかなさからとも言われるが、真の理由は定かでない。
なお江戸時代以前の日本での「蜉蝣」は、現代ではトンボ類を指す「蜻蛉」
と同義に使われたり、混同されたりしているため、古文献におけるカゲロウ、
蜉蝣、蜻蛉などが実際に何を指しているのかは必ずしも明確でない場合も多い。」
考える名無しさん [sage] 2016/10/23(日) 13:31:08.14 0
Wikipediaによれば古語の「カゲロウ、蜉蝣、蜻蛉などが実際に何を指している
のかは必ずしも明確でない場合も多い」とのことだが、それがトンボを指して
いたにせよ、カゲロウを指していたにせよ、「カゲロウ」という名称が、
それらの昆虫の羽の様子が、「(鏡もないのに)自ずと生じた投射される像」
を思わせることに由来すると考えることは、鏡が投射する像の画像と
カゲロウの羽の画像を並べてみれば、ごく自然であるように私には
思われる。

カゲロウ
ttp://www.museum.osakafu-u.ac.jp/html/jp/material/real_file/img3335.jpg
ttps://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024003786.jpg
鏡が投射する像
ttp://www.e-horindo.com/butugu/images/z_cate03/makyou/makyo-amida.jpg
考える名無しさん [sage] 2016/10/23(日) 13:53:54.73 0
ところで、「大和の国」の枕詞とされる「蜻蛉島」の「蜻蛉」は、「かげろふ」
でも、「とんぼ」でもなく、「あきづ」と読むことになっているそうだが、
「蜻蛉島」という枕詞には、「自ずと生じた投射される像」のイメージは
宿っていなかったのだろうか。「蜻蛉」が「かげろふ」と読まれたとすれば、
「はかない」イメージも伴ってしまうので、それが避けられるべきであったと
しても。

大和には 群山あれど 取りよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ
蜻蛉島 大和の国は (舒明天皇 巻1-2)
考える名無しさん [sage] 2016/10/23(日) 14:05:51.06 0
ちなみに、英語で「illusion」は、否定的なニュアンスを伴った「錯覚」や
「幻想」の意味で用いられることが多いが、スペイン語の「ilusion」は、
「幻覚」、「幻影」、「錯覚」のような英語と共通する意味の用法に
とどまらず、というより、むしろ、「期待」、「夢」、「喜び」、「楽しみ」
といった肯定的なニュアンスを伴った意味で用いられることの方が多い。
考える名無しさん [] 2016/10/23(日) 14:18:38.50 0
やがて錯覚していることに気づかれることなく、夢を抱かせつづけること、
幻想させるつづけることは難しい。
考える名無しさん [sage] 2016/10/23(日) 14:19:46.73 0
幻想させるつづけることは難しい(誤)
幻想させつづけることは難しい(正)
考える名無しさん [age] 2016/10/23(日) 16:03:15.08 0
クソゴミお絵かきおじさんの下僕工作員て給料いいの?
考える名無しさん [] 2016/10/23(日) 16:07:28.09 0
給料なんて1円ももらっていませんが、なにか?
考える名無しさん [age] 2016/10/23(日) 16:16:10.20 0
人殺し!!w
考える名無しさん [sage] 2016/10/24(月) 08:57:18.98 0

鏡といえば、現代の私たちは、すぐに化粧道具として用いられる鏡を想起する
が、出土する古代の鏡や神社の御神体としての鏡は、自分の姿を映し出すために
用いられたものではないだろう。古事記の天岩戸についての記述から窺われる
ように、何よりも太陽の光を反射させるために用いられたと考えるのが自然
であり、その反射光も直接に人々の目に向けるものとは考えられないので、
何か壁のようなものに投射して光の像を見たものと推測できる。

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/天岩戸
「天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿を
その貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸を
さらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の
外へ引きずり出した。」
考える名無しさん [sage] 2016/10/24(月) 08:59:21.26 0
少なくとも天岩戸のエピソードでは、鏡は、太陽の光を誘き出すための道具
として用いられている。
考える名無しさん [sage] 2016/10/24(月) 09:22:33.92 0
ところで、竹取物語の「かぐや姫」は、光り輝く竹の中から発見されたこと
から、「かぐや」という名前を光り輝くことに関連付ける解釈がよく見られる
が、岩波古語辞典によれば、「かがや(輝)く」の「カガ」は、江戸時代になる
まで濁らない「カカ」であり、「かぐや」の「かぐ」を「輝く」ことに由来す
るとするのは無理があり、その解釈は外れていることになる。そこで、岩波
古語辞典で「かぐやひめ」を引くと、「《カガヨヒ・カギロヒと同根。ヤは
状態をいう接尾辞》」と記載されている。ところが、その説明では「かぐや姫」
の意味を「光るように美し姫」としており、その解釈は、「輝く」の「カカ」
を語源とした場合とほとんど変わらないものとなっている。
考える名無しさん [sage] 2016/10/24(月) 09:30:58.01 0
「かぐや姫」の「かぐ」を「カガヨヒ・カギロヒと同根」、つまり、「かがみ(鏡)」
の「かが」や「おもかげ(面影)」の「かげ」と同様の意味を有していたと捉える
ことができるなら、「かぐや姫」の「かぐ」もやはり、英語で言い表すなら
「cast image」と解釈することができる。すると、「かぐ(cast image)や姫」の
「や」は、「夜(=night/nightly)」ではないかという推測が自然に出てくる。
つまり、「かぐや姫」とは、「夜に投射される像の姫(=a princess of the
nightly cast image」ということになり、「月によって投射される光の像の姫」
であるという解釈が導かれる。
考える名無しさん [sage] 2016/10/24(月) 09:42:03.73 0
古事記の天岩戸のエピソードで、天照大神が鏡に映った自分の姿を直接に
見て、それに誘き出されたように、竹取物語においても、一般には、
「月の顔見るは、忌む事」とされるにもかかわらず、かぐや姫が月を
直接に見ることにも注目すべきだろう。かぐや姫自身を月の光の反射像で
あると考えるなら、かぐや姫が「月の面」を直接に見ることはむしろ、
自然である。
考える名無しさん [] 2016/10/24(月) 16:52:00.56 0
一週間に2回のパコパコ減らそうとするとカレが怖い顔する
考える名無しさん [sage] 2016/10/26(水) 23:33:32.20 0

学研全訳古語辞典

「大和には群山(むらやま)あれどとりよろふ天(あま)の香具山(かぐやま)
登り立ち国見(くにみ)をすれば(後略)

出典万葉集 二・舒明天皇(じよめいてんわう)
[訳] 大和には多くの山々はあるが、その中でもとりわけ立派に整っている天の
香具山よ、その山に登り立って国見をすると(後略)
考える名無しさん [sage] 2016/10/26(水) 23:40:25.88 0

この解釈は、いくつかの点で奇妙だ。
「とりよろふ」は、岩波古語辞典では、意味「不詳」とされ、「気持ちや
生活のよりどころとする意か。」とする推測が記載され、学研全訳古語辞典
でも、「とりよろふ」そのものを検索すると「用例が引用した歌の一例しか
なく、語義未詳の語。上代語。」と説明している。にもかかわらず、
に引用した訳では、「とりよろふ」は、特に何の根拠も示すことなく、
「その中でもとりわけ」と訳しているのである。
考える名無しさん [sage] 2016/10/26(水) 23:49:43.56 0
「とりよろふ」を「その中でもとりわけ」と訳すのであれば、「〜ふ」
を文法的にどう扱うにせよ、「よろ」は、「とり分け」の「分け」に
対応させられていることになり、「選り分ける」の場合ように「よ(選)り」
と解釈されているのだろう。ところが、「選り」は、古語では、「より」
ではなく、「えり」であったようで、岩波古語辞典にも「選ぶ」という
意味での「より」の記載はない。
考える名無しさん [sage] 2016/10/26(水) 23:59:17.22 0
さらに、「群山」が「多くの山々」と訳されており、この歌をネット検索すると、
ほぼ例外なく、同じ解釈が採用されているように見受けられるが、岩波古語辞典
の説明にも「同類のものが一団となっていること。また、そのもの。」と記載
されるように、「むら」という表現が表しているのは、「群島」であれ、
「群雲」であれ、「村」であれ、集団としてまとまっている様子であり、単に
数が多いことではない。つまり、の訳は、まず「むれ」を数の多少の
問題に変換したうえで、それに合わせて「とりよろふ」を、「その中でも
とりわけ(〜は)」を意味しているのだろうと、根拠を明示せずに推測して
いるのである。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 00:23:38.16 0
「天の香具山」が「奈良県橿原市にある山」を指していたのかどうか異論を
唱える人もいるようだが、ここでは、ひとまず地理的な知識は除外して、
歌の言葉だけを見れば、

大和には(In Yamato)群山あれど(there are a group of mountains)

ということになるだろう。「とりよろふ」は、形から見れば、やはり
再帰形であり、「とり+より+あふ」と分解することができる。
「とり」は、どのような漢字を当てるにしても手に「とる」ことに
関連した表現であるが、「より」が何を表していたのかは不確定
であるが、私の奇妙な憶測では、「より」は、「群山」から連想される
「寄り」ではないのかということになる。「とりよろふ」全体としては、
「とり(gather)+より(close to)+あふ(each other)」ではないか
というのが私の憶測だ。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 00:47:57.86 0
すると、「大和には群山があるが、互いに寄り集まった天の香具山(に登って)」
という、「天の香具山」そのものを「群山(少なくともそのうちの一例)」と
見なす、現実の「天の香具山」の風景を目にしたことのある人には、極めて
奇妙としか思えない解釈が導かれる。

では、これはあり得ない解釈なのだろうか。だが、それを言うなら、橿原市
の「天の香具山」に登って国を見渡して「鷗立ち立つ」「海原」を目にする
ことも現実にはあり得ないだろう。ただし、「国見」が現実に高いところから
全体を見渡す行為ではなく、それを模した儀式であったとしたらなら、肉眼
で見えないものを見渡すことは、特に不思議なことではない。また、この
歌の「群山」で何が実際にイメージされていたのかを私(/たち)はよく知ら
ない。岩波古語辞典で「やま」を引くと、「『野』『里』に対して人の住ま
ないところ」という説明の他に、「陵墓」という意味も記載されている。
「群山」が「陵墓の集まり」などを意味していた可能性はないのだろうか。
むろん、これは単なる個人的な思いつきの域を出ない。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 00:54:47.47 0

「立派に整っている」という訳を見落としていたが、「とりわけ」に
さらに「装う」のような解釈まで加えているのだろうが、これも何ら根拠が
示されておらず、歌からインスピレーションを受けた創作のようにさえ
見える。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 16:43:52.61 0

「とりよろふ」の「よろふ」をどう解釈するにせよ、「とりよろふ」を、
「とり+よろふ」と分解できることには誰も異論がないだろうと思う。
そこで「よろふ」に類似した「よろひ」という名詞を調べてみると、
次のように記載されている。

学研全訳古語辞典

−よろひ 【具】
接尾語

〔数詞に付いて〕…そろい。…組。▽家具、調度品などのそろいの物を数える。
「すずり箱一(ひと)よろひ」

よろひ 【鎧・甲】
名詞
@身につけて、刀剣類や矢などから体を守る防具。「甲冑(かつちう)」の総称。
A @のうち、胴の部分を覆う防具。古代の短甲や挂甲(けいこう)、平安時代
以降の「大鎧(おほよろひ)」「腹巻(はらまき)」「胴丸(どうまる)」「腹当て」
など。特に、大鎧。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 16:47:56.22 0
「よろひ」は、接尾辞も、名詞も、英語で表現するとしたなら、「suite」に
相当すると考えることができるだろう。

ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=suite
suite (n.)
1670s, "train of followers or attendants," from French suite, from Old
French suite, sieute "act of following, attendance" (see suit (n.),
which is an earlier borrowing of the same French word). The meanings
"set of instrumental compositions" (1680s), "connected set of rooms"
(1716), and "set of furniture" (1805) were imported from French usages
or re-spelled on the French model from suit in its sense of "a number
of things taken collectively and constituting a sequence; collection
of things of like kind."

したがって、「よろひ」の方は、「寄り+あふ」の名詞化と考えて問題なさ
そうである。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 17:31:46.76 0

ただし、この線で解釈するにしても、に暫定的に訳したように
「とり(gather)+より(close to)+あふ(each other)」というよりも、
「とり(gather)+よる(close)」という行為を再帰化して、
「寄り集まる」という作用に変換するために「あふ(〜self)」が
用いられていると考える方が妥当だろう。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 17:44:26.08 0
「とりよろふ」という表現が消えていったのは、おそらく、この表現の形
そのものが文法的解釈の揺れを生じやすいことと無関係ではないだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 22:14:01.74 0
ところで、現代語の「よりどり」は、漢字では「選りどり」と書かれるが、
この「より」は、本当に「え(選/択)り」の音の変種または変化なのだろうか。
「とりよろふ」の場合にここで私が解釈したように「よ(寄)り」である可能性
はないのか。「よりどり」や「よりとる」に対応すると考えられる英語の
表現、「assortment」や「assort」を考えると、そういう思いが浮かぶ。

ttp://www.etymonline.com/index.php?term=assort&allowed_in_frame=0
assort (v.)
late 15c.,
考える名無しさん [sage] 2016/10/27(木) 22:19:59.76 0
assort (v.)
late 15c., "to distribute into groups," from Middle French assortir
(15c.), from Old French assorter "to assort, match," from a- "to"
(see ad-) + sorte "kind" (see sort). Related: Assorted; assorting.

sort (n.)
late 14c., "group of people, animals, etc.; kind or variety of person
or animal," from Old French sorte "class, kind," from Latin sortem
(nominative sors) "lot
考える名無しさん [sage] 2016/10/28(金) 08:21:13.21 0

「よりとる」というより、「よりわける」と言った方が適切だったな。
「よりどり」に引きずられて、勢いのまま「よりとる」と書いてしまった
けど、「よりわける」の「より」と並べた方が正しく、むしろ、論点が
はっきりする。
考える名無しさん [sage] 2016/10/28(金) 20:56:48.63 0
少し考えてみたが、「よりどり」、「よりわける」などの「より」は、やはり
「え(選)り」からの音韻変化と見るより、「よ(寄)り」が「え(選)り」を表す
ような意味で使われているため、混同が生じたと考えた方がいいのではないか
という気がする。現代語で「よりによって」という表現があり、「わざわざ
そんな選択をしなくても」というニュアンスで使われるが、この場合、「より」
は、英語で表現するなら、「narrow it down(=絞り込む)」ことを表している
と理解することができる。確かに、余地を狭めることによって「選ぶ」わけ
だが、狭める行為自体は、「よ(寄)りによ(寄)って」と考える方が妥当なの
ではないだろうか。さらに「よ(縒)り」⇒「え(縒)り」という音の変化の例
は見られるが、「え(選)り」⇒「よ(選)り」と確実に変化したと思われる例は、
いまのところ私は確認できていない。
考える名無しさん [sage] 2016/10/28(金) 21:04:23.79 0
ところで、面白いことに、岩波古語辞典で「えらび【選び】」を引くと、滅多に
再帰形をそのように解釈しないこの時点が、この事例に関しては例外的に、
「《エリ(択)アヒ「合」の約であろう》」と記している。「奈良時代にはエラヒ
と清音」だったとのことである。「えり」と「より」の「え/よ」は、意味の
弁別性のために重要な対立であったのだから、「え(選)り」と「よ(寄)り」の
混同は、意識的に避けられていただろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2016/10/28(金) 21:06:24.76 0

この時点が(誤)
この辞典が(正)
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 08:00:50.39 0
以上に述べた「とりよろふ」という表現についての私の憶測を総合的に
整理してみると、「とりよろふ」は、「と(採/取)り+よ(寄)る+あ(合)ふ」
と分析することができ、「よる+あふ」⇒「よろふ(/よらふ*)」に変化
し、その再帰動詞の働き方の様態を表す要素として加えられているのが
「と(採/取)り+」である。「取り寄せる」や「取り付く」などの表現
において、「とり」が、どのように「寄せる」のか、どのように「付く」
のかを表すように加えられているのと同様である。
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 08:29:38.81 0
「よ(寄/依)る」と音の似通っている「え(選/択)る」という動詞と比較して
みると、次のような並行関係が見られる。

@「え(選/択)る」⇒[再帰化](える+あふ)⇒「えらふ」⇒[名詞化]⇒「えらひ(選び)」
A「よ(寄/依)る」⇒[再帰化](よる+あふ)⇒「よろふ」⇒[名詞化]⇒「よろひ(装ひ/鎧)」

ここで、「よる+あふ」は、完全な並行関係であれば「よらふ」となるはずであるが、
「よろふ」となっている。これは、「えらふ」と「よらふ」の発音が類似して紛らわしい
ので、弁別性を保つ目的で「よる+あふ」の元の動詞である「よる」を強調して発音した
ために「よらふ」ではなく、「よろふ」になったのではないかと推測することができる。
「えらひ」と「よろひ」の場合には、「えらひ」が「えらび」となって、さらに
弁別性が強化されている。

私は、多くの言語学者やレヴィ=ストロース流の構造主義者のように言語の発音の
変化や表現の変移が「無意識」に生じるとは考えていない。むしろ、変化や変移は、
「暗黙に」ではあるが、意識的に導入されると考えている。ここで「暗黙に」とは、
区別や類似性が「メタ言語によって明示的に説明されることなく、言語の弁別性の
機能を利用して意識的に」強調され、導入されるという意味である。
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 08:48:49.68 0
このようにメタ言語を用いることによって分析された、「とりよろふ」を、
この表現の唯一の用例として知られる歌、「大和には群山あれどとりよろふ
天の香具山」の文脈に戻してみると、「群山(むらやま)」の「むら」という
表現と「とりよろふ」の「よろふ」がともに要素の「まとまり」を表して
いるという類似性に気づく。

この歌において「天の香具山」そのものが「群山」と見なされているという、
一般常識から考えればとても奇妙な私の憶測は、そのような勘の働きに基づ
いていたことになる。むろん、私の勘が誤っていることも、私が自分の勘の
働きに欺かれていることも十分にあり得ることである。
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 16:35:23.25 0
メタ言語はメタ言語の単位部分を説明できない、分析してもそのメタ部分は
辞書定義の説明で終わる。

高度の機械翻訳や人工知能であっても、無学な人間の柔軟な翻訳であっても
そのメタ合理性の働きから抜け出ることはできず、言葉の根源である
単語より更に抽象的な世界へは踏み込めないのは明白である
それは論理ベースの演繹法で情報処理をするかぎり合理性という枠組みが
常に働くため、逃げることがでいない法則だ。
どんなに妄想したところで、それ以上へは踏み進めない、なぜなら論理的に
嘘になるからだ。虚実や嘘を抱擁し妄想や幻想もまとめ、非合理性のカオスの
領域に踏み出せなければ記号論は単なる数学と同じ方程式に収束するだけ。
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 17:47:25.52 0
何を言ってるのかよく分りませんね。記号論に関する私の基本的な考え方は
元のスレに書き込んだので、ここで繰り返すことはしません。紛らわしいから
レスなら番号、自己の主張ならハンドル名でもつけてもらえると、無用な
混乱が避けられるのではないでしょうか。
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 17:48:57.60 0
あ、自分でまず実行しないとダメですね。は、へのレスです。
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 20:54:31.06 0

重大な誤記があったので訂正します。何を勘違いしたか、の例の
とおり「具」と書き込むはずが、「よそおい」と誤って書き込んでしまった。

「よろひ(装ひ/鎧)」 (誤)
「よろひ(具/鎧)」 (誤)
訂正 [sage] 2016/10/29(土) 20:55:51.03 0

@「え(選/択)る」⇒[再帰化](える+あふ)⇒「えらふ」⇒[名詞化]⇒「えらひ(選び)」
A「よ(寄/依)る」⇒[再帰化](よる+あふ)⇒「よろふ」⇒[名詞化]⇒「よろひ(具/鎧)」
考える名無しさん [sage] 2016/10/29(土) 20:59:49.31 0

訂正を書き込むつもりが、不注意でまた書き間違えてしまった。

「よろひ(装ひ/鎧)」 (誤)
「よろひ(具/鎧)」 (正)
考える名無しさん [] 2016/10/29(土) 21:20:22.96 0
純一はうんこしているの?
100じゃろろ? [じゃろろ?ww] 2016/10/30(日) 03:04:40.38 0
波平名言録

「ウナギって遠くから見るとワギナに見えるよな」
考える名無しさん [sage] 2016/10/30(日) 09:58:04.55 0

「よろひ」をなぜ誤って「装(よそお)ひ」と書き込んでしまったのか
反省してみると、「具」と書こうとして「よろひ(鎧)」が「装具一式」
であるとう連想が働いたのだろう。ここで少し考えてみると、「具」が
「装」よりも「よろひ」を表すのにふさわしい漢字であるというわけ
ではなく、重要なのは「一式」であることの方だと思う。「よろひ」
の元となった「よろふ(寄る+合ふ)」という再帰動詞は、フランス語で
表現するなら「se rassembler」に近いだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/10/30(日) 18:37:54.94 0
学研全訳古語辞典

かぎろひ 【陽炎】
名詞

@東の空に見える明け方の光。曙光(しよこう)。
出典万葉集 四八
「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えて」

A「かげろふ(陽炎)」に同じ。[季語] 春。◆上代語。
考える名無しさん [sage] 2016/10/30(日) 18:41:20.95 0

いわゆる「かげろう」ではない@の歌に詠まれている「かぎろひ」は、
単に「明け方の光」や「曙光」ではなくて、「太陽柱」と呼ばれるもの
ではないのかな。

ttp://www.bing.com/images/search?q=太陽柱&qs=n&form=QBLH&scope=images&pq=太陽柱
考える名無しさん [sage] 2016/10/30(日) 18:48:38.70 0
ネット検索してみると、やはり従来からそのような説があるのですね。
考える名無しさん [sage] 2016/10/30(日) 19:03:04.63 0
「太陽柱」は、現象としては、いわゆる「陽炎(かげろう)」とは全く違う
ものの、やはり「自ずと生じた投射される光の像」であるわけだから、
ここで提示した「かぎろひ/かげろふ」という表現の意味の推測とも
きれいに合致している。
考える名無しさん [] 2016/10/30(日) 21:51:55.64 0

波平はここでオナニーするようになったの?
考える名無しさん [sage] 2016/10/30(日) 22:52:09.15 0

なんだか知らないけど、「波平スレ」は他にいくらでもあるのだから
「波平」についての議論はそっちでやったらどうですか。
考える名無しさん [sage] 2016/10/31(月) 09:13:01.95 0

「とりよろふ」という表現の文法的な両義性は、「(〜の)取り揃った店」という
表現を考慮すると分りやすい。「(〜の)取り揃った店」は誤りで、「〜を取り
揃えた店」とするのが正しいと感じる人が多いだろう。「そろ(揃)ふ」は、
岩波古語辞典の説明でも「そ(反)る+合(あ)ふ」であり、私に言わせるなら、
やはり再帰形である。したがって、「と(取)りそろ(揃)ふ」と表現したなら、
ちょうど「とりよろふ」と文法的に全く同じ形をしていることになる。
ところが、「揃う」という動詞の作用の様態を形容するものとして用いられ
ている、要するに、「どのように」揃うようにするのかを表現している
「取り」が能動的動作を表しているので、本来、自動的である「揃う」
という作用も「揃える」とう能動的動作に変換しないと文法的に揃わなく
なってしまうのである。
考える名無しさん [sage] 2016/10/31(月) 09:38:45.31 0
現代語の「も(持)ちよ(寄)る」という表現を考えれば、相互に「持ち寄る」行為
として「持ち寄り合う」という表現は成立するが、「とりよろふ」の場合には、
「と(取)りよ(寄)る」という表現の存在は確認できず、「とりよろふ」
の唯一の用例である歌の文脈においても、相互の積極的行為が表現されている
ようには見えない。したがって、「よろひ」とうい名詞形で現代語に残る
「よろふ」という自動的な作用を現す再帰動詞を想定して、それに
「どのように」よろふのかを表す表現するために「とり」が付加された
ものの、「よろふ」は、「寄り合っている状態」を表しているため、
の「(〜の)取り揃った店」のような形になっていると見るのが自然
ではないだろうか。そうであるとすると、「とり」は誰の積極的な
行為を表し、「寄り合ってる」のは何かを考えることが、用例の歌を
解釈する鍵となることになるだろう。
考える名無しさん [] 2016/10/31(月) 19:16:00.03 0

発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
あなたほんとにみんなと同じ日本人ですか?
考える名無しさん [sage] 2016/10/31(月) 19:23:23.78 0
ヒント、記号では妄想できない
考える名無しさん [sage] 2016/10/31(月) 19:24:11.82 0

このスレとはまったく無関係でAAの書き込みもなく、ずっと下げで進行してる
のに、自分1人で上げて、一体何がしたいのやら。これから自分でAAでも
書き込むつもりかな。
考える名無しさん [sage] 2016/11/01(火) 08:52:24.41 0

発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
ixtlan [] 2016/11/01(火) 09:05:40.60 0

 じゃあ、基本的なことを聞いてみようか。

 なぜ<無関係でAA>が必要だったのかね?
考える名無しさん [sage] 2016/11/01(火) 12:29:18.73 0

イミフなんだが?
考える名無しさん [sage] 2016/11/02(水) 13:28:05.67 0

おまえ誰だよ
考える名無しさん [sage] 2016/11/04(金) 12:49:04.29 0
「ある」の丁寧語とされる「〜候(そうろふ)」も、もともと再帰形の表現であり、
岩波古語辞典を引くと、「侍(さむらひ)」と同じ語源で「さもらふ」という
動詞に由来することが記載されている。「さ・もらふ」の接頭辞「さ」が
どのような意味で付けられているにせよ、「もらふ」は、「も(守)る」の
再帰形、「もる+あふ」であり、「自らをも(守)る」ということになり、
「さもらふ」は、「(様子をうかがいながら)待機する」という意味で使われ、
その名詞化である「さむらひ(侍)」は、つまるところ、「警戒役≒guard(英)」
である。
考える名無しさん [sage] 2016/11/04(金) 14:55:59.19 0

>「警戒役≒guard(英)」である。

むしろ、「警備≒guard(英)」であるとした方が簡潔で、適切だったね。

しばらく前に「自宅警備員」という表現を流行らせた人がいたが、
私などは、「普段は、ご自宅で何をされているのですか?」と尋ねられた
場合、上代の日本語を使うなら、「侍(さもらひ)」ですと答えれば、適切に
正直に答えていることになるわけだ。
考える名無しさん [sage] 2016/11/04(金) 15:02:01.42 0
「侍ジャパン」というキャッチフレーズがあるが、この表現が喚起しようと
しているイメージは、スペイン/ポルトガル語の場合に「guarda nacional」
という表現で喚起しようとしているものとよく似通っているのではないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/11/04(金) 15:59:24.69 0
「guarda nacional」(誤)
「guardia/guarda nacional」(正)
考える名無しさん [sage] 2016/11/04(金) 18:10:15.21 0
ところで、岩波古語辞典は、「も(守)る」の「も」は、「目(ま)」の
母音交替形であると推測しているが、私もこの推測は正しいのだろうと
思う。同辞典は、この「も(守)る」に「目(ま)」が付け加えられて
「まも(守)る」が一般的に使用されるようになったことも指摘している。
ところが、今では「みまも(見守)る」という表現が一般的に使われる
ようになっており、「み(見)る」の「み」も「目(ま)」と語源を同じく
すると考えられているので、語源的にたどるなら、「見守る」を
漢字で表すなら、「目目目る」ということになってしまう。語源的な
ニュアンスが使用によってすり減って、本来、既に表現に含まれている
はずの要素がさらに新たに付け加えられる事例の好例だろう。
考える名無しさん [] 2016/11/05(土) 01:39:18.28 0

発狂じいさん、キモAA上げ荒らしを死ぬまで続ける気ですか。
15年間も毎日毎日糞スレ立てて、キモいAAで上げ荒らしして、なにがしたいんですか?
こんなことだから50歳職歴なしの社会不適合者なんじゃないんですか?
あなたの生活保護費はボクやみんなの貴重な税金から支払われているですよ。
みんなに迷惑かけて恥ずかしくないんですか?
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 10:06:53.55 0

誤解のないように付け加えておくと、「みまも(見守)る」を
「みまも(目目目)る」と書き直したのは、「み」、「ま」、「も」が
すべて名詞としての「目」に由来すると主張するためではない。
むしろ、「も(守)る」こと、「まも(守)る」こと、「み(見)る」こと、
「みまも(見守)る」こととして様々な様態で表現され得る行為/作用の
名詞化が「目」であると考えるべきだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 10:21:02.28 0
一般に表現は、名詞化されて頻用されることによって、語源的に本来、
表現されていた行為/作用のニュアンスが摩耗してしまい、その摩耗した
ニュアンスを増強するために新たに(ときとして、語源的には本来、
元の表現に既に含まれているはずの)行為/作用を表現する要素が付け加え
られることになると言えるだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 10:28:47.30 0
例えば、「とりよろふ」という表現の解釈で取り上げた、「よろひ(鎧)」
という頻用される名詞の表現を聞いて、直ちに「よ(寄)る+あ(合)ふ」と
いう行為/作用のニュアンスを感じ取る人は、ほとんどいないだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 10:49:49.32 0
習慣によって対象化(言語において名詞化)されている関係を、経験を
介した反省によって行為/作用(言語における動詞)として捉え直す試み
を絶えず繰り返すことが、記号論/プラグマティズムの基本である。
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 10:55:30.28 0
従って、「〜とは何か」という問いの形式は、既に記号論/プラグマティズム
の取組みに反しており、常に忘れてはならないのは、「〜とはどのような行為/作用か」
という問いである。
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 16:39:16.25 0
だが、それでは、「『行為/作用』とは何か」を問えないことになってしまう
ではないかという「反論」が、記号論/プラグマティズムの立場を受け入れられ
ない人々からは返ってくるだろう。しかし、これは反論を成していない。
「行為/作用」が原初的であることを心情的に受け入れることができず、再び
「〜とは何か」という形式に問いを戻さなければ気が済まないというだけの
ことである。「行為/作用」を「受動態」、「能動態」、「中動態」などの概念
を使って説明してみたところで、「行為/作用」の様態を記述することにしか
ならず、「行為/作用」を、もはや「行為/作用」ではない、より原初的な
「何か」に還元することはできない。「行為/作用」は、それが「どのよう」
であるかを記述する他ないのである。
考える名無しさん [sage] 2016/11/05(土) 20:11:07.75 0

それが何?
考える名無しさん [] 2016/11/06(日) 01:32:16.38 0
 
                     _,,,,,,,,,,,,,,,,,_
                       /;;;::::.... . . ...::;;;\
                   /;;::... .    .   . ....::;;\
                  l::::.... .   .       . .....:::l   はたしてそうかな?
                   i::.. .  .    .  .    ..::i
                  l::::.... .   .       . .....:::l
                       |;;;;;:::::.... .   . .   . ....::::;;;;;|
                      |;;;;;;:::::..... . .  . ......:::::;;;;;|
                     |;;;;;::::::.... . .   . . ....::::::;;;;;;|
                    l;;;;;;;:::::..... .. . . . ......:::::;;;;;;;|ヽ.
                   :人;;;;;;;::::::..... ... . .. ... ..:::::;;;;;;/ ヽ
                _/  `ー-、;;;;:::::.. .. . . ...::::;;;;-'"   \ー-、
           ,.-'"  \:      \;; :... . ...:::;;;;;-''"     |
         /.     \        ~>、,.-''"      |
    ,,..-‐'''""        ヾ    ,.-''"|    /――――、/
考える名無しさん [sage] 2016/11/06(日) 09:29:20.24 0
問いに答えようとすることが、すなわち、「行為/作用」が「どのよう」
であるかを最も原初的に記述しようとする試みに他ならない、そのよう
な営みが、記号論/プラグマティズムとしての哲学であり、だからこそ
哲学的な探究と隠喩表現の追求は同じ道を歩むのである。
考える名無しさん [sage] 2016/11/06(日) 09:32:45.97 0

そんなことはない
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 09:08:02.62 0
いくら哲学書から借りてきた概念を並べて文章を作ったところで、経験を
介した自省を言葉として表現する取組みを怠るなら、何も哲学的に探究する
ことはできない。確かに、哲学の古典を原書で読むことは、自省の歩みを
助ける多くの手がかりを与えてくれるだろう。しかし、数多の哲学の古典
を原書で読んでいなければ、哲学的な探究をする資格がないなどとする
恫喝は、むしろ哲学の歩みに反するものであり、哲学的には完全に空虚な
権威主義にすぎない。
考える名無しさん [] 2016/11/07(月) 10:24:51.39 0

学研全訳古語辞典とか検索する奴ってアスペ?
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 11:05:06.02 0
いいえ、ただの素人だからですよ。研究としてやっているわけでもなく、
仕事の合間に手が空いたときに検索して、思いついたことを書き込んで
いるだけだからね。基本文献とか先行研究とか知らないし、調べる手間
をとる気もないから、便利に誰でも利用できるネット上のリソースを
参照しているの。素人が、間違った知識とか、トンデモが拡散させる
のは困るというのなら、専門家がきちんと素人を啓蒙する活動をすれば
いいわけですよ?
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 11:06:02.44 0
トンデモが(誤) トンデモが(正)
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 11:06:45.35 0
また、間違えた。

トンデモを(正)
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 11:20:56.92 0
それに、自分で物事を考えるのに、誰もが容易に参照できるものを
参照することはとても大切だと思っているのです。私が愚かな
勘違いをしたり、トンデモな解釈をしたりしていれば、他の人が
簡単にそれに気づくでしょ。アクセスが難しい専門書からの
知識を引用してきたら、私が間違っていても、ごく一部の人しか
それに気づかないことになる。
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 12:53:47.90 0
高機能のアスペと思われる人には、いままで何人か遭遇したことが
あるな。記憶力が凄くて、読んだ本の内容なんかを、立て板に水を
流すようにずっと話し続けることができて、流れ出る記憶の方に
口の方が追いつかないような感じ。私には完全に欠けている能力だ。
だけど、それで何が言いたいのか聞いていて、さっぱり分らない。

私は逆にほとんど何も記憶していない。
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 13:06:08.44 0
よく話題になるアスペに関連して、発達障害のことを考えることがある。
私は極端に不器用で運動が苦手だから、いわゆる「運動音痴」であり、
自分のことを「発達性協調運動障害」と考えてもあながち間違いではない
だろうと思う。いわゆる「反射神経」も鈍く、とっさの反応が苦手であり、
交通標識で道案内を認識するとか、表示された数字列を瞬時に認識する
ことも極度に苦手だ。ただし、能力の「障害」というのは、一般に信じ
られているような単純な「欠損」や「欠陥」ではないだろうと思う。
なんらかのトレードオフが機能して、一方の「能力」が他方で「欠損」
や「欠陥」として表れているように感じられることが多い。
考える名無しさん [sage] 2016/11/07(月) 13:27:42.00 0
高機能のアスペの人から見れば、一般の人には能力の「欠損」がある
ように感じられるのではないだろうか。それと同様に、つまり、
アスペの人から見た一般の人のように、一般の人から見れば、私には、
「欠損」があると感じられるのだろうと思う。ここで問題にしている
のは、どちらの方に、より大きな「欠損」があるかという序列ではなく、
トレードオフの関係である。私から見れば、一般の人々は、判断を
保留することがとても苦手だ。判断を保留することに「めまい」を
を覚えるような気持ち悪さを感じてしまうのだろう。だから、判断を
保留しておくよりは、どちらかに「決めつける」か、判断の対象から
除外して「無視する」ことを選択する。ところが、私には、その
一般の人が「めまい」を覚えるような判断保留が思考の常態なの
である。
考える名無しさん [sage] 2016/11/09(水) 23:45:52.16 0
=140=141
自己紹介しているようだが、まず主体的に考えるのではなく
他者からどう見られるかを考えろ、頭弱いの?
考える名無しさん [sage] 2016/11/13(日) 18:01:44.83 0
ドイツ語の
考える名無しさん [sage] 2016/11/13(日) 18:02:14.26 0
ドイツ語の"anleiten"という表現と日本語の「をし(教)ふ」は、表現の形と
しては違うけど、発想がそっくりだね。一方は、「率いる」ことで、他方は、
「自らの方に導く」ことだけれど、両方とも「教える」ことを表している。
考える名無しさん [sage] 2016/11/14(月) 21:23:21.43 0
アスペ語の説明はいらない
考える名無しさん [sage] 2016/11/15(火) 01:00:06.73 0
表現の真実は、その作用にあり、表現の意味が開示されたものとして
現れるとき、表現の作用の効力は失われている。
考える名無しさん [sage] 2016/11/22(火) 12:00:58.40 0
日本語の「をさめる」という表現には、統治する場合などの「治める」という
用法と、税を納入する場合などの「納/収める」という用法があり、ちょうど、
以下のドイツ語、ttp://www.wordreference.com/deen/Steuer
Steuer Nf (Fahrzeug: zum lenken) steering, steering wheel n control n
Steuer Nf (Wirtschaft: Abgaben) tax n
と平行関係にあるように見えるのが興味深い。

「をさめる」は、私見では、語源的に「呼ぶ」ことを意味したと思われる「をす」
が「をさ(長、英語のleader)」として名詞化され、それが再び動詞化されること
によって表現として成立している。一方、ドイツ語の「das Steuer(舵)」と
「die Steuer(税)」も、やはり互いに関連していて、同一語源に遡れるものと
されるが、ドイツ語辞書のDudenによれば、その語源は、「Stütze」や
「zu stauen」のような意味に由来するとされる。

ここで、「ゆえに日本語の『治める』と『納/収める』の関係と、ドイツ語の
『das Steuer(舵)』と『die Steuer(税)』の関係の平行性は、偶然であり、
無意味である」と考えるのは思考停止であって、そのような類似性を常に心
に留めたうえで、物事がどのように整合的に説明され得るのかを試行錯誤する
のが、記号論的な試行/思考である。そのような試行錯誤を続ける過程で
真に重要な類似性は、物事の関係性のなかで強化されて残り、そうでないもの
は忘却されていく。
考える名無しさん [sage] 2016/11/22(火) 13:13:35.49 0
このようなことを述べると、物事を考えるには、明確に規定された根拠から
出発すべきであると信じている人々は必ず、「そんな根拠も曖昧な思考/試行
を続けることが何の役に立つのか」という反語的な問いを発する。しかし、
記号論的な視点から見れば、「明確に規定された根拠から出発する」ことに
固執することは、思考/試行を停止することに他ならない。したがって、
そのような問いを発する人々に対しては、「思考/試行を停止することが
誰の役に立つのか」と問い返すしかない。
考える名無しさん [sage] 2016/11/22(火) 13:33:00.23 0
人々が思考/試行することを停止したところで、環境は常に変化している。
思考/試行を停止することで、生きることはもはや、環境の変化に合わせて
リズムを生成することでなくなる。そのような生は、受動的な反復行為に
陥り、カデンス(cadence)に従属することにならないだろうか。思考/試行
を停止すべきであるという勧告を受け入れることによって、人は、反復行為
を強いられ、カデンスを保ち、それを乱さないように、それに後れをとら
ないようにすることだけに気を配ることにならないだろうか。思考/試行を
無価値であるとすることは、思考/試行に費やされた時間と労力が認知される
ことなく、その成果だけが一方的に横領される体制を生むのではないか。
考える名無しさん [sage] 2016/11/23(水) 16:58:17.00 0
日本語の「ゆるむ」、「ゆっくり」、「ゆとり」、「ゆれる」などの表現に
見られる「ゆ」は、英語では、「loose」に相当するようなイメージを表して
おり、「ゆ(行)く」の「ゆ」も、ドイツ語で「Los!(行け)」と言うように、
同じ「ゆ」を表していたのだろうかという疑問を以前に書いた。この発想
からいくと、「ゆき(雪)」も「溶ける(←ゆるむ)」から「ゆき」と言うの
だろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/11/23(水) 18:48:59.50 0
「ゆ」が「ゆるむ」、「ゆたか」、「ゆとり」、「ゆする」、「ゆれる」、
「ゆっくり」などの表現において感じられるように「ゆるい(≒loose)」
なイメージだけでなく、「溶/解ける」イメージも兼ねているのではないか
と疑わせるものは、「ゆ(湯)」にもある。「ゆ(湯)」は、無論、熱くなった
状態の水を表すのに用いられる表現だが、岩波古語辞典を引くと、
「溶融した金属」を表す用例が記載されている。つまり、「ゆ」は、
英語で表すなら「loosening」を表していたのではないかという推測が
生じる。しかし、ここで留意しなければならないのは、このような推測
の整合性と恣意性のバランスである。
考える名無しさん [sage] 2016/11/23(水) 19:08:56.67 0
「ゆ」を用いる多くの表現にこのような類似性があることに気づくと、その
類似性を可能な限り広く適用しようとする誘惑が生じる。例えば、「ゆだん
(油断)」という表現の由来は不明であるとされるが、「油断」は、「気の
ゆるみ」であるので、油断の「ゆ」は、やはり、「loose」のはずだという
推定や「ゆめ(夢)」は、「いめ(寝目)」からの発音の変化とされるが、
「loose vision」を表していたのではないかという推測である。しかし、
やはり古くからある「ゆゆ(忌々)し」、「ゆか(床)」、「ゆふ(夕)」など
の表現では、「ゆ」が「loosening」に関連してるようには感じられない。
考える名無しさん [sage] 2016/11/23(水) 19:36:20.61 0
ここで人々がとる態度は、3つに分かれる。1つ目は、多くの表現において
類似性が見られるのだから、一見、関連していないように見える表現に
関しても同じ推測によって解釈できるはずだとする、見出された類似性に
固執する態度であり、2つ目は、その推測が当てはまらない表現も数多く
あるのだから、そのような類似性は偶然であり、それに基づく解釈は
自説の正しさを示そうとする恣意的なものにすぎないとする態度である。
だが、そのように解釈が正しいか誤っているかという二分法は、正しい
場合もあり、誤っている場合もあるという可能性をあらかじめ排除して
しまう。3つ目の態度は、そのような可能性を排除することを避けるため
に、見出された類似性について、全面的に否定することも肯定することも
なく、判断を保留しながら解釈への適用を試みる態度である。
そような適用の試みを通じて、何らかの条件を伴うにしても、自ずと
強化されて現れる類似性が真の類似性であり、見掛けのみの類似性は、
経験を介して無意味へと解消されていく。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 08:45:31.21 0
記号論の見地から一般的に言えば、厳密な根拠を求めて仮説が立てられない
状態や、厳密に与えられた根拠に拘るあまりに孤立した仮説しか立てられない
状態よりも、たとえ根拠が曖昧であっても、仮説のネットワークを構築できる
状態の方がより豊かであり、生産的である。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 19:04:48.44 0
例えば、不明とされる「ゆだん(油断)」という表現の由来について考えて
みよう。「ゆだん」は「油断」と漢字で書かれるのだから、そのように
表記した人が「ゆだん」を、何らかの状況で「油」が「断たれる」ことに
関連して解釈していたとしても不思議ではない。さらに、そのように
解釈した故事が見つかり、発見される「ゆだん」の最も古い漢字表記が
やはり「油断」であったとしよう。すると、「ゆだん」という表現の
本来の意味や由来は、そのことによって確定するのだろうか。確かに、
そのような解釈が存在し、それが継承されたことは確定するだろう。
しかし、そのような確定がもたらすのは、孤立した仮説の検証に過ぎず、
せいぜい、そのような解釈が確かに古くから存在したことを保証する
だけで、それが「ゆだん」という表現を用いる人々一般の受けとめ方と
合致していたかどうかはまったく不確定であり、記号論的に見れば、
貧しい結果でしかない。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 20:34:40.02 0
孤立した問いに対する「正解」を数多く知っていることを博学であるとするなら、
そもそもそのような「正解」を大量に覚えておくような記憶力の乏しい私は、
そのような知識を蓄積することにまったく関心がないのである。むしろ
私は、世界はどのようにあるのかという1つの問いにより効率的に答える
ことができる技能を求めている。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 20:43:03.45 0
「ゆだん(油断)する」とはどういうことだろうか。近頃、話題になっている
Google翻訳に日英で「油断」と入力すると「Negligence」という答えが、
「油断する」と入力すると「To be careless」という答えが返ってくる。
しかし、逆変換すると、「Negligence」は「過失」に、「To be careless」
は「不注意になる」に翻訳され、「Negligence」と「To be careless」の
いずれも、それぞれ「油断」、「油断する」にあまりうまく適合していない
ことが分る。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 20:58:58.05 0
アルク社の英辞郎で「油断する」を引くと、「get careless」や「let one's
guard down」などが記載されている。「careless」は、既に見たとおり、
「不注意」であり、「気を抜く」という意味では、「油断」と意味的に重なる
ものの、「油断する」ことが必ずしも「不注意」に当たるわけではない。
見知らぬ人に「気を許す」ことも「油断する」ことであるが、「不注意
(careless)」ではなく、その場合は、「let one's guard down」という表現が
ぴったりと合う。ただし、「let one's guard down」は、「防御の構えを下げ
る」、つまり、「無防備になる」というより具体的な表現であり、「油断する」
に比べて、表現の適用範囲はかなり狭まる。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 21:12:17.40 0
私の個人的な言語感覚では、「油断する」は、「be without caution」または
「act without caution」と表現できる。「油断すると〜」という忠告は、
「if you do not act with caution 〜」ということになる。無論、状況に
よって使い分けるなら、「油断するな」を訳すのに「be careful」や「don't
let your guard down」でなんら不都合はないわけで、むしろ、そのような
慣用句を覚えて即座に使えるようにした方が、「act without caution」の
ような「抽象的」で、実際には使うことがないであろう表現をわざわざ
考えるより、ある意味、はるかに便利である。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 21:44:08.68 0
ところで、「予断」は「油断」と発音の点でよく似ている。「予断」という
表現がいつどのように使われるようになったのかは知らないが、「予断」を
ネットで検索すると、「予断」を「油断」と混同して、「油断できない」という
意味で「予断を許さない」と言われる場合があると注意喚起されている。
では、「予断」と「油断」は発音が似ているだけで無関係なのだろうか。
「予断を許さない」を素直に英訳すると「does not allow prejudgment」と
なり、「油断できない」≒「need to remain cautious」とは確かに、かなり
違う印象である。しかし、逆に日本語としては普通は使われない「予断を
許す」という表現を考えて英訳すると、「allow prejudgment」となる。
すると、「allow (oneself) prejudgement」が、「油断する」の英訳として
考えた「be without caution」または「act without caution」にとても
近いことに気づく。かくして、極めて曖昧な根拠から「油断する」≒
「allow prejudgement」ではないか、つまり、「ゆだんする」とは、
「ゆるい判断をする」ことではないかという推定が生まれる。
無論、博学で真面目な人を相手にこの手のいい加減な議論をすると、
大抵の場合は、顔を真っ赤にして激怒するのではあるが。
考える名無しさん [sage] 2016/11/24(木) 21:58:22.56 0
prejudgement(誤)
prejudgment(正)
考える名無しさん [sage] 2016/11/25(金) 01:00:51.05 0
母語以外の言語を学ぶことにより、世界が広がるとよく言われる。
他の言語を使えるようになることで、いままでアクセスできなかった
言語で伝えられる情報にできるようになるという意味なら、これは正しい。
しかし、それは単に情報へのアクセスの問題であって、そのような世界の
広がりなら、他人に翻訳してもらって情報にアクセスできるようになる
ことによっても得られる。また、母語とは違う言語の表現を学ぶこと
によって、異なる考え方を知ることができるともいわれる。ところが、
通常は、外国語の習熟が進むにつれて、母語を媒介せずに、つまり、
母語の表現にマッピングすることなく、直接に状況に合わせた外国語の
慣用句を身につける。すると、状況に応じて特に考えることもなく、
慣習として表現を使うようになるのである。さらに、母語と他の言語
の間で翻訳をすることになったとしても、それぞれの言語における
「自然な」言葉遣いを心がけるなら、各状況でそれぞれの言語では、
どのような表現を用いるかに主に気を配ることになる。すると、
いずれの言語においても、かなりの程度、流暢に表現を使えるように
なろうと、アクセスできる世界は、それぞれの母語の話者にとって
の世界よりも自由度の低いものとなる。
考える名無しさん [sage] 2016/11/25(金) 01:23:37.24 0
私にとって、母語以外の言語を学んで世界の広がりを得ようとすることと、
流暢な言語使用能力を身につけようとすることとは、ある意味、相反する
関係にさえある。流暢な言語能力を身につけるとは、まずなによりも、
状況に応じて自然に適合した慣用句を使えるようになることであり、何も
考えずに状況に反応して表現が出てくるようにすることである。すると、
流暢に話すことが、母語話者の慣用表現に従属することになり、自らが考え
ていることや、感じていることではなく、状況に適した表現に自らが縛ら
れることになる。場の「空気を読める」ようになることで世界が広がる
ようには、私には感じられないのである。私にとって、母語以外の言語
を学ぶことによって得られる自由は、なによりも、母語の表現を他の言語
でどのように表現し得るか、他の言語の表現を母語でどのように表現し
得るか、その可能性を探る自由であり、状況に応じた各言語の自然な表現
の間でマッピングを行うことではない。もちろん、あらゆる芸と同じく、
型を離れる自由を得るには、型を身につけなければならないのは確か
だろう。だが、型を身につけることに専念し、その習熟の完璧さをいくら
目指したところで自ずと自由が生まれることはないと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2016/11/25(金) 01:27:20.45 0
状況に応じた各言語の自然な表現の間で(誤)
状況に応じた複数の言語の自然な表現の間で(正)
考える名無しさん [sage] 2016/11/25(金) 11:14:31.92 0
私が何か秘めた複雑な感情を抱いているわけではなく、世界の方が複雑怪奇
なので、単純明快な反応をしろと言われても困るのである。私は、私に
とって世界がなるべく単純明快になるような記述を試みているだけだ。
考える名無しさん [sage] 2016/11/27(日) 09:20:05.37 0
学研全訳古語辞典


格助詞
《接続》体言、活用語の連体形に付く。

@〔起点〕…から。…以来。
出典万葉集 三一七

「天地(あめつち)の分かれし時ゆ神(かむ)さびて高く貴き駿河(するが)なる富士の高嶺(たかね)を」
[訳] ⇒あめつちの…。

A〔経由点〕…を通って。…を。
出典万葉集 三一八
「田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば真白(ましろ)にそ」
[訳] ⇒たごのうらゆ…。

B〔動作の手段〕…で。…によって。
出典万葉集 三三九六
「目ゆか汝(な)を見むさ寝ざらなくに」
[訳] 目でおまえを見るだけなのだろうか、共寝しなかったわけでもないのに。

C〔比較の基準〕…より。
出典万葉集 二四三八
「綱手(つなで)引く海ゆまさりて深くし思ふを」
[訳] (私は)綱手を引く海よりも(あなたを)いっそう深く思っているよ。

参考
上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。
考える名無しさん [sage] 2016/11/27(日) 10:08:10.47 0

日本語の古語の格助詞の「ゆ」は、そのままの形では現代の日本語では用い
られないが、その音と意味のイメージは、「ゆらい(由来)」や「けいゆ(経由)」
の「ゆ」にそのまま引き継がれているのではないかと私は思う。

日本語「ゆ」が英語で言い表すなら「loosening」に近いイメージを有する
ことを指摘したが、のAやBの用例を英語に訳した場合、「ゆ」は、
「through」と表現されることになるだろう。しかし、「through」が
「通過する動き」を感じさせる表現であるのに対して、この場合でもやはり、
「ゆ」にはそのような意味的なイメージは付随していないだろうと思う。
古語の格助詞の「ゆ」は、@からCまですべて現代語では「(に)より」に
よって表現されるが、「より」が「ゆ」から引き継いでいるのは、「ゆ」
を「loosening」に相当すると考えた場合、「〜から離れる」イメージだけ
だろう。「ゆ」を英語で表現した「through」が、明確な「動き」のニュアンス
を加えてしまう一方で、「ゆ」を「より」に変換することは、「ゆ」が
表現していたであろう「ゆるやかに離れる」イメージから「離れる」こと
だけを明示することになる。
考える名無しさん [sage] 2016/11/27(日) 10:26:59.46 0
後に「より」に取って代わられることになったのであろう格助詞「ゆ」の
ニュアンスをイメージするには、英語の「loosen」だけでなく、仏語の
「relâcher」を参照することが助けになるだろう。「より」が単に
「離れる」ことを明示するのに対して、「ゆ」はむしろ、"se relachant de 〜"
に近いと考えることができる。「relâchement」は、「ゆるみ」であり、
「relâché」は、「ゆるんだ」状態、リラックスしていることであり、
「se relâcher」は、「気を抜く」こと、「ゆだん(油断)する」ことである。
「ゆ(湯)」につかって「リラックスする」ことは、ある意味、「ゆ」という
表現の本質を伝えている。

ttp://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/se_rel%C3%A2cher/67825
ttp://www.wordreference.com/fren/relacher
考える名無しさん [sage] 2016/11/27(日) 17:22:09.03 0
日本語の「ゆき(雪)」は、ドイツ語の「auf­ge­löst」に似ている。

ttp://www.duden.de/rechtschreibung/aufgeloest#Bedeutungb
Bedeutungsübersicht
1. aus der Fassung gebracht; verwirrt
2. erschöpft, schwach und benommen

Beispiel
2. ich bin ganz aufgelöst bei dieser Hitze
考える名無しさん [sage] 2016/11/27(日) 22:57:16.85 0
まるで関係ないけど、ふと思ったんだが、仏語の「ahurissant」は、
日本語の古語の「あさまし」だな。
ttp://www.wordreference.com/fren/ahurissant
考える名無しさん [sage] 2016/11/29(火) 08:28:37.75 0
学研全訳古語辞典

あゆみ−あり・く 【歩み歩く】
歩きまわる。

出典枕草子 うらやましげなるもの
「思ふ事なげにてあゆみありく人見るこそ」
[訳] 心配することがなさそうに歩きまわる人を見るのは。
考える名無しさん [sage] 2016/11/29(火) 08:49:45.61 0
「あゆみありく」を英語で表現すると「walk around」であるが、日本語の古語の
表現をより厳密に英語に反映させようとするなら、「go around(ありく) walking
(あゆみ)」であり、同様に「をどりありく」も「go around(ありく) dancing
(をどり)」である。したがって、現代の日本語では、本来、「go around」を意味
していた「ありく(⇒「あるく)」が「あゆむ」を代表することになっているが、
古語では、「あゆむ」が英語の「walk」に対応している。

「たゆむ」は、英語で表現するなら「go/get loose」であるが、「あゆむ」も
語源的には、「get/make the feet loose」に相当するような意味をもっていた
のではないかと私には思われる。つまり、「あ(foot/feet)ゆ(loose)む(get/make)」
のような解釈である。これは、「あゆむ」に対応する英語の「walk」の語源が
「Old English wealcan "to toss, roll, move round"」
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=walk
に求められることから考えても、それほど無理のある推測ではないように感じられる。
考える名無しさん [sage] 2016/11/29(火) 12:36:25.16 0
「あゆむ」で連想したのだが、日本語の「たどたどしい」と英語の「toddle」は似ている。
考える名無しさん [sage] 2016/11/29(火) 12:54:01.24 0
思索の道を歩もうとするなら、「たどたどしい」ことを恐れるべきではないと思う。
歩みは、それが歩みである限り、常に試行的(tentative)なのであり、歩みが自由で
あることとそれが不確かであることは表裏一体なのだ。不安定な(英語なら
「wobbly」、独語なら「wakelig」とでも表現され得るだろうか)歩みが転ぶことや、
ぬかるみにはまる結果をもたらしたとしても、歩もうとする試み自体が否定される
べきではないと思う。むしろ、思索の道を歩む者は、自らの歩みが確実な典拠
(キャノン)と見なされるようになることを恐れるべきだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/01(木) 20:30:35.73 0
連想は自然に生じるので、どこまでが単なる憶測に過ぎず、どこからが仮説
と呼べるような推論となるのかを明確に線引きすることはできない。
容易に反証が見つかりそうなのに、偶々、思いついた連想を強化するのに
都合のいい事例ばかりを恣意的に集めてきて立てられた「仮説」は、
仮説というより憶測と呼ぶにふさわしいが、そのことによって、その
憶測がただちに無効なものとなるわけではない。むしろ、あらゆる仮説
は、憶測から始まり、その憶測が正しいと想定した場合に生じる関係性
を経験を介して検証する行為により、仮説と呼べるものとなる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/01(木) 20:42:43.01 0
「かゆ(粥)」の「ゆ」がやはり、「ゆるむ(loosen)」ことから来ているの
ではないかという連想は、「かゆ(粥)」の状態を考えれば自然に生じる。
ただし、それだけで「かゆ(粥)」「ゆ」が「ゆるむ」ことを意味している
と考えるのは、孤立した憶測に過ぎない。

岩波古語辞典で「かゆ」を引いてみると、「堅粥(かたかゆ)と汁粥(しる
かゆ)の総称。前者はいまの飯、後者はいまの粥に当たる。これに対し、
米を甑(こしき)で生したものは強飯(こはいひ)といった。」と記載されている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/01(木) 21:18:32.10 0
つまり、古語では、「かゆ(粥)」は、現代の日本語で言うかゆ状の「お粥」
だけでなく、普通に炊飯したご飯も指していたと説明されている。では、
「かゆ」の「ゆ」は、「ゆるむ」ことと無関係なのだろうか。簡単にそう
結論づけることもできないように私は思う。なぜなら、水の中で熱して
調理された米である「かゆ」が、蒸して調理された「こはいひ(強飯)」
と明確に対比されているからである。「こはいひ(強飯)」の「こは」は、
現代の日本語では、赤飯などを指す「おこわ(御強)」という表現に
残っているが、「こは(強)し」は、物の表面の触感が柔らかくなく、
ごつごつと堅い状態を形容する表現である。したがって、「かゆ(粥)」
は、「こは(いひ)」に対比されていることになり、「表面のゆるみ」を
表しているのではないかと私には連想される。日本語の「か」は、「殻」
のような名詞にせよ、「かた(堅)い」のような形容詞にせよ、「か(掻)く」
のような動詞にせよ、「かんかん」のような擬態語にせよ、何らかの表面
を連想させる表現が多い。「かゆ(粥)」は、英語で言い表すなら、
「loosened surface」のような意味合いを持っていたのではないか
というのが、今のところの私の憶測である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/01(木) 21:44:06.48 0
ちなみに、イタリア流の雑炊とも言えるリゾットに関して、試しに「loosen」
と「surface」で検索してみると、以下のサイトの書き込みがヒットした。

ttp://cooking.stackexchange.com/questions/4770/what-is-the-chemical-process-behind-the-way-you-cook-a-risotto
Amplifying that answer, I think the main thing is simply friction. If you
dump the rice in all the stock at once, the grains don't rub up against
each other and release starch. You want a thick mass that when stirred
creates friction and loosens the surface starch of each grain to produce
the creamy texture.
訂正 [sage] 2016/12/02(金) 00:05:18.99 0

>ごつごつと堅い状態

擬態語を使うなら、「こわ(強)し」をそのまま強調した形になっている
「ごわごわ」とした方がより適切だったな。
考える名無しさん [sage] 2016/12/02(金) 08:59:44.17 0
「こはいひ(強飯)」というのはやはり、蒸したてを食べるのではなく、
現代でも赤飯など「おこわ(御強)」の場合にそうであるように、
冷めた状態になってから食べるのが普通だったのだろう。ワイシャツ
に大目にのりづけをして、でんぷん質が固まり、乾燥すると、「ごわごわ」
の肌触りになるが、「こはいひ(強飯)」は、「ごわごわ」になる前の
段階のでんぷん質がある程度硬くなった「こわこわ」した状態を適確に
表現している。
考える名無しさん [sage] 2016/12/02(金) 16:37:20.76 0

>甑(こしき)で生した(誤)
>甑(こしき)で蒸した(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/03(土) 13:55:16.44 0

>ドイツ語で「Los!(行け)」と言うように、同じ「ゆ」を表していたのだろうか
>という疑問を以前に書いた。

「ゆ」についていろいろ考察してきたが、私の最初の疑問の出発点である日本語
の「ゆ(行)く」という動詞について再び考えてみると、私には、「ゆ(行)く」が
何を表現しているのか、より明確に理解できるようになったように感じられる。

命令形において、「Los!」と「ゆ(行)け」は確かに似ているが、日本語の
「ゆ(行)く」という動詞とドイツ語の「losgehen」を比べてみると、違い
にも気づく。ドイツ語の「losgehen」において「los」が表しているのは、
出発点において「自由になる/解き放たれる」ことであり、英語で表現する
なら、「losgehen」は、「set off」ということになる。これに対して、
日本語の「ゆ(行)く」が表現しているのは、動きにおいて「自由な状態に
ある」ことである。
考える名無しさん [] 2016/12/03(土) 14:09:55.17 0
つまり、「ゆ」がドイツ語の「los」に対応すると考えるにしても、日本語の
動詞の「ゆ(行)く」の「ゆ」が対応するのは、「losgehen」の「los」の用法
よりも、「loswerden」の場合ように「〜から自由(free from 〜)」を表す
用法の方であると思われる。ドイツ語の「losgehen」が、英語で「set off」
や「go free」に相当するとすれば、日本語の「ゆ(行)く」は、「go freely」
であり、「free-going」の状態を表現しているように私には思われる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 09:21:11.59 0
「ゆ(行)く」の「ゆ」を束縛のない状態(≒loose)と解釈して、「ゆ(行)く」
を英語で「going loosely」と表現するなら、現代の日本語の「ゆっくり」も
古語の「ゆくり」も「loose-goingly」と表現できるように思われる。

ところが、「ゆくり」に様子を表す接尾辞と思われる「か」が付けられただけ
の「ゆくりか」という古語の表現は、岩波古語辞典を引くと、「@無遠慮で
気兼ねしないさま」、「A思いがけず突然なさま」を意味するとされている。
この一見、矛盾する「ゆく」、「ゆくり」、「ゆくりか」の関係はどのように
考えるべきだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 09:37:40.09 0
私は、この一見したところの矛盾は、「ゆ(≒loose)」に対する「意(い)」の
関係から容易に解消できると考える。「ゆ」が「意(い)」に沿っている場合、
束縛されていないことは、「ゆるい」ことであり、「自由がある」ことである
が、「ゆ」が「意(い)」に反している場合、束縛されていないことは、すなわち、
「締まらない」ことであり、「野放図」なことであり、「抑えがきかない」
ことである。このことは、例えば、英語の「run loose」という表現を考えて
みればすぐに理解できるはずである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 09:50:45.00 0
「意(い)」に反する「ゆ」の関係は、現代の日本語では使われなくなった
古語の「ゆくゆく」という表現に明確に表れていると私には感じられる。
岩波古語辞典における「ゆくゆく」の説明は、以下のとおりである。
1. 気持ちが安定しないさま
2. @何の遠慮もないさま。人の気持ちなど斟酌せぬさま
A思いがけないさま
この説明において、1.の用法は、「ゆ(揺)れる」ことに関係していて、
同じ発音の表現である2.の用法とは異なるとされるが、いずれにせよ、
私には、どちらの場合も「ゆ≒loose」から解釈できると思われ、特に
2.の用法は、「running loose」の状態とほぼ合致していように感じられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 10:04:56.59 0

「ゆくゆく」という表現の2.「A思いがけないさま」を意味するとして挙げられて
いる例文は、お産のときの破水した状態を記述している。

「[御産ノ]御気色ありとて宮の中たち騒ぐほどに、ただゆくゆくと水のみ
いでさせ給ひて」(増鏡十五)

この例文において、「思いがけないさま」という説明は、私には、あまり
適合しているようには思えない。この場合、「ゆくゆく」は、羊水が、
宮中で御産の手助けをしている人々の意に反して流れ出す様子を擬態語
により具体的に表現していると考えるべきではないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 10:18:19.43 0
同様の「ゆ(≒loose)」に対する「意(い)」の関係は、「ゆめ(夢)」を
「loose vision」と解釈した場合にも当てはまるのではないかと私には
思われる。「loose vision」としての「ゆめ」は、寝ている間に見たものが
何を表しているのか判然とせず、占いの対象となるが、「ゆめゆめ」と
いう表現は、「決して〜するな」という強い否定の文脈で用いられる。
英語でも「Not even in your wildest dreams!」という表現があるが、
「ゆめゆめ」は、「not even in your loosest visions」と理解できる
のではないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 13:27:32.65 0
ここに私が書いているようなことは、それに一般的な妥当性があろうと、
なかろうと、私にとって突飛なことではない。なぜなら、ここに書いているよう
なことは、私が言葉を理解しようとするときにいつでも自然に行っている暫定的
な推測をメタ言語によって明示化しようとしているだけだからだ。
私は、自らの推測の根拠を示すために頻繁に辞書からの記載を転記しているが、
実のところ、私は辞書を引きながら本を読むのはとても苦手である。
私は表現を単語や熟語の間の1対1のマッピングとして捉えることができない
ので、辞書の訳語を知ったところで、元の表現を理解できたと感じることが
できない。私は外国語を読んでいて、知らない単語や表現に出会っても、
辞書を引かずに類推することが多い。当然、その類推は、辞書で確認すれば
誤っていることが多いが、それは私にとってそれほど大きな問題ではない。
私にとって重要なのは、よく分らない状態に気づき、類推の作業モデルが
生じることである。その作業モデルが生じている状態になって初めて、
辞書を参照することが私にとって役に立つ。辞書を参照することによって
疑念が解消されるなら、私は辞書の訳語や説明に納得しているのであり、
疑念が残るなら、辞書の記載は、作業モデルに組み込まれて、試行錯誤
による作業モデルの変更と検証がつづけられることになる。したがって、
私は、自分でここに書いているようなことの正しさについて権威を主張
しているわけではない。作業モデルは常に暫定的であり、現時点で有効
であると感じられて残っているモデルが、プラグマティズムにおける
意味での私にとっての暫定的な真実なのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 14:25:57.03 0
このことは、作業モデルを構築するための元になる表現の事例が極めて少なく、
その妥当性を検証するために参照できる表現の用法が狭く限られている
なら、作業モデルを構築することそのものが困難であることも意味する。
例えば、天皇を指す表現として「すめろき」という言葉があるが、私には
今のところ、これが何を表しているのか全く見当がつかず、辞書の説明も
それが妥当であるのかどうかを判断する材料がない。「統ぶ」という表現
に関係しているとも言われ、母音の発音の違いからそうではないともされ
るが、そのどちらも有り得るとしか言えない。発音の類似から見れば、
類似しているように見える表現は多種多様であるため、方向性が定まらない。
「すめろき」は、古語の「わざをぎ」にでも似ているし、なんなら昆虫の
名称である「こほろぎ」にでも似ており、「統ぶ」と似ていると言うなら、
「すべ(術)」や「すべ(滑)」とも似ている。「すめ神」という表現があり、
神は「柱」だから、「き」は「木」に違いないという説まで読んだことは
あるが、そのように「き」の用法が限定されているという確かさがない。
表現の意味はその用法にあり、用法が狭く限定されれば、それは慣習的な
表現となり、その表現を使っている人々にとってさえ表現の意味が不明
となる場合は少なくないのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 23:13:49.97 0
ttp://yain.jp/i/%E5%8A%B4%E3%81%86
労う ねぎらう
苦労や尽力に対して感謝し、いたわること。慰労すること。

語源は奈良時代の上二段動詞「ねぐ(労ぐ)」で、神の心を和らげて加護を祈る意。
また、相手の労苦をいたわる意であった。そこから「ねぎ(禰宜・神職の一つ、神
の御心を休める者の意)」、「ねぎらう(労う」、「ねがふ(願ふ)」などの語が
生じた。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 23:26:09.42 0
「ねぐ」と「ねがふ」と「ねぎらふ」が意味的に互いに関連していることは
疑問の余地がない。日本語の話者であればほとんどが、「ねが(願)う」と
「ねぎら(労)う」の両方の表現を知っており、これらの表現の意味を理解
明確にしていると感じているだろう。だが、この2つの表現の関係を問われて、
仮説としてであれ、答えを出せる人はどれだけいるだろうか。
表現の関係性を説明するには、メタ言語を必要とし、メタ言語には、
別言語を鏡として利用することが役に立つのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 23:31:44.74 0
現代の日常語では使われることのない「ねぐ」は、に説明されるとおり、
「神の心を和らげて加護を祈る意」で用いられており、英語で表現するなら、
「appease」や「placate」に近いと考えられるだろう。「ねぐ」に関連する
「ねがふ」は、「ねぐ」の再帰形、つまり、「ねぐ+あふ」であると解釈
することができ、実際、「神の心を和らげて加護を祈る」ことにより、
「自らにご利益(りやく)」をもたらしてもらおうとする行為を意味していた
と考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/04(日) 23:41:11.77 0
ところが、同様の類推を働かせるなら、「ねぎら(労)ふ」も再帰形と解釈
されるはずである。実際、現代語の「ねぎら(労)う」は、意味的に多少ずれる
ものの、「ねぎらい」の言葉をかける人とそれをかけられる人の関係性から
見れば、英語の「console」に類似しており、「con」が語源的に日本語の
「あふ」に近い機能を担っていたと見ることができる。しかし、「ねぎらふ」
を「ねぎる+あふ」と分解することは、再帰形でない元の動詞が「ねぐ」で
あることから、できない相談である。では、どのような解釈であれば成立
しうるのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/05(月) 00:04:50.19 0
これは完全に個人的な憶測であるが、「ねぎらふ」は、本来的には「ねがふ」
と同じ表現であって、行為にかかわる上下関係によって2つの別々の意味に
分れたのではないだろうか。つまり、「ねぎらふ」の「ら」は、「れる」、
「られる」に類する尊敬語であって、「ねぎらふ」は、「ねがふ」という
表現の尊敬語ではないだろうか。「ねがふ」行為が、下から上に向けて
行われ、自らにご利益がもたらされることを目的とするのに対して、
「ねぎらふ」行為は、上から下に向けて行われて、自らのためにして
もらった苦労に対する慰労の念を伝えることである。

「ねがふ」ことは、現代的に見れば、相手に希望の念を伝えることのように
思われ、「慰労の念を伝える」こととは別のことであるように感じられるが、
下から上に「希望の念を伝える」ことは、下から上に「要求する」ことに
なってしまうので、むしろ、「ねがふ」場合でも、あらかじめ「慰労の念を
伝える」ことによって望みをかなえてもらおうとしたと考えるべきでは
ないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/05(月) 00:12:10.65 0

下から上に「あらかじめ『慰労の念を伝える』」という表現は、不遜な印象
を与えるので、「あらかじめ『感謝の念を伝える』」に訂正しておく。
現代でも人に頼みごとをするのに、「あらかじめ感謝の念を伝えるために」
贈り物をするのは、よくある手法だろう。
考える名無しさん [] 2016/12/05(月) 08:53:45.19 0
ここでの想定(作業モデル)を整理しておこう。

「ねぐ」は、英語で表現すれば、「appease」や「placate」に近い意味をもつ
動詞であるが、その再帰形である「ねがふ(ねぐ+あふ)」は、本来、現代語の
「願(ねが)う」と「労(ねぎら)う」の両方の意味を兼ねて、「自分(たち)の
ためにしてくれることに対して感謝の念を表す」行為であった。「ねぎらふ」
という形は、上の地位の人から下の地位の者に向けられる「ねがふ」行為の
尊敬表現として用いられ、そのことによって「ねがふ」は、下の地位の者から
上に向けられる用法に特化されることになり、「ねぎらふ」と「ねがふ」の
分化が生じ、それとともに、「ねぎらふ」は、上の人が下の者に対して、
自分(たち)のためにしてくれること(/既にしてくれたこと)に対して慰労の
念を表す」行為となり、「ねがふ」は、下の者が上に向けて「自分(たち)の
ために(これから)してくれることに対して(あらかじめ)感謝の念を表す」こと
によって「ご利益を得ようとする」行為となった。
考える名無しさん [sage] 2016/12/05(月) 13:14:39.08 0
作業モデルが生じると、それに付随して妄想(経験による検閲を十分に
経ていない連想)も数多く生じる。

「ねぐ」≒「appease」とすると、「ねぐ」は、「なぎ(凪/和ぎ)を
連想させる。ここまでは憶測としてそれなりに妥当である。その先の
妄想を、また時間のあるときに書き込むことにしよう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/05(月) 23:31:17.28 0
「ねぐ」で検索していたら、「ねぐ」について折口信夫が書いた論考が
ヒットしたので貼っておこう。
ttp://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47177_37073.html

誤解のないように明言しておくが、私は国語学などについては完全に
素人なので、折口の論考も含め、先行研究についての知識は、古語辞典で
得られるものを除くとほぼゼロである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 08:17:05.35 0
「ねぐ」から話題は逸れるが、「ねぶ」というどうも私にはよく理解できな
かった表現は、英語で表すなら単に「to age」であるように思えてきた。
特に深さのない表現にニュアンスを探ろうとするとぬかるみにはまる。
それにしても、日本語の動詞は、どのような場合に「〜ぶ」という形態を
とるのだろう。

学研全訳古語辞典

ね・ぶ

@おとなびる。ませる。
出典平家物語 一一・先帝身投
「御年(おんとし)の程よりはるかにねびさせ給(たま)ひて」
[訳] 実際のご年齢よりはるかにおとなびていらっしゃって。

A年ごろになる。成人する。
出典源氏物語 紅葉賀
「ねび給ふままに、ゆゆしきまでなりまさり給ふ御ありさまかな」
[訳] 成長なさるにつれて、恐ろしいほど美しくなっておゆきになるごようすだな。

B老いる。ふける。
出典源氏物語 夕顔
「かたちなどねびたれど清げにて」
[訳] 容貌などはふけているけれどきれいで。
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 13:36:32.07 0

妄想を書き込む時間がなかなかとれないので、説明なしに妄想の方だけ先に
書き込んでおこう。私は、「ねこ(猫)」の語源は、「ペット」を意味して
いたのではないかと連想される。なぜそんな連想が生じるのかは、時間の
あるときに書く。むろん、これは妄想、つまり、検閲を経ていない連想に
過ぎないので、誤っている可能性が高い。それは、夢の内容が現実と整合性
がとれないことが多いのと同じことである。ただし、夢で見た内容だから
といって、それが現実と矛盾するという必然性もない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 13:38:04.20 0
私は、「ねこ(猫)」の語源は(誤)
私には、「ねこ(猫)」の語源は(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 18:29:48.92 0
私は、「ねこ(猫)」の語源は(正)
私には、「ねこ(猫)」の語源は(誤)
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 18:51:36.09 0
実は、憶測よりもさらに根拠のあいまいな妄想の方が書き込むのに手間と
時間がかかる。憶測は既に構造を成しているのに対して、妄想の方は
ゆるいまとまりしかなく、流動的であり、それを他人/自分に意味の
とおるように書き出す手順が容易に定まらないからである。

ここで私が形を与えようとしている妄想は、「ねぐ」という動詞に
おいて用いられている「ね」という発音のイメージにかかわる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 19:14:16.68 0
まず最初に確認しておくべきことだが、言語において、発音が同じだから、
意味が同じだとか、同じ発音が同じイメージを表すといった主張をする
ことが、対象を同一言語に限定した場合でも誤りであることは常識である。
これは、同じ言語内に同一異義語が存在することからも明らかである。
また、異なる言語の間で音のイメージが共通しないこともよく知られている。
例えば、印欧語において否定を表す返事が「N」の音から始まる言語が
多いが、ギリシャ語では逆に肯定的な「はい」という返事が「ネ」である
ことはよく知られている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 23:34:45.26 0
その一方で、同様の意味の表現が自らの母国語と外国語ではまるで違う発音の
言葉となるのだから、発音とその発音による表現の関係は恣意的であり、発音
は意味に任意に付けられたラベルに過ぎないと考えるのは、言語の現実から
完全に乖離している。人の発声が言葉として認識される限りで、その発音は
必然的に切り離し難く何らかの意図と結びついている。だからこそ、言葉
として認められる発音をしてしまった後で、そんなつもりで発音したのでは
ないと否定してみても、表現されてしまったことの取り消しはきかないの
である。印欧諸語に関しては比較言語学が発達したが、これは発音が常に
変化しながらも、表現との関係を保ったまま体系性を示していることが
基礎にある。発音の体系性が連続的に保たれているのは、表現から独立
して発音に関して何らかの「無意識の構造」がどこかに記憶されている
からではない。発音の体系性は、発音による表現の整合性と結びついて、
言葉を発する行為が、表現を整合的に用いるという暗黙の規範に従う
ことを要求するからこそ、発音の体系性が維持されているのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/06(火) 23:55:56.90 0
前置きが長くなったが、まず、問いだけでも書き込んでおこう。
「ねぐ」という表現は、具体的にはどのような行為を表そうとしていた
のだろう。「神の心を和らげて加護を祈る」行為というのは、答えであって、
答えではない。なぜなら、「ねぐ」という表現は、語源的には、それより
はるかに一般的な意味をもっていたはずなのに、この表現の意味を、後の
きわめて限定された文脈における解釈に押し込めているからだ。
「〜ぐ」という形態の動詞は、「ねぐ」の他にも「ほぐ」、「とぐ」、
「つぐ」、「こぐ」などいくつもある。したがって、「ね」は、それらの
他の「〜ぐ」と「ねぐ」を区別して、「ねぐ」が「どのような」行為で
あったのかを表現していたはずである。ゆえに、この「ね」という発音
がどのようなイメージと結びついていたのかを問うことが重要となる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 00:01:47.52 0

これは発音が...基礎にある(誤)
これには発音が...基礎にある(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 08:45:10.83 0

なかなか時間がとれないので、なぜ私に、「ねこ(猫)」の語源は、「ペット」
を意味していたのではないかと連想されたのか、そのきっかけだけ簡単に
書いておく。の折口信夫の論考にも引用されるが、「ねぐ」という表現
の文例には次のものがある。

「すめら吾がうづのみ手もちかき撫でぞねぎ給ふ。とり撫でぞほめ給ふ」

この文例における、並行構造、すなわち、
「かき撫でぞねぎ給ふ」
「とり撫でぞほめ給ふ」
が「ペット」の扱いを連想させ、それと同時に、「ねぐ」と同形の動詞で
「ほめ」から連想される「ほぐ」という動詞のより古形が「ほく」であり、
事例は確認されていないものの、「ねぐ」の古形も「ねく」であったので
はないかと類推され、「ねく」という発音が「ねこ」と似ているという
のが連想のきっかけである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 08:51:01.18 0
むろん、ここで私は、「ねぐ」≒「appease」という解釈により、
「かき撫でぞねぎ給ふ」という文を、「かき撫でて和やかにさせる」と
いうような意味に理解している。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 22:20:12.32 0
妄想の続きを書こう。ただし、あまり時間がとれないので雑にしか
書くことができず、どれだけ私の妄想が他人に伝わるか心もとない。

日本語には「ね(音)」という表現が存在する。しかし、私は「ねぐ」と
という動詞の「ね」は、「ね(音)」と直接に関係していることはない
だろうと考えている。というのは、「とぐ」、「こぐ」、「つぐ」、
「ぬぐ」など、「〜ぐ」の形態をとる他の動詞が、「(名詞化した要素)
+ぐ」という形をとっているようには見えないからである。

「ね(音)」について私は、一般に辞書に記載されている以上に「な(鳴)く」
ことと密接に結びついているのではないかと感じているが、詳しい検討は
していない。何らかの他律的な作用が働くことで出される「音(おと)」や
「声(こえ)」が「ね(音)」と呼ばれるのではないかと暫定的に思っている
が、これは、「ねぐ」の「ね」とは別の問題である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 22:36:25.88 0
日本語において、古語でも現代語でも、「つ」は、「つづく」、「つかむ」、
「つなぐ」、「つる」など、「連続性」をイメージさせる表現に多く用いられ、
「な」は、「なつく」、「なれる」、「なじむ」、「なぞる」など、「近接性」
をイメージされる表現に多くみられることを以前に述べた。「ゆ」については、
「ゆるむ」イメージとして多くの表現に使われていることは、このスレの
レスで書き込んだとおりである。では、「ね」はどうかというと、擬態語の
「ねばねば」や「ねとねと」だけでなく、「ね(練)る」、「ねだる」、
「ねた(妬)み」、「ね(睨)めつける」、「根(ね)」のような表現にいたる
まで、「密着性」とでも呼べるようなイメージを私に想起させる。
ちなみに、「ねた(妬)み」に相当する英語の表現は「envy」であるが、
その語源は、下記のとおりであり、
>invidere "to envy, hate," earlier "look at (with malice), cast
> an evil eye upon," from in- "upon" (see in- (2)) + videre "to see"
>(see vision).
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=envy
「invidere」を日本語に移し替えようとしたなら、「ね(睨)めつける」が
うまく合うのではないかと私には感じられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 22:45:36.08 0
したがって、ここで問題にしている「ねぐ」という表現の場合にもやはり、
「ね」には「密着性」のイメージが伴っているのではないかというのが、
私の推測である。「ねぐ」という動詞が、英語で表現するなら「appease」
に近い、つまり、「な(和)ませる」のような意味で用いられているので
あるから、この推測に基づくなら、「どのような密着的な行為が相手を
和ませることになるのか」という問いが生じ、この問いにはによって
引用した用例、「かき撫でぞねぎ給ふ 」によって既に答えが与えられて
いるような印象さえ私は受けるのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 23:05:06.25 0
ここで、「ねぐ」≒「appease」がなぜ「ねこ(猫)」を私に連想させるのか、
それにまつわる私の妄想を書き連ねよう。

古語において、「よこ(横)」と「避(よ)く」は、語源的に関連していると
される(岩波古語辞典)。「むこ(婿)」は、「相手(counterpart)」を
表し(岩波古語辞典)、類推するなら、語源的に「む(向)く」と関連して
いるのだろうと私には思われる。つまり、「むこ(婿)」とは、「む(向)
こう側」のことであることになる。「たこ(凧)」の語源ははっきりしない
ようだが、類推するなら「た(長)く」だろう。「日たくるまで大殿籠れり」
(源氏物語 桐壷)という用例がある(岩波古語辞典)が、この場合、
「たくる」とは言うまでもなく「昇る/揚がる」ことであり、「昇るもの」
が「たこ(凧)」である。「たこ(蛸)」については、どのように釣られたの
か知らないので、これが当てはまるかどうかは知らないが、水揚げされる
のだから、あながち無理な解釈でもないだろう。さらにいい加減なこと
を言えば、「そ(退)く」という動詞があり、「(そこ)底」と関係して
いるのではないかとも妄想している。すると、「ねこ(猫)」は、語源的
には「ねく(≒appease)」という動詞から来ているのではないかというの
が私の妄想の中心である。「ねく」は、密着的なイメージの行為により、
相手を「和ませる」のであるから、英語で表現するなら「caress」
(to touch or stroke lightly in a loving or endearing manner)
ttps://www.merriam-webster.com/dictionary/caress
に近いものになるのではないか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/07(水) 23:17:38.74 0
したがって、「ねぐ」⇒「ねこ(猫)」という妄想によれば、「ねぐ(caress)」
⇒「猫(caressed)」という関係が導かれるわけだが、「caress」されるもの
とは「ペット」である。英語の「pet」の語源は不明らしいが、ロングマン
英英辞典による説明は下記のとおりである。

pet(名詞) 1. an animal kept by a person in the home as a companion
2. a person (esp. a child) or thing specially favored above others
pet(動詞) 1. to touch kindly with the hands showing love
2. to show special kindness and care for the comfort of 〜

名詞の「ペット」を「ねこ(猫)」、動詞の「ペット」を「ねぐ」に当てはめる
私の妄想を多少は理解してもらえただろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/08(木) 10:18:17.59 0
ところで、「のこ(残)・り≒(things set aside)」とは、「の(退)く/の(退)ける
(≒set aside)」行為によってもたらされるものである。とすると、「のこのこ
とやって来る」とは、「come as if having been set aside」という意味なの
だろうか。

ttp://www.thefreedictionary.com/set+aside
set aside
1. To separate and reserve for a special purpose.
2. To discard or reject.
3. To declare invalid; annul or overrule: The court has set aside the conviction.
考える名無しさん [] 2016/12/08(木) 14:01:24.40 0
例えば、ネギを背負った鴨は、「のこのこと(≒as if having been set aside/
reserved for the purpose/occasion)」やって来るのではないだろうか?
考える名無しさん [sage] 2016/12/08(木) 16:38:44.96 0
試しに、Googleで「のこのこ 英語」で検索すると、Google翻訳が
「のこのこ」→「Blindly」という答えを返してくる。

他には下記のサイトも上位でヒットする。
ttp://ejje.weblio.jp/content/のこのこ
このサイトに記載される「のこのこ」の主な訳語は、下記のとおりである。
主な英訳
obtrusively

「のこのこ」の英語に関連した用語
1. shamelessly (斎藤和英大辞典)
2. brazen‐facedly (英和対訳)
3. Coolly (斎藤和英大辞典)
4. calmly (斎藤和英大辞典)
5. unconcernedly (斎藤和英大辞典)
6. nonchalantly (英和対訳)
考える名無しさん [sage] 2016/12/08(木) 16:49:19.53 0
既に述べたとおり、私は、大抵の場合、分らない表現について辞書を引いて
対応する訳語を知っても、その表現を理解できたようには感じられない。
これだけ数多く訳語を並べられても理解できないのだから、要するに、
私はもの分りがとても悪いのだ。ここに列挙される訳語はすべて、
「のこのこ」と形容される動作の主体が自らの置かれた状況に無自覚
であるか、無関心であるか、またはそれに動じないことを伝えている。
しかし、その状況がどのような状況であるかはまったく伝えていない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/08(木) 16:56:46.05 0
歓迎されていない、または待ち構えられて狙われている状況に
「のこのこ」やって来るのだから、無自覚である、無関心である、
または動じないのは、そのような状況に対してであろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/08(木) 19:59:51.94 0
「のこのこ」という表現をメタ言語によって一般的に記述してみるなら、
「本人にとって敵対的な/非友好的な場に、そのことに気づかずに/その
ことを気にせずに姿を現す様態」ということになるのではないか。
すると、「のこのこ」はやはり、「as if the place were reserved for
him/her」のように理解できるのではないか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/09(金) 08:53:27.24 0
私にとって表現を理解するとは、その表現を隣接した別の表現で置き換える
ことではなく、その表現の意図が納得のいくように解釈できるようになる
ことである。だから、私にとって、ある表現を「知っている」ことは、
必ずしもその表現を理解していることにはならない。その表現が
「どのように」使われるのかを理解し、その「どのように」をメタ言語に
よって簡潔に説明できるようになることで初めて、その表現が分った
と感じられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/09(金) 10:55:17.16 0
ショップとストアを店と意味づけ翻訳するのに

ストアの観念部分を具現化して曖昧な部分を排除し
単純に意味で記号化すれば、それが誤訳の始まりになる。
記号で説明するのに完全解を出すような方程式を解けば
かならず答えは歪み、部分的な嘘を混入させる。
理解してメタ言語化すればするほど完結に説明すればするほど嘘が入り込む
世界の主体的意味は全て共通の定義で成されているわけではない、
それを自分がわかるからといって全て共通に合理化して切り捨てれば
自分では成立しても他者では成立しなくなる部分がでてくるのは必然だ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/09(金) 15:38:27.52 0
記号論の基本を理解していないようだね。基本的な考え方は関連する
旧スレで書き込んだので、ここで繰り返すことはしない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/09(金) 15:42:56.64 0

そもそも、記号論でいう「記号」の意味をまったく理解していないレスだ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/09(金) 16:08:27.28 0
記号論における「記号」という表現自体、記号論的な方法によらなければ
理解することができない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 00:52:08.83 0
しこ【四股】 の意味
出典:デジタル大辞泉

《「醜足 (しこあし) 」の略かという。「四股」は当て字》相撲の基本動作
の一。まず両足を開いて構え、足を左右交互に高く上げ、このとき手をひざ
に当て、力を入れて地を踏む。力足 (ちからあし) 。「四股を踏む」
考える名無しさん [] 2016/12/10(土) 00:55:55.98 0

相撲の「しこ(四股)」もと同様の類推によれば、「し(敷)く」≒
「level out(英語)/gleichmachen(独)」が語源であると考えることができる。
つまり、「しこ(四股)」は、独語で表すなら「gleichgemacht」であり、
平らにされた(/される)土俵そのものである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 01:07:16.43 0
この解釈は、古語の「しく(及く/如く/敷く/領く)」の辞書的な意義の
解釈(岩波古語辞典)とも整合している。「及く/如く」の用法にうまく
合う英語の表現をすぐに思い付かないが、「追いつく」、「とどく」、
「及ぶ」として辞書に記載されている語義は、相手や目的地に対して
「even(英)/gleich(独)」になった状態に帰することができる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 01:19:15.02 0
それにしても、これだけ単純で誰でもすぐに思いつきそうな推論による
語源解釈を、これまで誰も提案してこなかったのだろうか。
それともこの解釈が否定されるべき明確な根拠があるのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 01:28:36.92 0
縄張り意識による思考停止は、既存の権威を保護すること以外には、
何の役にも立たない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 08:38:18.15 0

「すめろき」に類似した表現には、「かむろき」、「かむろみ」の他に
「ひもろき」というのがあるんだな。今、知った。おそらく、これらの
表現の語源は一緒に解かれるのだろう(岩波古語辞典におけるこれらの
表現の語源解釈はばらばらである)。
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 08:55:58.64 0
連想というのはなかなかブレーキが効かない。古事記などの神々の
名前につく「ヒコ」、「ヒメ」という表現があり、現代の名前の
「〜彦」にも引き継がれているが、「ひこ」が「ひ(引)く(≒draw)」
に由来する可能性はあるのだろうか。その場合、「ひこ」≒「drawn」
ということになり、「drawn (from the same blood)」のような
解釈になるだろう。「ひ・まご」、「ひい・じいさん」の対称性や
北欧系の名前に見られる「〜son」や、旧ユーゴ系の名前に多い
「〜vic」などが連想される。

ttp://www.weblio.jp/content/%E6%9B%BE%E5%AD%AB
ひ ひこ 【曽▽ 孫▽】
孫の子。また,子孫。そうそん。 「崇徳院に御譲位ありて,−位につけて御覧ずるまで/愚管 4」

ttp://dictionary.goo.ne.jp/jn/131899/meaning/m0u/
そん【孫】 の意味
出典:デジタル大辞泉
[音]ソン(呉)(漢) [訓]まご
〈ソン〉

1 子の子。まご。「愛孫・外孫・子孫・児孫・従孫・曽孫 (そうそん) 」

2 同じ血筋を引く者。子孫。「天孫・末孫」
〈まご〉「孫娘/初孫 (ういまご) 」
[名のり]さね・ただ・ひこ・ひろ
考える名無しさん [sage] 2016/12/10(土) 13:21:19.21 0
ここで取り上げた連想を列挙してみよう。語源的には動詞から名詞形に変化
したと考えられるので、矢印の向きは逆にしてある。

「よこ(横)(side)」←「避(よ)く(side)」(岩波古語辞典に記載)
「むこ(婿)(opposite)」←「む(向)く(oppose)」
「たこ(凧)/(蛸?)(raised)」←「た(長)く(rise)」
「(そこ)底(backed-out)」「そ(退)く(back out)」
「ねこ(猫)(caressed)」←「ねく*(caress)」(⇒「ねぐ」)
「のこのこ(reserved/set aside)」←「のく(set aside/reserve)」
「しこ(四股)(leveled-out)」←「し(敷)く(level out)」
「ひこ(drawn)」←「ひ(引)く(draw)」

この一連の関係は、当初、妄想(経験による検閲を十分に経ていない
連想)として書き始めたことであるが、妄想が妄想のままに留まるか、
仮説となるかは経験によって試されることによって決まる。ただ、
特に網羅的に調べ上げたわけでも、考え抜いたわけでもなく、単純
に連想として勝手にこれだけのことが思い浮かぶのだから、私に
「一見、整合的に見える偽の関係」をたちまちのうちにでっち上げる
特殊な能力があるか、この一連の関係は、今はほとんど忘れ去られて
しまっている過去の暗黙の了解(コモンセンス)を現実に反映している
かのどちらかだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 11:15:58.71 0
妄想の大量に入り混じった憶測をさらに書き進めることにしよう。

日本語の「ほ」は、内側の空間を感じさせる表現に多く使われ、特に「膨らむ
様態」を表現するのに用いられることが多いと私には感じられる。

「ふ(吹)く」ことが英語の「blow」に相当するとすると、「ほ」は、
「blown up」に相当するだろう。「帆(ほ)」が、風によってふく(膨)らむ
ものであるように、「頬(ほほ)」もふくらませるものであり、耳(みみ)が
2つあるために「み・み」であるように、「頬」もふくらませるものが2つ
あるので「ほ・ほ」と呼ぶのだろう。「ほ(干)す」は、言うまでもなく、
乾燥させることによって藁などをふくらませることであり、「〜す」という
形態の動詞の「す」は、岩波古語辞典で説明されるとおり、もともとは
使役の意図で使われていたと考えられ、「干す」≒「ふくらませる」と
解釈することができる。同様に「火(ひ)」の古語である、「ほ(火)」(
「ほのお(炎)」や「ほた(火垂)る」として現代語に残る)も「blown-up」
に相当するような意味で用いられていたのだろうと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 11:34:26.51 0
「ほ」の発音は、岩波古語辞典によれば(2種類の母音の問題を脇に置いて)、
古語では「fo」に近かったようで、英語の「focus」や「foyer」などの
印欧語の火に関連する語の語源とされる「*bhok」にも似たようなイメージが
働いていたのかどうか検討してみることも、擬態語や擬音語の類似性について
考えるうえで面白いのではないだろうか。
De l’indo-européen commun *bhok-[1] (« brûler ») qui donne aussi
l’arménien բոց, bocʿ (« flamme »), mot apparenté par Varron[2] à
foveo (« chauffer ») voir favilla (produit du feu : « cendre,
étincelle ») ou encore à[3] fax (« flambeau »).
ttps://fr.wiktionary.org/wiki/focus#la
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 11:39:26.99 0
「ほ(掘)る」は、「ふくらませる」こととは関係ないが、「内側の空間を
広げる」という意味では、やはり「ほ」のイメージと合致しており、
「ほら(法螺)」になると、内側が空洞であるだけではく、やはり「ふ(吹)く」
ことによって「ふくらませる」イメージと結びついている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 12:10:37.86 0
私は、日本語の古語の動詞の用法について、一音節だけの形態、および
「〜ぶ」、「〜く」、「〜る」、「〜む」などの形態の違い留意しながら、
専門家(国語学者であれ、言語学者であれ)が簡明に解説した本を読んで
みたいと思っているが、残念ながら、そのように中心テーマを絞った本に
今まで出会ったことがない。そこで、この件に関して、私の極めていい
加減な、ほとんど印象だけに基づく理解を書き込んでみることにする。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 12:34:11.02 0

「〜す」を書き忘れたが、「〜す」は辞書の解説どおり、疑念の余地なく
元は使役の意図で用いられていたのだろうと思う。

「み(見)」、「き(来)」など一音節の動詞は、古語では、現代の日本語の
場合よりずっと多用されていたのだろうと思う。「〜く」、「〜ぶ」、
「〜る」という形態の違いが用法においてどのように機能しているのか
私はよく理解していないが、「〜」の部分に動詞の様態を表す音節が
入れられることによって、その動詞が「どのように」、「〜く」、
「〜ぶ」、「〜る」ことになるのかが表現されることになる。「〜く」
や「〜ぶ」と比べて、「〜る」の形態が、動詞として二次的である
印象を私が受けるのは、「〜る」の場合には、「〜」の部分に既に
表現として成立している言葉が代入され、「〜る」がいわば、再動詞化
のために多用されているためだろう。

また、後につづきを書く。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 12:43:51.04 0
忘れないうちに1つだけ書き加えておく。

古語には、現代語の「送って寄こす」に相当する意味での「おこ(遣)す」
という表現があるが、この動詞の「おこ」は、「おく(送/贈)る」の「おく」
と同根なのではないだろうか。「おくる」が「send」であるとするなら、
「おこ(遣)す」は、「〜す」が使役なのだから、「have (it) sent」と
解釈することができる。用法としては「おこす」は廃れ、「よこす」に
なったとみられる(岩波古語辞典)が、これは、「おこす」が「お(起)こす」
と重なるため、紛らわしさを回避するために「よ(寄)こす」と表現される
ようになったのだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 16:27:21.36 0
の書き込みでは「〜む」が抜けているが、これは意図的である。
「〜む」については、既に過去のスレで、
つとめて=つと(early [hours])・め(rather)・て(towards)
≒towards rather early hours に関連して解釈した
「つとめ【勤め・務め】」≒「make (it) rather early」
という英訳がそれである。この英訳では「〜む」を「make (it) rather 〜」
としているが、この考え方は一般化できるだろうと私は考えている。
例えば、自動詞の「すす(進)み」にしても他動詞の「すす(進)め」に
しても、「み/め」は、英語で言い表すなら「increase」や「enhance」の
ような、「〜」の部分が表す様態を強める意図を表していると考えること
ができる。この場合の「〜」は、「すす」であるが、「す」は、「抵抗
なく通る」様態を表していると考えられ、それが重ねられることで、
さらに、「継続的に抵抗なく通る」様態を表していると考えることが
できる。すなわち、「すす」は、英語を用いるなら、「going/running
through」を副詞化したものであり、「み/め」は、その様態を強める
ことを表している。普通の英語に近づければ、副詞と動詞の役割が逆に
なってしまうが、自動詞の「すすむ」は、「increasingly go/run
through」と見なすことができる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 16:48:15.22 0
ちなみに、「す」は、他の多くの場合にもそうであるように、副詞的に
用いられているものの、「す」自体で作用を表現する動詞と見なすこと
もでき、で「ほ」をいわば、「ふ」の受動態と見ることができる
ように、「す」の場合には、「そ」が受動態だろうと私には思われる。
したがって、「せかせかと」を表すとされる古語の擬態語とされる「
そそ(噪)き」の「そそ」なども受動態としてのイメージを表現して
いるのだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 17:06:04.91 0
同様の受動的なイメージは、で取り上げた「さもらふ」という表現の
「も」にも見られると考えることができる。「さ・もらふ」は、「もる」
の再帰形に「さ」という接頭辞が付いたものであると思われるが、「も(守)る」
の「も」は、動詞としての「み(見)」に由来し、「み(見)」を「watch」と
するなら、「も」は、「watched」であり、その「watched」という様態が
「も(守)る」という動詞において副詞的に用いられている。しかし、
「も(守)る」という動詞が慣用化して、副詞的要素である「も(watched)」の
役割が感じられなくなると、「も」と同様の類似した要素である「ま(目)」
が、「目で・も(守)る」という意味で加えられて「ま・もる」に変化した
のだろう。ところがさらに、今度は「まもる」自体が慣用化して、元の
副詞的要素である「も」はおろか、新たに加えられた「ま」の副詞的役割
も忘れられれ、「見て・まも(守)る」という意味で、「み」が加えられて、
最終的に現代の日本語で用いられる「みまもる」という表現が生じたと
考えられる。むろん、これは、私の勝手な妄想ではあるが。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 17:17:12.05 0
ところで、岩波古語辞典には、「め(目)」と「め(芽)」は、同根であると
記載されているが、この説は私には疑わしく思える。なぜなら、「め(目)」
の古語は、「目(ま)の当りにする」というときの「ま」であり、「め」
ではないからだ。「み(見)」から「め(目)」が導かれたと考える方が自然
だろう。一方、私には「め(芽)」は、「つとめて(≒towards rather early
hours)」の「め(≒rather)」や、「つとめ【勤め・務め」などの動詞の形成
において用いられている「め」と共通しているように感じられる。なぜなら、
「春めく」の「めく」の「め」や、擬態語の「めきめき」の「め」がやはり、
何かが「強まる」様態を表しており、その様態が「め(芽)」の成長する様態
と共通しているように感じられるからである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 22:04:53.67 0
これまで述べてきたいくつもの憶測や妄想を複合したような連想も浮かぶ。

現代の日本語に「そそっかしい」という表現がある。

>態度や行動に落ち着きがない、あわて者である。不注意で、とかく
>失敗をしがちである。軽はずみである。「そそっかしくて始終忘れ
>物をしている」 出典:デジタル大辞泉

旧スレで日本語の「〜し」という形態の形容詞は、多くの場合「〜を生じる」
のように解釈することができると指摘した。その解釈によれば、「そそっか
しい」は、古語の「そそ(噪)き」から派生し、「そそ(噪)きを生じる」と
いうことになる。「そそかし」の「そそき」は名詞化されているが、動詞と
しての「そそ(噪)き」の意味は、岩波古語辞典によれば、「@せかせかと
(仕事)をする。忙しくする。」、「A《他動詞として》ざわざわさせる。
毛や繊維をけばだたせる。」である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 22:27:59.42 0
さて、「そそ(噪)き」において動作の様態を表している要素である「そ」は、
「すす(進)み」において動作の様態を表している要素である「す」に対応し、
「そ」は、「す」の受動態だろうと述べた。つまり、「すす(進)む」という
能動的な状況が生じさせるのが「そそ(噪)き」という受動的な状況であり、
その「そそ(噪)き」の状況を生じる/もたらすという形容が「そそかし」と
なると推測される。しかし、「そそ(噪)き生じる/もたらす」という形容では、
まだ、「態度や行動に落ち着きがない、あわて者である。不注意で、とかく
失敗をしがちである。軽はずみである」という形容とはきれいに合致して
いない。現代語の「そそっかしい」のような意味解釈が生じるためには、
「そそ(噪)き」は、再帰形にならなければならないはずである。そこで、
再帰形の「そそき+あふ+し」を考えて、「そそかはし」を想定して、
検索してみると、予想どおり、古語では、同系の形容詞には「そそかはし」
があったという記述が検索でヒットする。
ttp://gogen-allguide.com/so/sosokkashii.html
したがって、私の推測では、「そそっかしい」の本来の形は、「そそかはし」
であったが、この形容詞の様態を担っていた「そそき+あふ」の意味が
「そそかはし」という表現の慣習化により忘れ去られることにより、この
形容詞がの語幹が再帰形であることを伝える要素であった「は」が「そそか」
の「か」に吸収されることで、「そそかし」が生じ、そこから
現代語の「そそっかしい」に変化したものと考えられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 22:38:54.81 0
思いつきの連想だけでここまでつながるのだから、私の妄想力もたいしたもの
だと自分で自分をほ(褒)めてあげたい気分である。言うまでもなく、私は
「ほ(褒)め」の「ほ」と「ほ(祝)ぐ」の「ほ」も、同様のイメージを表す
要素として「ほ」を利用してると考えている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 23:00:13.65 0
「ほ(褒)め」の「ほ」と「ほこ(誇)り」の「ほ」が同一の要素であるか
どうかは「微妙な問題」(私は、この言い方が好きではないが)である。
岩波古語辞典の編者であれば、多分、「ほ(褒)め」の「ほ」と「ほこ
(誇)り」の「ほ」は、母音が異なるので別起源だと言っただろう(母音の
区別がかかわるほとんどすべての語源解釈の事例において岩波古語辞典
はそのように主張している)。しかし、日本語だけでなく、様々な言語
を一般的に見れば、表現の中の同一の要素に語形によって発音の変化が
生じることはむしろ当たり前のように見られる。母音が「ずれて」いる
ことは、かかわる要素が別であることを意味しない。なぜなら、文法上、
機能上、発音調整上の理由で母音が意図的に変形されることがあるから
である。例えば、ドイツ語の動詞の直説法と接続法で母音が違うから、
そぞぞれ別語源であるなどと主張する人はいないであろう。
今のところの私の何の根拠もない思い込み(妄想ですらない)によれば、
「ほこ(誇)り」の「ほこ」は、「ほぐ(古形は『ほく』)」の変形だろう
と思われる。ただし、ただの思い込みなので、矛盾が見つかれば、
すぐにでも考えを変えるだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/11(日) 23:13:08.16 0
「かぢとりいたくほこ(誇)りて、船にほ(帆)あげなど喜ぶ」
(土佐日記一月二十六日) (岩波古語辞典1160頁)
考える名無しさん [sage] 2016/12/12(月) 07:59:13.26 0

「そそかはし」から「そそっかしい」に発音が変わるような変化が、「無意識」
に生じると主張するのは正しくない。そのような発音の変化には、無意識化と
意識的な修正の両方がかかわっている。「そそかはし」という表現が慣習化さ
れることで、表現は一体として用いられ、もはや「そそき+あふ」という構成
要素が意識されることはなくなる。これが慣習化=無意識化である。すると、
「そそかはし」は、しばしば、修正されることなく、「そそかぁし」のよう
に発音されることになるが、今度は、意味不詳となった「そそかぁ」という
発音が、他に類似した言葉がないため、奇妙に響いて聞こえることになる。
そこで、「そそかぁ」という発音は誤りで、「せっかい」、「ちょっかい」、
「やっかい」などの他の一般的に使われる言葉の発音に合わせて
「そ・そっか」と修正すべきであるという意識が働く。そして、そのように
発音が変化していくことにより、元の構成要素の形が崩れ、語源が辿りに
くくなっていくと考えられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/12(月) 08:08:07.30 0

「ほこ(誇)り」の「ほこ」は、「ほぐ(古形は『ほく』)」の変形だろう
というのは妄想ですらない私の思い込みであるが、その思い込みがどのような
形態をとっているのかは説明することができる。「ほこり」と「ほぐ」の
「ほ」の発音における母音の「ずれ」を無視すれば、私の妄想にしたがって、
「ほこ」は「ほく」の受動態だろうということになる。その受動態の「ほこ」
に「り」が付加されて概念化されたのが「ほこり」であり、その概念化された
「ほこり」が「り」→「る」によって再動詞化されたのが「ほこる」という
動詞である、というのが私の思い込みである。この説明は、私の思い込みに
過ぎないので、当然、何の根拠もなく、私がそうだろうと思うだけである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/12(月) 11:04:33.94 0
表現の語源を無視して、発音を他の頻用される表現に意識的に合わせる行為が、
いわゆる「語呂合わせ」であり、逆に語呂合わせから語源が導かれるのが
いわゆる「民間語源説」である。さて、
「かぢとりいたくほこ(誇)りて、船にほ(帆)あげなど喜ぶ」 における
「ほこりて」、「ほをあげる」は、語呂合わせだろうか、それとも
「ほ」という語源的な構成要素に共通する暗黙のイメージの想起だろうか。
「帆をあげて進む船」のイメージが「誇らしげな舵取りの姿」と自然に
重なり合って想起されてしまうとすれば、歴史資料上の証拠がどうで
あれ、この2つの「ほ」は、語源的に共通であると暗黙に了解されている
ことになる。そしてその暗黙の了解に矛盾する歴史資料上の証拠が出て
こなければ、そのような語源的な理解は、語呂合わせではなく、正しい
語源的理解として認知される。詩的真実と正しさは、別物ではないのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/12(月) 11:30:34.28 0
「誇り」、「誉れ」、「祝ぐ」などの日本語の表現から、音や意味の近接性
により、私は英語の「pompous」や仏語の「pompe」を連想してしまうが、
英語の「pompous」や「pomposity」には、語源を離れた発音のイメージから
想起されるニュアンスが伴っており、そうなるともはや、これらの英語の
表現は、語源の理解を誤った「誤用」とは言えなくなる。したがって、
この場合「正しい語源」は、歴史的な語源と発音のイメージの複合という
ことになるのではないだろうか。

ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=pompous
pompous (adj.)
late 14c., "characterized by exaggerated self-importance," from Old
French pompos (14c., Modern French pompeux) and directly from Late
Latin pomposus "stately, pompous," from Latin pompa "pomp" (see pomp).

pomposity (n.)
early 15c., "pomp, solemnity," from Medieval Latin pompositas, from
Late Latin pomposus "stately, pompous" (see pompous). The sense of
"ostentatious display" is from 1610s; earlier in French pomposité.
考える名無しさん [sage] 2016/12/12(月) 23:25:22.76 0

に貼りつけたサイトには、「そそっかしい」の同系の古い言葉に
「そそかはし」の他に「そそこし」があったと記載されているが、私には、
この「そそこし」こそ実際には、「そそかはし」から「そそっかしい」に
変移する途中の「そそかぁし」という発音の転記であるように見える。
本来、「そそかはし」であったが、常習的に「そそかぁし」と発音され
るようになっていて、それを「そそき+あふ」という構成要素としての
理解が既に失われていたため、明らかに「か」とは異なるものの、
「かは」の変形とは認知されなくなっていた発音を転記する苦し紛れ
の策が、「かぁ」の発音を「こ」と転記することだったのだろうと
思われる。しかし、「そそこし」でも意味が不明で落ち着きが悪かった
ため、他の言葉との関係で発音の語呂がいいと感じられた「そそっかしい」
に最終的に落ち着いたのだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 09:57:35.69 0
「そそっかしい」の同系の(誤)
「そそっかしい」と同系の(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 10:02:45.03 0

それを「そそき+あふ」という構成要素としての(誤)
それを「そそき+あふ」という構成要素であるとする(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 10:40:13.03 0
表現の慣習化とそれに伴う表現の構成要素の無意識化、慣習化と無意識化に
伴って生じる意識的な辻褄合わせの修正や調整は、言語を用いる能力の
根幹を成しているのに対して、チョムスキー流の言語学の「linguistic
competence(言語能力)」の考え方は、言語表現の理解を常に事後的な「現状
の暗黙の了解」に限定してしまうことになるのである。
考える名無しさん [] 2016/12/13(火) 11:08:25.56 0
言語を記号論的に理解しようとすることは、言語表現の行為としての意図と
効果を読み解こうとすることであり、単に現状の言語表現を構造的に記述し
ようとすることでも、あらかじめ存在すると想定される抽象的な規則のセット
に還元しようとすることでもない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 13:01:10.07 0
言語学者のバンヴェニストは、ソシュールの構想を受け継いで、言語学を
記号学(記号論とは区別される)として発展させることを提唱したが、それ
と同時にパースの記号論は、そこで用いられる概念があまりにも一般的過
ぎて、言語を理解するのにどのように役に立つのか不明であるという見解
を示している。しかし、記号論の視点からは、記号学的な言語の理解は、
研究対象として言語を最初から明確に定義しようとするあまり、むしろ、
言語の本質を見落としているようにさえ見える。
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 13:24:56.75 0
記号論(ソシュール流の記号学ではない)的に見れば、言語とは、まず何よりも
意図を知らせることを目的とする行為であり、なかでも代表的であるのが、
意図を知らせるために声を出すことである。そのような行為である限りに
おいて、人が言葉を話すことは、犬や猫が鳴き声を出す行為と共通性を有する。
人の言葉を動物の鳴き声と分かつのは、人の言葉の場合、意図と結び付け
られた発声が「慣習化」され、慣習化された発声が「運用の単位」と見なさ
れて、その単位が意図的に試行錯誤しながら用いられることによって調整
され、その結果として動的な規範の体系が構築されることである。したがって、
慣習化によって組み合わされた発声の元の意図が忘れ去られること(無意識化)
と、それに付随して、その元の意図が忘れ去られた遺物としての「発声の
組合せ」が新たに意図的に調整を受けながら用いられることは、決して、
人の言語の運用に副次的なことなどではなく、人の言語を犬や猫の鳴き声
と分ける言語運用能力の本質である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 13:57:06.69 0
バンヴェニストの記号学的なアプローチは、哲学から現象学も取り入れること
によって、言語学を行為論によって組み換える可能性を示してはいるものの、
研究対象として人の言語を他の動物のコミュニケーションと完全に分けて
定義しようとする枠組み設定において、その都度、暫定的な結果として現れる
遺物としての言語の体系性を、人の言語にあらかじめ与えられている特性と
見なす、静的な言語観に陥ってしまっているように私には感じられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 14:12:50.37 0
記号論的な言語行為の理解は、エウジェニオ・コセリウ流の「個人」
を重視する言語観とは相容れないが、コセリウの著作の日本語訳の
タイトルとされた「うつりゆくこそことばなれ」は、言語学であまり
にも軽視されている、言語の運用能力の本質に目を向けさせること
になっているので、うまい表現であると思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/13(火) 14:42:02.13 0
誤解のないよう付け加えておくが、ここで私が言う「遺物」というのは、
英語で言い表すなら、「ruin」ではなく、「heritage」、つまり、相続
される「遺産」である。ただし、言語の体系性という「遺産」は、相続
された金融資産のように無形で自由に使われるものでも、「世界遺産」
のように現状のまま保存されるようなものでもなく、有形でありながら、
(フランソワ・ジャコブの表現を借りるなら)新たなブリコラージュ
に用いられる資源である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/14(水) 01:53:32.90 0

比喩を繰り返しても本質にはたどり着けない。
言語が時代で変わるように単語も意味も変貌する、
記号も例外じゃない。

具体的であっても、本質は何も掴んではいない。哀れだ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/14(水) 08:39:46.73 0
共時態としての言語の研究は、表現する行為の本来的な時間性を捨象して
しまう。そのため、歴史言語学として異なる時代の共時態間で言語の「変化」
を研究したところで、表現する行為の時間性が回復されることはなく、
言語の変化そのものを問題にする場合には、反復行為であるはずの
言語が「なぜ変化するのか」という転倒した問いを発する、静的な言語観
しか生まない。そのような静的な言語観を批判して、言語の生成を主題と
すると称する生成文法は、実際には、表現する行為の時間性を回復する
どころか、言語を運用する能力そのものを無時間的な普遍規則に還元する
ことができるはずであると主張しているのである。

生物学に喩えるなら、言語の共時態研究は、特定の種の生物の生態系を、
その種がどのように進化してきたかを無視して研究するようなものであり、
それを批判する生成文法の研究は、あらゆる種の生物の生態系は、
あらかじめ遺伝子に書き込まれており、普遍的な遺伝子の発現に
過ぎないので、1つの特定の種の生物を研究すれば、普遍的な遺伝子に
たどりつくことができるはずであり、生物の多様性や歴史的な進化など
研究する必要がないとして、進化そのものを「普遍的な遺伝子」に還元
しようとしているようなものだ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/14(水) 09:53:27.82 0
私は、言語学の訓練を受けたことがないので、言語学に関して全くの素人
だが、昔から日本語以外の言語にも強い関心があったので、言語学者の
話を聞く機会は多かった。かつて、文法書や辞書などのない言語の学習方法
について、米国の国際的に著名な記述言語学者の話を聞く機会があったが、
その人物が推奨する方法は、私には、何か洞察をもたらしてくれるという
より、拍子抜けするようなものだった。例えば、学習しようとしている
言語で「チョク」という表現を耳にしたとすると、その発音が英語の
「chalk」と似ているので、黒板に書く「チョーク」をイメージして記憶
するのだという。ようするに「What time is it now?」⇒「ほった芋い
じるな!」方式である。この方式は、発音を記憶することを主眼として
おり、その表現を使っているうちに、意味も後から連想されるように
なってくるから、それでいいのだという。確かに、発音を早く覚えて
書き写し、語彙の意味と対応させる記録をつくるのには効率的な方法なの
かもしれないが、私自身は、記憶術に頭を使うことがまったく好きではない。

私のように言語学の外にいる人間から見るととても奇妙に映るのだが、
多くの言語学者と呼ばれる人々は、言語表現にまるで関心すらないように
さえ見える。それらの人々にとって、言語表現は、「語用論」に属し、
厳密な言語の原理の研究ではない応用に過ぎないのである。言語学者が
どれだけ言語表現に無関心であるかは、言語学者でありながら文学に
おける表現を研究しているような人がどれだけいるか見渡してみれば
わかる。思想、哲学、政治経済に関する言説の表現に深い関心を示して
いるような言語学者はほぼ皆無ではないだろうか。言語学研究において
チョムスキーを動機付けたイデオロギーとチョムスキーの活発な政治的
発言がどう関係しているにせよ、その発言には、言語学研究の結果と
してもたらされた洞察などというものは見られないのである。
隠喩としての真実 [sage] 2016/12/14(水) 12:51:36.32 0
誇らしげな舵取り姿と帆を上げて進む船が自ずと重なり合ってイメージされる
ように、別々の物事を同一性の相において捉えること、つまり、何らかの反復
として、すなわち、単位として認識することは、言語の運用能力の基礎にある
だけでなく、「人(ひと/一)」そのものが日本語において等価性の単位を表して
いるように、おそらく、人の人としての自己規定から切り離すことができないのだ。
考える名無しさん [] 2016/12/14(水) 12:54:33.72 0
したがって、そのような物事の捉え方を否定しようとするのは、人の人格を
否定しようとするのに等しい。
考える名無しさん [sage] 2016/12/14(水) 17:18:55.55 0
他人を妬み、見下されていると言いくるめたいとか思った時点で

おまえは無能なんだよ、気がつけ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/14(水) 18:16:48.52 0
なんかの呪文ですか?意味不明ですよ。
全国民は波平にひれ伏すことになる [] 2016/12/15(木) 00:32:18.97 0
             

             衝撃の真実

             日本の構造



                  波平

つのがらいクリ       テノバンミックンク         キンタマクッサーラ長老
             豊田  /\  創価学会  産経新聞 杜玖椀晶子    マラを4日毎にしか洗わない純一
          電通   /∧_,∧\   統一教会 ハンニバル擁護論者 サラ金
         総連  / <*`∀´>  \  経団連 天下り官僚
            / 自民党&公明  \  
             ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    
            ___日本人奴隷___ 
          //TTTTTTTTTTTTTTTTTT\         
        /:::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\       
      /:::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
    /:::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
  /:::::::::::::::::/TTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTTT\
/____/___無職_ニート_老人_貧困層______\
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 08:51:07.82 0
これまで、「ほ」が「ふ」の受動態であり、「そ」が、「す」の受動態である
という妄想や、「ねこ」が「ねく」の、「しこ」が「しく」の、また「ほこ」が
「ほく」の受動態であるというような私の勝手な思い込みについて述べた。
さらに、妄想を応用してみよう。笑顔を描写するのに「にこやかに」笑うと
いう表現があり、「にこにこ」しているとも言う。これまでの私の妄想や
思い込みから類推するなら、「にこ」もやはり受動態ではないのか。では、
何の受動態だろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 09:07:16.52 0
「にこ」を岩波古語辞典で引くと、「《『あら(荒)』の対。ニキ(和)と同根。
ニコシ・ニコヤカなどの語根》@(材料が)柔らかいこと...」などと記載
されている。「にこ」を受動態と見なして類推される能動態は、「にく」で
あり、日本語で「肉(にく)」は動詞ではない。では、この類推は、成立しない
のだろうか。私の妄想によれば、そんなことはない。「にこ」が表している
のは、英語で表現するなら「soft-touched」という受動態であり、「肉(にく)」
が表しているのは、「soft-touching(柔らかく触れる)」という動詞の名詞化
である。「にく(softly touch)」という動詞が消失したために「にこ」と
「にく」の関係が不明になったのだろうというのが私の思い込みである。
「softly touching」という作用を担っているのは、「に」であり、「〜く」
は、様態を動詞化する要素であり、「〜こ」は、その動詞化要素の活用である。
「に(似)る」に用いられている「に」も、もともとは同じ「に」だろうと
私は思う。連想による妄想は、助詞の「に」にまで及ぶが、これについては
後で書くことにする。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 09:21:56.89 0

「に」を便宜上、英語で「softly touching」と訳したが、日本語で
表現するなら、「に」のイメージは、むしろ、「接近して柔らかく
触れる」とする方が適切だろうと私は感じている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 10:04:16.03 0
日本語の「に(似)る」は、ドイツ語の「annähernd」に「に(似)ている」。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 11:00:23.94 0
言語について論じることは、まず何よりも「言葉を使うとはどういうことか」
という問いに答えようとすることでなければならない。「言語とは何か」と
いう問いを初めに設定すること自体が、概念の名詞化に囚われた倒錯である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 11:28:18.70 0
言葉を使うことが、相手に理解されるように表現しようとすることで
ある以上、言語について論じるのに、名詞の考察から始めるべきでは
ないのだ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 13:06:40.96 0
受動態の「にこ」から類推される能動態の「にく」が消えた理由は、
おそらく、「にき・る」⇒「にぎ(握)る」として再動詞化されたため
である。(念のため付け加えると、再動詞化というのは、もともと
動詞として用いられていた要素が、動詞としての作用を失った
ために再び動詞化されたという意味で、再帰形という意味ではない。)
「にく」が「にぎる」として再動詞化されるとともに、濁音化され、
単に「接近して柔らかく触れる」というイメージから「接近して
つよく締まる」というイメージへの変化が生じたものと考える
ことができる。日本語において濁音化が作用の強まりを表すことは、
「きらきら」⇒「ぎらぎら」、「くるくる」⇒「ぐるぐる」などを
見れば、容易に理解できることであろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 13:17:48.08 0
したがって、「にこやか」に見られる、私が受動態と見なす「にこ」は、
その能動態である、存在が確認されていない「にく」という動詞から、
「にく(肉)」という名詞だけでなく、「握る」や「にが(苦)し」や
「にぎ(賑)はう」まで派生表現としてつながっていると見ることができる。
「にぎ(賑)はう」は、言うまでもなく、私の憶測によれば、再帰形であり、
能動態の「にく」という動詞の作用のイメージを留めている。人々が
「互いに接近して触れ合う」状態が強化されているのが「賑はい」である
(ただし、岩波古語辞典は、「にき(和)」と「にぎはひ」の語源は別で
あるとして、「にき(和)」を朝鮮語のnik(熱)と同源としている。それが
どのような根拠に基づくのかは、私は知らない)。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 14:26:12.09 0
私が、勝手な妄想と憶測と思い込みにより、表現がたどってきたと推測される、
いわば「進化のプロセス」として提示する様々な関係性は、国語学や言語学に
おいては、単に無関係な別々の要素の恣意的な寄せ集めか、せいぜい、共時的
に存在する対立構造と見なされることになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 14:27:17.25 0
表現がたどってきたと推測される(誤)
表現がたどってきたと推測する(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 14:33:27.77 0
私が、ここで「進化のプロセス」と呼ぶのは、無論、目的論的に発展の方向が
決まっているプロセスではなく、先行する遺産が新たなブリコラージュにおいて
資源として意図的に利用される試行錯誤のプロセスである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 18:40:47.27 0

さて、日本語の助詞の「に」は、「にこやか」の「に」と同じ概念なのだろうか?
そのような問いを、日本語を言語学的に研究する人に向けたとしたら、よほど
学のない人間か、少しおかしな思考をする人間だと思われて、奇異な怪訝な顔
をされるのではなだろうか。なぜなら、言語学においては、日本語の助詞の「に」
のような要素は、言語の用法において、単独で出現することはなく、他の語の
間の関係を表す「文法的」な要素とされるのは常識だからである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 18:46:52.41 0
しかし、記号論的に見れば、事態は逆だろうと思う。助詞とされる「に」は、
やはり何らかの表現であって、それは文法的な関係を表そうとしているのでは
ない。言葉を話すとき、人は、言葉について話している場合を例外として、
言葉を、言葉の文法関係を指し示すために使ったりはしないのである。
助詞が助詞の機能を果たすのはあくまで、表現においてそのように使われる
からであって、そのように使われるという理由でメタ言語において「助詞」
と分類される。「に」という表現が助詞であるから、文法的に助詞として
使われるわけではない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 18:58:29.73 0
「そこに何かがある」、「あなたが私に手紙をくれる」、「これから
家に帰る」などと表現するとき、「に」は何らかの「関係性の様態」を
表しているが、その様態は、私の思い込みによれば、やはり、もともとは、
「にこやか」や「に(似)る」の「に」と同様のイメージを表していたの
ではないかと思う。日本語の「に(似)る」は、ドイツ語の「annähernd」に
「に(似)ている」ことは既にで指摘したが、関係に関する助詞として
用いられる場合の「に」もやはり、「接近して柔らかく接触する」または
「接触するように柔らかく接近する」イメージを表していたのだろうと
私には感じられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 19:08:04.21 0
このような主張をするとき、必ず問題とされるのが、「発音と意味の間の関係の
『恣意性』」である。しかし、「恣意性」に関する議論は、その論法そのものが
倒錯していると私は思う。例えば、「ほ」という発音が、「誇らしさ」や「帆が
風で膨らんだ」様子を表すのに用いられる必然性がなく、日本語以外の別の言語
では、別の発音が用いられるので、日本語の表現における「ほ」という発音と、
それが表すとされる内側から膨らんだイメージの関係は恣意的であり、「ほ」が
表現に用いられているからといって、その表現に内側から膨らんだイメージが
伴っている必然性はないという議論である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 19:33:32.09 0
言葉を用いて表現するということは、何よりもまず、別々の物事の間で捉えられ
た同一性を、発音によって表して相手に伝えようとすることであり、「誇らしさ」
と「風に膨らんだ帆」の間で捉えられた同一性の相を、日本語において「ほ」と
いう発音で表現するとすれば、それは、「ほ」という発音をするのに口内に
空間を作ることが「内側から膨らんでいる」イメージを相手に伝えるのに有効
であったからだろう。確かに、そのイメージを伝えるのに「ほ」という発音を
用いる必然性はないが、それを用いることが有効である限りにおいて、その発音
は、意図的に利用されるのであり、そのイメージと発音の関係が慣習化される
ことによって、今度は、その関係が「遺産」として新たな発音に組み込まれて、
別の意図の表現に応用されることになる。慣習化は無意識化を伴い、新たな
表現の意図における用法における便宜に応じて、調整を受けて変化していく
ことになり、元の発音においてイメージされていたのとは矛盾する意図で
使われるようになることさえある。このため、発音のイメージに基づく
修正が行われないなら、発音とイメージの間の元の関係は忘れ去られていく。
別々の物事の間に絶えず同一性の相を見出し、その相を表現するのに、手元に
ある発音とイメージの間の関係を表す「遺産」を試行錯誤で利用して、相手
に意図の伝わる表現を作り上げようとするのが、言語を運用する活動その
ものであり、そのことによって、表現が人々の認識を反映するものとなるので
ある。日常言語を離れた数学や物理の言語が発展したのも、物事を数量的に
捉えようとする人々の認識の変化を反映している。

少し食前酒のアルコールが回って呂律の回らない文章になってしまったようなの
で、ここまでとしよう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 19:45:53.02 0

「にぎ(賑)はう」(誤)
「にぎ(賑)はふ」(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/15(木) 20:56:52.53 0
「に(煮)」も、その再動詞化である「に(煮)る」も、触れたときに柔らかい状態
であるようにすることを意味していたものと類推することができる。だから、
「生煮え」は、本来、口に入れるとまだ硬いのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/16(金) 10:36:33.03 0
「煮え切らない」という表現が本来、意図していたのは、英語で言うなら、
「neither hard nor soft」≒「indecisive」ではないのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/16(金) 10:58:11.88 0
相手の態度と火の十分に通っていない食材の間に同一性の相を見出して、
それを「に(煮)」という既存の発音とイメージの関係の遺産を流用する
ことによって表現する、そのような創造性において言語行為は、人の
生を反映するとともに、人を人として規定している。
考える名無しさん [sage] 2016/12/16(金) 13:08:02.04 0
日本語の「煮え切らない」と同様に英語にも中途半端さを伝える「half-backed」
という表現があるが、日本語の「煮え切らない態度」という表現を「half-backed
attitude」などと訳しても意味は伝わらない。「half-backed」が伝えるのは、
完全に出来上がってはいないというイメージであり、「half-backed」は、まだ
しっかりと構成されていない考えや計画を形容するのに使われる。
「half-backed attitude」の代わりに、より日本語を忠実に写した「half-cooked」
や「half-boiled」などの表現を考案したところで、やはり、日本語の「煮え切ら
ない」のニュアンスを伝えることはできない。それは、「cook」や「boil」の
イメージが「に(煮)」のイメージとは異なるからである。

別々の物事の間の同一性の相を捉えて表現すること、つまり、隠喩としての
言葉の用法は、言語行為の本質であり、副次的なことではない。隠喩をまとも
に扱うことのできないような言語理論は、そもそも言語理論の名に値しないの
である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/16(金) 13:34:45.99 0
「煮え切らない」というのがどのような隠喩であるかを理解したなら、
「あの人、態度が煮え切らないのよ」という日本語の表現を英語に
すれば、「He doesn't make hard decisions」のような表現となる
ことが容易に分る。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 00:52:20.26 0
論に落ちる、おまえのことだよ
意味の領域を道具にしているかぎり、答えは最初にでている。
それに気がついているお前だからイラツき、むかつく。


哀れ
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 09:13:47.53 0

日本語の助詞とされる「に」を「にこやか」の「に」と同じ要素の利用である
とすることが奇異に感じられるなら、ドイツ語における前置詞および副詞の
用法の「nach」、動詞の「nach」、で既に「に(似)る」との類似性を
示唆した「an­nä­hernd」に共通して語源として用いられており、英語の
「near」にもつながっている Proto-Germanicの「*nēhw」の用いられ方を
想起してみるといい。接近することや、近接性を表すのに日本語の場合と
ほとんど同じように「な」や「に」が利用されているのは、やはり、
それらの発音がゲルマン語においても日本語においても、その発音の
仕方と関連して共通のイメージを感じさせるのだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 09:19:24.18 0
例えば、日本語の古語の「な」は、人称を表すのに使われ、自分を表す
一人称にも、相手を表す二人称にも用いられたが、一人称の用法は、相手に
とっての自分の近接性、二人称は、自分にとっての相手の近接性を表して
いると解釈することができる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 09:38:19.84 0
助詞とされる「に」と同様のことは、指示詞とされる「こ、そ、あ」について
も言える。「こ、そ、あ」は、それぞれ、相対的な位置関係を表すだけでなく、
それ自体で何らかの作用の様態を表現しているものと見ることができる。
その証左として「これ!」は、相手を叱責するのに用いられ、「それ!」は、
勢いをつける掛け声として用いられ、「あれ!」は意外な展開に対する感嘆
を表現するのに用いられる(もちろん、これは私の妄想であって、国語学者
も言語学者もこんな主張は認めないだろう)。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 10:07:24.29 0
さらに、「こ」は、「こ(凝)る」や「こ(込)む」という動詞に、「そ」は、
「そ(反)る」や「そそる」という動詞に、「あ」は、「あ(有)る」動詞に
(もしかすると「あ(明)く」にも)用いられいると考えることができるので
はないだろうか。

このような主張をすれば、国語学者や言語学者からはただちに、そんな
主張は、何の根拠もない安易でナンセンスな駄洒落に過ぎないと指摘される
ことになるだろう。なぜなら、短い発音の合致だけに基づいて、同じ言語
要素が用いられていると主張することが許されるなら、同様に発音が重なる
ナンセンスな駄洒落の例をいくらでも挙げることができるからである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 10:31:19.63 0
しかし、「こ」について言えば、「ここ」という表現において、「こ」と
いう発音を重ねるとき、「こ」は、「こ(凝)る」や「こ(込)む」と同様に
「一か所への集中」を、つまり、英語で表現するなら「concentration」
を表していないだろうか。「そ」については、「す」に関連して、「そ」
は「す」の受動態だろうと述べたが、「そっち」という指示詞においても、
「そ(反)る」や「そそる」という動詞においても、「そ」は、「他律的に
離れる作用」を表していないだろうか。例えば、「すすむ」を英語で
「drive forward」と表現するとするなら、「そそる」は、「driven by
〜 (towards)」という感覚を表していないだろうか。「あ」については、
日本語で「あ(有)るか?」と問う場合、それを英語で表現するなら、
「Are you there?」、仏語でなら「Tu es la?」であり、「〜る」自体は
汎用的な動詞化作用しかないのだから、「あ(有)る」の「あ」を指示詞
の「あ」と同じ要素であると考えるのは、むしろ、自然なのではないか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 11:00:18.93 0
そのように見るなら、「あ(有)るか?」という日本語における存在に関する
問いは、自ら(1人称)が所在の不確定な相手(2人称)に向けるものであり、
自ら(1人称)と相手(2人称)が互いに現前していないために、不特定の場所
が、「あ」(3人称)によって示されていると考えることができ、存在の問い
そのものが人称関係の構造を表している。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 11:09:13.83 0
「あ(有)る」ことが既に、人称関係から切り離すことができず、3人称的な
存在の在り方を示すことは、「この〜」、「その〜」、「或る〜」の関係
を考慮すれば、明らかであろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 11:11:26.07 0

用いられいる(誤)
用いられている(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 11:14:16.17 0

「half-backed」(誤)
「half-baked」(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 13:35:48.19 0
「こ」に関しては、指示詞の「こ」と「こ(濃)」が、用法が分化する以前に、
同じ様態の作用を表す要素を共有していた可能性があるのかを問うことに
なるだろう。指示詞の「こ」と「こ(濃)」は母音が異なるのだから、語源的
に別であるというのが岩波古語辞典などの基準による従来の解釈だろう。
しかし、同じ基準を適用するなら、ドイツ語において「nahen」と「an­nä­hern」
は、「nah」と「nä­h」で発音が異なるのだから、別語源だと言わなければ
ならなくなってしまう。発音の弁別性を無視すべきではないと同時に、
それがどのように用いられたかを無視して、その弁別性だけに基づく
別々の分類を決め込むべきではないのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 14:14:25.46 0
もちろん、ここで私は、同じ発音、または類似した発音が用いられている表現
には、同じ表現要素が用いられているはずだなどということを主張しているの
ではない。別々の表現において、まったく別の表現の要素が使われていたと
しても、同じ発音の組み合わせが生じることはしばしば生じるのだから、
そのような主張をすることはナンセンスである。しかし、再び生物学の
喩えを用いるなら、生物は進化の過程において、ある目的で存在していた
器官を全く別の目的に流用するようなブリコラージュを行うことが知られて
いる。その場合、進化した器官の新たな機能は、その器官の以前の機能とは
似ても似つかないようなものになっていることがある。したがって、
共時的な機能の分化だけに注目していると、進化の過程でその器官がどの
ような役割をしてきたのかが説明できないことになる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 14:31:49.33 0
印欧諸語の場合、関係する別言語の間で互いに発音が類似し、意味も類似する
表現が多数、見られるので、発音が表現とどのように関係しているのかを類推
することができる例が比較的容易に見つかる。それに対して、日本語の場合、
比較の対象とすることができる言語がないので、日本語の表現の範囲内での
語源追求は、既に表現が分化した状態から見た単なる語呂合わせに陥りやすい。
しかしそれでも、日本語の表現を日本語で記述しようとするだけでなく、
印欧諸語などの別言語の表現においてとられている手法を対照的に参照
するなら、日本語においても表現がどのように組み立てられているのか、
どのように表現することを意図していたのかを類推することが、多くの
事例において可能になると私は思う。既に具体的にいくつも事例において
示してきたとおり、言葉が別系統であり、異なっていても、表現の発想
は以外と似ていることが多いのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 17:25:34.22 0
以外と(誤)
意外と(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 22:54:52.22 0
学研全訳古語辞典

学研教育出版学研教育出版

しか 【然】
副詞

@そう。そのとおり。そのように。▽先に述べた事柄をさす。
出典大鏡 道長上
「それをさへ分かたせ給(たま)へば、しかおはしましあへるに」
[訳] それ(=出て行く道)までも別々にしなさるので、そのように
(=花山天皇のご命令のとおり)どなたも一緒にお出かけになったが。

Aそのとおり。そう。▽相手の言うことを肯定して相づちを打つ意を表し、
感動詞的に用いる。
出典源氏物語 末摘花
「『内裏(うち)よりか』とのたまへば、『しか。まかで侍(はべ)るままなり』」
[訳] 「宮中からか」とおっしゃると、「そのとおり。(宮中を)退出しましてそのまま
(こちらへ参上したの)です」。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 23:13:12.86 0

相撲の「しこ」に関連して、古語の「しく」という動詞に関して、この表現が
英語なら「even」、独語なら「gleich」によって表されるようなイメージを
表していることを指摘した。現代の日本語にも残るこの「しく」の用法として、
「〜するに如(し)くはない」という表現があり、「百聞は一見に如かず」とい
う諺からも分るとおり、「比肩する(英語で言うなら"comparable")」の否定
として「〜に比肩しない」という意味で用いられている。ドイツ語で言い表す
なら「nicht vergleichbar」ということになり、やはり、「gleich」によって
表されるイメージで訳すことができる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/17(土) 23:28:23.52 0
では、の「しか(然)」はどうだろうか。岩波古語辞典で「しか(然)」
を引くと、「しか」は、「代名詞のシと、状態を示す接尾語のカとの複合」と
説明されている。しか・し(≒just the same/even so)、の「しか」
の用法は、英語で表すなら、「just as 〜」のような表現であり、用法と
しては異なるものの、やはり、ドイツ語の「gleichartig」が表すような
意味で用いられていると考えられるのではないか。そうであるとした場合、
「しか(然)」も「しく」という動詞とつながっていると考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/18(日) 13:25:27.25 0
さらに、連想をつづければ、現代語の「〜しかない(≒there is just 〜)」と
いうときの「しか」も、ドイツ語の「gleich」や仏語の「même」によって表さ
れる概念と同様の用いられ方をしているのではないか。「しか(然)」を現代語
で「そのとおり」と解釈して正しいとしても、その解釈に留まっている限り、
「しか(然)」と「〜しか」は無関係の表現と見なされることになり、ましてや
「しく」という動詞や、相撲の「しこ」との関係を疑ってみることなど、まるで
想定外のこととなる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/18(日) 14:43:23.19 0
私は、発音の似通った表現の間で最大公約数的な要素を見出すために語源を
探っているのではない。私に関心があるのは、そのような最大公約数的な要素
を類推して想定することによって、そこから派生した(と想定される)表現を、
人々がどのような意図で用いたのか、表現する人々の視点から解釈する可能性
を探るためである。表現の意図は、新たな必要性に応じて既存の表現から
新たな表現が派生させられることによって常に偏移するので、共時態に
おいて発音の似通った表現を平面的に並べて、表現の共通要素を確定しようと
するようなことは貧しい結果しか生まない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/18(日) 14:44:33.09 0

探るためである(誤)
探ることである(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/19(月) 08:44:51.77 0
重要なのは、私個人による個別の事例の解釈の正しさが証明されることでは
ない。経験に照らして解釈の前提とされている想定を考え直すべきことを
常に忘れないこと、つまり、反省(reflection)により現実を捉え直して
解釈する途を開いておくことだ。プラグマティズムによるコモンセンスの
追求とはそのようにして習慣を改善することに他ならないと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/20(火) 09:28:21.60 0

「〜る」という形態の動詞において、「る」そのものは、どのようにか「作用
する」ことを表すことしか意図していないので、「〜る」は、「『〜』様に作用
する」と解釈することができる。そのように解釈したときに「あ(有)る」は、
英語の「be there」、仏語の「 être là 」、独語の「da sein」に類似
していると考えることができるが、英語、仏語、独語の場合とは異なり、
日本語の「あ(有)る」には場所が確定しているイメージが伴わない。
「あ(有)る」るの「あ」を指示詞の「あ」と同じ要素と見なした場合、
あるは、自分(1人称)と相手(2人称)の「外」にある不特定の場所を示すこと
になり、その意味では、「exist」≒(ex
考える名無しさん [sage] 2016/12/20(火) 09:30:34.13 0

「〜る」という形態の動詞において、「る」そのものは、どのようにか「作用
する」ことを表すことしか意図していないので、「〜る」は、「『〜』様に作用
する」と解釈することができる。そのように解釈したときに「あ(有)る」は、
英語の「be there」、仏語の「 être là 」、独語の「da sein」に類似
していると考えることができるが、英語、仏語、独語の場合とは異なり、
日本語の「あ(有)る」には場所が確定しているイメージが伴わない。
「あ(有)る」るの「あ」を指示詞の「あ」と同じ要素と見なした場合、
あるは、自分(1人称)と相手(2人称)の「外」にある不特定の場所を示すこと
になり、その意味では、「exist」≒(ex "forth" (see ex-) + sistere
"cause to stand" (see assist)
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=exist
との形の類似が目を引くことになる。
ttps://de.wiktionary.org/wiki/existentia
Herkunft:
abgeleitet von dem lateinischen Verb existere → la (wörtlich:
herausstehen, herausragen, hinausragen, also gewissermaßen
„in die Existenz hineinragen“)

私の想定では、「あ(有)る」は、自分と相手の直接の関係の「外」にある、
いわば「『あ(或)る』様に作用する」ことを表していたと解釈されるわけ
であるが、ここで「あ(有)る」と対照される「existere」においては、
「どこから出る」と解釈されていたのか、または「どこに出る」と解釈され
ていたのか、探ってみる必要がありそうだ。
考える名無しさん [sage] 2016/12/21(水) 08:28:00.70 0
しか‐と【▽確と/×聢と】 の意味

出典:デジタル大辞泉
[副]

1 はっきりとしているさま。確実でまちがいのないさま。たしかに。「夕方のことで確とは見えなかった」「確と相違ありません」

2 かたく、しっかりと。また、十分に。完全に。しっかと。「地盤を確と固める」「確と考えてみる」

3 すきまなく。びっしりと。
「廻廊に―並み居たり」〈太平記・三〉

[補説]「聢」は国字。
考える名無しさん [sage] 2016/12/21(水) 08:55:13.90 0
 
「しかと」は、「しく」という動詞に由来すると私が考える「しか(然)」とは
語源の異なる、「たし(確)か」という表現に類似する意味で用いられている。
古語において「たし(確)か」は、岩波古語辞典によれば、「窮迫、困窮、また、
それに耐える意が原義」とされ、「ゆとりが無い意から転じて、密である。
密着している、しっかりしているなどのさまを表す。」したがって、「しかと」
という表現の意味は、「たし(確)か」という表現の意味から導かれると考える
ことができるが、これは、奇妙なことでもある。なぜなら、「たし(確)か」の
語源は、「たし」(ドイツ語で表現するなら「knapp」に近い)であり、
「たし(確)か」 が「しか」にという形に省略され得るとは考えられないから
である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/21(水) 09:05:01.45 0
「しかと」や「〜しか」は、「しく」という動詞に由来すると私が考える
「しか(然)」の語源的な意味が忘却され、「しか(然)」が使われる文脈から、
英語で言い表すなら「exactly」や「precisely」の意味として解釈される
ようになることで「たし(確)か」と混同されるようになり、「しか」という
形を残したまま、「たし(確)か」が本来、担っていた意味を帯びるように
なったのではないだろうか、というのが現時点での私の憶測である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 08:08:06.41 0
現代の日本語において「つぶらな瞳」という表現があり、「つぶら」の意味が
どのように解釈されているにせよ、「つぶら」にはかわいらしいイメージが
伴っている。その一方で、古語においては、「つぶ」は必ずしも小さい様態
を表すように用いられているわけではなく、「つぶ」を重ねた「つぶつぶ」
という表現は、「まるまる太ったさま」や「すべてにわたるさま」を表す
ようにも用いられ(岩波古語辞典)、「つぶし(腿)」という言葉は、「丸丸
した腿」(岩波古語辞典)を意味している。したがって、「つぶ」の語源的
な意味は、英語で表現するなら「(all-)round」ということになる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 08:32:37.31 0
同様に、現代の日本語の「つぶさに」という表現は、ただちに英語の「in
details」を想起させるが、古語では、「周到に。欠けるところなく。」、
「みんな。すべて。」の意味で用いられたとされる(岩波古語辞典)。

とは言うものの、かなり早くから、「つぶ」は、相対的により小さい
「粒状」であることにも結び付けられて、こまかい様態を表すような
ニュアンスの遷移も生じていたものと考えられ、また、現代語では
「ぶつぶつ」と表現される(岩波古語辞典参照)「つぶ」の擬態語として
のニュアンスも、「つぶ」という表現の用法に影響を及ぼしているもの
と思われる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 08:40:58.69 0
「つぶ」の語源的な意味を発音の面から考えてみると、「つぶ」の「つ」にも
やはり、「つかむ」、「つたふ」、「つる」などの「つ」と共通するイメージ
があるように思われる。私の感覚では、「つ」は「力が作用する連続/継続的
な接触の様態」を表す動詞的要素であり、「み(見)(≒watch)」という動詞的
要素の名詞化が、古語の「ま(目)」であり、現代語の「め(目)」であるように
「つ」(仏語で言い表すなら「tenir」に近い)の名詞が、古語の「た(手)」で
あり、現代語の「て(手)」なのだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 09:07:06.96 0
「つぶ」の語源的意味は、英語で言い表すなら「(all-)round」であると述べた
が、「つぶ」という表現において「丸さ(roundness)」を表しているのは、
「ぶ」であることになり、この場合の「ぶ」には、「ふ(吹)く(≒blow)」の
「ふ」と共通するイメージがあるのだろうと私は思う。

「つぶ」の語源的意味を英語に移そうとするなら「round containment」
のような表現になるだろう。「つ」のイメージが「-tainment」によって
表され、「ぶ」のイメージが「round」と「con-」の両方によって担われる
ことになる。「つぶ」が「contain」という、いわば能動的な様態を
表しているとすれば、「つぼ(壺)」は、その受動的な様態であると考える
ことができるが、英語で表現すると「round container」ということになり、
日本語では、受動的である容器が、英語では、「contain」という動作の
主体として表現される。

この解釈を援用して「かたつぶり(蝸牛)」の語源的意味を英訳すると、
「hard round containment」ということになる。ちなみに、岩波古語辞典
においても、「かたつぶり」は、「カタ(固)」ツブリ(円)の意」と記載され
ている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 09:18:12.05 0

「つ」(仏語で言い表すなら「tenir」に近い)の名詞が(誤)
「つ」(仏語で言い表すなら「tenir」に近い)の名詞化が(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 12:58:27.64 0
Rose,
oh reiner Widerspruch,
Lust,
Niemandes Schlaf zu sein
unter soviel Lidern.
― Grabshrift  Rilke

ばらよ、
きよらかな矛盾、
あまたの瞼の下で、
だれでもないものの眠りに在るという、
たのしさ。
墓碑銘  リルケ(生野幸吉訳)
考える名無しさん [sage] 2016/12/23(金) 13:09:03.58 0
「つぼみ」は、岩波古語辞典によれば、「ツボ(壺)を活用させた語」という
ことだが、「つぼ」を「つぶ」の受動態と見なすなら、「つぼみ」を容器
としての「壺」から導き出す必要はない。「つぼむ」という動詞は、そのまま
「become roundly-contained」と解釈することができ、名詞化された
「つぼみ(蕾)」も「roundly-contained state」として理解することができる。
リルケの墓碑銘が、日本語に置き換えられてもとても分りやすいのは、
薔薇が眠りに在る目に喩えられることによってただちに、半分閉じ、
半分開いたような薔薇のつぼみの状態(half-open, half closed
roundly-contained state)が想起されるからだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/24(土) 12:18:52.21 0

この極めて簡潔なリルケの詩を日本語に移す際に最も表現の選択に迷うことに
なるのが「Lust」をどう訳すかだろう。ここに引用した生野幸吉訳では、
「たのしさ」と訳されているが、ネットで検索してみると、同じ訳者が
別の出版物では、この「Lust」を「よろこび」と訳しているようである。
私個人も「よろこび」の方がより適合しているのではないかと思う。
英語では、この「Lust」は、「joy」や「delight」と訳され、仏語
では、「joie/volupté」と訳されている例が見られる。

「たのしさ」は、私には今のとこよく理解できていない表現である。
「たのしい」という表現は何を意図していると解釈される可能性が
あるのか、また時間のあるときに書き込むことにする。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 14:07:57.17 0
「たの(楽)しい」の古語である「たのし」は、語源的には、何を表現すること
を意図していたのだろうか。岩波古語辞典では、「たのし」の原義を「満腹
で満ち足りた気持ちである意。物質的に充足している意。」であると説明し
ており、さらに、新撰字鏡から「倡、太乃之(たのし)、又、佐加由(さかゆ)、
又は、由太介之(ゆたけし)」という記載が引用されている。

この説明に従うなら、「たのし」は、独語では、「Befriedigung」、
「Zufriedenheit」、「Erfüllung」、「Genugtuung」などの言葉によって
表現される状態にあることを表していることになる。平安時代に編纂された
漢和辞典とされる新撰字鏡において、「倡」の説明として、「たのし」、
「さかゆ」、「ゆたけし」が互換的に挙げられているのだから、
このように考えることは、十分に「根拠のあること」と言えるのだろう。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 14:26:15.84 0
それでも私には、「たのし」という表現の意図がよく理解できるようになった
とは感じられない。それは、私には、「たのし」がどのように「満腹で満ち
足りた気持ちである意」や「物質的に充足している意」を表現しているのか
全く分らないからである。確かに新撰字鏡の記述は、「たのし」と「さかゆ」
と「ゆたけし」が互換的であると理解されたことを示している。しかし、
「さかゆ」を「栄える」として、「ゆたけし」を「豊かである」として
現代語で考えた場合、「栄える」という表現と「豊かである」という表現は、
意味的に隣接してはいるものの、互換的ではない。したがって、私には、
むしろ、新撰字鏡の記述は、隣接的に用いられる概念を列挙しただけでは
ないかと思われるのである。さらに、「たの・し」の「たの」が何を表して
いたのか語源的に不明である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 14:46:55.94 0
以前に私は、「たかし」が「長ける」ことから派生させられるのと同様に、
「かな(悲)し」も、「か(兼)ぬ」という動詞から派生させられていて、
語源的には「かね(longing/stretch)を生じる」ことを意味していたのだろう
というような趣旨のことを述べた。しかし、「たのし」の場合には、同様の
類推をして、「た・な/に/ぬ/ね/の」を検討してみても、もっともらしく
感じられる動詞的な表現が直ちに見つかることはない。発音的に類似した
(ただし、「の」の母音が別類である)表現で検討に値すると思われる候補も、
「たの(頼)み」や、その派生語である「たの(頼)もし」くらいしか見当たない
ように私には思えるが、岩波古語辞典の説明では、「たのみ」の語源は、
「タは接頭語。ノミは祈(の)みの意か」とされ、そのように解釈された
語源が「たのし」に関係する可能性はありそうにない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 15:00:51.60 0
ところで、岩波古語辞典による、「たの(頼)み」のこの語源説明は、私には、
あまり納得のいくものではない。以前、私は、英語の「believe in God」と
いう表現を「神を信じる」と訳すのは適切ではなく、むしろ、「神頼み」の
ように「神をたの(頼)む」とする方が正しいと指摘した。岩波古語辞典では、
「たの(頼)み」を「ひたすらよい結果を祈って、相手に身の将来をまかせる
意」と説明しているが、その証左として挙げられる文例が示しているのは、
私には、「祈る」ことではなく、「まかせる」ことを表しているように
思われ、英語で表現するなら、「rely on 〜」や「put trust in 〜」である
ように思われ、現代の日本語でも頻繁に用いられる「たの(頼)み綱」という
表現に見られる「たのむ」が、そのまま古語の「たのむ」の意味を適確に
伝えているように感じられるのである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 15:15:46.02 0
古語の「たの(頼)む」の意味をそのように理解した場合、「たのむ」の語源は、
「た(手)(≒hand)の(乗)(≒rest on)・む」と解釈できるのではないか。
ここで、「乗」という漢字はあまり適切ではなく、むしろ、使われるべき
漢字は「置」だろうと私は考えるが、「置」を「の」とは読まないので、便宜上、
「乗」を選択している(「の・せる」は、使役表現であり、英語に置き換えれば、
「have 〜 rest on 〜」と解釈され、「の」が「rest on 〜」を表している)。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 15:32:33.54 0
「たの(頼)む」の語源をそのように解釈して、「たのむ」が、現代の日本語で
表現するなら「〜にまかせる」に近い意味合いで用いられたことを考慮すると、
「たの(楽)し」(「たの(頼)む」とは、「の」の母音の発音が異なる)の
「たの」も、「た(手)(≒hand)の(置)(≒rest on)」から派生させられている
のではないかという思いが浮かぶ。「たの(頼)む」の「の」が「rest on 〜」
という能動態を表しているとすれば、母音の異なる「たの(楽)し」の「の」
は、「rested on 〜」という受動態を表していたのではないか、と私には
さらに連想される。したがって、「たのむ」ことが「〜にまかせる」ことで
あるとすると、「たのし」は、言わば「まかせた状態」を生じることであり、
ドイツ語の「gelassen」や「Gelassenheit」という表現が連想されるが、
用法としては、むしろ、仏語の「loisir」に関連する英語の「leisurely」
に近いのではないかというのが、今のところの私の連想である。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 21:45:25.80 0
日本語において、「〜る」という形式が再動詞化のために多用されていると
指摘した。このことは、逆に見れば、「〜る」という形式の動詞において、
「〜」の部分がどのような作用を表現しているのかを探ってみることが、
特定の「〜」を共有する表現の間で表現の意図の共通性を見出す手がかり
を与えてくれることを意味する。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 22:00:53.55 0
例えば、「は(張)る」という動詞の「は」は、どのように作用することを表す
ことを意図しているだろうか。古語には、同音異義語に「は(墾)る」という
表現があり、この動詞そのものは、漢字で表されるとおり、「開墾する」こと
を意味する。発音の近い動詞には「は(晴)れ」があり、「はれ(晴)」は、岩波
古語辞典において、「はら(原)」と同根である可能性が示唆されている。
他にも「は」で始まる動詞には、「は(生)え」、「は(這)ふ」などがある。
これらの表現における「は」に何か共通性を感じないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 22:27:15.21 0
これらの表現を含め、「は」から始まる多くの表現において、私には、「は」
は、英語で言い表すなら「extend/expand(広がる)」ことを表現するために
用いられているように感じられる。無論、「晴れ」や「は(墾)る」は、「to
clear」と理解することができ、「はら(原)」も「clearing」と見なすことが
できるが、「晴れ」と明白に関連する「はる(遥)か」の「はる」が表している
のは、「(vast) expance」である。成長することを意味する「は(生)え」が
表現しているのも、やはり「伸びる(extend)」ことであり、「は(這)ふ」は、
再帰動詞、すなわち、「は+あふ」として解釈されて、「extend oneself
(along 〜/on the ground)」のように理解できるのではないかと思う。
海辺や川岸などを表すのに用いられた「はま(浜)(≒strand/coast)」もやはり、
水際の延長(extention)を意味していたのではないかと私には思われる。
さらに、「はく」という動詞が「弦を弓にかける」動作を表すのに用いら
れる場合にも、「はく」は、「extend (the string) over 〜」を意図して
いるのではないかと推測される。
考える名無しさん [sage] 2016/12/25(日) 22:35:52.53 0
さらに付け加えると、「はかない」という表現に関して、以前、私は、
「はかない」の「はか」は、「はか(測)る」の「はか」と共通で、歩くときの
一歩一歩を表しているだろうという私の憶測を述べたが、「はく」という動詞
を歩みの一歩一歩において脚を伸ばす(extend)ことと理解し、「はか」をその
歩みの一歩の「伸び(extent)」と解釈するなら、うまく辻褄が合うことになる。

ただし、「はく」という動詞の多様な用法のすべてにこの解釈が当てはまる
わけではないことに留意しなければならないことは、言うまでもない。
考える名無しさん [sage] 2016/12/26(月) 08:40:37.49 0
掃除の道具である「ほうき(帚)」の古語は「ははき」であり、「ははき」が
「は(掃)く」ための道具であることから、「ははき」という表現が、語源的
には、「は・は(掃)き」と分析されることは明白である。岩波古語辞典では、
「は・は(掃)き」を「羽掃キあるいは葉掃キか」としている。

現代の日本語の「は(掃)く」を素直に英語にすれば「sweep」であるが、
この場合も、本来、「はく」は、歩みの一歩一歩で脚を伸ばす動きと同様に
「extend 〜 over 〜」という表現として用いられていたのだろうと私には
思われる。ただし、「はく」を表現するのに「掃」という漢字が用いられる
ことで、早い時期から「はら(掃/払)う(≒sweep)」意味合いが「はく」の
用法に流れ込んできて、「はか(測)る」、「はかどる」、「はかない」など
の、語源的には同じ「はく」から導かれていると思われる表現との関係が
見失われることになったのだろう。

私は、「ははき(帚)」は、「は(expansively/extensively)・は(掃)く」行為
の名詞化だろうと考えている。つまり、『広がりに対して「はく」』行為の
名詞化が「ははき(帚)」であり、「掃」という漢字がもたらした意味合いを
考慮して英語にするなら「expansive sweeper」ということになるのだろう
と思う。
考える名無しさん [sage] 2016/12/26(月) 10:09:52.30 0
「はら(掃/払/払)う」という動詞自体も、古語の「はらふ」という形を見れば
すぐに気づくように、「はる+あふ」という形の再帰動詞として、やはり
同じ「は」を利用しており、語源的には、英語でなら「clear away」、独語で
なら「wegräumen」と表現されるような「自らに『広がり』をつくる」行為を
表すことを意図していると考えられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/26(月) 18:09:04.86 0
さらに捕捉しておくと、岩波古語辞典では、「は・は(掃)き」を「羽掃キ
あるいは葉掃キか」としているが、私の考えでは、「は(羽)」と「は(葉)」
はいずれも、広がる様態を表すことを意図して用いられる「は」の応用
に過ぎないので、「は・は(掃)き」の「は」が「は(羽)」と解釈された
事例があっても、「は(葉)」と解釈された事例があっても同じことである。
考える名無しさん [sage] 2016/12/27(火) 09:52:49.80 0
ここで「は」について書いてきたことを、前後で「ゆ」について
書いてきたことと複合して、「映える」の古語である「は(映)ゆ」を考慮
してみると、「は(映)ゆ」は、光や色などが「自由に広がる(freely spread)」
作用を表現することを意図していたのではないかと思われる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/27(火) 10:02:23.17 0
したがって、同音異義語である「は(生)ゆ」、つまり、成長を表す表現の方も
「自由に伸びる(freely extend)」作用を表現していることを意図していたと
考えることができ、「は」と「ゆ」という同じ表現要素の組合せにおいて、
「は」を別方向で解釈することで、別々の表現として用いられているものと
考えられる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/27(火) 10:03:28.61 0

表現していることを意図(誤)
表現することを意図(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/28(水) 08:39:31.62 0
断っておくが、「〜ゆ」という形態の動詞に関して、まだ私は包括的に把握して
いるわけでも、完全に理解できていると感じているわけでもない。ただ、上述
の解釈のような試行錯誤が常に必要だろうと思っているだけである。岩波古語
辞典の基本助動詞解説には、「(ゆ)・(らゆ)」についての記述があり、「なお、
奈良時代には、「る」「らる」と同じく自発・可能・受け身に、「ゆ」「らゆ」
という形が用いられた」、「これは後世では、「あらゆる」、「いわゆる」
などに化石的に残った」と解説されている。

先行研究で検討されてきた事例などについての知識が私には一切ないので、
見た目の形と表現の用法だけから判断すると、「あらゆる」、「いわゆる」
の「ゆる」は、「ゆる(許/赦)す」の「ゆる」と同一の要素であるように
見える。「〜す」は、使役表現として用いられていたので、「ゆる(許/赦)す」
≒「have 〜 allowed」と解釈することができる。すると、「ありとあらゆる」
は、「あり(≒existing)と(≒and)あらゆる(being allowed to exist)」
であるように思われ、「いわゆる」は、「being allowed to say」であるよう
に思われる。
考える名無しさん [sage] 2016/12/28(水) 08:40:25.00 0
あらゆる(being allowed to exist)(誤)
あらゆる(≒being allowed to exist)(正)
考える名無しさん [sage] 2016/12/29(木) 18:26:19.61 0
なんか1人でファンタジー(空想)しているのがいて
かわいそう、自分だけの世界ってやつね。治療したほうがいいよ。
空想の世界 [sage] 2016/12/29(木) 23:42:55.00 0
「こなた」、「そなた」、「かなた」、「あなた」の「なた」は、
「な+た」≒「close+hand」なのだろうか。
Are you around? [sage] 2016/12/29(木) 23:50:17.58 0
「あゆみありく」とか「をどりありく」の「ありく」は、「〜して回る」
の意味で用いられ、現代語の「あるく」につながっているが、「あり・く」
の「あり」が「有/或/在り」なのか気になります。
考える名無しさん [sage] 2016/12/30(金) 10:42:28.90 0
「なご(和)す」の「なご」の場合にもやはり、「な(凪/和)ぐ」を「to calm」
と理解して、「なご(和)す」を、その使役用法、「have 〜 calmed」、つまり、
「なご」≒「calmed」と解釈できるように思える。
「な(凪/和)ぐ」≒「to calm」
「なぎ(凪)」≒「calming」(名詞化)
「なごす」≒「have 〜 calmed」
ということになる。

ttp://www.weblio.jp/content/%E5%92%8C%E3%81%99
なご・す 【和▽す】
( 動サ四 )
和らげる。おだやかにさせる。 「歌の道,直なればこそ鬼神をも−・しむくなれ/謡曲・梅」
考える名無しさん [sage] 2016/12/31(土) 11:09:53.27 0
年末だから、今年の妄想は今年のうちに書き込んでしまおう。

少なくとも一部の表現において、「よ(呼)ぶ」の「よ」に呼応する形で
「を」が受動態として用いられている可能性があるのか気になっている。
考える名無しさん [sage] 2016/12/31(土) 11:20:11.87 0
今年の妄想、その2

私は、「〜し」という形の形容詞の多くを、「〜を生じる」のように解釈して
きたが、形容詞を形成している「〜し」が、動詞を形成するときに使役として
用いられている「〜す」と共通の要素から派生させられている可能性はある
のだろうか。「〜し」という形の形容詞の語源について、何らかの定説はある
のだろうか。
考える名無しさん [sage] 2016/12/31(土) 11:34:01.52 0
年越し前の妄想、その3

「く(来)」が英語で「come over」を表しているとすると、「こ(越)す」は、
「have 〜 over」を表しているように思える。現代の日本語で身体の高く
なっている部分を指す「こし(腰)」も関係しているのかと思ったが、
「こ(越)す」と「こし(腰)」は、「こ」の母音の種類が異なっている。
さらに「こし(腰)」の方は、何かの「くびれた部分」を指すのに用いられた
場合もあるようである。それでも、「くびれ」は明らかに「くび」に関係
しているので、「こし(腰)」の方は、本来、「高くなった部分」の方を
指していたように私には思えるのだが、「こし(腰)」の語源は何だろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 09:52:08.36 0
あたらしい年を迎えたので、「あたらし」の「あた」が気になっている。
上代の「あらたし」が「あたら(新)し」に変化して「あたら(惜)し」との
混同や混乱が生じたことはよく知られている。ただし、生じたのは
混同や混乱であって、融合ではないだろうと私は考えている。
発音として滅びたのは「あらたし」の方であるが、それとともに
「あらたし」の本来の用法が「あたら(惜)し」の用法に置き換わって
いったと考える方が、自然だろうと私は感じている。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 10:19:48.97 0
現代の日本語の「あたら(新)しい」という表現が「あたらし」と「あらたし」
の交錯のあと跡(あと)を引きずっているように、「あたらし」の語源的要素
であるとされる「あた」辺(あた)りの表現の関係はきわめて錯綜している。
岩波古語辞典には、「あた【仇・敵】」の項目に「アタは、アタナヒ(寇)・
アタヒ(能)・アタヒ(価)・アタヘ(与)・アタラ(可惜)・アタラシ(可惜)・
アタリ(当)などに共通の語根」と記載されている。確かに、列挙される表現
に見られる「あた」には、英語や仏語であれば、「merit/mériter」や
「measure/mesurer」に関連する表現によって伝えられるような表現の意図が
かかわっているように思えるが、これらの表現の関係をメタ言語でうまく
整理することは相当に困難である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 10:39:49.01 0
いわゆる構造主義者には、言語は自然に規則的に変化するはずであるという
希望的観測、というより願望のようなものがあるが、言語行為は、常に更新
されている、推測される現時点での暗黙のコンセンサスに意図的に従おうと
することにおいて規範的であると同時に恣意的である。規範に従おうとする
こと自体が混同や混乱を生じさせ、生じた混乱を回避する目的で、類似する
表現を明確に区別するために意図的に導入される弁別性がさらに錯綜を
もたらし、その錯綜を分りやすい関係で説明しようとするメタ言語による
解説が、さらに錯綜を規範化することにつながることさえある。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 10:51:58.74 0
私は構造主義者ではないが、説明は構造的に行うべきであると考えている
ので、ある意味、構造主義的でもあり、これは自戒としても書いている。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 11:08:20.14 0
「今年もよろしくお願いします」という場合の「よろしく」とは、何を表現する
ことを意図しているのだろうか。岩波古語辞典には、「よろ(宜)し」は、「形容詞
ヨラシ(宜)の転。その方へなびき寄り近づきたい気持ちがするの意」であり、
「よら(宜)し」は、「ヨリ(寄)の形容詞形」であるとされている。

発音の形態から見れば、「よろ(宜)し」や「よら(宜)し」が、「よ(寄)り」を
語源としているとする解釈は妥当に思える。しかし、表現の用法から見ると、
この解釈は、私には違和感がある。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 11:17:12.66 0
「よろしく」という挨拶は、その意図からすれば、英語で最も単純に表現する
なら「Please be good/kind with me」ということだろう。確かに、「よろし」
を「be kind」とするなら、「よろし」は「寄り」に関係する表現と見ることが
できるが、「よろし」の一般的な意味は「適切である」ことであり、「近しい」
ことではない。むしろ、挨拶で「よろしく」と言う場合でも、表現されているの
は、「befittingly」だろうと私には感じられ、その意味で、「よろし」は、
「よ(寄)り/はな(離)れ」という区別よりも、「よし/あし」という区別、
つまり、英語で表現するなら「fit/unfit」の区別に関係しているように
私には思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/01(日) 11:24:36.65 0
そのように、「よろ(宜)し」や「よら(宜)し」が、「よ(寄)り」ではなく、
むしろ、「よ(良)し」に関係しているのではないかと考えた場合、当然、
問題となるのが、「よろし」、「よらし」という表現における「ろ」または
「ら」という要素であるが、この「ら」または「ろ」についてどのように
理解すべきか、まだ私にはよく分らない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/02(月) 00:51:14.81 0
「よろ(宜)し」、「よら(宜)し」の「ろ」または「ら」は、「あたら(可惜)」、
「あたらし(可惜)」 の「ら」と共通して、「〜であったなら」という願望を
表す仮定法の表現のように私には思えるのだが、そのような考えを検討して
いる論考は既に存在するのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2017/01/02(月) 10:12:31.57 0
現代の日本語の「よろ(宜)しく」は、「泥棒よろしく」のような表現においても
使われてきた。この場合の「よろしく」は、「まるで〜のように」と言い換える
ことができるが、この用法における「よろし」の中心的な意味も英語に置き
換えるならやはり「befitting」(≒「似つかわしい」)だろう。ただし、この場合、
「よろしく」は明らかに仮定法的に用いられている。つまり、「〜よろしく」は、
「〜であったとしたら似つかわしく」という意味である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/02(月) 10:30:48.11 0
「泥棒よろしく〜した」という表現における「よろしく」が伝える意図は、
「the act would have been befitting if he were a thief」と言い換えて
みることによって、うまく理解できるように思える。

私は、この「よろしく」の用法の歴史的な経緯については何も知らないし、
先に私が問題にした「よろし」、「よろし」の「ら」または「ろ」と関係
があるのかどうかも全く不明である。ただ、このように表現の用法をメタ言語
によって記述しようとする試行錯誤を繰り返すことは、無駄ではないだろう
と思っている。なぜなら、特定の問題について明確な答えが出ない場合でさえ、
試行錯誤によってメタ言語を用いる技術が磨かれるからである。そして、
実のところ、言語学者でも国語学者でもない私にとっては、特定の国語学/
言語学の問題に関して答えが得られることよりも、自らのメタ言語の技能が
磨かれることの方が役に立つのである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/02(月) 12:16:39.51 0
コモンセンスを探ろうとする試行錯誤なしにメタ言語だけを洗練させようとして
も、そのような取組みは空回りする。私はいわゆる理数系の学問分野にはまったく
疎いが、このことは、数学や物理などの分野の日常言語と離れた言語行為において
も同じように当てはまるだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2017/01/02(月) 15:21:42.52 0
「あたら(惜)し」や「よら(宜)し」の「〜らし」は、現代語の「〜らしい」に
似ているような印象も受けるのだが、錯綜した関係を目の前にすると、そこに
自分が見ようとしているものが見えてしまう錯覚が容易に生じるので、印象に
あまり強くとらわれないようにメタ言語によって適確に記述しようとする試行
錯誤を繰り返す必要がある。
考える名無しさん [sage] 2017/01/02(月) 18:55:44.71 0
時と場所が違っていても、人の物事の捉え方というのは案外よく似ている。

Der Staatssekretär im Warshauer Außenministerium ist so etwas wie der
Europaminister. Als solcher muss er das Porzellan immer wieder hinstellen,
das Kaczynski gelegentlich von Tisch fegt. ― Der Spiegel 49/2016 p.111

さしずめ、大統領のカチンスキが星一徹、実質的に欧州担当大臣を務めるシマンスキが
姉の明子、ポーランドの親EUのリベラル勢力が飛雄馬の役を演じるちゃぶ台返し
といったところだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 00:16:27.88 0
「よろ(宜)し」、「よら(宜)し」とは対照的な表現には、「あ(悪)し」の他に
「わろ(悪)し」があり、学研全訳古語辞典で「わろし」を引くと
>中古から中世にかけては「わろし」の対義語は「よろし」、「あし」の対義語は
>「よし」であるととらえてよい。」
と記載されている。確かに「よろし/わろし」と捉えるのは語呂がよく、そのような
ペアリングの意識が働いたであろうことは推測できるが、「よろし」と「わろし」が
対義語と言えるのか私はかなり疑問に思う。「よろし」の副詞形は「よろしく」
であるが、「わろし」の副詞形は「わろく」であり、表現の形成が異なっている
ことを伺わせ、さらに、「わろし」と「あし」は、融合して現代語の「わるい」
や「わるく」につながっているが、その対義語は、「よい」、「よく」であり、
「よろしい」、「よろしく」とはならず、古文において「わろし」や使われて
いる文例を見ても、「よろし」が使われる文脈とは異なっているように私には
感じられる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 00:25:51.04 0
岩波古語辞典で「わろし」を引くと、「他と比較して、あるいは基準に
当てて、質が落ちる、価値が劣る意」と説明されており、こちらの方が
「わろし」という表現の用法を適切に反映しているように思う。
「よろし」は「よし」と同様に、英語で表現するなら、「fit/unfit」の
区別を問題にしているという私の考えを既に述べたが、「わろし」が
中心的に表現しているのは、岩波古語辞典に指摘されるとおり、
「劣っている(≒inferior/poor)」ことである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 00:36:47.31 0
私には、「わろし」という表現がどのように形成されているのかまだよく
分らない。それでも、「わろし」、「わび(侘)し」、「わづ(僅)か」、
「わか(若)し」などの「わ」で始まるいくつかの表現には、ある共通性が
あるように感じられる。その共通性とは、英語を用いるなら、「minor」
が伝えるようなイメージである。

ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=minor
minor (adj.)
early 13c., menour "Franciscan" (see minor (n.)), from Latin minor
"less, lesser, smaller, junior," figuratively "inferior, less important,
"formed as a masculine/feminine form of minus on the mistaken assumption
that minus was a neuter comparative, from PIE root *mei- (2) "small" (see minus).
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 00:53:10.85 0
さらに、古語の表現において、「わ」には、明白に「縮小辞(diminutive)」と
して用いられている事例が見られる。岩波古語辞典によれば、「わをとこ」は、
「男を親しみ、または、見くだして呼ぶ語」とされ、「わをんな」も同様に
「女を親しみ、または、軽んじて呼ぶ語」とされる。さらに、「わなみ」という
表現は、「@自己を卑しめて呼ぶ語」または「A相手を卑しめて呼ぶ語」とされる。
これらの事例における「わ」は、一人称または二人称として用いられる「わ(我)」
と同じ要素であると見られ、二人称の「わ(我)」そのものが「親しんで、または
相手を卑しめ軽んじて呼ぶ語」(岩波古語辞典)として用いられるので、一人称
の「わ(我)」も、自らをへりくだって指す表現と見て間違いないだろう。すると、
この用法における「わ」は、現代語「小生」や「僕」という一人称にも反映され
ているように、劣っていること、小さいことをイメージさせる表現ということ
になる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 01:04:08.77 0
ネットで検索すると、倭や倭国という表現における「わ(倭)」も、一人称の
「わ(我)」であるとする説が出てくるが、これは十分にあり得ることだろう
と思う。現代の日本語の表現でも「我が国」と言えば日本のことであり、
「邦人」と言えば、日本人のことである。そのような自称が他称に変換され
ることが生じ得ることは、「アイヌ」や「イヌイット」という呼称が本来、
特定の集団の名称ではなく「人」を意味しているに過ぎないことからも分る。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 01:18:55.67 0
ところで、「倭国」は、その後、自称として「大倭国」と表記されるように
なり、それがさらに「大和国」と改められることになったわけだが、「わ(倭)」
がもともとへりくだって自らを指す表現であったと想定した場合、「大和国」
という表記への改訂は、謙遜の表現から自らを誇る宣伝文句への転換という
ことになる。今風に英語で表現するなら、"I want to make the country great
again"ということだったのだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 23:33:53.46 0
ちなみに、岩波古語辞典には、「わけ【戯奴】」という表現も記載されており、
「《ワカ(若)と同根か》」としているが、この「わけ」もやはり、「@自分
を卑下していう語」、「A人を親しんで呼ぶ語」とされ、「わ」が先に見た
例と同じように「縮小辞(diminutive)」として用いられるとともに、自己を
指す「わ(我)」と同じ要素である見ることができ、さらに「わか(若)」の
「わ」とも共通していることが考え得る。「男性が自分の妻を親しんで呼ぶ
語」(岩波古語辞典)としてよく知られている「わぎも」という表現も
そのような視点から再検討してみる必要があるのではないか。
考える名無しさん [sage] 2017/01/04(水) 23:49:44.84 0
「わぎも」の場合にすぐに想起されるのが、仏語の「mignon」(Wiktionaryの英語
の説明では、"Small and cute; pretty in a delicate way; dainty"とされる)
という表現であるが(ttps://en.wiktionary.org/wiki/mignon)、「mignon」の
語源ははっきりしないらしい。「わろし」などのネガティブな表現も考慮する
と、「わ」の用法と比較するのに、ドイツ語の「gering」も参考になるように
思われる(ttps://de.wiktionary.org/wiki/gering)
考える名無しさん [sage] 2017/01/07(土) 11:04:19.51 0
さらに、考えてみたが、ドイツ語で参考にするなら、「gering」よりも、
「wenig」の方が「わ」と発音も似ていて、適切だろう。
Old High German *weinag, wēnag ‎(“miserable”)は、「わび(侘)し」
と似ている。

ttps://en.wiktionary.org/wiki/wenig
Etymology
From Middle High German weinec, wēnec ‎(“marginal”), from Old High German *weinag,
wēnag ‎(“miserable”), from Proto-Germanic *wainagaz. The form with -ei- is original,
that with -ē- arose through conflation with the morphologically simpler Old High
German wē ‎(“woe”), both akin to English woe.
考える名無しさん [sage] 2017/01/07(土) 11:13:16.96 0
ところで、関連があるとされる英語の「woe」は、一人称複数の「we」に発音が
似ているが、私の妄想では、「we」の用法に謙譲のニュアンスが伴っていたか
どうか探ってみる価値はありそうな気がする。

ttps://en.wiktionary.org/wiki/woe_is_me#English

woe is me
Used to show that the speaker feels distress or misery; often used humorously.
Woe is me, that I sojourn in Mesech, that I dwell in the tents of Kedar! Psalms 120:5
考える名無しさん [sage] 2017/01/07(土) 13:33:56.29 0
このようなことを書くとき、私には、「自説を主張している」という感覚は
まったくない。私は、私に類似して見える関係を指摘しているだけで、その
類似が私にしか見えないなら、そのように見えることは私の特異性/個性に
起因するのであり、他の人も同様に類似性を感じるなら、私の指摘は、
コモンセンスを指し示していることになり、その妥当性は、私がそれを
主張するかどうかに依存しない。ところが、私が、このように類似性を
指摘すると、「それは誰の説だ」、「そんなことがどこに書かれているんだ」
と怒りだして、私の主張の「根拠を出せ」と要求する人々が少なからずいる。
そのような人々には、私が根拠もなく類似性を指摘することがとんでもなく
不遜なことに見えるらしいのである。私には、逆にそのような感覚が
まったく分らない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/07(土) 13:50:49.33 0
ここでの例を用いるなら、「わろし」、「わび(侘)し」、「わづ(僅)か」、
「わか(若)し」などの「わ」とドイツ語の「wenig」の「we」が似ていると
私が感じることにそれ以上の根拠はない。私には類似性が感じられると
指摘したときに、他の多くの人々も同じように類似性を感じるなら、その
類似性は、それらの日本語の表現で用いられているコモンセンスを明示的に
言語化するのに役に立つことになるだろう。その場合、私の指摘の妥当性は、
私の個性にも、私に何らかの権威があるか否かにも依存しない。逆に、その
類似性が私にしか感じられないなら、その指摘の妥当性は、私の個性に依存
することになり、他の多くの人々がその妥当性を受け入れるか否かは、
他の人々が私に(または私が依拠するとして引用する人物に)権威を認めるか
否かに依存することになる。記号論もプラグマティズムも、後者のような形で
妥当性が認められることを求めてはいないのである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/08(日) 16:42:48.48 0
類似性を認めるにしても、認めないにしても、そんなことが分ったところで、
それが何の役に立つのかと反語的に問う人々には、私はこう答える他ない。
世界を分かち合う/共有するために役に立つのだと。類似性を見出すことが、
互いに共通する尺度を近似として探り当てることになるのであり、そのよう
にして世界を分かち合おう/共有しようと努めることが、人であろうとする
ことに他ならないのだと。世界を既に分りきったものと見なしている人々は、
そのような営みを「単なる言葉遊び」として嫌うが、人であろうとすること
を軽視して、世界を既に分りきった数量として扱うことができると信じ込む
とき、人々の活動はそれこそ「単なる数字遊び」に陥ることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/08(日) 18:32:46.00 0
人々の活動が「単なる数字遊び」や「数量を巡るゲーム」に陥るとき、そのこと
は単に無益であるにとどまらず、「人間性の追求の否定」を制度化し、慣習化
することになるだろう。
考える名無しさん [] 2017/01/08(日) 23:39:46.38 0
違うものを一緒にしてゆくと、言葉に意味はなくなる
意味深い言葉 [sage] 2017/01/09(月) 09:22:59.12 0
これは書き込みです。
考える名無しさん [sage] 2017/01/09(月) 10:02:04.12 0
は、有意義な真実を書き込んでいる。
有意義な真実の積み重ね [sage] 2017/01/09(月) 10:31:01.95 0
は、真実を書き込んでいる。
真実の悦ばしい無限増殖 [sage] 2017/01/09(月) 10:43:35.89 0
は、真実を書き込んでいる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/09(月) 13:17:55.60 0
互いに世界にいることが人としての在り方であるとするなら、
世界を分りきったものと見なすとき、人であることも失われることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/11(水) 09:03:46.25 0
古語の「そそく」、現代語の「そそっかしい」に関連して、「そ」がいわば、
「す」という動作の受動態として用いられているように私には思われること
を既に述べた。古語の「そ」には、母音の違いにより二種類あり、それぞれ
の「そ」がどのような表現において用いられているのか私はきちんと把握
していないが、いずれにしても多くの表現において、二種類の「そ」の
いずれも、「す」によって表される動作がもたらす結果としての作用を
表現しているように私には見える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/11(水) 09:19:52.41 0
例えば、現代の日本語で「汚名をそそぐ」という表現があるが、現代語の用法
では、「そそぐ」という表現自体は、「注(そそ)ぐ」という意味でしか用いられ
ないので、「汚名を注(そそ)ぐ」と考えると奇妙に感じられる。実際、この
表現の古い事例では、「汚名をすすぐ」の方が普通だったようで、「汚名を
濯(すす)ぐ」であれば、汚れを落とすのであるから納得がいく。すると、
「汚名をそそぐ」という表現は、誤りであるか、「すすぐ」が訛って発音
された単なる変種であるかのように見えることになる。しかし、古語辞典を
引くと、「すす(濯)ぐ」と同義とされる「そそ(濯)ぐ」があり、古くから
「そそ(濯)ぐ」という表現が用いられていたことを考えれば、「汚名を
そそぐ」も誤りではないと言える。だが、この変種はどのようにして生じて
いるのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2017/01/11(水) 09:39:57.88 0
岩波古語辞典を引くと、「すす(濯)ぐ」と「そそ(濯)ぐ」は同義語とされて
おり、他の表現の場合でも、意味がほぼ同じで発音も似通っている場合、
それぞれが単に「〜の転」というように記載されている。しかし、「すす(進)む」
や「すす(煤)」が、単純に「そそむ」や「そそ」に変化することがないように、
「すすぐ」が何の理由もなく「そそぐ」に変化するとは思えない。

私の考えでは、この場合もやはり、「す」という動作の結果として生じる作用が
「そ」であり、このことは、「身をすす(濯)ぐ」ことが、「みそ(禊)ぎ」となる
ことにも見て取ることができる。「さ行」の発音は、当然、さ行変格活用動詞の
「す」の用法の意識とも関係してくるが、発音による表現の意図に先行して動詞
の活用形が存在すると考えるべきではないだろう。むしろ、似た発音が意図的に
弁別性を利用しながら互いに関連する作用を表現するように用いられ、さらに
その関係性が類比によって利用されることが、メタ言語によって整理された
場合に同じ動詞の活用形として把握されることになるのだと私は考える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/11(水) 09:57:07.92 0
「す」によって表される動作がもたらす結果としての作用が「そ」によって
表されていると考える場合、例えば、「おそ(恐)れ」や「おそ(遅)し」も
「お(押)す」作用と関連している可能性があるのではないかと思えてくる。
つまり、「おそれ」も「おそし」も「おされた状態」と関係しているのでは
ないかという連想である。さらに、古語の表現において禁止を表す「な〜そ」
という表現の「そ」も、岩波古語辞典では、さ行変格活用動詞の「す」の
古い命令形ではないかと推測しているが、「す」の結果としての「そ」を
表していたのではないかと私には思える。命令を結果として表すことは、
現代語でも、例えば、「さあ、どいた、どいた」のような表現に見られる。
ただし、私の思いつき的な連想に過ぎず、私自身も、なんの検証もしてい
ないので、この連想を妥当なものとして受け入れてほしいと思って書いて
いるわけではない。他の場合と同じく、重要なのは私の連想の正しさが
検証されることではなく、各自による試行錯誤の可能性が開かれること
である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/11(水) 10:27:22.42 0
意図を適確に理解しよう/してもらおうとする試みそのものが、従属ではなく、
相互性を要請し、そのことが人であろうとすることに他ならない。

古語では、意図を理解する必要性のない相手の発話行為を「さへづ(囀)り」
と表現する。互いの意図を理解しようとしないことが、すなわち、互いに
「ひと(人/等)しく」あろうとすることの放棄である。

ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=barbarian
barbarian (adj.)
mid-14c., from Medieval Latin barbarinus (source of Old French barbarin
"Berber, pagan, Saracen, barbarian"), from Latin barbaria "foreign country,"
from Greek barbaros "foreign, strange, ignorant," from PIE root *barbar-
echoic of unintelligible speech of foreigners (compare Sanskrit barbara-
"stammering," also "non-Aryan," Latin balbus "stammering," Czech blblati
"to stammer").
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 07:02:10.09 0
コモンセンスの追求を伴わない効率化は、人格を否定する。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 08:12:24.92 0
人格の尊重は、人格崇拝や人格主義ではない。コモンセンスが追求される限りで、
自らが正しいと考える指摘が、それを指摘するのが自分であるという理由で
他の人々に受け入れられないとすれば、それは悲しむべきことであるが、
それを指摘するのが自分であるという理由で、他の人々がそれを正しいものと
して受け入れるとすれば、それは同様に悲しむべきことである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 08:53:41.69 0
専門的な職能を身につけようとするとき、人は自らの仕事の成果が他の人々に
受け入れられるようになることで「一人前になった」と感じることができる。
そのため、他人から仕事を任せられるようになることが、自分が職能を身に
つけたことの証であり、他の人々が自分に託す信頼は、それらの人々が他の
専門家に託す信頼や、自らが他の職能の専門家に託す信頼とひと(等)しいもの
となるのである。人々が仕事において自分の人格が認められていると感じる
のは、まだ一人前と認められていない場合でも、少なくとも自らの努力が
そのようなひと(等)しさに向かっていると感じられる場合においてである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 09:03:59.80 0
専門化による効率の追求は、それが分業によるコモンセンスの追求である
ことを忘れるとき、自己目的化し、人格を否定するようになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 11:05:35.32 0
人が特定の目的に向けられて利用される労働力として計量的に同一の基準で
評価されれば、人々の間のひと(等)しさが確保されるなどと考えるのは、
人であるとはどういうことであるかを全く理解していないことになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 11:27:22.83 0
コモンセンスの追求を忘れた人権主義がもたらすのは、せいぜい、(市場に
おける結果としての価格によって計られた出力結果として定義される)同一
労働に同一賃金が支払われるという計量的な理想モデルに過ぎない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 11:44:47.29 0
現実の社会の階層構造の仕組みが、そのような「理想モデル」を積極的に
利用して、人々の労働力を効率的に組織化しようとするとき、それが
生活にどのような変化をもたらすのかについて、人々は既に気づき始めて
いる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 23:29:55.61 0

「おそ(遅)し」が、「押された状態を生じる」ことを表しているのではないか
という連想には、現代の日本語で予定が立て込んでやるべきことに着手する
のが遅れることを「押せ押せになる」と表現することや、ドイツ語で「遅らせる」
ことを「aufschieben」と表現し、やはり「schieben」、つまり、「押す」こと
が関連していることが関係している。
ttps://de.wiktionary.org/wiki/aufschieben
ttps://de.wiktionary.org/wiki/schieben
schieben
Bedeutungen: [4] langsam gehen
考える名無しさん [sage] 2017/01/12(木) 23:51:53.40 0

「おそ(恐)れ」に、やはり「押された状態」を私が連想する場合、関連して
想起されるのは、英語の「threat」である。
ttp://www.etymonline.com/index.php?term=threat&allowed_in_frame=0
threat (n.)
Old English þreat "crowd, troop," also "oppression, coercion, menace,"
related to þreotan "to trouble, weary," from Proto-Germanic *thrautam
(source also of Dutch verdrieten, German verdrießen "to vex"), from PIE
*treud- "to push, press squeeze" (source also of Latin trudere "to press, thrust,"
考える名無しさん [sage] 2017/01/13(金) 08:19:23.84 0
忘備録 

「ねぎら(労)ふ」という表現は、「とぶら(訪)ふ」(「と(問)ふ」から派生
していると考えられる)という表現の形態と類似している。
考える名無しさん [sage] 2017/01/13(金) 08:34:14.92 0
私の妄想はまだ止まらない。「そ」によって表現される作用が言わば、「す」に
よって動作/作用の効果として生じると考えた場合、「それ」と言う場合の指示詞
として用いられる「そ」も、掛け声として「それ、ゆけ!」という場合の「そ」も
同様のニュアンスを帯びていたのではないかと思えてくる。掛け声の場合は、
「さあ!」、「それ!」、一斉の「せっ!」を並べてみれば、動詞として用いら
れる「す」が活用されているようなニュアンスを帯びていることは明らかである
ように私には思える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/13(金) 08:54:16.38 0
私に新たに湧いてきた妄想として、これまで「〜+あふ」のように解釈して
きた再帰形の動詞をより広く捉えるように考え直すべきではないかという
思いがある。従来、例えば、「嘆かふ」が、「嘆く+ふ」と解釈される
ように「〜+反復継続の助動詞『ふ』」という形に解釈される多くの表現を、
私は、「嘆く」+再帰性を表す助動詞「あふ」と考えた方が適切だろうと
提案した。この考え自体は今も変わらないが、新たに妄想を一歩進めて、
「あふ」を含め、「くふ」、「こふ」、「とふ」などの「○ふ」という
形の動詞において「〜ふ」自体が再帰形(単なる反復継続ではなく)を
表していたのではないかと思えるようになってきた。
考える名無しさん [sage] 2017/01/13(金) 09:16:41.49 0
この妄想は、「〜ふ」→「〜ひ」の関係を考えるとさらに広がりを見せる
ことになる。例えば、「つど(集)ふ)」という動詞が「つど(集)ひ」という
形で名詞化されることは常識であるが、「つど(集)い」が「つど(集)ふ」
行為の結果としての状態であると考えた場合、同じ関係が「ゆふ(夕)」→
「よひ(宵)」の間にも当てはまるのではないかと思える。「ゆ」については、
「ゆるむ」ことや「自由になる」ことを表現するように用いられている
ことを既に述べたが、そうすると、「夕」の「ゆ+ふ」は、本来、仏語で
表現するなら「se relâcher」に類比される再帰形の動詞ではないか、
「よひ(宵)」は、その完了形ではないかという疑念が湧いてくるのである。
「ゆふ(夕)」を「se relâcher」に類比して考える場合、何が「ゆるむ/
とける」のかと言えば、当然、「日差し」ということになる。
つまり、「ひ・る(昼)」の「日差し」が緩るむことが「ゆふ(夕)」であり、
その緩む作用が完了した(「ゆ」→「よ」)状態が「よひ(宵)」であり、
完了した後の状態が「よ・る(夜)」である。
考える名無しさん [] 2017/01/14(土) 03:37:55.19 0
うんこ
考える名無しさん [sage] 2017/01/14(土) 13:58:48.85 0
四季の「はる(春)」、「夏(なつ)」、「あき(秋)」、「ふゆ(冬)」
に関して、「はる(春)」の語源は、従来から「は(晴)れ」や
「はら(原)」と同一であるという見方が一般的であり、それは、
このスレで私が「は」について述べたこととも合致するが、残りの
「夏(なつ)」、「あき(秋)」、「ふゆ(冬)」の語源については
諸説あるようで、いずれの説も一般化していない。四季の表現が
それぞれ気象条件やそれに伴う環境の変化に関係があると想定すると、
現時点では、それぞれの季節の表現は、以下のように解釈することが
できるのではないかと考えている。

「はる(春)」≒「clearing」(空が晴れわたることを表し、従来の見解
と同じである)

「夏(なつ)」≒「closely(な) sticking(つ)」(「な」、「つ」のそれぞれ
について、これまでに私が述べた考え方の応用であり、「なつ(懐)かし」≒
「causing close attachment」とする場合とほぼ同様の解釈であるが、
「夏」は、その湿度の高い気候により、肌にまとわりつくような感覚を
表しているのではないかと考える。)

「あき(秋)」≒「spaceing」(植物が枯れることや、収穫などで空間が「あく」
ことを表現することを意図していたのではないかと思っている。「あ」の用法
については、また後でさらに述べることになる。)

「ふゆ(冬)」≒「freely blowing」(私が「ほ」と「ふ」の関係について述べたこと、
および「ゆ」について前に述べたことの応用であり、空いた空間を風が自由に吹く
状態を表していたのではないかと考えている。)
考える名無しさん [sage] 2017/01/14(土) 14:12:46.04 0
「あ」のような、高い頻度で用いられるだけでなく、意味の大きく異なる
多種多様な表現において用いられている発音がそれ自体で何を表すことを
意図していたのかと問うことは、無謀であると一般的には考えられている。
しかし、「あ」という発音を表現として見た場合、他の発音の場合と同じく、
その発音が用いられている表現の用法に照らして、どのような意図を伝え
ようとしていたのか、ある程度、推測可能ではないかと私には思える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/14(土) 14:33:10.43 0
「これ」、「それ」、「あれ」という指示詞として「あ」が用いられる場合、
「こ」が自らに近い「here」を表し、「そ」が相手に近い「there」を表して
いるとするなら、「あ」は、「こ」−「そ」の関係を超えることを意図する
ように用いられ、「over/far」を表していると考えることができる。
「あ・そこ」を英語で表現すれば、「over there」ということになる。

ところで、「あま(余)る」という表現もやはり「超えること」を表すことを
意図しており、作用/動作や状態が「over/too far」になることを意味する。
「あま(余)る」が、「あま・る」であることは明白であり、すると、他の
「〜る」という動詞の場合と同様に「あま」は何を表すことを意図していたのか
と問うことができるが、「あま(天)」という表現が存在するので、「あま(余)る」
の「あま」と「あま(天)」の「あま」は、共通しているのではないかという
可能性を探ってみることができる。ここで、指示詞の「あ」と「あま(余)る」の
「あ」がともに「over/far」に関係しているであろうことを想起すると、
「あま(天)」も、「あ・ま」≒「far/over distance/space」と解釈できるように
私には思えてくる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/14(土) 14:46:30.19 0
「こ」、「そ」、「あ」という指示詞の用法において、「こ」が一人称的
であり、「そ」が二人称的であるとするなら、「あ」は、三人称的である
と考えることができる。多くの言語で相手に対する尊敬の念を示すのに、
相手に呼びかけるのに二人称ではなく、三人称を用いる場合があるが、
日本語の「あなた」の「あ」も、本来、そのような用法であったのだろうと
私は思う。そのように三人称に関係付けて考えた場合の「あ」によって私に
想起されるのが、英語の「far/over」に加えて、ドイツ語の「fremd」という
表現である。
ttps://de.wiktionary.org/wiki/fremd
Herkunft:
[1, 2] mittelhochdeutsch vrem(e)de, vröm(e)de, althochdeutsch fremidi,
germanisch *framaþja-, eine Adjektivbildung zu germanisch *fram- „fern von,
weg von“, belegt seit dem 8. Jahrhundert[1]
考える名無しさん [sage] 2017/01/14(土) 15:11:17.37 0
現代の日本語に残る「あがな(贖)ふ」という表現に関係するもの
として、古語には「あが(贖)ふ」(平安時代までは「あかふ」と
清音で発音されたとされる)という表現があり、岩波古語辞典によれば、
「@金品を差し出して罪を償う」、「A買う」を意味していたとされる。
この「あが(贖)ふ」という表現は、私の印象では、「あ・か(交)ふ」と
解釈できるように思え、その場合、「あ」は、ドイツ語の「fremd」の
ようなニュアンスを表現してて、いわば「よそよそしい交換」を表して
いたのではないかと感じられる。ただし、これは、現時点で私がこの
表現から受ける印象に過ぎず、それ以上のものではない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/14(土) 15:12:12.17 0
ニュアンスを表現してて(誤)
ニュアンスを表現していて(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/15(日) 09:42:26.42 0
分業による専門化は、目的合理性を追求するための競争につながり、その
ことが目的を実現するための効率の向上につながるが、その専門性の追求が
人であろうとすることから切り離されるなら、公共の利益を無視した
「かたくな(偏曲)さ」を生むことになる。効率的に最大の利益を上げようと
する金融ビジネス、敵対勢力を圧倒しようとする軍事力の開発、社会の安全
を最大限に確保しようとする監視警備、最も効率的な労働力を市場に送り出す
ように子供たちを指導しようとする教育、そうした個別の分野における
目的合理性の追求が、人であろうとすることから切り離されるとき、効率
の向上は、公共の利益を増大させるどころか、大きな悲惨さを人々にもたら
すことになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/15(日) 09:56:11.95 0
そのようなことは、まだ身分制度が支配的であった200年以上も前から、哲学
においては、はっきりと意識され、議論されていたことである。そのことが
学問分野としての哲学においても今になって再び思い起こされなければならない
とすれば、それは、哲学自体が専門化という哲学にとっては致命的な堕落の途を
歩んできたからだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/15(日) 10:02:54.44 0

「あき(秋)」≒「spaceing」(誤)
「あき(秋)」≒「spacing」(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/15(日) 10:16:30.04 0
統治者(議会制民主主義による国民主権という形式をとるにせよ)が、分業の
目的合理性を最適に組み合わせるように社会全体の目的合理性を設計すること
ができるなどと考えること自体が、身の程を知らない思い上がった幻想である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/16(月) 17:41:56.87 0
特定の発音から言語表現から意図を推測しようと試みると、どのように説明しても
特定の発音が特定の意図を必然的に表現していると主張しているかのような誤解が
生じやすいので、簡単な隠喩を用いて発音と意図の関係を考えてみよう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/16(月) 17:42:49.59 0
言語表現から意図(誤)
言語表現の意図(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/16(月) 17:57:57.56 0
何かを表現しようとして発音することは、手持ちの材料から人工物を作ること
に喩えることができる。

例えば、誰かが、あり合わせの材料を使って箱型の人工物を作ったとする。
なぜそのような人工物を作ったのか、形だけ見てもその意図が確定するわけ
ではない。ところが、それを作った人が、その箱型の物に道具を収納し、
使うためにそこから取り出した道具も、いつでもそこに戻していることが
観察されると、その人工物を作った意図は、道具の収納箱を作るためで
あったと考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/16(月) 18:19:46.70 0
次に、別の人が同じような材料で似たような箱型の人工物を作ったとしよう。
それを作った意図は、どのようなものであると考えられるだろうか。似たよう
な物を作ったのだから、道具箱であるかどうかは分らないが、同様に何かを
収納する目的でその箱型の物を作ったのではないかという推測してみること
はできるだろう。実際、その人がそこに何かを収納するのが観察されれば、
その推測の妥当性が確認されることになる。しかし、その人が、その箱型の
人工物に何も収納することがないばかりか、それをいつでも逆さに置いて、
そこに腰かけたとすると、その人がその人工物を作った意図は、椅子を作る
ことであったと考えられることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/16(月) 18:44:12.19 0
さらに、最初の人が、道具を収納するために作った人工物と同様の箱型の
物をいくつも作ったとしよう。すると、既に道具箱は存在しているので、
最初に道具箱を作ったときと全く同じ意図でその人工物を作っているとは
考えづらい。その後、その人が、その箱型の物を縦に並べて固定し、食器類
を収納するのに使っているのが観察されたとすると、その人工物をいくつも
作った意図は、棚を作ることであったと考えることができる。

そのような人工物の場合と同様に、言語表現における発音も、何らかの意図
をもって発せられるが、同じ発音であるから、同じ意図で用いられている
という必然性はなく、発音の意図は、あくまでもその発音が現れる表現の
用法から推測されなければならないのである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 13:32:34.11 0
言語行為において発音は意図を伝えるために用いられるが、意図を伝えることを
主目的としていない人工物(それが製作・加工されたものであれ、自然物の単なる
人工的な配置であれ)からも人は意図を読み解くことができ、そのことが今度は、
暗黙に意図を伝えるのに利用されることになるとともに、人工物が伝える意図は、
それを製作・加工した、または配置した個人が恣意的に決定することはできない
ものとなる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 13:48:58.53 0
例えば、ある人が、収穫した果物を入れる目的で、特定の材料を使ってある形状
のカゴを編んだとしよう。本人がその目的で編んだのだから、そのカゴから本人
が読み取る意図は、それが果物を入れるものとして存在していることである。
次に、そのカゴを見た別の人が、同じ材料を使って同じ形状のカゴを真似して
作る。ところが、その別の人は、果物を入れる容器は必要としておらず、
そのカゴを専らゴミを捨てる容器として利用したとする。それを見た人々が、
それが便利であることに感心して、やはりその真似をして同じ材料で同じ形状
のカゴを作り、ゴミの容器として利用したとする。すると、その材料で作られた
その形状のカゴが伝える意図は、最初にそのカゴを作った個人が目的として
いた果物を入れることを離れて、ゴミを入れるために置かれていることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 14:04:33.19 0
その後、そのカゴを最初に編んだ本人の家を誰かが訪ねてきて、本人がその
訪問客を歓待するつもりで食事でもてなし、そのカゴから果物を取り出して
客に出したとしよう。ところが、その客も他の人々も同様のカゴをゴミ箱と
して利用することに既に慣れている場合、家の主が「ゴミ箱」から果物を
出してきて客である自分に提供したことに驚き、気分を害することになる。
したがって、そのカゴを最初に作った本人でも、そのカゴが作られる意図を
恣意的に決めることはできず、誤解が生じる状況を回避するためには、人々
がそのカゴを利用する意図に自らも合せる他なくなる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 18:41:48.51 0
ということで、表現における発音の意味を解釈する際の私の基本的な考え方
を隠喩として一応、説明してきたが、今、以前に表面をイメージさせるもの
として言及した「か」が再び気になって、「か」について考えている。
「考える」という表現自体、古語では清音で「かむかふ」と発音した
(岩波古語辞典参照)ということで、私の解釈では「〜+あふ」という再帰
表現であり、岩波古語辞典においても、「かむかふ」は語源的には、
「か+むかふ」とされ、「か」は、「アリカ」、「スミカ」などの
「所・点の意」であると説明されている。私の勝手な印象に基づいて
解釈するなら、「か・むかふ」が表現していたのは、英語を用いるなら
「face up to 〜」に近いのではないかという可能性が考えられる。
ttp://www.wordreference.com/enfr/face%20up%20to
English
face up to [sb/sth]

French
affronter
faire face à
se confronter à

また、後で「か」について、さらに続きをか(書)くことにしよう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 23:00:43.08 0
「か」の発音で始まる多種多様な日本語の表現にどの程度、語源的な共通性が
あるのか私にはよく分らないが、「か(掻)く」、「かゆ(痒)し」「か(噛)む」、
「か(掛)け」、「かく(隠)す」「かか(輝)やく」、「かす(掠)る」、
「かほ(顔)」、(かべ(壁))、「から(殻)」、「か(枯)れ」、「かわ(乾)き」、
「かは(皮)」など、極めて多くの場合に、どのようにか表面のイメージに
関連している印象を私は受ける。

例えば、「かす(掠)る」を「こする」と比べた場合、「こする」が一箇所を
集中的に(≒「こ」)擦る動作をイメージさせるのに対して、「かする」が
表面的に(≒{か」≒「superficially」)擦る動作をイメージさせる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 23:22:23.88 0
私は、「かほ(顔)」という表現に「か(表面)ほ(膨らんだ)」を、「かべ(壁)」
という表現に「か(表面)べ(平たい)」をそれぞれイメージするが、さらに、
「か」という要素自体で、表面に対する接触/離脱が表現されているようにも
感じられる。

例えば、古語に「から(辛)くして」、およびその音便形の「からうじて」と
いう表現があり、岩波古語辞典では、「(つらい思いをこらえて)やっと。
ようやくのことで」と説明されるが、これれが現代語の「かろうじて」に
直接につながっており、「からくも難を逃れた」や「命からがら」という
場合の「から」も共通の表現であることを考えると、「辛(から)い/つらい」
という感覚だけからこの「から」を説明するのは不十分だろう。現代語の
場合には、むしろ、この「から」は、「ぎりぎりで」というニュアンスで
用いられており、英語で普通の表現を用いるなら「narrowly」ということ
になる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/17(火) 23:43:27.44 0
「narrowly」は、方向性を転換して表現するなら「came close to 〜」という
ことになり、日本語の「からく」が表現しているのは、「表面に触れるか
触れないかぎりぎりの様態」であるように私には思われる。

古語には、「か(離)る」という表現があり、離れることを意味しているが、
岩波古語辞典によれば、「かれ(枯/乾)」と同一の語源を有するとされ、私には、
「か(離)る」が表現していたのもやはり、表面から離れることではなかったか
と思われる。岩波古語辞典によれば、「かろ(軽)し」も「かれ(枯/乾)」と同
一の語源を有するとされ、同辞典は、「かろ(軽)し」を枯れた状態から説明して
いるが、私には、この表現には、「か(離)れを生じる」、つまり、「表面から
離れることを生じる」というニュアンスも伴っていたのではないかと思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 00:02:36.82 0
あまり時間がとれずに書いたから、考えがうまくまとめられずに
繰り返しが多くなってしまった。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 09:02:38.88 0
表現は、不必要な冗長性を避ける。なぜなら、同じ表現の繰り返しは、同じ意図
を伝えることにはならず、継続性や反復、しつこさなどを伝えることになって
しまうからである。

古語には「か(離)る」という表現に関連していると考えられる「あか(離)る」
という表現もある。この場合、「あ・かる」の「あ」は、既に述べたとおり、
一人称的な「こ」と二人称的な「そ」の関係を超えた三人称的な関係を示す
ものと考えることができ、「ここ」でも「そこ」でもない「周囲(≒around)」
を表していると解釈され、「あか(離)る」は、周囲に散ることを意味している。

ところで、「風(かぜ)に散る」という表現はよく用いられるが、「風(かぜ)に
か(離)る」や「風(かぜ)にあか(離)る」という表現は聞かない。このことには、
単に「かぜ(風)」の「か」と「か(離)る」や「あか(離)る」の「か」が重なって
しまって「うるさい」だけでなく、おそらく、それらの「か」が同一の要素で
あって、意味的な冗長性が生じてしまうことに関係している。「風(かぜ)」
は、「か(≒表面を離れるように)ぜ(≒独語で表現するなら『Drang/drängen』)」
を表現していたのだろうと私は思う。なぜそのように思うかについては、また
後で説明する。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 10:58:33.19 0
例えば、現代の日本語に「はぜる」と言う表現があり、その名詞形として
「はぜ」がある。「はぜる」は、ドイツ語を用いるなら「springen」、
英語なら「burst」と表現され、「爆発する」や「破裂する」に類すること
になり、岩波古語辞典で「はぜ」を引くと、「裂けて開く」、「はじける」と
説明されている。私の考えでは、「はぜ」の「は」は、この場合も、既に述べた
とおり、「extend/expand(広がる)」を表現しており、「ぜ」は、ドイツ語
ならやはり「Drang/drängen」ということになるだろう。ここで日本語を
メタ言語として用いて説明することに困難が生じるのは、「Drang/drängen」を
日本語で言い表そうとするなら「せ」になってしまい堂々巡りだからである。
近い言葉として「か(駆)る」を用いれば、それによって表現が「か」の方に
ずらされてしまう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 11:11:36.70 0
見てとおり、私は「かぜ(風)」の「ぜ」は、「はぜる」の「ぜ」と同じ
要素であると見なしており、さらには、「くせ(癖/曲)」も「曲がるよう
+させる」という意味で似たようなものであると考えている。すると、
「み(見)せ」に由来すると考えられる「みせ(店)」の「せ」も同様であり、
結局のところ、さ行変格活用の命令形の「せ」ではないかということに
なるが、これについても既に個人的な見解を示したとおり、私は、先に
構造的な動詞の活用形が存在して、それが表現に応用されたという考え方
はとらない。むしろ、構造的な類比を活用した発音をメタ言語によって
まとめることによって動詞の活用形がそのようなものとして把握されるの
であると考えている。したがって、私の捉え方では、「〜せ」のような
命令形に似た形だけでなく、「せ(急)く/せ(急)かす」、「せま(迫)る」、
「せ(攻)める」などの「せ」も同様の作用を表現するために用いられている
要素である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 11:22:37.66 0
岩波古語辞典で「かろ(軽)し」を引くと、「風に散る紅葉はかろ(軽)し」と
いう文が引用されている。

同辞典では、この文脈において、「かろし」は、「重さが少ない」意味である
としているが、私には、「かぜ(風)≒『か(離)るようにさせる作用』」が、
「かろ(軽)し≒『か(離)れを生じる』」状態をもたらしているようにも見える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 19:09:47.95 0
岩波古語辞典で「せ」自体を引いてみると、「セメ(攻)・セマリ(セマリ)・セキ(塞)
などのセと同根」として「せ(狭)」が記載され、さらに「せ(瀬)」がその「せ(狭)と
同根か」として記載されている。しかし、私にはこの説明は、誤って逆転してしまって
いるように思う。確かに「せ(瀬)」の「せ」は、「せ(狭)」の「せ」と同一である
と考えられるが、それは、「せ(瀬)」が「狭い」からではなく、「せま(狭)し」と
表現する場合の「狭さ」が「迫る」ことによって生じているからである。そのように
考えると、例えば、田んぼの畦道(あぜみち)の「あぜ」という表現も、これまでの
考察を応用することでそのまま説明できる。「あ」は「あか(離)れの場合と同様
に「周囲」を表すことを意図しており、「ぜ」は、「迫り上がっている」ことを
表すことを意図していると解釈することができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/18(水) 19:15:52.97 0
「あか(離)る」や「あぜ(畦)」がそのように解釈できるとすると、以前に
疑念を述べた「ありく(≒go around)」の「あり」が「ある」と同じ要素
であって、「あ」自体が「around」を表現しているという解釈も十分あり得る
ように思えてくる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/19(木) 17:48:20.09 0
「か」によって「表面に対する接触/離脱」を表現することが意図されていた
と考えるなら、現代の日本語の「買う」の語源ともなっている「か(交)ふ」
は、「か」という作用/動作を表す再帰形の動詞であり、「互いに表面的に
接触/離脱する」ことを表していると解釈することができる。「行き交ふ」
と表現する場合の「か(交)ふ」は、まさにそのような様態を表している
のではないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2017/01/19(木) 17:57:42.54 0
ちなみに、現代語の「か(交/躱)わす」と「か(変)わる」はともに、「か(交)ふ」
から派生させて作られて表現であると考えることができる。「かはす」は、
「かふ」の使役形であり、「かはる」は、再帰動詞である「かふ」の自動詞
としての再動詞化であると見ることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/19(木) 18:06:41.67 0

「あ・か(交)ふ」の「あ」も、「around」と見なして、「あ・か(交)ふ」を
「あちこちで・か(交)ふ」行為であると解釈することも可能だろう。いずれ
にしても、「こ」−「そ」の一人称、二人称的な関係を離れることになる
ので、私には独語の「fremd」に近い印象を受ける。
考える名無しさん [sage] 2017/01/19(木) 18:58:19.92 0

作られて表現(誤)
作られた表現(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/20(金) 13:32:21.34 0

「あ」という発音による表現を検討してきた結果、前に検討した「よ(良)し」
および「よろ(宜)し」についての考え方を改めることになったので、それに
ついてまた後で書くことにする。結論だけ先に言えば、「よろ(宜)し」は、
私の当初の考えは浅かったようで、岩波古語辞典に示唆されるとおり、
「寄り」に関連付けることができ、「よ(良)し」の「よ」も「よ(寄)り」の
「よ」と共通した要素であるという想定に至った。ただし、岩波古語辞典の
ように「よろ(宜)し」が、「寄り」をもたらすこと願望を表現しているとは、
やはり私は考えない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/20(金) 13:36:26.40 0
「寄り」をもたらすこと願望(誤)
「寄り」をもたらす願望(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/20(金) 20:31:46.27 0
「よ(良)し」および「よろ(宜)し」について考え直すことになった経緯は、
極めて単純である。英語で表現するなら、「よし」を「fit」に近いとし、
「よろし」を「befitting」に近いとする前に述べた考え方は変わっていない。
問題は、「よし/あし」を「fit/unfit」という対立軸においてとらえると
するなら、「よ」と「あ」はそれぞれ、その対立をどのように表現している
と解釈されるかである。「あ」で始まる多くの表現において、「あ」は、
まずなによりも、「こ」−「そ」という一人称、二人称の近い関係を超えて
離れていることを表すように用いられていると私は指摘してきた。「あし」
の「あ」も同様に解釈して、「離れ」ていること」を表していると解釈する
なら、それに対立する「よし」の「よ」が「よ(寄/依)っている」ことを
表していると推測するのは自然なことである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/20(金) 21:00:08.53 0
ここで当然、問題になるのが、現代の日本語において「よ(寄/依)る」という
表現は、「fit(フィットする)」という表現とは多少、異なっていることである。
それと同時に、「fit(フィットする)」とは、むしろ、「あ(合)う」ことであり、
「あし」と対立しているはずの、「あ」を用いた表現の方があきらかに適合して
いることである。ところが、「あ(合)う」、つまり、古語では「あふ」は、その
ものが既に再帰形であると考えることができ、英語の「encounter」やドイツ語の
「begegnen」に照らして考えるなら(いずれも、英語で表現するなら「against」
と解釈される要素が語源である)、「あふ」の「あ」そのものは、「fit」するに
近いニュアンスを表しておらず、再帰形となって初めて、「(偶然に)出会う」
ような意味を成していると考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/20(金) 21:07:54.16 0
したがって、メタ言語において「あふ」という表現を用いることを自らに
禁ずるなら、「よし(≒fit)」を、「よ(寄/依)る」動作/作用がもたらす
状態と考え、「あし(≒unfit)」を、「離れる(古語では「あ(離)れ」という
表現が存在する)」動作/作用がもたらす「外れた」状態と考えるのは、
それほど無理な解釈ではないように私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/01/20(金) 21:25:00.69 0
ところで、やはり岩波古語辞典の語源解釈とは相違するが、「あやま(誤)り」
は、英語では「error」であり、「あや(怪)し」は、英語では「strange」で
あり、いずれもやはり「外れている(≒astary)」ことを表しているように
私には思える。このことは、場合によっては、「あ」がドイツ語の「fremd」
に似た印象を与えると述べたことにも対応している。「あやめ(漢女)」という
表現も存在し、岩波古語辞典によれば、「帰化してきた漢人の女」を指すと
され、「あや」が、「機織・裁縫が巧みだった」ことに関連していることを
示唆しているが、私には、「あやめ」は、単純に「(遠く離れた)よそから来た
女性」を指していた可能性もあるのではないかと思える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 10:28:50.99 0
この「あや」の解釈は、「あや(操)る」の場合にもそのまま適用することができ、
「あや・つる」は、「あや(remotely)つる(pull strings)」と解釈することができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 10:33:13.96 0
実際、日本語の「あやつ(操)る」という表現を素直に英語にすれば、
「remote control」であり、仏語にすれば「téléguider」だろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 21:07:12.30 0
学研全訳古語辞典

あさ・る 【漁る】
他動詞ラ行四段活用

@えさや食物を探し求める。
出典万葉集 一四四六
「春の野にあさる雉(きぎし)の」
[訳] 春の野でえさを探し求めるきじが。

A魚や貝や海藻などをとる。
出典源氏物語 須磨
「潮干(しほひ)の潟(かた)にあさりても」
[訳] 干潟で魚貝や海藻などをとっても。

Bあちらこちら探し求める。
出典徒然草 五四
「掘らぬ所もなく山をあされども」
[訳] 掘りおこさない所もないくらい山じゅう探し求めるけれども。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 21:26:47.50 0
「あさ(漁)る」という表現を英語にすれば「forage」 ということになる。
ロングマン英英辞典で「forage」を引くと、
1. to hunt about or search, turning may things over
2. to wander about looking for food or other supplies
と記述されており、「あさ(漁)る」という表現の用法と驚くほどよく対応している。
ところが、「forage」の語源を調べると、
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=forage
"hay, straw, bed of straw; forage, fodder"の類ばかりが記載されており、
なぜ「あさ(漁)る」に対応するような用法が生じるのか不明である。
ここには、おそらく、発音と用法の文脈の重なりによる混乱が潜んでいる。
「forage」は「飼葉」の意味でも用いられ、「fodder」、「food」に語源的に
関係があるとされるが、その発音が「あさ(漁)る」という意味の「forage」
と重なったことで、別の語源を有するであろう「あさ(漁)る」という意味での
「forage」という表現の語源が無視されてしまったのだろうと私は考える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 21:40:22.23 0
「forage」の英語→独語訳をネット辞書で試みると、比喩の解釈として
「umherkramen」が提示される。

ttp://www.wordreference.com/ende/forage
forage vi figurative (rummage around) umherkramen

しかし、私は、この独語で「umherkramen」と表現される「forage」
の解釈の方が本来の用法ではないかと思っており、そのように考えた
場合、独語に訳された「umherkramen」の「umher」が、「あさ(漁)る」
の「あ(≒around)」に対応することになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 21:48:33.30 0
「あさ(漁)る」という表現の説明では、の「潮干(しほひ)の潟(かた)に
あさりても」のような例文がよく用いられ、漢字も「漁」という魚介類に関係
するものが当てられているので、「あさり(浅利)」がすぐに連想され、「潮干の潟」
から「水が浅い」ことが想起され、「あさ(漁)る」の「あさ」は「あさ(浅)い」こと
に関係しているに違いないという思いが容易に生じる。しかし、私見では、
「あさ(浅)い」と「あさ(漁)る」を直接に結び付けることは誤った思い込みである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 21:54:42.97 0
の@の例文「春の野にあさる雉(きぎし)の」 に見られるとおり、
「あさる」は、魚介類にも、水深が浅いことにもまるで関係のない文脈に
おいても用いられている。「あさる」を「あさ・る」と分解すること自体
が誤解の元であり、意味的には、「あ・さる」と分解されなければならない
と私は考える。「あ」は、既に見たとおり、また意味的にも合致している
ように「around(〜して回る)」という様態を表現している。では、「さる」
という動詞は、何を表現しているのだろうか。その答えは、古語辞典を引く
だけで直ちに見つかる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 22:07:57.78 0
岩波古語辞典で「さる」を調べると、「さり【曝り】」という項目があり、
「太陽や風雨が当たって白骨化する」と記載されている。極めて具体的な
記述であるが、一般的に見れば、「さ(曝)る」が表現しているのは、単に
英語の「expose」であり、その使役形が「さら(曝/晒)す(≒have 〜 exposed)」
であり、さらにその再帰形が、一昔前まではよく耳にした表現である
「どぶさら(浚)へ」に現れる「さら(浚)ふ」である。岩波古語辞典では、
「さらへ【(浚へ】」という項目で「埋もれ堆積した物を、底の方まで掻き
除く」と記載されている。つまり、「さら(浚)ふ」とは隠れていた物が
「露出するようになる」ことである。さらに勝手なことを言わせてもらえ
ば、「さら(皿)」は、「さ(曝)る」の名詞化に他ならないだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/21(土) 22:15:31.00 0
このように見てくると、日本語の「あ(有)る」は、英語で表現するなら「be around」
になるのではないかという私の憶測も、それなりに妥当なものに思えてくる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 09:34:06.02 0
いざり 【漁り】

漁をすること。
学研全訳古語辞典

出典万葉集 三六五三

「志賀(しか)の浦にいざりする海人(あま)」
[訳] 志賀の浦で漁をする漁師。◆後に「いさり」とも。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 09:49:09.00 0
「あさ(漁)る」と同じ「漁」という漢字が当てられ、形も似ていて、用法も
近い「いざり」という表現の方は、魚介類をとるを表現するのに用いられる
ことに限定されており、それ以外の文脈においては用いられない。

「あさ(漁)り」の語源を「あ・さ(曝/晒)り」と考えて、そこから類推する
なら、「いざり」は、「いを(魚)・さ(曝/晒)り」を意図していたのでは
ないかと連想される。実際、岩波古語辞典によれば、「いざり」は、
「海で漁をすること」という意味でもちられるだけでなく、「夜、魚
を集めるために火を焚いて漁をすること」を限定的に意味するように
用いられることもあり、さらには、「漁のとき、魚を集めるために焚く火」
である「漁り火」を指すのに用いられることもある。いずれにしても、
「いざり」は、海中に隠れていた「いを(魚)をさら(晒す)」こと
を表していると推測することができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 09:57:05.71 0
「漁り火(いざりび)」の「ざり」が実は、毎日、食卓で目にする「皿(さら)」
と本来、同じ言葉ではないかと主張する私の考えは、シュール(レアリスム)に
見えるかもしれないが、私の妄想は、こんなところでは止まらない。
ここで「あさ(漁)る」について書きながら、私が本当に気になっているのは、
実は、「あさる」でも「いざる」でもなく、「あさ(朝)」と「あさ(浅)」である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 10:01:29.15 0
「あさる」でも「いざる」でもなく(誤)
「あさり」でも「いざり」でもなく(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 10:17:17.84 0
「こ」、「そ」、「あ」という指示詞のなかで遠隔の場所を指すのに用いられる
「あ」が、これまで見てきたように「離れている」、「遠い」、「周囲」などの
様態を表現するように用いられている(と私に見える)のは、自然なことである
ように感じられる。いい加減なことを言えば、例えば、身体の部分である
「あし(脚/肢/足)」にしても、胴体から離れて伸びているのだから、「あし」
が「遠くまで延びている」ことを意味していたとしても不思議ではない(実際に、
そうであるかどうかは知らないが)。ところが、「あさ(朝)」と「あさ(浅)」は、
時間的、空間的に遠近が関係すると思われる文脈において用いられながら、
これらの表現において「あ」がどのような意図を表しているのか不明である。
逆に、いずれの場合も、「あさ」を「あ」と「さ」を切り離すことができない
としたとしても、「あさ」が語源的にどのように説明されるのか、他の表現と
どのように関係しているのか不明となる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 10:34:39.42 0
で、私は、「あさ(浅)い」と「あさ(漁)る」を直接に結び付けて考える
のは誤りだと指摘した。しかし、これは、「浅い」の「あさ」と「漁る」
の「あさ」が無関係であるという主張ではない。発音と意図の関係について
説明するために私が提案した、箱形の人工物の例を思い起こそう。この場合、
「あ」や「さ」が、それぞれの形を有するそのような人工物であると考えれば
いい。四角い箱が、収納箱として用いられることも、椅子として用いられる
ことも、縦に並べて棚として用いられることも可能であるように、同じ発音
だからといって、同じ意図で用いられているとは限らず、さらに組み合わせ方
によって用途に違いが生じることが考えられる。ただし、違う組み合わせに
おいても、多くの場合に、似たような機能で用いられているとすると、その
発音は、その似たような機能に用いることが「使い勝手がいい」と見なされて
いることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 10:53:29.61 0
連投で規制がかかるのは面倒なので、続きは後で書くことにするが、当たり前
のことを指摘しておこう。

「あさ(漁)る」という表現は、「あ・さる」と解釈され、さらに「さる」は、
「さ」+「〜る」と分析されるが、「あさ(朝)」と「あさ(浅)し」のいずれ
においても、「あ+さ」という組合せが表現そのもの、または表現の核と
なっているので、「あさ(漁)る」を「あさ(朝/浅)」から解釈しようとする
ことは誤りとなるが、「あ・さる」→「あ」+「さ」+「〜る」とさらに
分解された、「あ」と「さ」を、「あさ(朝)」、「あさ(浅)し」を構成する
組合せ「あ+さ」の要素である「あ」と「さ」のそれぞれと比較して考慮
することは、誤りではない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 12:30:50.25 0
 忘備録
刑事ドラマのセリフなどで使われる「洗いざらい白状しろ」と言うときの
「ざらい」や、学校や塾の先生が「さあ、おさらいしましょう」と言うとき
の「さらい」も、「さ(曝/晒)る」の再帰形を活用した「さら(曝/晒)ひ」
という表現であり、「(隠していた/隠れていた/埋もれていたもの)自体が
露出するようにする」ことを意味している。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 14:09:33.83 0
さて、私は、「あ・さる」→「あ」+「さ」+「〜る」とさらに分解された
「あ」と「さ」を、「あさ(朝)」、「あさ(浅)し」を構成する要素である
「あ」と「さ」のそれぞれと比較して考慮することは誤りではないと述べた。

しかし、これに反対する立場もあり得る。「あさ(朝)」と「あさ(浅)し」の
「あさ」のいずれも、またはいずれかは、本来的に「あ」+「さ」に分ける
と無意味になる不可分の語源的要素として用いられていると想定すること
である。箱形の人工物の喩えを再び用いるなら、「あさ」が箱形の人工物
であって、「あ」や「さ」はせいぜい、その底板や側板であるに過ぎず、
箱をばらばらにしてしまえば、「あ」や「さ」は板に過ぎないので、
扉であれ、屋根であれ、壁であれ、階段であれ、何を作るのにも利用
できる、と考えることに相当する。だが、これは、「あ」および「さ」
という発音に関して、論理的に可能であっても、実際には尤もらしくない
想定であると私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 14:24:38.30 0
「あさ(朝)」と「あさ(浅)」はともに相当に古い表現であり、「あ」に
ついては既に見てきたとおり、「遠い」、「離れている」、「周囲」、
「外れている」など、ある程度、似通った様態を表すように用いられて
いると考えられる例が多く存在し、「あ」以外の「いろは〜」における
発音にしても一音節で、統一的ではないにせよ、何らかの作用/動作/様態
を表すように用いられたと考えられる例の方が多い。このことは、「さ」
についても当てはまる。したがって、「あ」や「さ」のような一音節の
発音が何らかの作用/動作/様態を表現する意図で用いられる状況が一般的
であった限りにおいて、いくら「あさ」を発音する人が、「あ+さ」に
分解されるべきでないことを意図して言葉を発したとしても、それを
聞く人は、やはり「あ+さ」の作用/動作/様態から表現を解釈してしまう
ことになる。やはり人工物の喩えを用いるなら、いくらかごを作った本人
が、それを果物入れとして使うことを意図していたとしても、皆がその
形のカゴをゴミ箱として使っていれば、その形のかごがゴミ箱を意図して
いると受けとめられてしまうのと同じことである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 14:32:08.28 0
ところが、「あさ(朝)」と「あさ(浅)」のいずれの「あ」についても、これまで
述べてきたのと異なり、しかも、「あさ(朝)」と「あさ(浅)」の両方、または
いずれかの表現の意味に適合するような「あ」の用法を、今のところ私は思い
つかない。そこで、「あ」については別の解釈を諦めて、これまでの解釈を
そのまま用いることにし、「さ」をどのように解釈すれば、「あさ(朝)」と
「あさ(浅)」の用法に近い意味が導かれ得るのかを試してみることにする。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 14:51:47.75 0
私は、さ行変格活用の命令形の「せ」が、「せ(急)く」、「せま(迫)る」、
「せ(攻)める」、「せま(狭)い」などに現れる「せ」と同様の要素であると
述べた。だが、「さ」の用法を「せ」の用法と比較してみると、「さ」の
場合には、「せ」の場合ほど共通性が感じられず、「さ」で始まる表現に
おける「さ」の意図は、かなりばらばらである印象を受ける。比較してみよう。

「せ(競)る」、「せ(急)く」、「せ(塞)き」」、「せ(攻)め」
「『さ(去)る』、『さ(曝/晒る』」、「『さ(咲)く』、『さ(裂)く』」、
「さ(刺)す」、「さ(冷)め」

いい加減な比較ではあるが、それでも「せ」と比べた場合に「さ」の
イメージがかなりばらばらである印象は否めないだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 15:10:38.49 0
ここで私は「あさ(朝)」と「あさ(浅)」に共通する「さ」の用法を見出そう
としているが、そもそも、「あさ(朝)」の「さ」と「あさ(浅)」の「さ」が
同じである、つまり、「あさ(朝)」と「あさ(浅)」は互いに似通った表現で
あると考える根拠はない。単に別々に候補を探すのが面倒臭いだけであり、
この手続きは、私の希望的観測だけに基づいている。格好のいい言い方を
するなら、「cognitive economy」に基づいていることになるのだろう。
そこで、希望的観測にさらに頼ると、上に見た「さ」の用法は、まるで
ばらばらであるように見えながら、「さ(曝/晒る」と「さ(咲)く」は似て
いるのではないかと私には思えてくる。「さ(曝/晒る」≒「expose」であり、
「さ(咲)く」は、花が開くことなのだから、どのようにか「開く」≒「open」
ことを表している。すると、「expose」とは、ラテン語「exponere」で
"set forth, lay open, exhibit, reveal, publish"などを表しているのだから
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=expose
「さ(咲)く」は、一見、「さ(曝/晒る」と関係ないように見えても、実は、
単に同じ「さ」を利用した自動詞なのではないか、さらに「さ(覚/冷)め」も
「exposure」が進むことに由来するのではないかと、怠惰な(「cognitive economy」
に頼りがちな)私には思えてくる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 15:17:32.79 0
ここでもう、妄想としての私の「あさ(朝)」と「あさ(浅)」の語源的解釈の
試みには答えが出ている。つまり、「あさ(朝)」と「あさ(浅)」のいずれも
語源的には「あ(遠くまで)さ(露わになっている)」ことである。「あさ(浅)」
という表現は、現代語では、単に深度として把握されているが、もともとは
「浅瀬」を渡る場合や、干潟で「浅利」をとるときのように、「遠方まで
露わ」になっていることが重要だったのではないか、というのが私に都合
のいい現時点での憶測である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 15:42:44.10 0
ちょっと書き込みに時間を費やし過ぎてるのでしばらく自重することにする。
妄想が湧いてきた、またいつでも書き込むが。
考える名無しさん [sage] 2017/01/22(日) 23:11:02.98 0
 忘備録
「あか(贖)ふ」≒「あ・か(交)ふ」は、ドイツ語の「austauschen」と形が
似ていて、「あきな(商)ふ」にもつながっているように感じられる。
「あか(贖)ふ」から「あがな(贖)ふ」が派生したと考えられるが、
「あか(贖)ふ」が「金品でつぐなふ」ことを表すのにも、単に「買う」こと
を表すのにも用いられたのに対して、「あがな(贖)ふ」は専ら
「金品でつぐなふ」ことを表すのに用いられたようである。すると、
商売を表すのにも当初、「あかな(贖)ふ」が用いられたことが想像できるが、
「商売をする」ことと「金品でつぐなふ」ことの間で混乱が生じたので、
その曖昧さを取り除くために、「あかな(贖)ふ」の「あか」を、収穫を
表すのにも用いられた「あき」という表現で置き換えた可能性が考えられる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/23(月) 08:45:02.14 0

「か(交)ふ」から、「あ・か(交)ふ」が派生させられ、そこから今度は、
逆に「か(買)ふ」という用法がもたらされたと考えることができるが、
「あがなふ」、「あきなふ」という表現の形成が、そのプロセスに関与
しているものと想像される。「あかふ」と「あがなふ」は明らかに関連
しており、「あかふ」から「あかなふ」が形成されたと考えられるが、
「あかなふ」も、それに発音の似た「あきなふ」も語の形成が私には
不自然に見える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/23(月) 08:59:03.68 0
「か(交)ふ」という表現から、「金と引き換えにする」という意味で「あかふ」
という表現が用いられるようになったが、「あかふ」を「金でつぐなふ」という
より具体的な意味に応用するために「つぐなふ」に似せた「あかなふ」という
表現が形成されたのではないかと想像される。次に、その「あかなふ」という
表現が、「金でつぐなふ」ことだけでなく、(私の想像では)商売をすることを
指すのに応用されることになったが、「金でつぐなふ」というニュアンスを避け、
金銭的な取引きの対象が収穫物であることを明示するために、「あかなふ」の
「あか(既に不規則な造語法により、要素としては意味不明となっている)」に
収穫物を表すのにも使われるようになっていた「あき」という表現を入れ替えた
のではないだろうか。「あきなふ」という表現が商売を指すのに普通に使われる
ようになると、今度は、「あかふ(金と引き換えにする)」という表現は、
意味的に冗長となり、単に「か(買)ふ」という表現が用いられるようになったの
だろう。むろん、この通りのプロセスをたどったかどうかは不明だが、これらの
表現の間で、これと似通った相互調整が行われた可能性は高いように思う。
考える名無しさん [sage] 2017/01/23(月) 13:11:54.83 0

私の考えでは、収穫物を「あき」と呼ぶのは、作物が「あき(秋)」に収穫される
からではない。むしろ、逆に作物を収穫した後の田畑の「あ(空/開)き」が、
収穫物と収穫の季節の両方を代表するように用いられていると考える方が
自然だろうと思う。収穫物を「収穫した後の田畑の『あ(空/開)き』」によって
表すというのは奇妙なことに思えるかもしれないが、現代の工業生産に
おける製造品のロット管理などを想起してみれば、納得のいくことである。
収穫物を表すのに作物名に関連する表現を使うと、収穫物を表しているのか、
特定の作物を表しているのか混乱が生じる。製造品が、特定の製品を指す
名称によってではなく、製造の「ロット」や、輸送の「カートン」、
「パレット」などによって代表されるのと似たような発想だろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/23(月) 18:47:55.11 0
料理を「皿」と呼ぶ場合を考えた方が、身近で分りやすかったな。
考える名無しさん [sage] 2017/01/24(火) 10:15:28.72 0
 忘備録
そのような「あさ(浅)」の解釈は、「とおあさ(遠浅)」という表現があるの
だから間違っていると考える人々がいるかもしれない。しかし、私の考え
では、事情は、「みまもる」の場合と同じであるのでさらなる説明を要さ
ないだけでなく、むしろ、「とおあさ(遠浅)」のような表現が作られなけ
ればならなかったことが、「あさ(浅)」がそのような文脈で用いられる
必要性が(昔から)あったことを明確に示唆している。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 00:32:48.96 0
いくつかの妄想が湧いてきたので、忘れないうちに書きつけておく。

「あそ(遊)ぶ)」は、「あ・そ(添)ふ」という形の再帰形の動詞が「あそひ」
として名詞化されて、さらに「あそび」に変化し、そこから動詞としての
活用が行われて「あそぶ」という形になったのではないだろうか。この
場合の「そ(添)ふ」は、動作/作用の程度が増すことを表す用法であると考え
られる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 00:53:22.84 0
まだ検討がまったく不十分であるものの、で触れた「すめろき」もやはり、
動詞の再帰形の名詞化に由来しているように感じられる。岩波古語辞典では、
否定されているものの、現代語の「す(統)べる」という表現に関連していると
見るのがやはり妥当である気がする。「す(統)ぶ」が「すべ(統)る」という
形で用いられ、その再帰形として「すべる+あふ」→「すべ(め)ろふ」が
作られ、「すべ(め)ろふ」が名詞化されて「すべ(め)ろひ」となり、そこから
「すべ(め)ろき」となったのではないか。

現代語で「くつろぎ」という表現があるが、岩波古語辞典の語源説とは異なる
ものの、「くつろぎ」の「くつ」を「く(朽)ちる」の「くつ」に関係している
ものと見て、「くつる+あふ」→「くつろふ」という再帰形の動詞を想定し、
その名詞化として「くつろひ」→「くつろぎ」という変化を考えると、ちょうど
「すめろき」と平行したような関係になる。その場合、現代語の「くつろぐ」は、
「くつろぎ」という名詞形から再び動詞としての活用が導かれたと考えること
になるだろう。

念のため繰り返すが、これは今のところ、後に検討するためのただの思いつきに過ぎない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 01:04:02.81 0
ちなみに、私は、岩波古語辞典が採用している、アクセントの違い、母音の
違いは、すなわち、語源の違いを示すという原則を受け入れていない。無論、
アクセントの違い、母音の違いが、語源の違いを示す事例はいくらでもある
だろう。だが、それと同時に機能の分化、用法の分化を示す事例も多く存在
するはずである。アクセントの違いや母音の違いをそのまま語源の違いに
結び付けるのは、喩えを用いるなら、買い物用の自転車しか知らない人が、
スポーツ競技用の自転車のハンドルだけを見て、こんなにぐにゃぐにゃ
曲がったものが自転車のハンドルのわけがないと断じるようなものである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 08:55:05.65 0
妄想による思考の最大の利点は、睡眠中やまどろんでいる間に問題が自然に
解けることである。で書いた疑念につての私の暫定的な答えは、もう
既に睡眠中に出ている。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 09:01:17.36 0
「くつろぎ」と似たような文脈で使われることの多い現代の日本語に「やすらぎ」
という表現がある。「やすらぎ」は明白に「やすらひ」とつながっており、
「やすらふ」という再帰形の動詞が存在するので、その名詞化である「やすらひ」
から「やすらぎ」が派生したと推定することができる。これにより、「くつろふ」
という再帰形の動詞を想定して、そこから「くつろひ」が生じ、そこから
「くつろぎ」が派生したと考えることが尤もらしく思えてくる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 09:16:51.21 0
ところで、「やすらふ」という表現を見ると興味深いことに気づく。
「やすらふ」の「やす」は、明白に「やすし」、「やすむ」、「やすらか」
の「やす」と同じものである。ところで、「やすらふ」という発音からは、
「やする+あふ」という形が推定されるものの、「やす・る」という動詞
は存在しない(別の語源の「や・する」は存在するが)。このことから、
「やすらふ」という再帰形の動詞の形成は、「やする」という形態の動詞を
前提として必要としていなかったものと考えることができる。つまり、
「やすらふ」は、「かた・る」から派生する「かたらふ」や「つく・る」
から派生する「つくろふ」などの他の多くの「〜る」から派生する再帰形
に似せて、類比により形成されたものと想定される。この「〜・る」動詞
に派生する再帰形に似せて「〜・る」以外の表現から再帰形の動詞を派生
させるという手順を想定することで、多くの疑問が解消されることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 09:18:40.38 0
学研全訳古語辞典

かひろ・く

ゆらゆら揺れ動く。「かひろぐ」とも。
出典枕草子 草の花は
「風になびきてかひろき立てる」
[訳] 風になびいてゆらゆら揺れ動き立っているのは。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 09:30:30.90 0
「かひろく」または「かひろぐ」という表現は、現代の日本語に対応する
表現を見出すことができないため、何か「古代」を感じさせて、神秘的な
感じがする。しかし、に述べた考え方を応用すると、「かひろぐ」
は、再帰形の動詞が名詞化された「かひろぎ」から、今度は逆に動詞と
して派生させられたものと考えることができ、「かいろぎ」の元となった
再帰形の動詞は、「かひろふ」であると私には思われ、推定される形として
は「かひる+あう」という奇妙なものであるが、「〜・る」動詞の再帰形
を真似て作られていると考えると、元になった動詞は、単に「か(交)ふ」
である。つまり、「かひろく/かひろぐ」という動詞は、最初から再帰形
である「かひ」が重ねて再帰化された動詞と見ることができ、語源的に
解釈して英語で表現するなら「switch back and forth」ということになり、
現代の日本語で表現するなら、擬態語を用いて「ひらひらする」という
ことになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 09:35:50.75 0

「かひる+あう」(誤)
「かひる+あふ」(正)

まだまだ私の妄想は止まらないが、つづきは、後で書くことにする。
少しだけ書いておくと、「イザナギ」、「イザナミ」は、「いざなふ」という
動詞の名詞化である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 09:41:27.06 0
Wikipediaによると、文法的解釈は異なるものの、本居宣長も「イザナギ」は、
「いざな(誘)ふ」の「いざな」に由来すると主張していたらしい。ただし、
「いざな」という要素は存在しないので、本居説は、語呂合わせである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 10:04:16.17 0
>本居説は、語呂合わせである。

本居がどのように説いているのか確認していないので、Wikipediaの記載だけ
に基づいた断定は、撤回しておきます。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 10:09:40.53 0
により、で書いた「ねぎらふ」の「ら」についての私の当初の
憶測は誤っていたことになり、「ねぎらふ」の場合も「〜る」動詞との類比
による再帰形の形成として解釈できることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 10:11:28.90 0
に記載した「くつる+あふ」という不自然な形も不要となり、
単に「くつ+あふ」が想定される。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 15:17:37.94 0

ttp://www.geocities.co.jp/kiebine2002/siki.htm
○かひろく 和名抄に※[舟+少]「加比路久」注に船不レ安也とあるはこゝのはたらきこと葉なるへし
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 15:28:27.89 0

現代語で「かひろく」に関連したニュアンスを伝えている(ただし、意味は
異なる)表現は、「ひるがえ(翻)る」だろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 17:03:39.66 0
なかなか時間がとれないので、もう説明は冗長であるかもしれないが、
の「すめろき」についての暫定的な結論の要点だけ整理しておこう。

「すめろき」の「すめ」は、「す(統)ぶ」という動詞に由来し、その
再帰形として「すべ+あふ」が、「〜る」動詞の再帰形に似せる形で
「すべろふ」として形成され、その名詞形として「すべらひ」がもたらされ、
ちょうど、「やすらひ」から「やすらぎ」が派生させられるように、
「すべ(/め)らぎ(/き)」という名詞形が派生させられた。自らが統治する
ことを表す「すべ(/め)らぎ(/き)」が人を指すのにも用いられ、いわば
擬人化されることによって、「すべ(/め)ら・ぎ(/き)」という解釈が
用いられることになり、「すめろ・ぎ」、「すめら・み」、「すべら・ぎ」
「すめら」、「すめら・みこと」などの一群の表現が生じた。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 17:08:54.79 0
「かひろき」や「すめろき」など、一見、孤立しているように見える表現は、
解釈が困難になるため、何か「古代の神秘」を伝えるような印象をもたらすが、
表現の構成から分析してみると、「〜・る」という動詞の再帰形を真似て
作られた再帰形の動詞がさらに派生させられたものと見られるため、既に
「〜る」の再帰形の動詞が一般化した後に形成された表現と見られ、より
単純で分りやすい表現よりも相対的に新しい(古代から使われていたとしても)
と考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 17:46:16.29 0
私が「睡眠中に考えている」と言うと、それを冗談だと受けとめる人がいる
かもしれないが、これは本当のことである。なぜ分るかというと、ちょうど
目が覚めてまどろんでいるときに、それまで気になっていた問題が、少なくとも
私自身にとっては、きれいに整理されて解決されている。まどろんでいる
ときに瞬間的にそれほど多くのことを考慮、検討したとは考えにくいので、
睡眠中にそれを行っていたことになる。夢の中で考えているわけではなく、
というより、夢はほとんど覚えていることがなく、覚えているような夢は、
ここで対象にしているような問題とは無関係である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 17:49:54.93 0
だからこそ、思いつきを片手間に書き込んでいるのであり、問題の考慮、
検討のために時間を割いて、研究をしているわけではない。時間を割くのは、
ネット検索と辞書を引く確認作業くらいのものだ。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 18:18:18.11 0
で既に書いたとおり、「イザナギ」、「イザナミ」は、「いざなふ」という
動詞の名詞化である、というより、「いざなひ」という名詞化された表現をさらに
擬人化したものと考えることができる。ここから類推すると、「ツクヨミ」も
「つく(月)よひ(宵)」の擬人化ということになる。まあ、ここまでは、想定される
私の妄想の範囲内だろう。だが、私の妄想はここではまだ止まらない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 18:22:28.15 0
月読命(ツクヨミ、ツキヨミ)は、月の神とされるが、「つくよみ」という表現
は、必ずしも神を指す用法に限定されるわけではない。

学研全訳古語辞典
つく−よみ 【月夜見・月読み】
名詞
月。「つきよみ」とも。

出典万葉集 三五九九
「つくよみの光を清み」
[訳] 月の光が清らかなので。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 18:40:13.15 0
動詞として用いられた「ゆふ(夕)」という作用が完了した状態が「よひ(宵)」
なのではないかという私の疑念については既に述べた。ところで「よひ(宵)」
から、「よみ(夜見)」が派生し得るということは、「ゆふ(夕)」と「よひ(宵)」
と「よみ(夜見)」と「よる(夜)」と「やみ(闇)」と「よみ(黄泉)」の関係を
考えるうえで重要な手がかりを提供しているように感じられる。「よみ(夜見)」
の「み」と、「やみ(闇)」および「よみ(黄泉)」の「み」とは母音の種類が
異なるので、単純な派生関係を想定するのは危うい。これらの表現の間の
関係をどのように整理すべきか、まだ私には分らないし、うまく整理できるか
どうかも不明であるが、どのようにか関係しているだろうことには留意して
おく必要があるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/25(水) 18:55:45.14 0
付け加えておきたい私の妄想は、、「よみ(夜見)」の「み」についてである。
「イザナミ」の「ナミ」または「ミ」は、女性を表すとされるが、神として
の「ツクヨミ」は、男性のようで、この場合、「ミ」は女性を表している
わけではない。「〜み」という「接尾辞」は何らかの性質を表す表現に付けら
れて「たか(高)み」のような表現を作るが、「つくよみ」の「み」もこれと
同じ「み」ではないのだろうか、というのが私の疑念であり、私の妄想は、
この「み」は、文字通り、「具体化」を表現しているのではないかという
ことである。以前に「みどり(緑)」の「み」は、「身/実(≒volume)」では
ないかと書いたことがあるが、同様にこの接尾辞の「み」も「volume」と
として具体化を表現しているのではないか。さらに、「ま行」において、
「ま(増)す」が「volume」を多くすることを表していることと関連して、
この「み」も活用されているのではないか。これが、疑念としての現時点
での私の妄想である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 10:41:04.20 0
秋に鳴く虫の総称として用いられていたという「こほろき(蟋蟀)」も見たところ、
「すめろき」と同様の形をしているが、「こほろき」という表現がどのように
解釈されるべきかは自明ではない。古語の「こほ」は、比較的大きい物音を
表すのに用いられることが多く、また「o」の発音が「こほろぎ」の場合とは
異なるので、「こほろぎ」の「こほ」と単純に結びつけることはできない。
「こほろぎ」の「こほ」の「o」の発音は、「こ(請/乞)ふ」の「o」の発音
と重なるが、「かひろく」の事例のように二重の再帰化を想定したとしても、
「こほろき」という形になるのは不自然に思われる。「こほろき」は、
動詞としての形態を持たずに、既に存在していた名詞形としての他の
「○○ろき」という表現に似せて作られた表現である可能性も考える必要も
あるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 11:47:37.80 0
可能性も考える必要も(誤)
可能性を考える必要も(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 18:12:59.66 0

学研全訳古語辞典

あそ・ぶ 【遊ぶ】

@(詩歌を作ったり、音楽を演奏したり、歌舞をしたりして)楽しむ。
出典枕草子 御仏名のまたの日
「ひとわたりあそびて、琵琶(びは)弾きやみたる程に」
[訳] 一とおり音楽を楽しんで、琵琶を弾き終えたときに。

A遊戯する。
出典伊勢物語 二三
「昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでてあそびけるを」
[訳] 昔、田舎で生計を立てていた人の子供たちが、井戸のところに出て遊戯をしていたが。

B狩りをする。
出典古事記 雄略
「やすみしし(=枕詞(まくらことば))わが大君のあそばしし猪(しし)の」
[訳] わが大君が狩りをしなさっ(て射られ)た猪(いのしし)が。

C自由に動き回る。気ままに歩きまわる。
出典伊勢物語 九
「白き鳥の、嘴(はし)と足と赤き、鴫(しぎ)のおおきさなる、水の上にあそびつつ魚(いを)を食ふ」
[訳] 白い鳥であって、くちばしと脚とが赤い、鴫くらいの大きさのある(鳥が)、水の表面で自由に泳ぎ回りながら魚をとって食う。
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 18:32:45.38 0
「あそ(遊)ぶ」という表現についてで述べた語源的解釈に私自身は
納得しているので、何も変更はない。私が面白い思うのは、「遊ぶ」と
いう表現の意図が、英語の「play」という表現の意図ととてもうまく
重なっていることである。しかし、「play」の語源を探っても、「あそぶ」
とはどのような行為として捉えられるのか、特に理解は深まらない。
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=play
フランス語、スペイン語、ラテン語などで語源を探ってみても同じこと
である。では、「あそぶ」と「play」の間のきれいな対応は、どのような
共通の認識(コモンセンス)に基づいているのだろうか。
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 18:45:17.91 0
南米コロンビアの歌手Carlos Vivesの「La Gota Fria」という曲の歌詞には、
日本語の古語の「あそぶ」や英語の「play」に相当する「演奏する(tocar)」
という表現は出てくるものの、より一般的な意味での「あそぶ」に相当する
スペイン語の「jugar」という表現は出てこない。それでも、この歌詞は、
「あそぶ」という表現がどのような行為を把握することを意図しているのか
をとてもよく伝えているように私には思える。「演奏する」という文脈に
限るなら、「En mis notas soy extenso a mi nadie me corrige」という
感覚が、語源的な「あ・そ(添)ふ」という感覚にそのまま対応しているよう
にさえ私には感じられる。
ttp://www.musica.com/letras.asp?letra=59489
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 18:52:34.35 0
暫定的な私の理解をメタ言語で記述するなら、「あそぶ」とは、「共同的な競い合い
において自ら、または相手が意のままに動くこと」である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 19:48:23.95 0
「あそぶ」という行為が「意のままにする」ことと結びついていることは、
例えば、「もてあそぶ」という表現にはっきりと見ることができ、日本語
以外の他の言語においても対応する関係を容易に見出すことができる(例えば、
英語の「I'm not your toy.」という表現が直ちに想起される)。

「何をそんな当たり前のことを」と思うかもしれないが、現実を記述するとは、
このような当たり前とされることを確認する作業の積み上げである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/26(木) 20:06:22.13 0
例えば、近頃、話題になっているカジノ賭博は、私から見れば、胴元に完全に
確率を管理され、カジノ経営者にとって客は計算される収入源に過ぎないので、
カジノ賭博は、「あそび」の形態を模倣して、客に「遊んでいるという幻想」
を提供しながら、現実には客が「もてあそばれる」だけの「あそび」の
「まがいもの」である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 09:17:33.37 0

「あそぶ」ことをこのように捉えることによって、なぜ「あそぶ」ことが
子供に極めて重要なのかも明確に理解することができる。

「共同的な競い合い」において意のままに動く相手の姿を見て自分もそれを
模倣して意のままに動けるようになろうとし、相手もまた、意のまま動く
自分の姿を見てそれをそれを模倣する。そのことによって互いの技能が
共同的に上達するのである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 10:05:43.07 0

ところで、「まがい(まがひ)もの」の「まがひ」とは、語源的には
「ま(目)・か(交)ふ」であると考えられる。その「まが(紛)ふ」から
「まぎ(紛)る」から派生したと考えるなら、「たが(互)ひ」の語源である
「た(手)・か(交)ふ」から「たぎ(滾)る」が派生した可能性も考えられる
のではないかと思うのだが、どうなのだろう。「煮えたぎる」に隣接する
表現として「煮えかえ(へ)る(『か(交)ふ』に由来すると考えることができる)」は
が存在する。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 18:08:25.55 0
 このように「あそぶ」について書いていると、随分昔に
ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」を読んだことを思い出す。読んだ内容は、
もう覚えていないので、検索してみると、「遊びはなによりもまず第一に自由な
行為だ」とするホイジンガの言葉の引用や、ホイジンガの著作を参照する
「遊び」についての研究が数多くヒットした。

そうしたサイトを少し眺めてみるだけでも、「遊び」の特徴や分類などについて
相当に複雑なことが書かれていて、怠惰な(cognitive economyに頼ってばかり
いる)私には、とてもついていけそうにない、というのが正直な印象である。
私が、「あそぶ」ことと「自由」の関係について感じるところは、ホイジンガの
研究などは場合と異なり、極めて単純である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 18:19:23.23 0
自由についての議論においては、しばしば、「〜からの自由」や「〜する自由」
の区別が問題にされ、様々な「社会契約」の理論において、自然状態における
自由や、社会における自由および自由の制約について検討されている。

ここで「あそぶ」ことについて書いてきて私が感じるのは、人々が「自由」に
ついて語るとき問題にしているのは、それがどのように定義されるにせよ、
哲学、思想における自由論や社会契約説において扱われるような抽象的な
自由の概念ではなく、まずなによりも「あそびとしての自由」なのではないか
ということである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 18:28:49.38 0
「あそびとしての自由」とは、既に述べたとおり、「共同的な競い合いにおいて
意のままに動く」ことであるが、ここで私は、「遊び」と「仕事」を対立させて
考えているわけではない。人が貴重なものとして「自由」を求め、尊ぶとき、
人は、自分が「思いどおりにできる」ことを望んでいると考えられる。ところが、
「思いどおりにできる」とは、必ずしも他人との関係を断つことによって、自ら
が何も制約されないことを意味しているわけではない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 18:40:40.23 0
で、コロンビアの歌手Carlos Vivesの「La Gota Fria」という曲から
>En mis notas soy extenso
>a mi nadie me corrige
という歌詞を引用し、これが日本語の「あ・そ(添)ふ」にそのまま対応する
感覚を表しているのではないかと述べた。この曲は、辻楽師が歌と演奏を
競い合う対決をテーマとしていて、「En mis notas soy extenso」は、
自らの演奏の「調べ」において「自分が伸び伸びとしていて」思いのまま
でありながら、「a mi nadie me corrige」、つまり、「誰にも調子が外れ
ている」などと言われることがないことを歌い手が誇っている。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 19:02:58.66 0
自分の技巧を自画自賛しているわけだが、すぐに気づくように、演奏の「調べ」
において「思いのままである」という本人の自由な感覚は、それを聴衆とともに、
競い合う相手が認めざるを得ないものでなかったとしたら、虚勢を張っただけ
の自分勝手な思い込みとなってしまう。そこで、「自分の調べを耳にした相手
の反応」が、無言のうちに敗北を認めることになったことを描写しているのが
この曲を締めくくる歌詞であり、曲名の由来である。
>Y cuando me oyó tocar
>le cayó la gota fría
つまり、この場合、本人の「思いのままである」ことは、本人が(歌詞にはない
表現であるが)「virtuoso」であることを、誰もが認めざるを得ないことを意味
している。
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 19:13:48.74 0
「virtuoso」とは、「徳性がある」ことであり、「virtuoso」の語源となって
いる「vir」そのものも、「(男性によって代表される)人」としての「自由」
を含意していたものと考えられている。
ttp://www.etymonline.com/index.php?term=man
>*uiHro "freeman" (source of Sanskrit vira-, Lithuanian vyras,
>Latin vir, Old Irish fer, Gothic wair)
考える名無しさん [sage] 2017/01/27(金) 23:32:11.15 0
意のままに自由であることが、すなわち、徳性の表れ(virtuous)であること、
それが「あそびとしての自由」であり、そのような自由と徳性の関係は、
単に競い合いに勝つことだけを究極の目的とすることによっては生じない
のである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 11:31:39.12 0
「あそぶ」ことにおいては、自由であること、つまり、自らの意のままにできる
ことそのものが、誰にでも徳性と認められることによって、競い合いの勝敗が
決まる。ところが、競い合いに勝つことこそが徳性の表れであるという逆立ち
した信念に人々がとらわれると、競争に勝利する者にとってさえ、自由は失わ
れることになるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 16:16:26.47 0
学研全訳古語辞典

さか・ゆ 【栄ゆ】

@繁栄する。栄える。
出典万葉集 九九六

「天地(あめつち)のさかゆる時に」
[訳] 天も地も繁栄しているこの時代に。

A繁茂する。咲き乱れる。
出典万葉集 四二四一
「梅の花さかえてあり待て帰り来るまで」
[訳] 梅の花よ、このまま咲き乱れて待っていよ。(私が)帰って来るまで。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 16:23:14.24 0
岩波古語辞典でも指摘されるとおり「さか(栄)ゆ」の「さか」は、
「さ(咲)く」と同じ表現要素であると考えられる。「ゆ」は、この場合も、
既に指摘したとおり、英語で言い表すなら「freely」を表現することを
意図している。後に「さか(栄)ゆ」に変わって「さか(栄)ふ」という形が
用いられることになり、検索してみると、単に発音の変化として説明され
ているが、慣用により「〜ゆ」という表現の意味が意識されなくなった後に、
「さかふ(咲く+あふ)」という再帰形として再解釈されたのだろうと
私には思える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 16:31:01.41 0
学研全訳古語辞典

め−も−あや・なり 【目もあやなり】

@まばゆいほどにりっぱだ。▽きらびやかで直視できないようす。
出典源氏物語 手習
「めもあやに、いみじき天人の天降(あまくだ)れるを」
[訳] まばゆいほどりっぱで、すばらしい天女が天降ってきたのを。

A目をまわすほどひどい。
出典枕草子 宮にはじめてまゐりたるころ
「あらがひ論じなど聞こゆるは、めもあやに、あさましうまであいなう」
[訳] 抗弁など申し上げるありさまは、目をまわすほどひどく、あきれるほどにむやみに。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 16:46:34.45 0

「目もあやに」という表現についてのこれらの解釈は、明らかに失敗している。
「あやに」をどのように分析しても、「@まばゆいほどにりっぱだ」や
「A目をまわすほどひどい」のような意味を引き出すことはできない。
岩波古語辞典で「あやに」を引くと、「《アヤは、アヤシ(奇)〉と同根》」
とされ、「@霊妙ふしぎに。言いようもなく」、「Aひどく。むしょうに」
と説明されている。「あやに」の「あや」が「あや(奇)し」の「あや」と
同一の表現要素であるという指摘は、私も正しいと考えるが、こちらの説明
も「目もあやに」という表現を解釈するのには役に立たない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 16:59:14.44 0
こちらは、のAと同様に枕草子からの引用である。

ttp://manapedia.jp/text/2852
>舟の縁(はた)をおさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほ
>たるるに、落しいれてただよひありく男は、目もあやにあさましかし。

既に「あや(remotely)つ(操)る(pull strings)」という表現の解釈において
示したとおり、「目もあやに」という場合の「あや」も「離れること」や
「遠いこと」に関係していると考えるのが妥当であり、「目もあやに」とは、
肯定的な評価であり、否定的な評価であれ、「目をそむけさせるほどに」
ということを表現していると考えられる。その後、「あやに」が何を意図
していたのか忘れられたため、現代の日本語では、「目もあやに」という
表現は、別の意図で用いられている。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 17:00:18.98 0
肯定的な評価であり(誤)
肯定的な評価であれ(正)
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 19:50:03.15 0
学研全訳古語辞典

あへ−て 【敢へて】
副詞
@進んで。力いっぱいに。▽困難に勝つよう積極的に事をするさま。
出典万葉集 一六七一
「白神の磯(いそ)の浦廻(うらみ)をあへて漕(こ)ぐなり」
[訳] 白神の磯の浦を力いっぱい漕いでいるようだ。

あ・ふ 【敢ふ】
[一]自動詞ハ行下二段活用
堪える。我慢する。持ちこたえる。
出典源氏物語 宿木
「霜にあへず枯れにし園(その)の菊なれど」
[訳] 霜に堪えられず枯れてしまった庭園の菊であるけれども。

[二]補助動詞ハ行下二段活用
〔動詞の連用形に付いて〕すっかり…する。…しきる。
出典源氏物語 桐壺
「御かたち・心ばへ、ありがたく珍しきまで見え給(たま)ふを、え嫉(そね)みあへ給はず」
[訳] ご容貌(ようぼう)やご性質が世にもまれで珍しいまでにお見えになるのを、
(人々も)憎み通すことがおできにならない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 20:01:34.92 0
もう敢て断る必要もないだろうが、またまた奇妙なことを言わせてもらおう。
「あ(合)ふ」という動詞をフランス語で「s'accorder」と表現するとすれば、
「あへ(敢)て」という表現は、同様にフランス語に直訳するとすれば、
「s'opposant à」ということになり、「あへ(敢)て」は、「あ(合)ふ」と
いう再帰形の動詞の活用である。「あ(合)ふ」という表現が、別々のもの
が互いに対抗/向することを表現しているのに対して、「あへ(敢)て」は、
「あ(合)ふ」という再帰的表現を、他のものに自らが対抗/対向することを
表現するように活用している。
考える名無しさん [sage] 2017/01/28(土) 20:07:45.78 0
私の妄想が尽きることがないのは、私が自分の蓄積した知識を披露しているわけ
ではなく、自分の母語である日本語を「他者の言語」として見て気が付く観察を
書き連ねているからである。結局のところ、私が行っているのは、自らが日本語
以外の言語を学ぶときに暗黙に適用している推論の方法を、自分の母語である
日本語に適用しているに過ぎない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 09:13:02.32 0

「あや(remotely)つ(操)る(pull strings)」という表現の解釈においては、
英語やフランス語の対応する表現に合せるために「あや」を単に「remotely」
または「télé」としたが、「目もあやに」の表現においてはっきりと見て
とれるように、「あや」は、より厳密に言えば、「離れる方向性」を表現
していると考えられ、ちょうど英語の「away)」に相当する。このことは、
例えば、「あやかす」や「あや(殺)める」という表現を見ても明白である。

岩波古語辞典では、「あやかし」という項目があり、「海の妖怪。海上
で死んだ者の魂を仲間がとるために現れるという」と記載されている。
「あやかし」は、「あやかす」という動詞の名詞形(名詞形と動詞形の
いずれが先に用いられたにせよ)であり、「あやかす」の「〜かす」は、
「おどろく」→「おどろかす」のように「〜く」動詞の使役形との類比
により形成されたのだろうと私には思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 09:28:24.20 0
面白いことに、「away」は語源において「あや」ととてもうまく対応している。
つまり、「あ(a)・や(way)」である。
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=away
away (adv.)
late Old English aweg, earlier on weg "on from this (that) place;"
see a- (1) + way (n.).
a- (2)
word-forming element meaning "away," from Latin a "off, of, away
from," the usual form of Latin ab before consonants (see ab-).

さらに、「あ・や」の「や」は、方向性の作用を表現するものとして、
おそらく、「や(遣)る」の「や」と共通する表現要素であり、「やり(槍)」、
「や(矢)」の「や」も同様である。このことは、例えば、フランス語の
「lancer」、「lance」を参照すれば納得がいくだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 09:56:52.26 0

「あそぶ」ことにおいては、「自らの意のままにできる」ことが、他者によって
も模倣されるべき望ましい徳性であると不特定の人々によって認識されるから
こそ、「自らの意のままにできる者」、つまり、「自由な者」が勝者とされる。
ところが、これが転倒されて、「勝つことが徳性の表れである」とする信念
として用いられる場合、勝者と判定された者にのみ「あそびの容認としての
自由(≒allowance)」が与えられることになる。そのような転倒が生じると、
勝者を判定するのが、人々であれ、人々の代表であれ、君主(または主権者と
しての国民)であれ、人々は、勝者に与えられる「容認としての自由」を
求めて競い合うことになり、そのように容認されているか否かにかかわらず、
「自らの意のままに」振る舞える者は、不正に自由を手に入れているとされ、
排除、弾圧の対象とされることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 11:12:06.04 0
市場経済の仕組みは、しばしば、ゲームに喩えられてきた。より良い商品や
サービスを人々に提供する者が市場において勝利するとするならば、人々
が「自らの意のままにできる(あそびとしての)自由」は拡大するはずであり、
それが理想とされてきたはずである。ところが、生活のあらゆる局面に市場
が浸透することは、そのような自由を拡大するどころか、「容認されていない
自由」は、「無駄なあそび」として人々の活動から徹底的に排除されること
をもたらしており、人々は、勝者だけに与えられる「容認としての自由」を
求めて競い合っているように見える。仕組みとして把握していないとしても、
そのことに人々は既に気づいており、それに呼応するかのように、「不当に
多くを所有する少数の人々によって大多数の人々の生活の自由が奪われて
いる」といった類の議論が流行している。そのような議論の結論として導か
れるのが、「容認としての自由」を平等に「配分する権限を強化しなければ
ならない」ということであり、そこで暗黙に求められることになるのが、
「容認されていない自由」を徹底的に排除することである。このような倒錯
した議論があたかも革新的な提案であるかのように流行すること自体が、
私には極めて危険な状況の兆候に見える。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 14:07:21.66 0

「目もあやに」という表現の場合、「あや」は、ドイツ語で言えば、ちょうど
「wegsehen」や「wegschauen」における「weg」に相当するわけだが、日本語の
「やぶ(破)る」に相当するドイツ語の表現は、「wegreißen」(英語にすれば、
"tear away")であり、「やぶ(破)る」の「や」も「weg」に相当すると考えられ、
これまで見てきた「あや」の「や」と同じ要素であると思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 14:56:10.53 0
「あや」の場合、「や」は、方向的な作用を表すことを意図していると解釈
してきたが、「や(止)む」の場合は、この解釈に当てはまらないように見える
ばかりか、矛盾しているようにさえ見える。同じ発音が用いられているから
といって、同じ意図が表現されているなどという保証が全くないことは、何度
でも強調しておかなければならない。それでも、一見、これまでの解釈と
矛盾するように見える「や(止)む」における「や」の場合でも、これまでに
見てきた「や」と同じ表現の要素である可能性は、必ずしも排除できないと
私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 15:00:12.48 0
学研全訳古語辞典
や・む 【止む】

@おさまる。やむ。
出典土佐日記 一・一六
「風・波やまねば、なほ同じ所に泊まれり」
[訳] 風や波がおさまらないので、やはり(昨日と)同じ所に停泊している。

A途中で終わる。なくなる。起こらないままで終わる。とりやめとなる。
出典竹取物語 かぐや姫の生ひ立ち
「翁(おきな)、心地あしく、苦しき時も、この子を見れば、苦しきこともやみぬ」
[訳] (竹取の)翁は、気分が悪く、苦しいときでも、この子を見ると、苦しいこともなくなってしまう。

B(病気が)なおる。(気持ちが)おさまる。
出典平家物語 三・赦文
「法皇、御憤(いきどほ)りいまだやまず」
[訳] 法皇は、お怒りがまだおさまらない。

C死ぬ。死亡する。
出典源氏物語 手習
「すべて朽木(くちき)などのやうにて、人に見捨てられて、やみなむ」
[訳] なにもかも、(山奥の)枯れて腐った木などのような状態で、人に見捨てられて、死んでしまおう。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 15:01:01.80 0
[二]他動詞マ行下二段活用

@終わらせる。とりやめる。やめる。
出典源氏物語 賢木
「遊びはみなやめて」
[訳] 管弦の会をすっかり終わらせて。

A治す。
出典枕草子 さかしきもの
「かい拭(のご)ひたるやうにやめ奉りたりしかば」
[訳] きれいにふき取ったように、(病気を)治し申し上げたので。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 15:03:25.69 0

これらすべての「や(止)む」の用例においても、「や」は、ドイツ語で言うなら、
「weggehen」や「wegnehmen」における「weg」のように用いられている可能性が
考えられる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 17:19:05.71 0
忘備録
「あやし」≒{abwegig」、つまり、「あ(ab)や(weg)し(ig)」である。

ttp://www.wordreference.com/deen/abwegig
abwegig adj (sonderbar) bizarre, outlandish, off-beat umg; (unangebracht)
inept, out of place; (seltsam) weird, peculiar; (grundlos) unfounded,
mistaken, groundless
考える名無しさん [sage] 2017/01/29(日) 22:14:18.06 0
幼児を「あやす」という表現の場合、ドイツ語で「weg-」を用いた対応する
表現は見当たらないものの、私の感覚では、フランス語の「divertir」に
対応しており、やはり、「あや」は、幼児の気を「そ(逸)らす」ことを表現
する意図で用いられているように思われる。
ttps://fr.wiktionary.org/wiki/divertir
>divertir
>Détourner de ce qui préoccupe, fatigue, ennuie en amusant, en récréant.
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 08:53:34.59 0

考えに混乱が生じていたことに気づいた。「身/実(み)」と同じ母音の発音と
なっているのは、「やみ(闇)」および「よみ(黄泉)」の「み」の方であり、
「つくよみ(月夜見)」の「み」や接尾辞の「〜み」は、異なる母音となって
いる。したがって、の妄想は混乱していて、根拠に欠けている。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 09:02:27.51 0
ところで、「やみ(闇)」は、光が失われた状態であるのだから、やはり、
ドイツ語の「weg(≒英語のgoneに相当する」に対応する意味で用いられている
可能性は考えられる。ただし、これは、現段階では、そうであることが尤も
らしいというのではなく、単なる可能性の示唆である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 09:46:19.12 0
この手の連想は、数限りなく湧いてくるのだが、それを書き込むのは、
私がその連想の妥当性を確信しているからではなく、書き留めることによって
仮説のネットワークとしてどれだけ整合性が生じるかを試行錯誤によって
確認してみるためである。

学研全訳古語辞典

くや・し 【悔し】

悔しい。後悔される。残念だ。
出典万葉集 一九六九
「わが宿の花橘(たちばな)は散りにけりくやしき時に逢(あ)へる君かも」
[訳] わが家のたちばなの花は散ってしまった。こんな残念なときにあなたに会ったものだなあ。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 09:57:28.16 0

例えば、「くや・し(悔し)」という表現を見れば、スペイン語を知っている人
であれば誰でもすぐに「remordimient」を連想し、英語を知っている人であれ
ば、同様にすぐに「remorse」を連想するだろう。私に特異性があるとすれば、
私の場合は、そのような連想がそのまま妄想にまでつながることである。
「remordimient」の「mordi」も、「remorse」の「morse」も噛むこと
を表しており、「くやし」の「く」は、すぐに「く(食)ふ」を連想させる
のだから、「くやし」の「く」は、「remordimient」の「mordi」や、
「remorse」の「morse」に相当する意味を表すことを意図していたのでは
ないかという妄想である。すると、「や」についても、「〜し」についても、
以前から書き込んでいる連想が存在するので、「くやし」という表現は、
「"eat/bite away"を生じる」ことを表すことを意図していたのではないか
という妄想が生まれる。しかし、妄想は、あくまでも妄想であって、仮説の
ネットワークにおいて絶えずその妥当性を(再)検証されなければならないの
である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 10:17:09.18 0
妄想は、それが利用できると確認されるなら、資源となるのである。
だが、あらかじめどのような妄想が資源として利用できるかは不明であり、
試行錯誤によって確認してみる他ない。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 10:28:09.49 0
 日本語の「くや・し(悔し)」をそのように解釈した場合、現代の英語の
表現ともほとんど同じ発想をしていることになる。これは私の妄想/連想の
いたずらだろうか。

ttp://idioms.thefreedictionary.com/eat+away+at+one's+conscience
eat (away) at (someone's) conscience
To increasingly cause or inspire troubled feelings of guilt, especially
for an extended period of time.
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 10:34:17.76 0

言うまでもなく、この場合の「eat (away) at (someone's) conscience」の
適切な訳は、「くや・し(悔し」ではなく、「く(悔)やむ」や「く(悔)やまれる」
である。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 13:13:06.93 0

「まやかし」という表現は、「あやかし」の意味をさらに具体化するために
「あやかし」の「あ」を「(ま)目」で置き換えて作られた表現だろうと私
には思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 15:41:54.53 0

「や(止)む」という表現においても、なぜ方向性の作用を表すことを意図して
いると考えられる「や」が用いられ得るのかは、フランス語の「cesser」や、
それとはまた別の語源の表現である英語の「quit」を考えて見れば納得がいく
のではないかと思う。「と(止)まる」ことと「や(止)む」ことの用法の違い
は、岩波古語辞典でも指摘されており、「と(止)まる」ことが英語の「stop」
に相当するとすれば、「や(止)む」は、フランス語の「cesser」や英語の
「quit」との類比で考えることの方が適切である。

「部活をや(辞)めた」という表現における「やめる」は、「quit」であって
「stop」ではない。また、既に着手していることを途中で「やめる」場合、
「放り出す」や「手を引く」のような表現が用いられることが多い。
仏語の「cesser」の語源は、ラテン語の「cēdō ‎(“I withdraw”) +‎ -tō」であり、
ttps://en.wiktionary.org/wiki/cesso#Latin
さらに、語源をたどると、
ttps://en.wiktionary.org/wiki/cedo#Latin
From Proto-Italic *kezdō, from Proto-Indo-European *ḱiesdʰ- ‎(“to drive away; to go away”)
ということらしい。
いずれにしても、ドイツ語の「weg-」という表現で意図されるような「方向性」が
表現されていることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/30(月) 16:05:01.31 0
言葉の発音によって表現の意図が決定できるわけではないが、同一言語内で
類似した発音は、類似した意図を表すのに用いられることが多いため、発音に
ついて考察することは、表現の用法について省察するためのヒントを与えてくれる。
考える名無しさん [sage] 2017/01/31(火) 09:33:31.73 0
プラグマティズムの立場からは、次のようひ表現することができるだろう。

妄想を侮ってはならない。ここで私は「侮(あなづ)る(己つる≒自己に引きつける)」
という表現をその語源的な意味で用いている。妄想そのものは正しくもなければ、
間違ってもいない。惰性が侮りを生むのであり、それを解消するのが試行錯誤で
ある。試行錯誤によって侮りが解消されて整合的なネットワークを自ずと形成
する妄想が仮説となる。
考える名無しさん [] 2017/01/31(火) 17:29:22.80 0
保守のためにさらへageしときますね
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 13:15:30.99 0
ところで、「さら(浚)へ」は、隠れていた物が「露出するようになる」ことを
意味する「さら(浚)ふ」という動詞の活用であり、「さら(浚)ふ」は、
「さ(曝/晒)る」から派生させられた再帰形の動詞であると私は指摘した。
「さら(浚)へ」は、「あへ(敢)て」の「あへ」を「あ(合)ふ」の現在分詞
と見なすことができるように、「さら(浚)ふ」の現在分詞である(英語で
表現するなら「revealing」に相当するような意味を表している)と考えられ
るが、実際には、「さら(浚)ふ」という再帰形の動詞は、「さら(浚)へ」
を導き出すための私の想定であって、「さら(浚)ふ」という形で動詞が
用いられたかどうか私には確認できていないし、文献上で確認されている
かどうかも知らない。このような想定の手法を、記号論では、
「アブダクション」と呼ぶ。

現代語に「さら(浚)ふ」から派生したと見られる「(どぶ)さらへ」や
「おさらい」、「(あらい)ざらい」などの慣用句が残っている(と考え
られる)一方で、「さら(浚)ふ」という表現は残っていない。そればかりか、
その元となった「さ(曝/晒)る」も残っていない。これは、「さる」と
言う発音が「同音異義語」で頻繁に使われる「さ(去)る」と重なり、
したがって、「さら(浚)ふ」も、「連れ去る」という意味で使われる
「さらふ」という「さ(去)る」の再帰形と発音が重なって、混乱が生じる
ため、「さ(曝/晒)る」、「さら(浚)ふ」は、共存を許されなかったの
だろうと考えられる。古語において、「さ(去)る」は、英語で表現
するなら「move away」や「remove」に相当する意味で用いられている
わけだが、それに対して「さ(曝/晒)る」は、英語で「reveal」に相当
する意味で用いられている。この「さ(去)る」と「さ(曝/晒)る」に
おけるそれぞれの「さ」の関係について、また時間のあるときにさらに
書き込むことにする。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 13:22:19.17 0

「人さら(攫)ひ」の「さ(去)ら(合)ふ」は、説明するまでもなく、英語で
表現すれば、「take away(/remove) with oneself」を意味している。
考える名無しさん [] 2017/02/01(水) 13:43:30.28 0
余談だが、「そんな気はさらさらない」という時の「さらさら」と食卓に
置かれる「さら(皿)」も、「さら(浚)ふ」の「さら」が使役において
使われた「さら・す」に由来するのだろうと私は考えている。
「さらさら」≒「outright」である。
ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=outright
outright (adv.)
c. 1300, "completely, entirely; openly, directly; at once,
without hesitation," from out (adv.) + right (adj.1)).
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 18:25:48.95 0
さて、で「さ(曝/晒)る」が表現しているのは、英語の「expose」である
と説明した。これは、「さ(曝/晒)る」という表現の意図を現代の日本語で
引き継いでいると考えられる「さら(曝/晒)す」という表現が、ほぼ例外なく、
英語の「expose」に相当する文脈で使われるため、理解を助けるのに都合が
いいと考えたからである。しかし、「さらす」という表現のニュアンスを
強めているのが、まさに「す」という使役表現であるのだから、その「す」の
ニュアンスを除いて、「さ(曝/晒)る」をより適確に表現しようとするなら、
「さる」が表現しているのは、英語の「reveal」により近いことになる。
さらに、「〜る」そのものには、既に指摘したとおり、再動詞化の役割しか
ないので、「さ」そのものが「reveal」という様態/作用/動作を表現している
ことになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 18:43:04.28 0
そこで、「さ」≒「reveal」を想定すると、で列挙した「さ(去)る」、
「さ(曝/晒る」、「さ(咲)く」、「さ(裂)く」、「さ(刺)す」、「さ(冷)め」
のうち、 「さ(去)る」と「さ(刺)す」以外については、表現としてどのように
形成されたかを少なくとも私の妄想においては、容易に想像することができる。

「〜く」という動詞は、最も基本的であり、「〜」が表現する様態を自動詞
として表現する場合が大半である(参照すべきページは失念したが、岩波古語
辞典にも同様の解説がある)。すると、「咲く」は、いわば「reveal」という
様態の自動詞的用法であり、「花が咲く」ことは「revelation」として捉え
られていることになる。「さ(曝/晒る」という他動詞はそのまま、英語の
「reveal」という他動詞に対応し、「〜を裂く」という他動詞の用法は、
「さ(咲)く」が、「内側を見せるように開く」ことを意図するように流用
されることによって分化したのだろうと私には思われる。「さ(冷)め」や
「さ(覚)め」は、英語を用いるなら、「increasingly reveal」を意図する
ような用法から派生しているものと私は考える。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 18:46:50.94 0
「さ(刺)す」、「さ(刺)さる」、「さき(先)」という表現における「さ」に
ついて、表現としてどのように生じたのか、また上述の「さ」の用法と何ら
かのつながりが存在するのか否か、今のところ、私には何も分らない。
当面、私が気になっているのは「さ(去)る」の「さ」である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 18:56:47.29 0
「さ(去)る」が、英語の「move away」や「remove」に相当する意味で用いられ
ていることは、既に指摘した。ところで、そのように考えた場合、「さ(去)る」
と「さ(曝/晒る」の間に単なる「同音異義語」以上の関係を感じないだろうか。

少なくとも私には、「さ(曝/晒る」≒「reveal」が「さ(去)る」≒「move away/
remove」という動作の直接に結果として生じることが直ちに連想される。
「さ(曝/晒る」とは、覆っていた何かを取り除く、つまり、「さ(去)る」こと
である。ただし、私は、ここで、「さ(曝/晒る」という表現が、「さ(去)る」
という表現から派生したと主張したいわけではない。箱の喩えを用いるなら、
「さ(曝/晒る」と「さ(去)る」は、「さる」という同じ箱が、開口を上向きに
して置いた場合と、横向きして置いた場合のように互いに似ているように
私には感じられるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 19:05:35.21 0
現時点で私が想定している結論は、「さ」という表現が「reveal/remove」
のいずれをも意図しうる両義性を担っており、ちょうど「さ」という箱が
横に置かれるか、縦に置かれるかの違いによって生じるような用法の違いが、
「さ(曝/晒る」と「さ(去)る」という別々の表現をもたらしたのではないか
ということである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 19:20:05.40 0
ここで、ほんとんど誰にも通じないであろう駄洒落を言わせてもらうことにしよう。

記号論におけるアブダクション(abduction)は、それが真実(aletheia)を追求
しようとするなら、「人ささらひ」のようにではなく、「どぶさらへ」のように
行われなければならない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 19:24:31.89 0
>横に置かれるか、縦に置かれるかの違い(誤)
>横向きに置かれるか、上向きに置かれるかの違い(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/01(水) 20:47:23.62 0
「人ささらひ」(誤)
「人さらひ」(正)

時間があって書き込めるときは、大抵、少しアルコールが入っているから
忙しいときの合間に書き込むより、さらにろれつが回らない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 16:40:06.14 0
ところで、書き忘れていたが、に記したCarlos Vivesの曲の題名、
「La Gota Fria」とは「冷や汗」のことであり、私は、日本語の「あせ(焦)る」
は、「あせ(汗)る」が語源だろうと思っており、そう思ったきっかけも
この曲の歌詞である。これについて後で書く。
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 16:53:53.44 0
 駄洒落がもう少し分りやすくなるように書き直しておこう。

記号論におけるアブダクション(abduction)は、それが真実(aletheia)を追求
しようとするなら、「人ささらひ」≒「rapture」のようにではなく、
「どぶさらへ」≒「self-revealing」のように行われなければならない。
559訂正 [sage] 2017/02/03(金) 16:55:08.85 0
記号論におけるアブダクション(abduction)は、それが真実(aletheia)を追求
しようとするなら、「人さらひ」≒「rapture」のようにではなく、
「どぶさらへ」≒「self-revealing」のように行われなければならない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 18:19:26.82 0

あせ・る【焦る】 の意味
出典:デジタル大辞泉

1 早くしなければならないと思っていらだつ。気をもむ。落ち着きを失う。
気がせく。「勝負を焦る」「焦ってしくじる」

2 不意のことで動揺し、あわてる意の俗語。「乗り遅れるかと焦ったよ」

3 いらだって暴れる。手足をばたばたさせる。
「かの女房…狂ひ踊り―・りけれ」〈荏柄天神縁起〉
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 18:21:16.59 0
出典:デジタル大辞泉

冷や汗をかく
はらはらする。ひやひやする。気が気でないようすにいう。
「納期に間に合わないかと―・いた」
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 18:28:03.60 0
「あせ(焦)り」を生じるような状況で、「冷や汗をかく」という表現はよく使われる。
しかし、「あせ(焦)る」と「あせ(汗)」の発音の重なりにもかかわらず、この2つの
表現の間の語源的な関係は、一般に認められているとは言えず、岩波古語辞典に
おいても、「あせ(焦)り」を「あさ(漁)り」の転であると説明している。

だが、「あさ(漁)る」については、既に述べた語源的解釈が妥当であると私は考えて
いるので、「あさ(漁)る」から「あせ(焦)る」の意味を派生させるのは無理である
ように私には思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 18:36:01.37 0
ところで、Carlos Vivesの曲、「La Gota Fria」の歌詞を見ると、ちょうど
その「冷や汗」という表現が出てくる。「gota fira」とは、直訳するなら、
「冷たいしずく(滴)」である。
ttp://www.musica.com/letras.asp?letra=59489

Moralito, Moralito se creía
que él a mí, que él a mí
me iba a ganar
Y cuando me oyó tocar
le cayó la gota fría
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 18:54:53.14 0
この曲は、辻楽師の対決で自分が勝ったことを歌っているのだが、
その対決の相手の名前が「Lorenzo Morales」であり、「Moralito」は、
「Morales」に縮小辞を付けた呼称である。
引用した歌詞を適当に訳せば、「モラレスの奴は、俺に勝てると思い込んで
いたが、俺が演奏するのを聞くと、冷や汗を垂らした」ということになり、
「(奴の)狙いはしくじりに終わった(意訳)」という歌詞で歌が締めくくられている。
「冷や汗を垂らした」という表現は、字義的には外的な身体反応の描写に
過ぎないが、この表現が何を意図しているかは、解説なしでも日本語への
直訳でそのまま伝わるはずである。この反応をフランス語で表現するなら、
「décontenancé」になるのではないかと思うが、日本語で該当する表現は、
「あせ(焦)り」ではないだろうか。
考える名無しさん [sage] 2017/02/03(金) 19:07:17.51 0
英語においても「sweat(汗をかく)」は、「to undergo anxiety or mental or
emotional distress <sweat through final exams>」という意味で用いられる。
ttps://www.merriam-webster.com/dictionary/sweat

これらのことから類推して、私には、「あせ(焦)る」という表現は「汗をかく」
ことと語源的に結びついているのだろうと感じられる。さらに「あせ(汗)」と
いう表現そのものを取り上げると、「せ」は、「せ(急)く」や「せま(迫)る」
の「せ」と同様に、ドイツ語で表現するなら「drängen」のようなニュアンスで
用いられているのだろうと思う。「あ」は、この場合もやはり、「離れる」こと
を意図していると考えることができ、「あ+せ」で「abgedrängt」という表現
が思い浮かぶ。「abgedrängt」というドイツ語の表現自体は、「あせ(焦)る」
ことを意味するわけでも、「あせ(汗)」を意味するわけでもないが、「あせ」
が表現している作用/様態は、それに近いものだろうと私には思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/04(土) 18:04:38.47 0
答えを「さがす」ことと答えを「さぐる」ことは違う。
しかし、この違いがよく分らない人々が多くいる、というより、答えを
「さぐる」という行為そのものを極端に嫌う人々がいることを私は知っている。
私は逆に、答えを「さぐる」ために手がかりを「さがす」ことに関心はあっても、
答えを「さがす」ことには関心がない。むしろ、「さがす」ことは他人に
任せておきたいとすら感じているし、哲学の役割は、答えを「さぐる」ことで
あって、答えを「さがす」ことではないと思っている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/04(土) 18:16:49.18 0
興味深いことに、岩波古語辞典によれば、「さがす」は、もともとは「さ(曝/晒)る」
と同じような意味で用いられていたようで、「物をひろげて日にさらし、風にあてる
のが原義。転じて、中身をさらけ出す意」と記載されている。

「さがす」の語源的説明は、おそらく(文字通りの意味で)一筋縄ではいかないだろう
と思う。私の想像では、現代語の「さがす」という表現の用法自体が、「さぐる」
という表現との対比で形成されているのだろうと思う。「さがす」が「さ(曝/晒)る」
と極めて類似した意味で用いられていることから考えて、「さがす」は、「さ・がす」
であると思われ、例えば、「ころ・がす」が「ころ・がる」の使役表現であるように
使役表現であると思われるが、「さ・がす」の自動詞としての「さ・がる」という
表現は存在しない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/04(土) 18:27:22.25 0
「さく」という自動詞が「花が『さ(咲)く」』という特定の意味で用いられる
ようになる前に、「さかす」という使役形が用いられたものと想像して、
その後、「さく」が「咲く」という用法に特化されるとともに、「さ(咲)かす」
が「咲く」の使役形として用いられ、「さ(曝/晒)る」に類似した「さかす」
という表現が、「さぐる」という表現との類比から「さがす」の濁音になった
のではないかという妄想が浮かぶが、今のところ、それを裏付けるような
証拠や手がかりが私にあるわけではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/04(土) 18:35:41.40 0
いずれにしても、「さがす」は、さらけ出された物のなかから見つけ出す
ために「さらす」行為を表すように表現の意図が変化していったものと
考えられる。それに対して、「さぐる」という表現は、さらされていない、
つまり、目に触れていないところからの存在を知ろうとする行為にかか
わっており、語源的には「さ・く(繰)る」なのだろうと私は勝手に想像して
いる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/04(土) 18:48:06.55 0
ところで、「く(繰)る」という表現が、回転を表す「くるくる」という擬態語
と関係していることは明白であるように私には思われる。同様に回転を表す
擬態語に「ころころ」という表現があるが、「くるくる」の「くる」が回転軸
に視点を置いた見方を表現しているのに対して、「ころ」は、「ころぶ」、
「ころがる」、「ころがす」のように、「回転しながら移動すること」を
表現するのに用いられているものと私は考える。

ここで私が強調したい点は、「くる」と「ころ」の対比は、自転と回転移動
の対比ではないということである。例えば、「めぐ(巡)る」の「くる」は、
やはり回転運動を表現しているが、巡回を表現しているのであって、その場
での自転を表現しているのではないが、移動しない回転の軸に視点をおいて
見ているので、「くる」という表現が用いられる。「くるま(車)」は、車軸
を中心に回転するので「くる・ま」と呼ばれるが、「くるま(車)」を動かす
ことは「ころ・がす」と表現される。
考える名無しさん [sage] 2017/02/04(土) 19:09:48.17 0
私のように「さがす」ことよりも「さぐる」ことに関心がある人間が、一般に
「奇異」に思われることは偶然ではないだろう。継続的に「さぐる」という
行為が何らかの他人からはよく分らない軸を中心とした回転を感じさせ、
そのことが文字通り「eccentricity」を感じさせるのだろうと思う。
日本語では、「くる(狂)ふ」という表現があるが、「くるふ」は、「くる」
という作用/動作/様態の再帰表現だろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 09:34:42.07 0
答えを「さがす」ことと答えを「さぐる」ことの違いは、言わば、宝探しのため
の発掘と考古学調査の違いである。答えを「さがす」行為は、答えが見つかった
なら、それで目的が達せられて終わるが、答えを「さぐる」場合、求められて
いる「答え」は、「さぐる」行為によって明らかになる関係性の全体であって、
あらかじめそれがどのようなものであるか規定されているわけではない。答えを
「さぐる」ことに明確な終わりはなく、「さぐる」行為を終えることによって
のみ終わるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 09:56:49.39 0
岩波古語辞典で「さぐり【探り】」を引くと、万葉集から次の歌が例文として
引用されている。

「うつくしと思ふ吾妹を夢に見て起きてさぐるに無きがさぶしさ。」(万葉集2914)

で「さがす」という表現について、「ころ・がす」が「ころ・がる」の
使役表現であるように、「さ・がす」という使役表現だろうと述べた。
ここで、「ころ・がす」(使役)、「ころ・がる」(自動詞)、「ころ・ぶ」と
並べてみると、「ころ・ぶ」は、その形態から、「ころ」という作用/動作/
様態の再帰表現であろうと推測することができ、実際、「転ぶ」という動詞
は、現代語においても、「自らが転がる」という意味で用いられている。
すると、「ころ・がる」に類比される、「さ・がす」の自動詞としての
「さ・がる」は存在しないものの、「ころ・ぶ」との類比から、「さ・ぶ」
という再帰表現を想定することができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 10:17:14.30 0
引用した万葉集の歌に見られるとおり、「さび(寂)し」の古形は、「さぶし」
であり、「わ(侘)び(寂)び」の「さ(寂)び」や金属の「さび(錆)」は、
「さ(≒reveal)」という動作/作用/様態の再帰表現である「さぶ」の名詞化
であると考えることができる。また、「さぶし/さびし」は、「『さぶ/さび≒
(lying bare)』を生じる」と解釈することができる。

実際、岩波古語辞典で「さぶし【寂し/淋し】」を引くと、「荒涼とした感じ
である」と記載されており、以上の解釈は、辞書的な意味説明ともうまく合致
している。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 10:24:40.14 0
現代の日本語では、「さび(寂)しい」の「同義語」として「さみ(寂)しい」
も用いられるが、私は、このような発音の違いを単なる「音の変化」と見なす
べきではないと考えている。「び」が「み」に置き換えられることで、
表現の意図は、「ま行」の活用に移されることになり、「さみしい」の
「さみ」により、同様に「さ(≒reveal)」という要素を活用した、
「さ(冷)ます」、「さ(冷)める」、「さむ(寒)い」などの表現が連想により
想起され、そのようなイメージがもたらすニュアンスが、「さびしい」
という元の表現の意図と複合されることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 13:11:24.29 0

「わ(侘)び(寂)び」の「さ(寂)び」が、「さ・ぶ」という再帰表現に由来すると
考えるなら、当然、「わ(侘)び」の動詞形である「わ・ぶ」も再帰表現と考え
られることになる。「わ」および「わ(侘)びし」という表現については、
において既に書いたが、総合的に考えてみると、「わ・ぶ」という
表現において「わ」が表現しているのは、英語を用いるなら「minor」に関係
付けるのが最も適切であり、動詞/作用としては「diminish」ということに
なるのだろうと思う。つまり、「わぶ」は、「≒diminish oneself」と解釈
できることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 13:25:50.23 0
で述べたとおり、「あそ(遊)ぶ)」も同様に再帰形であると考えられるが、
この場合に再帰として捉えられている作用/動作/様態は、「あそ・ぶ」の
「あそ」ではなく、既に述べたとおり、「あ・そ(添)ふ」という形の表現に
おける「そ(添)ふ」である。「そ・ふ」の「そ」は、「そ(剃)る」や
「そ(削)ぐ」という表現では、「添加する」作用とは逆の作用/動作/様態を
表すのに用いられているが、離れることや、遠いことを表現するのに用い
られる要素である「あ」が、再帰形の「あふ」になると「合う」ことを表現
するのと同様に、再帰形で用いられることで表現される作用/動作/様態が
反転させられている。この反転は、「そ(反)る」の再帰形としての
「そ(沿)ふ」にも見ることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 17:17:10.37 0
答えを「さぐる」行為においては、新たな発見により、既に見出されている
ことの再検証がつねに要求されることになる。それと同時に、新たな発見は、
まだ見出されていないことについての手がかりをもたらすので、さらに
「さぐる」行為を続けることが自ずと促されることになる。

その一方で、組織においては、研究を促進することをその組織が明示的な
目標として掲げている場合でさえ、さぐる」行為をやめさせることは容易
である。研究が「何を見出すことを目的としているのか」をあらかじめ
明確に提案できなければ、研究を開始することを許可しないと宣告すれば
いいのである。そのことによって、研究においては、「さがす」行為だけ
が許されることになり、「さぐる」行為によって予期してもいなかった
ことが見出されるのを未然に防止することができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/05(日) 20:23:04.61 0
組織が階層化を形成し、維持しようとするなら、「さぐる」行為は、それが
偶々、見出す事物が組織にとって危険なことがあるというようなものではなく、
本来的に組織にとって危険なのである。
考える名無しさん [] 2017/02/06(月) 03:17:08.69 O
ttp://plaza.rakuten.co.jp/thisman/
美魔女 [] 2017/02/06(月) 04:06:42.13 0
世界も人間もすべて記号化しないとダメですよ♪

言葉や思考、行為、すべてに限界がありますから。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 08:43:08.91 0
“Upon this first, and in one sense this sole, rule of reason,
that in order to learn you must desire to learn, and in so desiring
not be satisfied with what you already incline to think, there
follows one corollary which itself deserves to be inscribed upon
every wall of the city of philosophy:

Do not block the way of inquiry.”

― Charles Sanders Peirce
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 08:47:59.05 0
コモンセンスを追求しようとするなら、さぐる途を塞いではならない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 18:34:28.69 0

ところで、「〜あふ」、「〜ふ」だけでなく、「〜ぶ」という形も再帰表現と
して用いられていることが意識されると、日本語において再帰表現は、少なく
とも語源的には、かなりの広がりを見せている可能性が見えてくる。関連する
記号論スレッドに書き込み始めた頃、まだ私は日本語における再帰表現に
ついての認識は、極めて曖昧なものに過ぎなかったが、ここまで書き込みを
進めてきて、日本語の表現において再帰表現は、周辺的であるよりも、むしろ、
その中核を成しているという印象を抱くまでになっている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 18:47:29.35 0
「〜ぶ」が再帰表現として認識されると、さらに「〜ぶる」も再帰表現として、
または再帰表現の{〜る」による再動詞化として用いられていることが見えて
くる。

例えば、「か(掛)ける」、「か(掛)かる」、「かぶ(被)る」と並べてみると、
他動詞の「か(掛)ける」、自動詞の「か(掛)かる」との関係で、「かぶ(被)る」
が再帰形として用いられていると解釈することができる。

しかし、岩波古語辞典を引くと、「かぶ(被)る」は、語源的に、「かがふり」→
「かうぶり」→「かぶり」の転として説明されており、「かがふり」の語源を
どのゆに解釈するにせよ、この説明に従うなら、「かぶ(被)る」が、
「か(掛)ける」、「か(掛)かる」に関係する再帰表現であるという解釈は、
直ちに否定されることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 19:08:57.95 0
私は、「かぶ(被)る」という表現の由来を「かがふる」という古語に求める
ことに何ら異論があるわけではない。むしろ、このような説明に対して私が
感じる違和感は、より原理的である。表現の発音の変化について「Xは、
Yの転」と説明することは、あたかも「Y」と発音される表現が、その表現の
意図を保ったまま、「X」という発音に自ずと変化するかのうような印象
を与える。しかし、表現の発音は、暗黙に変更、修正されることはあっても、
表現の意図と無関係に変化することはないと私は考えている。たとえ、
それが、「すべて明瞭に発音しなくても伝わる表現は、省略して発音して
方がいい」という意図であったとしてもである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 20:32:17.78 0
言語表現の発音の変化は、言葉を使う個人がそれを望もうと望むまいと生じる
という意味では、「自ずと変化する」ということができる。だが、発音が
「自ずと変化する」ことは、意図と無関係に変化することを意味しない。
言語表現の発音は、「発音により相手に伝わる意図に応じて変更調整が
行われる」のである。

例えば、頻繁に使われる表現は、語源的表現要素をすべて明確に発音しな
くても、意図が相手に伝わるので、しばしば、発音は短縮され、逆に
すべての語源的要素を明瞭に発音することの方が、相手に格式ばった
対応を求めるような意図を伝えることになる。ところで、それが省略
であれ、より柔らかい印象を与えるためであれ、変更調整されてもたら
される新たな発音は、既存の他の表現との新たな関係を獲得することになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 21:12:54.90 0
「さび(寂)し」が「さみ(寂)しい」と発音されるようになることには、
「さび」が語源的に「さぶ」という再帰表現に由来する(であろう)と
いう意識が消えたことに関連していると思われるが、「び」が「み」
に移されることにより、「ま行」の「さむい」、「さめる」、「さます」
などとの関係が想起されることなるのは、既に指摘したとおりである。

現代語の表現において、「水をかける」、「水がかかる」、「水をかぶる」
と並べた場合に、「か・ぶる」には、「たか(高)ぶる」や「くすぶ(燻)る」
などの表現の場合と同様に、明らかに再帰表現としての意図が働いている
ように私には感じられる。

ただし、「かぶる」が「かかる」や「かける」とは異なる、頭に関係する表現
であることは、現代語においてもはっきりと意識されている。私は、その違い
を否定するつもりはまったくない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 21:33:10.72 0
再帰表現としての「〜ぶる」の最初の例としてあまり適切でない曖昧な例を
選んでしまっったので、説明が複雑になり、自分でも少し泥沼にはまった感じ
がするが、表現が一元的な構造的解釈を許さないことは、むしろ、
ブリコラージュとしての言語の本質であり、表現の意味は、語源的な意味
に還元されるわけでも、新たに生じた共時的な関係性だけに依存するわけで
もなく、遺産として引き継いでいる用法と、現時点での類比関係から生じる
ものとして推測される意図の複合である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/06(月) 21:41:53.81 0
「〜ぶる」という形をとる再帰表現の候補として、
「つめる」、「つまる」、「つぶる」
「しめる」、「しまる」、「しぶる」
という関係は、検討してみる価値があるのではないかと考えている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/07(火) 01:00:07.00 0
で「アタ(仇・敵)、アタナヒ(寇)・アタヒ(能)・アタヒ(価)・アタヘ(与)
・アタラ(可惜)・アタラシ(可惜)・アタリ(当)」などに見られる要素である
「あた」について少し触れたが、「あた(能)ふ」は、フランス語で表現する
なら「mériter」や「être en mesure de 〜」に相当するような意味で
用いられ、岩波古語辞典にも「アタアヒ(合)の約」と説明されるように
「あた」という作用の再帰表現であると考えられる。

「あた」が何を表現していたのかを特定するのは、容易ではないが、
「あた」を用いた表現が、「能力」や、物理的に「当る」ことや、
「対応する」ことに関係することから考えると、現代語の「手あたり次第」
という表現からも連想されるように案外、単純に「あ・た(手)」であった
のではないかという気もする。「あたた(暖/温)か)」という表現の「あた」
が同じ要素であったかどうか不明だが、岩波古語辞典では、「アタアタカ
の約。アタはアツ(熱)と同根」と記載される。「あた・あた・か」の
「あた」からまず私に連想されるのも、手の「あたたかさ」である。
無論、これは推測というよりも、単にそんな気がするという程度のこと
に過ぎない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/07(火) 04:21:18.08 0

いくら具現化し具体化し比喩を述べて分析しても、
それは理解するものじゃないよ
考える名無しさん [sage] 2017/02/07(火) 10:22:23.24 0
「あたひ(値)」、「あた(当/)る」、「あた(能)ふ」の「あた」がフランス語で
表現するなら「adéquation」に近い感覚で用いられていることは明白なんですよ。
問題は、「あた」がどのようにしてそのような感覚を「具体的に」表現していた
のか。それを知ろうとするのが、表現を探るということ。いわば、表現行為の
リバース・エンジニアリングです。
考える名無しさん [sage] 2017/02/07(火) 15:15:46.53 0
「アタラ(可惜)」、「アタラシ(可惜)」という表現においても、「あた」
自体は同様に、「adéquation」に近い感覚で用いられている。よく分らない
のは、「ら」および「らし」という語法の方である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/07(火) 23:35:55.53 0
「わび(侘)し」の「わ」、英語の「minor」に相当するものと考えて、「わぶ」を
「≒diminish oneself」と解釈することが妥当であると感じられるようになる
と、「わか(若)」という表現は、そのまま英語の「minor」にぴったり合致する
ので、残るのは「か」をどのように理解するかという問題だけであり、
「わづ(僅)か」については、「〜か」は「様子」を表すものと考えられ、
「つ」に関しては、以前に述べたとおり、フランス語の「tenir」に相当する
動作/作用/様態を表しているものと解釈できるので、英語にするなら、
「holding little」とでも訳すことができることになる。さらに、
呼称において用いられている「わ」は、文字通り縮小辞(diminutive)として
作用するように使われているので、それ以上の解釈を必要としない。

この「minor」として理解できる「わ」は、他にも「よわ(弱)」、「やわ(柔)」、
「わす(忘)れ」などのマイナスの作用が関係する表現や、さらには、
「くは(詳)し」の「わ」に近い発音で「細かいこと」、「小さいこと」などが
関係する表現にも関係していないか広く検討してみる必要があるように私には
感じられる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 09:16:05.29 0
「わづ(僅)か」の場合と同様に「しづ(静)か」も「holding still」という
様子を表現していると見なすことができるので、同じ「つ」の用法であると
考えることが可能である。ただし、ここで「しづ(静)か」の「し」が「still」
と訳したのは単に説明の便宜のためであり、「し」がどのような作用/動作/様態
を表すことを意図していたのかは、あらためて注意深く検討する必要がある。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 10:07:49.54 0
現代の日本語のかな遣いは、日本語に対する反省を妨げるような意図的とすら
思えるほどの不必要な混乱をもたらしている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 11:18:02.58 0

逆に言えば、日本語の「つ」の用法をより自覚的に理解することは、フランス語
の「tenir」の用法や、さらにより広くは、ラテン語の「tenēre」に語源をたどる
ことができる英語の表現を理解する大きな助けとなる。下手な早期外国語教育
を導入するより、日本語のかな遣いの正常化を教育改革として行った方が、
よほど国際化の役に立つのではないかと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 11:29:46.21 0

in order to learn you must [...] not be satisfied with what you already
incline to think

これを意訳すると、「学(まな)ぶためには、侮(あなづ)りは禁物である」となる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 13:44:21.74 0

「し(死)ぬ」は、単純に考えて「become still」を表現しているように思える。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 13:46:21.62 0
縁起のいい話ではないが、英語で死産のことを「stillbirth」と表現する。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 14:06:25.63 0
ところで、「な」は、「なつく」、「なれる」、「なでる」などの多くの
表現において近接性を表す要素として用いられていると考えられるが、
「な(成)る」という動詞では、「become」という作用/動作/態様を担って
いることになる。すると、「し(死)ぬ」における「ぬ」のように
「な、に、ぬ、ね、の」の系列はやはり、「be-come」を表しているの
だろうか。これは、今のところ、単なる疑念である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 14:23:57.88 0

岩波古語辞典において「しづ(静)か」の「しづ」と同一の語源をによると
される「しづく(滴)」にも「holding still」という解釈が当てはまるように
思える。ここで「思える」と言っているのは、印象を書き記しているだけ
であり、検証しているわけではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 22:39:59.91 0
このように「し」について書いていても、私の印象はまだ、そうであるかも
しれないし、そうではないかも知れないという程度に漠然としている。
それは、「しずか」、「しずく」における「し」や、それと共通する可能性
も考えられる「しぬ」の「し」の用法が、他の表現との類比において構造化
されて見えていないからである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/08(水) 22:49:45.90 0
ところで、以前、「鎧兜」の「よろひ」も、「寄り+あふ」の名詞化として
再帰表現と考えることができ、英語で表現するとしたなら、「suite」に
相当すると書いたことがあるが、英語でもやはり「鎧」は、「よろひ」で
あることに気づいた。ただし、「鎧」の場合には、「suite」ではなく、
それと同じ意味で「suit」が用いられ、「suit(=よろひ) of armour」と
表現される。
考える名無しさん [sage] 2017/02/09(木) 08:16:20.61 0

ここからすぐに連想される「スーツはビジネスマンの鎧」という句を検索して
みると、やはりいくつものサイトがヒットした。
考える名無しさん [sage] 2017/02/09(木) 08:29:51.36 0
英語で言うならfit/unfitに相当する区別を表すのに用いられることの多い
「良し/悪し」は、語源的には、「よ(寄)し/あ(離)し」(≒close/far)を
表していたものと私には思えるが、そう考えた場合、「よ(寄)し/あ(離)し」
の区別は、英語で「探しているものに近いか遠いか」を言い表す場合に用い
られ、hot/coldの区別に類似した発想であることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/09(木) 11:48:07.97 0
「探しているものに近いか遠いか」を言い表す場合に用いられ、
hot/coldの区別(誤)

「探しているものに近いか遠いか」を言い表す場合に用いられる
hot/coldの区別(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 14:58:36.51 0
「産着(うぶぎ)」や「産湯(うぶゆ)」という表現における「うぶ」は、古語で
あるが、現代の日本語の表現においても「ウブな〜」のように比較的頻繁に
用いられ、「ナイーブな」と言い換えられることも多い。

岩波古語辞典で「うぶ【産】」を引くと、例の如く「ウムの転」と記載されて
いるが、もう説明するまでもなく、「うぶ」は、「う(産)む」(能動形)、
「う(産)まれる」(受動形)に対する再帰形の表現であり、「うまれたばかり
である様態」を表すのに用いられている。言い換えとしして用いられる
「ナイーブ(naive)」の意味もまさに「just born」を表すように用いられ、
辞典の説明よりも、実際の表現の用法における人々の理解の方が適切である
ことになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 18:59:43.19 0
日本語の表現の意味を解釈する際に、その表現を書き写すのに用いられている
漢字が果たしている役割は極めて大きい。日本語を書き記すのに漢字を用いる
のをやめて、平仮名だけを用いるようにした場合、特定の音のつながりが
どの言葉を表しているのか、見た目で判別することができず、文脈から判断
することになり、読む側にとって非効率となる。

したがって、日本語を書くのに漢字を用いることは非常に便利であり、
不可欠であるとさえ言えるが、その一方で、漢字熟語ではない日本語の
表現に割り当てられている漢字が、メタ言語であり、当て字に過ぎない
ことを忘れると、日本語の表現の意図が、用いられる漢字の意図に覆い
隠されて見失われる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 19:18:02.38 0
例えば、「埋める」という表現を考えて見よう。「うめる」と書いたのでは、
これが「埋める」であるのか、「産める」であるのか判断がつかない。
そこで「埋める」と書くわけだが、「埋める」という表現は、どのような意味
を表しているのだろうか。漢字からすぐに連想されるのは、「地面に穴を掘って
何かを入れ、土を上からかけて覆い尽くす行為」だろう。すると、「埋める」
は、英語を用いるなら「bury」ということになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 19:41:19.29 0
ところが、「うめる」には、「赤字を埋める」や「欠員を埋める」という
用法もあり、これらの場合には、「赤字」や「欠員」などの「欠損」を
「充填する」というニュアンスで「うめる」という表現が用いられる。
これらの場合にも「埋」という漢字が用いられることによって、問題に
なっている「欠損」が「開いた穴」に喩えられて捉えられることになる。
ただし、英語で対応する表現を考えてみるとすぐに気づくとおり、これら
の場合の「うめる」は、「fill(充填する)」であって、「bury」ではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 21:27:41.90 0
そこで岩波古語辞典で「う【埋め】」を引いてみると、「@穴や窪みに物を
入れて一杯にする」、「A水を加えて、ぬるくする。また、うすめる」と
記載されている。

現代の日本語でも「湯を水でうめる」という表現が用いられるが、岩波古語辞典
にはさらに、「酒に水をうむる」という文例が引用されている。私にはまだ、
@の用法とAの用法の関係がうまく理解できているわけではないが、いずれに
しても、「うめる」という表現が意図しているのは、「充填する」ことの
方であって、英語の表現を用いるなら、「fill 〜 with 〜」ということに
なり、「(土などを)覆い被せる」ことではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 21:51:19.47 0
私は、日本語の表現に当てられている漢字は、メタ言語であると指摘した。
つまり、「埋める」という表現の場合、「う」に当てられている「埋」が
これに相当し、私は、メタ言語として漢字を使う代わりに英語を使って、
「埋」を「fill」で置き換えたことになる。ここで、この置き換えがどの
ような効果をもたらすか、「ま行」の活用を利用して考えてみよう。

ま、み、む、め、も
う(埋)ま〇、う(埋)み●、う(埋)む△、う(埋)め〇、う(埋)も〇
う(fill)ま〇、う(fill)み?、う(fill)む?、う(fill)め〇、う(fill)も×
表記が不統一だったので訂正 [sage] 2017/02/10(金) 21:54:01.95 0
ま、み、む、め、も
う(埋)ま〇、う(埋)み●、う(埋)む△、う(埋)め〇、う(埋)も〇
う(fill)ま〇、う(fill)み△、う(fill)む△、う(fill)め〇、う(fill)も●
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 22:24:21.16 0
ここで〇を付けたのは、「う(埋/fill)まる」のように「う」をそれぞれの
メタ言語で置き換えて意味が通ると考えられる事例である。「う(埋)む」に
△を付けたのは、「酒にを水を埋むる」という用例があるにしても、この場合
の「埋むる」は、「埋める」の変種に過ぎないと考えられるからである。
●を付けた「う(埋)み」については、「埋み」も「埋みる」も成立しない。
〇を付けた「う(埋)も」は、 「埋もれ」として通用するが、これに対して、
●を付けた「う(fill)もれ」は、極めて分りにくい。これは、「うもれ」が
受動的な表現となっており、「うめられた状況にある」ことを表している
からである。この場合には、「fill」ではなく、「bury」を用いるべき
ことになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 22:34:52.67 0
ではなぜ、私は、「う(fill)み」、「う(fill)む」に△を付けたのだろうか。
日本語にこれらに相当するような表現が存在するのか、と問われることに
なるだろう。

私には容易に答えが思いつく。「う(fill)み」とは、「膿(うみ)」≒「filling」
であり、「う(fill)む」とは、「う(倦)む」≒「be filled up with 〜」
(ただし、英語の適切な表現としては、≒「be fed up with 〜」)である。
また、「う(倦)む」を名詞化した「う(fill)み」も成立することになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 22:40:55.25 0
この発想が突飛に見えるとしたら、それは、メタ言語としての「埋」という
漢字に縛られているからだと私は思う。メタ言語として最初から「埋」の
代わりに「fill」を用いていれば、誰にでも自然にこのような連想が生じる
はずである(と少なくとも私は感じる)。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 23:13:43.98 0

「うめる」のAの用法「水を加えて、ぬるくする。また、うすめる」に
相当する普通の英語の表現は、「dilute」だろう。

「fill」との連想からは、「dilute」と語源的である「diluo」から
派生した
>diluvium (plural diluviums or diluvia)
>An inundation or flood
が想起され、ttps://en.wiktionary.org/wiki/diluvium#Latin
「flood with water」という表現が思い浮かぶ。
これは、今のところ、ただの連想ゲームである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 23:14:47.39 0
「dilute」と語源的である(誤)
「dilute」の語源である(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 23:16:52.74 0

「酒にを水を埋むる」(誤)
「酒に水を埋むる」(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/10(金) 23:44:05.56 0
日本語の表現の意図を考える際、記述のためのメタ言語として、従来、割り当て
られてきた漢字だけを頼りにしなければならない理由は、原理的にはどこにも
ない。むしろ、漢字に頼ることは、異なる漢字が割り当てられている表現の
間の構造的な関係を見落とすことにつながる。その一方で、日本語の表現を
別の日本語の表現で、しかも、漢字を使わずに記述することは不可能である。
なぜなら、そのことによって表現の意図がずれてしまうからだ。したがって、
日本語の表現の意図を適切に捉えようとするなら、そのために用いられる
メタ言語は、必然的に多言語的でなければならないのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/11(土) 07:42:25.15 0
日本語の表現の意図は、漢心(からごころ)=漢意を排して、大和心(やまとごころ)
=大和/倭(わ≒"minor")意を求めることによって見出されるのではない。
絶えず真心(まごころ)=真意を探究することによってのみ近似され得るのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/11(土) 19:51:18.27 0

「う(埋)める」という表現に関する私の説明は、多くの人には既に十分に突飛に
見えるかもしれないが、私の妄想に照らせば、前述の説明はまだまったく不十分
である。私には、「うまる」、「うめる」、「うみ」、「うむ」、「うもれ」
が互いにどのような関係で表現として形成されたか、さらには「う(浮)く」
および「うへ(上)」という表現とどのように関連しているのかすら、容易に
構造的に連想されるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/11(土) 20:08:02.09 0
「う(埋)める」という表現を説明するのに、私は「埋」という漢字の代わりに
英語の「fill」をメタ言語として用いた。だが、この記述は、私自身にも
不正確であると感じられる。より「うめ」という表現を英語で忠実に言い表そう
とするなら「make (it) full」と言わねばならず、「う」は、「full」によって
代表されるような作用/動作/様態を表すことを意図していることになる。

「うめ」が最も基本的な形であり、英語では「make (it) full」として、
仏語では「remplir」として、独語でなら「fullen」として説明される。
「うめ」からまず派生するのが「う(膿/倦)む」であり、仏語で
「se remplir」として、独語で「sich fullen」として再帰形を用いて
直訳され、英語では「become full」と訳されることになる。仏語、独語
で再帰形になることを考慮すると、「〜む」は、「〜め」の再帰形である
ことが示唆される。「う(膿/倦)み」は、言うまでもなく、「う(膿/倦)む」
から派生し、仏語の「se remplissant」によって最もうまく表現される
ように感じられる(もしかしたら、「うみ(海)」も≒「se remplissant」
なのではないかとすら思う)。
考える名無しさん [sage] 2017/02/11(土) 20:15:10.54 0
「うまる」は、その形からして「〜る」を用いて再動詞化された表現であり、
「うめ」から「う(膿/倦)む」が(再帰形として)形成された後に、「自らが
一杯になる」を意図する「うむ」と区別して、より単純に「一杯になる」を
表現するために形成された表現であると思われる。さらに、「うもれ」は、
「うまる」という表現が形成された後に、「うまる」が「も(盛)る」という
表現に由来するイメージと複合されて形成されていると考えられる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/11(土) 20:33:33.80 0
「う(浮)く」という表現は、語源的には、「うむ(≒自らが一杯になる)」という
作用/動作/態様により、表面が上(うへ)にあがる(「離(あ)かる」に関連するの
だろうか)ことを表すことを意図していたものと考えられる。

さらに妄想による暴言を吐かせてもらうと、「うへ/うは」は、「う(浮)く」と
いう表現で「う」が帯びることになる「(自らが一杯になって)表面が上にあがる」
という意味合いを利用して、(存在が確認されていない)「うふ」という再帰形の
表現が(その形で用いられたかどうかは別にして)想定されて、そこから「うは」
および「うへ」が導かれたのだろうと思う。

ここまで妄想が進むと、「うぶ(産)」は、その妄想される「うふ」に由来して、
他動詞の「(産)む」は、「うぶ」から逆に導かれた表現ではないかとさえ思えて
くるが、さすがにこれは私の通常の妄想の限界も超えていることになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/11(土) 20:38:26.42 0

より「うめ」という表現を英語で忠実に(誤)
「うめ」という表現を英語でより忠実に(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 08:16:04.16 0
「う(浮)く」という表現の通常の再帰形は、「う(浮)かぶ」であるが、
「う(浮)く」が仏語で表現するなら「flotter(浮く/漂う)」として多用される
ようになる以前に語源的に「(一杯になって)表面が上にあがる(仏語で表現する
なら『se lever』)」ことを表すように用いられていたと想定すると、
「う(浮)く」という表現においてその動作/作用/様態を担う要素と見なされる
「う」を利用して、「flotter(浮く/漂う)」という意味合いを強く帯びるように
なった「浮く」と区別して、再帰性を強調するように「うふ(se lever)」という
表現が形成され、または想定されて、そこから「うは/うへ(上)(≒se levant)」
が導き出されたと考えることは、いつもの私の妄想の範囲内である。だが、
「うふ(se lever)」は、単に想定されただけで、忘れ去られたと考えるのでは
なく、「うぶ(産/初)」という形で残り、そこからさらに逆形成(back formation)
として他動詞の「う(産)む」が導かれたと想定することは、私にそのように
連想されるというだけで、他に根拠がなく、幻想(ファンタジー)に属すると言える。
しかし、この幻想としての想定は、私にはとても魅力的に映(うつ)り、その理由も
明確に説明することができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 08:25:05.26 0
「古事記」の最初には次の記述がある。

>国稚(わか)く浮きし脂(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なす漂える時、
>葦牙(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物によりて成れる神の名は、
>宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢの)神。
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 08:56:33.52 0
この記述は、宇摩志阿斯訶備比古遅神がどのように「う(産)まれ」たのかを
説明している((言うまでもなく、「う(産)まれ」は「う(産)む」の受動態で
ある)。ここで私はこの神の固有名について考慮しているわけではない。
私が注目しているのは、「稚(わか)く」、「脂(あぶら)の如く」、「浮(う)き」、
「海月なす」、「萌(も)え騰(あが)る」、「成れる」の関係である。
ここで、「海月」は、「くらげ」と読まれるが、用いられている漢字は、
「海(うみ)」と「月(つき)」であり、「海(うみ)」は既に述べたとおり、
「膿(うみ)」と同様に仏語の「se remplissant」である可能性が感じられ、
いずれにしても、「海」も「月」も「満ちる」ことを示唆しているように
感じられる。「満ちる」こと、つまり、「一杯になる」ことを表す表現
が「う(倦/膿)む」であり、「一杯になる」ことによって「表面があがる」
ことが「う(浮)く」ことの語源であると私は述べてきた。
「脂(あぶら)の如く」という表現は、まさにそのような状態を(この文例
では、まさに「うみ(海)」に関連付けて)表している。さらに、その
「浮いて漂う」状態から、「うへ(上)」に「萌(も)え騰(あが)る」物に
より神が「う(産)まれる」のである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 09:13:41.08 0
このような関係を考慮すると、に引用した記述は、単に物語のエピソード
というより、日本語の表現の語源的な関係をメタ言語的にアレゴリーとして
記述したものであるように私には感じられる。無論、これは、私にそう感じ
られるというだけのことであって、それ以上の根拠があるわけではない。
ただ、このような幻想を裏付ける根拠が見つかったとしたらニート(neat)だな
と思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 15:51:18.42 0
>「浮いて漂う」状態から、「うへ(上)」に「萌(も)え騰(あが)る」物に
>より神が「う(産)まれる」のである。

うかつに「う(産)まれる」と書いてしまったが、「な(成)る」ことを
「う(産)まれる」と言い換えることは誤りであることに気づいた。
古事記の最初の箇所での記述は、明らかに意図的に「う(産)まれる」という
表現を避けている。古事記の論理では、「う(産)む」ことが可能になる
前提条件として神が「な(成)る」ことを必要とし、「な(成)った」神が
「あ(合)ふ」ことが、すなわち、「う(産)む」ことになる。つまり、
「成り成りて成り合ふ」こと、成ることの再帰性が、「う(産)む」ことで
あると記述されているように読める。
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 21:51:55.99 0
怠慢で辞書で確認していなかったのだが、岩波古語辞典で「うみ【海】」を
引くと、「広広と水をたたえた所」と記載されていることに気づいた。
したがって、私が「うみ(海)」という発音だけから推測した、「うみ」は、
仏語の「se remplissant」に相当するのではないかとする妄想は、辞書の
説明とも最初から合致していたことになる。しかし、私の知る限り、
「うみ(海)」が「う(埋)め」から派生した「うむ」という再帰形の動詞の
名詞化であることは、これまで誰も指摘していない。これこそが、日本語の
表現の意味を明確化するために漢字をメタ言語として使うことの負の効果
である。漢字の代わりにメタ言語として仏語が使われていたとすると、
「う(埋)め」は、「う(remplir)め」と記述されることになり、その場合に、
「うみ」が指すのが「広広と水をたたえた所」であると理解されながら、
「うみ」≒「se remplissant」であるという解釈が自然に生じないことは
まずあり得ないだろうと思う。日本人が仏語を学び始めてからこれだけ長い
月日が経つのに、これを誰も指摘しているように見えないことは、日本人
が日本語についていかに無反省であるかを示している。
考える名無しさん [sage] 2017/02/12(日) 21:55:10.53 0
誤解のないように付け加えると、既に述べたとおり、私は漢字をメタ言語として
用いるなと主張しているのではない。漢字は、日本語の意味を解釈する際の
メタ言語の1つにすぎず、それ「だけ」に固執することが、日本語の表現の意図
を見失わせることになっていると指摘しているのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 04:28:08.14 0
近代の言葉で評価しているのに古語を持ち込みだした、
では古語をそれを表現してみろ、お前のそれはまったく意味不明になるから。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 08:29:28.53 0

なぜ複数のメタ言語で解釈すると意味不明になるのか理解できませんね。
複数の解釈が生じて、その複数の解釈の関係を示すことが求められるだけでしょう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 08:41:21.37 0
「うみ(海)」≒「se remplissant」であったとしたところで、結局、辞書に
説明されるとおり、「うみ」は「水をたたえた所」を意味することになるの
だから何も変わらないではないか、と思うかもしれない。しかし、それは違う。
「うみ」が語源的にそのような意味合いを明確に表していることが意識されて
使われていたとすると、同じく「海」を表すのに用いられたとされる
「わたつみ」という表現に現れる「わた」が「うみ」と等価であったと
考えるのは妥当でないことになる。「わたつみ」も「わたつうみ」という
表現も「わた」自体も再解釈を迫られることになるだろう。

「近代の言葉」として「わたつみ」は、辞書や教科書の記載に沿って
「わたつ(海の)霊(み)」を意図するものと理解されて用いられたのだから、
「古語を持ち込む」のは意味がない、ということもない。「わた」が
近代において、そのような意図を表現するように用いられたとすれば、
「わたつみ」は、「学校で教えられたとおりの意図を表す」意図を反映
し表現ということになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 08:57:02.42 0
反映し表現(誤)
反映した表現(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 18:37:24.27 0

「う(埋)め」という表現を記述するためのメタ言語として、「埋」→
「bury」(英語)→「fill」(英語)→「full」(英語)→「remplir」(仏語)の
順をたどって検討してきたが、「う」を記述するメタ言語はさらに磨く
ことができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 18:45:41.70 0
私は、「う(埋)め」を「う(remplir)め」と記述したが、言うまでもなく、
「remplir」に相当するのは「うめ」という動詞であって、「う」ではない。
この場合に「う」が表している様態は、同じく仏語を用いるなら「plein」
ということになる(ただし、ここで私は、「う」そのものは、動作や作用
ではなく、様態を表していたと主張したいわけではない。そのような区別
は用法から生じるのであって、「う」そのものにそのような弁別性が
備わっているわけではない)。英語でこれを名詞化して表現するなら、
「う」は、「plenitude」を表すことを意図していると言えるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 18:51:47.95 0
さて、以前に私は、古語の「うまし」という表現がまず間違いなく幼児語の
「うまうま」や「まんま」とも関係し、英語で表すなら、「richness of taste」
と表現することができるだろうと述べた。さらに、次の文例、

>うまし国そ蜻蛉島 大和の国は (舒明天皇 巻1-2)

を引用して、この場合も「うまし」は、「richness」を表しているのだろう
と述べたことがある。ところで、「う(plenitude)め」を検討した今となって
振り返ってみると、「うまし」の「う」は、「うめ」の「う」と共通した
「plenitude」のイメージを表していることに気づく。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 19:04:42.94 0
さらに、「う(plenitude)」により「(表面が)う(浮)く」ことから生じた「う」
のニュアンスから、「うぶ」が再帰形として形成され、そこから「う(産)む」
という他動詞が逆方向に形成された可能性を幻想してきた今となっては、
「うまし」の「うま」が「うまれ」の「うま」と重なっていることに気づく。

ここから、「うまし国」という表現が想起したであろうイメージを「想像する」
ことができる。「うまし」は、まずなによりも「plenitude of taste」に
関連する表現であるが、「うまれ」の「うま」と発音が重なることで、
同じく英語で表現するなら「produce(生産物)」のイメージも想起することに
なる。結論として、「うまし国」の「うまし」は、「plenitude of taste/produce」
という二重の意味合いを帯びていたのだろうと想像される。
考える名無しさん [sage] 2017/02/13(月) 19:12:22.46 0
幼児語の「うまうま」との関連について述べると、「う」という発音が表現
する「plenitude」のイメージが、幼児語に由来すると「起源的に」考える
べきではないだろう。むしろ、まだ言葉を話すことのできない幼児の発音
が「うまうま」という「疑似的な言葉」を発声していると認識される限りで、
その「う」が、母乳をもらって「満足感(≒plenitude)を表現している」か、
またはお腹を空かせて、やはり「満足感(≒plenitude)を求めている」と
大人が解釈していると考えるべきであり、その場合に、「う」が他の表現
における「う」と同じ表現の要素として共通で認識されていることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 00:48:11.05 0
ここまでくると、私の妄想はブレーキの効かない状態である。

「(満ちることにより)表面が上がる」ことが「う(浮)く」ことの語源的な意味
であり、その再帰表現として「(満ちることにより)自ずと表面が上がる」ことを
表す「うふ」または「うぶ」を想定し、仏語で表現するなら「se lever」に
相当することになると述べた。

ところで、「うば(奪)ふ」は、私には「うぶ+あふ」という形をしているように
見える。実際、「うば(奪)ふ」は、何かを自らのものにするという意味合いを
伴う再帰形の動詞であると考えられる。すると、再帰形として形成されたはずの
「うぶ」が、英語では「lift up」に相当するような他動詞と見なされて、
「自分のために」という意味を加えるように再び再帰化されたことになる(無論、
「私の幻想においては」という条件付きで)。そのように解釈した場合、
「うば(奪)ふ」は、語源的には「強引に」というよりは、「万引き」=
「shoplifting」や「す掏り」=「pickpocketing」のように「掠め取る」
という意味合いで用いられたのではないかと妄想される。
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 08:37:25.00 0
学研全訳古語辞典

うば・ふ 【奪ふ】

A盗み取る。
出典万葉集 八五〇
「雪の色をうばひて咲ける梅の花」
[訳] 雪の色を盗み取って咲いている梅の花。
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 13:49:54.74 0

日本語の表現を記述するメタ言語を磨くためには、迂回してメタ言語として
用いる表現の言語を記述するさらなるメタ言語を考えることも役に立つ。

私は、「(満ちることにより)表面が上がる」ことが「う(浮)く」ことを
意味するようになり、その「うく」の再帰形としての「うふ(≒se lever)」
という想定される形から「うは/うへ(≒se levant)」が導かれたのだろう
と述べた。ところで、英語で高さを表すのが、仏語の「lever」と関連
する「elevation」であり、やはり「lever」に関連して「(軽いことに
よって)高くなる」ことを表す動詞が「levitate」であり、この動詞は、
単に高くなる作用だけではなく、「浮く」ことを意味している。
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 13:53:19.34 0
ttp://www.etymonline.com/
elevation (n.)
late 14c., "a rising, height of something, height to which something
is elevated," from Old French elevation and directly from Latin
elevationem (nominative elevatio) "a lifting up," noun of action
from past participle stem of elevare "lift up, raise" (see elevate).

levitate (v.)
1670s, "to rise by virtue of lightness" (intransitive), from Latin
levitas "lightness," on the model of gravitate (compare levity).
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 20:11:27.88 0

ところで、「うぶ」という想定される再帰形は、仏語で表現するなら「se lever」
に当たると述べたが、仏語の「lever」と語源を同じくするスペイン語の表現は
「llevar」であり、英語の「carry」に当たるような「運ぶ」という意味合いで
使われることが多いが、これを再帰表現にすると、「llevarse」となり、
「(勝手に)持ち去る」という意味合いを帯びることになる。

ttp://www.wordreference.com/es/en/translation.asp?spen=llevar
llevarse (robar, sustraer) steal, make off with, (colloquial) swipe
El ladrón se llevó joyas y dinero.
(泥棒は、宝石と金を持ち去った)
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 20:28:08.15 0
私は、日本語の表現の意味を記述するメタ言語を磨こうとするとき
専ら、自ずと浮かんでくる妄想に頼っていて、以前に述べたとおり、
眠っている間に妄想が形成されていると考えられる場合が極めて多い。

これは、メタ言語を磨くプロセスに何か得体の知れない神秘的なもの
であるということではない。単に、妥当なメタ言語の候補を選ぶのに
考慮すべき要素が多すぎて、何がどのように重要なのか、意図的に
試行錯誤を試みても混乱してしまうのである。睡眠中は、勝手に考え
が「ゆめ(≒loose vision)」として漂流していて、類似や類比により
連鎖してうまく構造を成したと私に感じられる表現だけが、目が覚めた
ときに浮かんでくるのである。それ以外のまとまりのない考えは、形を
成していないので忘れ去れてている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 20:31:59.70 0
忘れ去れてている(誤)
忘れ去られている(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/14(火) 20:34:45.73 0
メタ言語を磨くプロセスに(誤)
メタ言語を磨くプロセスが(正)

見てのとおり、日本語を意識的に書こうとするだけでいろいろ混乱が生じる。
これを複数言語で同時に意識的に試みればなおさらのことである。
考える名無しさん [はげ] 2017/02/15(水) 02:47:00.99 0

この世に神秘も不思議も偶然も存在しない、ただ秤とる方法を知らないだけだ、

「カタカムナ図象」を悟りたまえ、初心者には理解できないかもしれない、
カタカムナとは、カタカムナ言語でもカタカムナ神話でもカタカムナ文字でもない、
それはカタカムナ図象である。

その歴史は高次元の説明であっても現実の説明ではない、
非メタ世界に挑むには論理性を捨てることからはじめなければ、
論理性に支配されメタ知識に押し戻される、努力は無駄だ、
カタカムナは潜象を示すものであって、現象とか事象とかではなく神事そのもの。
カタカムナは和言葉に潜む真名(まな)を秤取る天秤である。

割り切り簡略化してしまうなら、この書き込みも忘れるほうがいい
それは合理化する単純原理の技、術の限界である実証である。
Parama000 [・] 2017/02/15(水) 08:34:34.80 0
ナ―マ・ルーパか
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 08:56:02.52 0

「う(埋)める」の「う」と「う(浮)く」の「う」の関係を中心として、
その「う」という表現要素が、「う(倦/膿)む」、「う(倦/膿)み」、
「うみ(海)」、「うぶ(初/産)」、「うへ/うは(上)」、「う(産)む」、
「うま(旨)し」、さらには「うば(奪)ふ」まで、様々な表現に現れている
と考えられることを見てきた。ここで記号論的な観点から、「う(埋)める」
の「う」と「う(浮)く」の「う」の関係さらに一般的な結論を導くこと
もできる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 09:10:38.95 0
私は、「う(埋)める」 の「う」が、「うむ(≒自ずと一杯になる)」という
再帰形の表現を介して「う(浮)く(一杯になることによって表面が上がる)」
の「う」と関係していることを説明した。一見、奇妙に見えるかもしれない
が、この関係は、極めて「具体的」である。コップに水が「一杯になる/満た
される」状況を想像してみるといい。コップに水が「一杯になった/満たされた」
ことは、「(水の)表面が上がること」を見ること以外にどのようにして知る
ことができるだろうか。

私が自説の正しさを証明しようとして、とってつけたように「う(埋)める」
の「う」と「う(浮)く」の「う」を関係付けているわけではなく、
「表面が上がること」がすなわち、「一杯になる/満たされる」ことを
「具体的」に示しているのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 09:31:19.10 0
ここでさらに、「う(埋)める」の「う」と「う(浮)くの」の「う」の関係が、
以前に検討した「さ(晒≒reveal)る」の「さ」と「さ(去≒remove)る」の
「さ」の関係と類似していることに気づく。

私は、「さ(晒る」の「さ」と「さ(去る」の「さ」がちょうど、同じ箱を
上向きに置いた場合と横向きに置いた場合のように互いに似ていると説明した。
覆っているものを取り「去る」ことが、何かを「晒す」ことであり、
何かが「晒されている」状態が、何かが取り「去られたこと」を
示している。つまり、「さ(晒る」の「さ」と「さ(去る」の「さ」は、
記号論の用語を用いるなら、互いのインデックスとして機能しているのである。

これと全く同じことが、「う(埋)める」の「う」と「う(浮)く」の「う」に
ついても言える。「一杯になっている/満ちている」とは、「表面が上がって
いる」状態であり、「表面が上がっている」状態が、「一杯になっている/
満ちている」ことを示す。

つまり、同じ発音の2つの用法が互いのインデックスとして機能している
のである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 09:42:36.34 0
同じ発音の一方の用法が、他方の用法のインデックスとなるように、また
その逆も真であるように表現が形成されることは、離れていることを表す
ように用いられる「あ≒far」が、再帰表現のおいて「あふ≒encounter」
ことを表現し、「そ(反)る」ことや「そ(削)ぐ」ことにおいて、負の作用
を表すように用いられる「そ」が、再帰表現の「そふ」において、「そ(沿)ふ」
ことや「そ(添)う」ことを表現することにも見られるとおり、ここで検討
した「さ」や「う」に例外的に見られることではなく、表現形成の一般的な
原則であると考えることができる。
学術 ディジタル アーカイヴ@院教授 [] 2017/02/15(水) 09:51:06.41 0
アスキーアートとか?
学術 ディジタル アーカイヴ@院教授 [] 2017/02/15(水) 10:12:49.55 0
記号論でも
考える名無しさん [] 2017/02/15(水) 12:46:30.15 0
パラドックス
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 13:00:38.50 0

プラグマティズムに照らして言うなら、表現が有効であるとは、その
ようなインデックス性が記述ににおいて適切に作用していることであり、
有効な表現方法を追求するのが哲学の役割である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 13:19:18.30 0
表現が慣用化されて語源が忘れられるとき、その時に失われるのは、
表現の意味ではない。失われるのは何よりも、本来、その表現において
有効に作用していたはずのインデックス性なのである。
そのインデックス性を回復させることこそが、哲学的/詩的言語の
役割なのだ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 14:32:25.25 0
ここで一つ挑発的なことを言わせてもらえば、私には、言語哲学を称する
分析哲学がプラグマティズム的な意味で何の役に立つのか、つまり、どの
ように有効なのかさっぱり分らない。その妥当性が一般的に認められる
かどうかは別として、何らかの意味で私に役に立つ解釈がもたらされる
ということにおいて、私にとっては分析哲学よりも私の妄想の方がはるかに
有効なのである。
美魔女 [] 2017/02/15(水) 14:57:03.07 0


具体的に
私の最も深い内面を記号化することが

現実と世界の把握の根底になりますよ♪
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 15:36:59.50 0
以前、私は「か」で始まる日本語の表現は、何らかの意味で「表面を
感じさせる」と述べたことがある。例えば、名詞なら「かね(金)」、
「かわ(皮)」、「かさ(笠)」、「から(殻)」などである。「か」が
どのように表面を感じさせるのかを考えてみると、それは表面による
物理的な反射(それが音、光、物体などの)の作用としてであるように
思われる。「かんかん」という擬音語や擬態語、「かかや(輝)き」、
「か(噛)む」、「かた(固)い」などの「か」にそれがはっきりと
現れていると考えることができ、さらに、「か(掻)く」、「かか(掛)る」
や「かげ(影)」、「かべ(壁)」などの多数の表面に関係する表現に、
「表面の作用」を示唆する要素として「か」という発音が利用されて
いるように感じられる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 16:31:12.99 0
私は、物事を考える際に当たり前のことを言語化することはとても重要
であると考えている。例えば、「覆いが取り去られること」⇔「晒される
こと」、「満ちること」⇔「表面が上がること」のような相互関係を
明確に記述することである。

ところが、通常、学問の世界においても当たり前のことを言語化する
ことは、「社会的な理由」で著しく困難である。当たり前のことの
確認を求めると、「何の根拠もなしに自分の主観に基づいてとんでも
なく偏った自己主張をしている」と非難される。そこで誤解を解く
ために最大限の時間と労力を割いて、それが「誰にでも確認できる
ことである」ことを説明すると、今度は、「何をそんな当たり前の
ことを言っているんだ」、「そんな無駄な戯言はすべて削除しろ」
と要求されることになる。そこで、これは説明しても無駄だと諦めて、
相手と距離をとろうとすると、「私を馬鹿にして無視するのか」、
「なぜやるべきことをせずに遊んでいるのか」と激しく批判される
ことになる。結局のところ、相手の承認が必要であるならば、当たり前
のことを言語化することは放棄せざるを得なくなるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 16:39:51.85 0
「便所の壁」に喩えられることの多い掲示板であっても、当たり前のこと
を書くことを禁じられることがないという点で、私にとっては、学問の
世界よりもはるかにましな言論環境なのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 18:20:47.13 0
私自身は、「覆いが取り去られること」⇔「晒されること」の相互関係
について述べるような当たり前のことを発言できる自由は、自らの
政治的な立場を表明する自由よりはるかに重要であると感じている。
当たり前のことが発言できる自由がないのなら、政治的な立場を
表明する自由を与えられることなど、私には何の価値もないのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 18:22:56.75 0
逆に言えば、当たり前のことの確認を拒むような人々による
政治的な立場の表明に私は何の重要性も感じない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/15(水) 19:51:45.76 0
私の個人的な経験から言えば、それが現体制に賛同するものでも、
それを厳しく批判するものでも、どのような政治的立場であれ、公の
場でそれを表明することが許されるばかりか、促されさえするが、
「誰にでも当たり前のこと」を発言することは決して許されること
がなく、それを敢て発言するなら、激しい憎悪の対象とされること
になり、命の安全さえ脅かされることになるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 02:50:46.59 0
結局便所の落書きじゃないか、これが結果に繋がるわけねぇよ
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 09:23:44.66 0
私は、自分の母語である日本語以外の言語を読んだり、聞いたりしていても、
ときどき、外国語の表現がまるで日本語であるかのような感覚を覚えること
がある。これは、単語レベルでも、より大きい記述のレベルでも生じる感覚で
ある。一例を挙げると、既に記載した「あやし」≒{abwegig」、つまり、
「あ(ab)や(weg)し(ig)」の場合がそのような場合に相当する。
そのような感覚が生じるのは、母語の表現と外国語の表現がどのようにか
似ているからであり、個別の事例を離れて、一般的に「何において」似て
いるのかを問うなら、表現の「具体性」において似ているということになる。

このことを記号論の基礎とされる現象学のカテゴリーを用いて記述するなら、
外国語の表現と母語の表現の間で「インデックス性(第2性)」が「類似して
いる(第1性)」と感じることで、母語/外国語の表現の意図の「解釈がもたら
されている(第3性)」と言えるだろう。そして、さらに自省してみるなら、
母語における表現の理解においても、これと同じプロセスが生じていること
に気づくのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 11:28:06.44 0
反転し得る相互のインデックス性を認めることと、「人(ひと/1)」である
ことは、切離すことができないのだ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 17:44:15.47 0
再び具体的な例を用いるなら、「反転し得る相互のインデックス性を
認めること」とは、例えば、「ここからそこまでと、そこからここまでが
等(ひと/人/1)しいと認めること」である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 17:49:05.67 0
具体性を極めてゆく作業はとても重要である、
円周率の桁を何桁覚えられるかがもっとも重要な捉え方だ、
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 17:52:36.91 0
ところで、「ここからそこまでと、そこからここまでが等(ひと/人/1)しい」
と単純に表現したが、これは自明な真理ではない。例えば、「ここ」が低い
場所にあり、「そこ」が高い場所にあったとしたらどうだろうか。「ここ
からそこまで行く」には、低い場所から高い場所まで上っていくことになり、
「そこからここまで来る」には、高い場所から低い場所まで下りてくること
になる。この関係を日本語において最も簡明に表しているのが、「われ(我)」
という表現において用いられていると考えられる、「わ」≒「minor」である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 17:54:03.66 0

途中で書き込むのは自由だが、無関係のことを書き込みたいなら、混乱が
生じないようにコテハンでも使ったらどうですか?
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 18:04:57.74 0
私(わたし)は、「わ」は、「minor」という様態や「diminish」という作用/動作
を表すのに用いられていることを既に説明してきた。「晒(さ)る/去(さ)る」の
「さ」や、「埋(う)める/浮(う)く」の「う」に関して、私は、「同じ発音の2つ
の用法が互いのインデックスとして機能している」ことを指摘したが、この
ことは、「わ」についても同様に当てはまる。「わ」≒「minor」が1人称の
「わたし」や「われ」において用いられる場合、「わ」は、「相手を敬う態度」
を相手に示すことを意図している。これに対して、同じ「わ」≒「minor」が
2人称や3人称の呼称において用いられる場合、「わ」は、「相手や対象に
対する親しみや見下しの態度」を表すことを意図している。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 18:17:47.04 0
デカルトの有名な言葉「Cogito ergo sum」は一般に、「我(われ)思う、ゆえに
我(われ)あり」と訳されるが、この言明は、日本語では通用しない。「我(われ)」
と表現することで既に「相手を敬う」意図を表現してしまっているからである。

日本語で「自ら」を表現しようとすることに関する悲喜劇(tragicomedy)は、
古代の日本の名称とされる「大和国(やまとのくに)」という表記に読み取る
ことができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 18:27:56.14 0
古代の日本を指すとされる「倭国(わこく)」という名称の「わ」が、「我(わ)が
国」の「わ」であると考えられることは、既に指摘した。「相手を敬う態度」を
示すために「わ」と表現しているのだから、「倭」という漢字を用いて、この
「わ」を表すのは適切である。しかし、相手に対して敬う態度を示したとしても、
相手と対等であるためにには、「わ」は、いわば「シーソー・ゲーム」として
交互に用いられなければならない。シーソーにおいて自らの番がきたときに
自らを「わ」と称して「低い位置」をとるが、相手の番になったときには、
今度は、相手が自らを「わ」と称して「低い位置」をとり、自分を「高い位置」
に押し上げてくれることで、等(ひと/人/1)しさが確保されるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 18:37:32.45 0
ところが、自らのを「我(わ≒minor)が国」と称したのに対して、相手側は、
その「わ」を2人称や3人称の呼称において用いられる「わ(倭)」として
用いることになった。相手との力関係により、「わ国」と呼ばれることは、
もはや動かし難いので、自らの尊厳を保つために「わ(倭)」を、同じく「わ」
と発音されるものの、「≒minor」という意味を有さない「和」という漢字
で置き換え、それでも日本語では、「わ」という発音は、「≒minor」を
想起させるので、「大」をつけてそれを否定し、「大和」と表記するものの、
表記の漢字の読みとは関係のない「やまと」と自分たちの間では自称する
ことになったのである、というのが私が考える(妄想する)日本語の自称に
用いられる「わ」の悲喜劇である。

この悲喜劇を日本の哲学者がまったく論じてこなかったのは、怠慢以外の
なにものでもないだろうと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/16(木) 20:10:36.68 0
"The tragicomedy of being oneself in Japanese"
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 09:03:56.99 0
ところで、日光の当たる「ひなた」は、「日向」と書く。
岩波古語辞典を引くと「日な手(た)の意」であると記載されている。
だったら、「あなた」は、「離(あ)向」、「かなた」は、「彼向」で
いいのではないかと思ってしまう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 17:43:03.08 0
さて、「あなた」や「あれ」などに用いられる「あ」という表現要素に
ついては既に検討してきた。現代語ではもっぱら二人称として用いられる
「あなた」であるが、それでも「雲のあなたの〜」のような表現が歌など
で残っているので、「あなた」が本来は、遠方を指す表現であることが
完全に忘れ去られているわけではない。これに対して、「かなた」は、
二人称として用いられることはなく、現代語においても「はるかかなたの〜」
のように、古語の「あなた」と同じく遠方を指す表現として用いられる。
では、「かなた」の「か」とは、どのような表現要素なのだろうか。
「かなた」の「か」は、「あなた」の「あ」とどう違うのかと問われて、
明確に答えられる人はなかなかいないだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 18:00:07.50 0
そもそもこのような問いを立てることに意味はあるのだろうか。
岩波古語辞典で「か【彼】」を引くと、「《遠いものを指し示す語。「あ」
の古形で、用法も「あ」より広い。「こ(此)」の対》あれ。あの人。あそこ。」
と説明されている。この説明では、「か」は「こ(此)」と対立するが、漠然と
遠くを指していて、「あ」とたいして変わらないことになる。

私にも、「か」がどのように用いられたのか明確な答えがあるわけではない。
それでも、「あ」の用法とはどのようにか異なっていたはずである、この
「か」の用法について自分がどのように考える(妄想する)か、その筋道を
示すことはできる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 18:06:47.74 0
現代の日本語において「かなた(彼方)」という表現と同じ「か」が用いられて
いると人々が直ちに認めるのは、「かのじょ(彼女)」や「かれし(彼氏)」、
「か(彼)の有名な」という表現くらいのものではないだろうか。いずれの場合
も、「か」は、三人称的な指示詞として用いられており、これらの用例を参照
することによって「か」の用法の理解が特に深まるわけではないだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 18:19:18.30 0
そこで私が注目するのは、並行関係である。「あ」が「離れる」ことを表す
のに対して、同じ「あ」を用いていると私が見なす「あふ」という再帰形の
動詞は、言うまでもなく「合う」ことを表している。では、「あ」と同じく
遠方を指すとされる「か」はどうだろうか。「あふ」との並行関係を想定
するなら、「か」を用いた再帰形の動詞は、「か(交)ふ」ということになる
だろうと思う。無論、これは私の勝手な想定であって、「か(交)ふ」の
「か」が、「かなた(彼方)」の「か」と同じ表現要素であると断定できる
根拠があるわけではない。それでも、「そ(反)る」や「そ(逸)れる」の
「そ」にも私は、「それ」という指示詞の「そ」と共通性を感じ、
「そ(沿)ふ」という動詞を、同じ「そ」という表現要素を用いた再帰形の
表現と見なすと「辻褄が合う」ので、「か(交)ふ」を「かなた」の「か」を
利用した再帰形の動詞と見なすことも、私には、それほど無理があるよう
には感じられない。つづきは、また後で書き込む。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 19:49:09.01 0
さて、ここで「かなた」の「か」は、、「か(交)ふ」という表現においても
用いられているという想定(/妄想)が得られ、「か(交)ふ」という表現の意味
から、「か」がどのような作用/動作/様態を表すことを意図していたのかを
探る手がかりが得られたことになる。

ところが、「か(交)ふ」において「か」が担っている役割を知るためには、
「かふ」をさらに分解可能な表現として記述できなければならないだろう。
しかし、「か+ふ」と分解してみたところで、「かふ」が「か」の再帰表現
であることが分るだけで、解釈の可能性は広がらない。「行きかふ」、
「たが(違)ふ」という「かふ」を含む表現や、「か(買)ふ」、「か(変)はる」、
「か(替)へる」などの「かふ」から派生したと見られる表現を参照すれば、
「かふ」がどのような「作用/動作/様態」を表しているのかが把握できるが、
それでも「か」+「ふ」と分解した場合に「か」が担っている役割を明確に
記述することは容易ではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 20:05:10.05 0
岩波古語辞典で「かひ【交ひ】」を引くと、「甲乙二つの別のものが互いに
入れちがう意」と説明されている。しかし、これでは、「か(交)ふ」を説明
するのに「入れち『かふ』」というより限定された用例を参照しているだけで、
意味の分析になっておらず、堂々巡りである。ただ、これは仕方のないこと
でもある。なぜなら、そもそも、「か(交)ふ」を他のより簡明な日本語の表現
で容易に説明できるなら、「か(交)ふ」という表現は日本語に必要ないことに
なるからだ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 20:17:55.69 0
そのような堂々巡りを回避するために私が用いる常套手段が、他者の言語を
鏡として用いることである。「か(交)ふ」という表現を「かふ」そのものを
用いない日本語の表現で記述することは困難を極めるが、「かふ」という表現
そのもの、ならびに「かふ」を含む表現、および「かふ」から派生した表現に
おける「かふ」の中心的意味を外国語に移すのはたやすい。「かふ」は、
英語を用いるなら「cross」という動詞となり、仏語を用いるなら「croiser」
やその再帰形の「se croiser」ということになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 20:50:12.14 0
「か(交)ふ」という表現を直接に日本語で記述することを棚上げにして、それを
ひとまず英語の「cross」に移したわけだが、ここで「か(交)ふ」の代わりに
「cross」という表現そのものをより分析的に記述できたとしても、その記述
が日本語の「か(交)ふ」に当てはまるわけではない。このように日本語の表現を
他者の言語に移(/映)して見る目的は、他者の言語のメタ言語的な説明をそのまま
元の日本語に適用しようと試みることではない。そうではなく、日本語の表現と
他者の言語の表現の何が似ているのかを意識的に反省してみるためである。
「か(交)ふ」を「cross」に移すことができるのは、「か(交)ふ」を中心とする
表現が、「cross」を中心とする表現と重なり合うからであり、この2つの間で
何が共通しているのかを言語化することが、「か(交)ふ」のメタ言語による
記述をもたらすのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 21:06:21.95 0
説明が長くなったので、結論を急ぐことにする。
英語の「cross」という動詞が表している作用/動作/様態は、「交叉する」
ことであり、十字のように「互いに局所的に接触して通り過ぎる」ことである
と記述することができる。日本語の「か(交)ふ」を英語の「cross」に移す
ことができるのは、「か(交)ふ」が「互いに一時的に接触する」ことを
表現しているからであると私には思える。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 21:16:11.33 0

「か(交)ふ」が「互いに一時的に接触する」ことを表現している(誤)
「か(交)ふ」が「互いに一時的に接触して再び離れる」ことを表現している(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 21:19:15.23 0
「か(交)ふ」が「互いに一時的に接触して再び離れる」ことを表現している
とするなら、再帰表現である「か(交)ふ」において「互いに」を表現すること
を担っているのが「〜ふ」であることは明白であり、したがって、「か」は、
「一時的に接触して再び離れる」を表現することを担っていることになる。

長くなったので、つづきはまた時間のあるときに書き込むことにする。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 23:08:34.29 0
ここで仮(かり)に、「か(交)ふ」の「か」が「一時的に接触して再び離れる」
ことを表現する意図で用いられていると、私の妄想においてだけでなく、一般に
認められたとしよう。それにしても、その「か」を、遠方を表す表現である
「かなた(彼方)」の「か」と同じ要素とするのは奇妙ではないだろうか。
なぜ、遠く離れるのに、わざわざ「一時的に接触する」必要があるのか。
そうしが疑問が生じるはずである。そこで、「かなた(彼方)」、「か(彼)の〜」
という表現に限定せず、より広い表現において「か」という発音がどのような
意図で用いられていると推測されるのか、思い起こしてみよう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/17(金) 23:43:16.40 0
記号論の以前のスレにも、またこのスレのにおいても、日本語の「か」
で始まる表現は、何らかの意味で「表面の作用」を感じさせることが多いこと
を指摘した。古語では「輝く」は清音で「かかやく」と発音されたとするが、
「かか」は「継続的な光の反射」を表しているのではないかと私には思われる。
以前に「かげ(影)」について論じたとき、日本語の「かげ」は、英語の
「shadow/shade」ではなく、「(光の像を含む)cast image」であることを
指摘した。そのとき、私は、「かがみ(鏡)」を、岩波古語辞典の「『かげみ
(影見)』の転」であるという説明をそのまま受け入れたが、「かがり火」が
「(light) casting fire」であること、および御神体の「かがみ(鏡)」が、
反射させた光の像を壁に映し出すプロジェクターとし使われたであろうこと
に鑑(かんが)みると、「かがみ(鏡)」の「かが」も「casting」を意図して
いた可能性が考えられる。いずれにせよ、「か」を用いた、これらの表現は、
単に光を発することではなく、それ自体が光を反射することや、それが
投げかけた光が何かに反射することに関わっている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 00:00:56.96 0
「か(駆)る」および「か(狩)る」とされる)について考えると(この2つは、
岩波古語辞典において同じ語源を有するとされる)、英語に訳す場合、
「か(駆)る」は「drive」、「か(狩)る」は「chase/hunt」とされること
が多いが、「か(駆/狩)・る」としてどのような共通性を有するのかを問う
なら、「(追う相手と)一時的に接触して(追われる相手が)再び離れる」
ことではないかと私は思う。さらに、「か(貸)し/か(借)り」の
場合も、貸し借りされるものが「一時的に(相手/自分に)接触して
(相手/自分から)再び離れる」ことに関わっているように思われる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 00:20:39.20 0
「か」が表現しているのは、いわば「タッチ・アンド・ゴー(touch-and-go)」
であり、「蚊(か)」や「香(か)」も「一時的に接触して再び離れる」イメージ
由来するのではないかと私は妄想している。現代の日本語でよく用いられる
「かる(軽)はずみな」という表現にしても、同様の「か」のを利用しているの
ではないだろうか。

「か」がなぜそのようなイメージの表現要素として用いられるようになったか
と言えば、金属を叩いて反射する甲高い音のイメージを声で真似て、遠くまで
響く音の反射のイメージに、その他の反射のイメージを代表させることになった
のではないかと思っているが、これについても、私の妄想以外に何の根拠もない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 00:22:56.62 0

同様の「か」のを利用(誤)
同様の「か」のイメージを利用(正)
考える名無しさん [] 2017/02/18(土) 03:06:25.55 0
💩か?
💩なのか?
同様の💩か?
💩のイメージ
💩妄想には💩の匂いもない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 09:22:52.42 0
私の妄想に完全に妥当性が欠けていたとしても、そのことで私を非難する
のは筋違いなのですよ。私は専門化ではないし、いずれにせよ、
コモンセンスの追求は専門化に任せることができないのです。
専門的な正しさの追求であるなら、自分の持ち分で責任を果たしている
個々人は、分業と交換により、自分の持ち分でない分野のことは、
信頼できる専門家に任せて、その信頼が裏切られたなら、きちんと
責任を果たさなかった専門家を非難することができるでしょう。
しかし、一般的な正しさを追求する場合、自らその正しさを検証する
ことを怠り、他人任せにして過ちをおかす結果となったなら、その
責任は自らが引き受ける他ないのです。いずれにしても、
プラグマティズムが受け入れる正しさは、その有効性によってのみ
裏付けられる常に「仮(かり)」のものであり、その都度、各自に
よって検証されて、習慣の改良につなげられるべきものなのです。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 09:24:11.01 0

専門化(誤)
専門家(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 10:46:57.13 0

ところで、その疑問の「か?」も「一時的に接触して再び離れる」
イメージなのだろうか?
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 13:58:33.67 0
>私の妄想に完全に妥当性が欠けていたとしても、そのことで私を非難する
>のは筋違いなのですよ。私は専門化ではないし、いずれにせよ、
誰も貴方の妥当性など考えていないだろ、貴方が貴方をそう思っている
現れでは?
だれより貴方をしっているのは貴方ではないの?
ならば答えは貴方が選ぶしかない、誰かの非難とか自己に対する言い訳にすぎない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 16:45:29.24 0
>誰も貴方の妥当性など考えていないだろ

何も分っていないようだね。私が書き込む妄想はそれが一般的な妥当性を有する
限りで、私のものではないのだ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 20:01:12.38 0
哲学することが要求するのは、何らかの専門的知識を提示することではなく、
誰にでも当たり前のことを言語化することである。誰にでも当たり前のことは、
それが妥当に言語化されるとき、常に既に与えられたものとして現れるが、
その現れる姿かたちは、いつでも仮象である。
考える名無しさん [] 2017/02/18(土) 21:49:47.91 0

哲学するとは哲学の要求ではない、
果てしなく思考することだ、言語化されるから哲学だとか思っているなら
哲学は言語化できないものへは介入できないと言っているようなもの。
考える名無しさん [sage] 2017/02/18(土) 22:42:53.46 0
何を伝えたいのか言語化できていないようです。
美魔女 [] 2017/02/19(日) 03:54:01.32 0
哲学は常に前進しますね。

(☆∀☆)

既に所有してたり先取り解決って嘘ですよね。(☆∀☆)
どんな凄い哲学もどんな凄い哲学者も

真理を所有していませんね。(☆∀☆)

しかし真理を愛してるよ♪
美魔女 [] 2017/02/19(日) 05:58:02.95 0

役に立つのは

記号は記号の指し示すものに集中

つまり指標です

私は内面を記号化しております。(☆∀☆)
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 08:49:29.56 0
記号論における記号は、日常的に記号と認識されているようなものではない。
記号論の汎記号主義を、そのような日常的な記号の理解の汎用的な適用と
誤解するから、記号論は現実を記号として簡略化して表現する方法だと
いう誤った理解から抜け出せない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 14:55:06.96 0
ところで、私は、以前に「か(兼)ね」、その再帰形である「かな(適/叶)ふ」、
「か(兼)ね」に由来すると私には考えられる「〜しかねる」の「かね」、
ならびに、語源的には「『かね』を生じる」ことを「かな(悲)し」について
書いたことがあるが、その際、私は、「かね」は、英語で表現するなら
「strech over (for) 〜」に相当すると述べたことがある。「かね」の
場合も、「かなた(彼方)」と同じ「か」が用いられていると私は考えるが、
今回、新たに検討した、この「か」という表現要素のイメージから「かね」
が表現しようとしている意図をより正確に英語で表そうとするなら、
「stretch out to touch the surface temporarily」ということになる
だろう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 15:09:07.48 0
このこと自体は、僅(わ《≒minor》づ)かな修正に過ぎない。私にとって
はるかに面白いと感じられる発見は、この日本語の「かね」と全く同じ
「インデックス性」を利用した表現が、言語も表向きの言葉も全く異なり
ながら、メキシコの人気ロック・バンドのヒット曲の歌詞にも見られる
ことである。

ttp://www.musica.com/letras.asp?letra=85784
Rayando el sol
rayando por ti
esta pena me duele, me quema sin tu amor
no me has llamado estoy desesperado
son muchas lunas las que te he llorado
Rayando el sol, oeooo desesperación es más
fácil llegar al sol, que a tu corazón me muero
por ti oeooo viviendo sin ti y no aguanto, me
duele tanto estar así rayando el sol
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 15:17:37.58 0
メキシコの人気ロック・バンドであったManáのヒット曲「RAYANDO EL SOL」の
歌詞には、曲名にもなっている「rayando el sol」という表現が出てくる。
これは、スペイン語でも一般的とは言い難い表現で、実際、検索してみると
スペイン語を母語とする人々のフォーラムでも、この表現が何を言い表そう
としているのか議論になっており、見当外れと私には思われることが多く
書き込まれている。私に、妥当であると思われる解釈は、次のサイトの
回答である。
ttps://ar.answers.yahoo.com/question/index?qid=20070620003014AA2oKR9
Que significa la frase "Rayando el Sol" en la letra de la cancion
del grupo Mana con el mismo nombre

Mejor respuesta: creo que se refiere a que es mas facil acercarse al
sol, ya querayandoes sol seria como rasgar el sol con las manos que es
mas facil que llegar al corazon de la mujer.
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 15:37:31.64 0
「rayando el sol」を英語に直訳すると「scratching the Sun」ということ
になるが、いくつかのフォーラムの書き込みを見ると、スペイン語を母語
としている人間がこの表現を聞いてもやはり、「太陽をかく」という、
直ちには解釈の定まらない表現として聞こえていることが分る。
「rayar」という動詞は、日本語の「かく」がそうであるように、「掻く」
という意味でも、「線を引く」という意味でも、さらには「(夜が)明ける」
という意味でも用いられており、「太陽を掻く」も「太陽に線を引く」も
奇妙な表現に聞こえるので、「(夜が)明ける」ことに関係しているのだろう
という書込みが多く見られる。しかし、のベスト・アンサーのとおり、
歌詞をきちんと読めば、「rayand el sol」と並んで「太陽に届くことより、
君の心に届くことの方が難しい」と歌詞に書かれているのだから、「太陽
をかく」と文字通り理解することが妥当な解釈となる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 15:49:51.07 0
したがって、「rayando el sol」は、日本語を用いるなら「太陽をかく」という
表現に移されるわけだが、この場合、「rayar(≒かく)」が表現しようとしている
「掻く」のように「傷を付けること」でも、「書く」のように「線を引くこと」
でもなく、「(伸ばした手の)爪の先でようやく触れること」だろうと私には
思われる。つまり、この場合の「rayar(≒かく)」が表現しているのは、
において「かね」が表しているイメージの英語の記述として私が提案した
「stretch out to touch the surface temporarily」と全く同じであることに
なる。「君の心に」「(伸ばした手の)爪の先でようやく触れること」さえ
「かな(叶)はない」と歌うことで、自らの「かなしみ」≒「『かね』を生じる」
状態を表現しているのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/19(日) 16:29:11.30 0
ところで、既に述べたことだが、「や(止)める」の「や」は、やはり、ドイツ語
の「weg」に対応し、「やめる」の「や」は、「gehen weg von 〜」の「weg」
のような意図で用いられていると私には感じられる。そのように考えた場合、
「や(止)む」(英語で表現するなら「let up」)は、「や(止)め」の再帰形と
して導き出されたものであることになる。日本語において、再帰形は、
しばしば、表現要素が意図する作用/動作/様態を反転させる「軸」のような
重要な役割を担わされている。
美魔女 [] 2017/02/19(日) 21:51:51.66 0

内面を記号とするのですから

抜け出せています。(☆∀☆)
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 03:01:03.71 0

だから抜け出せていないんだよ、
その貴方自身の説明が否定している意味になることに気が付くべき。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 03:02:28.79 0

何を否定しているのか言語化できていない
美魔女 [] 2017/02/20(月) 03:12:53.92 0

内面の根源が心理学でもなく経験でもなく精神でもなく態度でもなく一般でもなく論理でもなく知識でもなく言葉でもなく科学技術でも証明不可能な一点を記号とすることです。
それは無のようにあるからです。(☆∀☆)
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 03:19:58.04 0

>それは無のようにあるからです
ならば無または無を示す記号ではない無を説明する記号ではないのか?
つまり記号化しても意味がないと貴方が結論づける、だが
記号化させたいと願望が働く、たのしそうだね
美魔女 [] 2017/02/20(月) 04:26:05.08 0
語るが語れない。


語られたことが順番に消えていく。

それは永遠に解決できない哲学のパラドックスです。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 04:58:36.17 0

パラドックスを解くのが交渉力、調停力、折衝力という
解いてはいけないものを諦めるならそれは探求者の姿勢ではない。

解ける問題だけを討論し議論しているからこそ、永久に
繰り返すだけだ。それは学校で習う答えがある問題解決能力で
解けない、解いてはいけない問題解決能力ではない。

つまり貴方と哲学の関係がそれである、自覚したまえ
学術 ディジタル アーカイヴ@相対皇帝司馬氷 芦原 [] 2017/02/20(月) 07:46:44.41 0
アスキーアート、書きこ と記号論とか。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 08:59:25.79 0
唐突だが、「たた(祟)り」とは、もともとは、「溶岩流」を具体的に指し、
「たた」は、「畳(たたみ)」の場合と同じく「重畳」を表すことを意図
していたのではないかという気がする。これについて、また後で時間の
あるときに書き込む。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 09:48:09.89 0

これに関連してのことだが、「や(病)み」というのは、多くの場合に、
食糧不足による栄養失調を指していたのではないかという気がする。
そのように解釈した場合、「や(病)み」の「や」もやはり、ドイツ語の
「weg」に対応するような表現の意図で用いられていたのだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 09:58:23.65 0

紛らわしいからコテハン付けたらどうですか?
私とのやりとりなら番号を付けてレスをするなら、名無しのままでも
問題はありませんが、無関係のレスだと混乱が生じやすいでしょう。
美魔女 [] 2017/02/20(月) 12:53:30.85 0

めちゃ凄いこと話したのに

わかってくれてない。(;_;)
美魔女 [] 2017/02/20(月) 13:11:50.32 0

諦めているって言ってないのに

いつも勝手に決めないで!⤵

その難しい所を現実に置き換えて

取り合えず自己の内面を保ちます。(☆∀☆)


もちろんそれは本質のものではありません。

仮証です。

世界の現象も言葉も仮証ですから。

もう〜⤵貴方嫌い😡⚡来ないで!
美魔女 [] 2017/02/20(月) 13:15:03.95 0

>>726に言ってます。(;_;)

もうあちこちのレスでも〜シツコイ
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 13:18:39.54 0
「たた(祟)り」の「たた」が「たたみ(畳)」の「たた」と同じ表現要素
であるというのは、推測というより、表現をそのまま素直に読むことに
過ぎないが、なぜ「たた(祟)り」が具体的に「溶岩流」を指す、つまり、
「たた(祟)る」とは、「溶岩が流れる」作用を表現していたと推測され
るのかは、説明が必要だろう。これについては、いくつか書き込むべき
ことがあるが、時間がなかなかとれそうにないので、簡単な結論だけ
述べて置くと、「たた(祟)る」とは、もともとは、噴出する溶岩が
「幾重にも畳まれながら流れていく」様子を表すことを意図した表現
だったのだろうと私は考えている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 13:48:57.14 0
興味深い結論をもう1つだけ書いておく。西郷信綱の「古代人と夢」という
本を図書館で借りてきた。まだ読んでいないが、ページをめくったところ、
「ねこ」が出てきたので目にとまった。ただし、動物の猫ではなく、
「祟神記」に出てくる「意富多多泥古(オホタタネコ)」という人名である。

私は、この人名は、例えば、天照大神(アマテラスオホミカミ)を、「あ(far)・
ま(space)・てらす(glorifying)・おお(great)・み(venerable)・かみ(god)」
と訳してみることができるように、直訳できると思う。「意富多多泥古(オホ
タタネコ)」の「おほ」を「great」と訳しても特に異論はないだろう。
次に「たた」であるが、「祟神記」に出てくる名前でまさに「たた(祟)り」
を鎮める役割を任せられた人物の名前なので「たた(祟)り」の「たた」と
同一の要素であると推測するのが自然だろう。そこで「たた(祟)り」は、
「溶岩流」を表していたという想定を適用すると、「たた」は、直訳
すれば「folding in」や「convolution」などに関連する表現となる
ものの、「lava flow」と訳すことができる。「ねこ」については、
動物の猫の語源について、以前に述べたことをそのまま応用することが
できる。つまり、「ね(宜)ぐ」という動詞の古形として「ねく」を想定し、
その受動態が「ねこ」であると考えることである。したがって、
「意富多多泥古(オホタタネコ)」の直訳は、「great lava flow appeased」
となり、これを文法的に調整すると「appeased great lava flow」となる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 13:58:56.05 0

名前として名詞化するために「appeased」を先頭に移動させたが、
この名前そのものが作用を表すと考えるなら、むしろ、直訳の方が
妥当なのかもしれない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 18:40:54.41 0
さて、岩波古語辞典で「たたり【祟り】」を引くと、「神仏・怨霊などが、
人間の行為をとがめて禍をもたらす」と説明されているが、語源的な説明
は一切記載されていない。しかし、「たた・る」が、そのような複雑な
概念として用いられるようになる以前に、他の「〜る」という形態の動詞
の場合と同様に「たた」自体が、何らかの作用/動作/様態を表現していた
はずである。

「たた(祟)る」の「たた」がどのような作用/動作/様態を表現していたのか
を探るために「たた」を発音として含む他の表現を考慮することになるが、
「たた」から始まる現代の日本語の動詞として「たた(叩)く」、「たた(畳)む」、
「たた(湛)える」、「たた(讃)える」などがすぐに思い浮かぶ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 18:49:20.56 0
私には、これらの「たた」を含む表現に何らかの共通性があるのかよく分らない。
それでも、「たた(祟)る」の「たた」がどのような意図で用いられたのかを
推測するための手がかりはある。それは、「たた」という作用/動作/様態が、
どのようにか現在の「祟る」の用法につながるようなものだったということ
である。そのように考えた場合、「たた(叩)く」、「たた(湛)える」、
「たた(讃)える」の「たた」は、それぞれがどのような表現と見なされるに
せよ、「たた(祟)る」の「たた」との関係が近いようには見えない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 19:06:00.96 0
ところが、「たた(畳)む」の「たた」については、「たた(祟)る」と関係の
ありそうな関連する古語の表現が直ちに見つかる。それは「たた(畳)ね」で
ある。岩波古語辞典の「たたね【畳ね】」の項目には、「たたむ。『君が
行く道の長道(ながて)を繰り畳ね焼き亡ぼさむ天の火もがも』(万3724)」
と記載されている。

既に指摘したことだが、「く(繰)る」は、軸に視点を置いた回転を表す
表現であり、「たた(畳)ね」と「たた(畳)み」の違いがどのようなもの
であるにせよ、「たた(畳)む」は、「長さや幅のあるものを、いくつに
も折り返して、小さくまとまったものにする」(岩波古語辞典)ことを
意味しているのだから、「繰り畳ね」という表現は、「畳み込む」動きが
想起され、英語で表現するなら、「repeatedly folding in」ということ
にでもなるだろう。それが道を焼き亡ぼすような「天の火」にかかわる
動きなのだから、誰でもすぐに「溶岩の流れ」がイメージとして思い浮かぶ
はずである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 19:12:17.04 0
噴火で流れ出した溶岩が空気に触れて固まりながら、自らを次々に畳み込む
ように流れていく様子を「たた(祟)る」と表現したのではないか、そのように
考えると、表現要素としての「たた(畳)む」の「たた」と、「たた(祟)る」
ことの「たた」がそのまま重なり、火山の噴火によってもたらされる被害
は「山のたた(祟)り」なのだから、意味的にも辻褄が合っていることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 20:13:55.62 0
ttp://www.umoregi.com/koten/kojiki/story.html?v=2&n=24
此の天皇の御世に、疫病多に起り、人民死せて尽きなむとす。爾に、天皇、
愁ひ嘆きたまひて神牀に坐しませる夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰り
たまひしく、「是は我が御心なり。故、意富多多泥古を以て、我が御前を
祭らしめたまはば、神の気起らず、国安く平らかならむ。」と、のりたまひき。
是を以て、駅使を四方に班ちて、意富多多泥古とふ人を求ぎける時に、
河内の美努の村に其の人を見得て貢進りき。爾に、天皇、「汝は誰が子ぞ。」
と問ひ賜ひき。答へて白しけらく、「僕は大物主大神、陶津耳命の女活玉依
豐売に娶ひて生みませる子、名は嫖御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の
子、僕意富多多泥古。」と白しけり。是に、天皇、大く歓びたまひて、
「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」と詔りたまひて、即ちに意富多多泥古命を
神主と為て、御諸の山に、意富美和の大神の前を拝き祭りたまひき。
考える名無しさん [] 2017/02/20(月) 20:31:34.72 0

「意富多多泥古を以て、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起らず、
国安く平らかならむ」

ここで言う「神の気(け)」とは何だろうか。岩波古語辞典で「け【気】」
を引くと、「霧・煙・香・炎・かげろうなど、手には取れないが、立ちのぼり、
ゆらぐので、その存在が見え、また、感じられるもの」と説明されている。

さらに、「神の気(け)」は、「おこる」ものであることにも注目する必要が
あるだろう。私は、以前に岩波古語辞典において「おこたる」の項目で、
語源的に異なる2つの「おこたる」が混同されていると指摘した。一つは
「行ひ」に対応する「怠る」であり、もう一つが「おこる」に対応する
「おこたる」である。その際、私は、「おこる」と「おこたる」は、
「おこる(≒erupt)」⇔「おこたる(≒subside)」という関係にあること
も述べた。したがって、私には「神の気(き)が起こる」という表現は、
「神の霧/香/煙/炎などが起こる(≒erupt)」と表現しているように見え、
火山の噴火そのものを記述しているように思える。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 20:39:55.56 0
この「神の気(け)」を鎮めるために神主として任命された「意富多多泥古
(オホタタネコ)」という人物の名前が、「おほ(≒great)・たた(≒repeatedly
folding in/lava flow)・ねこ(appeased)」と読めるというのが、前もって
書き込んだ結論の趣旨である。
美魔女 [] 2017/02/20(月) 20:46:01.48 0
証明不可能を偽に置き換えることはできない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 20:54:52.08 0
その前に偽であることを証明してください。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 20:59:03.07 0
この解釈では、それぞれ独立した事例において導き出した妄想をいくつも
組み合わせて使っている。私の解釈が幻想に過ぎないとすれば、逆に私は
いつくもの独立した妄想をあたかも整合性があるかのように組み合わせる
自分の幻想(ファンタジー)の能力を誇ってもいいのではないかと思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/20(月) 23:20:41.54 0

「神の気(き)が起こる」という表現は(誤)
「神の気(け)が起こる」という表現は(正)
考える名無しさん [] 2017/02/21(火) 02:24:46.16 0
きけ、我がイスラエルの民よ、はじめに言葉ありき
美魔女 [] 2017/02/21(火) 02:58:30.17 0

暇潰しに書いただけだから許して
考える名無しさん [sage] 2017/02/21(火) 08:44:44.51 0
「『ねこ』を殺すと『たた(祟)り』がつづく」と言われるが、「たた(祟)り」が
宥め鎮められた状態が「ねこ≒appeased」であるから、「ねこ≒appeased」を
殺すと「たた(祟)り」が止まらなくなるのではないか。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 00:50:02.38 0

>疫病(えやみ)多(さは)に起り、人民死(う)せて尽きなむとす

既に示唆したことだが、この場合の「疫病(えやみ)」が具体的にどのような
状態を指すのか自明ではない。「多(さは)に」は、「多(≒many)」という
漢字が当てられているが、ここで意図されているのは「≒widespread」である
と解釈しても特に問題ないだろうと思う。「さは」の語源は、私には、
「さ(≒revealedly)は(≒spread)」であると思われ、用法は全く別である
ものの、表現要素の「さ」と「は」が用いられている意図に関しては、
「さは(沢)」と同じではないかと思っている。

「疫(/役)病」という表現は、岩波古語辞典でこの表現の説明として記載
されるように「感染病」を直ちに想起させるが、「感染病」という捉え方
は「公衆衛生」の発想による近現代のものなので、「えやみ」にそのイメージ
をそのまま適用すると時代錯誤に陥るだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 01:06:52.79 0
いずれにしても、ここでの記述は、祭(まつりごと)に関わることであり、
問題になっているのは、統治されるリソースとしての人民の保全であり、
一般の個々人の視点から見た「公衆衛生」ではない。したがって、感染症
によるものであれ、それ以外の原因によるものであれ、リソースとして
管理される人民が同時に大勢失われる状況が生じれば、それが「えやみ」
として捉えられた可能性は十分にあるだろうと私は思う。

「やまひ(病)」としての「おこり(瘧)」は、「お(起)こり」と同じ語源で
あるとされ(岩波古語辞典)、病状から回復することが「おこたり」である
のだから、「おこり(≒erupt)」⇔「おこたり(subside)」の関係は、
私が火山の噴火を指すと考える「神の気(け)」が「おこる」ことにも、
病としての「おこり(瘧)」にも同じように当てはまることになり、
いずれがいずれの「隠喩」であるということもできることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 09:20:01.08 0

感染病、感染症(誤)
伝染病(正)
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 09:36:45.24 0
コモンセンスの追求の基礎にある共感する(mitleiden)能力について後で時間の
あるときに書くことにする。ここで私は「共感する」という表現を、通常、
ドイツ語の「Mitleid」や英語の「compassion」が表す意図よりもはるかに
広く捉えて用いている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 10:24:14.07 0
共感する(mitleiden)ことは、同情することではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 10:41:26.56 0
例えば、「冷たい風が吹いていて寒い」ことは共感ではあるが、同情ではない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 11:30:04.71 0
人が「人(ひと)」であることは、まずなによりも共感することによってであり、
同情することによってではない。同情を共感に優先させることは、プロパガンダ
によって動かされる場合にしばしばそうであるように、「人(ひと)」であること
を否定することにさえつながる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 13:08:38.07 0
「冷たい風が吹いていて寒い」ことが共感であるからこそ、そのように感じる
我(われ≒minority)がある(≒be around)のであって、そのように感じる我が
あるから、「冷たい風が吹いていて寒い」ことが共感として生じるわけではない。
己(おのれ)と同様に感じる我(われ≒minority)が己とひと(等)しい人(ひと/1)
とされ、同様に感じないことが明らかなものが、人(ひと/1)でないとされる。
これは、日本語において普通に表現されるとおりの事態であり、何ら逆立ち
した形而上学を創り上げる必要はないのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/22(水) 23:06:55.35 0
何かがあるということは、「どのようにかである」ことであり、その「どの
ようにかであること」が共感することである。まず私的な感覚が存在して、
そこから共感が生じるのではない。なぜなら、私的な感覚自体が「どのように
かである」ことの一形態であり、「自らが感じることを他者が感じないようで
あること」であるからである。さらに、何らかの単位による数値として測定され
得ることも、共感することに先立って存在するわけではない。測定され得ることは、
それが「距離」であれ、「重量」であれ、「温度」であれ、「密度」であれ、
「どのようにかであること」を前提としている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/23(木) 14:29:04.44 0
我(われ)の感覚によって共感することが規定されるわけではなく、
我々(われわれ)の共通の感覚によって共感することが規定されるわけでもない。
逆に、共感することが互いに等(ひと)しいことによって我々(われわれ≒minority)
が人(ひと/1)として規定され、その等しさが限定されることによって我(われ
≒minority)のものとしての感覚が生じる。共感することにおいて、我々(われわれ)
も我(われ)も常に少数派(minority)として現れるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/23(木) 17:27:53.45 0

>何かがある
"何もない"
これを考えたまえ、あるものなど具象化すれば誰でも知りえよう、
無いものをどうやって知るかが問題であることを悟れ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/23(木) 17:43:08.58 0
考える必要性が見当たらない。無いものは不在としてしか現れず、
不在は、あることと表裏一体である。
考える名無しさん [sage] 2017/02/23(木) 17:50:00.81 0
別様に考える可能性があるというのなら、その可能性を感じる人が自らの言葉で
それを示せばいいだけのことだと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/02/23(木) 17:57:46.25 0

可能性を他人に教える必要性がどこにあるのか?
すべてに可能性は無く確定していると感じる人が自由意志で発言するわけがない
それは確定した発言で意志などなく、単なる計算が困難なパターンの表れ
可能性を感じなく否定するのは単なる甘え。
考える名無しさん [sage] 2017/02/23(木) 17:59:57.22 0
残念ながら、ただの荒しのようですね。他で相手をしてもらってください。
考える名無しさん [sage] 2017/02/24(金) 09:18:22.07 0

共感することにおける等(ひと/人/1)しさを互いに指し示そうと努めることが、
言語表現によって自らの意図を相手に理解してもらおうとする/相手の意図を自ら
が理解しようとすることに他ならず、そのことがすなわち、人(ひと/1)であろう
とすることになるのである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/24(金) 13:18:13.49 0
言語表現がその根底において、共感することにおける等(ひと/人/1)しさを
互いに指し示そうとする行為であるからこそ、自らの「我/わ(≒minor)れ」
と呼ぶことがすなわち、相手を敬うこと(相手を"major"とすること)になるの
であり、その相手が、自らを「我/わ(≒minor)れ」と呼ぶ相手と等(人/ひと/1)
しくあろうとするなら、今度は、自らを「我/わ(≒minor)れ」と呼ぶ負債が
生じ、同様に、相手に対する距離を表現して尊敬を表す二人称の
「あ(≒far)なた」で自分が呼ばれることが、そう呼ぶ相手と等しくあろうと
するなら、その相手を、「我/わ(≒minor)れ」ではなく、やはり「あなた」と
呼ぶ負債が生じるのである(相手にとって自分が遠いのに、自分にとって相手
が近いなら、その相手は自分に「かな(適/敵)はない」ことになる)。さらに、
そのように指し示しが反転可能であることが、離れることを表す要素である
「あ」が、再帰形において「あ(合)ふ」ことを意図するように用いられ、同じ
「さ」という要素が「さ(≒removing)る/さ(≒revealing)る」という関係で、
同じ「う」という要素が「う(≒filling)め/う(≒surfacing)く」という関係で、
それぞれ互いのインデックスとなるように用いられることをもたらしている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/24(金) 13:23:13.06 0
私は、言語学における生成文法は、そのどの部分がおかしいというような
ものではなく、根本的に考え方が誤っていると考えている。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 09:10:58.50 0

"Doch wer diese Saison genau hingeguckt hat, konnte sehen, das wir in
Leipzig dafur Losungen gefunden haben. Wir haben nach unserem tollen
Beginn schnell gemerkt: Selbst gegen gestandene Bundesligisten, die
daheim spielen, gibst es Phasen, da sind plotzlich wir die Mannshaft,
die das Spiel macht. Das hat uns keine Angst-schweissperlen auf die
Stirn gedruckt." DER SPIEGEL. 4/2017 p.100

現代の日本語に移す場合、この「Angst-schweissperlen」を用いた表現は、
「あせる」ではなく、「あわてる」と訳されることになるのだろう。
それでも、Carlos Vivesの曲「La Gota Fria」の歌詞と比べて見ても、
いかに類似したインデックス性が利用されているか気づくはずである。
「Angst-schweissperlen」の「Angst」は、語源的に「せま(狭)い」こと
であり、「あせる」の「せ」に対応するインデックス性を表現している
と考えることができ、このような比較を行うことにより、逆に日本語の表現
における「せ」という表現要素の用法についての反省が可能となる。

ttps://de.wiktionary.org/wiki/Angst
Herkunft:
seit dem 8. Jahrhundert bezeugt; althochdeutsch angust; mittelhochdeutsch
angest; aus westgermanisch *angusti- „Angst“, zum Adjektiv *angu-
„das Engsein“; dieses wiederum stammt von der indogermanischen Wurzel
*angʰu- „eng, bedrängend“; vergleiche lateinisch angustus → la „eng“
und altindisch अंहः (aṁhah) → sa – Stamm: अंहस् (aṁhas-) →
sa – „Angst, Bedrängnis
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 10:16:39.75 0
日本語、スペイン語、ドイツ語のいずれにおいても、「あそび(das Spie)」が、
「自らの行為において『せま(迫)り』が自分に生じない」こととして捉えられて
いることが分る。ここには日本語の「せ」と「そ」の対比を見て取ることも
できる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 10:18:40.73 0
「あそび」⇔「あせり」という対比が成立する。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 17:41:53.49 0
詩的言語について論じられるとき、言葉の発音のイメージが主題とされることは
よくあるが、そのような場合でも、表現において、発音のイメージがいわば
既存の人工物として、いかに自由自在に向きを変えるように扱われているかは、
ほとんど意識されていない。例えば、「す」という表現要素の用法を見ると、
「すすむ」という表現において、「すす」は、以前に述べたとおり、英語を
用いるなら「going through」に相当する作用/動作/様態を表している。
ところで、日本語の表現において同じ発音の繰り返しは、その発音によって
表される作用/動作/様態の継続を表すことを意図することが多く、実際、
この場合も、例えば、「す(透)け」という表現がやはり「(光などが)
透過する(go through」ことを表しているので、「す」だけで、
「go through」または「through」を表現する要素として用いられている
ことが確認できる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 17:54:13.58 0
これまで日本語の表現を検討してきて、日本語の表現の形成の手法として
私には、きわめて特徴的に感じられるのが、再帰形による表現のイメージ
の反転である。「すす(進)む」や「す(透)け」は、何かが前方に進むこと
をイメージさせるが、「す(吸)ふ」は、前方に進むことと全く関係がなく、
一見、「すすむ」や「すけ」とは無関係のようにさえ思える。ところが、
「〜ふ」という表現が再帰形であることを思い起こすと、方向性が反転
していることに気づき、「す(吸)ふ」の場合もやはり、気体や液体など
が何か細いものを「通って(through)」自らの方に来るようにすることを
表現していることが理解できる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 18:01:54.22 0
では、「す(澄)む」という表現はどうだろうか。ほとんどの人は、濁っている
水が「す(澄)む」ことと、「す(透)ける」ことの間でイメージの近さを感じる
はずである。ところで、「す(澄)む」は、「す(済)む」や「す(住)む」と
語源的に同一であるとされ、総合的に「すむ」として英語で表現するなら
「settle oneself」ということになるだろう。ところで、「す(澄)む」と
「す(透)ける」の間に共通性を感じる人が多くいるとしても、「す(住)む」
と「す(透)ける」の間に共通性を感じる人はほとんどいないはずである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 18:19:24.29 0
しかし、この場合も、「すむ」≒「settle oneself」が語源的に表現している
のは、岩波古語辞典による記載のとおり、「@(濁った水)がすき通るように
なる」ことや、「A(光や音に)曇りがなくなる」ことであり、光などが
「通った(through)状態になる」ことが「すむ」ことであると解釈される。
「通った(through)状態になる」ことが、「それまで動き回っていた物事が
落ち着いた状態になった」ことのインデックスとして用いられ、「す(済)む」
ことや、「す(住)む」ことを表すようになったと考えられる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/25(土) 18:24:37.16 0
したがって、詩的言語について論じるなら、「す」という表現要素は、単純に
英語の「through」のイメージに対応すると考えれば済む話ではなく、どの
ような表現においてどのような意図でそのイメージが利用されているのかが
注意深く検討されなければならないのであり、同じことが他のあらゆる発音
のイメージに関しても言えるのである。
考える名無しさん [] 2017/02/26(日) 07:16:39.58 0
どーでもいいけど、記号論の専門家って、左翼ばっかりだな
考える名無しさん [] 2017/02/26(日) 07:38:55.81 0
細長いモノを見れば、とりあえず「男性性器の象徴」だと言う。

切れ目や割れ目を見れば、とりあえず「女性性器の象徴」だと言う。

それさえ日々に実行していれば、立派な記号論者に見えてくるから不思議なものだ。
考える名無しさん [sage] 2017/02/26(日) 08:56:45.11 0

「す(透)き」と「す(澄/済)む」の関係は、「気持ちがスッキリする」や、
「すっかりと片付く」のような表現にも見て取ることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/26(日) 09:11:02.17 0
ところで、英語の「sky」という語の発音を聞いても、やはり私は「すっかり晴れた
空」をイメージするが、これは私が日本語を母語としているからであって、「sky」
は、語源的には「cloud(雲)」を表す意味で用いられてたとのことである。
ttps://en.wiktionary.org/wiki/sky
考える名無しさん [sage] 2017/02/26(日) 20:42:24.10 0

このスレ主も左翼
考える名無しさん [] 2017/02/26(日) 22:20:03.26 0
パヨクとは「payoku」という語の発音を聞いて考えるもの
左翼をサヨクと表現するのではなく語源的なサヨクをパョって
パヨクと見取ることができる。
日本のパヨク的な日本語の表現を検討すると、「さよく」⇔「ぱよく」という
対比を考えなければならない。
パヨクの考えを共感して考えれば記号論者と名乗るは不思議なものだ。
サヨクと表す意味で用いられてたとのことである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 08:58:08.52 0
なぜ、右は「みぎ」であり、左は「ひだり」なのか。
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 16:56:06.71 0
私はではないので、スレ主の政治思想がどのようなものであるかは知らないが、
政治を理解するのに右翼/左翼という分類が役に立つとは思えない。
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 18:33:15.37 0
現代の政治を理解するうえでも、右翼/左翼という分類より私にはるかに重要に
思えるのが、祭祀、つまり、「まつりごと」という政治に本来的に備わった
性質と統治の技術として新しく生み出された「国民主権に基づく民主主義」
という形式の間の関係である。祭祀としての政治においては、「命/御言
(≒mandate)」は上から下されるものであり、一方、「国民主権に基づく
民主主義」においては、「下から」と明言すれば語弊があることになるものの、
現実には、「統治される側」である国民から、「統治する側」に「命/御言
(≒mandate)」が預託されるという形式をとる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 19:06:21.61 0
祭祀としての政治において、上から下に下される「命/御言」は、一方的に
従うべきものであり、それを尊重しないとすれば、武力によって反乱を起こす
他ない。したがって、祭祀としての政治においては、誰に祭祀を司る正統性が
あるのかが主要な争点であり、その正統性を争うのでなければ、決められた
「しきたり」や「ならはし」は、その根拠や、それを受け入れる側にとって
の「合理性」とは無関係に尊重されるべきものとなる。

とはいえ、現実的には、祭祀を司る者の正当性は、統治の安定によって証明
されなければならないのであり、たとえ、それが火山の噴火や津波や旱魃など
の天災によるものであっても、統治される側の人々の生活が深刻に脅かされる
事態が続けば、祭祀を司る者の正統性そのものが根拠を失うことになる。
なぜなら、祭祀を司る者の正統性は、そのような普通の人々の手に負えない
神々の振舞いを宥め鎮めることができることに依拠しているとされるからである。
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 19:18:42.66 0
祭祀としての政治において、祭祀を司る勢力の正統性が失われることは、
「国民主権に基づく民主主義」において政府が預託された「命/御言(≒mandate)」
を失うことと比べて、はるかに深刻な事態である。祭祀を司る勢力にとっては、
正統性を失うことは、すなわち、自分たちが「簒奪者」であることになり、
新たな正当性の確立のために、一族の生命財産をすべて失うことになりかねない。
統治される側にとっても、正統性のある統治者が失われることは、正統性を
めぐって武力衝突が生じることになり、「権力の空白」がもたらす混乱に
陥れられることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 19:23:26.16 0
統治の技術として新たに開発された「国民主権に基づく民主主義」という
形式は、「命/御言」が行使される方向を「形式的に」逆転することにより、
「命/御言」の預託を失った統治者の政権交代と言う形で「権力の空白」が
生じるような事態をうまく回避してきたと言える。
考える名無しさん [] 2017/02/27(月) 22:42:54.89 0
祭祀としての政治において、上から下に下される「命/御言」は、一方的に
従うべきものであり、それを尊重しないとすれば、武力によって反乱を起こす
を失うことと比べて、はるかに深刻な事態である。祭祀を司る勢力にとっては、
あるのかが主要な争点であり、その正統性を争うのでなければ、決められた
めぐって武力衝突が生じることになり、「権力の空白」がもたらす混乱に
の「合理性」とは無関係に尊重されるべきものとなる。

とはいえ、現実的には、祭祀を司る者の正当性は、統治の安定によって証明
正統性を失うことは、すなわち、自分たちが「簒奪者」であることになり、
の天災によるものであっても、統治される側の人々の生活が深刻に脅かされる
事態が続けば、祭祀を司る者の正統性そのものが根拠を失うことになる。
形式は、「命/御言」が行使される方向を「形式的に」逆転することにより、
神々の振舞いを宥め鎮めることができることに依拠しているとされるからである。
考える名無しさん [] 2017/02/27(月) 22:52:16.47 0
渡哲也
考える名無しさん [sage] 2017/02/27(月) 22:59:30.39 0

書き込むのは自由だが、他人の書いたものを勝手に改変してコピペする
のは、混乱を生じるだけですよ。勝手に利用してパロディを書き込むのも
自由だが、その場合には元の書き込みとの違いがはっきりと目立つように
するか、コテハンを使うべきでしょう。
考える名無しさん [sage] 2017/02/28(火) 09:09:16.09 0
「国民主権に基づく民主主義」において、「統治される側」である国民から
「統治する側」に「命/御言(≒mandate)」が預託されるという形式をとる
必要があることは、政治がリーダーシップを発揮して上から「命/御言」を
下そうとするなら、まずそのような「命/御言」を「統治される側」が
「統治する側」に預けるようにうまく誘導する必要がある。現代の政治が
行き詰っているとすれば、なぜどのように誘導がうまく機能しなくなってい
るのかを考える必要がある。
考える名無しさん [sage] 2017/02/28(火) 10:36:21.52 0
メディアを利用して事実(fact=既成とされること)関係によって国民の
情動に訴えかけることが基本であるとすれば、メディアと国民と統治者の
関係がどのように変化しているのか、注意深く検討する必要がある。
考える名無しさん [sage] 2017/02/28(火) 10:44:20.82 0
国民をうまく誘導して反動的な保守主義や反動的な強権体制を確立することが
統治手法として歴史的に成功したとすれば、逆に反動的なグローバル経済
リベラリズムの政治体制を推進することは可能だろうか。
考える名無しさん [sage] 2017/02/28(火) 14:32:03.31 0
安全保障を理由とした治安維持強化の徹底と経済的なリベラリズムの推進は矛盾するものではない。
考える名無しさん [sage] 2017/03/01(水) 00:01:46.49 0
こ・れ⇒こ(乞/請)ふ
そ・れ⇒そ(沿/添)ふ
あ・れ⇒あ(合)ふ
か・れ⇒か(交)ふ
考える名無しさん [] 2017/03/01(水) 14:13:21.97 0
万葉集のが面白い
学術 ディジタル shinscake adaniu [] 2017/03/01(水) 14:23:10.65 0
ソシューリストになると ソシュールレア本リストに載って。
記号論とか 暗記号 暗喩 暗詩 闇光(夜景、星空系)
に詳しい。アスキングアートとかもそいうもん。

それすれエーコがいいんじゃなかな。ね。
考える名無しさん [] 2017/03/01(水) 14:35:58.48 0
さすがに、記号論をやってるだけあって、言語が意味不明だな
学術 ディジタル shinscake adaniu [] 2017/03/01(水) 14:42:22.90 0
意味表象を繊細に言語学的にうすく比喩抽出すればいい。

ラフターなんかがいいんじゃないのか 琉球の勢力は
また勝つかもな。女子が。
考える名無しさん [sage] 2017/03/01(水) 14:46:57.59 0
ソシュールは、記号論ではなくて記号学。
考える名無しさん [] 2017/03/01(水) 15:01:13.83 0
記号対記号
学術 ディジタル shinscake adaniu [] 2017/03/01(水) 15:08:01.00 0
象徴とかシンボリックなことだよ。

サインとシューニュは。ペンより。ペンスより。ベンツより。
考える名無しさん [sage] 2017/03/01(水) 15:16:11.36 0
もういくら荒したところで、具体的な手法も考え方も公開してしまって
いるので、特に問題ないですよ。私も、気の向いたときに気づいたこと
を書き込むだけです。自分でスレ立てをする気はないので、そのときに
関連するスレが存在すればの話ですが。
考える名無しさん [sage] 2017/03/01(水) 15:37:20.05 0
ぬ(縫)ふ≒slip through 〜
ぬ(脱)ぐ≒slip out of 〜
ぬ(抜)ける≒slip out
ぬるぬる≒slippery

ttp://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=smear
ぬ(塗)る≒smear("to anoint or rub with grease, oil, etc.")
考える名無しさん [sage] 2017/03/01(水) 15:50:36.65 0
「smear campaign」≒「泥仕合」である。
考える名無しさん [sage] 2017/03/01(水) 16:40:56.30 0
ところで、ドイツ語で「Schmiergeld」と言えば、賄賂のことである。
つまり、お金を取引きのための「潤滑油」として使うことになる。
日本では、賄賂を使って物事をうまく進めることのできるフィクサー
のような人物は、「つかみどころのない(つまり、ぬるぬるした)人」
ということになる。
考える名無しさん [] 2017/03/01(水) 22:34:34.32 0
スカイツリーは、巨大な男性器
考える名無しさん [] 2017/03/01(水) 22:56:11.85 0
靴は女性器の象徴
美魔女 ◆m56q6JyM70mL [] 2017/03/02(木) 01:45:08.62 0
またそんなでたらめを・・・
考える名無しさん [] 2017/03/02(木) 07:25:23.88 0
カカトの磨り減ったハイヒールの靴は、使い古した女性器の象徴
考える名無しさん [sage] 2017/03/03(金) 11:05:34.52 0
このスレも終わりに近づいているので、結論めいたまとめを1つ書き記しておく。

共感と人と言語表現の間の関係は、次のようにまとめると理解しやすいだろう。

「反転可能な、つまり、ひと(等)しいと見なされるインデックス性による
自己規定が人(ひと/1)である。」

人が話す様々な異なる言語が翻訳可能であることも、言語表現が可能で
あること自体も、人(ひと/1)がそのように規定されていることに依拠している。
考える名無しさん [sage] 2017/03/03(金) 17:59:35.41 0
デジタル大辞泉の解説
ちはや‐ぶる【千早振る】
[枕]《動詞「ちはやぶ」の連体形から》勢いが激しい意で、「神」、また、地名「宇治(うぢ)」にかかる。
「―神世も聞かず竜田川から紅に水くくるとは」〈古今・秋下〉
「―宇治の渡り滝屋(たきつや)の」〈万・三二三六〉
[補説]「ちはやぶる」「ちはやひと」は、勢いが激しい強大な「氏(うぢ)」の意から、同音の「宇治」にかかるようになったといわれる。
考える名無しさん [sage] 2017/03/03(金) 18:07:19.53 0
岩波古語辞典で「ちはや・ぶる【ちはや振る】」を引くと「チは風、
ハヤは速、ブルは様子をする意」と解説されている。「ちはやぶる」という
表現は、英語なら「raging」、ドイツ語なら「wütend」と表現されるような
文脈において用いられており、岩波古語辞典のこの解釈は概ね正しいと
言えるのだろうと私は考えている。「ち・はや」を逆転させた「はや・ち」
という表現が「突風」や「暴風」を表すのに用いられたことも同辞典に
記載されている。
考える名無しさん [sage] 2017/03/03(金) 18:18:24.14 0
では、「ち・はや・ぶる」の「ち」は、「風」を表すものと特定された
のだから、「ちち(父)」、「ち(血)」、「ちち(乳)」、「ち(茅)」の「ち」、
道や方向を表す「こ・ち」や「いづち」などの「ち」、「ちい(小)さし」、
「ちち(縮)む」などの「ち」と無関係かと言えば、一概にそうとも言えない
だろうと私には感じられる。これらの様々な「ち」が案外、互いに
「ちか(近)い」可能性があることは、「ち」が表していると私には感じら
れるインデックス性を考慮することによって現れてくる。
考える名無しさん [sage] 2017/03/03(金) 18:41:19.23 0
「ちはや」の「ち」でごく普通に想起されたのが「風」であったとして、
「ちはや(風速)」という表現がなぜそれほど「勢いが激しい」ことを
イメージさせたのかを、「ちはや」以外の上記の「ち」を含む表現と
併せて考えて見ると、まず最初の私の念頭に浮かぶのが、ドイツ語の
「Engpass」という表現である。要するに、私の連想では、「狭い通り道
を(何かが)通り抜ける」ことがイメージされる。

「風」の意味で用いられる「ち」は、単に全般的に「風」を表している
わけではなく、「はやち」や「こち(東風)」などの方向性が強調された
風を表しているように私には思われる。すると、「ちち(乳)」や「ち(血)」
も、体外に放出されるときに「狭い通り道を通って勢いよく出るもの」
としてイメージされたのではないのだろうか。「ちち(父)」の「ち」が
どのようなイメージで用いられたのかは不明だが、「ちから(力)」の
「ち」の場合と同じく、そのような方向性のある勢いとしてイメージ
された可能性はあるように思われる。さらに、「ちい(小)さし」や
「ちち(縮)む」などの「ち」にしても、「ちか(近)い」の「ち」の
ように、ドイツ語を用いるなら「eng」に近い表現のインデックス性から
派生したのではないかと私には感じられる。無論、この連想は、「ち」
という発音そのものが、息の通り道を小さく狭くして発音されることに
関連している。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 00:17:03.63 0
>其の、神の御子と謂ふ所以(ゆゑ)は、三島の湟咋(みぞくひ)が女(むすめ)、
>名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、其の容姿(かたち)麗美(うるは)しき
>が故に、美輪の大物主神(おほものぬしのかみ)、見感(みめ)でて、其の美人
>(をとめ)の大便(くそま)らむと為(せ)し時に、丹塗矢(にぬりや)と化(な)
>りて、其の大便(くそま)らむと為(せ)し溝より流れ下りて、其の美人のほとを突きき。

古事記の「皇后選定」からの引用だが、「勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)」
という名前も既に検討した表現要素の組み合わせとして解釈可能である。
この場合も、「せ」は、ドイツ語の「drängen」、「や」は、「weg」に相当する
ような意図で用いられていると解釈することができ、「陀多良(だたら)」は、
一般には、「たたら製鉄」で用いられる「ふいご」のことであると解釈されて
いるが、私は、「たたねこ」の「たた」と同様に「溶岩流」のことだろうと
思う。そう考えれば「せやだたらひめ」は「溶岩流を押し出す姫」と理解される。
「大便(くそま)らむ」は、「建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)」
がまき散らす「くそ」の場合と同じく「火山灰」のことだろうと思われる。
「丹塗矢(にぬりや)」は稲妻、「ほと」は火山口のことだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 00:26:04.93 0
ちなみに「天照大御神」と「月読見」は、それぞれ太陽と月を擬神化した
ものと思われるが、「天照大御神」は、左目を洗ったときに生成された
神であり、「月読見」は、右目を洗ったときに生成された神である。
いずれも「眼球」を洗ったときに生成された神であることから、太陽も
月も「球体」と認識されていたのではないだろうか。さらに、
「建速須佐之男命」は、鼻を洗ったときに生成された神であるとされ、
海原を治めるように命じられたことになっているが、鼻との形の類比
を考えるなら、「建速須佐之男命」はやはり火山を擬神化したもの
だろうと私は思う。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 10:00:06.48 0
「建速須佐之男命」の振舞いを火山の噴火をアレゴリーとして記述したものとし、
「たた(祟)る」、「意富多多泥古(オホタタネコ)」、「勢夜陀多良比売
(せやだたらひめ)」に現れる「た(/だ)た(ら)」が「溶岩流」を表すことを
意図していたのだろうとするような解釈は、実は誰でも簡単に思いついたことでは
ないかと私は思う。では、なぜそのような解釈が一般的になっていないかと
言えば、それは、奈良盆地を中心とした具体的な政権に結び付けた古事記の
解釈と矛盾するからだろう。私は「邪馬台国」論争のような、どこに政権が
存在したのかという議論には関心がない。ただ、古事記を素直に読めば、それ
が奈良盆地を中心として描かれた世界であるとするのはどう見ても無理が
あるだろうと思う。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 10:10:01.92 0
このようなことを言うのがいまだに不穏当なことであるとされるとすれば、
それは、現代においてもいかに政治権力が「祭祀」として本来備わった性質
に依拠しているかを示している。国民主権の民主主義による選挙という
儀式によって正統性を確保された無血の政権交代を支えているのが、
古代から現代の日本国にまで連綿と続く大和政権の正統性であり、
過去にその支配権の実力による政権交代があったなどと考えてはならない
といまだに暗黙に了解されていることになる。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 10:16:16.46 0
私の勝手な憶測では、「建速須佐之男命」の振舞いを火山の噴火に、「たた(祟)る」、
「意富多多泥古」、「勢夜陀多良比売」に現れる「た(/だ)た(ら)」が「溶岩流」を
表していたであろうことは、都合が悪いので「意図的に忘れられた」のである。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 22:48:56.19 0

なんか意識が飛んでたのか文章になってないな。書き直そう。
考える名無しさん [sage] 2017/03/04(土) 22:56:34.58 0
訂正

私の勝手な憶測では、「建速須佐之男命」の振舞いを火山の噴火の記述と解釈する
ことや、「たた(祟)る」、「意富多多泥古」、「勢夜陀多良比売」に現れる
「た(/だ)た(ら)」が「溶岩流」を表していたと理解することは、都合が悪いので
「意図的に忘れられた」のである。
考える名無しさん [] 2017/03/05(日) 03:11:20.14 0
訂正
ムの勝キな億側では、「建須速之佐男命」の振舞いを火噴の山火に、「ここ(茲)る」、
「意多富泥多古」、「勢陀夜比多良売」に洗われめ「こ(/ご)こ(つ)」が「溶流岩」を
洗していこでめろうたとは、都業が亜人なので「意的図に亡れられた」のでめる。
美魔女 [] 2017/03/05(日) 03:27:39.60 0
ワンワン🐶
考える名無しさん [] 2017/03/05(日) 09:50:06.32 0
ひとつひとつのレスが長大だな

さすが哲学板
考える名無しさん [sage] 2017/03/05(日) 10:44:50.10 0
必要なのは、声音(こわね)中心主義の脱構築による音声(おんせい)中心主義の回復でしょう。
学術 [] 2017/03/05(日) 10:50:56.63 0
文の構造が描けないと。主義的に。
考える名無しさん [sage] 2017/03/05(日) 10:52:22.55 0
声音(こわね)を使うことは、相手の自分の意図通りに誘導しようとすることで
あるが、言葉を発することが家畜の誘導となることを防ぐのは、声音を使う
ことを禁ずることによってではない。互いに意図的に相手の声音を用いること
によってである。
考える名無しさん [] 2017/03/05(日) 10:52:36.87 0
「素朴実在論」と書こうとしたら、スマホが勝手に「そぼろあんかけ」と変換した
学術 [] 2017/03/05(日) 12:06:15.15 0
簡素な生活と反転反射対比。状態変化に気をつけること。
考える名無しさん [sage] 2017/03/05(日) 19:28:04.50 0
重要なのは「どのようにあるか」を問うことであって、「あるか、ないか」を
問うことではない。パラドックス的に聞こえるかもしれないが、「どのように
あるか」という問いと比べて、「あるか、ないか」という問いは些末な問題
である。「どのようにあるか」という問いに適切に答えることができるならば、
「あるか、ないか」という問いは、哲学的重要性は、「この店に○○の在庫は、
あるのか、ないのか」と問うのと変わらない。
考える名無しさん [sage] 2017/03/05(日) 19:32:38.92 0
そもそも「ある」と表現すること自体が、既に検討してきたとおり、「三人称的
にある(be around)」であると解釈され、「われあり」と言ったところで、さらに、
相手(二人称)に対して我(わ≒minorityである一人称)が三人称的に存在すること
を告げることにしかならない。
考える名無しさん [sage] 2017/03/05(日) 19:40:53.24 0
「『ムー大陸』は存在しないではないか」と言ってみたところで、「その存在を
主張した人間がいたが、誰もその実在を信じていない大陸、あるいはその名称」
として「『ムー大陸』が存在する」ことは明らかである。自分がそれを信じて
いない「言い伝え」であっても、そのような言い伝えとして存在する。
「どのようにあるか」を記述できたなら、その上でさらに「あるか、ないか」
を問うのは哲学の問題ではない。
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 08:38:33.98 0
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」というウィトゲンシュタイン
の言葉は何を言おうとしているのだろうか。「沈黙しなければならない」というのが
「語ってはならない」という意味なら、この言葉はナンセンスだろう。この発言を
そのようなナンセンスと解釈した場合、例えば、「記憶に留めえぬものについては、
忘れなければならない」など、同様のナンセンスな警句をいくらでも思いつくことが
できる。また、「語りえぬもの」について、どのようにであれ「語ることができる」
なら、それは、そもそも「語りえぬもの」ではないので、禁止は適用されないことに
なるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 08:47:37.67 0
さらに、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」が、
「空を飛べないものが、ビルの屋上から飛んではならない」とか、「もう
満腹で食べられないなら、食べてはいけない」のような警句の類であるとする
なら、それをウィトゲンシュタイン の自戒として解釈するのでないかぎり、
「自分の力量に余ることをやろうとしてはいけない」という忠告であること
になり、余計なお世話である。

ウィトゲンシュタインの言葉をそのようなナンセンスな発言や、くだらない
忠告の類であると解釈することが可能であるとしても、そのように解釈する
ことは、ウィトゲンシュタインのの発言の意図の「寛容な解釈」ではないだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 09:01:51.97 0
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」を意味のある発言と
受けとめるなら、「言葉で表現することができないものについては、何ら
言葉による断定を下すべきではない」ということになるだろうと思う。
その「言葉による断定」とはまずなによりも、「ある/ない」という判断
である。「言葉で表現することができないもの」については、それが
「ない」ということすらできない。無論、この場合、「『ない』という
ことができない」ことは、「ある」ことを意味するわけではない。
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 09:15:29.45 0
まず何が「あり」、何が「ない」かを判断したうえで、「あるもの」について
だけ語り、「ないもの」については語ることを禁ずるというのは、哲学的には
極めて幼稚な態度である。
考える名無しさん [] 2017/03/06(月) 20:59:28.71 0
あるものはある。
ないものはない。
考える名無しさん [] 2017/03/06(月) 21:10:21.59 0
語り得るものについては、明晰に語り得る
考える名無しさん [] 2017/03/06(月) 21:12:33.98 0
食べられるものについては、美味しく食べるよろし

四つ足のものなら、なんでも食べるアルヨ
考える名無しさん [] 2017/03/06(月) 22:53:35.87 0
「明晰に語り得る」ってところがポイントなんだろ
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 23:15:16.01 0
困難に立ち向かわずしてなにが学問か
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 23:36:28.34 0
「ないものはない」とは、「『ない』と言っている私の言葉を疑うのか」という意味です。
考える名無しさん [sage] 2017/03/06(月) 23:38:17.10 0
哲学を騙ろうとする捻じ曲がった心より、言葉の方が正直だ。
考える名無しさん [] 2017/03/07(火) 01:58:16.05 0
有るものでも無いものでもない
第3とは?

同じ次元でしか考えられない単細胞だからこそ自分で理解できる
有り無しと2択にして明晰(=簡略化、合理化)して結論づける。
理解しえない細かい部分はどうでもいいよ、理解できる部分を明晰に
すれば見えにくい部分は省略していいという理屈な。

明晰に語ってくれよ、それに意味を持たせるなら朝鮮人としての性能が
高まるさ。
考える名無しさん [sage] 2017/03/07(火) 08:17:16.91 0
「ないものはない」とは、
1.「ない」と言っている私の言葉を疑うのか
(Didn't I just say "there is nothing"? Don't make me repeat it.)
2.ないものはない。すべて揃っている。
(There is nothing that is not there.)
考える名無しさん [sage] 2017/03/07(火) 08:26:23.56 0
「あるものはある。ないものはない」とは、
・見ての通り。隠されたものはない。
(There is only what you see. Nothing is hidden.)
考える名無しさん [sage] 2017/03/07(火) 08:41:48.06 0
「ある」=1とし、「ない」=0とするなら、0=0?
「0」自体の同一性は、原点としての同一性、つまり、再帰としての
不在の同一性でしかあり得ない。原点としての0は、任意にどこにでも
置くことができるが、0として同一性を有するのは同じ原点だけであり、
異なる原点としての0が有する同一性は、原点としての機能の同一性である。
2つの原点は、交換可能だが、その場合、一方の原点が0としての同一性
を有するならば、他方の点は1であり、その他方の点が原点となって0
としての同一性を有するならば、もう一方の点は1である。
考える名無しさん [] 2017/03/08(水) 03:57:25.03 0
>原点としての0は
原点ではない。

間違いから始まる思い込み
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 08:34:48.79 0
では、どうぞ正しい思い込みを書き込んでください。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 20:38:51.32 0
2017/03/08(水) 08:34:48.79 0からレスを待っているが、いくらレスを待っても
無駄なようなので無視して書き込むことにします。レスをしなかったのだから、
妨害はしないように。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 20:49:33.24 0
「建速須佐之男命」の振舞いを火山の噴火のアレゴリーと解釈することに
関連して、極めて重要で興味深いことに気づいたので、このスレが消滅する
前に書き残しておくことにする。それは、「五穀の起源」に関連する
大気都比売神(オオゲツヒメ)のエピソードが、インデックス性の反転に
よってもたらされるイメージの転換による「けが(穢)れ」の「け」の
両義性についての「メタ言語的なアレゴリー」であると解釈できることである。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 20:57:20.83 0
又、食物を大気都比売神に乞ひたまひき。爾に大気都比売、鼻口及尻より、
種種の味物を取り出でて、種種作り具へて進る時に、速須佐之男命、其の
態を立ち伺ひて、穢汚して奉進ると為ほして、乃ち其の大宜津比売神を殺し
たまひき。故、殺さえたまへる神の身に生れる物は、頭に蚕生り、二つの目に
稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。
故、是に神産巣日御祖命、茲れを取らしめて種と成したまひき。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 21:06:12.15 0
ここで、説明の手間を省くため、以前に関連する記号論スレで「けが(穢)れ」に
ついて私自身が書き込んだことをいくつか貼りつけることにしよう。ただし、この
時点では、私自身まだ、インデックス性の反転にまで考察が及んでいない。

考える名無しさん:2015/06/11(木) 13:00:19.57 0
「きたなし」と密接に関連する「けがれ」の語源については、いろいろな
議論があるようだが、岩波古語辞典に記載される「ケ(褻)カレ(離)」の
複合か」という説明が、「ケ(褻)」は、「『晴れ』の対。ケ(日)と
同根」とする、やはり岩波古語辞典に記載される説明と合わせて、妥当で
あるように思う。

身に帯びた「きたなし(extremely dark)」という性質が「けがれ(穢れ/汚れ)」
=「ケ(褻≒日)カレ(離)」であると考えることができる。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 21:10:50.97 0
考える名無しさん:2015/06/12(金) 13:50:19.83 0
重陽の節句については、枕草子にも記載がある。

>九月九日は、暁方より雨すこし降りて、菊の露もこちたく、おほひたる
>綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされたる。つとめては
>やみにたれど、なほ曇りて、ややもせば降り落ちぬべく見えたるも、をかし。

「陰陽思想」の本来の正しい(?)解釈がどうであれ、この行事の呪術的な
意味は明白だろう。「陽気が最大である」と考えられる日に菊の上で
透き通って輝く(≒clear, shiny and bright)露の一部を、前夜から綿を
おいて染み込ませて集め、その綿で身体の「穢れ/ケ(褻≒日)カ(離)れ」
(身に帯びた"darkness")を拭い去るのである。そうすることで死を遠ざけ、
長寿を得ることを望んだ。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 21:34:07.98 0
貼り付けは、ここまでにする。

現スレで書き込んだ、表現におけるインデックス性の反転について考慮しながら、
に貼り付けた私自身の過去の書き込みを見直してみると、「けが(穢)れ」
の解釈をそのまま「きたなし(extremely dark)」という表現に転換してしまって
いることに気づく。しかし、このことによって、説明に論理的な難点が生じており、
そのことについては、説明なしで済ませている。それは、語源的には「けが(穢)れ」
を、岩波古語辞典の解釈どおり「(褻≒日)カ(離)れ」、つまり「け」が「離れる」
ことであるとしながら、「重陽の節句」の解釈においては、「けが(穢)れ」≒
「『きたなし』という状態」を「拭い落とす」儀式であるとしている点である。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 21:48:12.60 0
ここで再び大気都比売神(オオゲツヒメ)のエピソードに戻ると、「オオゲツヒメ」
は、「五穀の起源」とされる神となるわけだが、様々な食べ物と鼻や口や尻から
取り出して速須佐之男命に進呈したため、食べ物を「けが(穢)している」と誤解
されて、殺されてしまうのである。つまり、私が、「重陽の節句」において
陽の光を吸収した露を含んだ綿で身を清めることを「穢れを拭い去る」ことで
あると解釈したのとちょうど逆に、オオゲツヒメが鼻や口や尻から食べ物を出す
行為は、食べ物に「穢れを擦り付ける」行為であると誤解されていることになる。
ここにおいて、古事記が記録された時点で「穢れ」の作用の解釈に既に両義性が
生じていることに気づく。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 22:01:25.24 0
「けが(穢)れ」を語源的に「ケ(褻≒日)カ(離)れ」と解釈するなら、オオゲツヒメ
の行為は、「穢す」行為ではなく、逆に食べ物を生み出すために「『け』を付ける」
行為であると理解できることになるだろう。「オオゲツヒメ」という名前自体、
自明である「オオ=大」と「ヒメ=姫」を除くと、「ゲツ(気都)」が残ることに
なり、「つ」を既に私が何度も解釈してきたとおり、「力が作用する連続/継続的
な接触の様態」を表す動詞的要素であるとするなら、「オオゲツヒメ」≒
「大いなる『け』を保つ姫」と解釈できることになる。実際、「け(気)」の
発音は、岩波古語辞典で確認しても、「けが(穢)れ」の「け」の発音と同じである。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 22:16:19.83 0
岩波古語辞典で「け(日)」を引くと、「《カ(日)の転》『ひ(日)』が一日を
いうのに対して、二日以上にわたる期間をまとめていう語」と解説したうえで、
「このように複数だけを表す単語は、日本語には他例がない」としている。
しかし、私の妄想では、「け」は、「日の複数」というより、「か」の効果、
すなわち、「かげ」の「げ」と同じく「cast(light)」(転じて「イメージ」)を
表していたのではないかと思う。すると、「投射された光の効果」が離れる
ことが、「けがれ」た状態ということになり、オオゲツヒメの行為も、
「重陽の節句」の儀式もともに、弱まった「け」を強めるために「『け』を
身に擦りつける行為」であることになるだろう。
考える名無しさん [sage] 2017/03/08(水) 22:31:18.64 0
「けがれ」の「け」が語源的には「投射された光の効果」であったとして、
なぜ「け」が両義的に解釈されるようになったかを推測すると、やはり、
インデックス性の反転がかかわっていると考えられる。「けがれ」=
「け」が「離れる」というインデックス性を反転させたのが、「きた
(≒darkness)」を「帯びる」ことであり、「きたなし(≒extreme darkness)」
は、身についた状態としてイメージされることになる。「けがれ/きたなし」
という反転可能なペアとして表現が用いられることで、「けがれ」そのもの
が「け」が「離れる」ことではなく、「けがれ」が身に「付く」ことと
してイメージされることになり、そのようにして生じた「けがれ」の両義的
なイメージをメタ言語的にアレゴリーとして表現したのが、オオゲツヒメの
エピソードなのだろうと私には思える。
考える名無しさん [] 2017/03/10(金) 14:08:24.59 0
けがれのけは毛であり、僕の頭に毛がないと言うのはもうやめて

メタ言語をやめてケタ言語として、穢れた言語で記号するの
学術 sinscake adanei [] 2017/03/10(金) 14:29:02.14 0
毛なしは動物虐内の功徳か。やさしくなれば。
考える名無しさん [] 2017/03/10(金) 15:16:37.30 0
毛が零
学術 sinscake adanei [] 2017/03/10(金) 16:42:59.04 0
綾波のような?
考える名無しさん [] 2017/03/11(土) 12:52:10.51 0
初心者には、まず、
考える名無しさん [] 2017/03/11(土) 12:53:14.14 0
記号論と記号学の違いから教えてあげよう
考える名無しさん [] 2017/03/14(火) 21:20:20.51 0
記号とかうんこ
美魔女 [] 2017/03/17(金) 01:22:32.99 0
肉体はほろびないわ
考える名無しさん [] 2017/03/17(金) 01:27:43.40 0
安心しろ

ちゃんと老いるから
美魔女 [] 2017/03/22(水) 11:18:58.96 0
あたひ、まだ腐ってないよ、だってピチピチだもの、
なんでそんなことをいうのよ、

しわがすこしあっても肌ががさがさなところがあっても
髪のボリュームが少しぐらいなくても、
目に熊があっても少しぐらいなら化粧で誤魔化せるわ、
リップクリームぬって綺麗な私のクチビルは魅力的なのだわ
考える名無しさん [] 2017/03/22(水) 11:33:01.95 0
水を分かち合おう

永遠に枯れない生命の水を
考える名無しさん [] 2017/03/22(水) 21:01:04.09 0
ケタ言語、検索してみます。
考える名無しさん [] 2017/03/22(水) 23:32:40.90 0

どんどん、萎びてゆくから。
心配しなくても、大丈夫。
考える名無しさん [] 2017/03/23(木) 19:01:15.12 0
記号論≒貨幣論だよな。
考える名無しさん [] 2017/03/24(金) 14:19:13.17 0
ケモノ言語つくりました
考える名無しさん [] 2017/04/01(土) 17:48:11.63 0
たのしい、
考える名無しさん [] 2017/04/02(日) 19:45:50.23 0
ウンベルト・エーコと話したことがある。
来日して、銀座に来ていた。
おたがい英語だった。
私の英語力が未熟で、深いところまで話せなかった。
エーコは「記号は名前」と言っていた。
考える名無しさん [] 2017/04/02(日) 21:20:42.08 0
この人かなりやり手だわ
美魔女 [] 2017/04/02(日) 21:32:02.47 0

エーコさんってバカなんですね😃
考える名無しさん [] 2017/04/03(月) 11:35:42.29 0

たのしい
考える名無しさん [sage] 2017/04/05(水) 21:34:28.08 0
すごーい
うれしい
考える名無しさん [] 2017/04/07(金) 10:54:13.37 0

美魔女て鬘なんですか?
美魔女 [] 2017/04/07(金) 14:42:17.03 0

どうしたの
坊や
お腹空いたの?😆
美魔女 [] 2017/04/07(金) 15:08:39.33 0

聞き間違えと思うけどねー✨
美魔女 [] 2017/04/09(日) 19:43:12.01 0
記号とは常に低次の意味作用から高次のものへと発展するよ✨
記号は時間の中にあるでしゅ🍒
美魔女 [] 2017/04/09(日) 23:02:30.19 0
欽ドン賞ちょうだーい☆
集めてるの。🍒
美魔女 [] 2017/04/10(月) 02:49:35.76 0
わたしの野糞を嘗め回したのは誰よ、もっと舐めて
考える名無しさん [] 2017/04/17(月) 11:55:04.08 0
記号哲学にしても、コード哲学にしても、共通するところは、
隠語を含んでいると思われます。

それ以外の哲学においても、隠語を含んでいると思われます。
美魔女 [] 2017/04/17(月) 12:48:27.95 0

ナリスマシ!🐧
美魔女 [] 2017/04/17(月) 14:16:30.85 0

貴方はセンスがありましゅ🎉
学術 [] 2017/04/17(月) 18:17:21.01 0
暗韻。
美魔女 [] 2017/04/17(月) 18:38:32.08 0
多分ね、多分😹
考える名無しさん [] 2017/05/26(金) 05:23:08.92 0
うそです
美魔女 [] 2017/05/26(金) 05:25:44.07 0
蚊に刺されたあ😰
考える名無しさん [] 2017/05/26(金) 05:39:45.75 0
O型だってことか
美魔女 [] 2017/05/26(金) 10:42:24.49 0

当たり🎯

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