アンパンマンは
- ： ななしじゃにー [] 2018/01/08(月) 21:21:46.76:vpSycgI7O
- Kill me soon
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:00:04.14:2aDn8M2J0
- 誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:00:19.90:2aDn8M2J0
- それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:00:35.53:2aDn8M2J0
- 僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:00:51.14:2aDn8M2J0
- 尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:01:06.75:2aDn8M2J0
- レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:01:22.48:2aDn8M2J0
- この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:01:38.12:2aDn8M2J0
- 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:01:53.75:2aDn8M2J0
- しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:02:09.47:2aDn8M2J0
- のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:02:25.19:2aDn8M2J0
- 自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:02:40.81:2aDn8M2J0
- それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:02:56.53:2aDn8M2J0
- が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:03:12.16:2aDn8M2J0
- 何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:03:27.88:2aDn8M2J0
- 君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:03:43.50:2aDn8M2J0
- しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:03:59.11:2aDn8M2J0
- 従つて僕は君を咎めない。……
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:04:14.83:2aDn8M2J0
- 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:04:30.52:2aDn8M2J0
- 僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:04:46.21:2aDn8M2J0
- マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:05:01.85:2aDn8M2J0
- が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:05:17.55:2aDn8M2J0
- 家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:05:33.17:2aDn8M2J0
- これも亦君には、Inhuman
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:05:48.89:2aDn8M2J0
- けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:06:04.53:2aDn8M2J0
- 僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:06:20.24:2aDn8M2J0
- (僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:06:35.94:2aDn8M2J0
- それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:06:51.68:2aDn8M2J0
- 唯僕に対する社会的条件、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:07:07.39:2aDn8M2J0
- 僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:07:23.11:2aDn8M2J0
- なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:07:38.81:2aDn8M2J0
- 僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:07:54.52:2aDn8M2J0
- 大抵は僕の所作を書かうとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:08:10.24:2aDn8M2J0
- のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:08:25.96:2aDn8M2J0
- 僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:08:41.57:2aDn8M2J0
- 縊死は勿論この目的に最も合する手段である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:08:57.19:2aDn8M2J0
- が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:09:12.81:2aDn8M2J0
- (僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:09:28.51:2aDn8M2J0
- のみならず万一成就するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:09:44.23:2aDn8M2J0
- 轢死も僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:09:59.95:2aDn8M2J0
- ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:10:15.67:2aDn8M2J0
- ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:10:31.40:2aDn8M2J0
- 僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:10:47.11:2aDn8M2J0
- 薬品を用ひて死ぬことは縊死することよりも苦しいであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:11:02.85:2aDn8M2J0
- しかし縊死することよりも美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:11:18.56:2aDn8M2J0
- 唯この薬品を求めることは勿論僕には容易ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:11:34.38:2aDn8M2J0
- 僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:11:49.99:2aDn8M2J0
- 同時に又毒物学の知識を得ようとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:12:05.71:2aDn8M2J0
- それから僕の考へたのは僕の自殺する場所である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:12:21.44:2aDn8M2J0
- 僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手よらなければならぬ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:12:37.14:2aDn8M2J0
- 僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:12:52.86:2aDn8M2J0
- 僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:13:08.58:2aDn8M2J0
- 従つて別荘の一つもあるブルヂヨアたちに羨ましさを感じた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:13:24.32:2aDn8M2J0
- 君はかう云ふ僕の言葉に或可笑しさを感じるであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:13:40.04:2aDn8M2J0
- 僕も亦今は僕自身の言葉に或可笑しさを感じてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:13:55.66:2aDn8M2J0
- が、このことを考へた時には事実上しみじみ不便を感じた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:14:11.37:2aDn8M2J0
- この不便は到底避けるわけには行かない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:14:27.17:2aDn8M2J0
- 僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないやうに自殺したいと思つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:14:42.87:2aDn8M2J0
- しかし僕は手段を定めた後も半ばは生に執着してゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:14:58.47:2aDn8M2J0
- 従つて死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:15:14.20:2aDn8M2J0
- (僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:15:29.92:2aDn8M2J0
- 仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:15:45.57:2aDn8M2J0
- 曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:16:01.28:2aDn8M2J0
- しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:16:16.99:2aDn8M2J0
- 誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:16:32.71:2aDn8M2J0
- その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:16:48.43:2aDn8M2J0
- クライストは彼の自殺する前に度たび彼の友だちに(男の)途づれになることを勧誘した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:17:04.06:2aDn8M2J0
- 又ラシイヌもモリエエルやボアロオと一しよにセエヌ河に投身しようとしてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:17:19.76:2aDn8M2J0
- しかし僕は不幸にもかう云ふ友だちを持つてゐない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:17:35.48:2aDn8M2J0
- 唯僕の知つてゐる女人は僕と一しよに死なうとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:17:51.08:2aDn8M2J0
- が、それは僕等の為には出来ない相談になつてしまつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:18:06.81:2aDn8M2J0
- そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:18:22.42:2aDn8M2J0
- それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:18:38.14:2aDn8M2J0
- 寧ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻を劬りたいと思つたからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:18:53.85:2aDn8M2J0
- 同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:19:09.44:2aDn8M2J0
- そこには又僕の自殺する時を自由に選ぶことの出来ると云ふ便宜もあつたのに違ひない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:19:25.07:2aDn8M2J0
- 最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:19:40.79:2aDn8M2J0
- これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:19:56.52:2aDn8M2J0
- (それ等の細部に亘ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:20:12.24:2aDn8M2J0
- 尤もここに書いたにしろ、法律上の自殺幇助罪このくらゐ滑稽な罪名はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:20:27.96:2aDn8M2J0
- 若しこの法律を適用すれば、どの位犯罪人の数を殖やすことであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:20:43.58:2aDn8M2J0
- 薬局や銃砲店や剃刀屋はたとひ「知らない」と言つたにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現れる限り、多少の嫌疑を受けなければならぬ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:20:59.30:2aDn8M2J0
- のみならず社会や法律はそれ等自身自殺幇助罪を構成してゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:21:14.91:2aDn8M2J0
- 最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:21:30.65:2aDn8M2J0
- を構成しないことは確かである。)僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:21:46.36:2aDn8M2J0
- この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:22:02.05:2aDn8M2J0
- 我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:22:17.68:2aDn8M2J0
- 所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:22:33.30:2aDn8M2J0
- 僕も亦人間獣の一匹である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:22:48.91:2aDn8M2J0
- しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:23:04.64:2aDn8M2J0
- 僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:23:20.24:2aDn8M2J0
- 僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:23:35.94:2aDn8M2J0
- 若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:23:51.66:2aDn8M2J0
- しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:24:07.27:2aDn8M2J0
- 唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:24:22.97:2aDn8M2J0
- 君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:24:38.60:2aDn8M2J0
- けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:24:54.19:2aDn8M2J0
- 僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:25:09.80:2aDn8M2J0
- それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:25:25.41:2aDn8M2J0
- どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措いてくれ給へ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:25:41.15:2aDn8M2J0
- 僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:25:56.86:2aDn8M2J0
- 僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:26:12.58:2aDn8M2J0
- 僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:26:28.31:2aDn8M2J0
- いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:26:44.01:2aDn8M2J0
- 君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:26:59.75:2aDn8M2J0
- 僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:27:15.37:2aDn8M2J0
- 彼は若い社会主義者だつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:27:31.14:2aDn8M2J0
- 或小官吏だつた彼の父はそのためにかれを勘当しようとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:27:46.84:2aDn8M2J0
- が、彼は屈しなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:28:02.53:2aDn8M2J0
- それは彼の情熱が烈しかつたためでもあり、又一つには彼の友だちが彼を激励したためでもあつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:28:18.27:2aDn8M2J0
- 彼等は或団体をつくり、十ペエジばかりのパンフレツトを出したり、演説会を開いたりしてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:28:33.98:2aDn8M2J0
- 彼も勿論彼等の会合へ絶えず顔を出した上、時々そのパンフレツトへ彼の論文を発表した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:28:49.68:2aDn8M2J0
- 彼の論文は彼等以外に誰も余り読まないらしかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:29:05.40:2aDn8M2J0
- しかし彼はその中の一篇、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:29:21.01:2aDn8M2J0
- 「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇に多少の自信を抱いてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:29:36.61:2aDn8M2J0
- それは緻密な思索はないにしても、詩的な情熱に富んだものだつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:29:52.32:2aDn8M2J0
- そのうちに彼は学校を出、或雑誌社へ勤めることになつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:30:07.93:2aDn8M2J0
- けれども彼等の会合へ顔を出すことは怠らなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:30:23.65:2aDn8M2J0
- 彼等は相変らず熱心に彼等の問題を論じ合つてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:30:39.34:2aDn8M2J0
- のみならず地下水の石を鑿つやうにじりじり実行へも移らうとしてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:30:55.06:2aDn8M2J0
- 彼の父も今となつては彼に干渉を加へなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:31:10.77:2aDn8M2J0
- 彼は或女と結婚し、小さい家に住むやうになつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:31:26.48:2aDn8M2J0
- 彼の家は実際小さかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:31:42.21:2aDn8M2J0
- が、彼は不満どころか、可なり幸福に感じてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:31:57.82:2aDn8M2J0
- 妻、小犬、庭先のポプラア、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:32:13.54:2aDn8M2J0
- それ等は彼の生活に何か今まで感じなかつた或親しみを与へたのだつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:32:29.26:2aDn8M2J0
- 彼は家庭を持つたために、一つには又寸刻を争ふ勤め先の仕事に追はれたために、いつか彼等の会合へ顔を出すのを怠るやうになつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:32:44.91:2aDn8M2J0
- しかし彼の情熱は決して衰へた訣ではなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:33:00.51:2aDn8M2J0
- 少くとも彼は現在の彼も決して数年以前の彼と変らないことを信じてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:33:16.23:2aDn8M2J0
- 彼の同志は彼自身のやうには考へなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:33:31.94:2aDn8M2J0
- 殊に彼等の団体へ新にはひつて来た青年たちは彼の怠惰を非難するのに少しも遠慮を加へなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:33:47.67:2aDn8M2J0
- それは勿論いつの間にか一層彼等の会合から彼を遠ざけずには措かなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:34:03.27:2aDn8M2J0
- そこへ彼は父親になり、愈家庭に親しみ出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:34:18.99:2aDn8M2J0
- けれども彼の情熱はやはり社会主義に向つてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:34:34.70:2aDn8M2J0
- 彼は夜更の電燈の下に彼の勉強を怠らなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:34:50.40:2aDn8M2J0
- 同時に又彼が以前書いた十何篇かの論文には、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:35:06.11:2aDn8M2J0
- 就中「リイプクネヒトを憶ふ」の一篇にはだんだん物足らなさを感じ出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:35:21.79:2aDn8M2J0
- 彼等も又彼に冷淡だつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:35:37.56:2aDn8M2J0
- 彼はもう彼等には非難するのにも足らないものだつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:35:53.29:2aDn8M2J0
- 彼等は彼を残したまま、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:36:09.01:2aDn8M2J0
- 或は大体彼に近い何人かの人々を残したまま、著々と仕事を進めて行つた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:36:24.63:2aDn8M2J0
- 彼は旧友に会ふたびに今更のやうに愚痴をこぼしたりしてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:36:40.34:2aDn8M2J0
- が、実は彼自身もいつかただ俗人の平和に満足してゐたのに違ひなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:36:56.04:2aDn8M2J0
- それから何年かたつた後、彼は或会社に勤め、重役たちの信用を得るやうになつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:37:11.65:2aDn8M2J0
- 従つて今では以前よりも兎も角大きい家に住み、何人かの子供を育てるやうになつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:37:27.35:2aDn8M2J0
- しかし彼の情熱は、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:37:43.07:2aDn8M2J0
- そのどこにあるかといふことは神の知るばかりかも知れなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:37:59.02:2aDn8M2J0
- 彼は時々籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:38:14.73:2aDn8M2J0
- それは妙に彼の心を憂鬱にすることもない訣ではなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:38:30.33:2aDn8M2J0
- けれども東洋の「あきらめ」はいつも彼を救ひ出すのだつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:38:45.95:2aDn8M2J0
- 彼は確に落伍者だつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:39:01.55:2aDn8M2J0
- が、彼の「リイプクネヒトを憶ふ」は或青年を動かしてゐた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:39:17.27:2aDn8M2J0
- それは株に手を出した挙句、親譲りの財産を失つた大阪の或青年だつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:39:33.00:2aDn8M2J0
- その青年は彼の論文を読み、それを機縁に社会主義者になつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:39:48.72:2aDn8M2J0
- が、勿論そんなことは彼には全然わからなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:40:04.33:2aDn8M2J0
- 彼は今でも籐椅子により、一本の葉巻を楽しみながら、彼の青年時代を思ひ出してゐる、人間的に、恐らくは余りに人間的に。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:40:20.05:2aDn8M2J0
- 立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:40:35.65:2aDn8M2J0
- 元浅野内匠頭家来、当時細川家に御預り中の大石内蔵助良雄は、その障子を後にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:40:51.27:2aDn8M2J0
- 書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:41:06.96:2aDn8M2J0
- 九人一つ座敷にいる中で、片岡源五右衛門は、今し方厠へ立った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:41:22.60:2aDn8M2J0
- 早水藤左衛門は、下の間へ話しに行って、未にここへ帰らない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:41:38.31:2aDn8M2J0
- あとには、吉田忠左衛門、原惣右衛門、間瀬久太夫、小野寺十内、堀部弥兵衛、間喜兵衛の六人が、障子にさしている日影も忘れたように、あるいは書見に耽ったり、あるいは消息を認めたりしている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:41:54.05:2aDn8M2J0
- その六人が六人とも、五十歳以上の老人ばかり揃っていたせいか、まだ春の浅い座敷の中は、肌寒いばかりにもの静である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:42:09.74:2aDn8M2J0
- 時たま、しわぶきの声をさせるものがあっても、それは、かすかに漂っている墨の匂を動かすほどの音さえ立てない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:42:25.35:2aDn8M2J0
- 内蔵助は、ふと眼を三国誌からはなして、遠い所を見るような眼をしながら、静に手を傍の火鉢の上にかざした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:42:41.07:2aDn8M2J0
- 金網をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:42:56.79:2aDn8M2J0
- その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:43:12.37:2aDn8M2J0
- 丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉岳寺へ引上げた時、彼自ら「あらたのし思いははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の満足が帰って来たのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:43:27.98:2aDn8M2J0
- 赤穂の城を退去して以来、二年に近い月日を、如何に彼は焦慮と画策との中に、費した事であろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:43:43.69:2aDn8M2J0
- 動もすればはやり勝ちな、一党の客気を控制して、徐に機の熟するのを待っただけでも、並大抵な骨折りではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:43:59.41:2aDn8M2J0
- しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺を窺っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:44:15.04:2aDn8M2J0
- 彼は放埓を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:44:30.75:2aDn8M2J0
- 山科や円山の謀議の昔を思い返せば、当時の苦衷が再び心の中によみ返って来る。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:44:46.46:2aDn8M2J0
- しかし、もうすべては行く処へ行きついた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:45:02.07:2aDn8M2J0
- もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一党四十七人に対する、公儀の御沙汰だけである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:45:17.81:2aDn8M2J0
- が、その御沙汰があるのも、いずれ遠い事ではないのに違いない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:45:33.40:2aDn8M2J0
- すべては行く処へ行きついた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:45:49.12:2aDn8M2J0
- それも単に、復讐の挙が成就したと云うばかりではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:46:04.83:2aDn8M2J0
- すべてが、彼の道徳上の要求と、ほとんど完全に一致するような形式で成就した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:46:20.44:2aDn8M2J0
- 彼は、事業を完成した満足を味ったばかりでなく、道徳を体現した満足をも、同時に味う事が出来たのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:46:36.15:2aDn8M2J0
- しかも、その満足は、復讐の目的から考えても、手段から考えても、良心の疚しさに曇らされる所は少しもない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:46:51.76:2aDn8M2J0
- 彼として、これ以上の満足があり得ようか。……
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:47:07.69:2aDn8M2J0
- こう思いながら、内蔵助は眉をのべて、これも書見に倦んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習いをしていた吉田忠左衛門に、火鉢のこちらから声をかけた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:47:23.39:2aDn8M2J0
- 「今日は余程暖いようですな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:47:38.99:2aDn8M2J0
- 「さようでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:47:54.75:2aDn8M2J0
- こうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡気がさしそうでなりません。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:48:10.45:2aDn8M2J0
- この正月の元旦に、富森助右衛門が、三杯の屠蘇に酔って、「今日も春恥しからぬ寝武士かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:48:26.15:2aDn8M2J0
- 句意も、良雄が今感じている満足と変りはない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:48:41.76:2aDn8M2J0
- 「やはり本意を遂げたと云う、気のゆるみがあるのでございましょう。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:48:57.38:2aDn8M2J0
- それもありましょう。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:49:13.10:2aDn8M2J0
- 忠左衛門は、手もとの煙管をとり上げて、つつましく一服の煙を味った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:49:28.73:2aDn8M2J0
- 煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:49:44.44:2aDn8M2J0
- 「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:50:00.20:2aDn8M2J0
- 「さようでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:50:15.82:2aDn8M2J0
- 手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませんでした。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:50:31.55:2aDn8M2J0
- 「我々は、よくよく運のよいものと見えますな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:50:47.17:2aDn8M2J0
- 二人は、満足そうに、眼で笑い合った。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:51:18.53:2aDn8M2J0
- 味わう事が出来たのであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:51:34.25:2aDn8M2J0
- が、現実は、血色の良い藤左衛門の両頬に浮んでいる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいって来た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:51:50.01:2aDn8M2J0
- が、彼等は、勿論それには気がつかない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:52:05.66:2aDn8M2J0
- 「大分下の間は、賑かなようですな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:52:21.37:2aDn8M2J0
- 忠左衛門は、こう云いながら、また煙草を一服吸いつけた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:52:37.09:2aDn8M2J0
- 「今日の当番は、伝右衛門殿ですから、それで余計話がはずむのでしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:52:52.81:2aDn8M2J0
- 片岡なども、今し方あちらへ参って、そのまま坐りこんでしまいました。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:53:08.54:2aDn8M2J0
- 「道理こそ、遅いと思いましたよ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:53:24.26:2aDn8M2J0
- 忠左衛門は、煙にむせて、苦しそうに笑った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:53:39.96:2aDn8M2J0
- すると、頻に筆を走らせていた小野寺十内が、何かと思った気色で、ちょいと顔をあげたが、すぐまた眼を紙へ落して、せっせとあとを書き始める。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:53:55.55:2aDn8M2J0
- これは恐らく、京都の妻女へ送る消息でも、認めていたものであろう。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:54:11.27:2aDn8M2J0
- 内蔵助も、眦の皺を深くして、笑いながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:54:26.98:2aDn8M2J0
- 「何か面白い話でもありましたか。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:54:42.70:2aDn8M2J0
- 不相変の無駄話ばかりでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:54:58.31:2aDn8M2J0
- もっとも先刻、近松が甚三郎の話を致した時には、伝右衛門殿なぞも、眼に涙をためて、聞いて居られましたが、そのほかは――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:55:14.02:2aDn8M2J0
- いや、そう云えば、面白い話がございました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:55:29.76:2aDn8M2J0
- 我々が吉良殿を討取って以来、江戸中に何かと仇討じみた事が流行るそうでございます。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:55:45.38:2aDn8M2J0
- 「ははあ、それは思いもよりませんな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:56:01.00:2aDn8M2J0
- 忠左衛門は、けげんな顔をして、藤左衛門を見た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:56:16.70:2aDn8M2J0
- 相手は、この話をして聞かせるのが、何故か非常に得意らしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:56:32.31:2aDn8M2J0
- 「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも可笑しかったのは、南八丁堀の湊町辺にあった話です。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:56:47.91:2aDn8M2J0
- 何でも事の起りは、あの界隈の米屋の亭主が、風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:57:03.53:2aDn8M2J0
- どうせ起りは、湯がはねかったとか何とか云う、つまらない事からなのでしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:57:19.26:2aDn8M2J0
- そうして、その揚句に米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々撲られたのだそうです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:57:34.97:2aDn8M2J0
- すると、米屋の丁稚が一人、それを遺恨に思って、暮方その職人の外へ出る所を待伏せて、いきなり鉤を向うの肩へ打ちこんだと云うじゃありませんか。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:57:50.57:2aDn8M2J0
- それも「主人の讐、思い知れ」と云いながら、やったのだそうです。……」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:58:06.19:2aDn8M2J0
- 藤左衛門は、手真似をしながら、笑い笑い、こう云った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:58:21.90:2aDn8M2J0
- 「それはまた乱暴至極ですな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:58:37.61:2aDn8M2J0
- 「職人の方は、大怪我をしたようです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:58:53.34:2aDn8M2J0
- それでも、近所の評判は、その丁稚の方が好いと云うのだから、不思議でしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:59:08.95:2aDn8M2J0
- そのほかまだその通町三丁目にも一つ、新麹町の二丁目にも一つ、それから、もう一つはどこでしたかな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:59:24.66:2aDn8M2J0
- とにかく、諸方にあるそうです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:59:40.39:2aDn8M2J0
- それが皆、我々の真似だそうだから、可笑しいじゃありませんか。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 02:59:56.17:2aDn8M2J0
- 藤左衛門と忠左衛門とは、顔を見合せて、笑った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:00:11.87:2aDn8M2J0
- 復讐の挙が江戸の人心に与えた影響を耳にするのは、どんな些事にしても、快いに相違ない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:00:27.59:2aDn8M2J0
- ただ一人内蔵助だけは、僅に額へ手を加えたまま、つまらなそうな顔をして、黙っている。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:00:43.32:2aDn8M2J0
- 藤左衛門の話は、彼の心の満足に、かすかながら妙な曇りを落させた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:00:58.93:2aDn8M2J0
- と云っても、勿論彼が、彼のした行為のあらゆる結果に、責任を持つ気でいた訳ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:01:14.63:2aDn8M2J0
- 彼等が復讐の挙を果して以来、江戸中に仇討が流行した所で、それはもとより彼の良心と風馬牛なのが当然である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:01:30.36:2aDn8M2J0
- しかし、それにも関らず、彼の心からは、今までの春の温もりが、幾分か減却したような感じがあった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:01:45.98:2aDn8M2J0
- 事実を云えば、その時の彼は、単に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊か驚いただけなのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:02:01.61:2aDn8M2J0
- が、ふだんの彼なら、藤左衛門や忠左衛門と共に、笑ってすませる筈のこの事実が、その時の満足しきった彼の心には、ふと不快な種を蒔く事になった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:02:17.34:2aDn8M2J0
- これは恐らく、彼の満足が、暗々の裡に論理と背馳して、彼の行為とその結果のすべてとを肯定するほど、虫の好い性質を帯びていたからであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:02:33.05:2aDn8M2J0
- 勿論当時の彼の心には、こう云う解剖的な考えは、少しもはいって来なかった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:02:48.75:2aDn8M2J0
- 彼はただ、春風の底に一脈の氷冷の気を感じて、何となく不愉快になっただけである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:03:04.36:2aDn8M2J0
- しかし、内蔵助の笑わなかったのは、格別二人の注意を惹かなかったらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:03:20.12:2aDn8M2J0
- いや、人の好い藤左衛門の如きは、彼自身にとってこの話が興味あるように、内蔵助にとっても興味があるものと確信して疑わなかったのであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:03:35.74:2aDn8M2J0
- それでなければ、彼は、更に自身下の間へ赴いて、当日の当直だった細川家の家来、堀内伝右衛門を、わざわざこちらへつれて来などはしなかったのに相違ない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:03:51.46:2aDn8M2J0
- 所が、万事にまめな彼は、忠左衛門を顧て、「伝右衛門殿をよんで来ましょう。」とか何とか云うと、早速隔ての襖をあけて、気軽く下の間へ出向いて行った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:04:07.17:2aDn8M2J0
- そうして、ほどなく、見た所から無骨らしい伝右衛門を伴なって、不相変の微笑をたたえながら、得々として帰って来た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:04:22.90:2aDn8M2J0
- 「いや、これは、とんだ御足労を願って恐縮でございますな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:04:38.61:2aDn8M2J0
- 忠左衛門は、伝右衛門の姿を見ると、良雄に代って、微笑しながらこう云った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:04:54.33:2aDn8M2J0
- 伝右衛門の素朴で、真率な性格は、お預けになって以来、夙に彼と彼等との間を、故旧のような温情でつないでいたからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:05:10.06:2aDn8M2J0
- 「早水氏が是非こちらへ参れと云われるので、御邪魔とは思いながら、罷り出ました。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:05:25.66:2aDn8M2J0
- 伝右衛門は、座につくと、太い眉毛を動かしながら、日にやけた頬の筋肉を、今にも笑い出しそうに動かして、万遍なく一座を見廻した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:05:41.37:2aDn8M2J0
- これにつれて、書物を読んでいたのも、筆を動かしていたのも、皆それぞれ挨拶をする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:05:56.98:2aDn8M2J0
- 内蔵助もやはり、慇懃に会釈をした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:06:12.71:2aDn8M2J0
- ただその中で聊か滑稽の観があったのは、読みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけたまま、居眠りをしていた堀部弥兵衛が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはずして、丁寧に頭を下げた容子である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:06:28.42:2aDn8M2J0
- これにはさすがな間喜兵衛も、よくよく可笑しかったものと見えて、傍の衝立の方を向きながら、苦しそうな顔をして笑をこらえていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:06:44.03:2aDn8M2J0
- 「伝右衛門殿も老人はお嫌いだと見えて、とかくこちらへはお出になりませんな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:06:59.75:2aDn8M2J0
- 内蔵助は、いつに似合わない、滑な調子で、こう云った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:07:15.46:2aDn8M2J0
- 幾分か乱されはしたものの、まだ彼の胸底には、さっきの満足の情が、暖く流れていたからであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:07:31.19:2aDn8M2J0
- 「いや、そう云う訳ではございませんが、何かとあちらの方々に引とめられて、ついそのまま、話しこんでしまうのでございます。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:07:46.90:2aDn8M2J0
- 「今も承れば、大分面白い話が出たようでございますな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:08:02.59:2aDn8M2J0
- 忠左衛門も、傍から口を挟んだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:08:18.31:2aDn8M2J0
- 「江戸中で仇討の真似事が流行ると云う、あの話でございます。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:08:34.03:2aDn8M2J0
- 藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助とを、にこにこしながら、等分に見比べた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:08:49.74:2aDn8M2J0
- 「はあ、いや、あの話でございますか。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:09:05.47:2aDn8M2J0
- 人情と云うものは、実に妙なものでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:09:21.15:2aDn8M2J0
- 御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:09:36.88:2aDn8M2J0
- これで、どのくらいじだらくな上下の風俗が、改まるかわかりません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:09:52.59:2aDn8M2J0
- やれ浄瑠璃の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行っている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:10:08.30:2aDn8M2J0
- 会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:10:24.04:2aDn8M2J0
- そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辞を述べながら、巧にその方向を転換しようとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:10:39.76:2aDn8M2J0
- 「手前たちの忠義をお褒め下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:10:55.47:2aDn8M2J0
- こう云って、一座を眺めながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:11:11.17:2aDn8M2J0
- 「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:11:26.91:2aDn8M2J0
- もっとも最初は、奥野将監などと申す番頭も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、ついに同盟を脱しましたのは、心外と申すよりほかはございません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:11:42.62:2aDn8M2J0
- そのほか、新藤源四郎、河村伝兵衛、小山源五左衛門などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:11:58.24:2aDn8M2J0
- その中には、手前の親族の者もございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:12:13.95:2aDn8M2J0
- して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:12:29.66:2aDn8M2J0
- 一座の空気は、内蔵助のこの語と共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目な調子を帯びた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:12:45.27:2aDn8M2J0
- この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:13:00.98:2aDn8M2J0
- が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自らまた別な問題である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:13:16.70:2aDn8M2J0
- 彼の述懐を聞くと、まず早水藤左衛門は、両手にこしらえていた拳骨を、二三度膝の上にこすりながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:13:32.32:2aDn8M2J0
- 「彼奴等は皆、揃いも揃った人畜生ばかりですな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:13:48.03:2aDn8M2J0
- 一人として、武士の風上にも置けるような奴は居りません。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:14:03.75:2aDn8M2J0
- それも高田群兵衛などになると、畜生より劣っていますて。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:14:19.46:2aDn8M2J0
- 忠左衛門は、眉をあげて、賛同を求めるように、堀部弥兵衛を見た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:14:35.16:2aDn8M2J0
- 慷慨家の弥兵衛は、もとより黙っていない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:14:50.88:2aDn8M2J0
- 「引き上げの朝、彼奴に遇った時には、唾を吐きかけても飽き足らぬと思いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:15:06.49:2aDn8M2J0
- 何しろのめのめと我々の前へ面をさらした上に、御本望を遂げられ、大慶の至りなどと云うのですからな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:15:22.20:2aDn8M2J0
- 「高田も高田じゃが、小山田庄左衛門などもしようのないたわけ者じゃ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:15:37.83:2aDn8M2J0
- 間瀬久太夫が、誰に云うともなくこう云うと、原惣右衛門や小野寺十内も、やはり口を斉しくして、背盟の徒を罵りはじめた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:15:53.56:2aDn8M2J0
- 寡黙な間喜兵衛でさえ、口こそきかないが、白髪頭をうなずかせて、一同の意見に賛同の意を表した事は、度々ある。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:16:09.26:2aDn8M2J0
- 「何に致せ、御一同のような忠臣と、一つ御藩に、さような輩が居ろうとは、考えられも致しませんな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:16:24.85:2aDn8M2J0
- さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍の禄盗人のと悪口を申して居るようでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:16:40.55:2aDn8M2J0
- 岡林杢之助殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹を斬らせたのだなどと云う風評がございました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:16:56.27:2aDn8M2J0
- またよしんばそうでないにしても、かような場合に立ち至って見れば、その汚名も受けずには居られますまい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:17:12.00:2aDn8M2J0
- まして、余人は猶更の事でございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:17:27.61:2aDn8M2J0
- これは、仇討の真似事を致すほど、義に勇みやすい江戸の事と申し、且はかねがね御一同の御憤りもある事と申し、さような輩を斬ってすてるものが出ないとも、限りませんな。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:17:43.25:2aDn8M2J0
- 伝右衛門は、他人事とは思われないような容子で、昂然とこう云い放った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:17:58.86:2aDn8M2J0
- この分では、誰よりも彼自身が、その斬り捨ての任に当り兼ねない勢いである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:18:14.57:2aDn8M2J0
- これに煽動された吉田、原、早水、堀部などは、皆一種の興奮を感じたように、愈手ひどく、乱臣賊子を罵殺しにかかった。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:18:30.29:2aDn8M2J0
- が、その中にただ一人、大石内蔵助だけは、両手を膝の上にのせたまま、愈つまらなそうな顔をして、だんだん口数をへらしながら、ぼんやり火鉢の中を眺めている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:18:46.00:2aDn8M2J0
- 彼は、彼の転換した方面へ会話が進行した結果、変心した故朋輩の代価で、彼等の忠義が益褒めそやされていると云う、新しい事実を発見した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:19:01.72:2aDn8M2J0
- そうして、それと共に、彼の胸底を吹いていた春風は、再び幾分の温もりを減却した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:19:17.43:2aDn8M2J0
- 勿論彼が背盟の徒のために惜んだのは、単に会話の方向を転じたかったためばかりではない、彼としては、実際彼等の変心を遺憾とも不快とも思っていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:19:33.15:2aDn8M2J0
- が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思っていない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:19:48.75:2aDn8M2J0
- 人情の向背も、世故の転変も、つぶさに味って来た彼の眼から見れば、彼等の変心の多くは、自然すぎるほど自然であった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:20:04.49:2aDn8M2J0
- もし真率と云う語が許されるとすれば、気の毒なくらい真率であった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:20:20.21:2aDn8M2J0
- 従って、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:20:35.90:2aDn8M2J0
- まして、復讐の事の成った今になって見れば、彼等に与う可きものは、ただ憫笑が残っているだけである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:20:51.62:2aDn8M2J0
- それを世間は、殺しても猶飽き足らないように、思っているらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:21:07.33:2aDn8M2J0
- 何故我々を忠義の士とするためには、彼等を人畜生としなければならないのであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:21:23.05:2aDn8M2J0
- 我々と彼等との差は、存外大きなものではない。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:21:38.76:2aDn8M2J0
- 江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った内蔵助は、それとは稍ちがった意味で、今度は背盟の徒が蒙った影響を、伝右衛門によって代表された、天下の公論の中に看取した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:21:54.48:2aDn8M2J0
- 彼が苦い顔をしたのも、決して偶然ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:22:10.19:2aDn8M2J0
- しかし、内蔵助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持っていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:22:25.78:2aDn8M2J0
- 彼の無言でいるのを見た伝右衛門は、大方それを彼らしい謙譲な心もちの結果とでも、推測したのであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:22:41.50:2aDn8M2J0
- 愈彼の人柄に敬服した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:22:57.10:2aDn8M2J0
- その敬服さ加減を披瀝するために、この朴直な肥後侍は、無理に話頭を一転すると、たちまち内蔵助の忠義に対する、盛な歎賞の辞をならべはじめた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:23:12.70:2aDn8M2J0
- 「過日もさる物識りから承りましたが、唐土の何とやら申す侍は、炭を呑んで唖になってまでも、主人の仇をつけ狙ったそうでございますな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:23:28.41:2aDn8M2J0
- しかし、それは内蔵助殿のように、心にもない放埓をつくされるよりは、まだまだ苦しくない方ではございますまいか。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:23:44.00:2aDn8M2J0
- 伝右衛門は、こう云う前置きをして、それから、内蔵助が濫行を尽した一年前の逸聞を、長々としゃべり出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:23:59.71:2aDn8M2J0
- 高尾や愛宕の紅葉狩も、佯狂の彼には、どのくらいつらかった事であろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:24:15.43:2aDn8M2J0
- 島原や祇園の花見の宴も、苦肉の計に耽っている彼には、苦しかったのに相違ない。……
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:24:31.14:2aDn8M2J0
- 「承れば、その頃京都では、大石かるくて張抜石などと申す唄も、流行りました由を聞き及びました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:24:46.87:2aDn8M2J0
- それほどまでに、天下を欺き了せるのは、よくよくの事でなければ出来ますまい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:25:02.47:2aDn8M2J0
- 先頃天野弥左衛門様が、沈勇だと御賞美になったのも、至極道理な事でございます。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:25:18.19:2aDn8M2J0
- 「いや、それほど何も、大した事ではございません。」内蔵助は、不承不承に答えた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:25:33.82:2aDn8M2J0
- その人に傲らない態度が、伝右衛門にとっては、物足りないと同時に、一層の奥床しさを感じさせたと見えて、今まで内蔵助の方を向いていた彼は、永年京都勤番をつとめていた小野寺十内の方へ向きを換えると、益、熱心に推服の意を洩し始めた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:25:49.55:2aDn8M2J0
- その子供らしい熱心さが、一党の中でも通人の名の高い十内には、可笑しいと同時に、可愛かったのであろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:26:05.28:2aDn8M2J0
- 彼は、素直に伝右衛門の意をむかえて、当時内蔵助が仇家の細作を欺くために、法衣をまとって升屋の夕霧のもとへ通いつめた話を、事明細に話して聞かせた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:26:21.02:2aDn8M2J0
- 「あの通り真面目な顔をしている内蔵助が、当時は里げしきと申す唄を作った事もございました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:26:36.62:2aDn8M2J0
- それがまた、中々評判で、廓中どこでもうたわなかった所は、なかったくらいでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:26:52.33:2aDn8M2J0
- そこへ当時の内蔵助の風俗が、墨染の法衣姿で、あの祇園の桜がちる中を、浮さま浮さまとそやされながら、酔って歩くと云うのでございましょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:27:08.07:2aDn8M2J0
- 里げしきの唄が流行ったり、内蔵助の濫行も名高くなったりしたのは、少しも無理はございません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:27:23.68:2aDn8M2J0
- 何しろ夕霧と云い、浮橋と云い、島原や撞木町の名高い太夫たちでも、内蔵助と云えば、下にも置かぬように扱うと云う騒ぎでございましたから。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:27:39.39:2aDn8M2J0
- 内蔵助は、こう云う十内の話を、殆ど侮蔑されたような心もちで、苦々しく聞いていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:27:55.01:2aDn8M2J0
- と同時にまた、昔の放埓の記憶を、思い出すともなく思い出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:28:10.74:2aDn8M2J0
- それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮な記憶である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:28:26.35:2aDn8M2J0
- 彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:28:42.06:2aDn8M2J0
- いや、今十内が云った里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云う文句さえ、春宮の中からぬけ出したような、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歴々と心中に浮んで来た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:28:57.79:2aDn8M2J0
- 如何に彼は、この記憶の中に出没するあらゆる放埓の生活を、思い切って受用した事であろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:29:13.51:2aDn8M2J0
- そうしてまた、如何に彼は、その放埓の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味った事であろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:29:29.22:2aDn8M2J0
- 彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:29:44.94:2aDn8M2J0
- 勿論この事実が不道徳なものだなどと云う事も、人間性に明な彼にとって、夢想さえ出来ない所である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:30:00.55:2aDn8M2J0
- 従って、彼の放埓のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:30:16.26:2aDn8M2J0
- こう考えている内蔵助が、その所謂佯狂苦肉の計を褒められて、苦い顔をしたのに不思議はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:30:31.95:2aDn8M2J0
- 彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春風が、見る見る中に吹きつくしてしまった事を意識した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:30:47.65:2aDn8M2J0
- あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とが、うすら寒く影をひろげているばかりである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:31:03.37:2aDn8M2J0
- 彼の復讐の挙も、彼の同志も、最後にまた彼自身も、多分このまま、勝手な賞讃の声と共に、後代まで伝えられる事であろう。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:31:19.11:2aDn8M2J0
- こう云う不快な事実と向いあいながら、彼は火の気のうすくなった火鉢に手をかざすと、伝右衛門の眼をさけて、情なさそうにため息をした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:31:34.73:2aDn8M2J0
- それから何分かの後である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:31:50.43:2aDn8M2J0
- 厠へ行くのにかこつけて、座をはずして来た大石内蔵助は、独り縁側の柱によりかかって、寒梅の老木が、古庭の苔と石との間に、的たる花をつけたのを眺めていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:32:06.16:2aDn8M2J0
- 日の色はもううすれ切って、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがろうとするらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:32:21.86:2aDn8M2J0
- が、障子の中では、不相変面白そうな話声がつづいている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:32:37.48:2aDn8M2J0
- 彼はそれを聞いている中に、自らな一味の哀情が、徐に彼をつつんで来るのを意識した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:32:53.11:2aDn8M2J0
- このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透って来る寂しさは、この云いようのない寂しさは、一体どこから来るのであろう。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:33:08.74:2aDn8M2J0
- 内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳んでいた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:33:24.36:2aDn8M2J0
- 或木曜日の晩、漱石先生の処へ遊びに行っていたら、何かの拍子に赤木桁平が頻に蛇笏を褒めはじめた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:33:39.95:2aDn8M2J0
- 当時の僕は十七字などを並べたことのない人間だった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:33:55.67:2aDn8M2J0
- 勿論蛇笏の名も知らなかった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:34:11.29:2aDn8M2J0
- が、そう云う偉い人を知らずにいるのは不本意だったから、その飯田蛇笏なるものの作句を二つ三つ尋ねて見た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:34:27.01:2aDn8M2J0
- 赤木は即座に妙な句ばかりつづけさまに諳誦した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:34:42.62:2aDn8M2J0
- しかし僕は赤木のように、うまいとも何とも思わなかった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:34:58.28:2aDn8M2J0
- 正直に又「つまらんね」とも云った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:35:14.01:2aDn8M2J0
- すると何ごとにもムキになる赤木は「君には俳句はわからん」と忽ち僕を撲滅した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:35:29.61:2aDn8M2J0
- 丁度やはりその前後にちょっと「ホトトギス」を覗いて見たら、虚子先生も滔滔と蛇笏に敬意を表していた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:35:45.34:2aDn8M2J0
- 句もいくつか抜いてあった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:36:00.94:2aDn8M2J0
- 僕の蛇笏に対する評価はこの時も亦ネガティイフだった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:36:16.56:2aDn8M2J0
- 殊に細君のヒステリイか何かを材にした句などを好まなかった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:36:32.19:2aDn8M2J0
- こう云う事件は句にするよりも、小説にすれば好いのにとも思った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:36:47.81:2aDn8M2J0
- 爾来僕は久しい間、ずっと蛇笏を忘れていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:37:03.42:2aDn8M2J0
- その内に僕も作句をはじめた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:37:19.11:2aDn8M2J0
- すると或時歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云う蛇笏の句を発見した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:37:34.84:2aDn8M2J0
- この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具えていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:37:50.58:2aDn8M2J0
- 僕は「ホトトギス」の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:38:06.21:2aDn8M2J0
- 勿論その句境も剽窃した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:38:21.92:2aDn8M2J0
- 「癆咳の頬美しや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:38:37.63:2aDn8M2J0
- 僕は蛇笏の影響のもとにそう云う句なども製造した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:38:53.35:2aDn8M2J0
- 当時又可笑しかったことには赤木と俳談を闘わせた次手に、うっかり蛇笏を賞讃したら、赤木は透かさず「君と雖も畢に蛇笏を認めたかね」と大いに僕を冷笑した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:39:09.06:2aDn8M2J0
- 僕は「常談云っちゃいけない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:39:24.77:2aDn8M2J0
- 僕をして過たしめたものは実は君の諳誦なんだからな」とやっと冷笑を投げ返した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:39:40.39:2aDn8M2J0
- と云うのは蛇笏を褒めた時に、博覧強記なる赤木桁平もどう云う頭の狂いだったか、「芋の露連山影を正うす」と云う句を「連山影を斉うす」と間違えて僕に聞かせたからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:39:55.99:2aDn8M2J0
- しかし僕は一二年の後、いつか又「ホトトギス」に御無沙汰をし出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:40:11.70:2aDn8M2J0
- それでも蛇笏には注意していた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:40:27.32:2aDn8M2J0
- 或時句作をする青年に会ったら、その青年は何処かの句会に蛇笏を見かけたと云う話をした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:40:43.05:2aDn8M2J0
- 同時に「蛇笏と云うやつはいやに傲慢な男です」とも云った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:40:58.65:2aDn8M2J0
- 僕は悪口を云われた蛇笏に甚だ頼もしい感じを抱いた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:41:14.24:2aDn8M2J0
- それは一つには僕自身も傲慢に安んじている所から、同類の思いをなしたのかも知れない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:41:29.96:2aDn8M2J0
- けれどもまだその外にも僕はいろいろの原因から、どうも俳人と云うものは案外世渡りの術に長じた奸物らしい気がしていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:41:45.61:2aDn8M2J0
- 「いやに傲慢な男です」などと云う非難は到底受けそうもない気がしていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:42:01.35:2aDn8M2J0
- それだけに悪口を云われた蛇笏は悪口を云われない連中よりも高等に違いないと思ったのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:42:17.06:2aDn8M2J0
- 爾来更に何年かを閲した今日、僕は卒然飯田蛇笏と、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:42:32.67:2aDn8M2J0
- いや、もう昔の蛇笏ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:42:48.38:2aDn8M2J0
- 今は飯田蛇笏君である。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:43:04.10:2aDn8M2J0
- 手紙の往復をするようになった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:43:19.82:2aDn8M2J0
- 蛇笏君の書は予想したように如何にも俊爽の風を帯びている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:43:35.44:2aDn8M2J0
- 成程これでは小児などに「いやに傲慢な男です」と悪口を云われることもあるかも知れない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:43:51.15:2aDn8M2J0
- 僕は蛇笏君の手紙を前に頼もしい感じを新たにした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:44:06.87:2aDn8M2J0
- 春雨の中や雪おく甲斐の山
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:44:22.58:2aDn8M2J0
- これは僕の近作である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:44:38.28:2aDn8M2J0
- 次手を以て甲斐の国にいる蛇笏君に献上したい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:44:53.98:2aDn8M2J0
- 僕は又この頃思い出したように時時句作を試みている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:45:09.69:2aDn8M2J0
- が、一度句作に遠ざかった祟りには忽ち苦吟に陥ってしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:45:25.30:2aDn8M2J0
- どうも蛇笏君などから鞭撻を感じた往年の感激は返らないらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:45:40.92:2aDn8M2J0
- 所詮下手は下手なりに句作そのものを楽しむより外に安住する所はないと見える。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:45:56.55:2aDn8M2J0
- おらが家の花も咲いたる番茶かな
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:46:12.26:2aDn8M2J0
- 先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:46:27.91:2aDn8M2J0
- イズムを持つ必要があるかどうか。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:46:43.64:2aDn8M2J0
- かう云ふ問題が出たのですが、実を云ふと、私は生憎この問題に大分関係のありさうな岩野泡鳴氏の論文なるものを読んでゐません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:46:59.37:2aDn8M2J0
- だからそれに対する私の答も、幾分新潮記者なり読者なりの考と、焦点が合はないだらうと思ひます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:47:15.00:2aDn8M2J0
- 実を云ふとこの問題の性質が、私にはよくのみこめません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:47:30.71:2aDn8M2J0
- イズムと云ふ意味や必要と云ふ意味が、考へ次第でどうにでも曲げられさうです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:47:46.44:2aDn8M2J0
- 又それを常識で一通りの解釈をしても、イズムを持つと云ふ事がどう云ふ事か、それもいろいろにこじつけられるでせう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:48:02.05:2aDn8M2J0
- それを差当り、我我が皆ロマンテイケルとかナトウラリストとかになる必要があるかと云ふ、通俗な意味に解釈すれば、勿論そんな必要はありません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:48:17.78:2aDn8M2J0
- と云ふよりも寧それは出来ない相談だと思ひます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:48:33.40:2aDn8M2J0
- 元来さう云ふイズムなるものは、便宜上後になつて批評家に案出されたものなんだから、自分の思想なり感情なりの傾向の全部が、それで蔽れる訳はないでせう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:48:49.02:2aDn8M2J0
- 全部が蔽れなければそれを肩書にする必要はありますまい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:49:04.73:2aDn8M2J0
- (尤もそれが全部でなくとも或著しい部分を表してゐる時、批評家にさう云ふイズムの貼札をつけられたのを許容する場合はありませう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:49:20.44:2aDn8M2J0
- 又許容しない事がよろしくない場合もありませう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:49:36.16:2aDn8M2J0
- これは何時か生田長江氏が、論じた事があつたと思ひますが。)
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:49:51.87:2aDn8M2J0
- 又そのイズムと云ふ意味をひつくり返して、自分の内部活動の全傾向を或イズムと名づけるなら、この問題は答を求める前に、消滅してしまひます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:50:07.48:2aDn8M2J0
- それからその場合のイズムに或名前をくつつけて、それを看板にする事も、勿論必要とは云はれますまい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:50:23.10:2aDn8M2J0
- 又もう一つイズムと云ふ語を或思想上の主張と翻訳すれば、この場合もやはり前と同じ事が云はれませう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:50:38.82:2aDn8M2J0
- 唯、必要と云ふ語に、幾分でも自他共便宜と云ふ意味を加へれば、まるで違つた事が云はれるかも知れません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:50:54.54:2aDn8M2J0
- それなら私は口を噤んだ方がいいでせう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:51:10.27:2aDn8M2J0
- 一つにはイズムの提唱に無経験な私は、さう云ふ便宜を明にしてゐませんから。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:51:26.00:2aDn8M2J0
- 僕は一体冬はすきだから十一月十二月皆好きだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:51:41.61:2aDn8M2J0
- 好きといふのは、東京にゐると十二月頃の自然もいいし、また町の容子もいい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:51:57.31:2aDn8M2J0
- 自然の方のいいといふのは、かういふ風に僕は郊外に住んでゐるから余計そんな感じがするのだが、十一月の末から十二月の初めにかけて、夜晩く外からなんど帰つて来ると、かう何ともしれぬ物の臭が立ち籠めてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:52:12.98:2aDn8M2J0
- それは落葉のにほひだか、霧のにほひだか、花の枯れるにほひだか、果実の腐れるにほひだか、何んだかわからないが、まあいいにほひがするのだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:52:28.61:2aDn8M2J0
- そして寝て起きると木の間が透いてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:52:44.24:2aDn8M2J0
- 葉が落ち散つたあとの木の間が朗かに明くなつてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:52:59.96:2aDn8M2J0
- それに此処らは百舌鳥がくる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:53:15.71:2aDn8M2J0
- たまに鶺鴒がくることもある。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:53:31.32:2aDn8M2J0
- 田端の音無川のあたりには冬になると何時も鶺鴒が来てゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:53:47.02:2aDn8M2J0
- それがこの庭までやつてくるのだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:54:02.75:2aDn8M2J0
- 夏のやうに白鷺が空をかすめて飛ばないのは物足りないけれども、それだけのつぐなひは十分あるやうな気がする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:54:18.35:2aDn8M2J0
- 町はだんだん暮近くなつてくると何処か物々しくなつてくる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:54:33.96:2aDn8M2J0
- ざわめいて来て愉快になるといふことは、酸漿提灯がついてゐたり楽隊がゐたりするのも賑かでいいけれども、僕には、それが賑かなだけにさういふ時は暗い寂しい町が余計眼につくのがいい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:54:49.68:2aDn8M2J0
- たとへば須田町の通りが非常に賑かだけれど、一寸梶町青物市場の方へ曲るとあすこは暗くて静かだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:55:05.38:2aDn8M2J0
- さういふ処を何かの拍子で歩いてゐると、「鍋焼だとか「火事」だとかいふ俳句の季題を思ひ出す。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:55:21.10:2aDn8M2J0
- ことに極くおしつまつて、もう門松がたつてゐるさういふ町を歩いてゐると、ちよつと久保田万太郎君の小説のなかを歩いてゐるやうな気持でいい気持だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:55:36.81:2aDn8M2J0
- 十二月は僕は何時でも東京にゐて、その外の場処といつたら京都とか奈良とかいふ甚だ平凡な処しかしらないんだけども、京都へ初めて往つた時は十二月で、その時分は、七条の停車場も今より小さかつたし、烏丸の通だの四条の通だのがずつと今より狭かつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:55:52.54:2aDn8M2J0
- でさういふ古ぼけた京都を知つてゐるだけだが、その古ぼけた京都に滞在してゐる間に二三度時雨にあつたことをおぼえてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:56:08.24:2aDn8M2J0
- 殊に下賀茂の糺の森であつた時雨は、丁度朝焼がしてゐるとすぐに時雨れて来たんで、甚だ風流な気がしたのを覚えてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:56:23.86:2aDn8M2J0
- 時雨といへば矢張り其時、奈良の春日の社で時雨にあひ、その時雨の霽れるのをまつ間お神楽をあげたことがあつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:56:39.57:2aDn8M2J0
- それは古風な大和琴だの筝だのといふ楽器を鳴らして、緋の袴をはいた小さな――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:56:55.26:2aDn8M2J0
- 巫女が舞ふのが、矢張り優美だつたといふ記憶がのこつてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:57:10.99:2aDn8M2J0
- 勿論其時分は春日の社も今のやうに修覆が出来なかつたし、全体がもつと古ぼけてきたなかつたから、それだけよかつたといふ訣だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:57:26.64:2aDn8M2J0
- さういふ京都とか奈良とかいふ処は度々ゆくが、冬といふとどうもその最初の時の記憶が一番鮮かなやうな気がする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:57:42.27:2aDn8M2J0
- それから最近には鎌倉に住つて横須賀の学校へ通ふやうになつたから、東京以外の十二月にも親しむことが出来たといふわけだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:57:57.98:2aDn8M2J0
- その時分の鎌倉は避暑客のやうな種類の人間が少いだけでも非常にいい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:58:13.70:2aDn8M2J0
- ことに今時分の鎌倉にゐると、人間は日本人より西洋人の方が冬は高等であるやうな気がする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:58:29.32:2aDn8M2J0
- どうも日本人の貧弱な顔ぢや毛皮の外套の襟へ頤を埋めても埋め栄えはしないやうな気がする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:58:44.96:2aDn8M2J0
- 東清鉄道あたりの従業員は、日本人と露西亜人とで冬になるとことにエネルギイの差が目立つといふことをきいてゐるが、今頃の鎌倉を濶歩してゐる西洋人を見るとさうだらうと思ふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:59:00.57:2aDn8M2J0
- もつとも小説を書くうへに於ては、寧ろ夏よりは十一月十二月もつと寒くなつても冬の方がいいやうだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:59:16.28:2aDn8M2J0
- また書く上ばかりでなく、書くまでの段取を火鉢にあたりながら漫然と考へてゐるには今頃が一番いいやうだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:59:31.99:2aDn8M2J0
- 新年号の諸雑誌の原稿は大抵十一月一杯または十二月のはじめへかかる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 03:59:47.71:2aDn8M2J0
- さういふものを書いてゐる時は、他の人は寒いだらうとか何とかいつて気にしてくれるけれども、書き出して脂が乗れば煙草を喫むほかは殆ど火鉢なんぞを忘れてしまふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:00:03.35:2aDn8M2J0
- それにその時分は襖だの障子だのがたて切つてあるものだから、自分の思想や情緒とかいふものが、部屋の中から遁出してゆかないやうな安心した処があつてよく書ける。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:00:18.98:2aDn8M2J0
- もつともよく書けるといつても、それは必ずしも作の出来栄えには比例しないのだから、勿論新年号の小説は何時も傑作が出来るといふ訣にはゆかない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:00:34.70:2aDn8M2J0
- 「何しろこの頃は油断がならない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:00:50.42:2aDn8M2J0
- 和田さえ芸者を知っているんだから。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:01:06.03:2aDn8M2J0
- 藤井と云う弁護士は、老酒の盃を干してから、大仰に一同の顔を見まわした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:01:21.75:2aDn8M2J0
- 円卓のまわりを囲んでいるのは同じ学校の寄宿舎にいた、我々六人の中年者である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:01:37.38:2aDn8M2J0
- 場所は日比谷の陶陶亭の二階、時は六月のある雨の夜、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:01:52.99:2aDn8M2J0
- 勿論藤井のこういったのは、もうそろそろ我々の顔にも、酔色の見え出した時分である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:02:08.69:2aDn8M2J0
- 「僕はそいつを見せつけられた時には、実際今昔の感に堪えなかったね。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:02:24.40:2aDn8M2J0
- 藤井は面白そうに弁じ続けた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:02:40.13:2aDn8M2J0
- 「医科の和田といった日には、柔道の選手で、賄征伐の大将で、リヴィングストンの崇拝家で、寒中一重物で通した男で、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:02:55.87:2aDn8M2J0
- 一言にいえば豪傑だったじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:03:11.60:2aDn8M2J0
- それが君、芸者を知っているんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:03:27.30:2aDn8M2J0
- しかも柳橋の小えんという、――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:03:42.94:2aDn8M2J0
- 「君はこの頃河岸を変えたのかい?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:03:58.66:2aDn8M2J0
- 突然横槍を入れたのは、飯沼という銀行の支店長だった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:04:14.36:2aDn8M2J0
- 「君がつれて行った時なんだろう、和田がその芸者に遇ったというのは?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:04:30.06:2aDn8M2J0
- 「早まっちゃいけない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:04:45.67:2aDn8M2J0
- 誰が和田なんぞをつれて行くもんか。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:05:01.29:2aDn8M2J0
- 藤井は昂然と眉を挙げた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:05:17.00:2aDn8M2J0
- 「あれは先月の幾日だったかな?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:05:32.75:2aDn8M2J0
- 何でも月曜か火曜だったがね。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:05:48.35:2aDn8M2J0
- 久しぶりに和田と顔を合せると、浅草へ行こうというじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:06:04.08:2aDn8M2J0
- 浅草はあんまりぞっとしないが、親愛なる旧友のいう事だから、僕も素直に賛成してさ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:06:19.79:2aDn8M2J0
- 真っ昼間六区へ出かけたんだ。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:06:35.50:2aDn8M2J0
- 「すると活動写真の中にでもい合せたのか?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:06:51.11:2aDn8M2J0
- 今度はわたしが先くぐりをした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:07:06.84:2aDn8M2J0
- 「活動写真ならばまだ好いが、メリイ・ゴオ・ラウンドと来ているんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:07:22.56:2aDn8M2J0
- おまけに二人とも木馬の上へ、ちゃんと跨っていたんだからな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:07:38.28:2aDn8M2J0
- 今考えても莫迦莫迦しい次第さ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:07:54.09:2aDn8M2J0
- しかしそれも僕の発議じゃない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:08:09.79:2aDn8M2J0
- あんまり和田が乗りたがるから、おつき合いにちょいと乗って見たんだ。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:08:25.40:2aDn8M2J0
- だがあいつは楽じゃないぜ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:08:41.01:2aDn8M2J0
- 野口のような胃弱は乗らないが好い。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:08:56.63:2aDn8M2J0
- 「子供じゃあるまいし。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:09:12.35:2aDn8M2J0
- 木馬になんぞ乗るやつがあるもんか?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:09:28.06:2aDn8M2J0
- 野口という大学教授は、青黒い松花を頬張ったなり、蔑むような笑い方をした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:09:43.77:2aDn8M2J0
- が、藤井は無頓着に、時々和田へ目をやっては、得々と話を続けて行った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:09:59.51:2aDn8M2J0
- 「和田の乗ったのは白い木馬、僕の乗ったのは赤い木馬なんだが、楽隊と一しょにまわり出された時には、どうなる事かと思ったね。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:10:15.20:2aDn8M2J0
- 尻は躍るし、目はまわるし、振り落されないだけが見っけものなんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:10:30.92:2aDn8M2J0
- が、その中でも目についたのは、欄干の外の見物の間に、芸者らしい女が交っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:10:46.64:2aDn8M2J0
- 色の蒼白い、目の沾んだ、どこか妙な憂鬱な、――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:11:02.28:2aDn8M2J0
- 「それだけわかっていれば大丈夫だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:11:18.00:2aDn8M2J0
- 目がまわったも怪しいもんだぜ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:11:33.71:2aDn8M2J0
- 飯沼はもう一度口を挟んだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:11:49.42:2aDn8M2J0
- 「だからその中でもといっているじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:12:05.04:2aDn8M2J0
- 髪は勿論銀杏返し、なりは薄青い縞のセルに、何か更紗の帯だったかと思う、とにかく花柳小説の挿絵のような、楚々たる女が立っているんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:12:20.65:2aDn8M2J0
- 僕の顔をちらりと見るなり、正に嫣然と一笑したんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:12:36.36:2aDn8M2J0
- おやと思ったが間に合わない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:12:51.99:2aDn8M2J0
- こっちは木馬に乗っているんだから、たちまち女の前は通りすぎてしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:13:07.72:2aDn8M2J0
- 誰だったかなと思う時には、もうわが赤い木馬の前へ、楽隊の連中が現れている。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:13:23.41:2aDn8M2J0
- 「二度目もやはり同じ事さ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:13:39.01:2aDn8M2J0
- また女がにっこりする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:13:54.61:2aDn8M2J0
- と思うと見えなくなる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:14:10.23:2aDn8M2J0
- 跡はただ前後左右に、木馬が跳ねたり、馬車が躍ったり、然らずんば喇叭がぶかぶかいったり、太鼓がどんどん鳴っているだけなんだ。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:14:25.94:2aDn8M2J0
- 僕はつらつらそう思ったね。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:14:41.64:2aDn8M2J0
- 我々は皆同じように実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、掴まえない内にすれ違ってしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:14:57.26:2aDn8M2J0
- もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好い。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:15:12.98:2aDn8M2J0
- 「まさかほんとうに飛び下りはしまいな?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:15:28.58:2aDn8M2J0
- からかうようにこういったのは、木村という電気会社の技師長だった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:15:44.32:2aDn8M2J0
- 「冗談いっちゃいけない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:15:59.95:2aDn8M2J0
- 哲学は哲学、人生は人生さ。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:16:15.56:2aDn8M2J0
- 所がそんな事を考えている内に、三度目になったと思い給え。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:16:31.27:2aDn8M2J0
- その時ふと気がついて見ると、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:16:46.99:2aDn8M2J0
- これには僕も驚いたね。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:17:02.59:2aDn8M2J0
- あの女が笑顔を見せていたのは、残念ながら僕にじゃない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:17:18.21:2aDn8M2J0
- 賄征伐の大将、リヴィングストンの崇拝家、ETC.
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:17:33.93:2aDn8M2J0
- ドクタア和田長平にだったんだ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:17:49.64:2aDn8M2J0
- 「しかしまあ哲学通りに、飛び下りなかっただけ仕合せだったよ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:18:05.35:2aDn8M2J0
- 無口な野口も冗談をいった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:18:21.13:2aDn8M2J0
- しかし藤井は相不変話を続けるのに熱中していた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:18:36.83:2aDn8M2J0
- 「和田のやつも女の前へ来ると、きっと嬉しそうに御時宜をしている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:18:52.55:2aDn8M2J0
- それがまたこう及び腰に、白い木馬に跨ったまま、ネクタイだけ前へぶらさげてね。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:19:08.14:2aDn8M2J0
- 和田もとうとう沈黙を破った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:19:23.74:2aDn8M2J0
- 彼はさっきから苦笑をしては、老酒ばかりひっかけていたのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:19:39.45:2aDn8M2J0
- 「何、嘘なんぞつくもんか。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:19:55.16:2aDn8M2J0
- が、その時はまだ好いんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:20:10.78:2aDn8M2J0
- いよいよメリイ・ゴオ・ラウンドを出たとなると、和田は僕も忘れたように、女とばかりしゃべっているじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:20:26.50:2aDn8M2J0
- 女も先生先生といっている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:20:42.08:2aDn8M2J0
- 埋まらない役まわりは僕一人さ。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:20:57.81:2aDn8M2J0
- 「なるほど、これは珍談だな。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:21:13.53:2aDn8M2J0
- おい、君、こうなればもう今夜の会費は、そっくり君に持って貰うぜ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:21:29.13:2aDn8M2J0
- 飯沼は大きい魚翅の鉢へ、銀の匙を突きこみながら、隣にいる和田をふり返った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:21:44.85:2aDn8M2J0
- あの女は友だちの囲いものなんだ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:22:00.47:2aDn8M2J0
- 和田は両肘をついたまま、ぶっきらぼうにいい放った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:22:16.90:2aDn8M2J0
- 彼の顔は見渡した所、一座の誰よりも日に焼けている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:22:32.60:2aDn8M2J0
- 目鼻立ちも甚だ都会じみていない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:22:48.33:2aDn8M2J0
- その上五分刈りに刈りこんだ頭は、ほとんど岩石のように丈夫そうである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:23:03.94:2aDn8M2J0
- 彼は昔ある対校試合に、左の臂を挫きながら、五人までも敵を投げた事があった。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:23:19.56:2aDn8M2J0
- そういう往年の豪傑ぶりは、黒い背広に縞のズボンという、当世流行のなりはしていても、どこかにありありと残っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:23:35.29:2aDn8M2J0
- 君の囲い者じゃないか?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:23:50.99:2aDn8M2J0
- 藤井は額越しに相手を見ると、にやりと酔った人の微笑を洩らした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:24:06.71:2aDn8M2J0
- 「そうかも知れない。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:24:22.43:2aDn8M2J0
- 飯沼は冷然と受け流してから、もう一度和田をふり返った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:24:38.15:2aDn8M2J0
- 「誰だい、その友だちというのは?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:24:53.87:2aDn8M2J0
- 「若槻という実業家だが、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:25:09.58:2aDn8M2J0
- この中でも誰か知っていはしないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:25:25.17:2aDn8M2J0
- 慶応か何か卒業してから、今じゃ自分の銀行へ出ている、年配も我々と同じくらいの男だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:25:40.88:2aDn8M2J0
- 色の白い、優しい目をした、短い髭を生やしている、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:25:56.59:2aDn8M2J0
- そうさな、まあ一言にいえば、風流愛すべき好男子だろう。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:26:12.22:2aDn8M2J0
- 「若槻峯太郎、俳号は青蓋じゃないか?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:26:27.90:2aDn8M2J0
- わたしは横合いから口を挟んだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:26:43.62:2aDn8M2J0
- その若槻という実業家とは、わたしもつい四五日前、一しょに芝居を見ていたからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:26:59.32:2aDn8M2J0
- 青蓋句集というのを出している、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:27:14.92:2aDn8M2J0
- あの男が小えんの檀那なんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:27:30.52:2aDn8M2J0
- いや、二月ほど前までは檀那だったんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:27:46.14:2aDn8M2J0
- 今じゃ全然手を切っているが、――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:28:01.86:2aDn8M2J0
- 「へええ、じゃあの若槻という人は、――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:28:17.56:2aDn8M2J0
- 「僕の中学時代の同窓なんだ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:28:33.27:2aDn8M2J0
- 「これはいよいよ穏かじゃない。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:28:49.01:2aDn8M2J0
- 藤井はまた陽気な声を出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:29:04.62:2aDn8M2J0
- 「君は我々が知らない間に、その中学時代の同窓なるものと、花を折り柳に攀じ、――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:29:20.35:2aDn8M2J0
- 僕があの女に会ったのは、大学病院へやって来た時に、若槻にもちょいと頼まれていたから、便宜を図ってやっただけなんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:29:36.05:2aDn8M2J0
- 蓄膿症か何かの手術だったが、――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:29:51.76:2aDn8M2J0
- 和田は老酒をぐいとやってから、妙に考え深い目つきになった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:30:07.37:2aDn8M2J0
- 「しかしあの女は面白いやつだ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:30:23.08:2aDn8M2J0
- 木村は静かにひやかした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:30:38.81:2aDn8M2J0
- 「それはあるいは惚れたかも知れない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:30:54.53:2aDn8M2J0
- あるいはまたちっとも惚れなかったかも知れない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:31:10.13:2aDn8M2J0
- が、そんな事よりも話したいのは、あの女と若槻との関係なんだ。――」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:31:25.74:2aDn8M2J0
- 和田はこう前置きをしてから、いつにない雄弁を振い出した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:31:41.46:2aDn8M2J0
- 「僕は藤井の話した通り、この間偶然小えんに遇った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:31:57.07:2aDn8M2J0
- 所が遇って話して見ると、小えんはもう二月ほど前に、若槻と別れたというじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:32:12.67:2aDn8M2J0
- なぜ別れたと訊いて見ても、返事らしい返事は何もしない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:32:28.37:2aDn8M2J0
- ただ寂しそうに笑いながら、もともとわたしはあの人のように、風流人じゃないんですというんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:32:44.08:2aDn8M2J0
- 「僕もその時は立入っても訊かず、夫なり別れてしまったんだが、つい昨日、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:32:59.80:2aDn8M2J0
- 昨日は午過ぎは雨が降っていたろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:33:15.38:2aDn8M2J0
- あの雨の最中に若槻から、飯を食いに来ないかという手紙なんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:33:30.95:2aDn8M2J0
- ちょうど僕も暇だったし、早めに若槻の家へ行って見ると、先生は気の利いた六畳の書斎に、相不変悠々と読書をしている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:33:46.66:2aDn8M2J0
- 僕はこの通り野蛮人だから、風流の何たるかは全然知らない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:34:02.31:2aDn8M2J0
- しかし若槻の書斎へはいると、芸術的とか何とかいうのは、こういう暮しだろうという気がするんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:34:17.92:2aDn8M2J0
- まず床の間にはいつ行っても、古い懸物が懸っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:34:33.53:2aDn8M2J0
- 花も始終絶やした事はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:34:49.24:2aDn8M2J0
- 書物も和書の本箱のほかに、洋書の書棚も並べてある。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:35:04.96:2aDn8M2J0
- おまけに華奢な机の側には、三味線も時々は出してあるんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:35:20.57:2aDn8M2J0
- その上そこにいる若槻自身も、どこか当世の浮世絵じみた、通人らしいなりをしている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:35:36.19:2aDn8M2J0
- 昨日も妙な着物を着ているから、それは何だねと訊いて見ると、占城[#ルビの「チャンパ」は底本では「チャンバ」]という物だと答えるじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:35:51.91:2aDn8M2J0
- 僕の友だち多しといえども、占城なぞという着物を着ているものは、若槻を除いては一人もあるまい。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:36:07.63:2aDn8M2J0
- まずあの男の暮しぶりといえば、万事こういった調子なんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:36:23.33:2aDn8M2J0
- 「僕はその日膳を前に、若槻と献酬を重ねながら、小えんとのいきさつを聞かされたんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:36:39.05:2aDn8M2J0
- 小えんにはほかに男がある。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:36:54.77:2aDn8M2J0
- それはまあ格別驚かずとも好い。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:37:10.48:2aDn8M2J0
- が、その相手は何かと思えば、浪花節語りの下っ端なんだそうだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:37:26.20:2aDn8M2J0
- 君たちもこんな話を聞いたら、小えんの愚を哂わずにはいられないだろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:37:41.83:2aDn8M2J0
- 僕も実際その時には、苦笑さえ出来ないくらいだった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:37:57.55:2aDn8M2J0
- 「君たちは勿論知らないが、小えんは若槻に三年この方、随分尽して貰っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:38:13.26:2aDn8M2J0
- 若槻は小えんの母親ばかりか、妹の面倒も見てやっていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:38:28.97:2aDn8M2J0
- そのまた小えん自身にも、読み書きといわず芸事といわず、何でも好きな事を仕込ませていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:38:44.70:2aDn8M2J0
- 小えんは踊りも名を取っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:39:00.43:2aDn8M2J0
- 長唄も柳橋では指折りだそうだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:39:16.08:2aDn8M2J0
- そのほか発句も出来るというし、千蔭流とかの仮名も上手だという。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:39:31.81:2aDn8M2J0
- それも皆若槻のおかげなんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:39:47.41:2aDn8M2J0
- そういう消息を知っている僕は、君たちさえ笑止に思う以上、呆れ返らざるを得ないじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:40:03.12:2aDn8M2J0
- 「若槻は僕にこういうんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:40:18.73:2aDn8M2J0
- 何、あの女と別れるくらいは、別に何とも思ってはいません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:40:34.34:2aDn8M2J0
- が、わたしは出来る限り、あの女の教育に尽して来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:40:50.04:2aDn8M2J0
- どうか何事にも理解の届いた、趣味の広い女に仕立ててやりたい、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:41:05.76:2aDn8M2J0
- そういう希望を持っていたのです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:41:21.48:2aDn8M2J0
- それだけに今度はがっかりしました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:41:37.17:2aDn8M2J0
- 何も男を拵えるのなら、浪花節語りには限らないものを。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:41:52.85:2aDn8M2J0
- あんなに芸事には身を入れていても、根性の卑しさは直らないかと思うと、実際苦々しい気がするのです。………
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:42:08.55:2aDn8M2J0
- 「若槻はまたこうもいうんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:42:24.17:2aDn8M2J0
- あの女はこの半年ばかり、多少ヒステリックにもなっていたのでしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:42:39.89:2aDn8M2J0
- 一時はほとんど毎日のように、今日限り三味線を持たないとかいっては、子供のように泣いていました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:42:55.52:2aDn8M2J0
- それがまたなぜだと訊ねて見ると、わたしはあの女を好いていない、遊芸を習わせるのもそのためだなぞと、妙な理窟をいい出すのです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:43:11.14:2aDn8M2J0
- そんな時はわたしが何といっても、耳にかける気色さえありません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:43:26.85:2aDn8M2J0
- ただもうわたしは薄情だと、そればかり口惜しそうに繰返すのです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:43:42.57:2aDn8M2J0
- もっとも発作さえすんでしまえば、いつも笑い話になるのですが、………
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:43:58.28:2aDn8M2J0
- 「若槻はまたこうもいうんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:44:13.99:2aDn8M2J0
- 何でも相手の浪花節語りは、始末に終えない乱暴者だそうです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:44:29.64:2aDn8M2J0
- 前に馴染だった鳥屋の女中に、男か何か出来た時には、その女中と立ち廻りの喧嘩をした上、大怪我をさせたというじゃありませんか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:44:45.35:2aDn8M2J0
- このほかにもまだあの男には、無理心中をしかけた事だの、師匠の娘と駈落ちをした事だの、いろいろ悪い噂も聞いています。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:45:01.11:2aDn8M2J0
- そんな男に引懸かるというのは一体どういう量見なのでしょう。………
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:45:16.84:2aDn8M2J0
- 「僕は小えんの不しだらには、呆れ返らざるを得ないと云った。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:45:32.58:2aDn8M2J0
- しかし若槻の話を聞いている内に、だんだん僕を動かして来たのは、小えんに対する同情なんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:45:48.19:2aDn8M2J0
- なるほど若槻は檀那としては、当世稀に見る通人かも知れない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:46:03.80:2aDn8M2J0
- が、あの女と別れるくらいは、何でもありませんといっているじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:46:19.53:2aDn8M2J0
- たといそれは辞令にしても、猛烈な執着はないに違いない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:46:35.17:2aDn8M2J0
- たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:46:50.79:2aDn8M2J0
- 僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが自然だと考えるんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:47:06.41:2aDn8M2J0
- 小えんは諸芸を仕込ませるのも、若槻に愛のない証拠だといった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:47:22.16:2aDn8M2J0
- 僕はこの言葉の中にも、ヒステリイばかりを見ようとはしない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:47:37.87:2aDn8M2J0
- 小えんはやはり若槻との間に、ギャップのある事を知っていたんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:47:53.50:2aDn8M2J0
- 「しかし僕も小えんのために、浪花節語りと出来た事を祝福しようとは思っていない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:48:09.21:2aDn8M2J0
- 幸福になるか不幸になるか、それはどちらともいわれないだろう。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:48:24.82:2aDn8M2J0
- が、もし不幸になるとすれば、呪わるべきものは男じゃない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:48:40.52:2aDn8M2J0
- 小えんをそこに至らしめた、通人若槻青蓋だと思う。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:48:56.14:2aDn8M2J0
- いや、当世の通人はいずれも個人として考えれば、愛すべき人間に相違あるまい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:49:11.76:2aDn8M2J0
- 彼等は芭蕉を理解している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:49:27.46:2aDn8M2J0
- レオ・トルストイを理解している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:49:43.20:2aDn8M2J0
- 池大雅を理解している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:49:58.92:2aDn8M2J0
- 武者小路実篤を理解している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:50:14.52:2aDn8M2J0
- カアル・マルクスを理解している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:50:30.16:2aDn8M2J0
- しかしそれが何になるんだ?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:50:45.86:2aDn8M2J0
- 彼等は猛烈な恋愛を知らない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:51:01.48:2aDn8M2J0
- 猛烈な創造の歓喜を知らない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:51:17.10:2aDn8M2J0
- 猛烈な道徳的情熱を知らない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:51:32.71:2aDn8M2J0
- およそこの地球を荘厳にすべき、猛烈な何物も知らずにいるんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:51:48.43:2aDn8M2J0
- そこに彼等の致命傷もあれば、彼等の害毒も潜んでいると思う。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:52:04.16:2aDn8M2J0
- 害毒の一つは能動的に、他人をも通人に変らせてしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:52:19.89:2aDn8M2J0
- 害毒の二つは反動的に、一層他人を俗にする事だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:52:35.56:2aDn8M2J0
- 小えんの如きはその例じゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:52:51.16:2aDn8M2J0
- 昔から喉の渇いているものは、泥水でも飲むときまっている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:53:06.77:2aDn8M2J0
- 小えんも若槻に囲われていなければ、浪花節語りとは出来なかったかも知れない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:53:22.50:2aDn8M2J0
- 「もしまた幸福になるとすれば、――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:53:38.21:2aDn8M2J0
- いや、あるいは若槻の代りに、浪花節語りを得た事だけでも、幸福は確に幸福だろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:53:53.92:2aDn8M2J0
- さっき藤井がいったじゃないか?
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:54:09.62:2aDn8M2J0
- 我々は皆同じように、実生活の木馬に乗せられているから、時たま『幸福』にめぐり遇っても、掴まえない内にすれ違ってしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:54:25.33:2aDn8M2J0
- もし『幸福』を掴まえる気ならば、一思いに木馬を飛び下りるが好い。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:54:40.95:2aDn8M2J0
- いわば小えんも一思いに、実生活の木馬を飛び下りたんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:54:56.83:2aDn8M2J0
- この猛烈な歓喜や苦痛は、若槻如き通人の知る所じゃない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:55:12.54:2aDn8M2J0
- 僕は人生の価値を思うと、百の若槻には唾を吐いても、一の小えんを尊びたいんだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:55:28.13:2aDn8M2J0
- 「君たちはそう思わないか?」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:55:43.84:2aDn8M2J0
- 和田は酔眼を輝かせながら、声のない一座を見まわした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:55:59.56:2aDn8M2J0
- が、藤井はいつのまにか、円卓に首を垂らしたなり、気楽そうにぐっすり眠こんでいた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:56:15.29:2aDn8M2J0
- 秀林院様(細川越中守忠興の夫人、秀林院殿華屋宗玉大姉はその法諡なり)のお果てなされ候次第のこと。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:56:30.93:2aDn8M2J0
- 一、石田治部少の乱の年、即ち慶長五年七月十日、わたくし父魚屋清左衛門、大阪玉造のお屋敷へ参り、「かなりや」十羽、秀林院様へ献上仕り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:56:46.69:2aDn8M2J0
- 秀林院様はよろづ南蛮渡りをお好み遊ばされ候間、おん悦び斜めならず、わたくしも面目を施し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:57:02.41:2aDn8M2J0
- 尤も御所持の御什器のうちには贋物も数かず有之、この「かなりや」ほど確かなる品は一つも御所持御座なく候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:57:18.11:2aDn8M2J0
- その節父の申し候は、涼風の立ち次第秀林院様へお暇を願ひ、嫁入り致させ候べしとのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:57:33.82:2aDn8M2J0
- わたくしももはや三年あまり、御奉公致し居り候へども、秀林院様は少しもお優しきところ無之、賢女ぶらるることを第一となされ候へば、お側に居り候ても、浮きたる話などは相成らず、兎角気のつまるばかりに候間、父の言葉を聞きし時は天へも昇る心地致し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:57:49.54:2aDn8M2J0
- この日も秀林院様の仰せられ候は、日本国の女の智慧浅きは横文字の本を読まぬゆゑのよし、来世は必ず南蛮国の大名へお輿入れなさるべしと存じ上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:58:05.24:2aDn8M2J0
- 二、十一日、澄見と申す比丘尼、秀林院様へお目通り致し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:58:21.00:2aDn8M2J0
- この比丘尼は唯今城内へも取り入り、中々きけ者のよしに候へども、以前は京の糸屋の後家にて、夫を六人も取り換へたるいたづら女とのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:58:36.62:2aDn8M2J0
- わたくしは澄見の顔さへ見れば、虫唾の走るほど厭になり候へども、秀林院様はさのみお嫌ひも遊ばされず、時には彼是小半日もお話相手になさること有之、その度にわたくしども奥女中はいづれも難渋仕り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:58:52.35:2aDn8M2J0
- これはまつたく秀林院様のお世辞を好まるる為に御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:59:07.97:2aDn8M2J0
- たとへば澄見は秀林院様に、「いつもお美しいことでおりやる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:59:23.69:2aDn8M2J0
- 一定どこの殿御の目にも二十あまりに見えようず」などと、まことしやかに御器量を褒め上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:59:39.40:2aDn8M2J0
- なれども秀林院様の御器量はさのみ御美麗と申すほどにても無之、殊におん鼻はちと高すぎ、雀斑も少々お有りなされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 04:59:55.03:2aDn8M2J0
- のみならずお年は三十八ゆゑ、如何に夜目遠目とは申せ、二十あまりにはお見えなさらず候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:00:10.67:2aDn8M2J0
- 三、澄見のこの日参り候は、内々治部少かたより頼まれ候よしにて、秀林院様のおん住居を城内へおん移し遊ばされ候やう、お勧め申す為に御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:00:26.27:2aDn8M2J0
- 秀林院様は御勘考の上、御返事なされ候べしと、澄見には御意なされ候へども、中々しかとせる御決心もつきかね候やうに見上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:00:41.99:2aDn8M2J0
- 然れば澄見の下がり候後は「まりや」様の画像の前に、凡そ一刻に一度づつは「おらつしよ」と申すおん祈りを一心にお捧げ遊ばされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:00:57.70:2aDn8M2J0
- 何も序ゆゑ申し上げ候へども、秀林院様の「おらつしよ」は日本国の言葉にては無之、羅甸とやら申す南蛮国の言葉のよし、わたくしどもの耳には唯「のす、のす」と聞え候間、その可笑しさをこらふること、一かたならぬ苦しみに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:01:13.42:2aDn8M2J0
- 四、十二日は別に変りたることも無之、唯朝より秀林院様の御機嫌、よろしからざるやうに見上候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:01:29.05:2aDn8M2J0
- 総じて御機嫌のよろしからざる時にはわたくしどもへはもとより、与一郎様(忠興の子、忠隆)の奥様へもお小言やらお厭味やら仰せられ候間、誰もみな滅多にお側へは近づかぬことと致し居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:01:44.68:2aDn8M2J0
- けふも亦与一郎様の奥様へはお化粧のあまり濃すぎぬやう、「えそぽ物語」とやらの中の孔雀の話をお引き合ひに出され、長ながと御談義有之候よし、みなみなお気の毒に存じ上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:02:00.40:2aDn8M2J0
- この奥様はお隣屋敷浮田中納言様の奥様の妹御に当らせられ、御利発とは少々申し兼ね候へども、御器量は如何なる名作の雛にも劣らぬほどに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:02:16.12:2aDn8M2J0
- 五、十三日、小笠原少斎(秀清)河北石見(一成)の両人、お台所まで参られ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:02:31.72:2aDn8M2J0
- 細川家にては男はもとより、子供にても奥へ参ることはかなはざる御家法に候間、表の役人はお台所へ参られ、何ごとによらずわたくしどもに奥への取次を頼まるること、久しきならはしと相成り居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:02:47.42:2aDn8M2J0
- これはみな三斎様(忠興)秀林院様、お二かたのおん焼餅より起りしことにて、黒田家の森太兵衛などにも、さてこそ不自由なる御家法も候ものかなと笑はれしよしに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:03:03.02:2aDn8M2J0
- なれども亦裏には裏と申すことも有之、さほど不自由は致し居らず候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:03:18.66:2aDn8M2J0
- 六、少斎石見の両人、霜と申す女房を召し出され、こまごまと申され候は、この度急に治部少より、東へお立ちなされ候大名衆の人質をとられ候よし、専ら風聞仕り候へども、如何仕るべく候や、秀林院様のお思召しのほども承りたしとのことに有之候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:03:34.28:2aDn8M2J0
- その節、霜のわたくしに申し候は、「お留守居役の衆も手ぬるいことでおりやる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:03:49.91:2aDn8M2J0
- そのやうなことは澄見からをとつひの内に言上されたものを。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:04:05.63:2aDn8M2J0
- やれやれお取次御苦労な」とのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:04:21.25:2aDn8M2J0
- 尤もこれは珍しきことにても無之、いつも世上の噂などはお留守居役の耳よりも、わたくしどもの耳へ先に入り候、少斎は唯律義なる老人、石見は武道一偏のわやく人に候間、さもあるべき儀とは存じ候へども、兎角たび重なり候へば、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:04:36.87:2aDn8M2J0
- わたくしどもを始め奥のものは「世上に隠れない」と申す代りに「お留守居役さへ知つておりやる」と申すことに相成り居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:04:52.59:2aDn8M2J0
- 七、霜は即ちその旨を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様の御意なされ候は、治部少と三斎様とは兼ねがねおん仲悪しく候まま、定めし人質のとりはじめにはこの方へ参るならん、万一さもなき節は他家の並もあるべきか、もし又一番に申し来り候はば、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:05:08.21:2aDn8M2J0
- 御返答如何遊ばされ候べきや。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:05:23.84:2aDn8M2J0
- 少斎石見の両人、分別致し候やうにとのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:05:39.56:2aDn8M2J0
- 少斎石見の両人も分別致しかね候へばこそ、御意をも伺ひし次第に候へば、秀林院様のおん言葉は見当違ひには御座候へども霜も御主人の御威光には勝たれず、その通り両人へ申し渡し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:05:55.18:2aDn8M2J0
- 霜のお台所へ下がり候後、秀林院様は又また「まりや」様の画像の前に「のす、のす」をお唱へ遊ばされ、梅と申す新参の女房、思はず笑ひ出し候へば、以ての外のことなりとさんざん御折檻を蒙り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:06:10.90:2aDn8M2J0
- 八、少斎石見の両人は秀林院様の御意を伺ひ、いづれも当惑仕り候へども、やがて霜に申され候は、治部少かたより右の次第を申し来り候とも、与一郎様与五郎様(忠興の子、興秋)のお二かたは東へお立ちなされたり、内記様(同上、忠利)も亦唯今は江戸人質に御座候間、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:06:26.61:2aDn8M2J0
- 人質に出で候はん人、当お屋敷には一人も無之候へば、所詮は出し申すことなるまじくと返答仕るべし、なほ又是非ともと申し候はば、田辺の城(舞鶴)へ申し遣はし、幽斎様(忠興の父、藤孝)より御指図を仰ぎ候まま、それ迄待ち候へと挨拶仕るべし、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:06:42.31:2aDn8M2J0
- この儀は如何候べきと申され候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:06:58.01:2aDn8M2J0
- 秀林院様の仰せには分別致し候やうにと申し渡され候へども、少斎石見両人の言葉に毛すぢほどの分別も有之候や。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:07:13.71:2aDn8M2J0
- まづ老功の侍とは申さず、人並みの分別ある侍ならば、たとひ田辺の城へなりとも秀林院様をお落し申し、その次には又わたくしどもにも思ひ思ひに姿を隠させ、最後に両人のお留守居役だけ覚悟仕るべき場合に御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:07:29.44:2aDn8M2J0
- 然るに人質に出で候はん人、一人も無之候へば、出し申すことなるまじくなどとは一も二もなき喧嘩腰にて、側杖を打たるるわたくしどもこそ迷惑千万に存じ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:07:45.19:2aDn8M2J0
- 九、霜は又右の次第を秀林院様へ申し上げ候ところ、秀林院様は御返事も遊ばされず、唯お口のうちに「のす、のす」とのみお唱へなされ居り候へども、漸くさりげなきおん気色に直られ、一段然るべしと御意なされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:08:00.78:2aDn8M2J0
- 如何さままだお留守居役よりお落し奉らんとも申されぬうちに、落せと仰せられ候訣には参り兼ね候儀ゆゑ、さだめし御心中には少斎石見の無分別なる申し条をお恨み遊ばされしことと存じ上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:08:16.41:2aDn8M2J0
- 且は御機嫌もこの時より引きつづき甚だよろしからず、ことごとにわたくしどもをお叱りなされ、又お叱りなさるる度に「えそぽ物語」とやらをお読み聞かせ下され、誰はこの蛙、彼はこの狼などと仰せられ候間、みなみな人質に参るよりも難渋なる思ひを致し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:08:32.10:2aDn8M2J0
- 殊にわたくしは蝸牛にも、鴉にも、豚にも、亀の子にも、棕梠にも、犬にも、蝮にも、野牛にも、病人にも似かよひ候よし、くやしきお小言を蒙り候こと、末代迄も忘れ難く候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:08:47.81:2aDn8M2J0
- 十、十四日には又澄見参り、人質の儀を申し出し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:09:03.53:2aDn8M2J0
- 秀林院様御意なされ候は、三斎様のお許し無之うちは、如何やうのこと候とも、人質に出で候儀には同心仕るまじくと仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:09:19.15:2aDn8M2J0
- 然れば澄見申し候は、成程三斎様の御意見を重んぜられ候こと、尤も賢女には候べし。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:09:34.88:2aDn8M2J0
- なれどもこれは細川家のおん大事につき、たとひ城内へはお出なされずとも、お隣屋敷浮田中納言様迄入らせらるべきか。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:09:50.60:2aDn8M2J0
- 浮田中納言様の奥様は与一郎様と御姉妹の間がらゆゑ、その分のことは三斎様にもよもやおん咎めなされまじく、左様遊ばされ候へとのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:10:06.22:2aDn8M2J0
- 澄見はわたくし大嫌ひの狸婆には候へども、澄見の申し候ことは一理ありと存じ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:10:21.90:2aDn8M2J0
- お隣屋敷浮田中納言様へお移り遊ばされ候はば、第一に世間の名聞もよろしく、第二にわたくしどもの命も無事にて、この上の妙案は有之まじく候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:10:37.56:2aDn8M2J0
- 十一、然るに秀林院様御意なされ候は、如何にも浮田中納言殿は御一門のうちには候へども、これも治部少と一味のよし、兼ねがね承り及び候間、それ迄参り候ても人質は人質に候まま、同心致し難くと仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:10:53.28:2aDn8M2J0
- 澄見はなほも押し返し、いろいろ口説き立て候へども、一向に御承引遊ばされず、遂に澄見の妙案も水の泡と消え果て申し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:11:09.01:2aDn8M2J0
- その節も亦秀林院様は孔子とやら、「えそぽ」とやら、橘姫とやら、「きりすと」とやら、和漢はもとより南蛮国の物語さへも仰せ聞かされ、さすがの澄見も御能弁にはしみじみ恐れ入りしやうに見うけ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:11:24.71:2aDn8M2J0
- 十二、この日の大凶時、霜は御庭前の松の梢へ金色の十字架の天下るさまを夢のやうに眺め候よし、如何なる凶事の前兆にやと悲しげにわたくしへ話し申し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:11:40.34:2aDn8M2J0
- 尤も霜は近眼の上、日頃みなみなになぶらるる臆病者に御座候間、明星を十字架とも見違へ候や、覚束なき限りと存じ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:11:56.13:2aDn8M2J0
- 十三、十五日にも亦澄見参り、きのふと同じことを申し上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:12:11.75:2aDn8M2J0
- 秀林院様御意なされ候は、たとひ何度申され候とも、覚悟は変るまじ、と仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:12:27.37:2aDn8M2J0
- 然れば澄見も立腹致し候や、御前を退き候みぎり、「御心痛のほどもさぞかしでおぢやらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:12:43.07:2aDn8M2J0
- どうやらお顔も四十あまりに見ゆる」と申し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:12:58.79:2aDn8M2J0
- 秀林院様にも一かたならず御立腹遊ばされ、以後は澄見に目通り無用と達し候へと仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:13:14.51:2aDn8M2J0
- なほ又この日も一刻置きに「おらつしよ」をお唱へ遊ばされ候へども、内証にてのお掛合ひも愈手切と相成り候間、みなみな安き心もなく、梅さへ笑はずに控へ居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:13:30.22:2aDn8M2J0
- 十四、この日は又河北石見、稲富伊賀(祐直)と口論致され候よし、伊賀は砲術の上手につき、他家にも弟子の衆少からず、何かと評判よろしく候まま、少斎石見などは嫉きことに思はれ、兎角口論も致され勝ちとのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:13:45.94:2aDn8M2J0
- 十五、この日の夜半、霜は夢に打手のかかるを見、肝を冷やし候よし、大声に何か呼ばはりながら、お廊下を四五間走りまはり候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:14:01.67:2aDn8M2J0
- 十六、十六日巳の刻頃、少斎石見の両人、再び霜に申され候は、唯今治部少かたより表向きの使参り、是非とも秀林院様をおん渡し候へ、もしおん渡し候はずば、押し掛けて取り候はんと申し候間、さりとは我儘なる申し条も候ものかな、この上は我等腹を切り候とも、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:14:17.38:2aDn8M2J0
- おん渡し仕るまじくと申し遣はし候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:14:33.10:2aDn8M2J0
- 然れば秀林院様にも御覚悟遊ばされたくとのことに有之候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:14:48.80:2aDn8M2J0
- その節、生憎少斎は抜け歯を煩はれ居り候まま、石見に口上を頼まれ候よし、又石見は立腹の余り、霜をも打ち果すかと見えられ候よし、いづれも霜の物語に御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:15:04.50:2aDn8M2J0
- 十七、秀林院様は霜より仔細を聞こし召され、直ちに与一郎様の奥様とお内談に相成り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:15:20.24:2aDn8M2J0
- 後に承り候へば、与一郎様の奥様にも御生害をお勧めに相成り候よし、何ともお傷しく存じ上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:15:35.96:2aDn8M2J0
- 総じてこの度の大変はやむを得ぬ仕儀とは申しながら、第一にはお留守居役の無分別よりことを破り、第二には又秀林院様御自身のお気性より御最期を早められ候も同然の儀に御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:15:51.71:2aDn8M2J0
- 然るに与一郎様の奥様にも御生害をお勧め遊ばされ候上は、わたくしどもにさへお伴を仕るやう、御意なされ候やも計り難く、愈迷惑に存じ居り候ところ、みなみな御前へ召され候間、如何なる仰せを蒙ることかと一かたならず案じ申し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:16:07.43:2aDn8M2J0
- 十八、やがて御前へ参り候へば、秀林院様御意なされ候は、愈「はらいそ」と申す極楽へ参り候はん時節も近づき、一段悦ばしく候と仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:16:23.04:2aDn8M2J0
- なれどもおん顔の色は青ざめお声もやや震へ居られ候間、もとよりこれはおん偽と存じ上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:16:38.75:2aDn8M2J0
- 秀林院様又御意なされ候は、唯黄泉路の障りとなるはその方どもの未来なり、その方どもは心得悪しく、切支丹の御宗門にも帰依し奉らず候まま、未来は「いんへるの」と申す地獄に堕ち、悪魔の餌食とも成り果て候べし。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:16:54.45:2aDn8M2J0
- 就いては今日より心を改め、天主のおん教へを守らせ候へ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:17:10.17:2aDn8M2J0
- もし又さもなく候はば、みなみな生害の伴を仕り、われらと共に穢土を去り候へ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:17:25.77:2aDn8M2J0
- その節はわれらより「あるかんじよ」(大天使)へ頼み、「あるかんじよ」より又おん主「えす・きりすと」へ頼み奉り、一同に「はらいそ」の荘厳を拝し候べしと仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:17:41.48:2aDn8M2J0
- 然ればわたくしどもは感涙に咽び、みなみな即座に切支丹の御宗門に帰依し奉る旨、同音に申し上げ候間、秀林院様には御機嫌よろしく、これにて黄泉路の障りも無之、安堵いたし候まま、伴は無用と御意なされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:17:57.21:2aDn8M2J0
- 十九、なほ又秀林院様は三斎様与一郎様へお書置きをなされ、二通とも霜へお渡し遊ばされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:18:12.92:2aDn8M2J0
- その後京の「ぐれごり屋」と申す伴天連へも何やら横文字のお書置きをなされ、これはわたくしへお渡し遊ばされ候、この横文字のお書置きは五六行には候へども、秀林院様のお書き遊ばされ候には一刻あまりもおかかりなされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:18:28.54:2aDn8M2J0
- これも序ゆゑ申し上げ候へども、このお書置きを「ぐれごり屋」へ渡し候節、日本人の「いるまん」(役僧)一人、厳かに申し候は、総じて自害は切支丹宗門の禁ずるところに御座候間、秀林院様も「はらいそ」へはお昇り遊ばさるることかなふまじく候、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:18:44.27:2aDn8M2J0
- 但し「みさ」と申す祈祷を奉られ候はば、その功徳広大にして、悪趣を免れさせ候べし。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:18:59.88:2aDn8M2J0
- もし「みさ」を修せられ候はんには、銀一枚賜り候へとのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:19:15.61:2aDn8M2J0
- 二十、打手のかかり候は亥の刻頃と存じ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:19:31.21:2aDn8M2J0
- お屋敷の表は河北石見預り、裏の御門は稲富伊賀預り、奥は小笠原少斎預りと定まり居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:19:46.92:2aDn8M2J0
- 敵寄すると承り候へば、秀林院様は梅を遣はされ、与一郎様の奥様をお召し遊ばされ候へども、はやいづこへお落ちなされ候や、お部屋は藻ぬけのからと相成り居り候よし、わたくしどもみなみなおん悦び申し上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:20:02.64:2aDn8M2J0
- なれども秀林院様にはおん憤り少からず、わたくしどもに御意なされ候は、生まれては山崎の合戦に太閤殿下と天下を争はれし惟任将軍光秀を父とたのみ、死しては「はらいそ」におはします「まりや」様を母とたのまんわれらに、末期の恥辱を与へ候こと、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:20:18.35:2aDn8M2J0
- かへすがへすも奇怪なる平大名の娘と仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:20:34.08:2aDn8M2J0
- その節のおんありさまのはしたなさ、今も目に見ゆる心地致し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:20:49.69:2aDn8M2J0
- 二十一、程なく小笠原少斎、紺糸の具足に小薙刀を提げ、お次迄御介錯に参られ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:21:05.34:2aDn8M2J0
- 未だ抜け歯の痛み甚しく候よし、左の頬先腫れ上られ、武者ぶりも聊はかなげに見うけ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:21:20.98:2aDn8M2J0
- 少斎申され候は、お居間の敷居を越え候はんも恐れ多く候間、敷居越しに御介錯仕り、追ひ腹切らんとのことに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:21:36.70:2aDn8M2J0
- 御先途見とどけの役は霜とわたくしとに定まり居り候へば、この頃にはみなみないづこへか落ち失せ、わたくしどもばかり残り居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:21:52.42:2aDn8M2J0
- 秀林院様は少斎を御覧ぜられ、介錯大儀と仰せられ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:22:08.14:2aDn8M2J0
- 細川家へお輿入れ遊ばされ候以来、御夫婦御親子のかたがたは格別に候へども、男の顔を御覧遊ばされ候は今日この少斎をはじめと致され候よし、後に霜より承り及び候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:22:23.84:2aDn8M2J0
- 少斎はお次に両手をつかれ、御最期の時参り候と申し上げ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:22:39.56:2aDn8M2J0
- 尤も片頬腫れ上られ居り候へば、言舌も甚ださだかならず、秀林院様にも御当惑遊ばされ、大声に申候へと御意なされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:22:55.27:2aDn8M2J0
- 二十二、その時誰やら若き衆一人、萌葱糸の具足に大太刀を提げ、お次へ駈けつけ候や否や、稲富伊賀逆心仕り敵は裏門よりなだれ入り候間、速に御覚悟なされたくと申され候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:23:10.98:2aDn8M2J0
- 秀林院様は右のおん手にお髪をきりきりと巻き上げられ、御覚悟の体に見上げ候へども、若き衆の姿を御覧遊ばされ、羞しと思召され候や、忽ちおん顔を耳の根迄赤あかとお染め遊ばされ候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:23:26.61:2aDn8M2J0
- わたくし一生にこの時ほど、秀林院様の御器量をお美しく存じ上げ候こと、一度も覚え申さず候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:23:42.33:2aDn8M2J0
- 二十三、わたくしどもの御門を出で候節はもはやお屋敷に火の手あがり、御門の外にも人々大勢、火の光の中に集まり居り候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:23:58.04:2aDn8M2J0
- 尤もこれは敵にては無之、火事を見に集まりたる人々のよし、又敵は伊賀を引きつれ、御最期以前に引きあげ候よし、いづれも後に承り申し候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:24:13.77:2aDn8M2J0
- まづは秀林院様お果てなされ候次第のこと、あらあら申し上げたる通りに御座候。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:24:29.48:2aDn8M2J0
- 犬養君の作品は大抵読んでいるつもりである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:24:45.19:2aDn8M2J0
- その又僕の読んだ作品は何れも手を抜いたところはない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:25:00.81:2aDn8M2J0
- どれも皆丹念に出来上っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:25:16.43:2aDn8M2J0
- 若し欠点を挙げるとすれば余り丹念すぎる為に暗示する力を欠き易い事であろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:25:32.13:2aDn8M2J0
- それから又犬養君の作品はどれも皆柔かに美しいものである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:25:47.84:2aDn8M2J0
- こう云う柔かい美しさは一寸他の作家達には発見出来ない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:26:03.56:2aDn8M2J0
- 僕はそこに若々しい一本の柳に似た感じを受けている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:26:19.29:2aDn8M2J0
- いつか僕は仕事をしかけた犬養君に会った事があった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:26:35.02:2aDn8M2J0
- その時僕の見た犬養君の顔は(若し失礼でないとすれば)女人と交った後のようだった。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:26:50.72:2aDn8M2J0
- 僕は犬養君を思い出す度にかならずこの顔を思い出している。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:27:06.42:2aDn8M2J0
- 同時に又犬養君の作品の如何にも丹念に出来上っているのも偶然ではないと思っている。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:27:22.04:2aDn8M2J0
- 昔、大和の国葛城山の麓に、髪長彦という若い木樵が住んでいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:27:37.76:2aDn8M2J0
- これは顔かたちが女のようにやさしくって、その上髪までも女のように長かったものですから、こういう名前をつけられていたのです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:27:53.49:2aDn8M2J0
- 髪長彦は、大そう笛が上手でしたから、山へ木を伐りに行く時でも、仕事の合い間合い間には、腰にさしている笛を出して、独りでその音を楽しんでいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:28:09.21:2aDn8M2J0
- するとまた不思議なことには、どんな鳥獣や草木でも、笛の面白さはわかるのでしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:28:24.93:2aDn8M2J0
- 髪長彦がそれを吹き出すと、草はなびき、木はそよぎ、鳥や獣はまわりへ来て、じっとしまいまで聞いていました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:28:40.66:2aDn8M2J0
- ところがある日のこと、髪長彦はいつもの通り、とある大木の根がたに腰を卸しながら、余念もなく笛を吹いていますと、たちまち自分の目の前へ、青い勾玉を沢山ぶらさげた、足の一本しかない大男が現れて、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:28:56.37:2aDn8M2J0
- 「お前は仲々笛がうまいな。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:29:12.09:2aDn8M2J0
- 己はずっと昔から山奥の洞穴で、神代の夢ばかり見ていたが、お前が木を伐りに来始めてからは、その笛の音に誘われて、毎日面白い思をしていた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:29:27.80:2aDn8M2J0
- そこで今日はそのお礼に、ここまでわざわざ来たのだから、何でも好きなものを望むが好い。」と言いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:29:43.51:2aDn8M2J0
- そこで木樵は、しばらく考えていましたが、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:29:59.14:2aDn8M2J0
- 「私は犬が好きですから、どうか犬を一匹下さい。」と答えました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:30:14.85:2aDn8M2J0
- すると、大男は笑いながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:30:30.45:2aDn8M2J0
- 「高が犬を一匹くれなどとは、お前も余っ程欲のない男だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:30:46.17:2aDn8M2J0
- しかしその欲のないのも感心だから、ほかにはまたとないような不思議な犬をくれてやろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:31:01.89:2aDn8M2J0
- こう言う己は、葛城山の足一つの神だ。」と言って、一声高く口笛を鳴らしますと、森の奥から一匹の白犬が、落葉を蹴立てて駈けて来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:31:17.60:2aDn8M2J0
- 足一つの神はその犬を指して、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:31:33.22:2aDn8M2J0
- 「これは名を嗅げと言って、どんな遠い所の事でも嗅ぎ出して来る利口な犬だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:31:48.83:2aDn8M2J0
- では、一生己の代りに、大事に飼ってやってくれ。」と言うかと思うと、その姿は霧のように消えて、見えなくなってしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:32:04.55:2aDn8M2J0
- 髪長彦は大喜びで、この白犬と一しょに里へ帰って来ましたが、あくる日また、山へ行って、何気なく笛を鳴らしていると、今度は黒い勾玉を首へかけた、手の一本しかない大男が、どこからか形を現して、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:32:20.25:2aDn8M2J0
- 「きのう己の兄きの足一つの神が、お前に犬をやったそうだから、己も今日は礼をしようと思ってやって来た。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:32:35.96:2aDn8M2J0
- 何か欲しいものがあるのなら、遠慮なく言うが好い。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:32:51.58:2aDn8M2J0
- 己は葛城山の手一つの神だ。」と言いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:33:07.30:2aDn8M2J0
- そうして髪長彦が、また「嗅げにも負けないような犬が欲しい。」と答えますと、大男はすぐに口笛を吹いて、一匹の黒犬を呼び出しながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:33:22.91:2aDn8M2J0
- 「この犬の名は飛べと言って、誰でも背中へ乗ってさえすれば百里でも千里でも、空を飛んで行くことが出来る。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:33:38.65:2aDn8M2J0
- 明日はまた己の弟が、何かお前に礼をするだろう。」と言って、前のようにどこかへ消え失せてしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:33:54.27:2aDn8M2J0
- するとあくる日は、まだ、笛を吹くか吹かないのに、赤い勾玉を飾りにした、目の一つしかない大男が、風のように空から舞い下って、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:34:09.99:2aDn8M2J0
- 「己は葛城山の目一つの神だ、兄きたちがお前に礼をしたそうだから、己も嗅げや飛べに劣らないような、立派な犬をくれてやろう。」と言ったと思うと、もう口笛の声が森中にひびき渡って、一匹の斑犬が牙をむき出しながら、駈けて来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:34:25.72:2aDn8M2J0
- 「これは噛めという犬だ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:34:41.33:2aDn8M2J0
- この犬を相手にしたが最後、どんな恐しい鬼神でも、きっと一噛みに噛み殺されてしまう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:34:56.96:2aDn8M2J0
- ただ、己たちのやった犬は、どんな遠いところにいても、お前が笛を吹きさえすれば、きっとそこへ帰って来るが、笛がなければ来ないから、それを忘れずにいるが好い。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:35:12.67:2aDn8M2J0
- そう言いながら目一つの神は、また森の木の葉をふるわせて、風のように舞い上ってしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:35:28.39:2aDn8M2J0
- それから四五日たったある日のことです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:35:44.00:2aDn8M2J0
- 髪長彦は三匹の犬をつれて、葛城山の麓にある、路が三叉になった往来へ、笛を吹きながら来かかりますと、右と左と両方の路から、弓矢に身をかためた、二人の年若な侍が、逞しい馬に跨って、しずしずこっちへやって来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:35:59.72:2aDn8M2J0
- 髪長彦はそれを見ると、吹いていた笛を腰へさして、叮嚀におじぎをしながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:36:15.45:2aDn8M2J0
- 「もし、もし、殿様、あなた方は一体、どちらへいらっしゃるのでございます。」と尋ねました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:36:31.07:2aDn8M2J0
- すると二人の侍が、交る交る答えますには、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:36:46.85:2aDn8M2J0
- 「今度飛鳥の大臣様の御姫様が御二方、どうやら鬼神のたぐいにでもさらわれたと見えて、一晩の中に御行方が知れなくなった。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:37:02.55:2aDn8M2J0
- 「大臣様は大そうな御心配で、誰でも御姫様を探し出して来たものには、厚い御褒美を下さると云う仰せだから、それで我々二人も、御行方を尋ねて歩いているのだ。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:37:18.17:2aDn8M2J0
- こう云って二人の侍は、女のような木樵と三匹の犬とをさも莫迦にしたように見下しながら、途を急いで行ってしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:37:33.88:2aDn8M2J0
- 髪長彦は好い事を聞いたと思いましたから、早速白犬の頭を撫でて、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:37:49.62:2aDn8M2J0
- 御姫様たちの御行方を嗅ぎ出せ。」と云いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:38:05.32:2aDn8M2J0
- すると白犬は、折から吹いて来た風に向って、しきりに鼻をひこつかせていましたが、たちまち身ぶるいを一つするが早いか、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:38:21.06:2aDn8M2J0
- 「わん、わん、御姉様の御姫様は、生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の虜になっています。」と答えました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:38:36.77:2aDn8M2J0
- 食蜃人と云うのは、昔八岐の大蛇を飼っていた、途方もない悪者なのです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:38:52.49:2aDn8M2J0
- そこで木樵はすぐ白犬と斑犬とを、両方の側にかかえたまま、黒犬の背中に跨って、大きな声でこう云いつけました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:39:08.20:2aDn8M2J0
- 生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の所へ飛んで行け。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:39:23.84:2aDn8M2J0
- その言が終らない中です。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:39:39.47:2aDn8M2J0
- 恐しいつむじ風が、髪長彦の足の下から吹き起ったと思いますと、まるで一ひらの木の葉のように、見る見る黒犬は空へ舞い上って、青雲の向うにかくれている、遠い生駒山の峰の方へ、真一文字に飛び始めました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:39:55.08:2aDn8M2J0
- やがて髪長彦が生駒山へ来て見ますと、成程山の中程に大きな洞穴が一つあって、その中に金の櫛をさした、綺麗な御姫様が一人、しくしく泣いていらっしゃいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:40:10.80:2aDn8M2J0
- 「御姫様、御姫様、私が御迎えにまいりましたから、もう御心配には及びません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:40:26.42:2aDn8M2J0
- さあ、早く、御父様の所へ御帰りになる御仕度をなすって下さいまし。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:40:42.15:2aDn8M2J0
- こう髪長彦が云いますと、三匹の犬も御姫様の裾や袖を啣えながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:40:57.88:2aDn8M2J0
- 「さあ早く、御仕度をなすって下さいまし。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:41:13.60:2aDn8M2J0
- わん、わん、わん、」と吠えました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:41:29.35:2aDn8M2J0
- しかし御姫様は、まだ御眼に涙をためながら、洞穴の奥の方をそっと指さして御見せになって、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:41:45.18:2aDn8M2J0
- 「それでもあすこには、私をさらって来た食蜃人が、さっきから御酒に酔って寝ています。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:42:00.92:2aDn8M2J0
- あれが目をさましたら、すぐに追いかけて来るでしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:42:16.63:2aDn8M2J0
- そうすると、あなたも私も、命をとられてしまうのにちがいありません。」と仰有いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:42:32.36:2aDn8M2J0
- 髪長彦はにっこりほほ笑んで、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:42:48.09:2aDn8M2J0
- 「高の知れた食蜃人なぞを、何でこの私が怖がりましょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:43:03.82:2aDn8M2J0
- その証拠には、今ここで、訳なく私が退治して御覧に入れます。」と云いながら、斑犬の背中を一つたたいて、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:43:19.54:2aDn8M2J0
- この洞穴の奥にいる食蜃人を一噛みに噛み殺せ。」と、勇ましい声で云いつけました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:43:35.29:2aDn8M2J0
- すると斑犬はすぐ牙をむき出して、雷のように唸りながら、まっしぐらに洞穴の中へとびこみましたが、たちまちの中にまた血だらけな食蜃人の首を啣えたまま、尾をふって外へ出て来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:43:51.01:2aDn8M2J0
- ところが不思議な事には、それと同時に、雲で埋まっている谷底から、一陣の風がまき起りますと、その風の中に何かいて、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:44:06.74:2aDn8M2J0
- この御恩は忘れません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:44:22.34:2aDn8M2J0
- 私は食蜃人にいじめられていた、生駒山の駒姫です。」と、やさしい声で云いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:44:38.05:2aDn8M2J0
- しかし御姫様は、命拾いをなすった嬉しさに、この声も聞えないような御容子でしたが、やがて髪長彦の方を向いて、心配そうに仰有いますには、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:44:53.76:2aDn8M2J0
- 「私はあなたのおかげで命拾いをしましたが、妹は今時分どこでどんな目に逢って居りましょう。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:45:09.47:2aDn8M2J0
- 髪長彦はこれを聞くと、また白犬の頭を撫でながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:45:25.09:2aDn8M2J0
- 御姫様の御行方を嗅ぎ出せ。」と云いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:45:40.79:2aDn8M2J0
- 「わん、わん、御妹様の御姫様は笠置山の洞穴に棲んでいる土蜘蛛の虜になっています。」と、主人の顔を見上げながら、鼻をびくつかせて答えました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:45:56.50:2aDn8M2J0
- この土蜘蛛と云うのは、昔神武天皇様が御征伐になった事のある、一寸法師の悪者なのです。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:46:12.20:2aDn8M2J0
- そこで髪長彦は、前のように二匹の犬を小脇にかかえて御姫様と一しょに黒犬の背中へ跨りながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:46:27.92:2aDn8M2J0
- 笠置山の洞穴に住んでいる土蜘蛛の所へ飛んで行け。」と云いますと、黒犬はたちまち空へ飛び上って、これも青雲のたなびく中に聳えている笠置山へ矢よりも早く駈け始めました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:46:43.62:2aDn8M2J0
- さて笠置山へ着きますと、ここにいる土蜘蛛はいたって悪知慧のあるやつでしたから、髪長彦の姿を見るが早いか、わざとにこにこ笑いながら、洞穴の前まで迎えに出て、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:46:59.33:2aDn8M2J0
- 「これは、これは、髪長彦さん。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:47:15.10:2aDn8M2J0
- 遠方御苦労でございました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:47:30.82:2aDn8M2J0
- まあ、こっちへおはいりなさい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:47:46.53:2aDn8M2J0
- 碌なものはありませんが、せめて鹿の生胆か熊の孕子でも御馳走しましょう。」と云いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:48:02.25:2aDn8M2J0
- しかし髪長彦は首をふって、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:48:17.87:2aDn8M2J0
- 「いや、いや、己はお前がさらって来た御姫様をとり返しにやって来たのだ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:48:33.50:2aDn8M2J0
- 早く御姫様を返せばよし、さもなければあの食蜃人同様、殺してしまうからそう思え。」と、恐しい勢いで叱りつけました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:48:49.22:2aDn8M2J0
- すると土蜘蛛は、一ちぢみにちぢみ上って、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:49:04.95:2aDn8M2J0
- 「ああ、御返し申しますとも、何であなたの仰有る事に、いやだなどと申しましょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:49:20.56:2aDn8M2J0
- 御姫様はこの奥にちゃんと、独りでいらっしゃいます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:49:36.18:2aDn8M2J0
- どうか御遠慮なく中へはいって、御つれになって下さいまし。」と、声をふるわせながら云いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:49:51.90:2aDn8M2J0
- そこで髪長彦は、御姉様の御姫様と三匹の犬とをつれて、洞穴の中へはいりますと、成程ここにも銀の櫛をさした、可愛らしい御姫様が、悲しそうにしくしく泣いています。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:50:07.53:2aDn8M2J0
- それが人の来た容子に驚いて、急いでこちらを御覧になりましたが、御姉様の御顔を一目見たと思うと、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:50:23.25:2aDn8M2J0
- 「妹。」と、二人の御姫様は一度に両方から駈けよって、暫くは互に抱き合ったまま、うれし涙にくれていらっしゃいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:50:38.86:2aDn8M2J0
- 髪長彦もこの気色を見て、貰い泣きをしていましたが、急に三匹の犬が背中の毛を逆立てて、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:50:54.59:2aDn8M2J0
- わん。」と、気の違ったように吠え出しましたから、ふと気がついてふり返えると、あの狡猾な土蜘蛛は、いつどうしたのか、大きな岩で、一分の隙もないように、外から洞穴の入口をぴったりふさいでしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:51:10.23:2aDn8M2J0
- おまけにその岩の向うでは、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:51:25.84:2aDn8M2J0
- 「ざまを見ろ、髪長彦め。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:51:41.56:2aDn8M2J0
- こうして置けば、貴様たちは、一月とたたない中に、ひぼしになって死んでしまうぞ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:51:57.26:2aDn8M2J0
- 何と己様の計略は、恐れ入ったものだろう。」と、手を拍いて土蜘蛛の笑う声がしています。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:52:12.89:2aDn8M2J0
- これにはさすがの髪長彦も、さては一ぱい食わされたかと、一時は口惜しがりましたが、幸い思い出したのは、腰にさしていた笛の事です。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:52:28.55:2aDn8M2J0
- この笛を吹きさえすれば、鳥獣は云うまでもなく、草木もうっとり聞き惚れるのですから、あの狡猾な土蜘蛛も、心を動かさないとは限りません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:52:44.27:2aDn8M2J0
- そこで髪長彦は勇気をとり直して、吠えたける犬をなだめながら、一心不乱に笛を吹き出しました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:53:00.24:2aDn8M2J0
- するとその音色の面白さには、悪者の土蜘蛛も、追々我を忘れたのでしょう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:53:15.86:2aDn8M2J0
- 始は洞穴の入口に耳をつけて、じっと聞き澄ましていましたが、とうとうしまいには夢中になって、一寸二寸と大岩を、少しずつ側へ開きはじめました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:53:31.57:2aDn8M2J0
- それが人一人通れるくらい、大きな口をあいた時です。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:53:47.30:2aDn8M2J0
- 髪長彦は急に笛をやめて、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:54:02.92:2aDn8M2J0
- 洞穴の入口に立っている土蜘蛛を噛み殺せ。」と、斑犬の背中をたたいて、云いつけました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:54:18.54:2aDn8M2J0
- この声に胆をつぶして、一目散に土蜘蛛は、逃げ出そうとしましたが、もうその時は間に合いません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:54:34.25:2aDn8M2J0
- 「噛め」はまるで電のように、洞穴の外へ飛び出して、何の苦もなく土蜘蛛を噛み殺してしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:54:49.95:2aDn8M2J0
- 所がまた不思議な事には、それと同時に谷底から、一陣の風が吹き起って、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:55:05.59:2aDn8M2J0
- この御恩は忘れません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:55:21.30:2aDn8M2J0
- 私は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山の笠姫です。」とやさしい声が聞えました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:55:37.02:2aDn8M2J0
- それから髪長彦は、二人の御姫様と三匹の犬とをひきつれて、黒犬の背に跨がりながら、笠置山の頂から、飛鳥の大臣様の御出になる都の方へまっすぐに、空を飛んでまいりました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:55:52.64:2aDn8M2J0
- その途中で二人の御姫様は、どう御思いになったのか、御自分たちの金の櫛と銀の櫛とをぬきとって、それを髪長彦の長い髪へそっとさして御置きになりました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:56:08.34:2aDn8M2J0
- が、こっちは元よりそんな事には、気がつく筈がありません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:56:23.94:2aDn8M2J0
- ただ、一生懸命に黒犬を急がせながら、美しい大和の国原を足の下に見下して、ずんずん空を飛んで行きました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:56:39.63:2aDn8M2J0
- その中に髪長彦は、あの始めに通りかかった、三つ叉の路の空まで、犬を進めて来ましたが、見るとそこにはさっきの二人の侍が、どこからかの帰りと見えて、また馬を並べながら、都の方へ急いでいます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:56:55.23:2aDn8M2J0
- これを見ると、髪長彦は、ふと自分の大手柄を、この二人の侍たちにも聞かせたいと云う心もちが起って来たものですから、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:57:10.94:2aDn8M2J0
- あの三つ叉になっている路の上へ下りて行け。」と、こう黒犬に云いつけました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:57:26.68:2aDn8M2J0
- こっちは二人の侍です。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:57:42.35:2aDn8M2J0
- 折角方々探しまわったのに、御姫様たちの御行方がどうしても知れないので、しおしお馬を進めていると、いきなりその御姫様たちが、女のような木樵と一しょに、逞しい黒犬に跨って、空から舞い下って来たのですから、その驚きと云ったらありません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:57:58.00:2aDn8M2J0
- 髪長彦は犬の背中を下りると、叮嚀にまたおじぎをして、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:58:13.73:2aDn8M2J0
- 「殿様、私はあなた方に御別れ申してから、すぐに生駒山と笠置山とへ飛んで行って、この通り御二方の御姫様を御助け申してまいりました。」と云いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:58:29.46:2aDn8M2J0
- しかし二人の侍は、こんな卑しい木樵などに、まんまと鼻をあかされたのですから、羨しいのと、妬ましいのとで、腹が立って仕方がありません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:58:45.18:2aDn8M2J0
- そこで上辺はさも嬉しそうに、いろいろ髪長彦の手柄を褒め立てながら、とうとう三匹の犬の由来や、腰にさした笛の不思議などをすっかり聞き出してしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:59:00.81:2aDn8M2J0
- そうして髪長彦の油断をしている中に、まず大事な笛をそっと腰からぬいてしまうと、二人はいきなり黒犬の背中へとび乗って、二人の御姫様と二匹の犬とを、しっかりと両脇に抱えながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:59:16.43:2aDn8M2J0
- 飛鳥の大臣様のいらっしゃる、都の方へ飛んで行け。」と、声を揃えて喚きました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:59:32.18:2aDn8M2J0
- 髪長彦は驚いて、すぐに二人へとびかかりましたが、もうその時には大風が吹き起って、侍たちを乗せた黒犬は、きりりと尾を捲いたまま、遥な青空の上の方へ舞い上って行ってしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 05:59:47.80:2aDn8M2J0
- あとにはただ、侍たちの乗りすてた二匹の馬が残っているばかりですから、髪長彦は三つ叉になった往来のまん中につっぷして、しばらくはただ悲しそうにおいおい泣いておりました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:00:03.45:2aDn8M2J0
- すると生駒山の峰の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:00:19.08:2aDn8M2J0
- 私は生駒山の駒姫です。」と、やさしい囁きが聞えました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:00:34.70:2aDn8M2J0
- それと同時にまた笠置山の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:00:50.44:2aDn8M2J0
- 私は笠置山の笠姫です。」と、これもやさしく囁きました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:01:06.08:2aDn8M2J0
- そうしてその声が一つになって、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:01:21.80:2aDn8M2J0
- 「これからすぐに私たちは、あの侍たちの後を追って、笛をとり返して上げますから、少しも御心配なさいますな。」と云うか云わない中に、風はびゅうびゅう唸りながら、さっき黒犬の飛んで行った方へ、狂って行ってしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:01:37.45:2aDn8M2J0
- が、少したつとその風は、またこの三つ叉になった路の上へ、前のようにやさしく囁きながら、高い空から下して来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:01:53.16:2aDn8M2J0
- 「あの二人の侍たちは、もう御二方の御姫様と一しょに、飛鳥の大臣様の前へ出て、いろいろ御褒美を頂いています。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:02:08.89:2aDn8M2J0
- さあ、さあ、早くこの笛を吹いて、三匹の犬をここへ御呼びなさい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:02:24.60:2aDn8M2J0
- その間に私たちは、あなたが御出世の旅立を、恥しくないようにして上げましょう。」
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:02:40.32:2aDn8M2J0
- こう云う声がしたかと思うと、あの大事な笛を始め、金の鎧だの、銀の兜だの、孔雀の羽の矢だの、香木の弓だの、立派な大将の装いが、まるで雨か霰のように、眩しく日に輝きながら、ばらばら眼の前へ降って来ました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:02:56.10:2aDn8M2J0
- それからしばらくたって、香木の弓に孔雀の羽の矢を背負った、神様のような髪長彦が、黒犬の背中に跨りながら、白と斑と二匹の犬を小脇にかかえて、飛鳥の大臣様の御館へ、空から舞い下って来た時には、あの二人の年若な侍たちが、どんなに慌て騒ぎましたろう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:03:11.74:2aDn8M2J0
- いや、大臣様でさえ、あまりの不思議に御驚きになって、暫くはまるで夢のように、髪長彦の凜々しい姿を、ぼんやり眺めていらっしゃいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:03:27.45:2aDn8M2J0
- が、髪長彦はまず兜をぬいで、叮嚀に大臣様に御じぎをしながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:03:43.17:2aDn8M2J0
- 「私はこの国の葛城山の麓に住んでいる、髪長彦と申すものでございますが、御二方の御姫様を御助け申したのは私で、そこにおります御侍たちは、食蜃人や土蜘蛛を退治するのに、指一本でも御動かしになりは致しません。」と申し上げました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:03:58.89:2aDn8M2J0
- これを聞いた侍たちは、何しろ今までは髪長彦の話した事を、さも自分たちの手柄らしく吹聴していたのですから、二人とも急に顔色を変えて、相手の言を遮りながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:04:14.62:2aDn8M2J0
- 「これはまた思いもよらない嘘をつくやつでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:04:30.26:2aDn8M2J0
- 食蜃人の首を斬ったのも私たちなら、土蜘蛛の計略を見やぶったのも、私たちに相違ございません。」と、誠しやかに申し上げました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:04:45.99:2aDn8M2J0
- そこでまん中に立った大臣様は、どちらの云う事がほんとうとも、見きわめが御つきにならないので、侍たちと髪長彦を御見比べなさりながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:05:01.86:2aDn8M2J0
- 「これはお前たちに聞いて見るよりほかはない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:05:17.49:2aDn8M2J0
- 一体お前たちを助けたのは、どっちの男だったと思う。」と、御姫様たちの方を向いて、仰有いました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:05:33.12:2aDn8M2J0
- すると二人の御姫様は、一度に御父様の胸に御すがりになりながら、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:05:48.74:2aDn8M2J0
- 「私たちを助けましたのは、髪長彦でございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:06:04.36:2aDn8M2J0
- その証拠には、あの男のふさふさした長い髪に、私たちの櫛をさして置きましたから、どうかそれを御覧下さいまし。」と、恥しそうに御云いになりました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:06:20.10:2aDn8M2J0
- 見ると成程、髪長彦の頭には、金の櫛と銀の櫛とが、美しくきらきら光っています。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:06:35.84:2aDn8M2J0
- もうこうなっては侍たちも、ほかに仕方はございませんから、とうとう大臣様の前にひれ伏して、
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:06:51.57:2aDn8M2J0
- 「実は私たちが悪だくみで、あの髪長彦の助けた御姫様を、私たちの手柄のように、ここでは申し上げたのでございます。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:07:07.32:2aDn8M2J0
- この通り白状致しました上は、どうか命ばかりは御助け下さいまし。」と、がたがたふるえながら申し上げました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:07:22.93:2aDn8M2J0
- それから先の事は、別に御話しするまでもありますまい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:07:38.55:2aDn8M2J0
- 髪長彦は沢山御褒美を頂いた上に、飛鳥の大臣様の御婿様になりましたし、二人の若い侍たちは、三匹の犬に追いまわされて、ほうほう御館の外へ逃げ出してしまいました。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:07:54.27:2aDn8M2J0
- ただ、どちらの御姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:08:10.03:2aDn8M2J0
- 元慶の末か、仁和の始にあつた話であらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:08:25.75:2aDn8M2J0
- どちらにしても時代はさして、この話に大事な役を、勤めてゐない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:08:41.49:2aDn8M2J0
- 読者は唯、平安朝と云ふ、遠い昔が背景になつてゐると云ふ事を、知つてさへゐてくれれば、よいのである。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:08:57.22:2aDn8M2J0
- その頃、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:09:12.95:2aDn8M2J0
- これも、某と書かずに、何の誰と、ちやんと姓名を明にしたいのであるが、生憎旧記には、それが伝はつてゐない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:09:28.67:2aDn8M2J0
- 恐らくは、実際、伝はる資格がない程、平凡な男だつたのであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:09:44.41:2aDn8M2J0
- 一体旧記の著者などと云ふ者は、平凡な人間や話に、余り興味を持たなかつたらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:10:00.02:2aDn8M2J0
- この点で、彼等と、日本の自然派の作家とは、大分ちがふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:10:15.64:2aDn8M2J0
- 王朝時代の小説家は、存外、閑人でない。――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:10:31.37:2aDn8M2J0
- 兎に角、摂政藤原基経に仕へてゐる侍の中に、某と云ふ五位があつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:10:47.09:2aDn8M2J0
- これが、この話の主人公である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:11:02.71:2aDn8M2J0
- 五位は、風采の甚揚らない男であつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:11:18.35:2aDn8M2J0
- それから赤鼻で、眼尻が下つてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:11:33.99:2aDn8M2J0
- 頬が、こけてゐるから、頤が、人並はづれて、細く見える。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:11:49.62:2aDn8M2J0
- 一々、数へ立ててゐれば、際限はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:12:05.35:2aDn8M2J0
- 我五位の外貌はそれ程、非凡に、だらしなく、出来上つてゐたのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:12:21.09:2aDn8M2J0
- この男が、何時、どうして、基経に仕へるやうになつたのか、それは誰も知つてゐない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:12:36.83:2aDn8M2J0
- が、余程以前から、同じやうな色の褪めた水干に、同じやうな萎々した烏帽子をかけて、同じやうな役目を、飽きずに、毎日、繰返してゐる事だけは、確である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:12:52.56:2aDn8M2J0
- その結果であらう、今では、誰が見ても、この男に若い時があつたとは思はれない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:13:08.39:2aDn8M2J0
- (五位は四十を越してゐた。)その代り、生れた時から、あの通り寒むさうな赤鼻と、形ばかりの口髭とを、朱雀大路の衢風に、吹かせてゐたと云ふ気がする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:13:24.13:2aDn8M2J0
- 上は主人の基経から、下は牛飼の童児まで、無意識ながら、悉さう信じて疑ふ者がない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:13:39.87:2aDn8M2J0
- かう云ふ風采を具へた男が、周囲から受ける待遇は、恐らく書くまでもないことであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:13:55.60:2aDn8M2J0
- 侍所にゐる連中は、五位に対して、殆ど蠅程の注意も払はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:14:11.32:2aDn8M2J0
- 有位無位、併せて二十人に近い下役さへ、彼の出入りには、不思議な位、冷淡を極めてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:14:26.95:2aDn8M2J0
- 五位が何か云ひつけても、決して彼等同志の雑談をやめた事はない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:14:42.58:2aDn8M2J0
- 彼等にとつては、空気の存在が見えないやうに、五位の存在も、眼を遮らないのであらう。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:14:58.33:2aDn8M2J0
- 下役でさへさうだとすれば、別当とか、侍所の司とか云ふ上役たちが頭から彼を相手にしないのは、寧ろ自然の数である。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:15:13.95:2aDn8M2J0
- 彼等は、五位に対すると、殆ど、子供らしい無意味な悪意を、冷然とした表情の後に隠して、何を云ふのでも、手真似だけで用を足した。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:15:29.57:2aDn8M2J0
- 人間に、言語があるのは、偶然ではない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:15:45.28:2aDn8M2J0
- 従つて、彼等も手真似では用を弁じない事が、時々ある。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:16:01.13:2aDn8M2J0
- が、彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと、思つてゐるらしい。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:16:16.90:2aDn8M2J0
- そこで彼等は用が足りないと、この男の歪んだ揉烏帽子の先から、切れかかつた藁草履の尻まで、万遍なく見上げたり、見下したりして、それから、鼻で哂ひながら、急に後を向いてしまふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:16:32.62:2aDn8M2J0
- それでも、五位は、腹を立てた事がない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:16:48.24:2aDn8M2J0
- 彼は、一切の不正を、不正として感じない程、意気地のない、臆病な人間だつたのである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:17:03.86:2aDn8M2J0
- 所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄しようとした。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:17:19.60:2aDn8M2J0
- 年かさの同僚が、彼れの振はない風采を材料にして、古い洒落を聞かせようとする如く、年下の同僚も、亦それを機会にして、所謂興言利口の練習をしようとしたからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:17:35.22:2aDn8M2J0
- 彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:17:50.95:2aDn8M2J0
- 彼が五六年前に別れたうけ唇の女房と、その女房と関係があつたと云ふ酒のみの法師とも、屡彼等の話題になつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:18:06.67:2aDn8M2J0
- その上、どうかすると、彼等は甚、性質の悪い悪戯さへする。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:18:22.40:2aDn8M2J0
- それを今一々、列記する事は出来ない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:18:38.17:2aDn8M2J0
- が、彼の篠枝の酒を飲んで、後へ尿を入れて置いたと云ふ事を書けば、その外は凡、想像される事だらうと思ふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:18:53.87:2aDn8M2J0
- しかし、五位はこれらの揶揄に対して、全然無感覚であつた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:19:09.58:2aDn8M2J0
- 少くもわき眼には、無感覚であるらしく思はれた。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:19:25.20:2aDn8M2J0
- 彼は何を云はれても、顔の色さへ変へた事がない。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:19:40.84:2aDn8M2J0
- 黙つて例の薄い口髭を撫でながら、するだけの事をしてすましてゐる。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:19:56.48:2aDn8M2J0
- 唯、同僚の悪戯が、嵩じすぎて、髷に紙切れをつけたり、太刀の鞘に草履を結びつけたりすると、彼は笑ふのか、泣くのか、わからないやうな笑顔をして、「いけぬのう、お身たちは。」と云ふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:20:12.12:2aDn8M2J0
- その顔を見、その声を聞いた者は、誰でも一時或いぢらしさに打たれてしまふ。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:20:27.75:2aDn8M2J0
- (彼等にいぢめられるのは、一人、この赤鼻の五位だけではない、彼等の知らない誰かが――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:20:43.38:2aDn8M2J0
- 多数の誰かが、彼の顔と声とを借りて、彼等の無情を責めてゐる。)――
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:20:59.11:2aDn8M2J0
- さう云ふ気が、朧げながら、彼等の心に、一瞬の間、しみこんで来るからである。
- ： ななしじゃにー [sage] 2018/02/23(金) 06:21:14.85:2aDn8M2J0
- 唯その時の心もちを、何時までも持続ける者は甚少い。
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