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■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供2■


日本@名無史さん [] 2010/12/26(日) 23:25:18
豊臣秀吉は、300数十人の女性と性的関係を持ったと
されている。
それなのに子供ができなかった。
これは医学上、秀吉は若いときの性感染症で生殖能力を失ったと思われる。
淀殿だけに2人も子供が生まれるなど常識的にありえない。

それに淀殿にとって、秀吉に大きな恨みがある。
秀吉に兄の万福丸を処刑され、母親の市の方を攻め殺した敵でもある。
淀殿は、浅井の血を天下人にする気はあっても仇の秀吉の子などを生み
天下を取らせる気はなかったのではないか?

徳川家康が淀方を攻め立てても、北政所や秀吉子飼いに
支持を失わなかったのも、当時から秀頼の出自が疑われてたから
ではないか?
日本@名無史さん [] 2010/12/26(日) 23:28:09
前スレ

■豊臣秀頼は大野治長と淀殿の子供■
ttp://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1232372244/
日本@名無史さん [] 2010/12/26(日) 23:58:52
まさに今年の大河にぴったりのスレ
大河ではここらの背景も掘り下げて描いてほしい。
日本@名無史さん [] 2010/12/27(月) 05:08:39
子種があるなら
秀吉は1000人くらい子供がいてもおかしくない!!


日本@名無史さん [] 2010/12/27(月) 11:20:50
は南殿との間に生まれた子の存在は否定するんだなw
日本@名無史さん [] 2010/12/28(火) 10:35:37

秀吉は南殿に騙されたんだよ
そして淀にも騙された
日本@名無史さん [] 2010/12/30(木) 16:03:22
種無し
日本@名無史さん [sage] 2010/12/30(木) 16:14:23

龍馬伝となんの関係が?
日本@名無史さん [] 2011/01/02(日) 06:31:48

そうだね。
騙したんだろうね。
子種がない秀吉の子供をできたことにすれば
その側室は一気に天下が取れるから。
日本@名無史さん [] 2011/01/03(月) 15:04:36
だいたい、淀だけ短期間に2回も秀吉の子を妊娠したこと自体怪しい。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/03(月) 18:12:43
てか秀吉に300人の妾がいるって言ってたのフロイス?あの人は色々勘違いが多いし、大阪城に住んでた女性はみんな秀吉の側室だと思ってたのかもよ?
秀吉だって50歳を過ぎれば子作りに情熱注ぐ事も減るだろうし、茶々はお気に入りだったのかもよ
日本@名無史さん [] 2011/01/03(月) 23:46:27
秀吉の血液型は
残っていた血判状からO型であることが判明している
秀頼の遺髪や何かがあればDNA鑑定で一発なんだけどな
日本@名無史さん [sage] 2011/01/04(火) 00:07:44
そこまでは現代の科学でもむずかしいだろう。
血液型でいくかミトコンドリアでいくかぐらいしか
安定して何回も検査できない。
日本@名無史さん [] 2011/01/04(火) 00:57:13
医学的には相性のいい特定の女性だけ
妊娠しやすいってのはありえるらしいけど
日本@名無史さん [] 2011/01/04(火) 07:08:14
若い時性交しまくったのに子供ができず
年とって寝小便もらすようになってから同じ女性に二度子供ができるのは
天文学的確率だと思う。

常識的にはボケた秀吉が淀に騙されてたと考えるのが普通。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/04(火) 10:05:06
南殿が秀吉の子を産んだとしたら、その子供入れて20年で4人。記録には流産とかは含まれないから天文学的ってほどでもないし

まあ本当の事は母親にしか解らないさ〜
日本@名無史さん [] 2011/01/04(火) 20:41:36
実子というのも可能性としては十分あり得るからなあ
日本@名無史さん [sage] 2011/01/05(水) 23:39:07

まあ秀吉が天下人になったこと自体が
日本@名無史さん [sage] 2011/01/10(月) 19:23:24
淀の子供が秀吉の子供じゃないって落書きしただけで、かなりの人が死んだの知ってる?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/10(月) 20:31:43
いまも死ぬの?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/10(月) 21:48:57
秀頼と家康が会談した後の落書きなら、悪意が有り過ぎて何ともかんとも
日本@名無史さん [sage] 2011/01/12(水) 08:34:52
仮に茶々が大野や石田の子供を産んだり、秀吉血筋の関白秀次を謀殺したとしても
悪いことだと思わない。

なんせ秀吉は、父の浅井長政・柴田勝家・母の市・兄の万福丸を殺し
織田家を乗っ取り、茶々を手篭めにした大悪人・死ぬほど憎い相手だろうからね。

茶々からすれば「百姓の豊臣を乗っ取って何が悪い?」くらいの気持ちだろう。


日本@名無史さん [] 2011/01/12(水) 17:44:52
父親も継父も戦で惨敗した孤児姉妹の嫁入り先としちゃ悪くない扱いだろ
感謝はしてないかもしれないけど、そこまで恨んでたかね?
日本@名無史さん [] 2011/01/13(木) 10:13:10
秀頼が三成の子なら、関ヶ原の戦いで豊臣恩顧の大名達が家康に味方したのも当然と言えば当然。
若君は主君・秀吉の実子ではない、しかも若君の実父は大嫌いな三成
これじゃ、清正や正則たちも東軍に走る罠w
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 10:55:31
朝鮮にいた三成がどうやって大阪の茶々に種付けすんだ?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 16:16:50
妄想瞬殺ワロス
日本@名無史さん [] 2011/01/13(木) 18:09:24

茶々が心底から秀吉を恨んでたのならば、そもそも側室にならないんジャマイカ?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 19:09:19
今年の大河でその説を採用するのかどうか見ものだなw
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 19:21:19
当時の結婚に個人の意思なんかまず関係ないあるね。
日本@名無史さん [] 2011/01/13(木) 20:22:10
男にとっては正室と側室は別
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 20:25:24
加賀殿とか病気を理由に側室を辞めてるしな
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 21:28:08
秀吉がホモだったら病気にならずに歴史は変わってたかな
つか、小一郎も種ナシみたいなもんだし、遺伝なのかもな
日本@名無史さん [sage] 2011/01/13(木) 22:30:25
家康がレイプして
生まれた子供が秀頼だって説もあるな。
誰がいいだしたのか知らんけれど。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/14(金) 05:52:28
何処の何て奴の説?
日本@名無史さん [] 2011/01/14(金) 07:36:47

利家が信長の愛人で娘の麻阿(加賀殿)が秀吉の愛人
父娘で時の権力者の愛人って凄いなw
日本@名無史さん [sage] 2011/01/14(金) 10:02:54
尾張の弱小大名のどこが時の権力者?
日本@名無史さん [] 2011/01/14(金) 15:50:47

戦国武将は秀吉とキリシタン大名以外はみんなホモ(笑)
日本@名無史さん [] 2011/01/14(金) 16:49:00

最初は弱小大名でも天下統一まであと一歩って所までのし上がっただろ
日本@名無史さん [sage] 2011/01/14(金) 17:21:19
利家=尾張の弱小大名の小姓
欄丸=時の権力者の小姓

違いわかりますかーーーー?
日本@名無史さん [] 2011/01/14(金) 18:29:02
利家=時の権力者の「元」小姓
日本@名無史さん [sage] 2011/01/14(金) 18:58:23
それ言ったら加賀殿も「元」側室だ罠
日本@名無史さん [sage] 2011/01/14(金) 22:40:54
駄目だこりゃw
日本@名無史さん [] 2011/01/15(土) 08:14:20
加賀殿は正室・お松の方の子ではないという説もある。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/15(土) 13:21:12
言うだけならタダだからな
日本@名無史さん [] 2011/01/15(土) 20:06:07
秀吉を種無しだと貶めるは朝鮮人
日本@名無史さん [] 2011/01/16(日) 23:37:21
現代の医学からみたら100%他人の子。

問題なのは、その当時でさえ多くの人間が状況証拠から
「秀頼は秀吉の子ではない」と本音では思っていたということだ。
(秀吉の不徳になるから絶対に口には出さなかったが)

なぜ豊臣恩顧やねねが、家康を信頼したのかが
読み解けるだろう。
単なる三成憎しで、東軍につくほど豊臣恩顧は馬鹿ではない。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/17(月) 02:51:14

100%の根拠をどうぞ
日本@名無史さん [] 2011/01/17(月) 04:03:25
確かに、ねねや豊臣恩顧は怪しんでいただろうな。
もし、確実に秀頼が秀吉の実子なら、ねねはいくら淀と
仲が悪くても、秀頼に肩入れするだろうし、ねねが一言
発すると加藤、福島、前田は100%秀頼側につくだろうし、
黒田や伊達も徳川につかなかった可能性が大。
そうなると家康の天下統一はかなり難しくなった。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/17(月) 11:47:20
太閤が自分の子と認めて「秀頼を頼むたのむたのむタノムタノムタノムタノ…」と言い遺したにも関わらず簡単に分裂するようじゃ、ねねは自分が何か言っても一時凌ぎにしかならないと思ったんじゃ?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/17(月) 22:20:18
あげは全部同じ子だから相手すんな
日本@名無史さん [] 2011/01/17(月) 23:24:09
高台院は実際には東軍の武断派連中とは関係が薄くて
実際には西軍関係者(石田、大谷、小西、宇喜多、小早川含む木下一族)と親密だったという研究もあるんだが・・・
日本@名無史さん [] 2011/01/18(火) 08:38:05

証拠がないのに100%とかry
頭大丈夫?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/18(火) 21:57:08
秀頼のパパ?大野治長は関ヶ原では東軍なんだが。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/20(木) 10:32:34
淀殿の立場からすれば秀吉の子を生まなければ一介の側室だけど、
もし子供が生まれれば将来の天下人の母という絶大な存在になる。
だから、大野治長説は兎も角、他の男と寝た可能性はあると思う。
秀吉の子かそうじゃないかはどちらともいえない。

しかし、加藤や福島が家康についたのは秀頼の出自がどうこうの理由ではなく、
三成が嫌いだからでもなく、彼らは元々家康寄りだった。
家康が秀吉の遺訓を破って縁談を持ちかけたときホイホイと擦り寄っていった。
そりゃ、秀吉亡き後の一番の実力者は家康だから、良い関係を築きたいのは当然だろう。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/20(木) 20:27:14
不倫で簡単に天下人の母になれれば他の側室にも可能性はあったわけで
日本@名無史さん [sage] 2011/01/20(木) 23:10:16
バレたら確実に獄門だからリスク高すぎ
日本@名無史さん [] 2011/01/21(金) 18:41:30
そのリスクを買ってでもやる野心家が淀殿だろう。
家康の天下が確定した後も楯突くぐらいだから。

もっとも、大野治長説を肯定するわけじゃないが。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/21(金) 22:33:05
茶々は野心家ってほどの欲を持ってたようには思えないけどね。
政情の変化の局面を見抜けるような性格の女性では無かったのと
秀吉の確立した豊臣家の権勢の持続しか考えられず、
天下が徳川に回っていくことに気づかなかったというのは有るだろうけど。
>盾ついた ってほど、家康を上に見ていなかったと思う。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/22(土) 07:27:44
淀がどうのってか家康は戦略のプロ、相手が悪かっな
淀とねねは別に対立してなかったって最近じゃ言われてるし、花見で杯を争ったと言われた京極竜子は秀頼の子を預かったり遺体を引き取ったりしてるからそんな仲が悪かったわけでもなさそう
徳川の人質になるのを拒否した説と周りが止めたって説もあるし

ドラマほどキツい人じゃなかったかも
日本@名無史さん [] 2011/01/22(土) 09:42:21
京極竜子の母親は浅井長政の妹だから、竜子は淀殿にとって父方の従姉妹に当たる人物だしw
どう見ても仲悪いわけないだろうと思う。
花見で杯を争ったなんて話は後世の創作に違いない。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/22(土) 10:10:12

女性に関する逸話の多くは後世の興味本位からの創作が多い。
醍醐の花見の杯争いも、出典からみても自分は創作と思っている。
まるで芝居がかった逸話だしね。
だいたい、その元を書いた人間がその場にの居たのか?とw


桑田忠親先生の名言
「事実は物語より地味だったりする」
日本@名無史さん [] 2011/01/22(土) 17:59:45
というか、ねねと茶々の不仲説の根拠が分からない。

関が原の時の小早川秀秋に寝返りを促す書状に
「北の政所のために家康に味方しろ」とあるのが根拠とする人がいるが、
家康についくことがなぜ北の政所のためになるのか?
三成が勝ったらなぜ北の政所のためにならないのか??
このあたりの説明が十分でない。
日本@名無史さん [] 2011/01/22(土) 19:19:15
むしろ三成が勝ったほうが豊臣家の人間にとってはためになる筈
日本@名無史さん [sage] 2011/01/22(土) 21:10:50
北の政所は三成の娘を養女にもらっているし
ふつうに仲良かったと思うんだが
日本@名無史さん [] 2011/01/23(日) 00:46:59
ここで淀とねねが仲良かったって工作してるいつものお馬鹿さんってなんなの?

仲がいいなら、豊臣が分裂して戦うかってのw
三成と親類関係とか関係ない、親戚ってだけで仲がいいとか
戦国時代でありえるかってのw
日本@名無史さん [sage] 2011/01/23(日) 07:17:34
北政所が小早川秀秋に東軍に行くよう薦めたってのは、江戸時代になってから言われた事で
日本@名無史さん [] 2011/01/23(日) 17:16:15

ねねが西軍よりだという史料もない。
というか、関ヶ原合戦時にねねや茶々が政治活動をした記録がない。
大津籠城で死にかけた京極高次&初夫妻に対しては
ねねも茶々も降伏するように使者を送っているが、
彼女らが西軍派だったからというよりもただ単に
秀吉没後無法地帯となって戦ばかりする男たちを止めに入った側面が強い。

家康は関ヶ原後、「女子供は知らないこと」と言って
秀頼も茶々もねねも一切咎めなかった。
もしもねねや茶々がどちらかに入れ込んでいたのならば
処分があってしかるべき。
日本@名無史さん [] 2011/01/23(日) 17:38:20

豊臣が分裂して戦ったのは、ねねと茶々の仲違いのせいではない。



宇喜多秀家が関が原前に戦勝祈願を行ったときに北の政所は代理を送っている。
まぁ、これを持って西軍よりといえるかどうかはまだ弱い気がするが。
しかし、福島正則らと関係が深かったというのもあまり根拠がない話で、
一般に流布している東軍よりだったという説は大いに疑問だとは言える。
日本@名無史さん [] 2011/01/23(日) 18:42:49

>宇喜多秀家が関が原前に戦勝祈願

宇喜多秀家の関ヶ原前の豊国社参拝は内心
「関ヶ原戦勝祈願」であったかもしれないが、
北政所がそれを承知していたとは考え難い。
当時京に住んでいた北政所は豊国社へ月参りをかかさず、
もともと本人&代理が頻繁におとずれていたのであり、
北政所がこの時点で、関ヶ原合戦を知っており、
その上で宇喜多秀家に参同して、
西軍のために代理を送ったというのは無理があると思われます。

このとき東軍に味方していた福島正則・加藤清正は関ヶ原後も、
北政所と対面して高台寺建築の際には門を寄進するなどしており、
ねねとは親しくなかったというのも違う気がする。
つまり、ねねは関ヶ原で政治活動をしなかったがゆえに、
関ヶ原後も家康に咎められず(西軍は徹底的にたたいたにもかかわらず)
東軍に味方した大名たちからも寄進をうけるなどしたのだと思われる。
日本@名無史さん [] 2011/01/24(月) 23:49:08
秀頼が、大野と淀の子供だと当時から言われてるのは
実際にこの2人に性的関係があったからだろ。

秀吉の生前はともかく、秀吉が死んでからは淀は尼にもならず
大野を囲って情夫にしてたのは事実だからな。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/25(火) 00:29:01
別に尼にならんでもいいだろw秀吉の正室側室で出家したのは3人くらいだし
日本@名無史さん [] 2011/01/25(火) 08:59:25
秀吉の妻達で出家したのってねねの他には誰?
日本@名無史さん [sage] 2011/01/25(火) 15:11:24
京極竜子は出家してたけど、他にいたっけ?
日本@名無史さん [] 2011/01/25(火) 15:31:36

茶々の母市だって夫と死に別れても尼になってないし
千姫も夫が死んでも尼になっていない
江戸時代になると儒教を流行らせたおかげで
二夫にまみえずとかで夫が死んだら尼が将軍家では主流になるが
この時代はそうでもない
ただ、晩年仏門に入るという人はいてねねも龍子もその類
ちなみにねねの出家は秀吉の没後すぐではなく、
秀吉の一周忌が終わり、関ヶ原合戦が終わり、
秀頼と千姫が結婚し、さらに養母が死んだあとのことで、
実に夫の秀吉が死んでから5年以上たってから。
ねねの出家が必ずしも夫秀吉の死=出家ってわけではないってこと。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/25(火) 15:42:04
江戸時代は出家というより落飾じゃないか?

ガチの出家は戦国以前に多かった気が
日本@名無史さん [sage] 2011/01/25(火) 15:51:18

戦国以前もガチの出家(頭を剃髪し、尼寺に入る)
ではない人が多いよ。
髪は尼削ぎでこころもち切るぐらい、
俗世にあって、出家後に政治を見ていた女性も多い。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/25(火) 17:52:29

足利頼純の娘、嶋子とかは?単に実家に帰りたくなかっただったり?
日本@名無史さん [] 2011/01/26(水) 22:08:32

馬鹿ですか?
千姫や市の夫を滅びしたのは「実家」だろw

もし尼になったら実家に弓引く逆臣扱いされるでしょうがw

淀の場合は、天下人の後見人でありながら
尼にならないのは豊臣を愚弄し、大野と情事をするため。
ぜんぜん背景が背景が違う。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/26(水) 22:44:44
        ____
        /     \    
     /   ⌒  ⌒ \   何言ってんだこいつ
   /    (●)  (●) \     
    |   、" ゙)(__人__)"  )    ___________
   \      。` ⌒゚:j´ ,/ j゙~~| | |             |
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| | | ⌒ ーnnn        |\ (⊆ソ .|_|___________|
 ̄ \__、("二) ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l二二l二二  _|_|__|_
日本@名無史さん [] 2011/01/27(木) 10:05:51
最初の夫も二度目の夫も二人ともイケメンだった。そんな千姫は勝ち組
個人的に彼女が悲劇のヒロインというイメージはあまりないな
日本@名無史さん [sage] 2011/01/27(木) 10:20:16
千姫最大の悲劇は「吉田通れば二階から招く、しかも 鹿の子の振り袖で♪」とか謡われた事だな。えらい言われようw
日本@名無史さん [] 2011/01/27(木) 13:07:06
政略結婚とはいえ、二度もイケメンと結婚したから僻まれたのだろw
日本@名無史さん [] 2011/01/27(木) 17:53:45

馬鹿ですか?
秀吉没後、三の丸殿や摩阿姫が出家せず再婚したのは
実家が秀吉と敵対したからですか?

大河ドラマでも取り上げられる江が
夫と離婚&死別しても出家しなかったのは
実家が夫の家と敵対したからですか?

何が何でも淀が大野との情事を公言して
周囲の出家説得に応じなかったことにしたいみたいだが
あまりにも馬鹿すぎる。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/27(木) 19:42:43

>馬鹿ですか
2ちゃんであろうと、そういうモノ言いをすると
自分がお馬鹿であることを吹聴してるようなものだよ。
意見というより、単のよっぽど淀殿を嫌ってるんだな・・・
としか思えない叩きのようなレスだし。

まず知らないようだけど、
尼になっても家中に重きをなし施政に携わった女性も散見する。

しかし「尼になる」のは俗世を捨てて仏弟子として生きる事であり
そうなると立場上出てはいけない場面等々も出てくるんだよね。
>天下人の後見 という役目でそういう立場は不自由だろう。

家康側室の神尾一位殿・阿茶局は、家康死後も家康の指示で
出家得度を許されなかった。
尼になっていなかったからこそ、和子の入内に付き添えた。
尼になっていたら墨染の衣で宮中に入れないよ。
少し関係ない引き合いになってしまったけど、
茶々だって尼の身では秀頼の後見など出来ないんだから。
日本@名無史さん [] 2011/01/27(木) 22:31:30

おいおい、子供のいない若い側室などが再婚するのは
戦国時代は普通にあるだろ。

淀の場合は、ぜんぜん立場が違うだろw
名目上は唯一跡取りを生んで(まあ大野の子だろうが)唯一の後見人なんだぞ。
(つまり豊臣の女主)
女主のよどは再婚できるはずないし、尼になるのが当然だろw
嫌いなじじいから逃れて、自由に性行為したかったんだろ。

身軽な子のいない側室と豊臣後見人の淀を、同一視するなんてずいぶん必死だな。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/28(金) 01:09:06
尼に幻想抱きすぎw
尼になっても恋愛はしたい人はしてるんだけど
日本@名無史さん [] 2011/01/28(金) 16:07:59

お前は淀が尼にならない理由を問い詰めてたんだろ?

幼主のために再婚しない女は多くいたが、何も出家をする必要はない。
実際に夫が死んでも出家せず、政治を見ていた女性は多い。

で?
なんで夫が死んだら再婚しない女は出家しないとだめなの?

夫の没後もセックスしたいから尼にならなかった馬鹿。
この時代は有効な避妊法もないのだし、
淀が秀吉死後大阪城でやりまくっていたならば間違いなく妊娠し、
秀頼の異父妹弟が大量にできる。

まあ、豊臣家のためには秀頼の異父弟が大量にいた方が良かっただろうが
残念ながら秀吉死後淀は子を産んでいない。
日本@名無史さん [] 2011/01/28(金) 16:11:40
お茶々は夫の死後に再婚しなかっただけでもエライ!
日本@名無史さん [] 2011/01/28(金) 16:13:12

そこまで淀がセックスしたかったならば、
秀頼のことは高台院にでも任せてとっとと他の男と再婚してるよね。
嫡子の母であっても夫の死後再婚している女性はいる。
秀頼と一緒に大阪城に残った淀がそれほどセックスしたがってたように見えない。
だって、再婚すればいいわけだし、
夫が秀頼を守ってくれるならば一石二鳥。
日本@名無史さん [] 2011/01/28(金) 16:18:18
嫡男教育は普通は正室の役目なんだがな
日本@名無史さん [] 2011/01/28(金) 16:26:18

ねねも秀頼の教育には携わっていたでしょ
ただし側室が母の場合側室の元に置かれることは多い
前田家も利長が藩主の時はその実母である芳春院(まつ)が
江戸に人質に取られていた
しかし次代、利常のときには芳春院が嫡母に当たるにもかかわらず
加賀へ帰され代わりに
利常の実母で前田利家の側室であった千代保が人質にとられた
側室の子である当主が嫡母である父の正室ではなく
実母である父の側室のほうに大きな影響を受けたことの表れ

室町幕府でも江戸幕府でも将軍生母は側室であっても
その将軍に対して正室以上に大きな影響力を行使した
日本@名無史さん [sage] 2011/01/29(土) 01:17:23
江戸時代の大奥の制度のあり方の断片しか理解していない輩が、
妻妾のあり方は時代によっても異なる部分もあるものだってことを知らず
「側室はすべて使用人」「側室には全く権限が無い」とか、
偉そうに言っちゃうんだよね。

ただやはり江戸幕府の将軍生母という位置で大奥に残った側室でも、
桂昌院や月光院のように派手な存在で表向きと関わった女性もいるけど
幕末になっての本寿院なんてt天璋院や和宮に隠れて影は薄いし、
位ももらってなかった・・・のは激動の時代のせいか?
実成院は将軍側室ではなく紀州大納言側室なのだから仕方もないけど。

日本@名無史さん [] 2011/01/30(日) 15:00:28

本多忠刻はともかく、秀頼は醜男サル秀吉の子なのに美男子なのは何故?
そこからのような説を言い出す輩が続出するんだろうな。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/30(日) 16:24:03

母は父と弟を見捨てて柴田とセックス三昧だがな
日本@名無史さん [sage] 2011/01/30(日) 16:54:00

市だって浅井長政が死んでから10年間は未亡人として
貞操を守っただろうが。
自分を庇護してくれた兄の信長が亡くなって
信長配下の武将の2大勢力であった秀吉か勝家かどちらかに嫁ぐしかなく、
やむにやまれず勝家を選んだだけのことだろうよ。
秀吉には正室がいたが勝家は若いころに正室と死別しており
勝家ならば正室として嫁げるということもあっただろうが。

普通は女は男ほど性欲は強くないよ。
この時代にも生涯童貞を貫かされる坊主なんかが大勢いたのに
なんでそんなに女がやりたがってることにしたいんだ。
日本@名無史さん [] 2011/01/30(日) 16:57:56

豊臣秀頼は巨漢で美男子だったが、淀の父浅井長政の血筋だよ。
秀頼とその祖父浅井長政の肖像画は似ている。
京極高次も巨漢で色白だし、
高次の母は浅井長政の姉だから、浅井家の特徴なんだろう。
ちなみに、高次の姉で秀吉から淀に次ぐ寵愛を受けた龍子も、
色白豊満で大変な美女だったらしい。

日本@名無史さん [sage] 2011/01/30(日) 17:25:53
森三中みたいなのが当時の美人
日本@名無史さん [] 2011/01/30(日) 17:55:36
黒沢はやせたら、美人になると思うが、
あとの二人は問題外だろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/30(日) 21:14:20
大柄の秀頼が小柄な秀吉の子としておかしいのなら、
長身お市と大柄長政の間に生まれた小柄で華奢なお江もおかしい
でもお江が不義の子とは誰も言わないよね〜不思議〜
日本@名無史さん [sage] 2011/01/30(日) 23:17:56

・第一子の長女は男親に似ることが多い。
・「伝淀殿像」の淀殿は母のお市や次妹の初の肖像、
「伝崇源院像」の3人と比較しても豊満で顔も大まかなのがうかがえる、
 (肖像の様式美や画家の画法等々じゃとりあえず置いといて)
などの理由から、茶々は父親似ではないだろうかと推測する
研究者や歴史作家が多いけど、

素人が「〜だよ」って嬉しげに言ってると滑稽だな
日本@名無史さん [sage] 2011/01/31(月) 06:37:30
秀頼2m説はさすがに誇張と思うが今はレキジョレベルでは
史実になってるなあ。
肥満児というのは実際に見た複数の人が言ってるから
本当だろうが相当なブサではあるんだろな。
昔の美男子美女ってのは今では・・って話だが。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/31(月) 07:22:22
時代劇を見てると小顔イケメンより、わりと大顔でキリッとした顔の役者の方が華があってマゲが似合ってる気がする
日本@名無史さん [sage] 2011/01/31(月) 11:24:14
秀頼のイメージは花田勝
100 [sage] 2011/01/31(月) 16:56:54

>レキジョレベルでは史実になってるな
えっ?最近の歴史好き女子日本史上での身長の推測値も知らないのか。
ゆとり世代って本当にどうしようもないんだね。
北欧人なみの体型してた戦国人なんて突然変異になってしまうw

現代のように食糧事情が整わず、
飢餓の危機にさらされていたことの多い時代は
確かに「太目」はかえって富の象徴であったり
食事を円滑にとれる憧れの階層として
総合的な美の基準で上位にされることも多い。
また秀頼は「今度こそはつつがなく成人に」と、
奥向き御殿で侍女たちに囲まれて
蝶花でお大事にお大事にと育てられたと憶測できるから
肥満体型にあったというのは理解できる話なんだけど、
2メートルとか想像するって単に思考のできない馬鹿なのでは・・・


歌舞伎なんかだと、まなじ顔が小さいと
隈取化粧が映えないので迫力が出ず、
小顔が少し悩みの種・・・という若手役者も居たりするよ。
日本@名無史さん [] 2011/01/31(月) 23:11:15
>秀頼2m説はさすがに誇張と思うが今はレキジョレベルでは
>史実になってるなあ。

宮本武蔵よりでかいのかよw



てゆーか真田信繁はどんな扱いになるんだよ
 ↓
花の様なる秀頼さまを、鬼の様なる真田がつれて
     退きものいたり、かごしまへ
日本@名無史さん [] 2011/01/31(月) 23:15:26

淀の肖像画は市に似ているが?

お前みたいな素人が第一子の長女は男親似でケテーィ
なんて馬鹿なこと言ってるの見ると全く滑稽だなあ。
遺伝子学者の論文でも出てないよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/01/31(月) 23:39:16

だもんで隔世遺伝とかいろいろ言って
2mでもありえただろうみたいなね。
そりゃ突然変異ってのはあるだろうし否定はなかなか
できないもんでさ。
日本@名無史さん [] 2011/02/01(火) 07:25:05

>高次の姉で秀吉から淀に次ぐ寵愛を受けた龍子

あれ???京極龍子って高次の「姉」だったっけ?
俺が持ってる本には「妹」だと載ってるが・・・・。
日本@名無史さん [] 2011/02/01(火) 15:09:03

龍子は生年不詳。
ただし、龍子の初婚が高次の初婚に比べてかなり早く、
天正10年(1582年)の本能寺の変で
龍子の最初の夫武田元明が明智光秀に味方して殺害されたときに、
龍子は元明との間にすでに二男を産んでいたことが分かっていることから
(この2人の子もこのときに殺されている)
姉の可能性が高いとされる(今回の大河では高次の姉説を採用している)。
しかしながら、生年不詳なので、高次の年の近い妹説も不可能というわけではない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 15:29:14

高野山持明院像の「浅井長政夫人像」と、
奈良県立美術館像の「伝淀殿画像」のことを言ってるのか

「江」展にでも出掛けて本物見てこいよ、
言葉遣いの躾けも受けていない田舎モンさん
日本@名無史さん [] 2011/02/01(火) 16:04:55

淀が市似であることは昔から言われてきたこと。
君のような珍説を出したいなら、もっと謙虚にならないと。
さも多くの研究者が淀は父似といってるかのような嘘を書かないで、
君ももっと研究者の意見を聞くことだな。

言葉遣いの躾も受けていない滑稽な初心者君。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 16:35:36

レ鬼女「ソースはwiki(キリッ」
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 18:00:15
お市と茶々が似ていたという証拠は無い
小谷が落ちた時、茶々4歳くらい。長政の肖像画が正確か分からない
茶々の肖像画。後年に二人の肖像画をテキトーにミックスして描かれた

て事で茶々がどちらに似ているか不明だなっ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 18:05:13

まだそれならかわいいよ。
テレビや小説が真実になってるし。
最初にすりこまれると信者になってしまうのがこわいとこなんよな。
もっとすごいのはゲームとイラストなんだろうが・・
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 18:26:45

長政が死んだときに茶々は幼かったから肖像画があやふやだという点だが、
茶々の傍で小谷城出生時から大坂城自刃まで仕えた乳母大蔵卿局は
当然長政の顔を知っているわけだし、
浅井家の女性たちはかなり生き残っていて三姉妹と交流があったから
(京極高次の母で長政の実姉である京極マリアなど)
けしてデタラメな肖像画ではないはず。
養源院の初代住職は浅井長政の従兄で、これも浅井家の人だ。
その点から言っても茶々が誰を描かせたことがはっきりしている
浅井長政・市像はそこそこ本人たちと似ていたのだろうと思っている。

それに比べ、娘たち浅井三姉妹の肖像画は出所が不明で
誰を描いたのか分からないらしい。
淀も初も江も後世に描かれ、江戸時代になってから
誰それかも?ということが書かれてあるにすぎない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 18:37:41

>淀が市似
という旨を言ってきたのは、そういう設定で創作し
戯曲や小説を書いてた作家群なのじゃ?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 18:46:15
あの辺の肖像画は全部そっくりだけどなあ。
例え実見した関係者が多くても全部に聞いたわけじゃないだろうし
とりあえず当時の美人タイプに描いてるだけで
似てるとかそういう議論が不毛じゃね。

市が美人で猿が懸想してその娘になんてのは
まるっきり小説だろうし。
・・猿ならありか・・
日本@名無史さん [] 2011/02/01(火) 19:42:39
思うにサントリーロックフェラー系司馬遼太郎の捏造史観って日本人の戦後心理に悪影響を及ぼしているよね
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 20:25:35

浅井三姉妹を引き取って好きにできた秀吉が
茶々にだけ食指を動かしたというのは
やはり茶々が三姉妹中ダントツの美人だったというのが
最も考えやすいからじゃないのか?

市が美人だというのは信長研究の一次史料としても使われる
「信長公記」にも記載があるし、「尾張志」には父の信秀が
美女好きで領国中から美女を集めさせたために信長兄弟は
皆美貌だったとかいう記述もある。
となれば茶々の美貌は市譲りというのが最も考えやすい。

茶々は父の浅井長政似だとどっかで断定している人がいたが、
浅井長政には美男だという記述も伝承もないからね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 21:07:54
信長兄弟が畑違いなのに美人が多かったとすると
皆信秀似だったことになる。
牛一は信行も美しく?記述してるし、そこは相当に気を使ってるんだろな。

ところでお江で信長が同腹は一人だけだって言ってなかったかな。
信行の感じだったが、このたりは微妙じゃないかね。
お市も同腹のような気がするが。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 21:59:37
みんな、亡き峰隆一郎先生の官能時代小説、
「織田信長一妻六妾伝」でも読んで、リラックスしろよ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 22:02:22
wikiでは信長、信行、秀孝、信包、市、犬の5人が
いずれも土田御前の子になってて驚いた。
信長には20人近い兄弟がいたが、その母はよくわからない。
市の娘江と犬の息子佐治一成の結婚は
信長が決めていたという説があるくらいで、
市と犬が同腹であることは昔から言われていたらしい。
秀孝は信長の男兄弟一の美男だったらしいが、
土田御前腹というのは初めて聞いた。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/01(火) 22:38:24
テレビでは22人と言ってた。
公記で同腹ってのは案外少ないんだよね、生母とか微妙な表現は多いが。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 02:59:13

ジジイだから一番上にした。秀吉が30ぐらいなら江にしてただろう
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 08:03:53
茶々が一番背が高かったのかもよ?子孫が欲しけりゃ顔よりまず背!
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 12:14:00

>生年不詳なので、高次の年の近い妹説も不可能というわけではない。

だったら、生年不詳で「浅井長政の姉」だと一般的には言われている高次の母・京極マリアも「長政の年の近い妹」であってもおかしくない筈
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 12:38:40
名門浅井家ってなにげに
豊臣家にも徳川家にも残ったんだな
つか、徳川家って浅井・明智の血が大きいよね
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 13:21:40
浅井氏って別に名門てほどでもない罠
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 16:12:45
浅井は浅井三姉妹の曾祖父の代に初めて大名になった近江の土豪。
3代で滅んだし名門ということもない(源氏とか平氏とかではない)、
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 16:21:19

茶々と初は1歳違い、茶々と江でも4歳違いだよ。
浅井三姉妹は姉妹間ではそれほど年齢が離れておらず、
逆に誰と結婚しても秀吉とは30歳以上年が違う。
年齢だけの点から茶々にしたということもないだろう。


茶々は秀吉晩年の側室だよ。
身長が高ければ子を産むという迷信はないし、
それならもっと若い頃から身長の高い側室ばかりを集めればいい。
秀吉は若いころからさんざん女を食い荒らしてきて今更
跡取りの期待値も低かっただろう。

日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 16:23:45
明智って徳川にそんなにからんでたっけ。
秀忠以降は正室がしばらく将軍を産んでないから
いろいろ複雑になってて浅井色もなあ。
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 16:30:39

京極マリアの子で間違いない京極高次が1563年生まれ。
このとき浅井長政は19歳。
当時は20歳前後から子を産む女性が多いため(まつのような例外はいるが)
マリアは長政の姉と推測しているが、高次が仮にマリアの第一子で、
17,8で高次を産んだというのならば長政の妹という可能性もないわけではない。

ちなみに京極高次は本能寺の変で20歳。
高次と龍子の夫武田元明は明智光秀に味方、武田元明は死亡。
龍子が高次の妹ならば、龍子は19歳までに男子2人を産んでいたことになる。
年齢的には龍子が高次の妹であるほうが難しいか。
龍子が高次の姉ならば、マリアの第一子は高次ではなく龍子ということになり、
1962年以前に出産経験があるということになり、マリアの長政姉説はさらに高まる。

日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 16:36:47
 実は源氏・平氏より名門
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/                ┃           /ヘ    /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/                ┃    「対海国」 ▲/  /
〜 ヘ/      ★末盧国            ┃          ∠ノ  / ニイガタ
/ヘ~                        ┃              /
                             ┃ 「一大国」      /
          _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ  /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山   ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国        ┃      | |__/
       ヽ,   水行 ヽ,ヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /             ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ '        ノ               ┃ ↓ /
    /        ノ              ┃ ↓|フクイ
   丿      ノ ^’              ┗━━━━━━━━━━━
  |_ 水行↓,/
  /  _/ヘ/▲投馬国
  | |    \                    末盧国・・・敦賀市
 /  >   天 \                    伊都国・・・旧伊香郡高月町
/  /     安 \                   奴国  ・・・長浜市
\ |        川                  不弥国・・・米原市
  ∨                ☆呼邑国     投馬国・・・野洲市・守山市
                          
      邪馬台国 ★ 天             邪馬台国・・・旧信楽町
                 岩 ☆為吾国    
             戸            呼邑国・・・甲賀市
                           為吾国・・・伊賀市
              ☆巴利国           巴利国・・・名張市
      ☆烏奴国                   烏奴国・・・宇陀市
  ☆奴国                         奴国 ・・・奈良盆
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 16:53:17

長女の茶々の血は豊臣に入ったが孫の代で絶えてしまったし、
京極家に嫁いだ次女初には子がなかった。
徳川に入った江に関しても、
徳川将軍家に関しては7代家継で浅井の血は完全に絶えているね。
8代将軍より後はいずれも江の血を引いていないから。
むしろ、浅井の血は江が豊臣秀勝との間に設けた完子の子孫である公家の九条家や、
秀忠と江の娘が嫁いだ加賀の前田家なんかで残っているだけなんじゃないか。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 17:05:28

そうなんだよね「名門浅井家の姫」とか、
いくら過去の資料本を寄せ集めて書いた大河便乗本だと
ろくに調べもしないで引き写しを平気で書いてたりするからな。

織田家とて、斯波家の守護代の家のまた配下という身分。
尾張の名流というほどでもないんだし。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 17:22:52
織田家は尾張の名流ではないが、越前の神官としては古い家かな。
織田は古代から続く織田庄剣神社の神官の家系。
室町時代に末裔が越前国守護大名斯波氏に仕官し、
斯波氏が尾張の守護大名を兼ねたために尾張へ赴任したらしい。
まあ、もともとは武家ではないんだけどね。
信長は神を信じなかったが、もともと織田家は神道の家だった。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 19:08:04

だよねぇ。
江の血は天皇家でも絶えてるしねぇ。
詳しい知識はないが、前田家ぐらいの子孫だったらDNA鑑定とか
やってくれそうだしいつかは織田とか浅井のオリジナルDNAとか
わかったら面白いのだけどね。
現在の子孫の名誉じゃなくて、墓とか書状とかの血とか
そういうのからいろいろ判明しないかなって。
あの徳川の発掘の時の骨ってこっそり誰か持ってたら・・
徳川も江もいろいろわかったりして。
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 19:57:40

華渓院(上杉景虎夫人)も景勝の姉説と妹説があるね。
この時代の女性って生年不詳の人多すぎw
そもそも、茶々と初だって生年には諸説あるわけだしw
浅井三姉妹で生年がハッキリしているのは江だけなんだね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 20:52:05
信長や秀吉だって不詳に近いとは思うけどね、逆算なだけだから。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 20:52:08

天皇家は絶えたけど復活したでしょ。貞明皇后で。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 21:17:03

九条家つながりってのだよね。
ってことは今の天皇に信長や江に近い血統が入ってるってことか。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 21:38:12
信長の血は江戸後期の仁孝天皇生母・東京極院から入ったな。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/02(水) 21:47:40
へ〜、そうなのか。
家康の血もなんか複雑に入ってそだな。
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 22:00:41
>>残念ながら秀吉死後淀は子を産んでいない。


当たり前だろ。
秀吉死んでから子ども生んだら
大野の子供だとばれて茶々と大野は
暗殺されてたよw






日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 22:34:08
大野治長は関ヶ原の戦いで東軍徳川家康に味方し、
徳川家に報いたということで徳川家康から恩賞を受けている。

矛盾しないかい?

大野治長は大阪城内でもいつ徳川に寝返るかわからない
と言われてた人だよ?
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 22:35:48
お江って浅井家と明智家の側室の子なの?
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 22:41:49

そういうことだね
ついでに明智の血も
名無しさん@恐縮です [] 2011/02/02(水) 22:50:23

大丈夫だ。
都合の悪い史実は見なかったことにしたらいい。

徳川家康と春日局の間の子供が家光と主張する連中が
「春日局の次男正定は尾張藩に仕官して千石」とか
「春日局の四男正利は徳川忠長に仕官したせいで連座にひっかかって流罪」とか気にすると思うか?

秀忠が側室を持たず、浮気して作った保科正之を他家で育てさせたのはお江が怖かったからだと主張する連中が
「明智光秀も細川幽斎も黒田如水も石田三成も直江兼継も山内一豊も正室ひと筋」とか
「徳川吉宗も徳川家宣も水戸光圀も家臣の子として育てられた」とか気にすると思うか?
日本@名無史さん [] 2011/02/02(水) 23:26:21

地理的に東軍に参加するしかなかった大名は大野だけじゃないよ。

それに大野が西軍に加担してたら、淀にも類が及んでたじゃないか。
万が一、西軍が負けても三成一人のせいにできなくなる。
大野は日和見をするしかなかったわけで。


日本@名無史さん [] 2011/02/03(木) 02:09:01
本能寺の変は
明智光秀と徳川家康がおこした逆賊毛唐の犬信長への天誅

宣教師と信長は家康を暗殺しようとして失敗していた
日本@名無史さん [] 2011/02/03(木) 10:11:18

大野は家康によって自分の領国でもない下野国に流されていたのだから、
何も無理に東軍に味方して挙兵する必要はなかったんだよ。
物見で良かったのに、一命をかけて名をあげたいと思ったから家康に味方しただけ。
これは大野の主君が家康でも秀頼でもよかったことを意味する。
大野が関ヶ原合戦後に大阪城に入ったのも、何といっても家康の命令であり
(秀頼公には手を出さず、という和睦の使者だった)
家康から何らかの隠密の約束を交わされていた可能性すらある。
(結局大坂の陣では豊臣と運命を共にしたが)

関ヶ原の頃豊臣秀頼の守役を務めていた片桐勝元も咎められてないから、
大野が西軍だったからって淀に類が及んだはずもないしね。
151 [] 2011/02/03(木) 10:47:54
145ではなく149へのレス
日本@名無史さん [] 2011/02/03(木) 15:05:29

三姉妹中、一番小柄だったお江が一番多く子ども生んでるじゃん!
長身でガリガリに痩せたモデル体型の女より、小柄で色白な少しポッチャリした女の方が多産だと思うが?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/03(木) 17:22:23
昔はぽっちゃり型で尻のでかい女が出産しやすいと言われていたが
最近ではガリガリ女のほうが安産と言うことが分かってきたし
(産道に脂肪が少なく頭が通りやすいため)
まあ、大柄小柄といった体形と子供の数に因果関係は認められない。

受精は何も畑の女の側だけの問題ではないから。
江の場合は旦那のおかげというのもあるだろう。
秀忠の精子が良かったということだ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/03(木) 18:22:16
秀吉は顔が面白系なのは利用してたみたいだけど、背が低いのは気にしてたんでない?あの肖像画見ても小男には見えないし。どうせ子孫残したいなら織田家みたいな長身家系目指したい、とか思わなかったかな?
日本@名無史さん [] 2011/02/03(木) 19:26:59
長身=美人
小柄=ブス

とは限らないんじゃ?
あ、でも、秀吉は男だから低身長がコンプレックスだったのかな?
だから自分の側室には長身女を求めたのかw
日本@名無史さん [] 2011/02/03(木) 23:02:47
秀頼公が死なず、そのままだったら大阪の秀頼と江戸の秀忠の戦いだった。

秀頼vs秀忠だったらどっちが強かったかな?
秀頼の子・国松も、秀忠の子・家光も良いライバルだったかも知れん。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/03(木) 23:33:49

江と茶々入れ変えたら秀忠が義兄さんになっちゃうじゃん
日本@名無史さん [] 2011/02/04(金) 02:01:03
大野と茶々の子が秀頼だったら
利休が殺されて
秀次が殺されて
秀次のそばで身の回りの世話をしていた女中が連座で皆殺しされたのも
つじつまがあうんだよな。

そういうふうに周りもまとめて連座させることで
茶々の周りの不義を知っている人だってバレたら
自分も殺されると考えて絶対に口をわらなくなる。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/04(金) 02:30:38
黙れキバヤシ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/04(金) 07:59:09
そんなにみんなが知ってるのだったら今更口封じもなにもないとも思う。
誰もが疑ってただろうしね。
大体秀吉自体に、気づかれたら、一番ヤバいだろし。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/04(金) 19:29:59

訳が分からん。
利休や秀次は茶々の身内ではないし、近臣でもない。
なんでそんな遠くの奴が連座するんだ?
そんな滅多に会わない連中が
大野と茶々の不義の証拠を握っていたのならば、
秀吉やねねが知らんはずはない。


日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 01:03:46

基地外・・・?
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 14:47:36
>千利休が秀吉に殺されたのは、
>利休が淀殿と大野治長の密会を目撃してしまったために、
>淀殿が自分の保身のために秀吉に讒言したことが原因

なるほど
   
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 15:48:20

秀忠と初が結婚してたら跡継ぎが生まれなくて徳川家は大変だったろうな
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 16:23:49

秀忠が側室を取るだけだから問題なし。
徳川将軍家は家光以外の将軍すべてが側室の子。

江もなかなか男子を産まなかったので
秀忠が側室をめとって長丸を産ませていたはず。
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 16:27:40

秀次や利休が秀吉の居城に寝泊まりできたことは一度もないし、
秀次が聚楽第に入ったのは秀吉と入れ替わり。
秀吉の居城に住めなかった秀次や利休が
どうやって秀吉の側室の寝所を見るんだ?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 16:28:55
大猷院は烈祖と春日局の子だから困らんだろうに。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 16:33:20

昔そういう映画があったな。
家光出生以前に福が家康に近侍していた可能性がないのが
つらいとこだが。
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 16:46:21

長丸は江の子だよ。
秀忠の妾腹の子は保科正之だけだよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 17:02:56
お江が産んだ子の問題は、あの福田千鶴センセイの妄想をきけばOK
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 17:50:55
うむ、自分も秀忠の妾腹の子というのは保科正之しか聞いたことないな。
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 18:37:21

長丸は江の子ではない。
氏名は不明だが、江とは別の女性との間の子で、江が長丸を
殺害した噂もあった。(だから保科正之は、危害が及ばないように
秀忠の子と言う事実を隠され、保科家に養子にだされた)
大河ドラマの葵徳川三代でも、江とは別の女性が長丸を出産
したことになっていた。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 19:45:29

近侍してないから疑われない訳で。
総見院暗殺の御礼として…子供を…
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 21:26:34
秀頼と家康の対立は
ポルトガル(秀頼陣営) と オランダ・イギリス(家康陣営)の対立だろ
いつもの毛唐の日本破壊代理戦争

茶々と大野なんて関係ない
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 21:44:46

長丸は徳川家の正史である徳川実紀に載っていない。
正室江腹ならば載らないはずはなく、江の腹ではない。
徳川家の系図には名前があるが、母は「家女」。
つまり、侍女だとしか書かれていない。
男子が誕生しないために江が侍女を侍らせた可能性も。

長丸は成人することなく夭折してしまった。
そのために、保科のように有名にはならなかった。
だけど、江の子ではないよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 21:49:23

そうじゃなくて、福は家光が誕生する少し前に
前夫との子稲葉正利を産んでいるんだよな。
つまり、乳が出たから乳母の募集に応募した。
家光を産むのは時間的にも無理だよ。


日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 21:59:02
この時代はまだ毛唐を追い出せていなくて
日本中が毛唐の工作でぐちゃぐちゃにされて
毒殺や処刑という西洋風の殺しが続いていた時代。

毛唐抜きに語ると歴史がまったくみえなくなる。
日本@名無史さん [] 2011/02/05(土) 22:14:47
>総見院暗殺の御礼として…子供を…

お福は四男三女の末っ子なんだが
他の兄や姉たちにはなんのお礼もなかったの?
なんで?

日本@名無史さん [sage] 2011/02/05(土) 23:19:53
またキバヤシか
日本@名無史さん [sage] 2011/02/06(日) 01:03:05
家光が家康の子供だったら普通に十二男坊だったんじゃね?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/06(日) 01:19:41
信長のことをわざわざ法名で呼ぶ奴って、痛すぎ。
日本@名無史さん [] 2011/02/06(日) 09:57:40

>江とは別の女性との間の子で、江が長丸を殺害した噂もあった。

茶々と秀吉の最初の子・鶴松もおねが毒殺したとも言われているね。
側室が生んだ男児が早世すると、とかく正室が容疑者にされがちなのは何故だろう?
日本@名無史さん [] 2011/02/06(日) 10:28:08

ただ単に世間の噂話レベル。
女同士のドロドロが面白い・・・とか。

実際には側室の男子が家督を継いだ例は多く、
その場合でも正室は嫡母として敬われていた。
普通に考えればそんなことはないと思うけどね。
日本@名無史さん [] 2011/02/06(日) 10:52:40

叔父の義直や頼宣とは対立してたし、家光が家康の子ってのはあり得んよ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/06(日) 10:58:57
両親や弟と対立、正室とも険悪って、家光ってどんだけ〜
日本@名無史さん [sage] 2011/02/06(日) 11:56:17
信長だってそんなもんだったな。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/07(月) 19:41:00
昭和55年に見つかった秀頼の首?とかいうやつ、もう調査とかしないのかな?復顔とかして欲しい
日本@名無史さん [] 2011/02/07(月) 19:51:41

江と一番不仲だった家光が一番信長に似てる。色んな意味でw
皮肉なものだなぁ〜。
日本@名無史さん [] 2011/02/07(月) 21:07:30
秀頼の出自

大野の子供の可能性・・・・70%
石田の子供の可能性・・・・30%
秀吉の子供の可能性・・・・0%
日本@名無史さん [] 2011/02/07(月) 21:09:23

邪魔だから謀殺されたんだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/08(火) 05:47:44
石田の名前挙げる奴ってドラマの見過ぎ
日本@名無史さん [] 2011/02/08(火) 09:45:37

秀頼は秀吉が朝鮮出兵のために名護屋城に滞在中、
茶々を名護屋城に呼んでできた子。
受胎時期を秀頼の誕生日から逆算しても
名護城のときの子で間違いがない。
よく言われているのは、このとき石田三成は朝鮮にいて、
日本にいなかったということ。
朝鮮にいる三成がどうやって日本にいる茶々を受胎させたのか?
名護屋城に行ったとき茶々と京極龍子が呼ばれていたが、
はたして大野まで名護屋城に呼ばれていたのか?
という検証が必要だろう。
日本@名無史さん [] 2011/02/08(火) 13:22:42
精子は通常の状態の膣内のPH値では生き残りが難しいが、
オルガスムスを迎えている状態の時のPH値だと生き残る確率が高くなる。

つまり、
@秀吉の精子は極端に量が少ない
A秀吉は性向が下手くそ(前戯無しのオラオラ系?)
B淀殿は喋っているだけでも濡れてくるような体質
C淀殿はしかもオルガスムスに達しやすい体質

って条件が揃っていたとすれば、
他の愛妾達の殆んどが妊娠しないのに、
淀殿だけが複数の子供を産んでいる
って事実にも説明がつく。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/08(火) 14:49:19
またキバヤシか
日本@名無史さん [] 2011/02/08(火) 15:53:41
羽柴姓から
豊臣姓にかえた理由は
茶々?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/08(火) 17:58:45
その前に、
>羽柴姓から
>豊臣姓にかえた
ここ、突っ込まれそうだな。
日本@名無史さん [] 2011/02/08(火) 20:01:42
あのなあ
「姓」だと羽柴なら「たいらの」
豊臣なら「ふじはらの」だろ。
羽柴は信長の平氏を真似したんだし、豊臣は近衛家に養子に入った建前(ゆうし)なんだからな。

羽柴や豊臣なら「姓」ではなくて「氏」=苗字!w

明治期に庶民が何とでも名乗れたし、何とでも読める苗字を1つだけ登録してから
姓と氏は混同されて同義に用いられるようになったが

例えば春日局の一族、山城淀藩主の稲葉氏の墓所の供養塔などには
越智姓、稲葉氏のようにきちんと区別してるし
松平定信の寄進した寛永寺の石灯籠などには受領名を組み合わせて
松平越中守源定信
と区別している。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/08(火) 20:10:26
ツッコミようがないが、3行目と5行目はコピペする価値があるんじゃないか。
日本@名無史さん [] 2011/02/08(火) 21:25:19
木下藤吉郎秀吉は、主君織田信長にならって平氏を称し、
羽柴筑前守平秀吉と名乗った。
平秀吉は、のちに近衛家の猶子になって藤原朝臣秀吉となり、
さらに豊臣朝臣秀吉となった。

秀吉の本姓(ウジ)は、平氏→藤原氏→豊臣氏と変化しており、
名字は、木下→羽柴と変化している。
豊臣姓になったあとも、名字は羽柴のままであるが、
最高権力者になると自ら名字を名乗る場面がなくなるので、
実際に羽柴名字を使用した例は見つかっていない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/08(火) 23:54:21
豊臣姓になったあとも、名字は羽柴のままであるが、
実際に羽柴名字を使用した例は見つかっていない。
日本@名無史さん [] 2011/02/09(水) 00:18:43
豊臣は本姓であって名字ではないからな。
豊臣に改姓するのは、家康が藤原から源氏に改姓するのと同じで、
本姓を変えても名字には直接関係ない。

豊臣改姓にともない、羽柴の名字をやめると公言したわけではなく、
さりとて最高権力者だから自ら羽柴なにがしと名乗ることもない。

結局、名字は羽柴のままでも、少なくとも現在知られている範囲内では、
大っぴらに使われることはなかったとしか言いようがない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 01:22:32
江戸時代も木下家は豊臣朝臣だよね
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 08:45:06
細かいが、苗字、とこっちを使った方が定義っぽい話の
時にはより明解な気がする。

羽柴の名乗りをやめた?のは家臣に羽柴下姓を豪快に
始めたのが関係してるんじゃないかな。
もちろん秀吉はそんな細かいこと知らないからキクテイあたりが
サインは豊臣でね、とかアドバイスしたんだろけど。

関白就任以来の数十年でそれまでの慣行みたいなのがかなりゴチャッ
としてるから過去のいきさつを知らないとおかしな解釈が出てきたりするんだぉな。
秀吉は全部例外、ぐらいにした方が摂関家も満足するだろうし
わかりやすいぐらいだ。

ところで最近は、とよとみの〜、と「の」をつける話もあまり聞かないな。
日本@名無史さん [] 2011/02/09(水) 14:17:03
じゃあ秀次って
羽柴秀次だったってこと?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 16:50:58
もちろん最初は三好で、小牧の後ぐらいから、羽柴秀次と名乗って、その後豊臣朝臣羽柴秀次となる。
そう名乗った書状があるかどうかは知らないが。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 17:08:38
羽柴関白豊臣朝臣秀次じゃないの?
日本@名無史さん [] 2011/02/09(水) 17:33:16
藤原道長が苗字を持たなかったのと一緒で、
豊臣賜姓後、秀吉は羽柴の苗字を封印したんじゃないのか。
公家たちの本姓藤原氏だって、「二条」「九条」「近衛」と
住んでいた通りの名を冠して通称されていたにすぎない。
(署名するときには必ず、藤原、または藤、と本姓で書いた)
公家社会にデビューした秀吉はこれを踏襲したのだろう。
豊臣摂関家が本邸を聚楽第として何代か続けば聚楽第が面した
通りの名が苗字になったのだろう。


日本@名無史さん [] 2011/02/09(水) 18:13:50

福田千鶴氏によると、お江の実子は千姫・初姫・忠長の3人だけ(苦笑)
家光を含む他の5人は侍妾が生んだ子だとよ
めちゃくちゃすぎだろw
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 20:34:16
そういやさ、江戸東京博物館でいまやってる「江展」で、
たしか家光の誕生に関する淀殿の書状があったと思うんだけど、
誰か詳しい人解説してくんない? 図録買わなかったもんで記憶があやふやなんだ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 20:48:46

「江展」には行ってないんだが(東京在住じゃないので・・)
「慶光院文書」のことかな?
ネットでも出るんだが、淀が慶光院周養上人に宛てた手紙。

その箇所を抜き出すと、
「こゝほと秀頼ふたりなから、そくさいに御入候、御心やすく候へく候、
ゑとにもわもしをする/\と、たんしやうにて御入候、御心やすく候へく候(原文)」

「ここのところ、秀頼と二人とも、元気にしておりますので、ご安心ください。
江戸(江戸に住んでいた江のこと)においても若君(家光)を
するすると誕生されたとのこと、ご安心ください(現代語訳)」
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 21:17:28
そうそうそれだそれだ。たしか家光自身の名前は無かった。
まあ生まれたばっかりだからな。
ところで、妾や春日局が家光を産んでたとしたら、
こんな手紙って書くもんなんだろか。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/09(水) 21:22:12
どこら辺が現代語?>するすると
日本@名無史さん [] 2011/02/10(木) 08:43:21
そもそも、家光が庶長子だったら将軍になれるだろうか?
その場合、忠長が唯一の嫡出の男子ってことになる。
「長幼の序」より「嫡庶の序」の方が大事だろ
正室の子を差し置いて、侍妾ごときを母とする子が世継ぎってあり得ねーよw
日本@名無史さん [sage] 2011/02/10(木) 14:07:22
でも何で後継争いになったのかな?
忠長の乳母は、春日と違って普通に家臣の妻だし
日本@名無史さん [sage] 2011/02/10(木) 16:16:23
長丸と保科正之以外は江の子
これが通説なんだから、それで良いじゃないか
日本@名無史さん [] 2011/02/10(木) 16:38:37
後継争い自体が本当にあったかどうか疑問
日本@名無史さん [sage] 2011/02/10(木) 21:04:46
心理学的な見地から考察した人(誰だったか忘れたが)が、秀忠の
深層心理に『兄を超えて家督を継いだ引け目』『俺は父に選ばれて
家督を継いだ』という二つの相反する感情があって、その結果『より
優れた方を自分で選んで自分の家督相続を正当化する』行動を取るって
指摘してた。この考えだと長男より次男を選びますな。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/10(木) 21:33:01
どもりの子には家督は嗣がせぬ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/10(木) 21:39:38

頭悪そうな理論だなw
日本@名無史さん [sage] 2011/02/11(金) 08:56:15
伊達政宗、織田信長、足利尊氏、いずれも同母の弟を殺害している。
正室腹に2人以上の男子がいるとき、毎度のことながらお家騒動が起こるのは、
嫡子相続とはいいながら必ずしもそうではない例もあったためだろう。
家光も父母が死ぬと早速同母の弟を殺害。
それについて父母が弟を将軍にしたがっていたとかいう理由は後付けな気がする。

ただし、秀忠もまた嫡子でないにもかかわらず異母兄を超えて将軍になった経緯から
これを危惧した春日が先走って徳川家康に家光後継を世に宣言するよう
直談判したことは事実と見られ
(実際に秀忠夫妻にその気があったかは別として)
このために家光は終生、父母ではなく祖父の家康を崇拝し、
家康のために神号を朝廷から受けて日光東照宮を作るなどした。
春日が実母である御台所江の家光に対する影響力を阻止するために
家光にこの話をいつも聞かせた(家光は春日が家康に直談判したから
将軍になれた)ことは想像に難くない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/11(金) 10:52:36
シロウトでなんだが、春日さんは何時頃家康に直談判したの?
ほんで春日さんはどうして家光をそんなに後継にしたかったの?
ほんで家康は秀忠夫妻の意見よりもどうして春日さんの意見を採用したの?
生暖かく教えて。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/11(金) 13:28:02

尊氏は正室腹ではなくて側室腹だよ
正室腹の嫡男である異母兄がなくなったから側室腹の次男の尊氏が家督を継いだ
そして尊氏が同母弟直義を殺したのは晩年で家督相続は無関係だ
それまで尊氏と直義は二人三脚で上手くやっていたしな
日本@名無史さん [sage] 2011/02/12(土) 00:16:16
家康がお江に長ったらしい子育て訓戒状を出してるから、お江は忠長を甘やかしてたんだろうな
日本@名無史さん [] 2011/02/12(土) 10:17:39
お江が甘やかしてたから忠長は我侭に育ってしまった
日本@名無史さん [sage] 2011/02/12(土) 14:22:00
忠長の我儘ってのも相当数は捏造だろう。
岡崎信康や豊臣秀次のご乱行と似たような内容だからな
日本@名無史さん [] 2011/02/12(土) 17:52:14
お江の忠長偏愛説が嘘なら、家光が忠長を改易の上自害に追い込んだ理由が判らなくなる
日本@名無史さん [] 2011/02/12(土) 21:39:57
それはあべこべで
家光が忠長を改易の上自害に追い込んだ事実が先にあって
後付けで後継争い説が作られたんだろ。


>これを危惧した春日が先走って徳川家康に家光後継を世に宣言するよう
>直談判したことは事実と見られ

『徳川実紀』はこのエピソードに触れて
「仮に実話だとしたら、この日(慶長16年10月24日)のことではないかと推考される」
ともの凄いことを書いている件。

ちなみに『徳川実紀』の春日局評(死亡記事のところに書いてある)
「世に伝わるこの人のエピソードは嘘ばっかりで何の値打ちもないよ」

だいたい春日局は末っ子を忠長に仕官させているんだが。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/12(土) 21:54:04
でも、その後の乳母は覆面させられてたんだろ?
日本@名無史さん [] 2011/02/12(土) 22:42:13
徳川家光は女に全く興味を示さないホモだった。
母の江が自分の養女にして京から迎えた御台所には指一本触れず、
お気に入りの小姓にラブレターをしたため、
女装して御殿を走り回る変態少年だった。
秀忠も江も、家光の廃嫡は難しくとも
変態家光が跡取りを作るとは到底思えず、
最終的に忠長の系統が将軍に就くのだろうと期待はあったんじゃないか。
家光は成人して長らくたっても正室どころか大奥にいる女たちに全く興味を示さず
父母が死ぬまでに孫を一人も作らなかった。
まあ、結局32歳から子供を作り始めて7代将軍までは家光の血で続いたけどね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/12(土) 22:51:57
まぁ同腹の次男以降は長男のスペアだから(足利将軍家とか今川家とか)
家光が子供の頃から問題有りなら、忠長をその後釜として教育してもおかしくない
家光を廃嫡するんじゃなくて家光→忠長ラインを想定して忠長を育てていたのに
春日局が勘違いして〜という可能性もなきにしもあらずだな
日本@名無史さん [] 2011/02/13(日) 03:02:21
普通に考えたら、幼名に「竹千代」が与えられた時点で家康に
よる世子指名で家光が死亡しない限り、忠長が家光を超えて世子に
なることは、ありえないよな。
日本@名無史さん [] 2011/02/13(日) 05:35:37

家康がお江に子育てに関する手紙を送ったのは家光が生まれてすぐの頃。

まだ忠長は生まれていない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 07:38:08

手紙が何通あるんだか知らんが、17ヶ条の訓戒状なら慶長17年で忠長は慶長11年生まれ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 09:32:37

この時代、ホモ(男色)は普通のことなんだが?
信長だって若かりし頃の前田利家とのホモ関係を皆の前で自慢してるくらいだし。
武田信玄も小姓宛てに浮気を弁解するラブレター残ってるしな
むしろ、女の尻ばかり追いかけて男に全く興味を示さない秀吉の方が変態だったんじゃね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 09:58:58
その時代とこの時代は大日本帝国と平成日本ぐらい時差があるぞ
日本@名無史さん [] 2011/02/13(日) 10:35:28
家光の息子・綱吉もホモだった
血は争えないねw
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 15:21:08

春日さんの直訴というのはどこまで事実なのかなと。
後に出世するし実質的な権力も手に入れたろうが
それと家康生存中で家光幼少時をごっちゃにしてるような話が
多いものだからね。
日本@名無史さん [] 2011/02/13(日) 16:31:40

男色のことを書くと、すぐに「この時代の男色は全員がやってポピュラー。
家光は健全な男子だ」とすぐ書く奴がいるんだが。
そこに描かれてる戦国大名は、出兵した時には男で代用していたが
普通に女が好きで、城に妻も側室も置いていたんだよね。
男にしか興味がなかった若かりし頃の家光とは明らかに異質。

水戸光圀が、「男色は一方にしか快感がなく、もう一方は苦痛しかない。
その点、女色は双方に快感がある。政治も女色のようにして行うべきだ」
とか言ったらしい(本当かどうかは知らんが)。
権力者の戦地における性欲対策として男色がこっそり行われていたことは否定しないが、
男色こそが正しい道だとはこの当時も思われてなかったわけだ。
日本@名無史さん [] 2011/02/13(日) 16:47:44

早世した秀忠の庶長子は「長丸」だもんな
もし、この人が生きていたとしても、庶子だから世子にはなれない。
やはり家光は「生まれながらの将軍」だったのだ。
他の兄弟がどんなに優秀でも嫡男(正室腹の第一子)には勝てないよ
日本@名無史さん [] 2011/02/13(日) 18:46:21

そもそも男色は「女色の代用」じゃねーし。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 20:52:50

春日局の兄(つまり斎藤利三の男子)が春日局の口利きで幕府に仕官したのだが
禄高は5千石で、旗本としては大身だが大名にはなれなかった。
しかも、これは春日局が春日局の称号をもらったのと同じ寛永6年。
当時はすでに将軍が家光で、お江は故人。

つまり春日局はこの頃になって
やっと実の兄に就職の口(5千石)を世話できるくらいの権力を手に入れた。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 21:50:06
男と寝る寝ないは、タバコと同じだな。
昔は普通だった。今は嫌悪する奴の方が多い。
でも、昔から嫌悪する奴はいた。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 22:17:29
>嫌悪する奴の方が多い。
煙草の売上考えればダウト
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 22:19:28
昔と比べて。
売上が高いのは単価(税金)が上がったから。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 22:38:21
スレ違もいいとこだが↑の根拠ね
ttp://www.health-net.or.jp/tobacco/product/pd090000.html
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 22:39:31

いや、男色のもとは仏道修行者が女色を禁じられていて
寺の稚児で代用していたのが元の一つなのだから、
「女色の代用」でも間違ってはいない。

平安時代の宗教者、貴族の嗜好から武家にも広まり、
忠誠心の証しや子飼いの側近との絆を深めるもののように
形態が変化はしたけどね。

また239が云うように「男色は普通」という書き方を否定しているのも正解。
誰もが好んでいたわけではないので普通という言い方はおかしい。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/13(日) 22:41:37
好んだとしても忌避されないという事だろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 01:18:16

それでは寺院以外に広まった衆道の説明がつかない。
元がどうであれ、後の男色を女色の代用という枠組みで纏めるのは無理があるということ。
誰もが好む=普通という認識も間違ってる。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 07:40:08

2万人中60才以上のジジババが7500人のアンケートに何の意味があるわけ?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 07:51:20

寺=稚児→女の代用

武家=家来→絆強化?

民衆=女形→女の代用

武家に限っては女の代用に神聖隊みたいな付加価値を求めたって感じだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 09:10:37

はじめは寺院で広まって、それから貴族間に広まったんだろ。

それ以前に元からあった同性愛嗜好者の研究なんて史料もないし
研究もされていないので、何も言えないよ。


江戸時代の陰間茶屋の客は、もっぱら僧侶と女性(主の後家や奥女中)
若い歌舞伎役者で舞台よりも売色に励むのは陰間とか鬼子とかいうけど
賞味期間が短いうえに絶対数が少ないので料金が馬鹿高い。
なので金持ちでないと男娼は買えないので一般民衆には広まらなかった。
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 10:01:19

昔の高貴な男性の間では↓

男色>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>(超えられない壁)>>>>>>>>>>>>>女色
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 10:15:27
もしも〜し。僕のことは放置ですか? by秀頼
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 10:40:12

君の父親は豊臣秀吉で間違いないと思うよ。
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 11:04:27
権力で女を好き放題に抱いた猿の血筋(形式上の血筋)は途絶えるべきだろ。

日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 11:51:37
この板アンチ秀吉が多くて萎える
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 15:32:00

権力で女を好き放題に抱いたのは何も秀吉に限らんだろ。
秀吉が30歳も年下の淀を側室にしたもんだから行儀が悪く思われているが
徳川家康など60代後半で10代後半の自分の孫より若い女を側室にしてた。
家康が権力者でなかったらそれほど若い女をモノにできるはずもなく
こちらも行儀が悪い。
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 15:37:41

昔は日本人の男は皆、同性愛者だったように言ってるけど、
たいして男色は広まってなかったよ。
武家が家臣との絆を深めるためとはいえ、主君が抱くのは
ほぼ10代の若い少年に限られていた。
髭が薄く、女性と見まがう美少年に限られていたことを見れば
女性の代用であったとしか言いようがない。
史料もないのに国民皆男色だというのは正しくない。
江戸時代には女形の役者はいたがさすがにおっさんでは売春はできず、
また、本物の女性が男性を接待する遊郭に
男性が多額の金をつぎ込んだのを見れば一目瞭然。
女よりも男が良いのであれば、遊郭は存在しない。
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 15:54:13

衆道が広まっていた=日本人の男は皆、同性愛者だった、なんて誰も言ってないんだけど。
意図的に混同してるのかバカなのか・・・。
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 17:01:38
いつの間にか男色スレになっててワロタ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 18:12:21

252がちゃんと解説してるんですが・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 18:47:29
衆道の語源からして対象はネコだから女の代用
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 20:26:19
この流れw
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 20:33:13
ホモフォビアが必死で長文を書いてる
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 20:35:22

そう言うお前はホモか腐女子だろ
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 20:40:53
ナッちゃんじゃあるまいし、そんな個人的な理由でカキコする馬鹿いんのかよ。
日本@名無史さん [] 2011/02/14(月) 20:43:31
ナッちゃん?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/14(月) 21:06:20
まあ家康とて自分の子が全部自分の種かと聞かれたら自信はあるまい
日本@名無史さん [] 2011/02/15(火) 12:15:56
秀頼が秀吉の子供でなかったとしても、それが理由で豊臣が滅んだわけではないだろうに。
日本@名無史さん [] 2011/02/15(火) 14:48:24
逆に秀頼が誕生していなければ秀次は切腹を命じられず
あのままいけば秀吉没時に秀次30歳
秀吉もまさか成人している秀次を前に
家康ごときに自分亡き後の豊臣家の後見を頼むこともなく
豊臣家は安泰だったということか
秀次は10代後半で就任した近江八幡城主時代には名君だったらしいね

日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 17:37:14
家康がなんか仕掛けたらどうなってたかな。
物量では豊臣の方が遥かにでかいが
それだけでは判断できるものでもないか。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 18:02:16

秀次は28歳で切腹した時にすでに子供が10人程度いたとみられる。
(三条河原で殺された子供は5人だが、女子が4,5人助命されている)
成長した息子たちをあちこちの城主として全国にばらまくだろうから
さすがに家康も迂闊なことはできなかったんじゃないか。
秀次は生きていれば大阪の役のとき48歳だ。
秀頼は幼かったこともあり出陣経験が一度もなく、
また公家として育てられていたために自身は出陣しなかったが、
秀次は若いころから叔父秀吉の将の一人として出陣経験があり、
当然戦になれば自身が出陣しただろうし。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 18:25:43

不妊体質が多い豊臣一族では珍しく子沢山だな
日本@名無史さん [] 2011/02/15(火) 20:05:17

次男の秀康については疑ってたらしいしね
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 21:17:12

女好きなところは豊臣家の血なのかね?
30人以上の側室を抱え、悪い評判がたったとかなんとか>秀次
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 21:33:57
王の仕事>子作り
日本@名無史さん [] 2011/02/15(火) 21:39:51
好色は仕方ないじゃん、殿様の大事な仕事だし。
むしろ子無し一族の出で秀吉とかを見てるから、危機感から必要以上に妻妾を置いてやりまくったのかもよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 21:56:47

単純に武将、政治家としての力量の差として考えた場合に家康が
どう考えてたかは面白いところか。
秀次生存と言うことは秀吉の正嫡はいないということだから
そのあたりをついてなんらかの朝廷工作から始めたかもしれないかな。
それに出兵失敗とか豊臣自体もそんなに完璧な状態じゃなかったから
そこをついてやっぱり西西決戦みたいな状態に持ち込んだかもしれないし。
あくまでタラレバだけどね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 22:00:42
秀次が女癖悪いと言われたのは
一の台と一の台の連れ子、
13歳の義理の娘を母娘相姦したりしたことだろ
日本@名無史さん [] 2011/02/15(火) 22:04:08

秀次は秀吉の正式な養子となり家督を譲られている。
秀吉の正統な正嫡だが?
実子しか正嫡と言わないということはない。
それを言い出したら、天皇家も将軍も実子ばかりで継いでないし、
実子相続しかできないなら家康が御三家を作った意味もない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/15(火) 23:27:05

ごめん、言葉の選択がわからなかったんだが
実子、ということが言いたかった。
ほんで話がズレるが天皇家も徳川も一応は祖がいてそっからの
実子相続じゃないのか、あれ。
豊臣の場合の祖は秀吉だからその秀吉の男系直の血が途絶えたというのを
家康ならうまくついたんじゃないか、ということ。

このあたりはよく話題になるが、そんなの関係ない
ということはなくてやはり、男系直、とか天皇賜姓の2代目がいないと
いうのは大きいと思うしよく出る恩顧の話でも
秀吉恩顧の武将は多くとも秀次恩顧とはあまり言わない。

だからあくまで豊臣限定のタラレバで家康がそこを
うまくつくことはあったかもということ。

ついでだが正統な正嫡というと、正室から生まれた実子、みたいにも
受け取れるな。このあたりの定義は知らないからどうなんだろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/16(水) 00:24:54

「畜生塚」が築かれたのは、一の台とお宮母娘と関係をもったのが
その理由だとも言われているけれど
実のところ閨房の真相なんてわからない事なんじゃないの。

政治的に抹殺したい人物の悪行を、
やっても居ないのに捏造するのは時代の常だもの。
日本@名無史さん [] 2011/02/16(水) 09:41:35

天皇家は兄弟相続やらおじ甥相続、五世王相続までいろいろあるが、
すべて神武天皇の子孫、徳川幕府も兄弟相続おじ甥相続から
御三家やら御三卿からの相続までいろいろあるがすべて徳川家康の子孫
だということか?しかし、あまり関係ないだろう。
豊臣秀吉が甥豊臣秀次を養子にして関白を譲った時、誰も反対する者はいなかったし、
秀頼が産まれても、秀吉が秀次を切腹させるまで豊臣家の家督相続者は秀次だった。
実子相続がそこまで重視されていたのならば、秀頼誕生時に秀次は自動的に家督相続権を失うし、
応仁の乱だって足利義政の正室富子腹に義尚が誕生した時点で義視は家督相続権を失うはずだ。

>正統な正嫡というと、正室から生まれた実子
この辺りは微妙だ。
織田信長の嫡子と言われる信忠も母は側室。
徳川家康だって嫡男信康を自害させ自分の最初の正室を殺害した後は
跡取り秀忠も御三家の祖もすべて側室腹だからな。
秀次がガチで家康よりも強ければ家康は黙って臣従しただろうし、
秀吉の場合は家康が「こいつなら勝てる」と思ったから
難癖つけて戦に持ち込んで殺害しただけのこと。
家康の跡取りだって「正室から生まれた子」ではないのだから
それを持って豊臣家を滅ぼす理由にはならんだろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/16(水) 13:50:09
もちろん同意だがあくまでタラレバ限定ね。
豊臣というのは天皇賜姓だし秀吉はその祖。
普通の家の実子相続の重要度とはまた違うところで。
いきなり祖の男系直がいないというのをナンクセつけたりするのは
鐘の文レベルであるかなと。
実子相続が重視されてなくてもあの瞬間は家康のとこは側室とはいえ
実子相続だからそれを重視するようなイチャモンつけたりとか。
なんといっても祖が2代目でその男系直の血が絶えるなんて前例もないし
ナンクセつけるには手頃な条件でしょう。
そういう意味も含めて朝廷工作とか始めたかもってね。

後半に関しては「正室から」というのを問題にしてるのではなくて
やはり男系直がいないというイチャモンということね。
滅ぼす理由というか実子相続できないだろーみたいなナンクセは
実は意味がないのかもしれないけどそれを意味があるような理論でカラんでいくというか。
これは建前というか朝廷もお認めでござるみたいなとりあえず
自分の方が戦で正当な理由のひとつと言うか。

それより信忠を嫡子というほうが気になってる。
嫡子には正室の子という意味もあるから正確には世子ぐらいで
嫡子を実子という意味ぐらいで簡単に使うのはどうなんだろ。
信忠を庶子というのはおかしいのかもしれないが嫡子とも
言うのもね。
正式な家督相続者云々というのは出自に関する限りまた
別の話なんだろうし。
日本@名無史さん [] 2011/02/16(水) 17:37:23

徳川家康は豊臣家の一員ではないのだから、
豊臣家の家督相続に口出しをする権利はそもそもないのでは?
聚楽第へ後陽成天皇が行幸する際、秀吉はこれにかこつけて諸大名に忠誠状を出させている。
宛先は豊臣秀次宛で、勿論、家康もこれを書いている。
家康が秀吉の死と同時に、豊臣家の家督相続に異議あり、
秀次は秀吉の実子ではないから豊臣家はこれにて終わり、
これからは赤の他人の徳川の世とする、といったところで、
秀次への忠誠を誓った忠誠状を示されて終わりだろう。
秀頼だって、秀吉没後、「秀頼様は秀吉公の子ではない」という噂が実際にあったが、
さすがに家康はこれを根拠に豊臣家を攻め滅ぼしていない。
家康は秀吉存命中、豊臣秀頼に対する血判状を2度も提出していて、
この家督相続に一切異論がないことを示しているからだ。
秀次だって、家康がどうしても攻めたい理由があれば別の理由で突いていただろう。

しかし、そもそも秀吉没後に豊臣家に成人した後継者がいたのならば、
家康は秀頼のときと同様の無茶ができたかな?
家康は秀吉から幼い秀頼の代理を頼まれたことを口実として
豊臣家が築いた大阪城や伏見城に乗り込んで自分の邸宅として住み、
五大老の名前で勝手に大名と縁組したり自身の親せきの大名に加増をしたりしてのし上がった経緯がある。
家康は秀吉が死ぬと同時に、幼い秀頼と豊臣家の名を利用して権力者の座にのし上がったわけだ。
秀吉が死んだときすでに豊臣家に成人した後継者がいたならば、
さすがに家康がやりたい放題できず、徳川の世は来なかったと思っている。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/16(水) 18:26:02
秀頼生まれなくて秀次政権発足する流れなら五大老になれないわけだが
日本@名無史さん [sage] 2011/02/16(水) 18:59:37

もちろんそうで権利もなにもないところに
朝廷とか使ってイチャモンつけたらという話。
忠誠状とかそういうのは破るためにあるようなもので?
実際秀頼にすらあんな仕打ちをしてるのだから秀次なら
もっとナンクセつけやすいかなと。
相続の件は一つの例ね、それ自体をもとにということじゃなくて。

なにか怒らせるようなことして豊臣方から攻めさせるとか
出兵の後の西方内部のゴタゴタ利用するとか
やっぱりからむつもりなら史実のようになにかできるかも。

逆に正嫡秀頼がいたら家康はなにもできなかったろう
と言われてもいいぐらいでさらに正嫡がいないタラレバなんだから
かえってカラメそうな気もする。
秀次事件もだけど出兵のゴタゴタもそれ自体がかなりのゴタゴタだろうし。
秀吉亡き後戦後処理をうまくして帰国したのはそうなんだけど
それでも家康にうまくつけこまれてるは史実だろうし。
もちろん秀次がうまくやって西方はかえって結束しただろうと
言われるとそれはそうだがこれまたタラレバだろうしね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/16(水) 20:09:37

そもそも秀次が生きていたら家康は豊臣家を滅ぼすことが
できたかどうかという話だよね。
家康は成人後継者秀次が相手であっても挙兵していたという
「タラ」「レバ」が成り立つという前提においてだろ。
正直、それはないと思われる。
戦国時代もおじ甥相続はあちこちの大名家で見られありふれているし、
家康がこれを咎めるのならば他の大名家のおじ甥相続もいちいち咎めなければならず
江戸幕府成立過程において味方を募るのに非常に困難をきたすからだ。
それに先ほどの前提をもってすれば秀頼は秀吉の「正嫡」ではない。
正室ではなく側室の子だからね。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/16(水) 21:58:30
秀頼がいても刃向かったわけだから
いなかった場合も刃向かったというのはそう突飛ではあるまい。
秀次が出兵後の混乱を上手くまとめてたら手は出しにくいだろうが
片方を収めれば片方が納得しないと言うのはよくあること。
そういう内部の問題をついていけばとっかかりにはなるかもしれない。
ゴチャゴチャしてきたところで、しょせん秀次様は秀吉殿の血を引いているわけではない
とかなんとか風評流して何の意味もなくともそれにのっかかる勢力はあるかもしれない。
人間の損得利害なんて冷静に後から判断するものでもないし
その場においては武断派文治派みたいなのがあったのも事実だろうし。
関が原と大阪の陣と二回もそういうのを実行してる家康だから
タラレバの歴史でもそう簡単に、刃向かわなかった、とはいえないと思うな。
勝てたかどうかどうなってたかはまた別の話だけどね。
日本@名無史さん [] 2011/02/17(木) 11:15:27

家康は豊臣家の跡取りが幼いのに付け込んで政権取ったわけだから
豊臣家が盤石なら攻めなかったと思うがな。
それにこの時代の家督相続は複雑だ。
家康が政権取った直後、摂家が次々と絶えて血がつながらない天皇家から
養子を迎えていたのだし、
江戸時代など、男系でも女系でも全く繋がらない赤の他人を養子を迎えて
大名家や公家が家名存続しているくらいだから。
武田信玄の娘も赤の他人を自分の養子に迎えて武田家を
再興しようとしている。
秀次から新生豊臣家第一代となってもよかったわけだし、
秀吉の実子でないことが命取りになるとは思えない。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/17(木) 17:00:33
繰り返しだけど大名とかずっと後じゃなくて
天皇賜姓というそれ自体の由緒重要性の問題。
そして祖が死んだ直後、このあたりは他の例と
同レベルに判断するのはどうなんだろう。

そして新生豊臣家第一代なんて言ったらそれこそ
秀吉を軽く扱うとかイチャモンのネタにならないか。
命取りになるとかそういう話も検討が必要だろうし
あくまでイチャモンのネタとしては格好のネタだろうと
いうことだよ。

鐘の文だって普通なら、そんなのイチャモンにもならないだろ
と400年あとの人間に言われかねないようなことを平気でしてるわけだしね。
誓詞破りだって死後すぐに堂々としてるわけだし。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/17(木) 20:38:00
養子相続にけちつけたら豊臣+上杉vs徳川の関ヶ原になって詰むじゃん
日本@名無史さん [sage] 2011/02/17(木) 23:19:21
信長の兄弟や子供が沢山いた織田家ですらあのザマだったんだから、
秀次がいようがいまいがあまり変わらんだろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/17(木) 23:30:28
すみませんが長文の皆さん、脳内で論旨をまとめて、
もう少し簡潔に書き込んでください、
日本@名無史さん [] 2011/02/18(金) 10:20:06

そこまで祖の直系であることが大事だとは思わない。
家康に実子がなければ天下を取れなかったとも思わない。
天皇家は実在が確実な天皇ほとんどが兄弟相続。
そういうことだよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/19(土) 15:19:46
秀吉のとこは兄弟でもないしかなり薄い。
ってか豊臣というのは秀吉自体に価値があるし。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/20(日) 19:25:35.65
家康は私的においては秀頼の家臣だが、
公的にはおいてはそうじゃないだろ。
官位は家康の方が高いんだから。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/21(月) 00:14:52.27
豊臣家康での任官
日本@名無史さん [sage] 2011/02/21(月) 12:20:30.97
秀吉配下の大名が朝廷から位をもらったのは
すべて秀吉の裁量だからな
諸大名たちも豊臣姓を名乗らされていた
家康が源氏の名で任官するのは関ヶ原の後だろ
それまでは豊臣家の一員としての任官
日本@名無史さん [sage] 2011/02/21(月) 14:58:21.20
名義は豊臣だったと言われてるけど記録は残ってるんだっけ。
任官以外でも豊臣家康という書状なんかは残ってる?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/21(月) 18:32:33.88
秀忠が豊臣名義なのに家康だけ藤原名義?
日本@名無史さん [sage] 2011/02/22(火) 12:57:16.09

醍醐の花見に招待された諸大名たちは自分が読んだ歌に
「豊臣」の姓で署名している。
たしか、醍醐寺三宝院に現在も安土桃山時代の
直筆の実物が残っているはず。
日本@名無史さん [sage] 2011/02/25(金) 09:32:47.61
醍醐の花見の和歌短冊は直筆では無かったような記憶が
日本@名無史さん [] 2011/03/24(木) 12:54:10.54

お市が長身だったなんてどこ情報?
お市と並んで「戦国の絶世の美女」と称えられている細川ガラシャは小柄だけどなw
当時は、現代と違って、デカすぎる女はあまり好まれなかった筈だが・・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/03/26(土) 23:53:38.53

今、デカ女が好まれてるってどこ情報?
日本@名無史さん [sage] 2011/03/27(日) 17:53:11.93

>当時は、現代と違って、デカすぎる女はあまり好まれなかった筈だが・・・・

今でも日本ではそう。大きな女性に話しかけてごらん。大抵自分の身長を
コンプレックスに思っている。
日本@名無史さん [sage] 2011/03/27(日) 18:27:07.42
息子が沢山いる家康の晩年の好みならともかく、立派な体格の男子が生まれる可能性のある長身の女性は貴重だろ〜よ
日本@名無史さん [sage] 2011/03/28(月) 10:29:18.59

>大きな女性に話しかけてごらん。大抵自分の身長をコンプレックスに思っている。

ずいぶん上から目線だな。アンタこそ日本全国すべての長身女性にインタビューでもしたの?
街に出ても、背の高い女性ほどヒールの高い靴を履いてより自分を高く見せようとしてるが、何か?
自分の身長(長身)にコンプレックス持ってる女がハイヒールなんて履くか、普通



日本@名無史さん [] 2011/03/28(月) 10:39:37.86

そりゃ秀吉のようなチビ男からしたら、淀殿のような体格の良い女性は魅力的だ罠w
http://bai6f43a30a.bai.ne.jp.2ch.net/ [buraku search] 2011/03/28(月) 10:51:13.03
buraku search兵庫県
日本@名無史さん [sage] 2011/03/30(水) 19:31:17.82

和田アキコのハイヒール見たことないお
日本@名無史さん [] 2011/03/31(木) 07:31:37.24

和田アキコは別格だろw
日本@名無史さん [sage] 2011/03/31(木) 08:35:05.54
ピンヒール履いた和田アキ子に踏みにじられたいハァハァ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/01(金) 06:29:22.43

173cmしかないんだぜ?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/01(金) 06:55:29.93
坂本乙女は174cm。戦国時代より幕末の方が平均身長は低いのに、大きい人は大きいよなー
日本@名無史さん [] 2011/04/02(土) 02:37:12.83
昔は富貧の差がそのまま体格にも現れてそうだよな
天性もあるだろうが
日本@名無史さん [sage] 2011/04/02(土) 11:16:33.83
貧乏だと横に伸びないけど縦は大して変わらないだろ

北チョンと南チョンって身長は同じくらいだろ?
日本@名無史さん [] 2011/04/02(土) 19:43:40.66
貧乏だとデブにはならない

龍馬ん家は下士でも金持ちだったんだなw
日本@名無史さん [] 2011/04/02(土) 22:41:00.35
背の高さは肉を食べてたかどうかにもよるのでは?
徳川将軍家は幕末チビで体が弱いのが多かったのに、薩摩は女の篤姫も長身。
淀や市が170センチ以上あったのもやはり肉かもね?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/03(日) 11:33:21.02
背を伸ばすのは基本、高タンパク低カロリー食品なので納豆や豆腐でもいいだよ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/06(水) 18:40:41.67
170p以上説の出典は何ですかー
ってか、あり得ないことを良くも書けるな
日本@名無史さん [] 2011/04/08(金) 16:27:00.60
戦国〜江戸時代の女性の身長が170以上もあったわけねーだろ、バカ
150あれば上等だったんじゃね
ほら、昔の日本人は男女とも小さかったから
日本@名無史さん [sage] 2011/04/08(金) 17:06:07.54

戦国時代でも日本人はかろうじて鳥肉を食べてた程度。
明治まで牛や豚を食べる風習はなく肉食は根付かなかった。
篤姫も肉食してなかったし、そもそも篤姫の身長は不明(墓は発掘されていない)。
篤姫は明治時代に入った晩年に撮影された写真から、晩年太っていたことが分かる程度。

そもそも淀殿が長身であったというのは眉唾物。
淀殿の肖像画の着物の襟幅から推測したというが、
肖像画がそもそも淀殿を描いたのかすらどうかが疑わしいシロモノ。
確実な淀殿の肖像画は一枚も伝わっていない。
母親の市も腰巻姿でいるのは長身のためだとされているがこれも後付け。
市や淀殿が長身(それも170以上もあった)なんて奇説の類。

市の同父同母の兄織田信長もフロイスが中肉中背と書いており
当時の日本人の平均的な身長であったことが分かっている。
市や淀殿だけが西欧人並みの巨大な体格をしていた理由がない。


日本@名無史さん [] 2011/04/08(金) 20:06:11.70
絶世の美女は小柄華奢or中肉中背
浅井長政はともかく、織田市が長身な筈がない
日本@名無史さん [sage] 2011/04/09(土) 02:03:29.04
フロイスは信長の事を長身痩躯だって言ってたんじゃなかった?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/09(土) 02:42:16.05

長身説の根拠となる史料って何だろう?とずっと思っていたので
詳しい説明ありがとう。

お市も茶々も支配者層の人間なので、
栄養摂取面では庶民より格段の恵まれていたであろうから、
(当時としては)長身であることも偶然にあるだろうけど
欧米人じゃあるまいし、>170p ってのはもうあり得ませんよね。

「着物の幅」から推測・・・って、当時の女性着物はすべてずるずるゆるゆるな着方で、
胡坐で座すこともあり身幅も多めにとってたはず。
絵師の好みや絵画様式もあるのに、「伝」の肖像画で着用してる着物から
身長を推測するって、自分的にはとてもな眉唾です。

また腰巻姿だから長身・・・ってのも、なんて乱暴な根拠なんだろうか。
じゃあ満天姫も長身なんですか?]って、その推測したお人に問いたいものだ
日本@名無史さん [] 2011/04/09(土) 07:33:15.03
「腰巻姿だから長身」なら、この時代の上流階級の女性の殆どが長身ってことになるわな
日本@名無史さん [sage] 2011/04/09(土) 10:29:56.37
淀殿の身長の推定には肖像画だけでなく現存する彼女の所用の衣類が使われてた・・・はず(うろ覚え)
日本@名無史さん [sage] 2011/04/09(土) 16:23:30.82

淀殿の身長に関しては、淀殿遺品という伝承のある小袖と伝淀殿の肖像画をもとに、
淀殿がこの小袖を着れば肖像画のように見えるという前提で推測された。
しかし、伝淀殿の小袖と肖像画の女性が着ている小袖は別物だし、
小袖・肖像画ともに淀殿のもので間違いがないという保証はない。
もとになった伝淀殿の肖像画は高貴な女性が両手を前に出して数珠を持ち
縁取りされた畳一枚の上に座っているという当時の女性画の典型的な姿恰好をしており、
果たして肖像画が服装まで実物に忠実に描いているとも限らない。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/09(土) 16:32:29.03

豊臣秀吉が信長の葬儀を大徳寺で行った際に、信長の遺体がなかったので、
香木で信長の等身大木像を2体作らせ、うち一体を荼毘にふした。
もう一体が今も大徳寺総見院に保管されている。
坐像だが、仮に立ったときを想定するとこの信長木像の身長は160センチ前後らしい。
実際に信長に朝夕仕えていた秀吉が作らせた木像という由来がはっきりしているし、
当時の男性の平均身長(160センチ程度)で作られていることを見ると
巨大な身長をしていたわけでもないのだろうと推測される。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/09(土) 18:42:45.54

100年前の肉・牛乳世代が平均159なのに戦国時代に平均160あるわけねーだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 03:08:05.87

大徳寺の信長坐像、何度か観たことがあるけど
顔や体のバランスが良くない出来栄えだぞ。
(有名な足利将軍歴代の坐像と比べて、造形が下手・・・って感じ)

「京の○の旅」とかの特別公開のときに実物を見てきなよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 03:12:36.13
秀頼の身長も2m近かったとか、本気で信じてる人達の気がしれないw

近代の、白洲次郎の身長さえも大幅に高く見積もった間違った数値で
平気で流布してるんだから、
戦国時代ともなれば言ったもん勝ちでガセを吹聴してるのだろう。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 03:23:36.53
あの木像って非公開で、年代測定してみないと何とも…
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 04:02:25.97
前田利家は鎧だか着物だかが残ってて180くらいだと言われてるけど、それよりは大きかったんじゃないかい?秀頼
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 05:57:29.27
身長が秀頼>利家ってのは何が根拠?
日本@名無史さん [] 2011/04/10(日) 08:14:57.07
身長が秀頼>直江兼続

なわけないよな。確か兼続は戦国武将一の長身じゃなかったっけ??
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 08:43:59.49
斎藤義龍が190くらい、直江兼続は180くらいじゃね?
日本@名無史さん [] 2011/04/10(日) 11:18:05.90

実物を何度も見てるんだが?

総見院は春と秋に一般公開されている。そのときに木像も公開される(写真撮影は禁止)。
信長葬式の時に信長側近の多くの大名たちに公開されたものだから、
いい加減な信長の身長を憶測する言い伝えよりも信憑性は高い。
総見院の寺宝で明治時代の廃仏毀釈の際にはわざわざ大徳寺に疎開させたほどのものだから、
何を根拠に偽物だといっているのか分からない。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 11:26:53.28

加藤清正は戦場で大きな体躯に見せかけるためにわざと大きな甲冑を特注していたらしい、
(兜まで含んだ身長で計測している)
前田利家も甲冑の大きさから186センチと推測されているけれどもはっきりは分からないらしい。
戦国時代の大名で身長が確実なのは、墓が発掘されて実際の遺骨をもとに身長を計測した
伊達政宗159.4センチ、石田三成156センチぐらいらしい。


日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 12:06:56.27

何でわざと大きな甲冑を特注したんだろう?目立ったら矢の的にならない?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 12:09:47.50

あの活躍をしているのは誰それだと主君の目に留まるために
戦場ではできるだけ目立った方がいいんだよ
戦国武将は甲冑も兜も皆派手に着飾ってたし
矢なんて当たるときには何着てようが当たるだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 12:11:36.77

ああ、なるほど
日本@名無史さん [] 2011/04/10(日) 13:10:44.00
馬印を立てて、ここが本陣と示したりしていたからなあ。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 18:46:15.91
乱戦中に敵と見分けつかなくて味方に誤殺されたら洒落んなんないからな
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 19:14:26.74
俺は近眼なので夜討ち朝駆けはパス。敵味方区別出来ない
日本@名無史さん [] 2011/04/10(日) 20:00:35.66
眼の悪い人は昔はどうしてたの(全くの盲目とかじゃなくてただの近視とかね)
日本@名無史さん [sage] 2011/04/10(日) 20:47:34.90
近づいて視る
日本@名無史さん [] 2011/04/10(日) 20:52:09.84
余計に眼が悪くなるよ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 01:31:32.09

アンタに今さら言われなくても、ちゃんと「一般公開の日」に見てるよw
関係者でも無いのにその時以外に見られるわけが無いじゃん

総見院は「濃姫の墓説」について、「そういう風に聞いております」の
一点張りだから(誰に聞いたんだろ? まさか谷口氏?)
あそこの寺伝はあんまりアテにしたくない。
織田一族・・・というより、茶道との関わりを表に出してる寺だしな
日本@名無史さん [] 2011/04/11(月) 04:24:50.49

それはこっちのセリフだ。

お前が「見たこともないくせに」と言いがかりを勝手につけてきたので
こっちはたしかに実物を見ているといったまで。
まずは軽率すぎる自分の文章を反省しろ。
自分からケチつけてきておいて
こちらがちゃんと実物を見ていると言っていると逆ギレ。
あまりにも馬鹿すぎる。

あそこは織田信長の葬儀を行った寺であって
濃姫の葬儀を行った記録はないんだから
濃姫の墓が伝承に過ぎんのは当たり前すぎる。
なぜ信長葬儀を行った寺が記録にない濃姫のことまで確実だと言わねばならんのだ。
自分の文章の大きな矛盾に気づけ。
日本@名無史さん [] 2011/04/11(月) 16:18:59.69

180以上の男がイケメンだったのは戦国の世も現代も同じかw
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 16:40:58.07
180以上が当時の日本馬に乗ったら不恰好極まりないだろうし、馬も甲冑込みの重量で悲惨だな。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 16:51:25.34
今川義元みたいに輿で行くんじゃね?
豊臣秀頼が最後まで出陣しなかったのも巨漢すぎて
(必ずしも身長があるってことじゃなくて、肖像画で見る通り太っていて体重が重かったから)
馬を上手に乗りこなせなかったからという伝説をどっかで見た
日本@名無史さん [] 2011/04/11(月) 17:59:50.13
上手いモノばっか食ってロクに運動もしないじゃ、太るのも無理ないわ
サルは息子を甘やかしすぎたんじゃね?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 19:26:13.98
でもまあ、今の子供みたいに毎日スナック菓子を食ってたわけじゃないだろうし、健康ならいいんじゃない?
日本@名無史さん [] 2011/04/11(月) 20:16:49.49
戦国時代にも饅頭や羊羹はあったんじゃね?
スナック菓子は健康に悪影響を及ぼすが、饅頭や羊羹なら健康に影響はないってことはないんでねの?
どっちにしても甘いものの食べ過ぎは肥満の元だし
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 20:22:38.73
古代から貴種の肥満の原因は「酒」だけどね
この当時は酒は20歳からという決まりごともないし
おおむね元服後は飲んでいたのでは?
日本@名無史さん [] 2011/04/11(月) 20:35:50.24
昔の若君や姫君は10代から普通に飲酒してただろうね
今なら、10代で酒呑んだら警察のご厄介になるところだがw
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 21:22:07.84
で、352は茶々170p説の支持者なん?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 21:26:26.41
信長は酒は飲まなかった、んで痩せ方
謙信は酒のツマミに梅干し食ってた、で、最期ぶっ倒れた。みたいな
日本@名無史さん [sage] 2011/04/11(月) 21:33:53.14
梅ッシュ>謙信
ってことか
イラストに騙された名無しさん [sage] 2011/04/11(月) 22:23:00.64

砂糖が大量生産されるようになったのは江戸時代になってからで
戦国時代の砂糖は貴重品で甘味は甘葛
戦国時代の羊羹は蒸羊羹だし、饅頭もあまり甘くなかった筈だよ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/12(火) 02:12:30.09
1367年 この頃日本で砂糖菓子流行か。
「新札往来」の中に
「砂糖饅頭」の記述が現れる。
15世紀半ばから、茶の湯の流行とともに和菓子が発達。
1459年 室町幕府の八代将軍足利義政が、
禅僧に砂糖羊羹を振舞ったという記述。
1523年 ポルトガル人が種子島に上陸。南蛮貿易が始まる。
1549年 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航。
南蛮菓子(カステラ、金平糖、ボーロなど)が現れる。
1550年頃 日明貿易による砂糖輸入が盛んになる。
1569年 ポルトガル人の宣教師、ルイス・フロイスが、織田信長に金平糖を贈る。
1581年 日本の文献に「こほりさとう」がはじめて出現。
日本@名無史さん [] 2011/04/12(火) 06:35:33.32
砂糖は南蛮人が伝えたんダネ
日本@名無史さん [sage] 2011/04/12(火) 10:27:45.99

逆だろ。
総見院の信長坐像がほぼ生前の信長の体駆を表したもの=身長約160センチ
市と同父同母の兄信長が当時の日本人男性の平均的な身長をしていたことで
市の大柄説は否定される(市は当時の日本人女性の平均的身長をしていたと推測)。
よって、このスレの上の方で猛威をふるっていた「市とその娘の淀殿は大柄」
だということも否定されるわけだ。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/12(火) 10:34:09.64

安土桃山時代の砂糖菓子はすべてヨーロッパからの舶来品(輸入品)で高級品。
高貴な秀頼といえども常に大量に食べれるほど日本にあったとは思えない。
国内で砂糖菓子が大量生産されるようになるのはやはり江戸時代中期から。
これは砂糖の産地である琉球王国が島津侵攻により薩摩の支配下に入り、
琉球王の砂糖が本土に継続的に供給されるようになったためで、
島津侵攻の頃を待たなければならない。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/12(火) 16:16:27.77
量産=貧乏人でも買えるコストになるってだけだから

>高貴な秀頼といえども常に大量に食べれるほど日本にあったとは思えない。
船のペイロードと現地の購買力を考えたら、高級品を貴族に売りつけるのが商売ってもんだ
砂金と等価交換の条件で望めば自分が年中食べ続ける分程度ならいくらでも買える
秀頼的には別に常に大量に食べたいものでもなかったんだろ

何故、太る=砂糖菓子になってんのか知らんが、グラム当たりのカロリーは米=砂糖なんだから
デフォルトで摂取過剰であろう秀頼が太るには偶のおやつ程度で充分であり、砂糖の大量常食は必要ない
極論すると砂糖を摂取する必要が全くない
ニート生活で米と酒を腹一杯になるまで摂取可能な身分なら家でゴロゴロしてれば簡単に太れる
そういう身分でないなら絶対に太れない
日本@名無史さん [sage] 2011/04/13(水) 09:53:49.02
今川義元は江戸中期頃に軟弱で肥満なイメージが出来たみたいだけど、秀頼はどうなん?
日本@名無史さん [sage] 2011/04/13(水) 11:12:43.95

やたら必死な人だなw

豊臣秀頼の時代、どのくらいの頻度ではるばる航海して舶来船がやってきていたか知ってる?
すでに豊臣秀吉や徳川家康により制限がかかってた時期だよ?
どんだけ金を積んでも砂糖菓子を届けてくれる舶来船に限りがあるのだから
そんなに国内流通するはずがない。
しかも、その当時、代金として日本から持ち出された貴重な一級文化財の多くも
船が難破することによって現存しないという残念さ。
それだけ航海は危険な時代だったんだよ。
砂糖が普及しだしたのは砂糖の国内生産(琉球を支配下におさめた後)というのは
正しいんだけど?
秀頼は金があるから好きなだけ砂糖を輸入できたというのは間違い。
日本@名無史さん [] 2011/04/13(水) 19:21:26.62
いずれにしても、秀頼は苦労知らずのお坊ちゃんであることは間違いない
日本@名無史さん [sage] 2011/04/13(水) 22:54:23.38

一人分の消費量なんてたかがしれてますが。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/14(木) 03:02:54.28
虫歯で死ぬぞ
日本@名無史さん [] 2011/04/14(木) 08:06:22.18

徳川家茂は虫歯で寿命を縮めたようなもんだしw
日本@名無史さん [sage] 2011/04/14(木) 09:42:36.94

徳川家康が目を光らせてるから秀頼は貿易できないしw
豊臣家が貿易で来たのなんて朱印船貿易の一時期だけ
日本@名無史さん [] 2011/04/18(月) 13:18:25.91
「秀頼は秀吉の実子ではない」説は、「家光は家康と春日局の子」説と同じくらいバカバカしい俗説
日本@名無史さん [sage] 2011/04/18(月) 14:03:17.09

「家光は秀忠と春日局の子説」
も同時に否定しておいてください
日本@名無史さん [sage] 2011/04/18(月) 14:29:49.10
「秀頼は秀吉の実子ではない説」
は「家光は家康(または秀忠)と春日局の子説」
と同じくらいバカバカしい

とりあえずは通説よりも俗説を信じる大馬鹿者
日本@名無史さん [sage] 2011/04/18(月) 20:32:16.04

秀頼が秀吉の胤でない説は秀頼の時代にすでにあったことが史料で確認できるだろw
秀吉が大勢の側室を抱えながら長年子がなかったことはいろんな史料に書かれてるし

稲葉の子供を産んだのと同じ年の7月に家光まで産んだことにしないと成り立たない
春日みたいなトンデモ説ではないよ
日本@名無史さん [] 2011/04/18(月) 21:06:33.52
アンチ秀吉が必死なスレ晒しage
日本@名無史さん [sage] 2011/04/18(月) 21:18:33.80

稲葉正利って1604年生まれなんだよね?

この前それを確認しようとして
図書館で「寛政重修諸家譜」をめくったのに正利の生年が書かれてなくてへこんだんだ
なんて本なら確認できますか・・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/04/18(月) 22:05:32.51
普通に秀吉の子じゃないと思う。

秀吉は医学的に子供がつくれない性質だったのだと思う。
そうでなければ、あれだけ多数の側室との間に
ひとりも子供が生まれなかったのは不自然過ぎる。

それがあの老境にさしかかりいきなり子供ができた、
というのはこれはもう、普通に怪しい。
日本@名無史さん [] 2011/04/19(火) 06:33:58.72
秀頼の実父は大野治長説より、石田三成説の方がインパクトあって面白い。

と個人的には思う。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/19(火) 06:50:48.60
大正天皇と秀吉は子種に関して疑問視されているようだな。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/19(火) 06:55:00.88
三成は秀吉の色小姓にして秀頼の実父かよww
日本@名無史さん [sage] 2011/04/21(木) 03:57:22.09

色んな物に砂糖が使われてる現代人の砂糖摂取量ですら年間20kg
おやつに食べるだけなら年10kgもいらない

一回の取り寄せ量で秀頼の一生分にはなる
秀吉時代に砂糖が備蓄してあっても不思議じゃない
日本@名無史さん [sage] 2011/04/21(木) 13:52:22.74

大阪城に砂糖を備蓄とかあるわけないじゃん
秀吉は食べたとしても饅頭とか金平糖の形のものだろ
大阪城内に菓子職人を常駐させたわけじゃなし
そんなもん戦の足しにならないから備蓄しません
日本@名無史さん [] 2011/04/21(木) 18:09:44.17

チョン死ねよ。
天皇陛下への侮辱は許さぬ。
日本@名無史さん [] 2011/04/23(土) 09:16:43.17

でも、秀頼は実父が誰であれ、秀吉を父として慕っていた

これだけは事実。
日本@名無史さん [] 2011/04/23(土) 12:03:47.41

秀頼は数え7歳(満5歳)で秀吉を亡くしてるから
本人はほとんど秀吉を覚えてないんじゃないかな

秀吉は実父が誰であれ秀頼を我が子と認知し
豊臣家の跡取りに定めたというのなら話は解るが
日本@名無史さん [sage] 2011/04/23(土) 19:04:36.28
身長180pまで育って「秀吉の子」とかいわれてもな。。。

大柄だった祖父の隔世遺伝とかいうのも嘘くさい。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/24(日) 02:16:15.51

その身長180pの明確な出典と、
それを裏付けられる史料はあるのでしょうか
日本@名無史さん [] 2011/04/24(日) 08:44:00.54
このスレの住人的には石松丸秀勝の存在は無視なのな
日本@名無史さん [sage] 2011/04/25(月) 10:35:50.22

一次史料で現在までに確認が一切取れてないだろ

一時期自称郷土史研究家が探し出してきた「石松丸秀勝」がもてはやされて
大河にまで登場(利家とまつ)、それで石松丸秀勝は歴史学会で認められた
秀吉の実子だと信じてる奴がいるが一次史料では確認できていないのと
秀吉には(鶴松誕生まで)子が居ないと言っている史料はあるので
石松丸が秀吉の実子だったかはかなり疑わしいとせざるをえない
日本@名無史さん [sage] 2011/04/25(月) 22:00:46.56
・宝厳寺の「竹生島奉加帳」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、
 その母の南殿と共に記されている。
・滋賀県長浜市の妙法寺には秀勝の肖像画が所蔵されていたが、
 現在は焼失し現存していない。
 しかし、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」の写真が残っている。
・他にも天正4年10月14日の銘文がある。
・秀勝のものと思われる供養塔も残っている(法名は「朝覚霊位」)。
・徳昌寺には位牌があり、法名は「本光院朝覚居士」となっている。
日本@名無史さん [] 2011/04/26(火) 07:23:38.99

在日朝鮮人は本国へお帰りください
日本@名無史さん [] 2011/04/26(火) 10:46:08.88

在日朝鮮人はおまえw
日本@名無史さん [] 2011/04/26(火) 10:51:17.83

どれも君は原典に当たってないみたいだね。

・宝厳寺の「竹生島奉加帳」←石松丸という子供がいたことは解る、
しかし、秀吉の子だとはどこにもかいてない。
・本光院朝覚居士という人物に関して←秀吉の子だとはどこにも書いてない。
さらに石松丸との関連性は不明。石松丸は幼児のまま没したとされることを考えれば
秀勝という諱があったことが不詳。

ネットか何かで引っ張ってきたので「石松丸は秀吉の子だと書いた
一次史料が寺や神社に実在する」と妄想しているのだと思うが、どこにもない。
日本@名無史さん [] 2011/04/26(火) 10:57:38.49
追加。
宝厳寺の「竹生島奉加帳」
南殿と石松丸や秀吉との関係性も不明だ。
分かるのは石松丸という男児が死んだので寺で供養を行った、
その布施を出した人々の名前の中に長浜城主秀吉の名前や、南殿と言う名があるだけ。
家臣の子や側室の連れ子でも布施を出すことは有るだろう。
これを持って「布施を出したら秀吉の実子」「名前を探したら南殿という女性らしき
名があったのでこれが石松丸の母で秀吉の側室」と決めつけたのが例の話だよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/27(水) 06:33:31.35
長浜曳山祭りの由来書にもあるんだよな秀吉の男子誕生の話。後付けだって人もいるけど

石松丸の肖像画?が燃えたりしなきゃ描かれた年代を調べられたのにな
日本@名無史さん [sage] 2011/04/28(木) 12:55:11.42
じゃあ、具体的に誰の子を供養した、という説なんだ?

当時の習慣からして、実子である場合
関係性などいちいち記さないのが普通だろ。

といいたいところだが、たしかに確証を持てるレベルではないな。

もしも石松○が実子だと確認できないとしたら
これはもう、秀頼は限りなく黒に近い印象となってしまう。
日本@名無史さん [sage] 2011/04/28(木) 23:14:36.28
 
詳しそうな方なので意見をお伺いしたい。

奉加帳での「百疋 石松丸 御ちの人」って
順番的には「羽柴藤吉良秀吉」「御内方」「大方殿」に次ぐ
4番目に名があがってるけど、どういう位置にある人と推測されます?
「南殿」より順番が早いし寄進額も多いですよね。

自分は「御ちの人」なのだから、石松丸という子の乳母だと
単純に思うのだけれど、もし「南殿」が石松丸の生母だと仮定すると
「側女は奉公人」という見方で、乳母より格の低い生母なのか?
とか
後半の「御城の うは」の次にまた『御城の 南殿」とあるけど
「御城の うは」は「御ちの人」と同一人物なのか?
とか、目を通すたびに疑問が深まってしまうだけど。


日本@名無史さん [sage] 2011/04/30(土) 22:50:15.96


そのまえに、あなた自身のお立場はどうなのですか?
石松丸が秀吉の子だと考えているのか、
それともそうではないのか。

そこを表明されてから話をすすめてはいかが?
日本@名無史さん [sage] 2011/05/01(日) 15:44:53.30

=399,400なのか?
日本@名無史さん [sage] 2011/05/06(金) 23:44:12.79

そのディベートごっこに何の意味があんの?
日本@名無史さん [sage] 2011/05/07(土) 14:34:57.50
ラベリング
日本@名無史さん [sage] 2011/05/09(月) 04:26:40.97

なんだか上から目線w

ってか、>どれも君は原典に当たってないみたいだね
とか偉そうに云ってたくせに、
奉加帳の内容を知ってて詳細に質問してきた人には
答えられないから逆切れ?
日本@名無史さん [sage] 2011/05/11(水) 17:01:22.13

399,400と404は別人ですが?

「御ちの人」については「御血の人」「御乳の人」などと訳されるようですが
おそらくは乳母だと思います。石松丸の乳母が石松丸の代わりに寄進をしたのでしょう。
側室が嫡子より低い扱いであることはよくありますが、南殿が石松丸の母であるとするのは
厳しいと思います。また、石松丸が秀吉の子であるとも思っていません。
猶、羽柴秀勝像なるものは秀吉が長浜時代に養子に迎えていた織田信長の四男秀勝と
混同された可能性があるそうです。夭折した秀吉の長男鶴松も幼名しか持っておらず、
元服前に死んだ童子に諱があるのは例がないようです。
日本@名無史さん [sage] 2011/05/11(水) 20:03:00.17
「御ちの人」=乳母というのは丸本歌舞伎の台詞にもあるからな

「義経千本桜」のなかの「碇知盛」のなかで
満身創痍の知盛が安徳帝の乳母を「お乳のひと」と探し回る。
日本@名無史さん [] 2011/05/12(木) 18:23:18.67

俺はこの見解に説得力を感じるな。

・羽柴秀勝像なるものは
 秀吉が長浜時代に養子に迎えていた織田信長の四男秀勝と
 混同された可能性がある。

・夭折した秀吉の長男鶴松も幼名しか持っておらず、
 元服前に死んだ童子に諱があるのは例がない。
 
これらの事実は
「幼くして死んだはずの石松丸に諱が存在しているのは
 他の成人と間違えられている」ことを濃厚に示唆している。
とくに同名の成人が別に存在しており、しかもその存在時期が
奉加帳の現存する長浜時代と一致するのであれば、その疑いは高まる。

有力な反論があるのなら、聴かせて欲しい。
ここは日本史板なのだから。
日本@名無史さん [sage] 2011/05/16(月) 19:16:48.44
羽柴秀勝像って供養のために描かれた物じゃないの?
養子の織田信長の四男秀勝って19で死んだんだっけ?肖像画は19に見えない…まあ、だから混同なのかな
日本@名無史さん [sage] 2011/05/16(月) 23:02:19.87
秀勝像がどういう理由で描かれたかは書かれてないし
絵本体にはこれが秀勝であるとは書かれていない(秀勝というのは寺側の言い伝え。
現在妙法寺は「豊臣秀勝墓所」の看板を掲げているがこの時代の秀吉は豊臣であるはずもない)。
本光院朝覚居士という法名も成人っぽくて、子供ならば居士ではなく童子とあるのが普通ではないかと思われるが・・
実子が葬られているのならば関白になってからでも子煩悩な秀吉からの知行安堵の書状や
豊臣一門の参拝記録があってもよさそうだがそれもない。
天下を取ってからの子とはいえ同じく早世した鶴松と比べるとあまりにも秀吉との接点がない感じはする。
日本@名無史さん [sage] 2011/05/19(木) 10:18:34.42
>>法名も成人っぽくて、子供ならば居士ではなく童子とあるのが普通

いちいち説得力があるな。
それなら氏はやはり
秀頼非実子説を採られているのだろうか?

もし秀頼が実子でなかったとすれば
これはもう、本当に歴史上の大スキャンダルですよ
もし石松丸が実子でなければ
秀吉にはほぼ生殖能力がなかったころが証明されてしまうわけですから
日本@名無史さん [sage] 2011/05/19(木) 16:51:09.97
>これはもう、本当に歴史上の大スキャンダルですよ
・・・と、いうか「秀頼は秀吉の子では無い説」は
すでに何百年ものあいだ脈々と生き残り続けている謎であるのだから
日本@名無史さん [sage] 2011/05/20(金) 18:28:39.37
謎でもないでしょw

秀吉の子じゃない
日本@名無史さん [sage] 2011/05/24(火) 09:11:06.98

この時代の肖像画はたいてい供養のためのものでは?
他の理由で描かれた画像ってあったっけ?
日本@名無史さん [sage] 2011/05/24(火) 09:26:35.80


史料名は何?
日本@名無史さん [] 2011/05/26(木) 11:18:03.40

>秀吉は実父が誰であれ秀頼を我が子と認知し、豊臣家の跡取りに定めた

あの秀吉がそこまでお人よしとは思えんな
だったら、秀次の件は何だったの? って感じ
日本@名無史さん [] 2011/05/26(木) 11:35:29.82

秀吉本人は秀頼を実子と信じてたんだろ。
鶴松のときも死んだときには秀吉は失意のあまり髷を斬り、
鶴松のために荘厳な菩提寺を建造しているし。
この2人に関しては秀吉は実子だと信じていた。
(DNA鑑定できないのでこれ以上のことはいえんだろ?)

しかし、石松丸については秀吉との接点があまりにもなさすぎ。
秀頼や鶴松のような実子待遇されていた形跡がないってこと。
日本@名無史さん [sage] 2011/05/26(木) 12:29:08.81
キミ、となりのおじさんそっくりと言われたことない?
日本@名無史さん [] 2011/05/26(木) 13:27:12.39
秀頼が秀吉の実子でなかったからこそ、清正も正則も関ヶ原では東軍についた。

豊臣恩顧の大名の多くが家康に走ったのは、単に三成と不仲だったからだけではなさそうだ。
日本@名無史さん [sage] 2011/05/26(木) 16:31:17.39
東軍は豊臣政権の正規軍ですが
日本@名無史さん [] 2011/05/26(木) 16:45:23.58

それは無関係、福島なども家康が豊臣家の家老であるほうが秀頼君のためになると考えた
関ヶ原では、それぞれ、相手方を君側の奸として戦かっていて豊臣家内の内部抗争
但し、大阪の陣では、家老なのに主君(秀吉)の子を滅ぼさないといけないので
実は秀頼は実子ではなかったという噂を徳川家側で流し始めた
日本@名無史さん [sage] 2011/05/26(木) 21:21:46.93
総理大臣が遠征軍を自分で率いて征ってる間に、前官房長官が皇居を占拠してクーデター起こしたみたいなもんだからな。
日本@名無史さん [] 2011/05/27(金) 01:52:18.99

普通に考えたらそうだよな。
単に三成嫌いで、徳川に加勢したらDQNだし支持されないだろ。

ねねを慕う、福島・加藤の主張が正論だと思ったから
豊臣の多くの家臣が造反したんだしだろ。
日本@名無史さん [] 2011/05/27(金) 11:07:44.50

>実は秀頼は実子ではなかったという噂を徳川家側で流し始めた

徳川家が流したと言う史料はないんですが?
ましてや大坂の役の時、諸大名たちが秀頼は秀吉の子じゃないという噂があるから
家康につきましょうといったわけでもないし。
日本@名無史さん [] 2011/05/27(金) 11:44:56.62

自分で流しましたというヤツはいない

大坂の陣は豊臣と徳川の力関係が圧倒的に変化したので、
皆が逆臣(家康)側に附いたということ
やはり主君(秀頼)が6歳では、実力家臣にいいようにやられる
日本@名無史さん [] 2011/05/27(金) 13:44:42.58

なんだ、史料はなくて自分で妄想しただけかw

なら、最初からそう言えよ
日本@名無史さん [sage] 2011/05/27(金) 18:30:43.29
噂の出所の史料出せってのも無理過ぎw
史料出せ厨か〜
日本@名無史さん [] 2011/05/27(金) 19:51:04.84

史料がないことを断言してことを妄想という

妄想で間違いないんだが?
日本@名無史さん [sage] 2011/05/28(土) 08:16:12.35
妄想もしくは推測
日本@名無史さん [sage] 2011/05/28(土) 08:31:26.76

言いふらしてたことが明らかなら、言いふらした事自体が噂になって記録に残ることもあるよ。
そういう根拠も何もなしで、「秀頼は大野と淀のこと言いふらしたのは徳川の陰謀」と言いはるんなら
それは妄想と言われても仕方ない。
もしくは「自分が推測するに」とか書くべき。それでも歴史系の板ではいい顔されないだろうけど。
日本@名無史さん [] 2011/05/28(土) 11:19:56.12

これなら、秀秋が寝返ったのも無理ないわな
彼にしてみれば、秀頼さえ生まれなければ自分が秀吉の後継者になれたかも知れんのに
って思いがあったとしても不思議じゃないな
日本@名無史さん [sage] 2011/05/28(土) 16:41:00.91

三成嫌い、とかの感情論じゃないだろ。
武功派にしてみれば、三成はようやく追い落とした政敵。
それがクーデターで復権すれば、自分たちが報復されるのは目に見えてる。
三成が武功派に対して取り込み工作した形跡もないしね。

あと、淀殿が西軍を支援してた証拠はないし、木下一族が西軍に多く従軍してることから、
北政所はむしろ西軍よりだったんじゃないか?って説もある。
日本@名無史さん [] 2011/05/28(土) 18:20:16.44
淀殿がどちらに味方した証拠もないし
北政所がどちらに味方した記録もないけどな。

家康は秀忠の遅参さえなければ関ヶ原時点で秀頼を殺しておきたかったのは事実らしい。
秀吉恩雇の大名たちには様子見しててもらえれば、徳川親子だけで秀頼を殺すのが一番よかったみたいだね。
(結果的に秀忠遅参で秀吉御恩大名の力を借りるを得ず、秀頼を関ヶ原で殺すことができなかった)
当時北政所が住んでいた豊臣家の居城京都新城は、内裏の東南隣と絶好の場所にあり、
家康には目ざわりだった。
関ヶ原の時にどさくさにまぎれて秀吉未亡人ねねの住む京都新城を壊している。
日本@名無史さん [] 2011/05/30(月) 06:19:37.99

秀吉も自分の色小姓が秀頼の実父なら許しちゃったかもw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 04:44:15.24
いくら子供をもうけたっても実家すら失ってる側室が正室よりデカイ顔してるのもおかしな話だよな。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 11:10:21.57
普通は、側室腹の男子を嫡子とするには、
正室の養子になって正室が後見するからね

しかし、秀吉の茶々に対する厚遇は、秀頼の元服のときも
ねねと茶々を両方呼ぶなど正室と次第に同格化していたらしい。
(当時の史料にはねねを政所、茶々を北政所と呼ぶものも)
秀吉が生前正室二人に等しい扱いで遇したために
後年の茶々の権政につながったとも
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 18:08:15.38
そこは福田説の
「江戸時代より前は、権力者に何人か正妻がいる状態」
が腑におちる感じがするんだよなぁ

最初は妾とか、単なる女房衆のひとりだったんだろうけど
子供をもうけたことでのし上がってる
そういう権力を持たすには、やっぱりそれなりの裏付けや
秀吉の実子だって確信があったからなんじゃないかなと最近思う
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 19:05:09.12
他の戦国大名では子を産んだ側室が正室と同格になる例は見られないので
ただ単に成り上がりの秀吉が良く分からずに大名の先例を破ったのかなあと思うが

この時代、我が子だと確信したところで父との親子関係は証明できないからねえ
他の大名たちにも言えることだが
秀吉の場合も疑う気持ちよりも信じたい気持が上だったってこともある
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 19:29:17.34
秀吉だけが認めてたんだったら、
秀吉亡きあとは北政所とか家臣団が結託して
秀頼に継がせないようにとかできそうなもんだけどな
お家騒動にもならずその辺りスムーズに継承されてるのも
結局は根も葉もないうわさの範疇という気がする
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 20:06:43.74
秀吉と茶々が「間違いなく私達やりました」と証言しているのに
北政所や家臣団が「間違いなくやってない」という証拠を握っていないだろう
それに実際に秀吉と茶々はやっていたと思われる、秀吉は信じていたんだから
他に種付け男がいた可能性があるだけで

もともと男性不妊と女性不妊は医学的にはほぼ同数だと言われている
実際、江戸時代の徳川将軍は大奥があったにもかかわらず子なしは結構いる
どの時代にも男性不妊はあったはずなのにそれが公にならないのは
種付け男がいたからだという解釈は当然成り立つ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 20:11:44.48
茶々だけが種付け男を引き込めたんだとしたらなぜ?
そこまで茶々はフリーダムだったの
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 22:00:04.18

それは非実子説のいちばん大きなネックでしょ。
豊臣秀吉の側室が、監視網をくぐって
他の男と子作りできるのか、また、それに応じる男がいたのか、
という点

いくらあの時代でも、これほどのスキャンダルを
秀吉に露見せずに済ませることができたとは
にわかには信じがたい

それとも信長の姪という神通力が
よほど強く残っており、の主張とおり
かなりのフリーダム状態だったとか
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 22:01:35.49
ただ、秀吉の数十人の側室が妊娠しなかったのに
死ぬ直前に、淀だけに出来たのは、これはほんとうに不自然
ここのところ、うまく説明できる人、いないかな?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 22:40:00.63
ねねも秀吉と時代相応な政略結婚して、そこそこ妻の実家が力を持ってれば実家の後楯のない淀と秀頼を引き離せてたかもしれないね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 22:47:24.44
茶々は子供が授かるように神頼みしてたようだから
神仏の力なのかなw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 22:49:36.29
鶴松妊娠後は茶々への注目度もがぜんUPしただろうし
そうそう「お袋様」がフリーダムとは思えないけれどもなぁ
自分は秀頼は秀吉の実子だと思っているけど
疑いを向ける人の気持ちも分からなくはないかな
確かに不思議な話ではあるよね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/01(水) 23:01:25.97
淀がものすごい子供の出来易い体質だったとかか
実際そういう人いるらしいし
日本@名無史さん [sage] 2011/06/02(木) 05:28:11.59
それなら秀頼しか産まなかったってのもなんかね
常盤御前なんて捕まって次の嫁ぎ先が決まるまでの短期間に平清盛の子供妊娠出産するくらいだぜ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/02(木) 10:36:39.50

女性が書いた文学(主に朝廷によるものだけど)だと
天皇の想い人でもかなりのフリーダムだった
秀吉の奥御殿に正々堂々と他の男を泊めることが許可されていたと言っているわけではない、
この時代は女性が表御殿へ行くことは禁じられてなかったし
昼間主君以外の男性が奥御殿へあいさつに行くことも許されていたのだから
いくらでも他の男性が種付けすることは可能だったって話
それをやるかやらないかはモラルの問題

しかし、滅んだ浅井家の血を天下人にすることに燃えていた茶々ならばたとえ見つかったら討ち首になる覚悟でも
(そもそも少女時代に二度も落城を経験していて浅井三姉妹が生き残ったことが奇跡に近い)やったかもね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/02(木) 20:13:28.47
ライバル竜子も別に秀頼の事を疑がってない風だしなぁ。秀頼の子の遺体を引き取ったりしてるし
日本@名無史さん [sage] 2011/06/02(木) 22:09:30.47
竜子あたりは同じくらい寵愛受けてた側室なんだし
手の内は一番解る立場ではあるよね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/03(金) 11:34:55.43

ごめん、ただの書き損ねだと思うけど
>秀頼しか産まなかった
って、鶴松が可哀そう・・・
忍法帖【Lv=6,xxxP】 [] 2011/06/03(金) 16:26:28.58
あげ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/04(土) 01:31:18.90
秀吉が怖くて
淀と寝る男なんていなかったと思う

たとえばヤクザの組長の愛人と知りながら
それに手を出す組員がいるだろうか?
制裁が恐ろしすぎてとてもできない

だけど淀だけが妊娠したことが不思議
日本@名無史さん [sage] 2011/06/04(土) 21:21:06.52
茶々がそれだけ魅力的な女性だったら誘われたらやっちゃったかもよ?
戦国時代の武将なんていつ戦死するのかわからないのだし
そこまで生に執着しても仕方がなかったと言うか。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/04(土) 23:53:18.17
メチャクチャなこと言わないでよw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 02:42:03.33

>滅んだ浅井家の血を天下人にすることに燃えていた茶々

だからなんの史的根拠のない個人的妄想(または小説ドラマの創作)を
史実のように言うなっつーのw

女性が書いた文学ってなによ。まさか源氏物語?w
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 02:57:01.28
帝の寵姫の密通云々と言う話なら
ちょうどほぼ同時代に猪熊事件があるよね。
当の女官は帝から死刑を言い渡されたようだが。(徳川家が勝手に減刑したが)
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 03:08:36.99

紫式部や清少納言などの王朝文学の女流たちは
内裏内での皇后、中宮御殿のサロンの女房として出仕し
後宮の女性に支持されたり、妃たちの親族のバックアップもあって
文筆に励めたのだろうけど、

>女性が書いた文学(主に朝廷によるものだけど)
って、意味がわからない。「朝廷による女性が書いた文学]って何?

>天皇の想い人でもかなりフリーダムだった
女御のほかの宮廷女房で帝の寵を得た者のことを言っているのだろうか。
後深草院二条のような女性のことを言ってるのだろうか
もっと古代の、額田王のような女性のことを言っているのだろうか。
ふつうに堂上公家と宮廷女官の色好みな生活のことなのか?

なんにしても不思議な文章だ。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 05:02:53.18

桑田忠親って「自称郷土史研究家」なの?w

石松丸の件は今の所グレーとしかいいようがないな。
実子か非実子か、どちらにせよ断言できるなら
とっくに研究者が論文出してるよw
日本@名無史さん [] 2011/06/05(日) 17:39:42.21
おそらく淀殿は織田の血筋の子供が
天下人としたいのが念願だったと思われる
必ず妊娠して男子を出産してわが子を天下人に…
妹の江さんも7人も子供を生んでいるし
姉妹で考えていることはほぼ同じだと思われる

治長さんと淀殿が恋愛関係になるとしたら
秀吉が亡くなってからかもしれない…

日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 19:04:38.02
淀殿は、出産後に疑似的に浅井家再興したり
両親の供養やったりしてるから、かなり浅井家の総領娘としての
自覚と責任感があったんだろうね

それは淀殿亡き後、江に引き継がれるわけだけど…
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 21:03:29.29

ここはネタスレくさいけど一応史板なんで・・・
テレビ番組の歴史なんちゃらミステリーの話ならよそでやってほしいわ。


>疑似的に浅井家再興したり

どういうこと?
浅井作庵と茶々・江ってあんま接点ないと思うけど。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 21:17:42.15
淀城を賜って、浅井の旗印のもと領地運営、未亡人や近江衆や織田にゆかりのある人を取り立てて助けた
「擬似的」と付けたのはそのため
日本@名無史さん [sage] 2011/06/05(日) 21:25:38.49
一応表高2万石で、「化粧大名」って言われてたらしい
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 00:13:16.90
 
何で茶々が >織田の血筋 を残したいのか、わけがわからん。

両親の供養も、多くの女性がその資産なりに、
普通に行っている事だ。
それが「遺された女たちの役割」だからさ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 00:22:49.33
秀吉の子供を産んだから、両親の供養もできたんじゃないの
秀吉の敵だった家の子供なんだもん。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 00:25:16.06
特に養源院建立は子供産んでなかったら無理だったろうね
浅井の家紋使って領地を統治してたのも普通だったら憚って出来ないだろうし
子供を産んでなかったらそもそも淀城を賜る事なんて出来なかっただろう
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 00:28:41.57
そう考えると、淀の方にとって子供を生む事は自己実現のための方法だったんじゃないかなと
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 08:15:09.64

淀城は元々は産所でしょ。茶々が淀城で暮らした期間って
合計しても1〜2年だったそうだけど。
そんなんで領地経営?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 08:40:11.97
少しは自分で調べてくれ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:02:12.91
淀の領地経営その他については、若干スレチだと思うので
この関連のレスはこれで最後にします


再び秀吉の世継ぎを生んだ浅井氏茶々は、改めて産所とした淀城と、その周辺の農村を所領に賜り、
 養育の責任を秀吉夫妻へ委ねるかわり、自らが当主として、水運の管理も含めた経営にあたった。
 所領は表高(おもてだか)二万石ながら、運上税及び浅井家紋で営まれた直営事業により、
 一時は、国持大名にも匹敵する収入を得たといわれ、「浅井の化粧料は船頭が賄いもの」と俚言に伝わる。
 世に「化粧大名」と謳われた茶々は、数寄好みの天下人の威光で、浅井家を異例の形により再興させたのである。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:32:32.94

その引用元、
未通女(おぼこ)にて大口女だの女武者行列だの馬鹿馬鹿しい。
どこの小説よ。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:35:34.33
ぐぐったのかw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:36:11.61

ぐぐった時間を返せと言いたい。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:38:09.20
っていうか、ちゃんと本で調べた方がいいと思うよ
そこまで固執してるならね。自分も図書館で見た本だし今引用出来ない
こういう場で口開けて投下してもらうの待ってるのは
時間の無駄だよ、勉強になって良かったねw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:46:42.32

>図書館で見た本

それって小説だよね?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:47:41.64
淀の方を再評価しよう PART2
ttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1153802162/804

804 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/27(火) 15:49:27 ID:Ga1tGtL4
 再び秀吉の世継ぎを生んだ浅井氏茶々は、改めて産所とした淀城と、その周辺の農村を所領に賜り、
 養育の責任を秀吉夫妻へ委ねるかわり、自らが当主として、水運の管理も含めた経営にあたった。
 所領は表高(おもてだか)二万石ながら、運上税及び浅井家紋で営まれた直営事業により、
 一時は、国持大名にも匹敵する収入を得たといわれ、「浅井の化粧料は船頭が賄いもの」と俚言に伝わる。
 世に「化粧大名」と謳われた茶々は、数寄好みの天下人の威光で、浅井家を異例の形により再興させたのである。
 また畿内の寺社と浅井藩(後世の称)とは、茶々の篤い仏教信仰を通じて結びついており、租税の減免、さらには
 秀吉との面会など、茶々の政治力で多くの便宜を得た寺社勢力が当時、出版した反キリスト教文献の一部へ、
 彼女の意向を記述に大きく反映させることで、その恩義に報いたとも言われている。 
 そして幾つもの女小姓組を軍制へ取り込み、女武芸者を多数召抱えた他、一部の用人や代官にも下士の寡婦を採用するなど、
 女性の地位向上にも尽した藩政は、後世の女権運動家により讃美されている。
  その一方で、茶々は南蛮風の派手好みでも知られるが、「女のおちょぼ口も細目狐目も好かぬと仰せられし事あり」
 「御目のきわには黛塗、御口のはしまで紅塗」かつ「乙女の如き白歯のまま」の状態で、
 密かに「淀の御前様は未通女(おぼこ)にて大口女でもあらせられるか」との謗りを受けたと、侍女の手記に残されている。
 それでも母方からは美貌を、父方からは体格を受け継ぎ、遠目でも目立つ威風には、
 口さがない京雀さえ「淀の御方こそ豊家の至宝なり」と頷いたとされる。
 城下の民を時に威圧し、時に瞠目させたのは、儀礼や教練の際に見せた女武者行列であったろう。
 それぞれ数寄を凝らした黒革威具足を着けた女小姓たちの金具は白銀尽くし、
 浅井氏茶々の緋糸縅具足の金具は、精緻な彫金を施した純金尽くしであったともいう。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/06(月) 09:50:38.56
山壮あたりの小説かね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/10(金) 17:58:30.65

淀は秀吉の子を産まなければ両親の供養もできなければ
淀城ももらえなかったのならば、
当の秀吉が子種なしなら淀は非常に困っただろうね。
ますます間男を考えたのでは?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/11(土) 06:43:53.76
秀頼ばかり言われてるけど
ココの人は鶴松の父親は誰だと思ってんの?
秀吉が二回も他人の子をつかまされるとは思えんけどなー
日本@名無史さん [] 2011/06/11(土) 12:37:10.38
関係ないけど、スレタイが「淀川長治」に見えて、映画のスレッドだと思った。
サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ・・・・・・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/06/11(土) 22:43:21.66

鶴松も秀頼も別人の種だと思ってるんじゃない?
淀は秀吉の男子を産んでなければ歴史に名も残らなかったただの側室。
淀はどうしても天下人秀吉の跡取りがほしかった、秀吉が種なしだから別のを代用。
鶴松が育てば秀頼は産まなかったかもね。
でも夭折してしまったからどうしてももう一人男子が必要になった。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 05:09:33.19

そんなお手軽に密通できて、簡単に夫も周囲も騙されてくれて
都合よく男子が産み分け出来たら歴史上の正室・側室たちも苦労しなかったろうに。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 06:35:10.97


当主の男児を生んだら即「世継の母」待遇になるとは限らないんだが。
正妻に取り上げられたり、場合によっては他家に再嫁させられたりする。
よく小説やテレビドラマでは茶々が妊娠出産したとたんえらそうな態度取ったり
北政所を見下したりするけど、当時の史料にはそんなこと全く書かれていない。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 09:42:58.36

>鶴松の父親は誰だと思ってんの?

自分は三成だと思う。
状況的に考えたら、その可能性的も無いことはないような。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 12:34:54.46

可能性じゃなくて史的根拠を明示してほしい。
茶々・鶴松と三成は特別な関係だったのか、
それを匂わす程度でもいいから
なにか史料がある?

三成に詳しい人たちによると
茶々と親交があったかどうか
それすら怪しいそうだけど。
日本@名無史さん [] 2011/06/12(日) 19:31:12.10
秀頼は秀吉の子ではなく不倫の子=淀殿の悪女説を肯定

このスレの住人は淀殿アンチばっかり
日本@名無史さん [] 2011/06/12(日) 20:05:52.10

淀殿が嫌いな人だけが秀頼は秀吉の子ではないという、
淀殿が好きな人は誰もが皆秀頼は秀吉の子でしかありえないとしかいわない、
という問題ではないんだけど?

淀殿が大好きだからどうしても淀殿の密通は認めてはならない、
無垢な淀殿は処女で秀吉に嫁ぎ、生涯秀吉以外の男を知らなかったということでなければ
気が済まない、というのはかなり違うと思う。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 20:10:36.43

男子でなければ男子が生まれるまで産んだでしょ、この時代の人は。
一人で7,8人産んだ人だって大勢いるし。

戦国時代にも女性が不妊の場合には子供は当然生まれない。
男性不妊も医学的にはほぼ同数いるはずなのに
どういうわけか戦国時代の男性武将に不妊がほとんど見られない。
しかし実際には女性と同じ数だけ不妊はいたはず。
ということは間男がいたとしか考えつかないんだけど、
戦国武将男性は現代男性とは遺伝子が異なっていて
戦国武将には男性不妊はなかったとかいいたいの?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 20:24:32.64
つまり淀に限らず戦国時代武将の正室側室の密通は普通であったってこと?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:06:46.42
全員が全員密通をしたわけではないでしょ。
だけど秀吉に16人の側室がいたのならば、そのうちの1人ぐらいはしたかもしれない。
家康だって次男坊だかは母親が父は家康と自己申告したのに疑って当初認知しなかったからね。
正直、戦国武将の子供が全員父と子の血縁が繋がっていたかといえばそうではないと思う。
(何も戦国武将に限らないけど)
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:20:22.68

自分が「世継ぎの母」として今すぐに正室より偉くなれるかということより、
自分の血を分けた子が天下人になることが重要なのでは?
夫の存命中は側室は側室としての待遇で留め置かれることが多いが、
実子が当主となればその実母が優遇される例は多い。
側室は子を産んでも産んだ子は正室に取り上げられて母子名乗りも一切許されず、
実子が当主になる前に実母は強制的に他家へ嫁がされる、というのが一般的であったわけではない。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:24:40.09

正室や妻待遇の側室に密通は無理だと思うけどなあ

使用人待遇の側室や
妊娠段階ではただの女中でその後繰り上がった人とかなら
ありえるかもしれんが
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:34:28.37

この時代の女性(正室・側室)には夫以外の男性との接点自体はあったからねえ。
無理だという人には「側室が奥御殿に男を泊めたら
奥をまとめる正室が許さない」とかいうけど
何も奥御殿に男を泊めなくても子供はできるわけで。

現実に、淀殿存命中に秀頼の父は秀吉ではないという噂が出ている。
この時代の側室が自分の部屋から一歩も出れない、
昼も夜も誰とも一切面会できない事実上の監獄生活で
外界と完全に遮断されていたならばそもそも噂すら出ない。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:38:10.88

戦国武将に男性不妊は一切なかったと考えるほうが無理が多そう
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:42:14.21
宗茂とかそれっぽいのおるやん
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:53:41.52
淀さん以外の女性にも密通の可能性はあるということか

密通したら密通の噂は出ると思うから(周りが味方だらけの人はいないだろう)
噂がない人は疑わなくてもいいと思うんだが

でも淀殿には噂があるからな
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 22:56:02.06
秀吉の子供に関しちゃ秀吉の子供じゃなかったら都合がいい人がたくさんいるからなあ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 23:04:31.45
秀吉の実子ができたことで大げさに言えば予定調和が崩されたってか
想定外の事件ではあったんだろうな。それで未来予想図が崩されて不利益こうむった人もいたし
日本@名無史さん [sage] 2011/06/12(日) 23:07:03.37

それが噂が出た理由か
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 00:01:34.20


その「噂」がどういう状況で流れていたのか
ちゃんと理解してる?


>淀殿が大好きだからどうしても淀殿の密通は認めてはならない、
無垢な淀殿は処女で秀吉に嫁ぎ、生涯秀吉以外の男を知らなかったということでなければ
気が済まない、というのはかなり違うと思う。

ボクのアイドルを汚すなあ!ってかw
だれもそんな事言ってないw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 00:16:14.97
噂で思い出したけど
結局の問いには答えてもらえないのか。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 12:04:25.00

「淀殿の密通の噂は秀頼を殺すために徳川家康が流したデマ」と連投してた人か。
徳川方が噂を流したなんて史料に一切ないのに。
そもそも徳川家は総領姫の千姫を豊臣秀頼の正室に差しだしていて、
当然千姫が秀頼の男子を産むことを期待していたはずで(もし産めば家督を譲らせて豊臣家を外戚として操れる)、
むしろ秀頼が秀吉の種でなかったら徳川家は非常に困ったと思う。
秀頼の種が違うと噂を流せば武将たちはこぞって徳川につくなんて理論はない。
(戦国武将は勝てるほうにつくだけ)

戦国時代に滅ぼされた武将は多く、名家の嫡男でも殺され家が滅んでいる。
豊臣家など秀吉一代のなりあがりだし、ましてや「種が違う」なんて言われたのは秀頼ぐらい。
それなりの理由があったんだろう。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 12:18:54.81

基礎知識なしに「私は史料全然読まないし、史料なんかしらないもん!
私が知らないってことは史料ないんでしょ!」と言ってる人がいるが、
まず「言経日記」「多聞院日記」「日本史(ルイス・フロイス)」あたりを読んでご覧。
基礎知識なしに大暴れされるとかなり厳しい。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 18:21:28.83
それなりの理由って結局、秀吉の子を産んだのが茶々だけ?って以外は無いやんけ
大野にも子や兄弟いたし、「秀頼と似てる」って証言が無いのか?
日本@名無史さん [] 2011/06/13(月) 19:33:50.32
秀頼の父は、京極高次だと思う。茶々は元々彼を慕っていたから。
それだけではない。
長政・高次・秀頼は肖像画がそれぞれ似ている。長政の姉も太っていて背も高かった。
秀頼は身長も高く、太っていて色白だったが、浅井一族にはそのような身体的特徴を持つ者が多い。
一方、秀吉も三成も痩せていたし、(大野は知らないけど)、背も小さかった。
また、秀頼の子を一時京極家で養育し、松の丸殿が埋葬したのも、もし、秀頼の実父が高次であれば説明がつく。
松の丸殿から見れば、弟の孫なのだから。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 19:47:16.10

なるほどかんしんしたわ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/13(月) 22:29:47.01

当時から別人の種という噂があったんだろ

正室1人に側室16人もいて妊娠したのが茶々一人というのは
確かに怪しいが
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 02:10:27.95
長い間子供が出来なくて、諦めて養子を迎えたとたんに奥さん妊娠。なんてのも珍しい話じゃないしね。可能性はゼロではないわな。
精子はストレスに弱いのさ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 02:18:46.58

確か当時そういう噂があったって話自体の出典が全部江戸時代の資料じゃなかったか?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 07:24:10.08

えーと、今度のソースは井上靖の『淀どの日記』すか?
高次の肖像画って家康そっくりと思ってたんだけどw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 07:35:25.22
さかぐち直美先生の「淀君」かもよ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 11:06:22.10
、508
せっかくの力説で悪いが、デマうんたらの人とは別人です。
徳川が流したとは思っていないよ。理由は同じく史料にないから。
私が言いたいのは噂が流れる背景や世上をちゃんと理解してるかってこと。

「淀君って秀吉が死んだ後家康から結婚せまられたんですって!
でもいやがって大野治長っていう美男と駆け落ちしたんですよ!。
これ「多聞院日記」とゆー当時の一級史料に書いてあるからまちがいありません!!」
って大騒ぎしてる歴史ファンのブログ見た事あるんだけどw
貴方は同じ事してないか?ってこと。

>「私は史料全然読まないし、史料なんかしらないもん!
私が知らないってことは史料ないんでしょ!」

そういう人は私も知ってる。
竹生島奉加帳を「秀吉の母の名前がない」と言い張って信憑性の薄い三流史料よばわりしたり
石松丸実子説をどっかの素人歴史愛好家が唱えてるだけ
とか己の無知っぷりを棚に上げてやたら他人をバカにする攻撃的な人
このスレにずっといるね。貴方もよく知ってると思うけどw
日本@名無史さん [] 2011/06/14(火) 13:02:17.29

この人すごいね。

このスレで誰一人触れていない他人のブログの内容を持ちだしてきて、
「あんたって、こういうこと考えてる人とどうせ同類にきまってるじゃん、
だからこの俺が忠告してやってんの」
誰がそんなレスつけたの?
せめて、スレの内容にのっとってコメントつけようよ?
頭悪いの?
日本@名無史さん [] 2011/06/14(火) 13:05:00.36

「多聞院日記」の内容も完全に間違えてるね。
まあ、本人分かってて書いてるんだろうけど。
恥ずかしいから書かないほうがいいよ。
日本@名無史さん [] 2011/06/14(火) 13:11:30.32

えっ?
このスレで「竹生島奉加帳」を信憑性がないといった人がいるの?
石松丸という幼児はいたが、秀吉との血縁関係を証明できないんじゃなかった?
で、君は「竹生島奉加帳」を多聞院日記を超える超一級史料だということにしたとして、
どこに石松丸が秀吉の実子だと書いてあることを証明したの?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 13:13:40.94

歴史学者の論文でも石松丸が秀吉の実子であると証明した人はいないのに。
スレを全然読んでないんだね。
まあ、それだけ言うんだから君の言う超一級史料竹生島奉加帳をもとに
「石松丸は秀吉の実子」を証明した論文の提示をお願い。
そうしないと、君がウソつきになっちゃう。
日本@名無史さん [] 2011/06/14(火) 17:42:01.64

>淀殿が大好きだからどうしても淀殿の密通は認めてはならない、
無垢な淀殿は処女で秀吉に嫁ぎ、生涯秀吉以外の男を知らなかったということでなければ
気が済まない

それって淀殿の妹・江の熱烈なファンにも同じことが言えるよね。
「お江が大好きだからどうしてもお江の次男偏愛&嫉妬深い恐妻説は認めてはならない、心優しいお江は子供達に公平に愛情を注ぎ、秀忠に対しても従順な妻であったということでなければ気が済まない」と。
要するに、自分に都合の悪い話は信じたくないわけだ、浅井姉妹ヲタはw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 18:10:37.83
ヲタじゃない人は、つまりドラマや俗説を信じるって事か
日本@名無史さん [] 2011/06/14(火) 20:34:53.61
 足利義政は弟を養子にしたら奥さんに義尚が生まれた例が有名ですよね。
ほかに、芦名盛舜も、弟の盛氏に家督を譲ってから盛幸という息子が生まれた。(こちらは騒動にならなかったけど、結果的に子の系統が芦名を継ぐ)
 家康にも似ていますね。秀頼にも父親かせ家康という説があることをこのスレッドで初めて知りました。
高次と秀頼はそれほど似ていませんが、長政と高次、長政と秀頼はそっくりです。長政からヒゲともみ上げをとると高次の顔になります。
いずれにしても太っちょで、斉藤工、時任三郎はありえません。秀頼も渡辺徹が今までで一番リアルな秀頼です。
 浅井三姉妹も本当はデブだったに違いない。浅井はデブの家系。
茶々から見て、父、伯母、従兄、息子と4人デブだったことがはっきりしているわけですから、妹や叔母が太っていることも否定できないはずです。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 21:42:22.93
勉強になるな
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 21:44:19.28

全ての人物にめちゃくちゃ詳しい人なんていないから
興味のない人物の話題になると適当に話している人がほとんどだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/14(火) 22:23:59.96

高次が秀頼のお父さんなのか
すごい話だね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 07:45:05.81

>このスレで「竹生島奉加帳」を信憑性がないといった人がいるの?

前スレにいたし、今もいると思うけど。特徴あるからいやでもわかる。
コピペ出せっつーなら出すけどさ。
うそつきになっちゃうのもなにも
517がなんで「竹生島奉加帳で証明できます」宣言になるんだ??
勝手に他人の主張の変えないでほしい。これじゃディベートごっこすらできないよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 07:48:11.82
だれも指摘しないけど、


>宝厳寺の「竹生島奉加帳」
>南殿と石松丸や秀吉との関係性も不明だ。
>分かるのは石松丸という男児が死んだので寺で供養を行った、
>その布施を出した人々の名前の中に長浜城主秀吉の名前や、南殿と言う名があるだけ。

間違いです。
竹生島奉加帳は社寺復興のため秀吉の家族・家臣団が金品を寄進した記録です。
この時点(天正四年五月六日)で石松は生きているし、序列の高さから嫡子的扱いを受けていたのは間違いない。
だから桑田忠親や小和田哲男が実子説が出してるんでしょ。
高名な歴史学者が言ってる事は100パーセント正しいなんて思わないけどさ、
少なくともこの人たちは「素人歴史愛好家」ではないでしょう。
それから供養をしたのは宝厳寺ではない。妙法寺と混同しているね。


>猶、羽柴秀勝像なるものは秀吉が長浜時代に養子に迎えていた織田信長の四男秀勝と
>混同された可能性があるそうです。

「本光院朝覚居士」画像には戒名と命日「天正四丙午暦十月十四日」と書かれていますので
お次秀勝と混同のしようがないと思いますが。

秀吉の実子、石松、本光院朝覚居士、これらを全部イコールするにはたしかに確証が乏しいけど
非実子説の論拠もかなりムチャクチャよ。
日本@名無史さん [] 2011/06/15(水) 09:11:40.09

いくらなんでも妹の旦那と淀殿が不倫するか?
俗説もココまで来ると失笑もんだよ

日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 09:34:14.08
南條範夫の歴史エッセイ『日本よもやま歴史館』を読んだら
「秀吉の女狂いは酷くて本願寺の顕如上人の裏方には子供まで生ませている」
なんて文章があって度肝抜いた。
顕如の裏方というと如春尼?との間に子ができた?
いくら調べてもググってもそんな逸話出てこない。
南條範夫がいい加減な事書くとは思えないが…
一体なんの史料を見たんだろう。
だれか知っている人いるかな?
日本@名無史さん [] 2011/06/15(水) 10:31:45.08

>序列の高さから嫡子的扱いを受けていたのは間違いない
奉加帳で4番目に名前が挙がっている=秀吉の実の子で嫡子に間違いないということ?
根拠が不詳。
それに、当時は正室ねねもまだ若いので男子を産む可能性もないわけではなく、
万が一秀吉の実子に近い人物が石松丸であったとしても、嫡子認定までされていたというのは初耳。

日本@名無史さん [] 2011/06/15(水) 10:35:04.61

>天正四丙午暦十月十四日」と書かれていますので
>お次秀勝と混同のしようがないと
羽柴秀勝(信長四男)と死亡日時が違うということでしょ。
その墓に眠る人は秀勝ではないでしょうね。
そもそも、秀勝という人物が眠るということが何処にも書かれていない。
石松丸は子供だったのになぜかいみなを持ち(夭折した鶴松にはいみながない)
大人の法名を持つ矛盾については?
日本@名無史さん [] 2011/06/15(水) 10:38:35.81

>桑田忠親や小和田哲男が実子説
いずれの方も豊臣家の別の人(豊臣秀吉や豊臣秀次)について述べる際、
さらっと長浜時代に実子がいたことを述べているのみ。
石松丸について史料に当たり、深く調べた書物を出版したことは一度もない。
つまり、他の本で仕入れた知識を書いたのみで、
大河ドラマで石松丸が出てきたり秀吉は子なしになったりするのと同様でしょう。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 11:38:25.12

嫉妬深い伝説はともかく、家光よりも忠長に期待してたのは俗説でも何でもない。
ちゃんと幕府公式の記録にも残ってるってのに。
最近の戦国時代板の秀忠スレのキモさは異常
つーか、秀忠夫妻ヲタは間違いなくアンチ家光だろ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 12:29:55.04
いきなり他のスレの話されてもw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 17:21:52.30

秀忠スレ住人が研究の参考にしているブログのあるエントリー
ttp://m.webry.info/at/ktbt-cinnamon/201106/article_4.htm;jsessionid=F2D06404C59B0BC9E158A1BF258BC614..32790bblog?i=&p=&c=m&guid=on

このブログの管理人AK氏と上のエントリーのコメ欄にコメントしてる武某氏にしても、
史料にたいするアプローチはおおいに参考になるのに、人物に対する思い入れが強すぎるんだよね、そしてそこからくる言動が怖いんというか引いてしまうというか。
女性史関連の人は男女問わずこういう人が多いんだよなあ。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 19:56:24.89
で結局秀頼の父親は誰なんだ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 20:06:28.02

石田みつなり
日本@名無史さん [] 2011/06/15(水) 21:10:58.25
史実かどうか別として、奥田英二が演じていた三成は秀頼のパパっぽかった。
あの印象のため、大野ハルナガだと言われてもぴんとこなくなった。
バンバン・ババババンバン・ババババンバンババンバーン♪
もしかするとサルはブキミ星人だから、子が出来なかったのかもしれないね。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/15(水) 21:12:52.74

ブキミせいじんてどこに住んでるの?
月???
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 01:58:56.96

秀吉だろう
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 02:11:56.02
江戸城の大奥は大坂城にあったものを真似たもので
表向き、奥向きで厳重に分けられてたしね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/16(木) 08:39:39.76
test
日本@名無史さん [sage] 2011/06/16(木) 08:41:39.57

じゃあ密通可能派の人は
奥方が外に出かけた時に・・・
と言いたいわけか
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 12:00:37.69

そんなのがバレたら大変どころじゃない
そんなリスクを冒すやつはいない
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 12:10:17.06

大阪城では女性が表御殿へ行くことが可能だったんだがな。
大名たちが表御殿で秀吉やねねに挨拶することは普通にあったし、
秀頼の時代、淀殿は表御殿で政務を見ていた。
淀殿に関しては本丸を出て集まった武将たちを直接見聞することまであった。

女性が奥御殿から出れなくなったのは江戸城大奥から。
それでも男性が許可を得て大奥に入ることは許されていたので、
間部詮房と月光院は密通の噂がたったりしてた。
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 12:18:54.21
淀殿に関しては鶴松妊娠時に何処にいたのか分からない。
北之庄落城時から鶴松懐妊までの史料が一切残らない。
それこそ大河ドラマじゃないけど鶴松懐妊前に
秀吉の側室だったかどうかも明らかではないわけで。

ちなみに秀頼を懐妊したときに淀殿がいたのは名護屋城ね。
密通不可能派はどうしても淀殿が大阪城にいたことにしたいみたいだけど。
どちらも大阪城にいた確証はない(秀頼のときには確実に大阪城にいなかった)。

勿論、大阪城にいたところで男性との接点はあるわけだが。
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 12:34:46.25
名護屋とすれば大野は留守居で大坂なので父ではないな
日本@名無史さん [sage] 2011/06/16(木) 13:09:33.82

大阪城の認識がかなり間違ってる。
江戸城大奥は本丸に表(政治の場所)、中奥(将軍の居室)、大奥があり、
将軍の正室・側室・お付きの女中たちすべてが本丸大奥に閉じ込められていた。
一方、大阪城本丸には表(政治の場所)と奥(居室)はあるが、これはどちらも秀吉用。
では、正室や側室たちはどこにいたのかというと、本丸ではなく、
二の丸や三の丸といった内堀や外堀を隔てた全く別の場所に住んでいた。
男子禁制でもないし、江戸城大奥とは全く違う。
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 13:14:00.41

えっ?
大野治長は朝鮮出兵のときに兵を率いて名護屋城に着陣してるよ。
ただし、朝鮮には渡らず、名護屋に陣を置いていた。
治長は秀吉や淀殿とともに名護屋城にいた。

大阪留守居なんて、ちゃんと調べてないだろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/16(木) 19:32:17.66

奉加帳は基本的に秀吉→家族→縁者→家臣の順序で書かれているのに
「大方殿」の次の人物を家臣の子とする方がよっぽど根拠不明だが。

浅井長政と市の結婚年は近年の研究で通説よりかなり下って
万福丸は妾腹の嫡子と説明とされている事が多い。
それに戦国時代は正室腹の長男が絶対的に嫡子認定されるとは限らず
かなり流動的でしょう。


「例がない」「矛盾」と言い切る前に古今の戒名例を調査研究したのか。
竹生島奉加帳みたいな基礎的な資料すら誤認してるようじゃかなり怪しいが。


専門家が根拠があると判断して実子説を支持してるんでしょう。
それを素人呼ばわりして与太話と切り捨てるほど私は傲慢にはなれません。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/16(木) 19:55:07.56

羽柴秀勝(信長四男)や豊臣秀勝(甥)でも秀吉の身内でしょうね。
この両者ならば正室ねねに次ぐくらいの扱いだったかも。
養子や側室の連れ子、親戚の子を養っていたって身内なんです。
万福丸の話を出していますが、万福丸は浅井家系図にしっかり出ている男子です。
一方、石松丸は豊臣家系図に名前が見えない男子で同列に扱うこと自体信じられません。

>古今の戒名例を調査研究したのか
幼児にいみながあった例を出してください。

>専門家が根拠があると判断して実子説を支持してるんでしょう。
支持していない専門家も大勢いますよ。
支持していない専門家の説を切り捨てるあなたも傲慢ですね。
日本@名無史さん [] 2011/06/16(木) 21:00:00.88

小和田哲夫って、秀吉には実際には子だねは十分にあった、
正室のねねは、実際には若いころ何度も秀吉の種をみごもったのだが、
秀吉が出世の妨げになると言って何度もお灸をして人工妊娠中絶を繰り返させた、
そうしてねねは妊娠できなくなった、とか言ってる人だよ?
いくらあなたが信仰する専門家でもちょっと信じられない主張することがある。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/16(木) 22:47:55.87

すげえ話だな
こんな話鵜呑みにする奴いないだろ
日本@名無史さん [] 2011/06/17(金) 01:45:05.60
沢山の女と接してる割には命中率wが低すぎる
もともとの体質か、あるいは薬の影響か
淀君にだけ二人出来ただけでも噂を呼ぶ・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 11:57:23.38

妾腹嫡子の例として出した浅井万福丸からなぜ家系図に飛躍するのか。
貴方が支持する専門家を私が支持しなかったら「傲慢」になるのか。
私は特定の専門家を素人呼ばわりしたことも与太話扱いもしてませんけど。


「欄柯堂棋話」の逸話でしょう。
「江戸後期の成立で根拠となるものが紹介されてないので
そのまま信用する事ができないが」と
学者らしく回りくどい言い方で断定を避けてますよ。
引用するなら正確に。

それと
大坂城御奥の認識、相変わらず間違ってますよ。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 14:07:59.80

あらら?
小和田哲夫先生は石松丸についても一切断定してませんよw
「秀吉には石松丸やねね人工中絶などの話が伝わるので、
子だねがあったんじゃないかと思っている」ですよね。
石松丸のこともねね人工中絶のこともその程度の認識です。
あなたは小和田先生があたかも史料を読んで
根拠をもって石松丸説を支持しているように言ってますが
けしてそうではないので引用するなら正確にw

で、石松丸嫡子説はどこから?
あなたが挙げていた先生方の本でも石松丸が「嫡子」だと言ってるものを知りません。
適切に引用してくださいね。
どの先生が何の史料を根拠に挙げて嫡子だと言っているのかということを。

あなたが大坂城大奥について知ってるとも思いませんがw
日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 14:14:32.29
小和田哲夫って今の大河「江」の時代考証やってるけど、さすがに石松丸は出してきてないな

今回大河にとりいれられた秀吉の正室2人説(茶々は秀吉の正室だった)というのはこの人の持論らしいし
このスレでも言ってる人がいるから実子説出してきてる人ってこの人に傾倒してるみたいだな
日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 14:21:33.62

>桑田忠親や小和田哲男が実子説が出してるんでしょ。

だから〜。
どちらの先生も石松丸が秀吉の実子だったかどうかなんて
「学者らしく回りくどい言い方で断定を避けてますよ。
引用するなら正確に。」

勝手に著名な先生の名前出さないこと。

日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 14:32:11.88

万福丸って長政の最初の正室の子説、継室市の実子説、
側室が産んだが祖父の養子になって市降嫁前に嫡子に定められた説いろいろあったよな。
ただの妾が産んだ庶長子が、若い正室市が産むかもしれない男子を超えて
初めから無条件に嫡男に定められてたってわけじゃなさそうだ。
つまり、万福丸はただの妾腹嫡子に該当しない可能性があるってこと。

まあ、こういうと、おたくは専門家がどうこう言いだしそうだから、
なんでおたくがそう思うのか、またおたくの言う
「著名な教授が論文の中でこう述べているという直接・正確な引用」
を正確に出してくるのを待つとするか。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 20:13:21.24

万福丸も出てないんじゃないか?大河見てないから知らんが
時代考証の仕事はキャストに口を挟む事じゃないだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/17(金) 21:26:57.37
時代考証の先生の仕事は、基本的に「聞かれたら、回答する」だからね。
それらの回答が、必ずしも映像に反映されるわけでも無いし。

日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 03:43:56.63
それにしても秀吉は種無しとか指が多かったとか、先天的な事に関していろいろ言われる珍しい権力者だよな。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 05:45:19.84
指は本当でしょ。
前田利家が家史で書かせている時点で真実。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 08:03:22.75

秀吉指六本は前田利家が家史に書かせたんじゃなくて
ルイス・フロイスが前田利家から聞いた話として載せたもの
掲載されてる文献は「日本史」だよ
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 08:28:36.52

時代考証の意見が大河に全く反映されないわけでもなさそうだ

質問;茶々(淀)を「秀吉の妻」と紹介していますが、「妻」ではなく「側室」では?
答;淀は、「側室」という立場以上に、北政所と並んで「正室」の一人として処遇されていた、
とお考えの歴史研究者も増えていらっしゃるようです。
今回は、時代考証をお願いしている先生方ともご相談の上、「妻」という表現としました。
ttp://www9.nhk.or.jp/go/faq/index.html
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 13:40:10.07
素朴な疑問。
関白の妻は、平安の昔から北政所と呼ばれてた。
茶々は北政所とは呼ばれてないと思うけど、何で妻なの?
位にしても、茶々は従五位下だか従五位上だか正五位下だか正五位上なんでしょ?
ねねは従一位だっけ?

二人がほぼ同格扱いっていうのはよくわからん。
五位じゃ諸大名より低いじゃないか。
茶々以外でも、正室扱いみたいな人いるの?それにしたって、北政所と呼ばれたねねは、彼女達とは別格に見えるけど
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 15:54:52.79

その件に関しては大河板にある専用スレでどうぞ
時代考証の小和田説を含めて意見が出てる

【側室?】宮沢りえの淀スレ【正室?】
ttp://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1308236557/l50
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 16:05:30.38

万福丸は一応、脚本家本人が書いてる原作で出てるのに脚本で削られた
脚本はエピソードがぶっ飛んでるとは言われているが
さすがに原作段階であった登場人物が出てこない例は万福丸ぐらい
時代考証の小和田氏は今回「みどころを読む」を大河のために毎回執筆してるが
ここでは万福丸は省かれている
近年は、万福丸は市の子ではない=万福丸庶子説も有力で
時代考証と話し合いの結果重要ではないと判断されて省かれた可能性がある
ttp://www9.nhk.or.jp/go/story/gom01.html
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 16:55:54.98

どうもありがとう。

早速行ってきたが、そのスレ読んでも、釈然としないなあ。今後の書き込みを待つことにするよ。

ともかく、感謝。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/18(土) 20:14:01.47
万福丸はどうなんだろ?信長公記には秀吉がやったとは書いてない…
日本@名無史さん [sage] 2011/06/19(日) 00:09:46.83
大河ドラマに茶々がでてくる度に
「本当の名前は菊子」厨がわいてくるんだけど
(そのたびに、菊子という諱は朝廷から官位を貰うさいにつけた名だ」
 という反レスが入る。一応は)
この「菊子」という名を伝えている史料って何なの?
日本@名無史さん [sage] 2011/06/20(月) 17:09:58.65
従五位(下?だったか) 藤原菊子 
という位階と名が何に記されているのかは自分も知りたい。
日本@名無史さん [] 2011/06/21(火) 17:46:05.65
江のほうが偉いんだね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/21(火) 19:31:46.95
江の従一位は没した後の追贈だけどね
日本@名無史さん [sage] 2011/06/21(火) 21:14:26.77
和子の入内に母代としてつき従った功績からといいながら、
家康の側室の一人であった阿茶局が賜った生前従一位は凄い。

女御の母代として拝謁するという大役もあっての位だろうが
やはりとくにすぐれた女性だったのだと想像できる。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/22(水) 18:57:09.02

阿茶局があと20歳若かったら
和子の生母は実は阿茶とか騒ぐ連中が現れたに違いない
日本@名無史さん [sage] 2011/06/23(木) 17:35:47.53
阿茶局は家康との間に子がなかった
そのため家康から母を亡くしていた秀忠・忠吉の養育をゆだねられ
阿茶局は秀忠にとって育ての親でもあった
和子の母代を秀忠がゆだねたのも
このようないきさつがあったのだろう
日本@名無史さん [sage] 2011/06/23(木) 18:13:41.84

阿茶局が秀忠吉の養母になった話って
どの史料に載ってる?
以貴小伝とか柳営〜などの経歴に載ってなかった
日本@名無史さん [sage] 2011/06/23(木) 23:42:50.82
よくある大奥の資料本なんかには、阿茶が優秀な女性であるがゆえに
「秀忠の養育も任された」・・・なんて記述もあったりはするが、
実際にその出典となると書かれていないし、
「良く出来た人なので家中で頼りにされていた」ことの表現なのだと
思うようにしている。

秀忠といえば大姥局も居たのだしな。
日本@名無史さん [sage] 2011/06/24(金) 07:28:54.00

大奥本の適当さにはうんざりするな
出展を載せないのは当たり前で俗説や逸話を「鵜呑みにしちゃダメよ」的前振りなしで載せるし

でも阿茶局はすごい女性だな
もっと知名度高くてもいい
日本@名無史さん [sage] 2011/06/24(金) 19:05:43.63
昔からある大奥本はまだいい。

厄介なのはフジの大奥や「篤姫」等々に便乗して
研究者でも小説家ともつかない「作家」が書いた、
昔からの資料本をかき集めて書いただけのような蘊蓄本。
日本@名無史さん [] 2011/06/26(日) 00:55:30.15

やっぱり大野が犯人だったんだね。

この時代は、皇族でさえ天皇をそそのかした
姦通罪で家康に大量処分されたくらいだから
珍しくはないか。
日本@名無史さん [] 2011/07/10(日) 21:17:34.80
墓を暴いてDNA鑑定しろよ。
絶対に秀吉の子供じゃないから。
日本@名無史さん [] 2011/07/11(月) 09:28:14.01
君ねー 秀頼の遺骸もないのよw
どーやってDNA鑑定するの?
秀吉は骨はあるので鑑定が可能だろが
淀と秀頼の遺骸は見つかっていないのだろうと思うよ。
でも最近大阪城跡から介錯されたと思われる首が発見されたらしい。
高貴な人の首のようで、若しかして大柄な人らしいので秀頼のものかもしれないらしいが、なんとも、、、。
日本@名無史さん [sage] 2011/07/11(月) 09:38:31.41
自分も、585のレスを読んで吹いてしまったw

もし、もしも歴史上の人物で遺体の埋葬が確実だとしても
学術調査と銘打っても、「墓を暴く」って言葉遣いはないわ。
日本@名無史さん [sage] 2011/07/11(月) 09:44:08.79
秀吉の陵墓も家康が破却させたんじゃないの?
日本@名無史さん [] 2011/07/11(月) 11:46:50.11
明治期になって、秀吉の骨の存在は確認できているのでしょ。
生前の秀吉の歯も存在が確認されているらしいw
日本@名無史さん [] 2011/07/12(火) 18:28:49.92

秀頼の娘の骨はあるのでは?娘は尼になる代わりに命は助けられていた。
日本@名無史さん [] 2011/07/12(火) 18:39:25.87
天秀尼の墓は彼女が住職を勤めた東慶寺にあるらしいが
発掘されたという話は聞かないな
骨が残っているかどうかは分からない
日本@名無史さん [sage] 2011/07/12(火) 20:58:38.70
いつも思うんだが、日本的には火葬されてるんじゃないのか?普通に死んだ人。
焼かれて骨壷に入れて百年以上たった骨からDNA鑑定なんてできるの?

こないだ爺ちゃんが死んだ時に、墓の中がいっぱいだったんで昭和初期ぐらいの
骨壷を整理したら、中はすっかりボロボロになって砂しか残ってないように見えた。
(ちなみに坊さんに聞いて、納骨室の床に中身を撒いた)
日本@名無史さん [sage] 2011/07/13(水) 13:53:21.54
昭和初期までは火葬は少なかったのではないかと
薪とか大量に必要だし
日本@名無史さん [sage] 2011/07/13(水) 19:18:30.58
火葬は莫大な費用がかかったらしいな

日本@名無史さん [sage] 2011/07/15(金) 10:00:37.65
この板にもよく「墓を発掘して骨等からDNA調査をすりゃあいいじゃん」
・・・というワンパターンなレスがみられるけど

たとえ明らかな子孫が現存していない場合でも
埋葬されてた遺体を掘り起こして調査をするのって、
法的にいろいろとクリアせねばならぬコトも結構あり、
そうそう容易のできることでは無かったように思うが。
日本@名無史さん [] 2011/08/09(火) 17:23:14.03
大河板でも「藤原菊子 従五位下」って書いてる人に
その根拠はなんでしょう? とレスしてもやはり反応はなし。

で、ここのおヒトでも出典を知らないようだったら
やはり従五位下は信憑性のない伝聞みたいなものだったってコトでいいの?
日本@名無史さん [] 2011/08/09(火) 20:12:44.28

天皇の叡慮は当然として、婦人の場合、往古の習わしより摂関・三公・将軍家などであれば、台慮として口頭などでの叙位が認められます。(この場合位記等はありません)
おそらくそれにちなんだものでしょう。
一応、淀殿は次期天下人の生母であり、公家・諸侯とも拝謁を受ける立場なので無位という訳にはいかなかったでしょう。
服装なども五位以上でなければ許されぬものもあります。

一例ですが、朝倉義景の生母光徳院は、越前動座した足利義昭から、従二位(女性としては最高位)に叙せられた記録があります。(若州武田之系図浅羽本・武田系図山県本)

淀殿の場合も信頼できる系図等に記述があれば、叙位されたとみてよいでしょう。
日本@名無史さん [] 2011/08/10(水) 00:05:30.00

墓の所有者の許可があれば比較的容易に出来ると思う。
増上寺徳川将軍墓しかり、中尊寺藤原三代ミイラしかり、
伊達政宗墓しかり。
日本@名無史さん [sage] 2011/08/10(水) 07:25:18.48

日本は土葬、風葬が多かった。
火葬は高貴な天皇家、貴族の埋葬方法だった。
江戸時代の歴代徳川将軍家は土葬のため骨が残っているし(秀忠室江のみ火葬)
奥州藤原はミイラ葬。
日本の天皇家は持統天皇以降、長らく原則として火葬だったが、
江戸時代の後水尾天皇以降、土葬となり、
現代の天皇家は現在でも火葬せずに土葬している。
日本@名無史さん [] 2011/08/10(水) 07:40:49.20

>DNA鑑定の件
DNA鑑定は99.8%は同じであるホモ・サピエンスの残りわずか0.2%の遺伝子を解析するもので、
その遺伝子組み合わせによる精度は非常に難しい。
DNA鑑定によって判明するのは親子間の血縁の証明のみで(親子間であれば99.9%判明する)、
それ以上離れると例えば祖父母と孫、兄弟姉妹間などではいろんな遺伝子がまじりあいもはや判定不可能らしい。
そのため、秀吉ー天秀尼といった祖父孫間では使えない。
600 [] 2011/08/10(水) 07:43:21.72
続き
遺伝子配列とは別に、母方の祖母ー孫間ならば母方からのみ伝わるミトコンドリアの型によって(7つの型がある)
血縁を推測することはできる(もしミトコンドリアの型が違えば明らかに血縁関係にない)。
しかし、男性の尊属からは一切伝わらないので、やはり秀吉ー天秀尼間では採用できない。
日本@名無史さん [] 2011/08/10(水) 09:49:53.88
秀吉存命中から、秀吉の子ではないのでは? という噂がすでにあったからね。
日本@名無史さん [sage] 2011/08/10(水) 10:21:15.12



【飲食系】
ロッテ(菓子・アイス)、ロッテリア、バーガーキング、銀座コージーコーナー、
白木屋、笑笑、笑兵衛、魚民、暖暖、和吉(居酒屋) 安楽亭(焼肉・飲食店)、

天下味(焼肉)、平壌館(焼肉)、モランボン(焼肉調味料)、JINRO(焼酎)、
両班岩のり(海苔)、クリスピー・クリーム・ドーナツ

【生活用品】
アムウェイ(調理用品、浄水器、化粧品、洗剤、栄養補給食品)

【電化製品・I T系】
サムスン(Galaxy S、Galaxy Tab、TVなど)、LG電子、DAEWOO(電化製品)、
ソフトバンク系列 <個人情報売買で手に入れた資金を北朝鮮に送金>

(Yahoo!BB、Yahoo!Japan、IPRevolution、BBiX、日本テレコム、C&WiDC)、
ライブドア、楽天、ブロードバンドネットワークス




日本@名無史さん [] 2011/08/10(水) 12:05:35.45
 秀頼 が 秀吉の子じゃない話は本当ですか。
日本@名無史さん [] 2011/08/10(水) 17:40:06.90
甥の関白秀次が切腹させられたが
この時、秀次の家族に限らず全ての周囲の女中等と女子供も同時に処刑された。
秀次が蟄居を命じられている頃、秀頼の幼名「拾い」が誕生したが、
その御子は太閤の御子ではないと周囲に発していたと言われている。
それ故に秀吉は全ての者の処刑を命じたとされる。
日本@名無史さん [] 2011/08/10(水) 18:54:12.83

>秀次が蟄居を命じられている頃、秀頼の幼名「拾い」が誕生したが、
豊臣秀頼 文禄2年 8月3日生
豊臣秀次 失脚・蟄居 文禄4年 7月
日本@名無史さん [sage] 2011/08/10(水) 19:35:35.80
戦国時代は血縁の近い同士結婚当たり前だから
サラブレットも生まれれば馬鹿も誕生するらしいけどどうやって実証できたの?
日本@名無史さん [sage] 2011/08/10(水) 21:12:39.70

千姫とか於大も火葬だよ
日本@名無史さん [] 2011/08/13(土) 21:46:15.38
恨みは時代が変わっても変わらない普通の感情の一つだからな。
喜怒哀楽のようなもんだろう。
この時代だから、恨みを抱かないってことはないだろう。
秀吉の正室に淀の方ってこともないと思うし。
他に正室二人持っていたっていう人もほとんどいないし。
正室一人に側室多数って人が大抵だった。
そうなると、父母を秀吉に殺され、仇の側室にされたということは秀吉に弄ばれたと思ったんでないか?
二人の妹は正室として大名に嫁いでいることだし。
やはり復讐だったのか?
それとも淀の方と大野治長は愛し合っていたのに秀吉に引き裂かれたということか?
拾いや捨てという幼名も思えば変だった。
日本@名無史さん [sage] 2011/08/13(土) 23:28:20.41
>拾いや捨てという幼名も思えば変だった

捨て子を拾って育てると元気に成長するという迷信から来ていると聞いたが?
日本@名無史さん [sage] 2011/08/14(日) 19:10:31.63

大や千姫は連枝とはいえ徳川将軍でも御台所でもないから、
実質徳川将軍家は土葬で間違いないだろう。
墓も将軍と御台所が入る寛永寺や増上寺ではなく、伝通院にある。
家康母お大は京都伏見城で死んだが遺言により江戸に遺体を運んだために
遺体が傷み、火葬になったらしい。
千姫は明確な記録がないんじゃなかったか。
日本@名無史さん [sage] 2011/08/25(木) 18:43:31.34

その、茶々の「従五位」という記録が、
何という史料に書かれてたのか知りたいわけなんだけど
その史料や系図名の返答が返ってこないんだよね。
日本@名無史さん [sage] 2011/08/30(火) 23:05:36.40

大日本史料にあるいくつかの系図を見た限りでは
室、側室、妾とだけあって官位のことは書かれていないが
信頼できる系図とやらは何なのかね
日本@名無史さん [sage] 2011/09/01(木) 00:21:28.10
茶々の官位の謎。

研究者の書く評伝本等では官位について触れてないことが多いような。
と、いうことは「従五位」という官位の記録って信憑性が薄いのでは。
日本@名無史さん [sage] 2011/09/04(日) 01:29:01.80
よくある「淀は秀頼を生んだことで強大な権力を手に入れ政権を掌握した」
「家康に秀頼が拝謁しに行くのを淀がガンとして認めなかった」「冬の陣で皆やる気に
なってるのを一人ビビった淀が講和させた」「秀頼の出陣を我が子可愛さで淀が頑として
認めなかった」という話は事実なんだろうか?
江戸時代に書かれたものや歴史小説なんぞでもなく、当時のきちんとした史料に書いて
あることなの?
右を見ても左を見てもタカビーで独善的な淀しかいないが、その根拠って何なのだろう。



日本@名無史さん [sage] 2011/09/09(金) 21:32:42.44
淀のワンマン説も光秀の本能寺と同じで小説、ドラマの影響が大きいだろうね。
日本@名無史さん [sage] 2011/09/10(土) 00:42:28.46
徳川に寝返った豊臣恩顧の大名が自己正当化するためのスケープゴートが茶々
日本@名無史さん [sage] 2011/09/10(土) 02:21:22.82
坪内逍遥原作の新歌舞伎で5代目歌右衛門の当たり役になっていた
「沓手鳥孤城落月」での「淀君狂乱の場」の描写が影響を与えている
日本@名無史さん [] 2011/09/12(月) 22:02:55.49
今年のスイーツ大河は、茶々が美化されすぎてるな。
茶々なんて、浅はかで愚かな女なのに。
日本@名無史さん [] 2011/09/13(火) 07:00:51.84

大坂城内にいた女房衆や生き残った兵たちの証言。
冬の陣では、おふくろ様が甲冑着て見回りし、あれやこれやと指図するので諸将は辟易したそうな。
夏の陣には、大野修理の要請で秀頼出陣の予定が、おふくろ様が涙で止めたせいで無くなった。

淀の方がある種の実権を握っていたのは事実とみられる。
証左としては、
豊臣家代理人として、徳川と交渉にあたっていた片桐且元の真意が疑われた時、
同時に交渉役に選ばれたのは、淀の側近である大蔵卿の局であった事。
つまり、大坂城首脳の意思決定には、淀の方の意向が大きく反映される証である。

日本@名無史さん [sage] 2011/09/13(火) 08:37:00.09
夏の陣って大阪城が最前線だろ?最前線のさらに最前線に出て行けっての?
日本@名無史さん [] 2011/09/13(火) 11:41:35.10
大蔵卿の局は、大野治長の母親。
関ヶ原の時から、大蔵卿の局が最高権力を握っていたのは
秀頼の実の祖母だからだ。
日本@名無史さん [sage] 2011/09/13(火) 17:26:48.93

それはもう豊臣恩顧の大名がほとんど退去しちゃった後の話だろ
それこそ秀吉の生前は一万石しかもらってなかった片桐が家老みたいな立場に
なってるほど深刻な時期だw
巷説では関ヶ原の頃からもう政道に口出ししてる
日本@名無史さん [sage] 2011/09/16(金) 10:21:13.68

女である淀殿が甲冑を着て城内を見回っていることを批判した史料は
「当代記」「駿府記」という徳川方が記した書物に書かれてあることで
もともと宿敵豊臣方のことをよく書くはずがないから何とも言えない。
逆に淀殿が甲冑を着て城内を徘徊し、武将たちを励まさなければならないほどに
豊臣方は追い詰められていたとも取れるが。
日本@名無史さん [] 2011/09/22(木) 06:52:12.66

その人たち、大河板の江〜姫たちの戦国〜アンチスレに常住してる?
「田豚によって大好きな崇源院が貶められた」だの、「初の江主役のドラマによって史実の江の評価も上がると期待してたのに裏切られた」だの、自分勝手なレスばかり。
そりゃ自分も含めた歴史好きにとっては、あの大河は史実無視の滅茶苦茶なもので決して許されるものではない。
でも、一人の人物に対して異常に思い入れがある偏った歴史観を持つ人等が「あれは史実と違う」って言ってもイマイチ説得力ないんだよね。
そういう人って、今まで通説で言われてきた史実も自分が気に入らないと、「あれは俗説だ」って決め付けるしw
日本@名無史さん [sage] 2011/09/22(木) 13:38:03.46
大河ドラマに文句つけて司馬の「関ヶ原」とか「城塞」を持ち出して
「史実を知れ」とか言う阿呆w

つか大河ドラマなんて史実どおりの話をやったことなんて今まで
ただの一度だってないだろ
単に人口に膾炙した巷説か、そうでないかの違い
日本@名無史さん [sage] 2011/09/23(金) 02:15:35.76
537のスレって、どんな内容だっけ? と見にいってしまったがw

「史実の○○が貶められた」とか
映像化によって「××の評価があがると思ってたのに」
みたいな考え方は、自分も理解できないな。
ドラマは「歴史を題材に脚色した創作」なんだし

世間一般から同じように賞賛される歴史人物なんてまず居ないし、
好きな人物なら、長所・欠点ひっくるめて好きは好きだからな.
日本@名無史さん [sage] 2011/09/26(月) 19:58:30.03

つまり、やっぱりちゃんとした文書に記されたものはないということ?
「生き残った侍女や兵士が言ってた」なんて、ニュースの「関係者」「知人」「業界通」並みに信憑性がない。
敵方にいた者が生き残るために、今までの主君を貶して新たな主君に媚びるのは当然な訳で。
実際淀殿の侍女が淀殿の供養を毎年行ってきたことからも、悪どい性格だったとは思えないなあ。
本当に言われてるような女性なら、DQN四天王並みの逸話がゴロゴロ残ってるはずだし。

死人に口無しとはよく言ったものだ……

日本@名無史さん [sage] 2011/09/26(月) 23:24:22.73

その、生き残った兵士や侍女たちの証言が、
どういう位置付の史料、文書に記録されてたのかが問題だと思うのだが?
日本@名無史さん [sage] 2011/09/27(火) 12:35:23.24
あの時期大阪城にいた人間のなかで一番の「大身」は山城に五万石を領する
淀君だからある意味で仕切るのが当然w
片桐の倍以上の知行だが、それでも秀吉から終生化粧料としてもらった
時の半分にされてた
日本@名無史さん [] 2011/09/28(水) 06:58:54.96
,629
前段の文章は、単なる傍証のような形で書いている事に気付いてもらいたい。
論点になっているのは、淀殿が性格悪い悪女であったとかではなく、
政を指図して、それが豊臣家滅亡につながったかどうかだと認識している。

金銀の払底について
太閤のためた大坂城の金銀は莫大なものであったが、淀殿は慶長7~13年まで55件もの寺社造営復興を行い、そのため天正慶長大判などの金銀が払底
慶長13年からは分銅金塊の吹きかえを行いはじめた。
又、慶長20年の大坂の陣前では、浪人にふるまう金銀が足りず、最後までとってあった千枚吹き分銅を吹きかえ、黄金の茶室もこのとき吹きかえられた。(京の後藤家文書)これは常軌を逸した浪費といってよい。
少なくとも、まともな家臣が政務をとっていれば、このような馬鹿な浪費はありえない。


皮肉な事に、冬の陣後慶長20年3/15徳川義直婚礼の祝で駿府行き、
大坂方は徳川に財政援助を願い出ている(この時の使者も、常高院・二位局・大蔵卿局であり、武士ではなく淀の息の掛かった女房衆)
このとき、徳川が出した条件は、国替えか浪人の放逐であったが、大坂方は拒否した。(陣前、片桐且元が同条件を大坂城に持ち帰った時、怒った淀殿は対面を許さず、後、片桐は城を退去した)


日本@名無史さん [sage] 2011/09/28(水) 13:58:26.76

>好きな人物なら、長所・欠点ひっくるめて好きは好きだからな

同意。たとえお江が気の強い女性であったとしても、自分はお江好きだよ。
その事によって彼女の魅力(辿ってきた人生の波乱万丈さ等)が損なわれるわけではないし。
日本@名無史さん [sage] 2011/09/28(水) 18:46:50.68
つか
大阪陣前後に淀君が権勢を持ってたことを否定してたやつなんているか?
関ヶ原の頃から権勢あったように言われるのは捏造だってのはあるけど
日本@名無史さん [sage] 2011/09/28(水) 20:42:56.39
大坂城跡から大量の金銀を徳川家が回収して、寺社への寄進程度では大したダメージになっていなかった
と分かった、って話もあったような。
徳川家への財政援助ってのも、徳川の勧めで寺社の改修をするんだから徳川も出して当然って話だった
ような。結局、豊臣だけで全額出してるし、財政危機だったとは思えない。
日本@名無史さん [] 2011/09/28(水) 20:50:58.24
スレタイから外れてるが、こういうの好きだな。
書いてるの読むと、大野の子かどうかじゃなく、淀君が生んだ子だから
それでいいじゃん、のような。え?違った?

最近知ったんだけど、今の天皇は九条完子を通じて、織田と浅井と豊臣の血を
引いてるんだってな。残念ながら信長や秀吉ではなく、その兄弟の血だが。
幼少時幸少なかりし完子だが。お江最強じゃない?

日本@名無史さん [] 2011/09/28(水) 23:09:34.53

釣りくさいが・・・
>大坂城跡から大量の金銀を徳川家が回収して、寺社への寄進程度では大したダメージになっていなかった
>と分かった、って話もあったような。
陣後、大阪城内から回収された金銀
金28060枚 銀24000枚である。金塊は払底していたため、これが最後の財である。
ちなみに、慶長14,15年の豊臣秀頼の方広寺大仏殿造営には、金40000枚が費やされている。
最初は大判、無くなったので次は金塊の順で消費していった。
その様子は京の後藤家(京の金座)から、逐一徳川に報告されていた。

>徳川家への財政援助ってのも、徳川の勧めで寺社の改修をするんだから徳川も出して当然って話だった
>ような。結局、豊臣だけで全額出してるし、財政危機だったとは思えない。
徳川の勧め=大坂方の金銀を使わせる事が目的
豊臣と徳川が一緒に寺社造営するわけではない。各大名家が各々懇意の寺社に対して行うものである。
徳川の見え見えの口車に乗って、大事な金銀を無駄に浪費し続け、
その結果、大坂の陣前、金銀払底で黄金の茶室まで金に吹きかえたのである。
豊臣が徳川の臣下であるならともかく、従わない者に財政援助する道理がない。
65万石の一大名となった豊臣家、以前のように各金銀山からの運上もなく、使えば減る一方である。
又、大坂城内は、わずか65万石の身代で後世の大奥のような御本丸女中衆という組織が、
秀吉時代と変わらず存在し続け、その数女子どもで1万人近くいたが、
これも浪費そのものである。

日本@名無史さん [sage] 2011/09/28(水) 23:33:48.15

「江」が始まってからの崇源院アゲで、
「今の天皇家には完子を通じて織田と浅井と豊臣の血が」って、
ニワカの一つ覚えな書き込みがここでも大河板でも増えてるけど

完子の血以前に、藤原家だの公家の血が大量にまじってるんだけどな
日本@名無史さん [sage] 2011/09/29(木) 08:01:32.61

女子ども1万人という数字はどこから?
秀吉時代よりは側室の数も減っているのだし(秀頼の側室は公称2人)
全く同じ数だけの女子どもが大坂城にいたという証拠がない。
>豊臣が徳川の臣下であるならともかく、従わない者に財政援助する道理がない
方広寺造営に徳川家康は資金援助をしている。
また、多くの大名は関ヶ原後も豊臣家と徳川家に二重臣従しており、
秀吉時代同様豊臣姓を名乗り、秀頼から官位を受ける大名は多かった。
諸大名が徳川家だけの直臣になったのは大坂夏の陣で家康が秀頼・淀殿を滅ぼした後。
日本@名無史さん [] 2011/09/29(木) 19:24:31.77

>女子ども1万人という数字はどこから?
>秀吉時代よりは側室の数も減っているのだし(秀頼の側室は公称2人)
>全く同じ数だけの女子どもが大坂城にいたという証拠がない。
義円准后日記

勘違いしているようだが、側室の数云々ではなく、女房衆、女房衆の奉公衆、その奉公衆の奉公衆といった類で下女幼女ふくめて膨大な数。
それ自体の証左として、大坂陣図屏風で大量に脱出しようとする姿が描かれている。更に大坂城天守閣から外を覗くのは女の顔ばかりである。

>方広寺造営に徳川家康は資金援助をしている。
徳川は天下人であり、金銀山を直轄している。また資金援助と造営では天地の差である。
又、問題点は収入がないのに天下人の如く浪費する事である。

>また、多くの大名は関ヶ原後も豊臣家と徳川家に二重臣従しており、
それは具体的に誰であろうか?関ヶ原以後、豊臣家が自領以外で所領安堵した大名は存在しない。
又、開幕以後、大坂へ証人(人質)を送った大名もない。

>秀吉時代同様豊臣姓を名乗り、秀頼から官位を受ける大名は多かった。
豊臣姓を名乗るのは自由だが、開幕以後、公に豊臣姓を名乗ったのは木下氏と福島氏ぐらいだろうが、他にいたらあげてもらいたい。
秀頼から官位を受けるというのは官位推挙の事であろうか?
誰だかわかればあげてもらいたい。
慶長十一年以後は徳川の推挙なしの叙任は禁止されたが、何人か無断で推挙されたらしい事はありえる。慶長十四年以後は全くない。

>諸大名が徳川家だけの直臣になったのは大坂夏の陣で家康が秀頼・淀殿を滅ぼした後。
ちょっと視点がずれているのではないか?
秀頼が合力を求めた親書に対して、
旧豊臣系大名(前田・浅野・生駒・蜂須賀・黒田・加藤・細川・島津・山内・福島・鍋島・上杉・毛利 他多数)らは、
皆一様に徳川家臣である事を宣言し(使者を斬ったり、額に焼き印を入れたり、封を切らぬままの者もあった)、断交した事実、さらに出兵している。

日本@名無史さん [sage] 2011/09/29(木) 19:58:44.96
スレ違いかもしれないけど
伊達政宗や徳川家光が結婚してから子どもを授かるのに長い時間がかかってるのは
何が問題なの?男色だったから?
日本@名無史さん [] 2011/09/29(木) 22:41:17.52
秀忠「あの…それがし初めてでござる」
江「ウブなのねアタシに任せて」
秀忠「おおっ!江よ、そんな事まで!やっやめよ!」
江「だめぇまだイッちゃ!」
秀忠「ハウッ!」
江「もぅーこんなにいっぱい出しちゃってぇ〜許さない!二回戦よ。」
秀忠「勘弁してくだされ!」
日本@名無史さん [sage] 2011/09/30(金) 11:52:38.32

家光が女性に興味をもたないので、側近が苦労した・・・
って逸話は、ドラマや小説などの創作とかでもさんざん脚色してるじゃん。

春日局(ふく)絡みの潤色だと、女性を男装して寝所に侍らせたり
慶光院門跡で頭を剃ってた還俗前のお万の方に家光が興味をもったり、とか
日本@名無史さん [] 2011/10/02(日) 21:11:17.57
茶々は愚かな女だ。
親の敵の側室になるだけでも恥ずかしいことなのに
大野を子供のためになんで徳川に対抗意識を燃やしたの?
妹へのコンプ?

関ヶ原で殺されなかっただけでも感謝するべきなのに
徳川の官位を妨害し、秀頼の義理の父の将軍宣下の就任の祝いも
足蹴にした。
バカなの?

茶々が少しは脳みそがあって、千姫に秀頼の子供を産ませてれば
徳川の親戚として幕末まで生き残れたのに。
豊臣が滅んだのは自業自得だ。
日本@名無史さん [] 2011/10/04(火) 16:53:06.52

父や夫を討たれた女を戦利品として側室にした男は多い。
諏訪御料人、京極竜子、三の丸殿当たりも恥ずかしい女か?
豊臣家の養女で嫁でありながら徳川でのうのうとしてた江あたりも恥ずかしい女か。

関ヶ原は家康の力で勝ったわけではなく、豊臣恩顧の大名の力で勝っただけだから、
家康が秀頼や淀殿を殺さなかったのは当たり前。
秀頼の首狙いだった大坂の役では諸大名を頼らず、徳川一門と三河時代からの子飼いだけで
豊臣家の息の根を止めている。
家康が秀頼に求めたのは秀忠の将軍就任祝いではなく、秀忠に対する臣下の礼。
この時点で秀頼は秀忠より上位の右大臣であり、応じるわけがない。

>千姫に秀頼の子を産ませてれば
できなかっただけでは?
淀殿が敵方千姫を秀頼から故意に引き離していたというのは小説にはあるが
史料からは確認できない(千姫の髪削ぎを秀頼が行ったり仲が良かったとみられる史料はある)。
日本@名無史さん [] 2011/10/04(火) 19:44:30.81

>諏訪御料人、京極竜子、三の丸殿当たりも恥ずかしい女か?
>豊臣家の養女で嫁でありながら徳川でのうのうとしてた江あたりも恥ずかしい女か。
離合集散、栄枯盛衰は世の常であり、それを自覚した行動をとらなかった事が愚かと言われる原因
前田家のまつは自ら江戸へ下って証人(人質)となったが、家康はその返礼如く、秀忠の娘を前田に差し出した。
一方、淀殿は江戸行きを断固として拒否しつづけた。御家の安泰より、己が体面を重んじたと見られて当然である。

>関ヶ原は家康の力で勝ったわけではなく、豊臣恩顧の大名の力で勝っただけだから、
>家康が秀頼や淀殿を殺さなかったのは当たり前。
関ヶ原の大義名分は豊家大老として、乱を起こした石田方を征伐したという事
故に、乱後は本来なら秀頼が論功行賞すべきなのであるが、
それをさせず自ら諸大名に所領をあてがった家康の政治的勝利であって、秀頼母子を殺す大義名分はない。

>秀頼の首狙いだった大坂の役では諸大名を頼らず、徳川一門と三河時代からの子飼いだけで
>豊臣家の息の根を止めている。
前田家・浅野家は大軍を派遣している。

>家康が秀頼に求めたのは秀忠の将軍就任祝いではなく、秀忠に対する臣下の礼。
>この時点で秀頼は秀忠より上位の右大臣であり、応じるわけがない。
大坂城の、この空気の読めなさが問題だった。秀頼の右大臣・秀忠の内大臣任官(慶長十年)は、
ほかならぬ家康の推挙であり豊家に対する礼(懐柔策)をつくしたのである。
また、亡き太閤との約定どおり、先に千姫を大坂に差し出した(慶長八年)のだから、
幕府としては、この辺で手を打って然る可き(淀殿の江戸行きと転封=臣従)の認識だった。
だが、結局そのような政治上の配慮も役に立たなかったのである。

>できなかっただけでは?
そのとおり。これは結果論だから、できなかったものは仕方ない。
惜しむらくは、豊家の滅亡であるが、心ある有能な家臣が政務をとっていれば、転封を受け入れていただろう。その場合、豊家が滅亡するような事は無かったと思う。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/08(土) 01:50:25.31
敵対した家の当主の側室になったって、
それで路頭に迷っていた旧臣たちの士官がかなったり
滅んだ実家の血筋を伝えていくこともでき
何より、生き延びて父祖の菩提を弔うことができることは
家累代の霊位の供養を継続が可能になったことでもある。
供養する子孫が絶えて無縁化してしまうことは
当時の仏教感では恐ろしい避けたい自体だったので、
(供養してくれる人が居ない場合、地獄に落ちたらそれっきりだ)
それが避けられることは喜ばしいことだ。

当時でも非難する人もいれば、
盛衰が表裏一体の乱世なんだから気にすることもない寛容な見方の人、
評価なんてさまざまだったんじゃないの。

日本@名無史さん [] 2011/10/10(月) 02:28:40.30

本当に徳川と和議を結ぶ気があるなら
なぜ千姫が子供のときに側室に子供を生ませたんだ。

嫡子を正室以外に生ませた時点で、徳川に喧嘩売ってるのと同じだろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/10(月) 02:45:24.37
千姫と秀頼に年の差があるから、お手付き女中はしょうがなかろうが、側室はまずいな。
それと、千姫が成人(初潮)したら、秀頼は猿になったつもりで千姫と子作りに励むべきだったな。猿の子なんだから。
千姫との間に男子が生まれてれば、若隠居して家督譲るという奥の手が使えた。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/10(月) 02:57:35.65
家康は自分の嫡男に切腹を命じるような人だし
千姫の子だとしても、危険な孫を生かしておくかな?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/10(月) 19:00:02.37
側室の件に関しては、秀頼自身の意向なんじゃないかな
舜旧記などの資料を読むと、秀頼が自分の意志で行動してると思われる部分が多々ある
特に各資料で家康と会見した後の記述を読むと、淀殿と行動が食い違う描写が多い
淀殿・大蔵卿局・片桐且元が徳川家に対してひたすら恭順(土下座)外交してる間に、
同じ時期に秀頼・大野治長それに後藤又兵衛の三人が露骨な朝廷・大名工作や牢人集めをしてる

それと徳川家では豊臣家そのものが排除の対象として議論されているので、生まれる子供が家康の血を引いてるかは関係ない
家康には長男をその派閥ごと粛清した経歴もあるのだし
日本@名無史さん [sage] 2011/10/19(水) 02:19:38.70
龍子や摩阿姫だと、秀吉死去後の去就も知られてるわけだけど
三の丸殿や姫路殿のその後ってどうなの?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/19(水) 20:48:04.96
淀殿って秀吉のことが嫌いで治長とできてたとか他にも浮気したとか言われてるけれどそれにしては捨とお拾いしか妊娠してないっておかしくない?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/19(水) 21:43:12.35
アナルの良さに目醒めて、その後はアナル専門になった
日本@名無史さん [sage] 2011/10/20(木) 05:19:01.59
秀頼が大野治長の子とは考えにくいな。

限られた大阪城内で淀と治長がエッチ或いは他所(外出先)でもイイんだが

現代のように二人だけでホテルで密会、、、とは行かない。
淀殿のお付きの人の中には秀吉の密偵も居るし。

少なくとも俺が大野治長の立場なら淀に手を出すなど命知らずな事はしない。
露見したら最後、切腹はおろか打ち首程度では済まないから。
日本@名無史さん [] 2011/10/20(木) 05:41:50.11
当時の風評でしかないといえばそれまでだが・・・
淀殿が懐妊したのは秀吉が肥前名護屋にいた時で、ばれたらそれこそ天下の一大事どころか豊臣家の大恥でもあるから、石田三成と女房衆らが口裏を合わせて事実関係を作ったそうな。
淀殿が大野治長と関係があったかといえば、秀吉在世中から、噂としてはまことしやかに囁かれていた。
とにもかくにも、秀頼の出生日については、諸大名の間で??があったのは事実で、それはやはり秀吉が名護屋陣中にいたためであろう。
とかく子ができなかった秀吉が、ワンチャンスのようなタイミングで秀頼をもうけた訳であるから、無理もない話しである。
日本@名無史さん [] 2011/10/20(木) 07:44:14.83

>千姫と秀頼に年の差があるから

秀頼=1593年生
千姫=1597年生

僅か4歳しか違わないが?
この時代は10代前半で初産て珍しくなかった(現に前田利家の正室・芳春院は12歳で第一子を生んでる)し、17歳の秀頼と13歳の千姫が子供作っても何ら不思議なことはない。
にも関わらず、秀頼は17歳と18歳の時に側室に一男一女を生ませるてry
よほど千姫の成長が遅かったのだろうか。
日本@名無史さん [] 2011/10/20(木) 08:42:59.07
秀頼に子供が居たなんて初めて知った
日本@名無史さん [] 2011/10/20(木) 15:12:02.55

母親の江も13歳の時の初婚では子供ができなかっただろ
江が第一子を産んだのは2度目の結婚で20歳の時
一夫多妻が当たり前の時期に秀頼が正室の成長を待って
側室断ちをする理由もないと思うが
豊臣家は秀吉の後継者が秀頼ただ一人しかいなかったので
少しでも早く豊臣の子が欲しかったのだろうし
日本@名無史さん [] 2011/10/20(木) 15:23:17.01

千姫は子産みマシーンかw
嫡子を正室が産んでない例なんかたくさんあるだろ
徳川は「徳川に逆らわないならば千姫に嫡男を産ませろ」
万が一千姫が不妊だったら千姫を離縁させて
代わりのスペアとして徳川家の娘を次々秀頼のもとへ送り込むわけか?
あまりにも人権なしだな

秀頼が千姫とセックスすれば確実に子供ができていたという根拠なし
ちなみに千姫は秀頼と死別後本多忠刻と再婚
忠刻は徳川家の姫をいただいたことに恐縮し正室千姫に嫡子を産んでもらうべく千姫以外に妻を持たなかった
千姫は一男一女を産むが男子は夭折子宝祈願するも10年の結婚生活で子供は2人しか産まれず
結果忠刻の血筋は途絶えてしまっている
日本@名無史さん [sage] 2011/10/20(木) 16:26:22.20
「子産みマシーン」とか喜んで使ってるヤツ、恥ずかしすぎる
大河板でさえ馬鹿にされてるっていうのに・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/10/21(金) 08:44:06.46

恥ずかしいのはお前だろ
秀頼自身側室の子なのに豊臣の跡取りが側室腹で駄目な理由はないわけで
秀頼が徳川に恭順を示すためには千姫との子づくりに励んで
側室を持ってはいけなかったというのはかなり違う
日本@名無史さん [sage] 2011/10/21(金) 20:04:37.80

「江は子産みマシーンって言葉を非難するスレ」に対する反論になって無いけど
日本@名無史さん [sage] 2011/10/22(土) 08:39:57.63
源頼朝役:豊臣秀吉
源頼家役:豊臣秀頼
北条時政役:徳川家康
って感じだな。
孫婿を殺したけど、実の孫を殺す時政よりはえぐくない。
日本@名無史さん [] 2011/10/23(日) 09:43:16.12
まぁ、秀吉存命中から、すでに、子供は秀吉の種ではないという噂は広く
知られていたわけで…。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/23(日) 14:49:03.87
秀吉は mule <(R) by Isaac Asimov>だった!!
日本@名無史さん [] 2011/10/23(日) 20:16:21.32
酷い大河ドラマだ・・・・
史実通りやる必要などないが、こんな脚本と大根役者、特に秀忠役(重要なのに)はどうにもならない・・
そのため話しのリアル感が全然無くなり、まるでスーパーナチュラル s1,2の吹き替え版のようなくだらなさだ・・・
日本@名無史さん [sage] 2011/10/23(日) 20:31:52.84
んー? 今回はわりと史実に忠実じゃね?
秀忠と江が和平主義かどうかはわからないけど、
この時点で主戦論を唱えていたって証拠もない。

家康−本多ラインが主導していた、ってことしかわからんと思うが。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/24(月) 00:34:22.87
大河板の住人って平均年齢いくつだよ
知識は古いし頑固だし

で秀頼の話はどこ言った?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/24(月) 09:58:24.20

>知識は古いし頑固だし
たとえば、どんな「知識」?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/24(月) 16:07:25.27

ただの噂だし、「広く知られていた」と言えるほど色んな資料に書かれまくってるわけでもないぞ
厄介なのはこの手の噂の主張が悪魔の証明を迫ってることに気づかない人が多いことだな

それに寧々は秀頼を可愛がり、何度も会ったりあちこちの寺社に秀頼の息災を祈願してる(徳川実紀、他多数)
秀次も自分の娘と秀頼の縁談を前向きに検討してる(福田寺日記、駒井日記)
少なくとも豊臣家の人々は根も葉もない噂を気にしてはいなかったということだな
日本@名無史さん [sage] 2011/10/24(月) 16:45:02.64
秀頼のタネが実際は誰のものだったかというよりも
秀吉の子として産まれ、子として可愛がられ
秀吉の後継者として育ったということが大事だな。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/24(月) 21:54:56.90
猿そっくりの男と、イケメンと、どっちを親父にしたいかと、今度あの世に行ったら
秀頼に聞いてきてくれ。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/25(火) 08:01:23.40
秀吉公認てことはないかな?
俺、種なしだしぃ〜
日本@名無史さん [sage] 2011/10/25(火) 19:55:14.55

近江時代に子供生まれた(すぐに亡くなった)説もあるから何とも言えんな

一度は秀次に譲るはずだった権力を捨松・秀頼のために取り戻した秀吉の妄執とか考えてみる
やっぱり実子だったんじゃないかな
そのために秀次を家族丸ごと処刑して養子にしてた秀秋も小早川家に押し付けて
淀殿は喜ぶどころか豊臣家の先行きは暗いと不安な心境を手紙に書いてる
あとは噂があっても秀頼の血筋を疑って揉め事が起きたことは一度もないっていうのが大きいと思う
徳川家からすれば豊臣の権威を削ぐ恰好の材料なのに全く指摘しなかったし
手を回して噂を広めることもなかった
これがその徳川家になると結城秀康や保科正之の出生についてごたついてる
外国の事例だけど秦の始皇帝は反逆者や敵国に出生の疑惑について激しく罵られた
けど秀頼に対してそういうことは一度も行われなかった
日本@名無史さん [sage] 2011/10/25(火) 23:08:21.56
近江時代に一男一女をもうけていると言う説の真偽はともかく
その説の存在そのものを知らないで種なしとか言ってるやつが大杉
日本@名無史さん [sage] 2011/10/26(水) 07:14:15.31
知ってていってますが。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/26(水) 20:40:53.05

不特定多数に向けてのレスに一々答えるのって何?
強迫神経症か何かか?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/26(水) 21:22:21.21
笑うところ?
日本@名無史さん [sage] 2011/10/26(水) 23:07:03.34

不特定多数の人にレスつけたりレス付けられたりするのが嫌なら、
名前が出る掲示板とかツイッターとかやればいいと思いますよ。
そのコメントが本気で出るようならあなたは2ちゃんねるに向いてない
と思います。
日本@名無史さん [sage] 2011/10/27(木) 14:20:26.90

お前は何を言ってるんだ?
「こんなやついるよなっ」ってレスに対して「いや、自分は違う」なんてレス
するのは自意識過剰だって話で、レスつけられるのは嫌なんて話は一言も
出てないのに
匿名掲示板に向いてないのに明らかに後者の方だろ阿呆
日本@名無史さん [sage] 2011/10/27(木) 15:10:53.31
馬鹿過ぎ
日本@名無史さん [sage] 2011/10/31(月) 13:51:05.64

秀吉が秀頼を実子と信じて疑ってなかったことには異論はないだろ
だからこそ老醜の秀吉が狂ったように身内粛清を行った
わざわざ姉の子を養子に迎えたのに粛清、豊臣家の男子は秀頼一人だけになってしまい
それが豊臣家の滅亡を招いたともいえる

秀吉が信じて疑わなかったことと秀頼の父親が誰かということは別問題
秀吉が疑わなかったことで秀頼受胎時期に淀殿と性交渉があったことは事実なのだろうが
淀殿が同時期に他の男と交わっていれば他の男の種である可能性もあるわけで
日本@名無史さん [sage] 2011/10/31(月) 13:58:09.75

その話は上のほうで何度も出てきているから「何も知らないやつが話している」
と決めつけるのは暴言だろ
太閤記にも家系図にも一切出てこない長浜時代の一男一女について
「秀吉は他の女にも多分子供を産ませていた可能性が高いんだ、
これは最重要」と力説するほどの話ともいえないが
日本@名無史さん [sage] 2011/10/31(月) 19:19:42.68
そういえば「竹生島文書」の検証してくれる研究者は
やはり現れないんだろうか。

わりと一般歴史好きの間には
「秀吉には長浜時代に南の方という女性に産ませた子が居るらしい」話は
浸透してるし、子種がどうのとか云う類の検証は軽く見られている感じだし
作業の手間も時間も勿体無い物件なのだろうか。
日本@名無史さん [] 2011/10/31(月) 22:29:03.13

注目すべきは、信長が自分の子を養子として秀吉に与えた事。
この事実は大変重く、秀吉自身が種無しである事を認識していたと思われる。
少なくとも、実子ができたとして、嫡子とする事はこの時点では諦めねばならない。
当時からして、男が40才にもなって子ができぬというのは、種無しとみなされていた。
世嗣がいないという事は御家存亡に関わるため、まだ子ができそうな年齢でも養子を迎えるケースは多い。
秀吉には多くの愛妾がいたが、子宝に恵まれる事はなく、
齢五十をこえて実子を断念したからこそ、秀次を後継としたのである。
淀の方の懐妊は、秀吉からして僥倖というほか無いが、他人からみれば「ホンマかいな?」といったところであろう。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/01(火) 15:35:58.26

「一般歴史好きの間には秀吉の長浜時代の子のことが浸透している」というよりも
秀吉は長浜時代に実子をもうけた話が「大河ドラマ」に出てきたので
それを見た一般人が史実だと思うようになったんじゃなかったっけ。
(出てきた大河ドラマは「利家とまつ」、他にもあったかどうかは不詳)
竹生島文書はあれ以上のことが書いていないから論証しようがない気が。
ちなみに秀吉には女児もいた話は長浜八幡宮の社伝にのみ出てくる。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/01(火) 16:58:38.74

あっ、ゴメン。自分は「一般人」ではなく、>
日本@名無史さん [sage] 2011/11/01(火) 17:20:38.19

間違って書き込みクリックしてしまったので、また書くw

大河ドラマ視聴者的な「一般人」ではなく
普通に資料本を読むような >歴史好き一般人 の人たちが
ごく普通の資料本に「なお秀吉には長浜時代に男児を設けた記録があり」
的な記述も良くあることから、その件をそう思ってる人が多いのでは?
・・・と、いうような感じのことを言いたかったんだよね。

で「長浜時代の子」については、大きな歴史のうねりや政治性、領国経営、
戦略性にもあまり関係のないことなので、研究者も興味なく
検証が進まない類の件のかと、自分は残念に思っている。
>あれ以上のことが書いていないから論証しようがない気が
あの時代の寄進状の様式からして、名の書かれた順番がどうとか、
(桑田忠親氏が、醍醐の花見の輿の順を「○○とは上臈の××のことであろうとか
解釈をされたように)この呼称は誰それのコトであろう、とか
注目すべき点ででてくると思うんだ。

ちなみに大河「秀吉」での南の方は川上麻衣子が演じてたね。
晩年は油断のならぬ熟年女キャラに脚色されてたけど
日本@名無史さん [sage] 2011/11/01(火) 17:42:27.36

一般通史には出てないよ>秀吉の長浜時代の子供
上で挙げられている石松丸実子説を支持する研究者の本に出てきているのであって、
すべての研究者が支持しているわけではない。
醍醐の花見の上臈ですら研究する人がいるのだから、相当な信憑性のある話なら
研究者は飛びつくんじゃないのか。
しかし、残念ながら南殿の名は竹生島文書以外にどこを探しても出てこず、
石松丸の名も出てこない(秀勝と結びつけるのは推測)。
決定的な史料が出てこないのでこれ以上研究しようがないというのは上にも出ていた。
日本@名無史さん [] 2011/11/01(火) 17:48:04.88

ルイス・フロイスの「日本史」にも秀吉は
醜怪な容姿をし、性欲(獣欲と言っている)が異常に強い(女を大勢囲っている)のに
不思議なことに子は男子も女子も一人もおわしまさずという文章があったっけ。
死別したにしろ秀吉に一男一女があったならこんな書き方にはならないだろうな。
秀吉の種なしは織田家家中ではかなり有名だったと思われる。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/01(火) 21:15:12.67
家康や信長と比べて、側室が異常に多かったわけじゃないだろうに。えらい言われようw
日本@名無史さん [sage] 2011/11/02(水) 02:49:02.21

2chにレスしてるやつの8割くらいは目についたスレに書き込むだけなので
きちんと1からログ辿って読むやつの方が少数派だろ
だから同じような話ばかりループする
日本@名無史さん [sage] 2011/11/04(金) 19:42:05.96
秀吉の子ではありえない。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/19(土) 08:49:42.74
秀吉の側室には(秀吉の側室になる前に)出産経験ある側室やら秀吉没後に再婚して子を産んだのもいるんだろ
やっぱ秀吉に種が無いと普通は思うよな
あんだけ側室いたのに淀にだけ生まれたっておかしい
近江時代に子がいったってのも真偽はどうなんだか
淀にだけ生まれたんで後付けで近江時代にも子がいたけど死んだんですって書かせたんじゃねーの?
しかもその近江時代子を産んだ南殿の素性って謎なんだよな
あと秀頼って巨漢だったんだろ
小男で貧相な秀吉の血って入ってたのかね?
日本@名無史さん [sage] 2011/11/21(月) 00:47:34.94

八切止夫は淀が美人というのが俗説で父親似の大女だったと書いてたけどなw
日本@名無史さん [sage] 2011/11/21(月) 05:19:39.95
身長に関しちゃ現代でも両親ともに小さくても子供は180cm↑とか普通にいるしなんとも
日本@名無史さん [] 2011/11/21(月) 13:55:11.23

でも初は細身だと記録があり、江は遺骨調査で小柄で華奢だと判明してるんだよね
淀だけ大女だったとは言えない気がする
あと、母親であるお市も美人だったという一次史料は一切無いって本当?
肖像画も至って形式的なものだっていうし
日本@名無史さん [] 2011/11/21(月) 18:42:10.40

初・江は母親似で茶々は父親似かもしれない。
ただし、茶々・初・江の肖像画はどれも江戸時代の作で
本当に本人に似ているのか疑問が多い。

ちなみに市が美人だっというのは信長研究の一次史料「信長公記」に
記載があるよ
娘の茶々が奉納した肖像画も美人の部類
形式的なら皆この時代の肖像画は同じ顔になるはずだが
春日局なんて結構酷い顔に描かれてるしな
日本@名無史さん [] 2011/11/21(月) 21:11:39.28
信長公記に記載があるんだ、情報ありがとうございます。
理想化がみられる市の肖像画だけで美醜の判断は難しいって言ってる人を見たからなんだけど、美人だったのは事実だと自分も思うよ
ただ、あの肖像画のモデルは茶々なんじゃないだろうかと思う時もある

浅井三姉妹は美人だったという史料はあるけど、確かな肖像画が伝わって無いのは残念
日本@名無史さん [] 2011/11/21(月) 21:22:37.32
そういえば、この前のヒストリアで側室の管理体制が厳しくて秀吉以外の男性が淀に近づくことは難しい
っていってたよな
あれ、本当なんだろうか
日本@名無史さん [sage] 2011/11/22(火) 11:56:36.39

信長公記のどのあたり?
日本@名無史さん [sage] 2011/11/23(水) 14:40:37.48

肖像画を描かせた画家がお市を見たことがなければ、いや、見たことがあっても
三姉妹をモデルに(少なくても参考にして)描かせてるんじゃないかと思う
三姉妹の誰か一人が格別お市に似てれば、特にその人をモデルにしただろうけど、
それは、わかることは無いんだろうな
日本@名無史さん [sage] 2011/11/23(水) 14:42:02.11
市の肖像画は鈴木保奈美っぽかったよ。
いいキャスティングしたなと感心した。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/23(水) 14:43:39.57
四行目
それは、…×
それが誰かは、…○
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 09:00:19.34

ならば、父親の浅井長政は誰をモデルにしてるの?
とても浅井三姉妹をモデルにして父親を描いたとは思えないけど?
肖像画を依頼した茶々がイメージを伝えて
(もっと目を大きく、とか、体を大きく、とか)描いたとしか思えないが。
ましてや、浅井長政が死んだとき長女の茶々ですらやっと4歳、
下の2人はほとんど顔を覚えていなかったと推測されるのに対して、
市が死んだときには茶々15歳、初14歳、江11歳と三姉妹すべてが母の顔を覚えており、
見当違いの顔を書いたり三姉妹のうち誰か一人に酷似した顔を書いたならば苦情が出そうだ。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 12:51:31.44
あの2人の肖像画は供養のためにより立派な姿として描かせてるようだから、そこまでの写実性は要求されないにしても
特徴は掴んでるはず
モデルがいたかどうかは結局のところ不明
娘をモデルに父親を描くことはないだろうね。長政の場合は彼の容姿を知る侍女の証言とかかな…
ただ、最古の長政像は鋭い顔立ちなのに対し、お市とセットのは優しい父親として描かせた感じ
茶々の私情も入ってそうな気はする
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 15:51:28.20
信長や市の妹に当たる犬の肖像画が、この市の肖像画によく似てるんだよな。
制作年月もきちんと入っていて、天正10年10月。
犬が死んだのは天正10年9月なので、犬が死んだ直後
おそらく夫細川昭元の依頼で制作されたものだとされている。
肖像画には犬の美貌を讃えた文章も書かれてあり、大変な美人であったらしい。
こちらは死の直後なのでかなり信憑性が高い。
妹犬の肖像画が市の肖像画に似ていることは傍証にはなる。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 16:45:37.45
犬の肖像画似てるかなぁ?
色白でうりざね顔で鼻がすっとしてるのは似てるけど、犬の方がパッチリ目で現代的な印象。
市はどちらかというと格式ばった能面のような顔立ち。
どちらも美人だったのは確実だろうけどね。
まぁ織田家は美男美女が多かったんでしょう

それと秀頼の娘の天秀尼さんの肖像画も美人だね
いつ頃描かれたんだろう
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 18:32:17.19

全く同じだとは言ってない。
市のほうが目がやや吊っているが、顔の輪郭や口元はそっくりだ。
両者の肖像画とも信長に似ていると称されていて
色白で鼻筋が通り口元が小さいといった特徴を備えた夫人画であり、
織田家の特徴が出ており、ある程度似ていると判断できる。

浅井長政は色黒で巨漢。
長政の異母姉阿久姫は大変な巨漢で、織田家残党狩りの時に三姉妹を大きな袖に隠した
という伝説が残るのでこちらも浅井家の特徴がでている。


日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 18:41:43.20
長政は色黒どころか死後すぐの肖像画もめちゃくちゃ色白に描かれてるよ
それが印象的だったんじゃないかな
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 22:08:34.43

没した翌年に描かれた肖像だっけ。
長政については、いずれも恰幅よく描かれているな。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/25(金) 23:01:36.90
長政の外祖父の肖像画も恰幅よく描かれてるし、その外祖父は祖父・亮政に容貌が似てて影武者やってたらしいから
亮政も随分と大柄だったんだろうな
そういう家系だから、別に秀頼がジャンボでも全然不思議じゃない
日本@名無史さん [sage] 2011/11/26(土) 00:01:23.06
お市とお犬の肖像画が似てるとか言ってる輩は、
何かの資料本の受け売りだと思うぞ。

だいたい昔の女性の肖像なん、顔の輪郭はみな面長・うりざね顔だし
口元も結ばれており、かつ小さめなのが通常だろう。
そういう肖像画の普遍的な部分を指して「似ている」と言え無いだろ。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/26(土) 00:20:43.21
瓜実顔で細目って坂本龍馬の嫁みたいな顔かな?
日本@名無史さん [] 2011/11/27(日) 06:46:28.62
age
日本@名無史さん [sage] 2011/11/28(月) 02:16:11.93
日本の美女像の典型はうりざね顔にひき目、小さな口元だもんな。
まるで高野山のお市肖像。
あの黒目は能の女面の目と同じような描き方だ。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/28(月) 11:36:31.67
お市個人の肖像というよりは典型的な美女像という感じで描いてるようだよね
ま、どんな顔立ちだったのかなんてタイムマシーンでもない限り分からないから…
日本@名無史さん [] 2011/11/28(月) 12:04:44.20
話をそらすなよ!

秀頼は誰の子だッ!
日本@名無史さん [sage] 2011/11/28(月) 12:09:21.66
個人的には秀吉の子だと…信じたい
日本@名無史さん [] 2011/11/28(月) 16:40:42.51

歌舞伎ではそういう設定になっているよ。
さらに付け加えれば、
源頼家役・・豊臣秀頼
源実朝役・・徳川秀忠
北条政子役・・江
真田信之役・・佐々木盛綱
真田幸村役・・佐々木高綱(彼が歌舞伎の主役)
なお、頼家は政子の子ではなく側室の子ということになっていて、その母親が茶々の設定。
日本@名無史さん [] 2011/11/28(月) 16:42:58.27

だったら信じれば良い。
日本@名無史さん [] 2011/11/28(月) 16:52:59.94

>母親の江も13歳の時の初婚では子供ができなかっただろ

1度目の佐治一成とは実は婚約だけで2度目の豊臣秀勝との結婚が事実上の初婚だという説もあるが?
日本@名無史さん [] 2011/11/28(月) 17:13:45.21

>女性史関連の人は男女問わずこういう人が多いんだよなあ。

こういう人達ってさぁ、自分の好きな歴史上の女性とライバル関係(?)にあった女性を不当に貶めるから嫌いなんだよねぇ
そういう意味ではゲームや漫画から入ったニワカのくせに歴史通ぶってる歴女よりタチ悪い。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 00:40:46.28

江戸時代の歌舞伎ってのは、
リアルに人物名を出すのがご法度だったから。
忠臣蔵を足利時代の設定に替えるとかね。


濃姫対生駒氏、またはお鍋の方。
三条夫人対諏訪氏、または油川氏。
崇源院対お静・浄光院
とかね。

自分は正室の位置や立場は尊重されてたと思ってるほうだけど、
「正室好き」なあまり側室下げをする輩とは論争をしたくない。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 08:03:37.89

一応この時代は「似絵」だろう?
それなら女性の肖像画は全員同じ顔になるはずだが
春日局などがでか口おでこに描かれているのが矛盾する。
変な奴が連投してるな。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 08:07:12.77

能面を見たことない奴じゃないの?
能面の「美女」はかなり垂れ目だが、高野山の市の肖像画は目がつっている。
そもそも市本人が美女だという伝承があるのだから、市そっくりに描けば
必然的にそれはその時代にもっとも好まれていた美人画になる。

で、兄の信長も女にしたら美人そうな色白細目うりざね顔なんだが
こっちも「典型的な美男顔を書いたものであって実際の信長には似ても似つかない」とかいう奴なのか?
同時代の秀吉や家康は典型的な何顔を書いたつもりだというタイトルを付ける気なのか。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 08:59:21.37
似てるか、似ても似つかんかどうかは分からんわ。西郷隆盛なんて写真が無いって理由だけで弟をモデルにした肖像画が本人だと信じられて出回ったし
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 09:41:58.14

キヨソーネは西郷隆盛に会ったことがない。
(キヨソーネが来日した時にすでに隆盛は下野した後)
会ったこともないのに明治天皇に西郷隆盛像を描けと言われた。
命令を受けた時にすでに西郷隆盛本人は死亡、
代わりに提供されたのが生きている弟と従弟の写真。
そら外人に描かせた西郷隆盛肖像画は特殊。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 13:22:13.97

寿像ではないからそっくりはちょっと無理っぽいが、市が美人だったからこそ当時の典型的な美女像として描かせたんだと思う
寿像といえば淀の祖父である久政の寿像は近くで拝見したときキリリと男前でビックリしたw
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 16:25:36.52
っていうか、肖像画の件はあんまり関係ないから置いといて本題の話しないかw
ここでは秀頼は秀吉の実子じゃないっていう意見が主流な感じ?
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 18:09:09.54
秀吉が自分の子だと信じて溺愛してた可能性が高いわけだから、実子だと自信があったんじゃないかな
それだけ管理体制が厳重だったのでは
日本@名無史さん [sage] 2011/11/29(火) 23:21:20.76

>一応この時代は「似せ絵」だろう?
似せ絵っておもに平安末期から鎌倉時代の大和絵の流行じゃないの?
藤原隆信らが書き手として活躍した頃の時代のもので
鎌倉末期にはすでに衰えていた画法。


若い女面の「小面」はたれ目では無い。
日本@名無史さん [sage] 2011/11/30(水) 12:23:43.24
いまだに秀頼のパパ候補として石田三成を挙げてる人多いけど、さすがに三成は無いよなぁ
本人の性格からしてもそうだし、彼は小柄だったはず
日本@名無史さん [sage] 2011/12/01(木) 00:46:10.34
とりあえず茶々の近辺にいそうな男はみな父親候補にしてみるんだろ。
研究家とか作家の場合は特に、他と同じようなこと言ってたら
商売にならないからな。

日本@名無史さん [sage] 2011/12/01(木) 21:36:49.68
大野治長より石田三成の方が盛り上がる!っていうのもあるのかもしれない
彼の方がネームバリュー上だし
日本@名無史さん [sage] 2011/12/02(金) 14:45:57.58

三成はその「近辺にいる男」ですらないのにな
北政所と懇意だったのにいつの間にか淀派にされてる
日本@名無史さん [sage] 2011/12/02(金) 17:45:31.28
その北政所も最近の研究では西軍よりだったんじゃないか説があるね
日本@名無史さん [sage] 2011/12/02(金) 18:33:58.70
少なくとも東軍についた豊臣恩顧の有力大名で北政所派閥といえたのは
甥の浅野幸長と木下勝俊だけだな
勝俊は伏見城退去して改易されてるし
日本@名無史さん [sage] 2011/12/02(金) 18:39:28.77
勝俊はグスグスしてる間に伏見城に取り残されたって感じで東軍に
ついたとは言い切れないしな
弟の木下延俊は東軍についたけど身代小さくてあまり影響力なかった
日本@名無史さん [sage] 2011/12/02(金) 21:14:03.03
それなら、意外と西軍寄り説は信憑性があるのかな
日本@名無史さん [sage] 2011/12/03(土) 02:08:00.42

というか
そもそも東軍より説が何の根拠もなくいつの間にか言われてたことだからな
日本@名無史さん [sage] 2011/12/03(土) 14:04:24.20
関ヶ原を淀とねねの女の戦いにしたかったんじゃないのか
日本@名無史さん [sage] 2011/12/03(土) 21:48:31.47
実際にはあの二人が対立するのは関ヶ原後だからな
日本@名無史さん [sage] 2011/12/04(日) 00:43:43.68
関ヶ原後も別に対立してないだろ
日本@名無史さん [sage] 2011/12/04(日) 01:25:03.47
むしろ割と良好な関係だったともいわれてるよね
日本@名無史さん [sage] 2011/12/05(月) 16:23:50.99
敵対していたとは思えないけど、
良好な関係とも云い難い感じかな。
日本@名無史さん [sage] 2011/12/05(月) 17:01:32.75
正室と側室が本心から仲が良かった例はまずないだろうが
関ヶ原や大坂の役の原因が
北政所と淀殿の女の戦いにあったとするのは
無理だというところだろう
日本@名無史さん [sage] 2011/12/05(月) 20:46:58.73

ねねと成田甲斐は仲良かったろ
日本@名無史さん [sage] 2011/12/06(火) 11:17:35.68
甲斐姫が豊臣秀吉の女房衆(或いは側室)になったというのは
伝説の域をでないんじゃなかったか。
豊臣秀頼の側室(天秀尼の実母)が成田氏なので甲斐姫と混同され、
甲斐姫は秀吉の側室となった後大坂城で秀頼に仕え
側室が産んだ天秀尼を養育したという説ができたとも言う。
甲斐姫は実在しなかったと言ってる人もいるみたいだ。
ねねと甲斐姫の交流というのも聞いたことがない。
日本@名無史さん [sage] 2011/12/06(火) 19:25:21.45
淀殿と松の丸殿って側室同士だけど関係良好だったよな
秀吉死後も手紙や贈り物のやりとりしたり大坂城で会ったり、松の丸殿が淀殿の侍女を預かったり国松の遺体引き取って供養したり…
例の盃争いも創作説があるし
従姉妹同士だから割と仲良しなのかな
日本@名無史さん [sage] 2011/12/07(水) 01:04:34.12

テキトーなこと言うなよwww
根拠は何?

甲斐姫の大坂の奥御殿で、他妻室とどういう付き合いをしたか?
・・・なんてコトを記した史料は残ってないよ。
だいたい醍醐の花見時に「かひ」という女性が参加してたのを指して
「甲斐姫か?」って程度の存在の立証しか無いんだからな。
日本@名無史さん [sage] 2011/12/07(水) 06:08:51.76

松の丸殿の弟が淀殿の妹のお初と結婚してるから、二重の縁があるね。
日本@名無史さん [sage] 2011/12/07(水) 16:00:59.36
大坂城落城後、秀頼の遺児である国松と奈阿姫の2人が京極忠高によって
徳川家康に差し出されているので、京極家が何らかの形で養育に関わっていたとされるね。
淀殿が側室が産んだ秀頼の子供を正室千姫の里である徳川家を憚って妹の初に養育を頼み
京極家に預けていたという説もある。
初や竜子と言った京極家の女性たちが養育に関わっていたならば、
竜子が国松の遺体を引き取ったこともうなづける。
特に竜子は自分が復興した菩提寺に国松を葬り、自身も死後は国松の隣りに葬らせるなど
血は繋がってないんだが強いつながりを感じる。
(現在は国松も京極竜子の墓も豊臣秀吉の墓である豊国廟内に移されている)
日本@名無史さん [sage] 2011/12/07(水) 16:46:12.02
竜子も国松の養育に関わってたとしたら、処刑は辛かっただろうな
彼女も十分に悲劇の女性だね
日本@名無史さん [sage] 2011/12/08(木) 22:23:55.51
初も可哀想だ
淀殿の悲劇や江は注目されるが初も波乱万丈だな・・・
四度落城経験してもなお生き残ってるっていうのも特殊だよなw
日本@名無史さん [sage] 2011/12/18(日) 01:16:34.13
西軍負けてたら東軍に寝返った旦那はただじゃすまんかったな
巷説と違い関ヶ原の頃は権力無かった淀だが妹の助命くらいは出来たろうから
本欄は尼になる程度ですんだろうけど
日本@名無史さん [sage] 2011/12/18(日) 01:17:21.64
× 西軍負けてたら → ○ 西軍勝ってたら
日本@名無史さん [sage] 2011/12/18(日) 11:26:47.95
淀殿は江戸時代から今に至るまでも悪く言われまくってるが、
生存説で比べたら千姫の方が酷い言われようなんだよな。
淀殿は一人の武士から求愛されて拒んで自害したとも殺されたともいう。
千姫は徳川将軍の娘であり姉であり、一時は敵方の正室になったとはいえ、
その後は徳川重臣の本田家に嫁いで往生したのに色情狂扱いカワイソス…
日本@名無史さん [sage] 2011/12/18(日) 16:22:08.67
でも千姫伝説を鵜呑みにした近代以降の歴史小説はないけど
淀君を昔ながらのイメージで書いてる小説との多いこと多いこと
日本@名無史さん [sage] 2011/12/18(日) 18:51:10.64

うん。でも、大阪時代は不倫したビッチとして言われるのに、
「貞操を守って死んだ」という扱いになってるのが興味深いなあと。
敗者なら、小西行長の母か妻がそうだったように、その後の人生も死に様も悪く捏造される。
敗者とは言えない千姫が、どうして悪く言われたのかは謎。
日本@名無史さん [sage] 2011/12/18(日) 20:13:51.96
大阪が落ちた後、千姫をさっさと再婚せたのは世間の同情を豊臣や千姫に集めないように
みたいな思惑が家康にあったかも?
まー何にせよ千姫の醜聞の原因は家康じゃなっ
日本@名無史さん [] 2011/12/19(月) 09:02:47.44
 
関ヶ原の戦いは、「平将門の乱」の焼き直し

ttp://park.geocities.jp/jpcdebate/0203/p039.html#page266

「平将門の乱」の砦は、豊田城だった。

( ttp://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p004.html )
日本@名無史さん [sage] 2011/12/19(月) 11:16:25.13

色香説は敗者・勝者関係ないような・・・
男性の主従愛を専門に描く男性小説家にとっては
女性の淀殿を頂点に頂く大坂方は全く以て不可解、
「淀殿の色香に迷い・・・」という以外に説明できないとしてそう描く
また、千姫の色香説は30歳で二度目の夫とも死別した千姫が
以降40年間も江戸で一人身を過ごす、「それは耐えきれまい」という巷説・・・
江戸時代以前の日本では女性もかなり性が大っぴらで再婚も多かった、
そのためにそんな説が生まれるのだろうけど。
日本@名無史さん [] 2011/12/21(水) 08:02:54.68
亜ナルをマンコと間違えたんじゃ?
日本@名無史さん [sage] 2011/12/29(木) 23:46:38.68

淀に限らず長年のイメージが染みついちゃってる人は多いね
ありもしない俗説をいつまでも引っ張られて嫌われるなんて…気の毒すぎる
淀が嫌いな人って長政とかも嫌いなんだろうか
日本@名無史さん [sage] 2011/12/30(金) 16:55:58.07
淀嫌いだから浅井一族皆嫌いみたいなこと言ってる人いたなぁ・・・・
そんなwwと思ったが
日本@名無史さん [sage] 2011/12/31(土) 16:14:31.39
ただの妄想だけど
伝崇源院像って実は茶々さんの肖像画な気もするんだよね
それなら着物に葵紋が見当たらず、織田&豊臣の家紋のみ、出家姿でもOKだし
茶々は出家してた可能性も捨てきれない
実際、研究者の間でも江ではなく淀か市のものではとも言われてるし、その2人なら多分淀だろう
日本@名無史さん [sage] 2011/12/31(土) 20:00:43.04

確かに、夫に先だって亡くなった江が尼姿というのが、どうもおかしいなと思っていました。
日本@名無史さん [sage] 2011/12/31(土) 23:47:06.07
ありえる話だと思う
伝淀殿像は江戸中期頃かに両親の肖像画参考に描きました!とも聞くしねぇ
ずさんすぎるだろw
だいたい浅井夫妻の肖像画すら写実性に疑問符付くのにな
徳勝寺の住職だかが描かせた長政の肖像は顔だけ見ると苛烈で別人のようだ
お市の肖像も無個性で様式美な感が否めないと指摘する研究者も多いからな



日本@名無史さん [sage] 2012/01/01(日) 02:57:27.97
養源院ってすごくだらしない点があるんだよ。
血天井と杉戸絵だけが大事なんだろう。

>お市の肖像も無個性で様式美な感が否めないと指摘する研究者も多いからな
自分は研究者でも何でもないけど、↑のような事をずっと言い続けてるw
日本@名無史さん [sage] 2012/01/01(日) 08:59:57.47
前にややツリ目でお市の肖像そっくりの室町時代かの能面の写真を見たことがある…
日本@名無史さん [sage] 2012/01/01(日) 20:56:05.20

同じようなこと感じてる人多いんだな
なんか能面に似せたような描き方で個性も特徴もないんだよなー

で、長政らの肖像画について気になって知らべてみたら、知恵袋で面白い回答を見つけた
詳しい方によると2人の肖像画は一般的な徳相(見栄えのする姿)として描かれてるそうな
つまりは桃山時代当時の(おそらく肖像画にする上での)美男美女様式っていう感じらしい
これが本当なら当然写実性は重視してないってことになるなw



日本@名無史さん [sage] 2012/01/02(月) 15:35:24.01
本人じゃないよ、な肖像
聖徳太子 姓名不祥の唐代の役人、日本人ですらない
源頼朝  足利直義
足利尊氏 高師直
武田信玄 畠山義続
他いたっけ?
日本@名無史さん [sage] 2012/01/02(月) 16:58:10.41
西郷さんもあんな濃い顔じゃなかったとか
でも伝頼朝像は美男。
この当時は戦国と違い写実的な似せ絵が主流だし、別人だったとしてもモデルは眉目秀麗な人だったんだろう。
武田信玄は実はヒョロかったんですよね。
謙信の肖像は江戸後期作成、宇喜多秀家の肖像は昭和後期作成とか想像画も多い。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/03(火) 23:25:48.75
「信長公記」に市が美人だという記述があるといってた人いたけど、どの辺にあるの?
聞いたことないんだが…
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 00:13:29.91
お市も浅井三姉妹もマイナー史料含め二次史料には美形記述かなりありますけどね
初なんかドマイナーな常高寺の史料にあったし


日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 01:02:51.58
突然すまんが、たしか秀頼らしき頭蓋骨って発見されてたよね?
顎がしっかりしてて、鼻が大きく(高く?)、目がパッチリ…ってヤツ
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 01:11:12.67
淀が一人だけ浅井家の菩提寺に位牌がないのも、家系図に名前がないのも、
やっぱりそういう理由だからなのかなあ…。
今更だっていいからせめて菩提寺に弔ってあげてほしい。

あと、秀吉が自分亡き後は淀を家康と再婚させようと考えていたという話は本当なのかな?
治長によって頓挫したらしいけど。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 01:31:04.39

そういうのを根拠に淀は信長と市のムスメ!なんてとんでも説を披露するのは
慎んでほしいよね。
とりあえず悪女イメージつくられたのも一因なんだろう。
淀は実家の浅井の名を大事にしていた気がするだけに不憫だ。
秀吉は家康と淀を再婚させようと考えていたけど、治長が淀を連れ去ったなんていう史料はあるが、正直しっくりこない
淀と治長密通説とかそういう方面でできたつくり話な気もする

それにしても秀頼の頭蓋骨は本人のものなんだろうか・・・
秀吉も肖像画見る限りでは鼻も目も大きいな。顎は細いが






日本@名無史さん [] 2012/01/04(水) 07:29:05.11

浅井長政の肖像画は美男じゃないだろw
繰り返し繰り返し「あの時代の肖像画は似せ絵じゃない。
似ても似つかない美男美女しか描かれない」と連投する人がいるが
徳川家康や豊臣秀吉が美男に描かれているとでもいうのだろうか。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 08:41:03.89

>秀頼の頭蓋骨
京都の清凉寺に改葬されたやつか。
首に介錯の跡があることから秀頼のものとされて供養されたが
見つかった場所が大坂城三の丸跡。
大坂夏の陣のときにはすでに大坂城は外堀を埋められ、
本丸とその背後の山里丸を残すのみになっており、
秀頼が内堀の外の三の丸で介錯されることはまずない。
死んだとされる山里丸からは人骨は発見されておらず、可能性は低いんじゃなかったか。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 09:42:31.33
外堀が埋まる前に、誰かそこで切腹したって事?身体の方は見付かったのかな?
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 14:05:31.39

でもテレビで長政像を戦国の美男の基準を満たしてる的な紹介してたの見たことあるよ。
歴史研究者(小和田さんとかもだっけ)にもいるし、おそらく父上を悪くは描かないと思う。
現代人の自分からするともう一枚の方が端正に見えるけどね・・・。
家康や秀吉はどの肖像画見てもそこそこ同じような雰囲気なのに引きかえ、
信長は有名なのとは似ても似つかん疲れ切ったサラリーマンみたいな顔の肖像画もある。
この当時は似せることよりも依頼主の思惑(威厳のある姿に描かせたい、とか)が強いのでは。
あと秀吉は自分の肖像画を恰幅よく威厳のある美男に描けと命令したとかいう噂があるよね。
どーりで首から下だけやたらどっしりしてるんだなあ。

でも肖像画については今でも色々と不明(写実性の高さetc)らしいんで、よく分からないというのが実情みたい。
だからここでいくら話し合っても結局は決着つかないんだろう。


自分も秀頼のものかは疑問だけど、若者の頭蓋骨なのは確かなんだよね。
それを調査した結果、耳が悪いとか。
秀頼が耳がわるかった証拠とか見つかれば面白いんだけどね。
馬の骨も近くで見つかったのだっけ。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 14:47:11.06
すみません、今さらなんですが
秀頼が秀吉の実子か?って疑われる要因って

@秀頼が秀吉に似ずめっちゃ大柄で、容姿も整ってた
A多くいる側室の中で淀殿だけ2回も妊娠

だけかな???
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 16:25:08.79

秀吉の肖像も美男、、、
四百年以上前の肖像画を現代的な感覚で見ても詮無きことなんでしょうな
宇喜多の肖像画が現代風イケメンなのも現代に描かれたから
もちろん今でも通じる美男美女って人もいたろうが、、、、、
日本@名無史さん [] 2012/01/04(水) 17:35:28.66

長政が戦国時代の美男の典型だとはとても思えんが。
この時代の美男とされる小姓などは色白で華奢だからね。
長政は巨漢であった浅井家の特徴をよく捕えた肖像画でけして美男像ではない。

ちなみに秀吉の一番有名な画像は秀吉の生前ではなく死の直後に描かれたものだよ。
妻のねねが夫をしのんで作らせた高台寺の木像も典型的な「サル顔」だ。
秀吉や家康の肖像画は何枚もあるがどれも同一人物が描かれたことは一目でわかる。
秀吉や家康が当時の美男の典型であった色白華奢に描かれたことは一度もない。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 18:16:25.69

当時の美意識なんて研究者やTV、本によっても見解バラバラだけどね
細身がよかっただの、ふくよかがモテただの真逆のことが書いてあったりする

浅井家が図体デカイ家系だったのは確か
亮政も大変な偉丈夫だったと伝わってるし、長政もそうだが、秀頼は遺伝というより巨人症説も浮上してるな
2メートル近い説が確かなら、遺伝にしてもでかすぎるもんな
個人的には秀吉もそれほど醜い容姿だったとは思わない
どっかの悪意のない使節が平凡な容貌だが眼差しが印象的、なんて述べてるし
ということで肖像画の話題はとりあえず終わりに・・・

そういえば秀頼と千姫に子供が出来てたら、どうなったんだろうなと最近思う




日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 19:28:38.53
秀頼と千姫に子供がいたら豊臣は滅亡を免れ…ないか
日本@名無史さん [] 2012/01/04(水) 20:55:26.32

美男美女というのはそういうことではなくて・・・
「浅井長政・市の肖像画が本人に似ていたか・全く似てなかったか」が問題。
日本史板に繰り返し「あれは典型的に美男美女図で本人とは似ても似つかない顔」
だと繰り返し書く人がいるんだよね。
当時は似ても似つかない典型的美男美女図しか書いてはいけなかったのならば、
信長も秀吉も家康も長政も同じ顔に描くだろう。
実際、似せ絵以前の平安時代などではどれも同じ顔だからね。
戦国時代の絵は個人の顔に特徴がはっきりある。
つまり、似せ絵だった(本人に似せて書いていた)ってこと。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/04(水) 23:40:34.30
769ですが…
長政の肖像画は似せて描いたんじゃなく、あえて優しそうな顔に描いたという印象を受ける
前にもいった徳勝寺の方はこの前初めて生で見たが、目つきが鋭いし冷たく対照的な印象を受けた
持明院のは娘が描かせただけに父親としての理想像でもある
とはいえ、全く似てないとは思わないが
体型や顔の輪郭なんかのおおまかな特徴は掴んでいても、顔の造りは夫妻ともよく似てるとはどうしても思えない
でもこれもあくまで一個人の意見だから、考え方は十人十色でいいはず

しかし伝崇源院蔵が淀殿のものだとしたら、色々と面白そうだ
淀の肖像は後世に親の肖像参考に書いたとも聞く伝淀殿像(着物の誂えも後年のものらしいし)、もともとは市の肖像と伝わっていた養源院のとか
確実なものは一個もないだけに
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 00:34:14.33

茶々は秀頼と千姫に子供ができるのを切望してたみたいで
秀頼が側室との間にもうけた息子を大坂城から外に出したんだっけ
なんか嫁の千姫いびって美人の側室息子の周りに侍らせたとかいうヒデー俗説あるが
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 00:56:39.47

千姫は、淀殿の姪だからね。
淀殿は、千姫の異母姉の完子を養女として育ててるし。浅井三姉妹の団結と浅井の血を残すことへのこだわりは相当あったと思うよ。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 01:33:54.62
浅井三姉妹って自分達を『浅井』の人間だと思ってたのかな。
それとも、『織田』の人間?
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 01:47:03.81
「・・・らしいけど」「・・・みたいだけど」って、
根拠となる史料もないままに現代人が創作したような言動の憶測の、
また聞きのような日常感情とかを受けて疑問をもつ奴って、馬鹿?
日本@名無史さん [] 2012/01/05(木) 06:40:54.97
浅井長政(デブ。)
長政の姉・阿久(28貫のデブのため嫁に行けず。)
長政の孫・豊臣秀頼(43貫のデブ。蒲鉾が好物。)
長政の孫・徳川家光(デブ。)
日本@名無史さん [] 2012/01/05(木) 08:26:57.34

鎌倉時代以降、肖像画は一般的には「似せ絵」だよ。
本人に似せて描かれている。
つまり、信長、秀吉、家康の肖像画の区別もできる。
「肖像画はすべて美化。本人には全く似ていない」という自論を出し、
自分の意見に賛同してほしくて、何度も何度も連投しているのだろうが、
一般的には同意できない。
「全く似ていない美化肖像であることに同意しろ」と躍起になって連投し続けるのはどうかと思う。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 16:39:38.90
790ですが、無論自分の考えを押し付けるつもりはない
全く似てないとは思ってないけど、「そっくり」とまでは思えないだけ
写真じゃないし、多かれ少なかれ理想化や美化はあるはず
姉も同じような考えでここに書込してるみたいだが、荒れそうなのでこれ以上は控えます


織田と浅井両方じゃないだろうか
ただ、意外と淀殿は豊臣の人間としても生きていたような気がする
秀吉を憎からず思っていたような


阿久って出家したとき6歳くらいじゃなかったっけ
寺伝によると大柄な女性だったのは間違いないけど
秀頼君は遺伝以上の問題がありそうorz
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 18:42:08.48
幼くして尼になったのに巨人だから嫁にいけなかった、と噂される阿久姫かわいそうだ
でもダントツでかわいそうなのは長政の母・小野殿だと感じる
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 19:21:07.58

阿久姫が巨漢すぎて嫁入りできず出家した・・・
というのは彼女が住職を勤めた実宰院に残る寺伝みたいだね。
長政の腹違いの姉で側室腹であったためにもともと政略結婚の道具ともされず
早くに出家になったのかも(ちなみに京極家へ嫁いだマリアは長政の同母姉で正室腹)。

小野殿は指を一本ずつ切り落とされた挙句に殺されたんだっけか。
この時代の女性は命を助けられることが多かったと当たり前に語られてるけど
浅井家の血を引く三姉妹も危うく同様になるところだったのかな。
実宰院には長政は当初敵である義兄信長に三姉妹を渡さず、
実宰院にいる異母姉阿久姫の託して城を落としたという寺伝があるんだよね。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 19:39:03.39

阿久姫は長政とは異母兄弟だったね
結局のところ長政の同母兄弟はマリアだけなんだろうか
小野殿は長政をみごもったまま六角氏の人質になって数年過ごしたみたいだし
小野殿の最期は悲惨ってもんじゃないね
指一本ずつ切り落として惨殺とかただのお母上にすることなのか?
嫡男である万福丸はともかく、長政も母親までとは予想していなかったのかな
三姉妹は市の血を引く女子だからなんとか助かると踏んでいただろうが、不安で姉に託した可能性はありそうだ
日本@名無史さん [sage] 2012/01/05(木) 21:20:13.39
只の信長の性分か、小野殿が家中で権力をふるっていたのかも。
微粒子レベルの確率でもしや信長の逆鱗を被るような言動があったりして。
一族の浅井亮親は信長の前で彼を罵倒しまくって青筋立てられ首討たれたという逸話があったので。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/06(金) 07:57:29.29

惨殺とまではいかなくても朝倉義景の母(養母?先代の正室)も
朝倉氏滅亡後殺されてたよね。
女性であっても城が落ちれば殺された例は結構ありそうだ。
信長は厚遇してきた義弟長政の裏切りにかなり激怒していたから
唯一生け捕りできた小野殿に怒りが集中したのかも。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/06(金) 15:37:20.76
ひとつ謎なのは長政が屋敷に火をかけなかったことだな。
敵に首を取られるのは当時の武士にとって屈辱なんじゃなかったっけかな。
だから金の頭蓋骨を披露される羽目になったのだし、、
日本@名無史さん [sage] 2012/01/10(火) 00:32:02.85
調べたら
「城兵の一命をお助けください。自分の首級は信長へ進上します」
的なことを長政(?)が織田陣営に伝えたとか。

※肝心のソースは武功夜話ゆえ保証はしない。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/11(水) 04:08:59.60
今さらに武功夜話を持ち出す勇気のある804
日本@名無史さん [sage] 2012/01/11(水) 17:19:05.32
武功夜話って真面目に偽書確定?
日本@名無史さん [sage] 2012/01/13(金) 15:27:44.96

逆に本能寺の変より以前、自害するときに遺体に火をかけた例がほとんどない気がする。
朝倉義景、武田勝頼、明智光秀、皆最期は自害しているのだが、
遺体は火にかけられず首級は敵方武将のもとへ届けられている。
たとえ晒し首になっても、その後は敵の首を丁寧に埋葬し首塚として供養するのが習わしであり、
遺骨を野ざらしの灰とする風習がなかったからかも。
墓に収まらずとも好いから敵に首を渡すな、というのは信長からの思考のような気も。

日本@名無史さん [sage] 2012/01/13(金) 16:49:55.36

偽書だけど
内容の真偽は不明
あからさまに後世書かれたような部分もあるけど、それ以外は今はもう残ってない
史書・記録の類を下敷きにしているかもしれない
ただし、歴史学では偽書の記述は採用されない
日本@名無史さん [sage] 2012/01/13(金) 19:45:43.85

そういえばそうだな。
浅井父子と朝倉義景の頭蓋骨はあの後どうなったんだろうか。
きちんと埋葬されてるならいいが。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/13(金) 23:43:25.11
偽書っていうか、各資料をもとに近世に創作された
ある一族の「物語」だと思ってる、武功夜話は。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/19(木) 11:20:31.30
ああ、武功って小説だよね。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/19(木) 16:26:49.86

関係ないが、頭蓋骨箔濃=密教の供養という最近の風潮に抵抗を感じるのは俺だけか。
阿古御料人の殺害方法からしても。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/19(木) 18:40:21.98

風潮と言うほど広く知られた説でもないような
日本@名無史さん [sage] 2012/01/21(土) 02:30:49.97
しゃれこうべの件は怨恨説の方が理解しやすいよね。
以前からのささやかな疑問なんだけど、お市の方が再婚後も『小谷の方』
の呼称のままなのはどうしてだろう。
これって小谷城主の後家呼ばわりで失礼だよね。
当人は嫌がったり拒否ったりしなかったのかな。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/23(月) 02:15:24.98
↑ 
信長長女の徳姫(五徳)だって、「岡崎殿」だろーが
お鍋の方を「小倉」と書いてる文書もあるぞ
日本@名無史さん [sage] 2012/01/23(月) 14:19:52.90
あの徳姫さんが「岡崎殿」と呼ばれ続けたと思うと複雑だ
十二ヶ条の訴状送ったのが真実かは分からないけど
日本@名無史さん [sage] 2012/01/23(月) 18:45:40.32

小谷ゆかりの浅井氏は織田を裏切った家だしね
日本@名無史さん [sage] 2012/01/24(火) 12:56:30.35

江戸時代に幕府から1700石も化粧料もらってた事で推して知るべし
事件が織田主導なら事実無根
徳川主導なら功労者と見なされてたって事だな
日本@名無史さん [sage] 2012/01/25(水) 02:25:08.29
個人的には徳川主導を支持するな
通説がいかにも胡散臭いので
日本@名無史さん [sage] 2012/01/25(水) 16:44:10.33
自分的に女性の密告の噂の類にほぼ真実は無いと思ってる
濃姫にしてもお市の小豆袋にしても、徳姫にしてもね
日本@名無史さん [sage] 2012/01/27(金) 23:59:11.15

とりあえず、濃姫やお市の逸話は江戸時代の創作だっていうのが、
今どきの通説なんじゃないのか。

徳姫の件だってそう。
逸話の展開があまりにも物語じみている。
日本@名無史さん [sage] 2012/01/29(日) 15:01:03.41
小豆袋は「朝倉家記」だかに登場するだけで、いかにも講談的な話だ。
研究者はほぼ否定してるし、去年の大河では投げ捨ててたしw
濃姫スパイ説についても創作という見解でほぼ一致してる。

徳姫も濡れ衣なのかもな。

821 [sage] 2012/01/30(月) 00:40:32.51

壬申の乱のさいの十市皇女にも
鮒寿司の身のなかに密書を詰めて父親方(後の天智)に漏らした云々の
伝承があるんだよね。この舞台も近江だし、
小豆袋のエピもそういう伝承を踏襲した創作だと思ってるよ。

濃姫の話は、完全に江戸時代の創作だろ。
載ってるのがその種の本だもん
822 [sage] 2012/01/30(月) 18:58:20.80
ああ、十市皇女の逸話からぱくったのか。
あれもおおかた後世の創作だけど。
小豆袋だったのは織田信秀が苦戦した小豆坂の戦いが由来だと思ってた。

しかし織田家がらみの女性にやたらこういったスパイ説が生まれるのはなぜだろ
日本@名無史さん [] 2012/02/01(水) 19:16:13.55

豊臣実質一代限りというのは、まさにその理由だと思う
徳川公方14人は紛れもなく家康からの遺伝子を持った人たちだったろうけど
ところで日本人の多くは朝家を1700年ぐらいの歴史を持つロイヤルファミリーとしてやたら有り難がるけど、
王権200年も1800年もホモサピエンス10万年の歴史からすれば、たいした違いには思えないんだが
五千年ぐらい前から勃興しては滅んで他にとってかわられた中国の各王家のほうが面白い
やはりBC〜というのとAD〜というのでは価値がだいぶ違うように感じてしまい、長く見積もってもAD3世紀後半からなんていうのは、あまりたいしたことに思えない
随分最近まで文字を持てなかった古代日本の後進性でイマイチ謎が多いぶん、三輪山の麓に誕生した王権がありがたられているように思う
戦国期、江戸期にミカドの私兵は殆どおらず、御飾りの時期も長く、現在の皇室の儀式も明治になってハクをつけるために新たに作られたものも多いときく
生きる人間文化財一族がひとつぐらいいることに反対はしないけどね
ただ価値はイギリス王室ともブータン王室ともそれほどの違いはないと思う

日本@名無史さん [sage] 2012/02/02(木) 08:39:31.88
わからんよ。
特に 江は希代の淫乱中出し好きの可能性が高いので、どこで誰のタネを仕込まれてるかわかったもんじゃない。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/02(木) 09:28:08.72
なんでそう思うの?
日本@名無史さん [sage] 2012/02/02(木) 10:09:55.85
そういう夢をみるお年頃なんだろ
日本@名無史さん [sage] 2012/02/03(金) 11:38:44.47
この時代遺伝上の父親が誰かを特定することはもともと不可能に近いが
まあ、スレの性質上江の話ではなく姉の淀の話をするスレなので
日本@名無史さん [sage] 2012/02/03(金) 17:43:03.09
秀頼って凄いよね
祖父が浅井長政で大伯父が織田信長で父が豊臣秀吉(と仮定)で、叔父が豊臣秀長・・・・
名将にならないほうがおかしいっていうメンバーだよw
日本@名無史さん [sage] 2012/02/04(土) 11:25:47.70
家光(忠長)って凄いよね
祖父が浅井長政で大伯父が織田信長で父が徳川秀忠で、祖父が豊徳川家康・・・・
名将にならないほうがおかしいっていうメンバーだよw
日本@名無史さん [sage] 2012/02/04(土) 12:09:03.12
そんなこといったら今川氏真も父は義元、祖母は寿桂尼、叔父は武田信玄の豪華メンバーだぞw
なのに戦国のファンタジスタ呼ばわりだww
日本@名無史さん [sage] 2012/02/06(月) 00:35:51.51
蒲生忠郷も凄いよ。
曾祖父は織田信長、父方祖父は蒲生氏郷、母方祖父は徳川家康。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/06(月) 12:09:40.48
真田信之と小松姫の息子達もある意味。
祖父は真田昌幸、外祖父は本多忠勝、叔父は真田幸村だもんなー
日本@名無史さん [sage] 2012/02/07(火) 13:50:17.78

氏真は再評価されても蹴鞠に限らず刀槍弓馬から歌学・史学・薬学に至る文武に渡る
天才的な多芸ぶりや内政手腕が評価されるだけで
「武将として無能」という絶対評価が覆らない
日本@名無史さん [sage] 2012/02/07(火) 17:13:39.11
もう最近となっては、「氏真の再評価を!」な発言も、
何を今さらwwwとしか思わなくなった。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/07(火) 18:24:57.51
まぁ彼はともかく、父ちゃんの義元はもっと評価されてもいいよな
日本@名無史さん [age] 2012/02/07(火) 19:27:22.50
 たんに血が濃くなると劣等種が出来るってだけじゃね
日本@名無史さん [sage] 2012/02/07(火) 20:08:31.95
氏真も今なら日本代表に選ばれて英雄になってたかもしれんな
日本@名無史さん [sage] 2012/02/07(火) 21:38:18.86
氏真好きだけどね。
辞世の句なんかいい意味であきらめてて。
「なかなかに 世にも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の咎にして」
これは何度聞いても切ないw
日本@名無史さん [sage] 2012/02/07(火) 23:26:27.89
ファンタジスタ再評価するなら斉藤龍興の方も見直してやってほしいな
前半生は暗愚かもしれんが、後半生の粘りはなかなか
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 08:53:31.48

徳川家光なんて血筋だけはご立派な苦労知らずのお坊ちゃんじゃん
三代目がクズなのは北朝鮮の金正恩を見てもわかるw
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 10:03:34.86
家光は、信頼できる部下が誰かは分かっていたようだ。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 12:33:45.83
部下が優秀な印象はある。
家光自体は暗君か名君かで議論が割れてるようだが。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 15:15:19.07
お江は、不美人説もあるから
これが本当なら、家光も忠長もイケメンなはずがないわな。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 15:32:51.45
肖像画を見る限り家光は家康にクリソツだ
徳川の顔といった感じだ
江は本人の美醜は伝わらないが母の市や伯父の信長が美形だから
隔世遺伝で遺伝子的には美男が生まれる可能性もあっただろうが
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 17:29:39.32
でも家光の兄弟の千姫、珠姫、忠長は一般的に美形って言われてるね
家光は色白で幼少期は容姿に優れなかったという話は聞いたことあるが
家康を尊敬してたみたいだし、あえて肖像画も似せて描かせてたりしてw
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 17:40:28.04
血縁にあるせいか家光と信長に同じ匂いを感じる。
・・・・・俺だけであろうか。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 18:43:41.62
家光と言えば男色がごく普通のことであった時代ですら
常軌を逸してると言われた男色狂い
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 20:11:16.70
最初に女性に興味示したのも尼さんだったっけ
中性的だから気に入ったと思うと、さすがは男色狂い

美男の甥(姉・珠姫の息子)にも手を出してたという噂もあるしな
日本@名無史さん [sage] 2012/02/08(水) 20:18:36.37
仮に秀頼が女子だったらどうなってたと思う?
日本@名無史さん [sage] 2012/02/09(木) 08:49:04.64

イケメンでホモでちょっとイカれた将軍
腐女子的には最高なんじゃね?
家光ってww
日本@名無史さん [sage] 2012/02/09(木) 09:10:01.13

秀頼が女子ならまず秀次は殺されてなかっただろう
それで秀次の長男と結婚してたんじゃね?
851 [sage] 2012/02/09(木) 11:21:42.38

その方が良かったよね
少なくとも秀吉があんなに狂わなかっただろう
秀次の殺生関白なんてモロ濡れ衣だろうし
日本@名無史さん [sage] 2012/02/09(木) 12:41:18.54
秀次はなかなかの教養人だったともいうしな
日本@名無史さん [] 2012/02/09(木) 19:39:57.73

それを言うなら鶴松が早世せずに無事成人してたらどうなったかな?
日本@名無史さん [sage] 2012/02/10(金) 01:24:17.10
それを言うなら石松丸が(以下略)
日本@名無史さん [sage] 2012/02/22(水) 19:40:34.57
上の方でもよく言われてるけど、巨漢とされている浅井長政の
具体的な慎重や体重って記録は残されているのかな?
個人的には肥満じゃなくてマイク・タイソン的体型なイメージがある。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/23(木) 13:12:35.26
長政の身長・体重を名記したものはないけど
・長女の淀殿が高野山に収めた父母の肖像画で巨漢に描かれている
・異母姉(阿久姫)、孫(豊臣秀頼)など血縁者に巨漢が多い
ってことじゃないのかな
日本@名無史さん [sage] 2012/02/23(木) 16:53:59.34
馬に乗れた人間は個人的に大したことないと思ってるけど
秀頼って本当に乗れなかったのか?
日本@名無史さん [sage] 2012/02/23(木) 21:42:43.08

仮にそれでも結局家康が天下取ってたように思えるのが不思議だなぁ
日本@名無史さん [sage] 2012/02/23(木) 22:31:16.38

家康は、馬に乗って、鞍に焼き味噌を作っているぞ。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/23(木) 22:43:55.99
焼き味噌w
あれをネタにされまくる家康が若干不憫だw
日本@名無史さん [sage] 2012/02/23(木) 23:15:00.18

誰かの息子ならどうなるって時代でもないし。
何しろ秀吉が関白になっちゃうんだから。
日本@名無史さん [sage] 2012/02/24(金) 23:20:29.93

ある程度の年齢の息子がいてきちんと自分の直属の部下を作ってれば
家康に直接対抗できただろう、って話じゃね?
日本@名無史さん [sage] 2012/03/01(木) 17:44:34.66

秀次といえば、秀次事件を扇動したかのように疑われてる淀が不憫でならん
この辺の歴史に詳しくないんだが、秀次とは手紙のやり取りしたり親交があったはずなのに
日本@名無史さん [sage] 2012/03/02(金) 12:52:09.43
何度も出てるが淀が政治的動きを始めるのは関ヶ原以降
つまり豊臣家を差配する人間が誰もいなくなって自分でやらざるを得なくなってからなんだよな
(かつては名将と言われたが隠居して政治軍事から離れて久しい叔父の老犬斎や、同じく叔父
で通説とは違って武勇にも優れていたが大封と無縁だった有楽、資質にも旗幟にも疑問のある
従兄弟の常真などの親族集、、わずか一万石だった且元などの小身などいないも同然)
なのに因果逆転させて淀が権勢を振るったせいで豊臣家から人がいなくなったみたいに書かれる
日本@名無史さん [sage] 2012/03/02(金) 13:47:44.74
自分が前に読んだ本にも権勢を振るう淀殿を嫌い諸将が離れていった…と当然のように書いてあったよ。
ちゃんと調べろよ…。
片桐且元は夏の陣後に謎の死を遂げてるが、あれは主君・秀頼の追い腹を切ったのかなーやっぱり。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/02(金) 13:52:05.32
老犬斎なんて「俺はもう疲れ果ててます」ってオーラバリバリの名前で隠居してる人間を
引っ張り出すのが間違い
868 [sage] 2012/03/02(金) 14:08:37.34
織田信包ってなぜか信長と違って温厚篤実だけど武将としては冴えないイメージがあった。
織田一門衆の中でナンバー3とは知らずに…ごめん。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/02(金) 14:10:08.46

まあ他に頼れる人間いなかったんだろう
一説によると淀にとっては物心ついてからはあまり会う機会の無かった実父や短い間しか
暮らさなかった勝家より、小谷落城から母の再婚までの平穏だった時期の庇護者である
老犬斎=信包こそが父のように存在だったらしいし
日本@名無史さん [sage] 2012/03/02(金) 14:20:44.30
記憶が乏しい実父や9ヵ月程度の付き合いだった柴田より
そりゃ10年も庇護してもらってた信包の方が身近だ
注目されないが、頼りにしてた叔父の急死はなかなかの衝撃だっただろう
日本@名無史さん [sage] 2012/03/03(土) 20:14:30.43
関ヶ原以前は豊臣家は天下様であり、五奉行・五大老制もあったから、淀の方が政治に関わる必然性はなかった。
関ヶ原以後は一大名に転落したわけだが、それでも天下様とて振る舞おうとする豊臣家の先頭に立ったのが淀の方だった。
秀頼のためか、自身の事も含めてかは分からないが、とにかく徳川に臣従する事だけは断固拒否を貫く。
そのため、一大名としての存続意見を持つ家臣や大名衆が離れる結果となったのは事実だろう。
秀吉自身が主君信長の家系を悉く屈服させて掴んだ天下人の座、故に、存続した信長の家系がこれ又皆小身なのは自明の理だ。
信雄・信包・有楽などは豊臣家に含むところはあっても忠誠など有る訳も無い。
そう思われているからこその彼らの待遇なのである。

生前の秀吉が徳川から千姫を迎える約束を取り付けたのは、正に大局眼で、仮に最悪、豊家が徳川の下風に立ったとしても、
家康・秀忠はそれぞれ、舅・孫婿にあたり、決して恥辱では無いし大義名分も立つ、高位も与えられるだろう。
徳川からみても、仮に天下を取る機が無かったとして、天下人の舅となり、次期天下人は徳川の血を受け継ぐ事となる。
両家にとっては良い事づくめの縁談だった。
関ヶ原戦勝後、徳川が約束を守って千姫を輿入れさせたのは、大きな政治的決断であり豊家存続の(一大名としてだが)重要な布石だった。
淀の方(強硬派)の政治的台頭は、秀吉や徳川の大局眼を無に帰してしまい、その結果、豊家滅亡となった。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/03(土) 21:39:59.75

信包は織田一門のなかでもかなり優秀な方だと思う
兄に似ず温厚な性格なのは事実っぽいが
日本@名無史さん [sage] 2012/03/03(土) 21:46:08.92

>淀の方(強硬派)の政治的台頭
で、淀が強硬派だったってどんな根拠があるの?
対面の儀を渋ったりとかの秀頼に危険が及びそうな局面以外で強硬な態度を取ったって記録はないんだが
日本@名無史さん [sage] 2012/03/03(土) 23:45:32.28

市と三姉妹の庇護者は通説では信包だが、否定的見解も出されてるらしいね。

実際のところどうなのやら。
大坂城における彼のポジションからしても通説支持者なんだけど。




日本@名無史さん [sage] 2012/03/04(日) 00:07:31.02

関ヶ原戦後の数年間、徳川からの備中等の豊臣家臣所領引き渡し要求黙殺
- これは片桐且元が徳川の摂津・河内・和泉国奉行となり、同じく備中国奉行の小堀遠州らと協力して、漸次、徳川に所領を引き渡した。
備中はもはや豊臣領ではなくなったからである。
慶長十一年には片桐が備中の豊臣家臣領58000石余のうち二万石余(藤堂高虎領となる)の所領を引き渡した。
元備中に所領を有した豊臣家臣(速見守久、青木一重、伊東長次ら)の大名衆が強硬派として戦に及んだのはこのあたりの事情がある。
他の豊臣家臣も、摂河泉以外に所領を持つものは同様の有り様となっていて、必然的に彼らは妻子家臣共々大坂城へ帰らざるを得ない状況だった。
片桐の暗殺未遂事件はこうした長年のうっ積した事が土台となっている。
彼らの代弁が出来そうなのは、将軍御台の姉たる淀の方ぐらいであり、担がれざるを得なかった。

徳川への証人差し出し(人質)拒否
- これは淀の方自身が本人の江戸行きを拒否している。人質として江戸に下るのは、徳川に臣下の礼をとった事になる
国替転封拒否
- 同様に拒否。大坂城を出て国替えを受ける=徳川による所領安堵で明白な主従関係となる
財政支援の要求
証人・転封拒否だが、徳川に財政支援要求して拒否されている(慶長二十年)
日本@名無史さん [sage] 2012/03/07(水) 10:28:18.75

強硬派には見えないな
徳川に刃向かうも怖いけど風下にも立ちたくないという優柔不断にしか見えん
世間一般のイメージとはまったく違うよね
日本@名無史さん [sage] 2012/03/07(水) 10:53:27.04
失礼ながら流れを止めて
方広寺の「国家安康」「君臣豊楽」が実は意図的、という説どう思う?
日本@名無史さん [sage] 2012/03/07(水) 11:14:08.13

世間一般のイメージだとヒスってタヌキ親父を討てと無茶振りしてるイメージだよなw
そして歴戦の武士である治長が茶坊主扱い
日本@名無史さん [sage] 2012/03/07(水) 21:41:26.17

徳川幕府に臣従拒否しつづける事自体、既にいつ討伐軍を差し向けられてもおかしくないよ。
小牧の戦後の羽柴家と徳川家どころじゃないくらいの差がついているのに、決して臣従しなかったのはある意味凄い。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/12(月) 12:54:09.91
幸村の、ゲームなどで形成されたイメージ(若くイケメンで温厚篤実・勇猛果敢)は
まんま木村重成に当てはまるね。
大野治長も含めて、もとから大阪方(秀頼家臣)だった武将達ももっと注目してもらいたいな。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/12(月) 19:27:53.36
木村重成のその人物像も講談によるものが多いらしいけどね。
まあ確かに大野治長も重成ももっと評価されてもいいと思うけど。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/13(火) 13:20:48.18
幸村に比べると毛利勝永の地味さが…
日本@名無史さん [sage] 2012/03/14(水) 22:38:00.54
治長「朝鮮帰りの俺のどこが戦を知らないんだゴラァ」
日本@名無史さん [sage] 2012/03/15(木) 21:31:38.66

幸村さんの作戦を言下に退けたからだゴラァ
日本@名無史さん [sage] 2012/03/16(金) 20:35:54.39

銘を撰文した南禅寺の僧が意図的にやりました、って白状してるんだよね
日本@名無史さん [sage] 2012/03/18(日) 13:27:14.33

単なる助っ人外人に過ぎない真田と豊臣家幹部の大野では立場が違う
真田たち浪人が戦を利用して指揮権をよこせ、秀頼の身柄をよこせと要求することで
豊臣が乗っ取られないようにするのも大野の仕事なんだよ
日本@名無史さん [sage] 2012/03/20(火) 20:32:43.43
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120320-00000385-yom-soci
秀頼最後の意地が見て取れる
日本@名無史さん [sage] 2012/03/20(火) 20:57:02.53

そのころ、秀頼、13歳なんだが。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/20(火) 21:12:51.44
秀頼の意地ではなく淀の意地と言う方が適切だろうに
日本@名無史さん [sage] 2012/03/21(水) 00:42:23.24
新たに大坂冬の陣の布陣図も出てきたね。
こういう発見は嬉しいな。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/24(土) 21:13:26.46
上で北政所が西軍よりだって話出てたけど、今度は淀殿が東軍よりだったと友達から聞いた
こんがらがってるんだけど、詳しい方解説プリーズ
日本@名無史さん [sage] 2012/03/24(土) 21:30:30.37
北政所の一族である木下一門は西軍に所属している。
家康は豊臣政権の一員としての大義名分に従って行動しており、秀頼をないがしろにするような行為は
関ヶ原までしていない。一方、淀殿が政治に関わるようになったのは、豊臣政権の官僚団が崩壊した
関が原後。関ヶ原までは家康による政治運営を淀殿が認めていたとしか判断できない。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/24(土) 22:47:20.34
単に親戚が属してただけて、北政所も淀も東軍西軍どっちにも荷担してないと思うけどね。
大阪城サイドとしては、家臣が勝手に仲間割れして戦争まで始めて、
豊臣の世はどうなってしまうのかと戦々恐々としていただけだと思う。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/24(土) 23:21:48.72

自分も最近そんな気がしてきた。
895 [sage] 2012/03/25(日) 00:14:25.40

逆に言えば、東軍西軍どっちが勝ってもイニシアチブを取れるように
画策しておけば良かったんだろうけどね。
でも8歳の子供&女達だけじゃどうしようもできないわな…
男達は皆どっちかに分かれてドンパチやっているわけだし。
中立派を作れなかったのが痛い。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/25(日) 08:50:36.82
前田利家が生きていれば…
日本@名無史さん [sage] 2012/03/28(水) 17:04:30.62
賤ヶ岳といい関ヶ原といいなぜ利家は天下分け目の戦いでいなくなるんだろうか
日本@名無史さん [sage] 2012/03/30(金) 16:56:02.36

関ヶ原は結局家康の天下取りに使われてしまったのは史実なわけで。
北政所や淀殿は「どちらか勝っても豊臣が主家」というスタンスでいただろうけどね。
戦後処理では信頼していた家康が豊臣の領地を奪い徳川の領地にするという暴挙に出たが
(徳川が一番豊臣のために戦ったという名目で)
これを武力で覆すこともできなかった
日本@名無史さん [] 2012/03/31(土) 14:24:41.60
>「どちらか勝っても豊臣が主家」
秀吉が亡くなった直後から二人は家康に譲歩を続け、関ヶ原直後から土下座外交を始めてるよ
その後の家康の秀頼を蔑ろにする様々な行為についても、二人は抗議すらしていない
義演准后日記・舜旧記・言経卿記など同時代の資料に載っているのは、
北政所と淀殿がひたすら徳川の要求を飲み続け、ただ秀頼の無病息災と豊臣家の存続だけを神仏に祈願する姿だけ
日本@名無史さん [sage] 2012/03/31(土) 14:54:33.37

なぜ、その路線を堅持できなかったのかね。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/31(土) 15:24:48.44
ちょっとスレ違いだけど信長死後の信包は一貫して秀吉に従順だよね。
何でだろう?
娘を側室に差し出しているし、改易された後も秀吉が死の間際に秀頼
の面倒を見てくれるように頼んでそれを引き受けてるし。
信長が在世時の信包の地位は高くて彼にも信頼されていたのに秀吉
が織田家簒奪している過程で抵抗している跡が見えない。
有楽は信雄についてたし家康側のスタンスだけど。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/31(土) 18:15:57.88
信包の娘の姫路殿が側室になったのって信長存命中じゃなかったっけ。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/31(土) 21:36:30.30
違うでしょ。信長存命中に娘を秀吉の側室にするどんなメリットがあるんだ。
日本@名無史さん [sage] 2012/03/31(土) 22:24:03.39

wikiによると「天正5年(1577年)の中国征伐の頃に豊臣秀吉の側室となる」
本能寺の変の前だな。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/01(日) 02:28:03.60
ええ!!!そうなんだ、知らんかった。サンクス。
どういう理由なんだろう。
906 [sage] 2012/04/01(日) 09:52:53.75
いえいえ
日本@名無史さん [sage] 2012/04/01(日) 10:24:32.04
淀は本当に、普通の女だったんだと思う。
徳川に対しては弱腰外交で、言われるがまま神社仏閣も建てるし、
戦いを避けようとするし、和平を結びたがるし。
世間に言われるような傲慢で徳川と争う気マンマンな姿は史料から見えてこない。
世のイメージと共通するのは我が子を溺愛していたことぐらいで、
歴史のキーを握るような人物ではなかった。
だけどそれじゃ創作は盛り上がらない。境遇的にもいかにもな材料が揃っている。
だから表舞台に引きずり出され、脚色が一人歩きして真実になってしまったんだね。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/01(日) 14:40:33.08
父親や兄や祖父母が伯父によって自害・刑死、母親と義父が自害、仇の側室、長男の死…
普通の女にしたくない材料が揃っとるな、たしかに
日本@名無史さん [sage] 2012/04/01(日) 16:57:46.50
あと、お江の気が強いので、きっと姉もそうに違いないと思われてたのかも。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/01(日) 17:24:03.00

あらためて書かれると悲惨なことこの上ないねw
上にも出てたけど淀の父方祖母の小野殿も六角氏で人質として暮らしたり、敵将の母親ってだけでむごたらしく処刑されたり凄惨すぎて・・。
この方も幸薄い女性だったなぁ。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/02(月) 21:32:04.21
>.906
出典不明でたらめOKのwik先生を根拠にあげられても・・・
日本@名無史さん [sage] 2012/04/02(月) 22:39:35.69
確かに姫路殿の件は信長死後の方が自然だからねぇ
かといって、その証拠もないんだが

仮に信長生前だとしたら信包にどんな意図があったのか分からんね・・・
まるで未来を先読みしてるかのような行動だw
日本@名無史さん [sage] 2012/04/02(月) 23:52:05.47


おっしゃる通り信長死後の方が自然なんだよね。
あの信長が自分の姪を秀吉の側室にする事を許すとは思えんし。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/03(火) 00:11:26.09
は自分も疑問なんだけど、どうなんだろう。
織田一門ナンバー3ともいわれる信包が秀吉に恭順しまくりだったのは気になるね。
仰る通り、北条の助命嘆願で秀吉の逆鱗に触れて改易されたりもしてるのに。

中国征伐前後で娘を側室に差し出した説なら、その縁で秀吉に恭順した可能性もあるか。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/03(火) 00:47:04.47

江の気が強いのは確定なのか
日本@名無史さん [sage] 2012/04/03(火) 11:36:05.46

>土下座外交
確かに京に住んでいた北政所は伏見城で多大な軍事力で睨みきかせる家康の武力に晒され、
家康の望み通り天下を家康に与えるために秀頼や淀殿との交渉役を買って出る代わりに
豊臣家存続を神仏に祈ることしかしていない(これも土下座外交ではないが)。
しかし、強固な大阪城に住んでいた淀殿がとても土下座外交していたとは思えんが。
実際、家康が秀頼に家臣の礼を取るよう命じた時には淀殿が
それならば秀頼を殺して自分も死ぬとこれを拒んだことは史料に残っている。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/03(火) 21:48:39.37


織田家での地位が高かった信包がもう少し秀吉に何らかの抵抗をしていれば
あそこまで織田家の急速な没落はなかったかもしれない。
まあこれ以上はスレ違いになるので辞めるけど。
日本@名無史さん [] 2012/04/05(木) 11:49:39.55
秀吉は父母と義理の父の敵、というのは当たり前のことのように言われているけど
柴田勝家とお市はともかく、浅井長政を滅ぼした責任者は秀吉でなく信長でないの?
当時秀吉は信長の家来に過ぎないんだし。

淀たちから見て信長は目上の人で批判し難いから
秀吉のせいにしているの?
日本@名無史さん [] 2012/04/05(木) 16:12:08.85

確かに浅井攻めの総大将は織田信長なんだが、
浅井家滅亡後、浅井家の領地をそのままそっくり貰ったのが秀吉。
木下秀吉(当時)は浅井責めの功労第一人者で、
淀の父浅井長政がいる本丸と淀の祖父浅井久政のいる中丸の中間を攻めて
両者を分断し、浅井家滅亡を決定づけた。
その功により信長から浅井家の領地北近江をそのまま貰って城持ち大名に出世。
淀たちが住んでいた小谷城には秀吉が入った(2年後、秀吉は長浜城に移っている)。
淀たちから見れば浅井が滅んだあとその土地と城をそっくりそのまま
乗っ取ったのが秀吉ということに。
921 [] 2012/04/05(木) 16:13:23.28
訂正
浅井久政がいたのは小丸。
木下秀吉は本丸と小丸の中間にある京極丸を攻め落として
浅井家を滅ぼした。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/05(木) 19:33:43.95

史実では淀たちが浅井家滅亡を秀吉のせいにして恨んでたかは分からんけどね
スレ違いだけど昨年の大河ドラマの「秀吉は仇」連呼にはうんざりしたわ…
なんであんなに秀吉だけを貶めるんだ、あの脚本
日本@名無史さん [sage] 2012/04/05(木) 20:55:54.61

何の史料?
日本@名無史さん [sage] 2012/04/05(木) 22:30:53.46
恨むのなら信長の方じゃないか?
総大将は信長で茶々達の祖母や兄弟を残酷な形で殺すように命じたのは彼だし。
秀吉はしょせん命令を受けた立場に過ぎないし。
まあ秀吉を「親の仇」にした方がドラマチックだからじゃない?
信長は叔父だし浅井家滅亡後の面倒を見て貰ったけど本当の所は恨んでんじゃないかなあ。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 09:03:15.69

「当代記」「徳川実紀」。
後世の編集による捏造だと言い出すかもしれないが、どちらも江戸幕府の公式記録。
当時の史料とはいえ政治中枢にいない坊主の日記に書いてないなら捏造というのも意味不明。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 09:07:05.05

茶々たちがどのような心境でいたかは本人記録の日記でもない限り分からない、
というのが結論。
大河や小説は所詮後世の創作なんだからあまり真に受け過ぎても・・・
茶々は織田家一族を庇護しているし、関係は良好だったのではないのかね。
しかも豊臣秀吉の側室になっている。
正直、4歳の時に死別した実父浅井長政よりも、
その後庇護してくれた織田信長や豊臣秀吉のほうを好意的に見ていたかも。
父母のために菩提寺建てたりしているから父が嫌いだったということじゃないけどね。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 13:58:49.36
信長は市母娘は信包に任せっきりだったようだけどな
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 14:24:31.47

信長&信忠自刃後、織田信包はすぐに羽柴秀吉配下に入っているにもかかわらず、
市は秀吉と対立する柴田勝家に嫁いでいるんだよね。
信包が市を勝家に差し出したのか、はたまた市はこの頃信包のところにいなかったのか?
市が浅井家滅亡後織田家に引き取られてから柴田勝家に嫁ぐまでの10年間、
史料が少なすぎて意外に動向がわかってないんだよね。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 14:27:02.56

市は信長が死んだ直後、他の男に嫁がねばならなかったところを見ると、
信長が庇護を与えていたということで間違いはないと思う。
信包は生きていたのにそのもとで暮らすわけにはいかなかったのでしょう。
父母を亡くした浅井三姉妹も本来叔父信包を頼るべきところ、
信包が引き取っているわけでもなし。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 14:57:08.19

もちろん資金面の面倒を見ていたのは信長だろうね
市と柴田勝家の婚姻話は信長が生きていた頃に既に出ていたという説もあるようだ
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 15:17:36.53

勝家と市の結婚を信長が承知していたかどうかは史料にはない。
少なくとも、市が嫁いだのは信長死後。
市は最初の結婚後、26歳で未亡人となり織田家へ戻っているのならば、
もし24歳年上の勝家との結婚話が信長存命中からあるのならば、
もっと早くに嫁いでもよさそうなものだ。
勝家と再婚したとき、市はすでに36歳。
一方の柴田勝家は60歳で市と初婚するまで他の妻の存在が確認されておらず、
(史料に勝家の妻や実子の記載が全くない)
勝家の妻が急死したので市を後妻に、という話でもないわけだし。
931 [sage] 2012/04/06(金) 17:10:54.54

うん、そうなんだけどね
『川角太閤記』に信孝が信長に市の再婚相手として勝家を推薦して
信長がそれに同意したというようなことが記されているらしい
先週くらいに調べて知ったんだが

ただ、あくまで一説というだけなので…
日本@名無史さん [sage] 2012/04/06(金) 23:57:44.88
現在残っている史料というか秀吉の手紙では彼自身が市と勝家の結婚
を斡旋しているみたいなんだよね。
信長は結局彼が生きている間は市を政略の駒として再婚はさせていないんだよな。
それが信長なりの妹への気の使い方だったのだろうか。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/07(土) 10:39:06.54

その記述が事実と仮定すると、その時は市が断ったのかな。
庇護者が健在な以上、彼女としては再婚する必要も無いし。


信長は意外にも身内には甘いからね。
後ろめたさみたいなものを感じてたのかもしれんね。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/08(日) 15:41:08.93

「川角太閤記」には面白いことが書いてあって、
三男信孝が市の再婚相手として柴田勝家を推したのに対して、
長男信忠はなんと市の再婚相手に羽柴秀吉を推しているんだよね。
秀吉が市に横恋慕・・・なんて俗説があるけれども、
これによればむしろ織田家側が秀吉を婿候補として期待したことになっている。
両者の意見に対して、信長の判定は勝家だった、と。
秀吉には信長も可愛がって手紙をやったりしていた正室ねねがいるため
ねねが側室格下げになるとあれこれややこしいことになると思ったためかもしれん。

「川角太閤記」が事実だとしても、三人の子息がかなり大きくなり、
信長が息子のために織田家を盛り立てる人材のことを考えてのことのようだね。
市の再婚は信長が言い出したことではなく、息子の側が言い出したことになっている。
信忠は織田家を補佐する家臣第一に羽柴秀吉を挙げ、信孝は家臣第一に柴田勝家を挙げた。
そしてそれぞれ姻戚関係を持とうと考えた時に適任だったのが市だったということなんだろう。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/08(日) 15:56:24.53

>信長なりの妹への気の使い方だったのだろうか

市の同母妹説があり信長が市同様に可愛がったと言われている犬は
当初佐治信方に嫁ぎ、夫戦死後、3年ほどで信長存命中に細川昭元と再婚させてるんだよな。
経済的には信長の庇護のもとにいることも可能であったであろうにもかかわらず。
市も再婚が可能であったにもかかわらず、持ってくる縁談を断ったんだろうか。
江と佐治一成の結婚(いとこ婚)、初と京極高次の結婚(いとこ婚)は
信長もしくは織田家が決めたともされているね。
(いずれも織田家近親者との親族婚であり、大河ドラマのように秀吉が決めたとは考えがたい)
長女の茶々の婚約者が誰であったのかが気になるところだが。


935 [sage] 2012/04/08(日) 16:34:41.21

市にはもしかしたら他大名との再婚話などもきてたのかもしれんね。
とはいえ、犬とは夫を亡くした時の状況が違うから(こっちは信長に滅ぼされたわけではない)
信長が遠慮して再婚話を持ち出さなかったのかもしれないw
日本@名無史さん [sage] 2012/04/08(日) 18:50:25.51

遠慮したから・・・というより子がいたせいかもしれんな。
市が一人だったら再婚していた可能性が高い。
普通は市が里の織田家へ帰ることはできても、浅井姓の子供は浅井家と運命を共にする。
浅井三姉妹は父が殺された時点で死ぬか尼寺へ入れられるかが普通だったろう。
しかし、三姉妹は死にもせず尼寺へも入らず、母方の織田家の厄介になって成長した。
そういう特殊事情があったと思う。
(犬は佐治家では子がなかったとされている(結婚の年には佐治信方の子2人はすでに生まれていたとされる)。
仮に佐治信方の2人の子が犬の子であったとしても、子は佐治家に残っており、
犬は夫の没後一人で織田家に帰ったことになっている)
938 [sage] 2012/04/08(日) 19:13:38.55

なるほど。
「川角太閤記」が事実だとして市と勝家との再婚話が出た時は、
三姉妹もある程度成長してて、ほぼ同時期に佐治やら高次やらに嫁がせる気だったのかもしれないね。
ただ、市の再婚が信長生前に実現してないということは・・・彼女が了承しなかったのかな。
三姉妹が嫁ぐのを見守るまでは、と考えたとか?
日本@名無史さん [sage] 2012/04/08(日) 22:41:36.98

気を使って再婚を勧めなかった、というのはむしろ逆かも。
千姫なども実家に夫が滅ぼされたが夫の死後すぐに再婚して幸せになっているからね。
夫の死後再婚せずにいることが市にとって必ずしも幸せなことではなかったということ。
織田家家中にあって織田を裏切った男の妻と言われ続けることは針のむしろだったかもしれない。
現在では浅井長政は朝倉との盟約を守り義を重んじて死んだ武士の中の武士、
信長は義弟すら殺す酷い奴、という言われ方をしているけれども、
実際には浅井は朝倉を裏切って敵対する六角と同盟していた時期もあり常に朝倉の盟友だったわけではない。
現に、浅井長政は生まれてから元服するまでずっと六角氏の人質だった。
浅井氏はただ単に朝倉などの信長包囲網が勝つと踏んで朝倉についただけだともされているし、
そうなると夫に判断ミスをさせ実家を裏切らせた市の責任追及を求める声が織田家家中で少なからずあり、
市が信包のところにいたのもそれを憚った信長が居城から遠いところに市を預けていただけとも思われる。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/09(月) 01:25:43.79
五徳も信長の所に帰らず信忠の元に身を寄せてたし。市の責任ってか信長 の元だと落ち着けないのかもよ?
日本@名無史さん [sage] 2012/04/09(月) 07:18:35.10

信忠は家督相続者だからむしろ徳姫を預けるのは普通。
父親の信長は先に死に(寿命がくればね)
結局徳姫を庇護するのは次期家督相続者の信忠になるでそ。
徳姫は織田家へ帰された後も徳川家夫人のままで徳川家から扶持を受けており、
(徳川家に信康切腹に関して何らかの後ろめたいことがあったか)
信忠のもとからも出て独立生計営んでたよね。

日本@名無史さん [sage] 2012/04/09(月) 10:46:48.88

再婚した方が幸せだったのかもしれないね。
浅井の妻と後ろ指さされることも無いし…
日本@名無史さん [sage] 2012/04/10(火) 01:00:02.01
信長は自分を裏切ったり歯向かわない限りは女性に対してはフェミニストだからね。
美貌で有名なお市の方だから信長存命中に再婚話は合ったと思うけど彼女が
断ったのかも。信長も無理いじさせなかったのかな。

>941
千姫は子供がいなかったからなあ〜。さすがに子供がいたら再婚までもう少し時間
があったかもしれん。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/10(火) 07:57:00.52

千姫と豊臣秀頼の間に子がいても普通は男子なら殺され、
女子なら尼寺行きだったのでは?
浅井三姉妹のように徳川家の庇護のもとで安穏と暮らせたかどうか。

徳川家康の母お大なども婚家と実家と不和になり実家に帰された際、
家康を婚家の松平家に置いて行かされ、すぐに別のところへ再婚している。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/10(火) 10:20:59.94
馬鹿な質問だけど、お市は出家はできなかったのかな
彼女が出家して菩薩を弔おうとしなかったのは長政を嫌ってたからだ…と曲解してる人を見たことがあるw
まあ多少は恨んでいたかもしれないけどね
日本@名無史さん [sage] 2012/04/10(火) 11:12:45.70
この時代の女性は夫が死んでも必ずしも出家してない。
二夫にまみえずで妻は夫が死んだら再婚せず出家になったのは江戸時代だよね?
犬、江、千姫、京極龍子、夫が死んでも出家せず。
北政所ねねも出家したのは秀吉が死んでから5年後で、
秀吉の死により出家したわけではないらしい。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/11(水) 08:08:55.17
戦国時代だと出家してから還俗して結婚した女性もいたみたいだし
僧侶と違って出家は曖昧かも
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 08:56:14.95
僧侶も曖昧
上杉謙信も出家後還俗だっけ
謙信が生涯独身だったのは元坊主だった為ではないだろうけど
有名どころでは室町幕府6代将軍足利義教や
足利義視(足利義政弟)は出家後還俗してるよね
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 09:19:31.89
> 夫が死んでも必ずしも出家してない
> 出家してから還俗して結婚した女性もいた

江戸期なら永光院がその両方
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 10:29:38.97
柴田勝家はもちろん過去に正室がいたんだろうね。
あの年齢まで独身なんて考えられないし、世間体も悪いだろうし。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 13:30:51.47
秀吉は正室ねねと結婚したとき25歳、利家は正室まつと結婚したとき21歳。
信長自身が16歳で濃姫と政略結婚しているのに対し、織田家家臣は割と晩婚。
柴田勝家が60歳まで未婚だったかどうかは分からないけれども
未婚だと世間体が悪いということも必ずしもなかったらしい。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 15:21:42.19
生涯独身を貫いた上杉謙信はよほど特殊だったらしく、記録に残ってるところからすると
柴田勝家も老齢まで未婚ならば記録に残ってても不思議じゃないけどなー
「佐野の方」だっけ、そんな名前の側室がいたという史料もあるようだ
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 15:36:53.67
戦国大名の上杉謙信と織田信長家臣柴田勝家では知名度にあまりにも差があるからな
勝家も最晩年のことしかほとんど記録にないので若いころから独身だったのかどうかも分からない

「柴田勝家公始末記」では勝家には佐野の方という側室があり二男一女を作っていたという
記述がある(市は勝家とともに死んだが、佐野の方は城を落ちた)。
ただ、この書自体江戸時代になってから福井藩士が書いたもの(同時代史料ではない)。
また、勝家には側室腹とはいえ2人の実の息子がいたのならばなぜこの男子を捨て置いて
甥(姉の子)を養子とし後継者指名していたのかが分からない。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 16:31:36.41
仮に正室・側室がいたとしても子供ができにくい体質だった可能性もあるね。
秀吉みたいに。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 17:28:20.51
・勝家は晩年に迎えた市以外に妻の記録はない
・後世、落胤の噂が流れたが勝家生前は実子を確認できず
(後継者は甥(勝家の養子)。また、勝家の娘がどこかに嫁いだというのも確認できず)

これ以上は無理じゃないかな。記録はないので。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 17:59:19.37
勝家にしてもそうだけど、敗者の史料って残らないものだよな

淀殿の兄の万福丸はやはり異母兄と考えるのが妥当なんだろうか
浅井家も敗者なだけあって正確な家族構成が不明なんだよなぁ
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 18:31:11.07
一般的に市が北近江へ嫁いだのは織田信長が美濃を征服した永禄10年(1567年)以降とされている。
尾張から近江へ行くには美濃を通らねばならず、これ以前では嫁入り道が確保されていなかったとみられるため。
となると、天正元年(1573年)に10歳だった万福丸は市の子ではない。

「信長公記」では万福丸が「嫡男」と書かれてあるが、市に男子がなかったので
長政が嫡男扱いしていたものかもしれない。
信長の庇護のもとで快適に暮らした三姉妹と、磔になった万福丸では同じ市の実子にしては差がありすぎる気もする。
江戸時代成立の「総見記」では万福丸は「下腹」と書かれてあり、市の子ではなかったとしている。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/13(金) 19:01:02.53
永禄4年説を唱えてらっしゃる研究者の方もいるね。
とはいえ、いまのところは永禄10年末〜11年説が主流かな。
万福丸の生母が市であったならば、彼も出家程度で済まされたのかもしれんね。
信長は実弟殺した時も、その息子(甥)は殺さずに厚遇してるし。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/14(土) 00:52:07.92
以前読んだ史料に書いていたが、信玄の息子勝頼と政略結婚させたのは
信長の姪で、確か信玄宛の手紙に勝頼の年齢と釣り合う娘がいないので
姪を養女にして嫁がせたいと書いていたらしいけど、ちょうどお市の方
が勝頼と釣り合う年齢だったのに何故か彼女を嫁がせていないと書いていた。
随分前に読んでうら覚えなのだけど、お市の嫁いだ年齢に関しては色々異論
があるね。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/14(土) 07:48:46.53

いくらお姫様育ちでも、戦国乱世の女性だし気が弱いとかあり得ない
日本@名無史さん [sage] 2012/04/14(土) 11:53:27.30

勝頼と信長養女の婚礼が進められていたのは永禄8年段階か。
微妙なところだな。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/15(日) 02:46:55.69

根拠は無いが「柴田勝家公始末記」という仰々しい題名からして
創作や伝承のはいった部分も多いような
史料としては曖昧なものの部類にはいる書のような気がする。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/15(日) 09:43:32.16

ああいうのって同盟結ぶ段階の前から「うちの娘どうよ?」とか交渉しないの?婚約期間も長いし
日本@名無史さん [sage] 2012/04/15(日) 11:07:20.79

永禄8年なら既にお市が浅井に嫁いでいたというより、
その頃には織田浅井両家の間で同盟締結に向けて動き出していたともとれるね。
日本@名無史さん [sage] 2012/04/30(月) 07:57:06.59
還俗ができるなら、是非とも長政次男(淀の兄)、秀頼の娘も還俗して
子孫を残していってもらいたかったなあ。まあそうは問屋が卸さないだろうけど。
「実は○○がこの人の子孫だと言われてるんだよ」という伝説もないのが残念。
次男は生きてたけど、淀達と会ったりしたことはあったのかな。
妹が数奇な運命を辿っていくのをどういう思いで見ていたんだろう。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/01(火) 10:49:35.00
青岳尼ほどの出自と混乱の時代背景があるならともかく

豊太閤の孫娘として知名度もありすぎ、
かつ家康の庇護と寄進も多く受けて、
昔より寺格も高い東慶寺の住持になるを見据えられて仏門にはいった
天秀尼がそうそう還俗できるわけないじゃん・・
日本@名無史さん [sage] 2012/05/01(火) 19:45:30.10

長政次男って良質の史料には登場しないんだっけ。
いたとは思うけど…。

子孫といえば、平民宰相こと原敬は浅井氏の血を引いてるんだよね。
日本@名無史さん [age] 2012/05/02(水) 00:55:25.34
ずっと子供が出来なくて種なしと思われていたけど
50過ぎになって子供が出来たっていうのは
カエサルもそう(生んだのはクレオパトラ)。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/02(水) 21:31:17.13
カエサルは二十代の時に最初の妻との間に長女ユリアを儲けているが・・・
カエサルは種なしじゃなくて種が薄いだけだよ
ユリアが若くして亡くなっている所為かクレオパトラとの子しかいないように思われているけどね
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 02:47:00.14
秀吉にも、長浜城主時代に、石松丸(秀勝)が生まれたという説がある。
市、江は多産系だから、淀も多産系で妊娠しやすかったということも考えられる(初はなぜかだめだったが。)。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 14:09:38.87
秀吉が長浜城主時代に一男一女を授かった説はよく聞くけど、信憑性はどの程度のものなんだろう。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 15:13:11.54
カエサルの娘はガチだけど、石松丸とその姉妹は確定ではないんだよな
ちなみにクレオパトラの息子はカエサルの息子じゃない説もある
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 15:30:58.93

秀吉が主君信長の実子を養子として迎えた事実から、その時点では、実子が望めないとみなされていた。
おねの嫉妬心を諭す信長の書状からも、壮年期の秀吉がその道に励んだ事は事実だが、その結果としての子はついに生まれなかったと考えられる。
近江長浜十二万石の有力大名である秀吉に子ができたなら、同時代の確実な文献資料として残っているのが自然だが、それが無い事
もし子ができていたと仮定した場合、財力も持った大名秀吉が、これから嗣子をえる見込みが増えるにも関わらず、
主君信長が、勲功の将たる秀吉の実子相続を諦めさせるような養子縁組をするのは考えにくい事

などからして、一男一女説は信憑性が薄いとされる。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 17:51:57.35
「自分の家来のほとんどは元・織田家の家臣だから、彼らの忠誠心を確固たるものにするために
織田の血を引く者を後継者にしたい。でも他人に譲るのはムカつく。せめて自分が1から育てた子がいい」

秀吉の本音は、その辺りだったんじゃないかと。
つまり、必要なのは淀君が生んだ新生児であって、父親は誰でも良かったのかも。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 17:59:29.71
だったら母親が淀殿である必要はないんでない?
それこそ信長の娘の三の丸殿でいいじゃん
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 18:38:14.63
淀君が19歳で側室になった時に10歳そこそこだった三の丸殿ですね
うーん、どうでしょう
目の前に結婚適齢期の淀殿がいて、それでも幼い三の丸殿を母親役に選ぶでしょうか
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 20:50:23.87
じゃ、姫路殿は?
同じく信長の姪だが

そもそも織田家の血筋に拘るなら
母方が織田家の茶々よりも父方で織田の娘の方が良いだろ
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 20:53:00.57
織田の血関係なく
「どうせ自分は子無し。跡継ぎはお気に入りの愛人の子がいい」
って理由だけで良いだろう

現代でも金目当てですり寄ってくる妻の親族や自分の甥姪よりも
愛人の連れ子の方が自分を慕ってくれて可愛いってあるんだし
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 22:13:05.83
それなら秀次でも良かったんじゃ?ただでさえ少ない豊臣親族を削ってまで織田に拘らなくてもさー
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 22:34:38.78
織田に拘る理由はあるよ
卑賎の出の秀吉が自分の死期も豊路美政権を維持するには、どうしても高貴な血が必要だった
そして、織田系武将が大半を占める豊臣政権において高貴な血とは織田家以外有り得ない
それでこそ「秀吉は政権を織田家に返した」という名目が成立し、下克上の世を終わらせることができる
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 22:36:10.03
× 死期も豊路美政権を
○ 死後も豊臣政権を
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 22:46:55.88
ちなみに、姫路殿ではダメな理由は、父親が生存してるから。
織田家の人間を「天下人の世継ぎの祖父」にしちゃったら権力が強くなりすぎるでしょ?
あくまでも豊臣家の独裁体制の維持に拘って、さあ、誰を選ぶのが最善か、という話。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/03(木) 23:52:18.36

一男一女説は信憑性が薄いのか・・・サンクス。
それなら、あの石松丸の肖像画はなんなんだろう。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 02:25:23.89
織田家の血統に拘るなら三の丸だろ
鶴松はともかく秀頼の時は、三の丸も年齢的にOK
むしろ三の丸を秀頼の生母にすべきじゃん

淀は浅井家の娘であって、織田家としては傍系だし、
織田家の人間って意識は本人にもないだろ
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 06:46:00.62
ご縁なんだよ。
子供が産まれない=縁がないというんじゃなくて、子供が産まれるのは縁なんだよ。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 08:38:03.36
三の丸殿が側室になったのは秀頼が生まれた後ですね
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 11:04:13.15


豊臣の天下を続かせる上策はないものでござるか
ttp://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1329023073/
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 11:04:33.49
990
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 13:01:32.27
豊家よ永遠なれ
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 21:40:18.89
ああPL〜PL〜
日本@名無史さん [sage] 2012/05/04(金) 21:41:46.58
豊中よ永遠なれ
日本@名無史さん [sage] 2012/05/05(土) 09:33:30.70
庄内
日本@名無史さん [sage] 2012/05/05(土) 09:35:01.29
曽根
日本@名無史さん [sage] 2012/05/05(土) 14:54:09.00

石松丸肖像画というのはないよ。
あの肖像画の銘は本光院朝覚居士絵像。
所有する寺が本光院朝覚居士のことを豊臣秀勝だと公称している。
長浜時代の秀吉は豊臣を名乗ってなかったけどね。
史料的裏付けはなし。
日本@名無史さん [sage] 2012/05/06(日) 13:34:28.79
次スレ

豊臣の天下を続かせる上策はないものでござるか
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日本@名無史さん [sage] 2012/05/06(日) 13:35:59.77
長浜か
日本@名無史さん [sage] 2012/05/06(日) 15:16:32.95
千成瓢箪
日本@名無史さん [sage] 2012/05/06(日) 15:17:50.61
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