2ch勢いランキング アーカイブ

【勇猛】悪源太義平【果敢】


日本@名無史さん [] 2010/10/06(水) 21:12:50
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?)
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を
多いに語って下さい。

日本@名無史さん [] 2010/10/06(水) 21:51:51
帯刀先生義賢・・・
日本@名無史さん [] 2010/10/06(水) 23:10:10

ホモ退治
日本@名無史さん [] 2010/10/06(水) 23:14:33
↑15かそこらでやったんだろこれ(満だと13か14歳)。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/10/06(水) 23:23:03
それで子供複数生き残ってるのは大したもんだ義賢。
日本@名無史さん [] 2010/10/06(水) 23:24:55
あの悪左府を昇天させた帯刀先生を昇天させた鎌倉悪源太少年
日本@名無史さん [] 2010/10/07(木) 01:34:20
平治の乱の時、義平が佩用した「石切の太刀」は何処から調達したのだろうか?
日本@名無史さん [] 2010/10/07(木) 03:22:06
この時代の「悪」と現在の「悪」は意味合いが少し違うような気がする
日本@名無史さん [] 2010/10/07(木) 08:18:24
850年前の中二怖ぇぇぇ
日本@名無史さん [] 2010/10/07(木) 08:30:15
(少年)院卒の星w
天上天下唯我独尊    
湘南地方の族・ヤンキーの源流だぜ 夜露死苦www
日本@名無史さん [] 2010/10/07(木) 09:57:11

国道16号沿線じゃねぇ
日本@名無史さん [] 2010/10/07(木) 23:52:33
当時の貴族官人の子弟は京の教育機関で任官前まで教育を受けてたと思うけど
この源氏の御曹司は小学生くらいの年齢で東国に下っているので
読み書きは乳父母から習ったのかだろうか?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/07(木) 23:54:39

この人は生まれたときから東国だよ
少年時代に東国へ下ったのは親父さんの方だよ
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 00:48:47

文盲だった可能性高いね。
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 01:32:15
さすがにそれはないんじゃ。
鎌倉と源氏との関係は、頼義が平直方の婿に迎えられて以来のものだから、義平で既に7代目にもなる。
また、同じ鎌倉郡内の山内庄には代々源氏方の山内首藤氏が土着していた(同氏は平治の乱にも義平方として参戦している)から、この山内首藤氏あたりが義平の後見人として教育なんかも請け負っていた可能性は高いよ。
もっとも、義平が生来的に学問が大嫌いな性格で、
せっかく山内氏あたりがあてがった学問の先生との授業をサボりまくっていたとならまあありそうだがw
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 11:37:33
元木 泰雄 『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、日本放送出版協会、2004/12)

この本は参考になると思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 12:21:33
吾妻鏡1180年10月9日 戊子
大庭の平太景義の奉行として、御亭の作事を始めらる。但し合期の沙汰を致し難きに依って、
暫く知家事(兼道)が山内の宅を点じ、これを移し建立せらる。この屋は、正暦年中建立(990-995)の後、
未だ回録の災いに遇わず。晴明朝臣(安倍清明:921-1005)鎮宅の符を押すが故なり。

この「知家事(兼道)」が首藤山内兼道で頼信流河内源氏頼義以来の郎党で鎌倉在地豪族だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 12:24:15
大庭の平太景義は平直方の後裔で桶?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/08(金) 14:25:09
頼政に喧嘩売った時点でダメ。
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 15:03:41
義平の「石切の太刀」と頼政の「石切の太刀」は同一の物?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/08(金) 20:04:30

平直方は平貞盛の子孫、

大場氏(鎌倉党)は村岡五郎平良文の子孫(とされている)。

ちなみに桓武平氏の嫡流は貞盛流。

日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 23:39:20

その大庭氏は義平の親父義朝に乱暴を受けているのは可哀相w
日本@名無史さん [] 2010/10/08(金) 23:58:37
山内荘の成り立ちについて『那須系図』通家(みちいえ)の条によれば、
藤原秀郷(ふじわらひでさと=平将門の乱を討伐)の子孫の通家が1038年より以前に開発したようです。
荘の名称は通家の山内という姓に由来したものです。ただし、通家の子・資清(すけきよ)が主馬首(しゅめのかみ・注)に任官してから、
山内首藤(すどう)を姓としました。首藤は、秀郷流藤原氏の「藤」と主馬首の「首」をとったと伝えています。
日本@名無史さん [] 2010/10/09(土) 00:08:32
祖父為義、父義朝は京武者・官人であったのに対し義平は生粋の坂東武者。
ただし、弟・頼朝は堀川屋敷で生まれ育っているので京武者・官人のコースw
日本@名無史さん [] 2010/10/09(土) 00:22:39
叔父さんの為朝のことどう思っていたのだろうか?
為朝が伊豆大島に流された時、鎌倉に居たと思うのだが。
日本@名無史さん [] 2010/10/09(土) 00:35:50
頼朝が祖父か、せめて父ぐらいのセックスマシーンであれば河内源氏は断絶せずに済んだのにね。
義平は子孫のこしててもおかしくない年齢まで生きてるんだけど、平家の探索が苛烈を
極めたのか?
日本@名無史さん [] 2010/10/09(土) 01:05:09

大庭御厨濫行事件には、
相模国の両隣の豪族である三浦党と中村党との勢力争いも絡んでるみたいね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/09(土) 01:35:10

跡取りレースから脱落すると地方に飛ばされるんだよな
しかし地方に飛ばされた義朝少年は逞しく育ったのだ
日本@名無史さん [sage] 2010/10/09(土) 07:33:08

義朝第一の側近だった鎌田政清も首藤資清の子孫だよね。
日本@名無史さん [] 2010/10/09(土) 08:04:44

ちがうよ。
政子が恐かったんだよ。亀の前はそのいい例。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/10/09(土) 23:08:49
孫を静めるジジイ。
その嫡子の嫡子が曾我物語。

なんだかもう。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/10/09(土) 23:09:38
沈める、だな。ごめん。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/10(日) 08:28:12
朝長も波多野氏の元で松田で育っているから、相模育ちだよな。
義平とはちょくちょく会っていたのだろうか?
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 09:44:53
日本が古代律令国家崩壊期(摂関政治期)から中世封建制への移行期(院政期)は政治・経済の面からも
軍事貴族の台頭を促した。
地方に於いても国衙軍を編成指揮し(追捕使)「朝家の守護者」として常に中央の政治活動と連動している。
院政初期の京武者(軍事貴族)は受領としての指揮権・経済力を背景に在地豪族(初期軍事貴族の末裔である武士団)
と緩い主従関係を結び棟梁として軍事力を増大させて行くことになる。
受領・知行国制度は封建制への端緒であり、目鼻の利く京武者達はこの時流に乗ろうとし中央政界に食い込んで行く為に
子弟を派遣し地方進出・支配を強化していくことになる。
源為義は息子義朝が自分を飛び越えて受領になったことに驚き警戒したが内心嬉しかったに違いない。
鎌倉悪源太義平はその義朝が封建制を予見し生粋の坂東武者に作りあげようとした最強の息子であり忠実な手足であった。
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 09:53:41

子弟を派遣し地方進出・支配を
     ↓
子弟を地方に派遣し進出・支配を
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 10:57:27
陸奥守、武蔵守はおいしいポスト。
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 11:15:41
義平の父親義朝の絵巻物の肖像だけど大陸の騎馬民族(韃靼人)みたいに鼻が高いね。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/Minamoto_no_Yoshitomo.jpg

義平もこの系統の顔だったのかな?

日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 11:51:37

義平が生まれたのが永治元年(1141)、頼朝が生まれたのが久安3年(1147)。
朝長は頼朝よりも先に中宮大夫進に任官されているし、伯父の波多野義通も義朝とともに
在京していたようだから、朝長は生まれは相模としても実質的には京武者になるんじゃない?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/10(日) 13:23:15
義平の母親が身分が低いといわれているが、三浦氏の娘、もしくは朝長と同母で中級貴族の娘説もあるんだよね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/10(日) 13:27:24
なんとなくだけど、朝長は人の良い優しげな性格って感じがする。
だから
善源次朝長w
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 13:59:16
京都大番役は鎌倉武士で有名だけどその原型は保元の乱以前にもあったのかな?

日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 14:50:58
後年、頼朝が平家討伐後も鎌倉を本拠地に迂闊に京都に取り込まれるのを
拒んだのは父義朝、兄義平の目指したものを理解していたからだね。
石橋合戦に敗れてのち安房から上総に進軍出来たのは亡父義朝のおかげだし
武蔵入国時の三浦氏ら南関東武士の帰参は加えて亡兄義平のおかげでもある。
平家政権と一線を画す鎌倉殿は亡父亡兄の礎の基に成立した。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/10(日) 15:42:30

三浦女と遊女説でしょ
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 16:05:58
武蔵知行国主だった藤原信頼をバックに暴れまわるチンピラ。
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 16:13:18
義平って世田谷区祖師谷大蔵に住んでいたの?
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 16:26:50
>父義朝、兄義平の目指したもの

何を目指したの?
東国の武士政権?
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 16:35:13

集金じゃね?
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 17:45:56

旧大蔵省のとこらしいよ
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 19:34:59

Thanks!
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 21:12:49

マジレスすると八幡太郎義家。
源氏復興だね。祖父為義で大没落してたからね。
「武士の都」を目指したのは後白河の存在の強大さを実感してからだと思うね。
大江広元の献策である守護・地頭の設置からだろうね。
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 22:52:28
奥州合戦の狙いは源氏復権のデモンストレーション。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/10(日) 23:24:09
そう考えると北条市が桓武平氏貞盛流(上でも述べた直方の子孫)というのもあながち仮冒ともいえない気がする。
頼朝が源氏復活を目指したなら貞盛流平氏(桓武平氏嫡流)も同じことだろうから。
伊豆なら直方の根拠地の一つだった相模鎌倉郡のとも隣で近いし。
日本@名無史さん [] 2010/10/10(日) 23:59:17
河内源氏と平氏(貞盛流)の関係は頼義と直方女の婚姻、義忠と正盛女の婚姻
と八幡太郎義家とは因縁深い。
100年後の頼朝と政子の婚姻は象徴的であり頼家、実朝の非業の死は源氏の呪われた宿命
以外の何物でもない。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 00:25:01
義朝は河内源氏復興を焦ったのかな。
信西の息子に娘の縁談を持ち掛けるより清盛の息子と婚姻させてれば安泰だったのにな。
ただ保元の乱の勝者同士とはいえ方や公卿一歩手前と下野守じゃ釣り合わない・・・
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 00:57:47
焦ったといえば、本来は軍事貴族として清和源氏、桓武平氏以上の功績を持つ秀郷流藤原氏なんかも、この頃は内心忸怩たるものが有ったろうね。

そういう意味では承久の変は、藤原秀康にとっては秀郷流藤原氏が復権するラストチャンスと捉えられていたに違いない。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 01:07:06

巨大な利権の分配じゃないか。


どっちにしろ生き残りは、無理だろ。
信西の指針は、摂関家の力を削ぎ、院政の確立。
そうなると摂関家と関連の深い河内源氏は、遅かれ早かれ粛清される
運命にあるわけだし。
あの嫌がらせのような論功行賞の背景には、動員した兵力の大小だけじゃなく
信西の指針が関係していたんだろうと思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 01:15:34
秀郷流藤原氏は河内源氏以上に辛いね。
天慶の乱勲功第二世代の藤原千晴が安和の変で早々と清和源氏(満仲)に駆逐されてるしね。
たしかにハードルの高いラストチャンスだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 01:22:35

>巨大な利権の分配じゃないか。
これは現代人の解釈だね。
利を重んじる考えが義を重んじる考えを優越したのは江戸後期、
つい最近のことだよ。
歴史を論ずるには現代脳では無理があります。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 01:25:21
義平の方が関東独立志向は頼朝より強そう。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 01:29:38

最近の歴史学はタイムマシーンにでも乗って教えてるのかね・・・
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 01:31:46
信西は恣意的でなく法治主義だと思うんだがな。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 01:41:54

義経は愚か者で桶?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 02:12:20

清和源氏は、戦功で身を建てた氏族とは言い難いよな。
源氏は将門の乱(初代経基)にしろ、
安和の変(二代目満仲)にしろチクリ、密告によって摂関家から重用されていった一族だ。
中央軍事貴族とは言うが、
その実態は田村麻呂のような将軍然としたものというよりは、
裏で政敵追い落としや暗殺などに暗躍する、現代で言うならばモサドやKGBなど諜報員の方に近い感じがする。
実際源氏は、前九年役のように戦で自ら指揮を取ると、ろくな戦い方ができていない。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 02:31:15

さすが清和源氏は戦下手。
清原氏様様だよね。
後世の源平合戦も坂東平氏様様だからね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 10:33:15
朝日家に代々伝わる青葉の笛
無骨一辺倒ではなかったと思う
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 11:09:28
昔、子供の頃に読んだ「まんが日本の歴史」では義平は颯爽とした凛々しい若武者に描かれてたけど、
左近の桜、右近の橘はハイライトシーンだったな。
叔父さんを殺害してたことはスルーされてたと思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 11:32:10
左近の桜 右近の橘

あれフィクションらしいよ。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 12:27:35

何か根拠があんの?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 12:53:49
なんでも平治物語のそこの下りが、13世紀になって作り変えられた内裏の構造に依って書かれているのだとか。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 13:40:13
義平17騎って謂われてるけど各々若等所従を引き連れてるから総勢100人ぐらいだったのかな?
当時の軍制はどうだったのかな?
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 13:51:45
なんか保元物語の為朝と被るね
為朝の場合は鎮西武者28騎だっけ
17騎にせよ28騎にせよ200年後の太平記の時代と比べたら極端に少ない。
源平時代は殿様・主人本人が中核戦力だったんだろう。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 14:55:30
承平天慶の乱は寛平延喜勲功者の内紛っであり、承平天慶勲功者は軍事貴族として
「兵の家」の家系を朝廷から認められるようになった。
刀伊の入寇撃退で有名な太宰権帥藤原隆家は剛勇であったとしても「兵の家」出身ではないし
「道長四天王」の一人藤原保昌は武勇の者であったが「兵の家」の出身ではないので
軍事貴族・武士ではない。
藤原隆家の次男水無瀬大納言経輔の5世孫藤原忠隆は鳥羽院の近臣として武の道に秀でていた。
しかし、この人の息子があの信頼なんだよな・・・
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 15:05:19

漢らしいね。
戦後、美味い汁を吸う奴が、自ら手を汚して最前線で戦う。
後世の奴等とは段違いだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 15:39:07

「兵の家」の家系は良い意味悪い意味、特権だね。
このシステムだと男系で家系を継ぐわけなんで母親は誰でもいいんで兎に角
子供を沢山産まして戦力UPを図っていたいたわけだね。
家督相続はこの時代嫡男単独相続じゃなかったみたいなんで所領も増やさなきゃ
なんないんで大変だったろうな。早死に討死にもあったんでそうでもなかったのかな?
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 15:42:21

そうなんだよね。
武の家の生まれじゃなく、
文の方の生まれでも、清少納言の兄貴や、同じく清少納言のダンナだった橘則光みたいに武者的な性格の公家も結構たくさんいたんだよね。

これは誰のことだか忘れたが、
「あの者は兵の家の生まれでもないくせに、狩など殺生をしている。実に怪しからん」みたいなことを上級公卿の日記に書かれた公家もいる。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 15:47:50
藤原隆家は剛勇ではないよ
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 15:54:58
実戦部隊は大蔵氏だっけ
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 15:55:42
九州の武者
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 16:03:29

藤原保昌の妹が源満仲の妻になってるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 16:15:20
九州の武者と言えば大蔵系以外で原田、菊池、豊後大神氏・・
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 17:32:20
義平17騎は象徴的な表現で相当多数の軍勢だったと思う。
17騎の一人上総広常なんか相当の勢力を持ってたし武蔵七党や三浦しなんかは
小豪族なんかじゃないな。
平治物語は物語として読んだ方がいいかも。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 18:00:21
急場の合戦じゃ郎等は呼べんよ
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 18:03:07
17騎は悪源太義平に拉致られたのか・・・
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 18:44:18

内裏は身分が無きゃ入れないんじゃ?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/11(月) 18:54:54
つ 超法規的措置
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 18:55:21
>義平17騎は象徴的な表現で相当多数の軍勢だったと思う。

逆に寡兵の象徴とみるほうが順当でしょ。
物語以前に現実の時間軸を見ても大動員は無理。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 20:16:16
平家は重盛の500騎と新手の500騎と六波羅守備隊が居るから総勢2000騎は居たかもね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 22:42:52
保元の乱の清盛勢がおよそ300騎
の言うように急場の合戦なんだからそれを大きく上回ることはない

まあ、物語の話をするのなら2000騎でもいいけどね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 23:17:05
て言うことは
平治物語は源氏贔屓。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 23:28:02
義朝から坂東の義平に陣触が下知され近隣与党に伝達され急遽当主クラスがはせ参じた
と言うこたかな。
そして義平から「さあ これから京に進発だ。」と言われて東海道を昼夜駆け抜けて
2週間後に入京てな感じだったろうね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 23:30:03
源氏贔屓というより軍記物語自体の性格に
「敗者への鎮魂」ってのもあるらしい。
元木さんの本にも書いてあったと思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 23:41:14
本来なら東国独立はこの人物によって…
頼朝は京都にいて朝廷とのパイプ役。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 23:49:30

「将門記」もそうだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/11(月) 23:50:29
いずれにせよ兄弟喧嘩になったと思います。
この一族は常に血で血を洗うって感じ。
どうして平家みたいにもう少し頭使えないのか?
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 00:34:31
実は新羅三郎義光以前は摂津源氏も河内源氏も内輪もめは少ないんだよね。
むしろ満仲、満季ら三兄弟の時代は結束が固い。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 00:46:58
新羅三郎義光ってゴミじゃね?
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 01:02:36

義忠は伊勢平氏との融和を図った名君だったね。
暗殺した義光は気の毒な頭脳の人。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 01:11:44
河内源氏の嫡流で通字「頼」は頼義以来、頼朝で復活してるんだよね。
頼家は八幡太郎再来の願いを込めて命名したんだろうね。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 05:57:56

> 「兵の家」の家系は良い意味悪い意味、特権だね。
> このシステムだと男系で家系を継ぐわけなんで母親は誰でもいいんで兎に角
> 子供を沢山産まして戦力UPを図っていたいたわけだね。

王朝国家体制期に入ると、
兵の家以外にも、明経道(儒学)とか明法道(律令法学)とか陰陽道(呪術)とか紀伝道(史学)なんかが特定の氏族(中下級貴族)によって家業化・世襲化されていったわけだど、
男系継承は兵の家以外のこういった分野でも同様のことだったのだろうか?
だとしたら日本の家社会が女系から男系に変化するのは、この職掌の家業化が起こったことによってなのかな?

> 家督相続はこの時代嫡男単独相続じゃなかったみたいなんで所領も増やさなきゃ
> なんないんで大変だったろうな。早死に討死にもあったんでそうでもなかったのかな?

だから親が早死にしたりすると、爺さんの養子に入ったりする。
蔭位の制によって、親の位階によって子供の任官や昇進は左右されるから、
親がまだ若すぎて位が低かったり、夭逝した場合はそれなりの位を持つ祖父の養子になった方が得だったりする。
平貞盛の弟・繁盛は天慶乱の勲功にあずかれなかったらしい。
それで繁盛の息子達は勲功を賜って五位(以上)に叙爵された兄・貞盛の養子になることで蔭位の制の適用をうけたのだ。
所領についても五位以上だと国から位田が支給されるからね。



99一部訂正 [] 2010/10/12(火) 06:05:44
>それなりの位を持つ祖父の養子になった方が得だったりする。



>それなりの位を持つ祖父や伯父などの養子になった方が得だったりする。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 07:19:01

為義は形式的には祖父義家の養子だったと言われてる。
実父義親は謀反を起こし討伐され、叔父(2番目の養父)義忠は暗殺されている。

しかしどうしても疑問が生じるのは義忠には実子義高が居るし、何よりも同腹の
長兄義信は養子に入らずとも為義よりも官途が好調で従四位下左兵衛佐まで昇進
している。為義による河内源氏家督相続は孫の頼朝による捏造の可能性が高いね。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 07:39:18

家業を持った「家」の出身者は安倍晴明のように母親が狐でもいい訳だ。

義平の母親がどうあれ「兵の家の子」って事が重要だったんだろうね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/12(火) 08:17:33

なんでこんな奴の子孫がそれなりに栄えちゃうんだろうね。

なんか無情を感じるなあ。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 09:31:29
佐竹に武田、小笠原w
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 10:57:43

義光って言うと笙の話とか後三年の役とかのイメージでしたけど。
それ以後の話を聞いてビックリしました。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 11:12:36
河内源氏の家督がよほど欲しかったんだね。
祖父頼信、父頼義がかなり財産貯め込んでいたんだろうね。
義家が恩賞を私費で与えたり朝廷から荘園没収されてもかなり残ってたと思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 12:09:54
頼朝が自分の地位を相対的に上げるために義平の母を遊女としたとかは?
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 12:24:48

ありえますね。
歴史は勝者の記録ですから。
今と違ってあの時代は家柄がすべて。
平治の乱で源氏が勝つてたらどうなってたんだろう。
義朝は軍事的には優れていたけど、
政治の技量はある様に見えない。
まあ血で血を洗う抗争でしょうな。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 14:09:40
義朝の目指していたものは河内源氏復興と同時に嫡流簒奪だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 14:11:23
すでに河内に地盤が無いのによく頑張った。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 14:57:48
義時の子孫はどう思っているでしょうか?
家督は継げなかったけど、
壷井八幡宮の宮司さんらしいです。
去年行って来ましたけど、良い所でした。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 17:37:28
河内源氏の先祖伝来の本拠地でと言うのであれば義時の子孫の石川源氏が正当であるが

嫡出子の系譜で考えれば義家から家督を相続した義忠の子孫が正当と考えられるが義忠の嫡男

経国はなぜか義兄の為義に家督を譲ったことになっている。 

幼くして実親を亡くすと義兄や叔父に好い様にやられてしまういい例だな。

その後、経国は叔父義国に坂東に連れて行かれ義国の家人同然にされてしまうんだな。

経国の没後、家督は弟義高が継ぎ母方の伊勢平氏の背景もあり従四位下左兵衛権佐まで

官位を進めてるんだな。

義高の系統は平家滅亡で散位となるが子の義成は後鳥羽上皇に近侍し従五位上河内守となっている。

河内源氏の嫡流は義高の系統なんだな。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 18:06:22
最近の研究では義朝と清盛の実力は対等ではなく、清盛は公卿一歩手前でそれなりの力はあったが義朝はやっと宮廷社会に入り込んだばかりでさほど実力はない。義朝は信頼に従属的立場。勝ったとしても実権は信頼が握り、義朝は信頼の僕のままだっただろう。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 18:14:55
それから弟の朝長、頼朝が任官し従五位になって貴族身分をえているが義平はそれらを得ていない。
母は遊女ではないかもしれないが、二人の弟の母方に比べると都における立場は弱い家の女性だったかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 19:25:53
河内源氏の嫡流は義高ってことだね。
だけど実兄経国の嫡男はどうして河内じゃなくて稲沢盛経って名乗ったんだろう?
義国の圧力かな?
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 20:11:12
当時は名字は住んでる場所を表すことが多いから(今でいう名古屋のおじさんとか大阪のおばさんに近いニュアンス)、稲沢を名乗ることに深い意味はないと思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 20:16:44

経国は義国に隷属してて体の良い義朝の同盟者にされちゃったね。
そういう意味で盛経は可哀想。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 20:19:04
叔父さんに連れて行かれる子は注意しなきゃね。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 20:21:42

うん。
当時はまだ名字は今で言う屋号のようなもんだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 20:56:38

だけどそこに深い意味があるんだよ。
義国は河内源氏の家督に執着してたからね。
その証拠に以前森羅三郎義光と合戦してるからね。
一番の後継者経国流を抑え込む必要があったわけだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:05:14

新羅三郎義光
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:11:24
河内源氏の嫡流とは何か、何をもって嫡流とみなすのか嫡流になるメリットというものは何かを誰か教えて?
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:14:42

前にも書いたけど頼信、頼義が遺した財産だよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:19:28
↑訂正 嫡流というより家督の意味。河内源氏の代々の所領はほとんどは畿内にあるし、代々の役職は諸国の受領。 義国と義光や義平と義賢がわざわざ東国で戦うのと家督の因果関係がわからなくて。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:23:30

家督を継げば財産継承権があるからね。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:26:48
ありがとうございます。では具体的にはどのような財産でしょうか?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/12(火) 21:26:51
途中で東国へシフトしたと
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:34:51
126
簡単に言えば香炉峰の館とそれに連なる機内の所領、河内守、陸奥守の受領、摂関家との関係
「兵の家」としての諸国武士への指揮権等です。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:40:36
補足
正四位下は義家までの極官ですがそれ以後、初めて父祖の極官を超えたのは頼朝(頼政は摂津源氏)です。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:43:32
いろいろとありがとうございます。
最後に教えて下さい。それらの財産はだれが相続したのですか?為義は結局受領になれませんでしたし、諸国武士への動員権はよくわからないですし。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 21:58:23

いいところに着目しましたね。
為義は実は家督を継承してないんじゃないか疑惑があります。
義忠暗殺後は所領は一族で分割されているんです。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:04:55
諸国武士への動員権は追捕官符に基づく国追捕使(受領の裁量権)と
私的には差し出された「名簿」。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:06:38
義家の死後、残った人たちそれぞれが嫡流を主張したのではないかな?
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:11:42
色々と教えて頂いてありがとうございました。これからもここをのぞかせていただきます。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:15:31

どういたしまして
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:22:02

それが実態でしょう。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:49:08
スレ違いですけど
壷井八幡宮の宮司さん以外に河内源氏の子孫っていますか?
後、摂津源氏と奈良源氏は?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/12(火) 22:52:10
喜連川さんとか細川さんとか・・
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 22:56:05

三軒隣の深見の爺さん。
本人がそういってるから。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/12(火) 22:57:59
奈良源氏w
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 23:28:57
義平の人生って何なんだろう?
幼い頃から坂東武者の虎の穴で育てられて19歳で平治の乱、京都に潜伏して
清盛の命を付けまわし、六条河原で斬首される。
その若い日々には恋も花もあったに違いない。
新田の姫君との日々も束の間の平穏だったのだろう。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/12(火) 23:39:56

少女漫画家にでもなってください
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 23:44:19
少女漫画家って侮り難いよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/12(火) 23:47:57

童貞のまま死んでください。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 00:28:01
義平の妻は新田義重の娘なのですが
この妻が京に上ってひそかに首を持ち帰り
新田荘に埋葬したと言われています。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 00:29:37
義平の妻は新田義重の娘なのですが
この妻が京に上ってひそかに首を持ち帰り
新田荘に埋葬したと言われているからです。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 00:37:32
この未亡人に頼朝は横恋慕するんだよね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/13(水) 07:43:39
未亡人の母親は誰なんでしょう
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 10:15:30
義平の未亡人は源(新田)義重の養女(京から迎えた)説があるね。
その母親は不明です。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 12:49:13
義朝流鎌倉源氏二代目w
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 12:54:33
義源太悪平
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 15:46:57
義平は坂東生まれだけど美濃の久津八幡宮に鶴岡八幡宮の御神体を勧進したり
坂東と京の中間地点の美濃国内各地にも義平の寄進状などの古文書が残っているから
10代後半の数年間(保元年間)は活発に東海道を行き来してたんだろうね。
美濃には義朝、義平親子が有事の際の連絡拠点を置いてたんだね。
平治の乱に敗れて都落ちで辿り着いた青墓の宿はその内の一つだと思うね。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 15:50:24

神社仏閣には軍事的役割があったことは謂うまでも無い。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 17:07:06

そのあたりを詳しゅうご教示願いたく
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 19:08:36
果たして平治の乱での避難経路に源氏方の神社仏閣が機能したかは不明ですが
後年の以仁王の挙兵では源頼政一党は自邸を焼いた後、園城寺に終結し延暦寺に
助勢を求めるが断られ以仁王を逃がし宇治平等院に立て篭もり自害している。
必ずしも宇治平等院が源氏方だったとは限らないが義平の例でもあるように日頃から
重要視している神社仏閣には寄進、勧進を怠っていない。
また、大規模な神社仏閣は神人、僧兵といった隷属的な武装勢力も保有していたのです。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 19:12:08
終結→集結
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 19:54:36
義平の時代、坂東と京の往来は東海道よりも東山道の方が主要道路だったみたいだね。
武蔵国から上野国まで東山道武蔵路が設けられていて諏訪から飛騨を通り美濃に抜ける。
承平天慶の乱で京へ逃亡する貞盛を追い将門が追撃した千曲川の戦いはこの経路上だね。
また、義平が平治の乱敗戦後に再起を賭けたのもこの経路上の飛騨だったのは
坂東との連絡上、戦略拠点だったことは興味深いね。
義朝一向が目指して落ち延びた美濃国青墓宿も不破関の東この経路上にあるんだね。
当時の東海道は行程距離も長く駿河の太平洋岸は湿地帯が広がり富士箱根は相当の難所だったそうだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 20:34:51
ならやはり鎌倉幕府のような政権は必然か
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 20:45:59

だとしたら義平が新田義重の娘と結婚したのも相当戦略的意味がありそうですね。
義重は上野の交通の要衝を押さえ込んでいたようですし。
頼朝がその娘に手を出そうとしたのもその関係か?
頼朝は最終的には東山道に強い地盤を持つ甲斐源氏を解体して、臣従させましたし。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 21:37:55
義平未亡人が頼朝の妻になったとしたら、彼女が正室になり政子は側室にされてしまったかも知れない。
家格は新田>北条だし当時とは北条はそんなに強大だったとは思えない。
もし、義平未亡人が頼朝の妻になっていたらその先の歴史が変わったかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 21:44:04
当時の関東は東部を除き北関東が先進地域だったよ。
例えば武蔵国の国府は現在の府中市で沿海部からかなり内陸部だったよ。
この時代は世界気候変動で所謂、平安海進期と言われていて関東平野は低湿地帯で
川越の氷川神社界隈は水運の集積地だったみたいだね。
南関東は利根川(当時東京湾に流入)の氾濫で荒涼とした地域だったみたいだね。
南関東では相模国が比較的安定した地域だったけど水田耕作には適してなかったみたいだね。
丘陵地が入り組んでいたので大庭御厨などの牧草地として利用されていたみたいだね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/13(水) 23:08:33
良馬と鉄の常陸
日本@名無史さん [sage] 2010/10/13(水) 23:17:38
義平には、相模の有力者三浦氏が、乳母関係でついているし、「平」という字から
烏帽子親は、相模西部の有力者中村宗平あたり?
相模の義朝の関係者が、これだけついていることを考えると、義朝一家内の地位は、
かなり高かったんじゃないかと思うんだが。

奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/10/13(水) 23:44:44
何をもって頼朝は頼朝と名乗ったのだろう。
日本@名無史さん [] 2010/10/13(水) 23:54:54
義平・朝長は義朝の字を一字づつ与えたんだろうが、
頼朝の「頼」の字はやはり頼信・頼義からだろうね。
頼朝こそ「嫡流」であるってことじゃないのかな。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/14(木) 00:45:24
「義」の字は?
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/10/14(木) 00:49:08
義家の直流。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/10/14(木) 00:52:19
義朝の子に範頼って説明付かねえし。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 04:11:30

範頼は藤原範季の猶子となっていたから多分その関係でしょう。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 04:14:01
為朝とどっちが上?
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 08:07:20
頼家は名前だけは鉄壁最強
頼信流河内源氏義家直系を明示させてるね。

もう一人名前だけ最強な人は義仲
清和源氏最初の棟梁満仲と八幡太郎義家からとっている
(親は幼少期に義平に殺されているので自分で)。

頼朝はなんとしても河内源氏嫡流を主張したかったんだろうね。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 08:23:12

義仲の兄に仲家というのがいる。
仲家は頼政の養子になっていた。
頼政の嫡子が仲綱だからこのあたりと関係はないだろうか?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/14(木) 09:16:36
義経は近江源氏・源(山本)義経にあやかったのれす
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 09:37:21
義経に烏帽子親は居たんだろうか?
名付け親も不明だよね。
「経」の字は清和源氏初代の経基にあやかったのだろうね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/14(木) 11:20:56

そもそも「頼」の字は、頼朝の叔父たちにも使われている。

だけど、頼朝が、息子に「頼家」とつけたことには、頼義が「義家」とつけて
以後、「義」の字を通字に舌のと同じ意味合いがあったと思う。

日本@名無史さん [sage] 2010/10/14(木) 11:32:24
wiki読んでいたら、自己解決。

父親の義朝は、藤原信頼と主従関係にあり、こっちから「頼」の字を
もらって「頼朝」としたと考えたほうが、自然だな。

これからすれば、頼朝のバツクには、当時の権勢家信頼が、ついている
ことになり官位の昇進の早さも説明がつく。


日本@名無史さん [sage] 2010/10/14(木) 11:48:48
なるほどー

道理で「頼義から」ではなんたか遠いと思った
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 11:53:18

結果論ではそうも言えるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 11:56:59
義朝って結構頭いいじゃん。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 14:01:24

地味だけど、為義とは比にならない
ただ清盛って天才がいたから。
オマケにこの時代源氏は仲悪いから、
天下とっても短命だったと思います。
親と清盛を見てきた頼朝は優秀だったと思いますけど周りの取り巻き「北条」が、悪かったね。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 15:47:54

たった3騎しか動員出来ない北条って
時政、義時、あと誰?
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 18:12:52
最近では政子は正室ではなかったという説まである。
(永井晋「鎌倉源氏三代記」)
それは大袈裟かもしれないがそういう評価がでるほど北条の実力や頼朝に対する影響力は実は弱いものかも知れない。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 18:24:36
↑他に正室がいたという意味はではなく北条の家格と実力が頼朝の地位に釣り合わず頼朝と共に夫婦の財産を管理する権利がなかったという意味で正室ではないということ。
政子の権威の源泉は頼朝の死後鎌倉殿の母であったことのみと言うことらしい。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 18:56:31
なんで身分の高い正妻を迎えなかったか。
個人的な問題か政治的な問題か。
女好きではあったはずだし。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 19:01:05
・公家出身だと武士に嫌われるから。
・千葉三浦みたいな大豪族だと勢力をますます拡大させて危険だから。
・政子が怒るから。
以上全て正解かと。
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 19:31:41
だいぶ前に歴史読本の源氏特集の号で、学者さんの寄稿したマジメな文章に、
鎌倉が源氏の本拠地なったのは、かつて「相模公」の居所だったからとあったのだが、
「相模公」って何者?
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 20:03:34
鎌倉景正の先祖、丸子公景か?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/14(木) 20:55:25
相模湖
日本@名無史さん [] 2010/10/14(木) 22:49:18

あなたは認知症の疑いがあります
認知症は治りませんが、進行を食い止めることは可能なケースもあります。至急専門医の診断を受けてください
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 01:27:35
大蔵合戦に義平は「参加していない」もしくは「向かっていたが間に合わなかった」説があるみたいだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 01:59:00

そんな説はない
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 02:13:50
このスレの上の方にあった「青葉の笛」の伝説
越前国穴場村朝日の里の村長、朝日助左衛門の娘、お光との間に女児をもうけたそうだよ。
義平はやがて生まれて来る我が子に「青葉の笛」を残して村をあとにしたそうだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 03:03:32
186
>相模公
なんてはじめて聞いた。
さがみのきみ と読むのか?

相模(相武)国造なら、出雲臣族の伊勢津彦命(=建御名方命と同一人とも)の子孫である漆部直(のちの相模宿禰)氏だしな。
しかも場所は鎌倉ではない。

鎌倉となると、日本武尊の子孫である足鏡別王のそのまた子孫の鎌倉別命あたりではないのか?

日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 03:30:18
皇別氏族は「真人」だったと思うけど。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 03:37:29
素朴な疑問
遊女に子供を産ましても何を根拠に認知するの?
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 03:52:53
セックスして3ヶ月くらい付きっ切りでいればかなりの確率で認知出来ると思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 03:58:47
お前ら童貞は口を挟むんじゃないよ。
女性本人が一番判ってるよ。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/15(金) 04:01:17

頼朝とそのブレーンは本当頭いいよな。
大豪族とは姻戚関係を持たなかったのもそうだし、
御家人の幕府の役職への任官のさせ方なんかも、
本家筋よりも分家筋の方をより要職に取り立てたりとか、
関東のパワーバランスを見事に図った上でのものにしてる。

まあそれでも源家は3代(実質2代)で滅んでしまうわけだが、
でもあそこまで見事なやり方じゃないと頼朝一代で滅亡した可能性だって高いし、下手すりゃそこを朝廷につけこまれて頼朝存命中に幕府自体が瓦解した可能性だって高かったと思う。

日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 04:08:49
和田義盛は三浦家の分家だからね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/15(金) 04:12:27

天武天皇以降はね。
それ以前の皇別氏族には真人姓でない氏族もたくさんいる。
関東なら毛野君氏とか。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/15(金) 07:43:42

政子の権威は頼朝には及びまくりだろ
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 08:20:31


しかも当時の東国には頼朝に代わりうる存在がたくさんいた。
武田、安田、佐竹、新田、志田など。
上で出ていたように為義が嫡流を継いでいなかったとしたら頼朝が彼らに対して血統的に優位にあったわけではない。彼らが自立したり頼朝に対抗しようとしたのはむしろ当然と言える。しかも頼朝は挙兵当時流人だったわけで。
そのような中武田の中から武田信光や加賀美長清を、新田からは山名義範を特別に厚遇して一族分解させたり、足利義兼や平賀義信を引き上げたりと好意的な源氏一族を作り、さらに奥州攻めで頼義の故事を再現し自分こそ頼義の嫡流と主張した。
そこまでしないと頼朝は自分の正統性を主張できなかったのかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 08:25:04

頼朝とすれば流人だった頃親の反対押しきって結婚してくれた(という話が事実だったとしたら)政子は無下にできなかったのかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 08:45:08
頼朝と弟たちとの関係も単純な兄弟関係だけで語ってはいけない気がする。
義経の背後には奥州藤原氏後には後白河院があるし、範頼の背後には院近親にして九条兼実家司の藤原範季がいる。
頼朝死後まで生きた全成には有力な関係者がいなかったかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 11:03:01
その頃は鶴岡はまだなかったはずだが。元八幡(当時の呼び方ではないが)か、岩清水ではないですか?
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 12:05:17
材木座にあった鶴岡若宮だね。この時代は。
正確には平家討伐後に頼朝が現在地に遷宮して鶴岡八幡宮となってるけど便宜的にいってるんじゃね。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 12:31:02

やっぱ義朝、義平父子の暴れっぷりが板東武者たちに頼朝をほかの親戚源氏たちとは別格視させたんじゃね?
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 13:04:58
義朝は廃嫡の危機にあったんで安房御厨を手始めに上総に勢力を扶植し上総介氏と
手を結び対岸の三浦半島の三浦氏、横山党を引き込み武蔵、相模に狙いをつけ南関東の
覇権を目指したんだろうね。
下野守任官前後からは北関東にも勢力拡大を図ってるね。
義平は義朝の在京中には忠孝に励み暴れまわってるからね。

だけど頼朝挙兵の進軍経路がこれに似通ってるんで義朝、義平を故事としたんだろうか?
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 13:13:33
実際、為義は京武者と化していて坂東どころか本領の河内とも関係希薄。
義朝は独自に鎌倉源氏を創始しようとしたんじゃないかな。

為義ってホームレス源氏棟梁?
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 17:42:47
義家の嫡流では義忠以降鎌倉との関係は薄いね。
宗家不在状態の河内源氏内で義朝は嫡流争いで優位に立つ為に頼義・義家の故事に倣い
鎌倉を手に入れたんだと思う。
頼朝は義朝の目指していたものを理解していたので鎌倉の地に拠して八幡太郎義家を神格化し
平家討伐にあたったのだと思う。
北条氏は頼朝の考えにいち早く気付き平直方末裔を仮冒したのだと思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 21:16:43
別国家を作っていたら?頼朝と違って、そういう考えにも抵抗は少なかったかも。
日本@名無史さん [] 2010/10/15(金) 21:34:58
頼朝や京官人らのアドバイスは必須かと。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 00:56:57
京官人と化していた為義は独自の所領基盤が弱かったので各地の豪族の娘に種を
撒き散らして勢力増強を図ったんだね。
婿入り婚なんで当然の如く子供は舅によって養育されるから省エネだしね。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 01:16:20
堀川屋敷って堀川牛蒡の堀川?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 02:02:15
義経が土佐坊に襲撃されたのが堀川だけどかつての源氏堀川館跡に再建されていたのだろうか?

どうして土佐坊(金王丸の後身)は主君義朝の忘れ形見牛若を躊躇無く襲撃することが出来たのだろうか?
もしかしたら常盤御前と面識のある土佐坊(金王丸)は義経≠牛若と見抜いてたんじゃないかな。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 02:24:56
義経が元服した場所は美濃国青墓宿だったらしい。
青墓の名の由来は朝長終焉の地で彼の墓があったからだと謂う。
義経は何を思って次兄終焉の地で烏帽子親も無く元服したのだろうか?
たまたま青墓宿で義朝一行の顛末を知り得た赤の他人の若者が牛若に成りすまし
義経と名乗ったのだろう。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 02:46:54
独立志向が有ったかどうか別にして義平が鎌倉に武家政権を樹立した可能性は低いとみます。
彼に野心が有ったとしても八幡太郎義家に倣い武家棟梁として武威を張るに止まっていたでしょう。
頼朝が武家政権を樹立出来たのも京官人大江広元の献策、守護(国追捕使)地頭(在地豪族旧在庁官人の統制)
の設置により日本国総追捕使の地位を手に入れたからに他ならないでしょう。
最近の歴史解釈での鎌倉開幕を1185年としている傍証でもあります。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/16(土) 04:57:20
義平では到底関東の諸豪族間の利害関係を調整したり、争いを収めたりして関東を一つにまとめ上げるのは無理。

義平はそれだけのバックグラウンドを持ってない。

日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 05:18:35
関東で諸豪族の争いに介入し調停するのは平将門の先例があるので例えバックグラウンドが有ろうと鬼門だろうね。
頼朝は京官人の法治主義を取り入れたからこそ成し得たんじゃないかな?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 05:28:03
先にも書いたように手段がどうであれ頼朝の代官として北条時政が1000騎を率いて
後白河院サイドに日本国総追捕使を認めさせた事に立法的・行政的根拠が有るからね。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 05:29:49
バックグラウンドの問題じゃないってことだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 05:44:16
もう一つ書くと頼朝には幾つかの顔が有ります。
武家源氏の棟梁としての河内源氏の嫡流、大納言右近衛大将としての公卿の顔、
征夷大将軍としての軍事政権、日本国総追捕使としての軍事・警察・司法権の委任者。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 05:52:09
まるで首相と大統領を兼任し最大与党を率いたヒトラーみたいだね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/16(土) 06:19:43

だから義平はそんな頼朝のようなバックグラウンドを持たないじゃないかってこと。
224間違い [sage] 2010/10/16(土) 06:22:49
アンカー間違えた



へね。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 06:55:38
それは院近臣が唱えていた法治主義って事。
頼朝は信頼一派が目の仇にして殺害した信西を反面教師として京官人大江広元を通して
取り入れてるってことだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 10:41:52
義平の武力・独立思考に頼朝の政治・行政手腕がうまくドッキングできれば…
平将門や平広常が目指した関東の独立がが成されたらヘッドにふさわしいのは義平しかない。
頼朝は後白河や兼実とかの個人はともかく、
総体としての京都への執着やあこがれは捨て切れていないからなあ。
まあしかし、後で摂家将軍とか迎えてるから他の武士たちも同じなのか。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 11:05:49
独立志向のことだと思うけど
義平の独立志向とはどこから出たネタ?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 11:16:59

> 関東で諸豪族の争いに介入し調停するのは平将門の先例があるので例えバックグラウンドが有ろうと鬼門だろうね。

だからといってノータッチというわけには行かないよ。
例えば相馬御厨奪回なんて千葉氏にとっては半世紀にもわたる累代の悲願。

だから上にあるように頼朝が日本国惣追捕使としての権限を獲得したことは本当に大きかった。
これがあったから千葉氏は、相馬御厨を頼朝の父義朝に蹂躙された経緯から、決して源氏に恩義を感じている家ではないにも関わらず、頼朝の下に馳せ参じることを決心したのだから。

そしてこれが出来たのは頼朝だけだったろう。

義平では、どんなに贔屓目に見積もっても彼は所詮は関東豪族のone of themであり、無理に諸豪族の争いに介入すれば余計に傷口を広げて、
確かに平将門の二の舞になったことと思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 12:25:55
総追捕使って総書記に似てるね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/16(土) 12:52:58
逆に征夷大将軍なる肩書きには一瞬しかこだわっていない
日本@名無史さん [sage] 2010/10/16(土) 13:00:31

逆に義平は、関東の特定の豪族の色がつきすぎていることが問題。
一方、頼朝は、無色透明に近い。

義平の場合は、相模では、三浦・中村、武蔵では畠山とのかかわりが深いし
実際に彼らの利害関係のために行動を起こしている。
とするとそれと対立する豪族とは、必然的に対立関係になり、義平をみんなで
担ぐことはできなくなる。

しかし、頼朝の場合、支援者は乳母関係のみで、流人。
流人だから領地も家来もないから、利害対立も抱えずに10年以上住んでいられた。
おまけに妻の実家も弱小北条だから、無視できる程度。
だから多少の不満や思惑はあっても、多数が担ぐことができる。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 14:03:26
征夷大将軍を拝命するときに帝から節刀を下賜されるのかな?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 16:17:03
朝長が生きてたら
義平、頼朝と絡めて
どうなってたかな
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 16:59:41
雷となってお前を蹴り殺してくれる!
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 19:12:43
義朝、義平は関東独立なんてこれっぽっちも考えて無いよ。
目指したのは頼義、義家の故事に倣い「朝家の守護者」としての武門の棟梁でしょう。
鎌倉を押さえたのも河内源氏嫡流を主張し正当化する為だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 19:20:41
だから鎌倉が河内源氏嫡流の証なんていうのが頼朝のねつ造なんだって
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 19:28:56
頼朝は為義まで遡ってねつ造してるからな。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 19:41:54

> だから鎌倉が河内源氏嫡流の証なんていうのが頼朝のねつ造なんだって

全くその通りだと思う。
さらに言えば、
頼信も頼義も、そして義家も、一部の例外を除いて坂東武者たちの棟梁になんてなっていないし、崇拝もされていない。

それらは全部頼朝以降の後付け。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 20:36:34
鶴岡八幡宮を造営遷宮して義家を神格化したのは頼朝だしな。

頼信、頼義、義家の河内源氏の本拠地は壷井香炉峰の館であり
その墓は通法寺跡にあるからね。河内源氏は忠義の暗殺で終わっていたんだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 20:42:47
頼義は前九年の危機の時に清原氏に名簿を差し出して助けて貰ってるからね。
河内源氏は棟梁どころか辺境豪族に臣従したのは事実だからね。
日本@名無史さん [sa] 2010/10/16(土) 21:36:02
一から頼朝が作ったの?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 21:48:14
原案義朝、シナリオ頼朝じゃね?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 21:54:54
相模公
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 21:58:00
義朝って意外と知恵者じゃね?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/16(土) 22:02:42
全国で源氏担いでたやん。
権威は相当だろ。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 22:21:30

河内の方ですか?
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 23:38:27
河内源氏改め清和源氏頼義流の権威はかなりあったろ。
そうじゃなかったら頼朝が流人になっても旗揚げできないよ。
為義
「日本中にバラまかれた俺の種
ガキ供とい〜〜〜い親友になりそうだぜ」
義朝もこのセリフが似合う。
日本@名無史さん [] 2010/10/16(土) 23:52:26
荒らすなよw
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 04:48:09

尾張以西の蜂起勢力
尾張源氏 満政流(満仲弟)
美濃源氏 頼光流

大和国 興福寺と東大寺
近江 近江源氏(義光流)と園城寺
若狭 在庁官人
越前 在庁官人
伊予 河野氏(源氏ではない)
筑紫 菊地氏他(源氏ではない)
蜂起した勢力全てが源氏を担いでいた訳ではないし、蜂起した源氏が全て頼義流だったわけではない。

また尾張、美濃、近江各源氏は都で官位をもちつつ在地に代々勢力を付着させていた経歴がある。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 05:24:41
ちなみに1180年に三河以東で蜂起して成功した勢力は
頼朝、義仲、そして武田信義・安田義定らの甲斐源氏である。
そのうち甲斐源氏は義光流。その頃には数代にわたって甲斐信濃にかなり勢力を張っていたらしい。
義仲は父義賢が上野に進出していた経緯があってそこに有力な地盤があった。
頼朝の場合は父と兄義平が南坂東に進出していた過去と、自らが少年時に従五位下の官位を得それに加えて母からの縁などで都への人脈を有していたというのがある程度の権威付けになっていたようである。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 05:37:53

その
>権威
が実際はどんな有り様のものであったかが重要ということ。

決して後世言われているような、
後三年合戦で私財を配下に与えたことにより、関東武士の心を掴んで云々
等というものじゃない。
関東武士においては、不安定であった自分たちの所領のより確実な保証先として、頼朝に白羽の矢が立ったということだけで、
決して頼朝の5代も6代も7代も前から
源氏が代々関東武士の上に主人のように君臨してきたわけでもなければ、
関東武士の方はその家来のように代々源氏のご威光にかしずき、平伏し、崇め奉ってきたわけでもない。

清和源氏内に於いては、
単に平家が朝廷での役職を独占し、専横の振る舞いを見せたことに対し、源氏の側の不満や鬱憤が頂点に達し、
平家専横政治へのカウンターとして河内源氏の中では最も諸条件を満たしていた頼朝に白羽の矢がたったという側面が大きい。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 06:23:43

前半部分はほぼ同意。
ただ後半の>清和源氏内に於いては、
以下には少し疑問が。

 のように蜂起したのは源氏だけはない。
各地で反平家の挙兵が起きた要因としては
・平家が知行国を急激に増やしその支配のあり方を失敗し、ただでさえ紛争を多数抱えている各国の在地豪族間の紛争をかえって深刻化させた。
・清盛が厳島尊重をするあまり宗教勢力の秩序が乱れ、寺社勢力の反感を買った。
・後白河法皇幽閉、関白基房失脚に追い込んだため彼等に関係の深い園城寺、興福寺の反感を買った。
・以仁王を抱え込んでいた八条院とその側近が反平家に回り込んだ。事実以仁王の令旨は源氏だけではなく八条院に仕える他氏族へも渡された。
などなどの理由がある。(他にもあったら教えてください)

そして蜂起した勢力は最初から全て源頼朝の配下にいたわけではない。
東国においても木曽義仲、武田信義は頼朝とは別勢力(武田は頼朝とは同盟的立場だったが)。
頼朝は南坂東を支配下に収めたのち、平家の勢力が強く及ぶ畿内から最も遠く、最大の脅威だった奥州藤原氏が中立でいてくれたため
治承寿永の乱の最終段階まで勢力を温存することができたという面も大きい。
その間に彼有数の政治力をフル活用して、官軍の地位を得て、義仲を討ち、平家を滅ぼすことができたということなのではないか?
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 10:08:56
で、鎌倉が「相模公」の居所だったから、源氏の本拠になったというのは、
どういうことなんだ?
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 10:49:11
頼朝はどうして急速に立場を固めることが出来たのか?
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 11:44:36

相模公なんて実在しませんよ。2ちゃんを真に受けてはいけません
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 12:34:12

後半部分も違ったことは言ってないと思うよ。

面倒臭いので間をはしょって最終的勝者である頼朝まで飛ばした書き方をしちゃったけど。

それと、平家と宗教勢力との軋轢や戦いでは、園城寺や比叡山や興福寺等の他に
水軍を擁する熊野三山の動向も無視できないものがあるね。
以仁王令旨を全国各地の源氏に伝えた源行家は、熊野新宮別当の元で庇護されていたわけだし。

日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 13:35:48
>間をはしょって最終的勝者である頼朝

その端折った部分が大事なんだよ。
その部分が近年の研究で見直され、源平合戦から『治承・寿永の内乱』と呼ばれるようなったんだから。
の言ってることはそうゆうことでしょ。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 13:50:32

あのなぁ、限られた一回のレスの中で、しかも清和源氏が実際に全国の武士・豪族の棟梁として存在していたかどうかを論じていたレスの流れの中でそこまで出来るかよっていうのw
テーマをそこだけに絞ったって膨大な量のレスを投下しなきゃなんなくなっちゃうだろ?

>その端折った部分が大事なんだよ。
その部分が近年の研究で見直され、源平合戦から『治承・寿永の内乱』と呼ばれるようなったんだから。

なら貴方が
>近年の研究で見直され
た成果を
>端折
らないで簡潔に述べてみてくれ。
頼むわ。

日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 14:17:48
なんでみんな義平をスルーすんだよw
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 15:05:20
元祖渋谷系は義朝の郎党金王丸。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 15:26:17
金王丸って
渋谷城の城主だったんだね。
義平17騎は全員殿様クラスだったとはビックリしたよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 15:36:40
騎馬武者は装備を賄うのも大変で辛いよね。
個人装備でも大鎧や弓箭、太刀、馬具それに馬も常時飼育してなければならない。
所従、若党、中間、小物、荷駄、兵糧、軍資金

挙句の果ては騎馬武者である殿様本人が中核戦力だし。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 16:27:14
熊谷直実なんて騎馬身分は自分だけ
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 16:56:36
渋谷氏は坂東平氏秩父党(中村氏)の出で、秩父牧の別当職に就いた平将恒を祖としている。
河内源氏との繋がりは将恒とその長男秩父武基は長元4年(1031年)源頼信による平忠常追討に功を
たてたことより始まる。
将恒と息子達秩父党は永承6年(1051年)から始まる前九年の役に従軍し将恒、秩父武常、小山田常任
らが討死にしている。
永保3年(1083年)から始まる後三年の役では秩父武基の子である秩父武綱が源義家の軍に従い
秩父武綱の弟河崎冠者基家が出羽国の金沢柵を攻略した功により、恩賞として武蔵国豊島郡谷盛庄を与えられた。
寛治6年(1092年)河崎基家の嫡子である河崎平三重家が源義家の上洛に従って内裏の警備をおこなっている。
堀河天皇より渋谷の姓を給わり、渋谷土佐守従五位下に任じられている。
渋谷土佐守重家は相模国高座郡渋谷荘も領有し、谷盛七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)
を本領として、渋谷八幡宮を中心に館を構築して居城とした。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 20:50:13
殿様同士がガチンコで戦えば話は早いよね。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 20:54:15
軍制・戦法は元寇を境に変わっていくとされてるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 21:28:46
北条時頼の「廻国伝説」の能楽「鉢木」では上野国御家人佐野源左衛門は
極貧の中で時頼をもてなしたんだよね。
それでも馬と装備は維持して「いざ鎌倉」に備えていた逸話だけど殿様は大変だったよねこの時代。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 23:17:10
大鎧は余りにも高価過ぎて代替わりで新調出来なかったらしいね。
何代にも渡って使ってるんで嚇し糸の色がチグハグだったりするね。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 23:33:23

> 平将恒

ってなんか平将門を彷彿とさせるな。
日本@名無史さん [] 2010/10/17(日) 23:35:25

そうかな?で渋谷金王丸が検証されてるように殿様(主人)の城(居館)には数十人が常時詰めていた
に違いない訳で、果たしてその人々が殿様(主人)を一人で送り出すかな?
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 09:30:48

確かに17騎=17人ではない。17騎X5(側周り)+αと見るべきだろう。
但し、戦闘全体の動員兵力を見るとやはり少ない部類に入るだろう。
新日本古典大系に所収の「平治物語」に従うと
信頼方 信頼直属300騎、義朝200騎、源光保300騎
平家 重盛1000騎、頼盛1000騎、経盛1000騎とある。
信頼方合計800騎vs平家3000騎となる。

この兵数は勿論実数とは考えがたいが、戦力全体の比率というように考えてみると
信頼方:平家 は1:3位と考えていいのかもしれない。

(参考までに保元の乱における兵数は新古典大系の「保元物語」では清盛600騎と記され「兵範記」に見る実働は300騎である。)

そのように考えるとやはり平家方の方が多数であろう。
仮に平家方の実働数が保元レベルの300騎だったとしてもその300騎の方も300人x5+αであるから
義平17騎X5+αは圧倒的に少ない兵力であるといえる。
また、信頼方の兵力を見ても義朝直属はその17騎を含めても構成比では全体の三分の一も占めていない。
(その人数も騎馬数X5+α)
なお、「平治物語」より信頼性が置けるとされている「愚管抄」によると
六波羅合戦開始直前の義朝の兵力は20騎程(義朝をその子供達も数に含めて20騎)だったとある。

そのように考えるとやはり17騎がプラスアルファ連れていたとしても少数であることには変わりはないと思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 09:35:13
↑訂正、20騎で六波羅に攻め寄せたのは「平治物語」(新古典大系)の記載で
「愚管抄」は六波羅脱出時に10騎との記載である。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 09:39:10
ちなみに実際の戦闘は「17騎を率いて内裏攻防戦」があったかも疑わしく、
義朝らは直ぐに市街地に出て(「「愚管抄」)六波羅合戦に及んだもの(「百練抄」)
と見られている。(元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」NHK出版)
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 09:45:41
なお、治承寿永の頃自分と息子と郎党一人レベルと言われている熊谷直実等と違い三浦義澄や上総介広常は騎馬武者を何人か連れてくることが可能だったかもしれない。
しかし、三浦はとにかく
当時の上総介広常は父常澄からの家督相続される頃とみられ(伊藤邦彦「上総介広常」『鎌倉幕府守護の基礎的研究』より)、まだ当主でなかったか当主であったとしてもその地位は安定していなかった可能性がある。
頼朝挙兵の頃のような圧倒的な兵力の動員はその当時困難だったかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 09:47:37

そう考えると平治の乱は合戦ではなくクーデター未遂事件だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 10:40:17

家が起こって第二世代ぐらいまでは、まだ産声をあげたばかりだから、一族発展のために兄弟結束していかないといけないからね。

藤原四兄弟も結束はすごく固かったけど、次の世代からは不協和音や足の引っ張り合いが始まる。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 12:13:09
平家一門は保元の乱後、清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介となり
兄弟で四ヶ国の受領を占め更に大和守に平基盛が任じられている。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 15:36:28
迷コンビ 義朝と信頼はどちらから誘ったんだろうか?
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 16:01:43
信西は後白河院政派なんかじゃなくて鳥羽院の遺命を守る立場で二条親政派との
権力闘争で後白河の謀略で抹殺されたんだよ。
二条親政派は平治の乱後にこれまた後白河によって粛清されてるしな。
義朝という暴力装置を持った信頼は後白河にとっては何時でも切れるトカゲの尻尾だった訳だよ。
極論すれば清盛は「(本当の)平治の乱後の掃討作戦」担ったに過ぎないんだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 16:19:59
クーデターなんだから目立つ騎兵を用意できない

そういや為義斬った波多野氏がショックで出仕拒否したって実話?
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 18:22:30
「鎌倉殿」と呼ばれた源頼朝は「鎌倉氏」を称していたのではないのか?
息子の実朝も「鎌倉右大臣」と称されていた。

源氏将軍は、「鎌倉頼朝」とか「鎌倉実朝」とか称していたのではないのか?
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 19:12:32
たぶん「鎌倉殿」と他称されていたけど「鎌倉」は自称していないと思う
むしろお気に入りの御門葉以外には「源」を使わせなかったんじゃなかったけ?
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 19:20:36
じゃあ足利は「源」だった訳で足利将軍は後の権力者により「足利」に塗り替えられた訳だね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/18(月) 23:05:59

> そういや為義斬った波多野氏がショックで出仕拒否したって実話?

後年の熊谷直実の出家もそうだけど、そんな綺麗事じゃないと思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/18(月) 23:43:03
坂東育ちの義朝と京武者である波多野氏との相性が悪かったんじゃね。
保元は半ば廃嫡されてるとはいえ一応は嫡男だったから従ってたが平治の頃には坂東武者に幕僚席捕られたとか
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 00:14:44
平治の乱はクーデターなんで義朝は一族と腹心の領主格の郎党のみで事に当ったんだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 00:49:59

保元平治期の波多野氏当主は義通だけど、義通の祖父・刑部丞秀遠は鳥羽院蔵人、父・佐藤遠義は崇徳院蔵人で筑後権守として受領も勤めてるから、京武者の家系だね。
義通の具体的な官職は分かってないけど、先祖の履歴からやはり京で官職についてたことは間違いないだろう。
288 [] 2010/10/19(火) 01:12:48
崇徳院蔵人(×)→崇徳帝蔵人(○)
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 04:40:36

義平が義賢を倒した大蔵合戦の時の武蔵守が藤原信頼。
この合戦で義平が何の処罰もうけなかったのは武蔵守だった信頼の黙認があったらしい。
また、その後も信頼は武蔵国を知行国としていた。
武蔵国は相模国と共に義朝にとって重要な国だったからその国の武士達を従えるのに信頼との提携が欠かせなかったらしい。
また、信頼の一族が「陸奥守」を務めていて信頼は奥州とも深いつながりを有していた。
奥州は、馬、武器など武士にとっての必需品の産地で義朝にとってその面でも信頼は欠かせない人物だった。
いわば義朝はその首根っこを信頼に押さえつけられている形で提携していたともいえる。
つまり、義朝と信頼の提携(というより義朝の信頼に対する服従)は大蔵合戦のあった1155年以前に遡ると考えられている。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 04:44:25

元木泰雄氏は、
朝長も義朝の嫡男候補だったが(朝長もそれなりの官位を獲得)
結局頼朝が嫡男となったので、それに不満を持った波多野氏が本領に引き上げたのではないかとの説を提示している。
(元木氏は波多野氏は朝長の母方と見ている)
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 04:56:34

この「クーデター」に加わったのは信頼と義朝に加えて次のような面々がいる。

公家
天皇親政派 藤原経宗(天皇生母の弟) 藤原惟方(天皇乳母子)
院政派で反信西派 藤原成親、源師仲

武士 源光保、源季実、源重成
この武士の中は義朝に従っていた訳ではなく、夫々独立した京武者。
ただし重成のみは義朝に近い立場の同盟者だったらしい。
一方光保は二条天皇の側近として自分の判断で信頼に協力。
また、光保の娘は鳥羽法皇晩年の寵愛を受けていて光保自身も鳥羽法皇の側近であった。
保元の乱の数年前にやっと下野守になったばかりの義朝に従うような低い立場ではなくむしろ義朝より格上の感がある。
また、平治の乱においても義朝を上回る兵を動員できる存在。

なお、二条天皇側近が平清盛に接近して二条天皇を六波羅に移した後、信頼らの追討令を出して
清盛と義朝らとの戦闘が始まるわけだが、
その際当初は信頼と共にいたはずの光保はすぐに六波羅方に付く。
光保は元々二条天皇に近い立場だったのでこれは当然の事といえる。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 05:09:10


> 義平が義賢を倒した大蔵合戦の時の武蔵守が藤原信頼。
> この合戦で義平が何の処罰もうけなかったのは武蔵守だった信頼の黙認があったらしい。
> また、その後も信頼は武蔵国を知行国としていた。
> 武蔵国は相模国と共に義朝にとって重要な国だったからその国の武士達を従えるのに信頼との提携が欠かせなかったらしい。
> また、信頼の一族が「陸奥守」を務めていて信頼は奥州とも深いつながりを有していた。
> 奥州は、馬、武器など武士にとっての必需品の産地で義朝にとってその面でも信頼は欠かせない人物だった。
> いわば義朝はその首根っこを信頼に押さえつけられている形で提携していたともいえる。
> つまり、義朝と信頼の提携(というより義朝の信頼に対する服従)は大蔵合戦のあった1155年以前に遡ると考えられている。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 05:13:38

途中送信してしまいました。スミマセヌ

陸奥守だった信頼の一族とは奥州藤原氏第4代の泰衡の外祖父になった人ですか?
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 05:29:25
自己解決しました。

信頼の異母兄基成あるいは基通ですね。
その外孫が泰衡。

しかし信頼と基成は、ともに大きな勢力を擁する関東(義朝)と奥州(秀衡)をそれぞれそ統制下に置いていたとは、すごい兄弟ですね。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 13:32:41
当時、信頼は「兵の家の者」ではないが有力な武力の持ち主という認識が共有されてたんじゃないかな。
二条親政派と後白河は信頼の権勢欲を刺激して利用したのだと思う。

鉄と馬+武士団は現代で言えば産軍複合体だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 16:11:44
信西は鳥羽院の遺命を遵守する立場で二条親政派とは相容れぬ院政原理主義者であり、二条天皇を皇位に即けたい美福門院を懐柔させる為に
二条の父後白河を皇位に即けた経緯があり、後白河の信任も厚く権門複合を権力基盤とした信西は親政派からは憎まれる存在となっていく。
院政原理主義者の信西は摂関政治を壊滅させ、天皇親政派を押え込もうとして斃されたのだ。
この国では天皇案件は鬼門だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 19:05:17

朝長に関しては、野口実氏も元木氏と同じ見方をしてるね。

因みに野口氏の『伝説の将軍藤原秀郷』(吉川弘文館)は藤原秀郷及び秀郷流諸氏の足跡を詳しく記した本なので、
秀郷流について知りたい場合はとても参考になるよ(てか、世に清和源氏、桓武平氏関連の書籍は山ほどもあるが、まともな学者の書いた本で藤原秀郷関連の専門書はこれ一冊しかない)。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 22:01:30

>院政原理主義者の信西は摂関政治を壊滅させ

摂関家の武力であった河内源氏はどうしても取り除きたかった。
日本@名無史さん [] 2010/10/19(火) 23:43:50
院政原理主義の考え方のひとつに院政が敷ける資格として
退位後の院政開始時に上皇、法皇は今上天皇の父親でなければならない
今上天皇の家長として院政を行うというものだ。
即ち崇徳上皇にはその資格がないというものだ。
信西は恣意的にも法治主義を推進したのだ。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 00:12:45

だけど世間的に見れば自分の妻が乳母をしていた雅仁(後白河)を雅仁第一皇子守仁擁立派の
美福門院と関白忠通を利用して皇位に即けたのだから恣意的どころか権勢欲丸出しだね。
まぁ「恣意的な法治主義」と言った所か。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/20(水) 08:25:35

なら公家や皇族によって幕府みたいのが築かれる可能性も?
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 08:53:02

幕府とは異なる(幕府は摂関家の家政機関に源流が求められる)
権門複合はあったろ?
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 10:20:22
保元の乱後の上皇方武士の処刑は、大同5年(810年)の「薬子の変」以来の公的な死刑の復活でした。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/20(水) 10:38:00
信西の経歴みたら権勢欲丸出しになるのも頷ける。
やっと巡って来た春だからね。
短い春だったけど。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 11:45:28
信西(藤原南家貞嗣流)の直系の先祖には藤原姓熱田大宮司家初代藤原季範がいるんだよね。
ご存知のように頼朝の生母の実家。
保元の乱頃までは信西と義朝の関係は良好だったんだな。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 11:49:49
道理で頼朝は体育会馬鹿の河内源氏の中では異彩を放って権謀術数に長けてる訳だ。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 12:36:57
信西暗殺の黒幕は実は後白河かも。

日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 13:09:28
貴族全体から嫌われてただろうな
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 13:18:14
後の世の刑罰、打首獄門の「獄門」は源光保に捕らえられた信西が斬首された上で
平安京の獄門の棟にその首が打ち付けられたことに由来するらしい。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 14:02:24

貴族は波風立てる奴がいたらみんな嫌う。

日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 14:14:05
信西本人は幼少時に父親の急死で高階氏の養子となっていて鳥羽院から藤原への
復姓の勅許が下りていたのに出家したんだよね。
性根が曲がってるよ。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/20(水) 14:36:05
学者肌の人だったらしいからな。
今の共産主義者みたいな奴だったんだろう。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/20(水) 15:33:40
既得権益層なんてそんなもの
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 15:41:02
学者肌というよりも、学者(文章道)そのものの家系。

院政期は官司請負制だから、諸学問は世襲となっていた。
その点は、清盛や義朝の兵の家と同じだから、ある意味彼らは同類とも言える。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/20(水) 16:06:22
ちっちゃな頃からワルガキで
十四で叔父御を殺したよ
坂東あたりの豪族は手当たり次第に傷つけた
ああ、解ってくれとは言わないが
そんなに俺が悪いのか
ララバイ、ララバイおやすみよ
ギザギザハートの悪源太
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 18:53:25
義平はワルガキと言うより孝行息子の感があるね。
表現は変かもしれないけど亀田家に近い感じがするね。
父親の期待に答える為に本心じゃなくヒールを演じてみたりして父の愛を渇望してる感じだね。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/10/20(水) 19:16:14

>信西(藤原南家貞嗣流)の直系の先祖には藤原姓熱田大宮司家初代藤原季範がいるんだよね。

なにか違うような気が・・・
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 21:03:40

期待してたらもっとそれなりの官位を与えるべく奔走してると思うんだが?
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 22:09:31
平治物語では阿部野出陣を催促して除目を後回しにしたことになってるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 22:37:09

信西と頼朝母(季範娘)の関係は、共通の曾祖父が藤原実範という人物で父親同士がはとこの関係。
ちなみに範頼を養育した範季の父能兼と信西はいとこ同士になる。
日本@名無史さん [] 2010/10/20(水) 22:55:02

「平治物語」でも数種類の「平治物語」があって、その中の大日本文学体系「保元物語、平治物語、承久記」に載っているものには、義平の上洛、阿倍野出撃進言、任官拒否の記載はない。
大日本文学体系に載っている文面が一番成立年代の古いものらしく、他の本に書かれているものは後世の編纂が入っているものらしい。
義平のそのあたりの話はフィクションぽい。
信頼からしてみれば息子を清盛の聟にしていたので、この時清盛が敵になるという想定がなかったらしい。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/21(木) 00:59:43

ひねりが無いのに面白いw
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 08:30:33
後白河は信頼を見捨てたんだね。
信西も見殺しにしてるし。
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 11:20:38
平治の乱で六波羅の清盛は内裏の信頼に欺く為に名簿を差し出してるんだね。
これには信頼は嬉しかったに違いないね。
近衛大将と最大勢力の武士団を手に入れた事になり名実伴に武門のトップだね。
「兵の家」出身ではないけど隆家の子孫の自負心は強かったろうね。
武芸が如何であったか分らないけど実際、甲冑に身を固め太刀を佩いて在陣してるしね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/21(木) 12:13:45
信頼が高い政治力と武力を持ってたら、歴史がとてつもなく大きく変わってたかもな。
本当に坂東に幕府みたいなのを築くかもしれん。
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 12:58:03
携帯で下のバナーが 「信頼の...」で思わず笑ってしまった
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 18:06:29
鎌倉頼朝?
伊豆頼朝?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/21(木) 18:33:08
鞍馬義経?
陸奥義経?
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 18:34:44

本人は後白河LOVEなんで野心は権門複合止まりだろうけど
後世の秀吉みたいに関白内覧の権限で天下を治めていたら面白かったろうね。
この時代は家柄血統の時代なんで藤原氏の長者は無理だろうけど。
頼朝も源氏の長者なんて夢のまた夢だっただろうね。
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 19:34:11
義朝を従えていたのはでかいな。源氏の主人なら坂東での集客力は頼朝以上じゃん。
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 20:28:25
信頼政権を想像してごらん
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 20:57:19
義平は武者所別当だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 22:09:33
信頼って道長の血筋ひく?
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 22:31:43
たしか道長の系統は後の五摂家に繋がります。
信頼はそれ以前の分れです。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/10/21(木) 23:07:52
道隆流だったっけ。
日本@名無史さん [] 2010/10/21(木) 23:32:33

あんたも好きだねえ
それ毎回書き込んでさあ
334 [] 2010/10/22(金) 02:00:55

失礼。坊門流ってことは知っていたが女系の血縁は無いのかと思って。
御堂流にも御子左や頼通庶子の様に受領階級に落ちたのもいるから気になった
日本@名無史さん [] 2010/10/22(金) 18:57:19
子供いないのか

信頼のように命乞いすれば良かったのに
日本@名無史さん [] 2010/10/22(金) 20:33:55
新田の娘が男子を産んでたら後々面白いことになったのに
日本@名無史さん [] 2010/10/22(金) 21:54:33
頼朝は信頼と義平の強みをバランス良く持ってたのかね。
運もあるだろうが。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/22(金) 23:49:11
落馬の強み
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:09:38
信頼って意外と若かったんだね。
イメージ的に中年のイメージが有ったんだけど平治の乱当時20代後半だったんだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:21:44
信頼が享年27歳
義朝が享年36歳
義平が享年20歳

なんじゃ〜この若さは?!
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:39:34
義朝が関東に基盤が築けた理由の一つは河内源氏の嫡男と言うよりは京武者(摂関家の家人)の御曹司ってことが重要だったんだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:48:38
そんな90年以上前の頼義、義家の故事なんてリアリストの坂東武者には腹の足しにさえならないよ。
しかし義朝の下野守就任は義家の故事を踏襲してるんだよね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:52:30
義朝、頼朝親子はしつこいくらい義家ら河内源氏の故実を踏襲してるんだよね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:56:23
ということは義朝、頼朝は基本的(潜在的かも)に京官人貴族なんだよね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 00:58:53
意味不明
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 01:08:34

義朝の鎌倉再発見
頼朝の石橋山敗戦後の進軍経路
頼朝の奥州征伐

それくらい勉強しろよなw
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 01:16:22
京官人・貴族は形式的ってことだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 01:21:47
貴族のアイデンティティは有職故実だよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 01:30:26
後世の人達が頼朝を武家の棟梁と言ってるだけで本人は貴族だよ。
だ・か・ら・史学上近年の研究では軍事貴族と言われてるのw
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 02:52:25
政子のみを妻にしたのは東国武士として生きる決意の現れ。
しかし、武士=職能人、とかいう話を聞くがどこまでホントかね。
貴族とか上流階級とかの力の源泉って本来は軍事力じゃないか?
陰陽道とか学問は官人の土師とか中原の家系だが、武士は皇族と藤原だし。
そう考えると公家と武士は競合してもかえって自然に思う。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 03:03:25

> 義朝が関東に基盤が築けた理由の一つは河内源氏の嫡男と言うよりは京武者(摂関家の家人)の御曹司ってことが重要だったんだね

「基盤」ていうほど確固たるものか?
むしろ、頼義以来鎌倉を継承している割にはその所領は小規模と言っていいくらいだろ。

貞盛流平氏にしろ、河内源氏にしろ、秀郷流藤原氏嫡流の佐藤氏(西行の生家)にしろ、
京で代々軍事貴族を勤めている家は、在庁の坂東平氏なんかと比べると、地方での所領は、ずっと規模が小さいよ(平家全盛期の知行国なんかは除く)。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 03:13:46

> 後世の人達が頼朝を武家の棟梁と言ってるだけで本人は貴族だよ。

初期は武士の上層部は、貴族(公家)と武士の両方を兼ねているんだろう。

> だ・か・ら・史学上近年の研究では軍事貴族と言われてるのw
だ・か・ら・貴族であることと、武士であることとは矛盾しないってw
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 08:11:37
清盛の平家一門を貴族的で軟弱とされたのは江戸期以降、禁中並公家諸法度で公家が
骨抜きにされてからの印象が大きいよ。江戸幕府の尚武政策の影響。
12世紀後半の時点で、少なくとも承久の乱以前は軍事貴族は摂関家家司、院近臣など
権門複合の一員であり武力を担当する「貴族」だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 08:38:55

>在庁の坂東平氏なんかと比べると、地方での所領は、ずっと規模が小さいよ

京武者(軍事貴族)は基本的に権門複合の所領における利益代表者として摂関家の政所、
院庁の蔵人の職に就いてるし、知行国主の受領を歴任する者が多かった訳で在庁官人系の
地方豪族とは経済的遜色は全く無いね。

摂関時代、院政期、それ以降の中世全般に渡って荘園は土地支配の重層構造だった訳で開発領主(その子孫)
は所領と言っても貢納分配する分が多かったからね。
秀吉の検地によって止めを刺されるけど。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 08:42:54

「武士」って概念であり身分ではない。
故に「武士」と「貴族」を同列に扱うのは不可。

日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 08:43:10
中世の段階で民間に浸透してるじゃん
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 08:54:44
軍事を職掌する貴族なのか

貴族身分の武士なのか?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 08:57:29
本来の武士は武力を有しない者のこと
下級貴族を指す
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 10:22:34

それって「侍分」のこと?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 11:02:33
敢えて言おう!
「武士」とは「部」なんだね。
「物部」の「部」
「もののべ」≒「もののふ」。

日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 11:08:47

それをいうなら
「侍品(さむらいほん)」

侍品は文官・武官に関係なく、律令制下で6位身分の官人のことを指す名称。まあ準貴族階級だね。
ちなみにその上の4、5位の官人を「諸大夫」という。
ここからは正真正銘貴族階級。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 11:20:53
身分的に言えば

京では大夫、侍層の京武者(軍事貴族)・・・貴族・官人

地方では在庁官人・・・官人(一部貴族身分も)
   牧司、荘官・・・領家の家人
   田堵、負名・・・富裕百姓

ざっとこんなもん?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 11:27:08


> 「武士」って概念であり身分ではない。
高橋昌明氏なんかはそのことについて詳しい解説を試みているようだが、別に武士「身分」といっても構わないと思うよ。
それとも、「武士」っていう用語にこだわってんの?

> 故に「武士」と「貴族」を同列に扱うのは不可。


だから貴族階層全体の内、「武を担当する貴族」だって。
それを武士側から見れば「武士階級」の一員てことになるだろうし、
公家側からみれば、軍事貴族(兵の家、兵家貴族、京武者etc)てことにもなるだろう。
いろんな立場からのいろんな見方があるわけで、どれか一つだけが絶対的に正しくてその他は間違いというわけではないよ。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 12:21:07
荘園について語ろう
ttp://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1077694888/
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 14:21:47
「武士」って800年の変遷があるからね。

我々現代人から見たら江戸後期から明治初めの印象が強いからね。
新渡戸稲造の法螺話が実しやかに流布喧伝され信じられてるから始末が悪いね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 14:26:58
武士と狩猟は切っても切り離せない関係にある
一部の職能論者にはその視点が欠けている者がいる
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 14:53:39
五味センセだっけ?
狩猟民の観点を重視してんのって。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 15:07:12
京武者、地方豪族、伴類と発生はそれぞれちがいそうだな。
もちろん身分流動はあったろうが。
伴類は縄文系含む狩猟民起源かもな。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 15:42:06
@軍事氏族:律令制以前。
物部氏、大伴氏、佐伯氏など。

A軍事官僚:律令時代。
坂上氏、小野氏など。

B軍事貴族:寛平延喜東国の乱鎮圧勲功者及びその子孫。
平高望、藤原利仁など。
&つづく承平天慶の乱鎮圧勲功者及びその子孫。
藤原秀郷、平貞盛、平公雅、源経基、橘遠保、大蔵春実 他

狭義の軍事貴族は特に後者を指すことが多い。

特に秀郷、貞盛、経基がビッグスリー。

日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 15:50:40
@とAは武士に繋がらない
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 16:34:32
安倍貞任の弟だっけ?安倍元首相の先祖。
俘囚や高句麗、新羅移民は武士に繋がるの?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 16:38:22
源経基・・・ただの受領が成り行きで名将になった人か。
一応活躍したのは天慶の乱の残党狩り。板東と縁がない
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 16:49:32

小野好古も勲功者じゃないの?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 16:55:08

> 安倍貞任の弟だっけ?安倍元首相の先祖。
> 俘囚や高句麗、新羅移民は武士に繋がるの?

繋がりますよ。
とくに俘囚は上で述べられてる狩猟民とかなり重なるんじゃない?
あと安倍元総理の先祖は安倍宗任と言われてるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 16:59:00
朝鮮人の子孫でありながら日本に対する愛国心が異常に強いとはな
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 17:25:47

>小野好古も勲功者じゃないの?

追捕山陽道使・小野好古は、
将門制圧戦の時の征夷大将軍・藤原忠文のようなもので、
純友制圧戦の最高執行部の一人だからちょっと違うんじゃないか?
基本、承平・天慶の乱を鎮圧する側(朝廷軍側)の実働部隊長たちは、寛平・延喜勲功者の子孫たちから構成されていて、好古はそれにも該当しない。

それに好古の子孫は兵の家への道を選んでいないそうだ。

日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 18:37:55
なぜ皇族と藤原じゃないと兵になれないのか
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 19:22:03
臣籍降下したら皇族とはいわない
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 20:20:23

>将門制圧戦の時の征夷大将軍・藤原忠文のようなもので

征東大将軍だよね。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 20:55:18

坂上氏のことか
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:19:00

王臣と言うことであれば間違いじゃないよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:23:37

それは「基本」であって自然発生的(敵討ち・恩賞目当て)だよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:32:15

街宣右翼、ネトウヨのことだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:38:16

経基は「名将」とは呼ばれていないんじゃないかと。

坂東との縁については、武蔵介に任じられてますので一応「縁」はあるかと。

但し、赴任して早々、上司の権守興世王と一緒になって足立郡司武蔵氏とトラブルを起こしたり、
平将門が間に入ってのその手打ちの席では、興世王と将門が結んで自分を殺そうとしてると勘違いして、都に逃げ帰ってしまったり、
そのことで坂東の武者達からは
「いまだ兵の道に練れず」と嘲笑されたりと、あまり良い「縁」とは言えなかったようですが。

日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:39:05

>とくに俘囚は上で述べられてる狩猟民とかなり重なるんじゃない?

お前馬鹿じゃね?
俘囚は大和朝廷に投降したけど文明人だよ。
騎馬戦術と製鉄では大和朝廷をしのいでいたよw
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:47:14

>それ
って指事語は何を指しているの?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:54:09
でもその孫の頼信は坂東武士たちに尊敬されてるよな
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 22:59:52

恥の上塗り、馬鹿じゃね?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:01:33

では俘囚は狩猟民ではなかったのですか?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:02:27

馬鹿でもいいからさ
質問に答えてよw
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:05:01

お前の駄文だよ
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:06:24

どの部分が?
具体的にお願い。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 23:06:33
ひさびさに厨房らしい厨房を見た
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:08:42

何を根拠に俘囚が狩猟民?
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:10:34

なんだ、ただの煽りか・・
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:10:40

お前みんなから厨房呼ばわりされてるぞ
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:13:37

正確には
お前1人からだろう。

一体俺のなにが気に入らないのかね。

勝手に食ってかかってきてさ。

とにかくはやく具体的にw
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:18:54
俵籐太はお尋ね者だしな。
一気挽回でしょ。
貞盛は親父と妻の敵討ちだしな。
橘はたまたまでしょ。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:29:32

ほっとけ。
を無視しても大勢に影響はない。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:33:55

それもそうだな。
居着かれて荒らされても困るしw
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 23:46:47
祟り神は祭るにかぎる、とかいってみる
日本@名無史さん [sage] 2010/10/23(土) 23:47:34
大伴や小野とかその他は身分が低いから地方の長官に任命されず、
地元の人間をしたがわせることができない、でOK?
朝廷も東国も皇族藤原ばかりでクソつまらん。
日本@名無史さん [] 2010/10/23(土) 23:54:35

武蔵七党横山氏は小野氏流じゃなかったか?あと、大伴氏も武蔵に関係していたような。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/10/23(土) 23:57:48
崇仁を祀らねば皇室の存在意義が
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 07:55:33

質問に質問で返されましても。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 08:11:12

俘囚が狩猟民だって(ぷっ)
日本@名無史さん [sage] 2010/10/24(日) 08:15:26
下向井「俘囚は狩猟民」
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 08:34:09
国衙軍制の始まりとして下向井龍彦氏の言う「追討官符」の軍制システムって本当に機能したか疑問だな。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 09:08:42
追討官符の発給は確かに有っただろう。
しかし、疑問なのは任国に着任する受領が現地の群盗と同類の富豪(在地豪族)を押領使に
任命して追討官符発給を受けるのを待って(遠国なら2〜3ヶ月)追討できたのだろうか?
実際、筑後の国司殺害事件、坂東の俵藤太反抗事件はうやむやで立ち消えているしね。

受領が介兼押領使を随伴し、京で内舎人、滝口であった者を郎党として引き連れて任国に下向
したことの方が初期国衙軍制の説明がつくと思う。

彼等は富豪への婿入り婚を通して「土着」していく(高橋昌明氏)。
在地領主の武士化ではなく、武士の在地領主化が進行した訳だよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 09:59:59

だから狩猟民でないのならば何なのですかとで尋ねているんですけど?
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:40:56

れっきとした人間(文明人)だよ。馬鹿だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:43:23


> れっきとした人間(文明人)だよ。馬鹿だね。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:44:43
追捕使って紛争解決者への追認だね。
結果的に武装を認めていく先例となった訳ね。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:46:31

落ち着け
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:47:06

> れっきとした人間(文明人)だよ。馬鹿だね。

いちいち「馬鹿」とかつけないとレスが出来ない人が昨日から湧いてきてるようです。

では改めて尋ねさせていただきます。
俘囚が非狩猟民で「文明人」という根拠は何なのでしょう?

日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:48:11

すみません。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 10:50:57
農耕と製鉄の技術を獲得してる訳だし考古学的にも証明されてるしね。
糞史学者の受け売りは墓穴を掘るよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:03:30
粛慎の存在もあるし
ツングース系のアムール、オホーツク文化圏の影響と、縄文後期以来の稲作の北上で
大和朝廷成立以前に稲作畑作農耕文明は本州北部にまで到達してるからね。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:17:29

あなたはさんですか?

> 農耕と製鉄の技術を獲得してる訳だし

「獲得してる」ということと、
それが蝦夷や俘囚の中心的生活手段と言えるまでになっていたかどうかということとは全く別のことだと思うんですけど、どうでしょう?

>考古学的にも証明されてるしね

そうなのですか?
考古学学界では、俘囚は非狩猟民で「文明人」であったいう説は既に主流にまでなっていたのですか?
でしたら、参考までにそのような学説をわかりやすく書かれている書籍を是非いくつかご紹介ください。

日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:24:41

> 粛慎の存在もあるし
あと、渤海使節団なども頻繁に秋田城に来ていたようですね。

> ツングース系のアムール、オホーツク文化圏の影響と、縄文後期以来の稲作の北上で
> 大和朝廷成立以前に稲作畑作農耕文明は本州北部にまで到達してるからね。

具体的に本州北部のどのあたりまで稲作は到達していたのですか?
そしてその稲作は断絶することなしに、本州北部に居住する蝦夷の生活手段の基底をなすほどにあまねく普及していたのですか?
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:25:25
大和朝廷=必ずしも文明の覇者ではない。
大和朝廷=人口の多数勢力と見るのが妥当。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:32:49

自分で図書館に行って調べれば?
ただで知見を得ようとしても世間は甘くないよ。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/24(日) 11:42:16
はい、負け犬逃亡乙w
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:43:11

> 自分で図書館に行って調べれば?
> ただで知見を得ようとしても世間は甘くないよ。

書籍の1冊や2冊も紹介できないのですか?

以来、あれだけ 他人を馬鹿呼ばわりしながら居丈高に
「俘囚は非狩猟民で文明人」とのたまわれていたのに、いざとなると書籍の1冊や2冊も紹介できないのですか?
おかしいですね。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 11:59:53
教えたくないだけ
悔しかったら調べれば?
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 12:07:39

> 教えたくないだけ
どうしてですか?
のようなやり方で突然首を突っ込んでくることはしても、
具体的に学説や書籍を教えてくれという段になると
>教えたくな
くなってしまわれるのですか?


変わった方ですねw
日本@名無史さん [sage] 2010/10/24(日) 12:10:23

負け犬はひっこんでろ
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 13:34:48

お前には教えてあげないよ
日本@名無史さん [sage] 2010/10/24(日) 13:59:28

負け犬に教わることなど何もありませんの
日本@名無史さん [sage] 2010/10/24(日) 14:26:46
ドサクサにまぎれて
「ちんこぉぉぉぉー!!!」
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 14:29:19
ホモバスターの少年鎌倉悪源太のスレだお
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 14:32:25
426が根拠を提示するまで相手すんなよ
傍から見ていてうざい
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 15:20:12

穴兄弟の兄貴分風情がだししぶってんじゃねーよ
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 16:53:41
繋がりますよ。
とくに俘囚は上で述べられてる狩猟民とかなり重なるんじゃない?
あと安倍元総理の先祖は安倍宗任と言われてるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 16:55:44
安倍元総理は腐臭
404 [] 2010/10/24(日) 16:59:07
案の定 荒らしに変貌を遂げていたか・・
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 17:02:36
荒らしはネトウヨだったのか・・・
日本@名無史さん [] 2010/10/24(日) 17:31:35
↑コイツが嵐
316 [sage] 2010/10/26(火) 14:39:19
6日ほど空けたらスレが荒れてる。
誰が連れてきたんだよ・・・
日本@名無史さん [] 2010/10/28(木) 17:14:02
スレチだが頼賢ら保元の乱上皇方の叔父には子供いなかったのか。
為義ら若いのはともかく頼賢あたりはいてもおかしくないが
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 11:45:54
『武士の成立 武士像の創出』
高橋 昌明著 (東京大学出版会 1999.11)

 平安中期、貴族は都で儀式や享楽にあけくれ、かたや東国農村では新興の武士が営々と農業経営や開発にいそしむ。
やがて武士は源平内乱・鎌倉幕府の創設を経て、退廃した貴族にとって代わり、時代の主役となる。これが、
あなたやわたしの小学校以来の常識であった。両者は善玉・悪玉、イソップの寓話でいえばアリとキリギリスの関係にある。
 本書はこの常識のウソにチャレンジする。結論から言えば、武士の発生母体は都の貴族社会であり、
その登場の時期も奈良・平安時代初期にまでさかのぼる。だから貴族と武士を単純に新旧の対立と見るのはあたらない。
華美文弱と質実剛健の対比も、意識・無意識の先入観とできあいの価値観による、誇張や事実の歪曲であることが多いのである。
 筆者は、この虚像創出の背景には、江戸幕府の公式史観や、近代富国強兵の軍国国家下のナショナリズムの作用があった、と考える。
ご用とお急ぎのない方、だまされないぞと思う方、NHKの大河ドラマ風ワンパターンの歴史に飽きた方、武士や武器・合戦のお好きな方には、ぜひ、ぜひ、ご一読を。
(たかはし まさあき 文学部教授)
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 11:50:48
下向井龍彦氏の著書は真に受けていいの?
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 12:34:23
武士団の構成員は今風に言えば「私兵」「民兵」で武芸を生業とする「兵の家」出身者が
指揮・代表し王権(国衙)によって「国内武士」の身分、武装を認められた訳だよ。
その活動基盤は自力救済を旨としており過去の通説ではその点において自衛の為に武装した開発領主
と誤認されてたんだね。
447 [] 2010/10/30(土) 13:01:18
その「私兵」「民兵」の正体は何か?
私は、上の方で誰かが狩猟民・移民と言っていたけど元舎人(内舎人、授刀舎人)元兵衛、元滝口など
末端武官崩れや放免といった元犯罪者、クグツなどの異形の民が多かったと思うけど
みんなはどう思う?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/30(土) 15:02:37
傀儡はミュージシャンじゃねぇの?
放免は検非違使の下っ端だし。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/30(土) 15:53:42
ふつうに貴族が地方に土着したものじゃないの?
あとは郡司、富豪層と。
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 17:33:22
フランスの外人部隊みたいなのもいたかも。
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 17:43:04
律令制崩壊後は自己責任か・・
なんだか今みたいだな。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/30(土) 21:22:56
武士とは芸能人。
武「芸」を職「能」として朝廷、院宮王臣家に奉仕していた者たち。
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 23:13:43
下向井龍彦氏の論文の概要

At the war from the late 8th century to the early 9th century, a lot of Ezo (蝦夷) who was called Hushu,
surrendered to Ritsuryo-koka (律令国家). Ritsuryo-koka transfered Hushu from Tohoku (東北) area to Rituryo-koka's territory,
and turned them into Komin (公民) under the protection of Kokushi (国司). Komin had hostility to Hushu because Komin had to bear the cost of living for Hushu.
In the 9th century, Kokushi exploited Hushu loyal to Kokushi as the military power, and oppressed the armed Komin who rose in revolt against Kokuga (国衙).
Hushu was good at the tactics of horse riding and they used Warabiteto (a warped sword) . Hugoso (富豪層) took over the tactics from Fushu.
In the late 9th century, Hushu rose in revolt against Kokushi to demand the usual allowance. So, the Government turned Hushu back to Tohoku area.
From the late 9th century to the early 10th century, Taira-no-Takamoti (平高望), Fujiwara-no-Toshihito (藤原利仁), Fujiwara-no-Hidesato (藤原秀郷),
were dispatched to suppress the revolt of Fugoso. In this battle, they improved on the Warabiteto to develop Kenukigatatati (毛抜形太刀) -Japanese sword-,
which was able to innovate the tactics of horse riding. As the result, they became the earliest Bushi. Hushu played the mediate role for the birth of Bushi.
日本@名無史さん [] 2010/10/30(土) 23:18:59
上級武士と兵隊達は分けて考えないとダメだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 00:14:07

>So, the Government turned Hushu back to Tohoku area.


ここがイマイチ信用できないんだよな。

関東以南に配置された膨大な人数の俘囚の殆んどを、元の東北北部の蝦夷エリアに帰したというんだけどさ。
だけど、俘囚を退かして空になった東北の地域には、逆に関東などから膨大な数の移民(柵戸)を入植させて、水稲などに従事させているんだよね。
つまり、俘囚にはもう帰るべき土地なんて無くなってたはずなんだけどな。

東北北部に帰ってからの俘囚についての資料とかって存在するの?
日本@名無史さん [sage] 2010/10/31(日) 00:28:11

古臭い
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 02:17:00
下向井龍彦氏の論文「武士形成における俘囚の役割」には
俘囚は狩猟民って定義付けされてないんだよね。
彼の論旨は受領(王権)によって狩猟特権が付与されたとしか言ってないんだよ。
謂わば政府懐柔策によって租庸調免除で豊かな経済基盤の上での狩猟な。
当然、故地蝦夷においては農耕、採取、狩猟の生活ってことだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 02:31:06

そうだね。
最新の研究課題は「兵隊達」の実態、由縁、実像に迫ることだね。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 02:35:12

ならば最新の知見を披露して下さい。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 02:46:31
ここで一つ疑問が
狩猟特権を武芸訓練特権と言い放つ下向井龍彦氏に対して
鴨や鹿を殺せるように人を殺せるのか?
殺人はゴロツキならず者の所業でしょ。

そう考えると京のアウトロー達を受領が引き連れて任国に赴任したと考えるのが妥当。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 02:56:06

>当然、故地蝦夷においては農耕、採取、狩猟の生活ってことだよ。

これは朝廷に降伏して関東以南に移される前の話?
それともにあるように東北に「帰郷」してからの話?

それとこの部分も下向井が述べていることなの?

日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 03:27:28

下向井信者乙
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 03:32:34

ところで君の所信はどうなの?
確たる出典論拠持って開陳したらどうなの?
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 03:43:33
下向井氏の論文を精読しても俘囚が狩猟民だなんて一言も定義付けしてないよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 04:13:12

アンカー間違えてないか?


> ところで君の所信はどうなの?
> 確たる出典論拠持って開陳したらどうなの?

ここは
>所信
だの
>出典論拠

>開陳
だのの話じゃないだろう。

で述べたように
に書いてある俘囚の東北への「帰還」について分からないから聞いているだけで。
君は下向井説に詳しそうだから。

それでも敢えて「所信」とやらを述べるなら、
すでにで述べた通り、
蝦夷(俘囚)が「連れ去られた」あとの元蝦夷居住地域は、関東等からの移民政策(柵戸)によってすでに開墾がすすめられており、当該地域への蝦夷の「帰国」はにわかには信じられない、というのがそれだよ。
だからもし、俘囚帰郷後の資料などが存在するのなら是非教えて欲しい。

因みにのその他の部分については特に異論はないよ。

最後にでの質問の繰り返しになるけど、での最後の一文は下向井氏の述べていることなの?
それともそこの部分だけは君の私見?

日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 04:23:06

最後の一文は私の私見。
反論は甘受するよ。
しかし下向井氏の論文を読む限りにおいては貞観期の政府懐柔策が突出(税免除)してるので自然じゃないかな。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 04:29:38
>俘囚帰郷後の資料などが存在するのなら是非教えて欲しい。

ゴメンその部分については史料が見あたらないんだよ。

日本@名無史さん [sage] 2010/10/31(日) 09:19:02
狩猟を無視する高橋
流鏑馬を無視する元木

元木のほうが正しい罠
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 10:13:08
動物の殺生と殺人は異質だと思う。
日本@名無史さん [sage] 2010/10/31(日) 10:27:28
『今昔』の頼光
若ク候ヒシ時、自然ヲ鹿ナドニ罷合テ、墓々シカラネドモ射候ヒシテ、
今ハ絶テ然ル事モ不仕候ハネバ、此ノ様ノ当物ナドハ、今ハ箭ノ落ル所モ思エ不候

>若い頃と違い、狩猟を行う機会がなく
>弓箭の技量が低下し
>狐を正確に射る自信がない。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 11:34:30
元木泰雄氏の研究テーマ

 様々な文明を生み出してきた歴史環境を考える場合、歴史的事実の正確な理解に立って 自国と諸外国との比較検討を行うことが肝要と考えられる。ここでは、自国史である日本史の立場から、主として日本中世における歴史環境を分析する。
 すなわち、日本中世とはどのような時代であったのかを考察して、その特質を把握とするとともに、同時代の東アジア諸国との関連や比較、また西欧諸国との異同を検討するための概念的・方法論的基盤の確立を目指したい。
 具体的には、貴族政権から武士政権が分立した中世前期の政治史を取り上げて、貴族と武士の実態の再検討、貴族から武士への社会体制の変化について見直し、院政・平氏政権・鎌倉幕府に関する具体的な分析を進める。
 こうした研究を通して、貴族・武士の相違面、対立的側面のみを強調・重視してきた通説的理解を克服し、中世成立期に関する新たな評価を提示するとともに、斬新な歴史像を構築したい。
 こうした視点から諸外国との比較研究を行うとともに、今日に継承されている種々の文化を生み出した歴史環境の再検討を試みたい。そして、このような諸課題を達成するための研究指導を行いたいと考えている。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 11:45:58

確か為朝が公暁の外曾祖父にあたる。
あと源氏じゃ無いが平家の忠正の孫娘な゛宇都宮氏に嫁いで宇都宮頼綱産んでる
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 13:41:15
下向井説では

蕨手刀→毛抜形蕨手刀→毛抜形刀→毛抜形太刀(衛府太刀)
日本刀の誕生について説明してるけど
出羽俘囚反乱鎮圧の戦利品で朝廷軍が多数の毛抜形刀を得てるんだね。
9世紀後半と思われる菅原道真佩刀(大宰府天満宮所蔵)は毛抜形太刀と伝えられているし
10世紀初頭と思われる現存最古の毛抜形太刀は長野県(律令下)から出土してること考えると
毛抜形太刀が逆に蝦夷に影響を与えて毛抜形刀を生んだとも考えられなくもない。
毛抜形直刀?が出土したら大変興味深いね。
因みに、下向井氏によれば毛抜形太刀は寛平・延喜の頃に東国騒乱の中で出現したであろうと推測してるね。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 13:42:44

10世紀から
安倍氏、清原氏の登場する11世紀半ば頃までの東北地方は資料のほぼ空白期に入る。
高橋崇氏の言葉を借りるならば史料の「暗黒時代」。

だが、もし本当に9世紀の終わり頃から俘囚の北東北への「里帰り」事業が、政府によって大規模に行われたのならば、
既に入植を済ませている柵戸や鎮兵などとの間で、新たな軋轢や対立を引き起こし、北東北各地で事件が頻発したであろうことはほぼ確実で、それを記した記録等も多く残っていると考えるのが普通。
だが、実際には
8〜9世紀初頭にかけて行われた征夷事業の終了により、
冒頭で述べたように当該期の資料は、前時代までとは比較にならないほどその数を減らしてしまう。
このことからも、俘囚帰還事業は、政府がそのように発表したというだけで、
実際に行われることは殆んど無かったのだろうというのが俺の見解。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 18:51:21
今日、図書館で網野善彦氏の『日本中世の百姓と職能民』読んだよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 19:14:09
惜しい人を亡くしたよ。
おまいらも読んだ方がいいよ。
日本@名無史さん [] 2010/10/31(日) 19:25:35

下向井氏が論文で言ってたけど
「俘囚慰撫政策」は受領(介以上)の勤務評定事項だったので在任中に誇大報告
あるいは太政官官僚自身の捏造の可能性もなくはないね。
日本@名無史さん [] 2010/11/01(月) 22:55:49
武器・武具から武士の発生を推測するのは一つの方法論だと思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/01(月) 22:58:01
蕨手刀に固執すると俘囚との関係のラビリンスから逃れられなくなるね。
日本@名無史さん [] 2010/11/01(月) 23:09:46
日本の弓は長弓だね。
丸木弓から合板(竹で木材を挟む)弓に進化したとしても大陸、朝鮮半島、ツングース系の短弓とは
明らかに違う東南アジア、ポリネシア系の長弓なんだよね。
ある研究調査によると蝦夷(アイヌ)民族は南方系との報告があるんだね。
根拠は衣服と住居がオホーツク文化圏とは明らかに違う耐寒対策がなされてないってことらしいね。
日本@名無史さん [] 2010/11/01(月) 23:21:15
昔聞いた話で出典は明示出来ないけど九州南部の隼人族が勇敢さを買われて大和朝廷に服属して
都の五衛府の衛士の任に就いたという話。
武士の京職能芸能人起源説では隼人族は無視されてるのだろうか?
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 18:33:53
初期の、武士=職能芸能人論提唱者上横手氏は次のように述べています。

武士団研究を農村史に解消してしまわないことは重要でしょう。しかし、侍と在地領主を区別するのが大切であるとともに、
領主と侍の関連づけについても、もう一度考え直してみる必要があると思います。そうしないである一面だけを強調しますと、
武士とか武的勢力というものが、社会発展の主流と別個に存在したアウトロー的な妙なものと受け取られかねない一面があります。(上横手)

上横手氏は70年代に既に「武士成立論」に関して来るべき飛躍的論調に釘を刺しています。


日本@名無史さん [sage] 2010/11/02(火) 18:58:24
mghd
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 19:38:45
しかし、「武」って他の技能とはかなり違う物だと思う。
思えば、「文」の象徴みたいな天皇たち公家だって、もともとは「武」で権力を獲得したわけだろ?
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 20:17:10
「職」を「家」の既得権益としたところに問題があるね。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/02(火) 20:41:25
武士の条件

狩猟
馬牧
自力救済
日本@名無史さん [sage] 2010/11/02(火) 20:43:56
在地領主と、軍事身分としての「侍」とが安易に同一視されて、社会発展史上における領主制の役割と、軍事身分としての侍が果たしてきた歴史的役割とが区別されなかったという批判が生まれているが、この批判はあたっていると思います。
〔上横手雅敬『シンポジウム日本歴史5 中世社会の形成』
「平安時代の内乱と武士団」(1972)〕。

日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:22:37
どうしても武士を狩猟民と関連付けたい香具師がいるようだなw
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:25:27
下向井氏の論文にもあるように狩猟はあくまでも軍事訓練で武士の本分ではない。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/02(火) 21:29:46
職能説では狭い範囲の武士発生論にしかならないからな
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:32:14
貴方の指導教官に問題が有ったとしたらお悔やみ申し上げるよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:40:04
京武者と在地豪族と兵隊は分けなきゃ
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:50:34

広い範囲の武士発生論
てどんなのよ?
日本@名無史さん [sage] 2010/11/02(火) 21:53:40
地方武士の把握は職能論だけじゃ無理でしょ
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:54:04
京武者A・・・俺は王臣家子孫だもんね。
在地豪族B・・負名・田堵じゃ搾取されまくりでたまんねーよ。富豪層へステップアップだー。
兵隊C・・・・元狩猟民だから弓には自身あるぜ。律令公民にはいつも馬鹿にされてたから見返してやるぜw

日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 21:59:00
高橋昌明
「武士は奈良時代からおるっ!」

下向井龍彦
「嘘こけゴラァ!」
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 22:08:47

それ、寛平・延喜の第一期軍事貴族誕生期にぴったり当てはまるなw
日本@名無史さん [] 2010/11/02(火) 22:42:27
高橋・・・・・・灯台
下向井・・・・・比呂台
上横手、元木・・鏡台
日本@名無史さん [sage] 2010/11/03(水) 00:23:00

> 石母田正、安田元久、竹内理三、佐藤進一、網野善彦・・・・・・灯台

> 戸田芳実・・鏡台
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 03:49:27
義平は平治の乱にも参加してる
つかの間の戦勝の後の任官で頼朝は兵衛佐、義平は不明
ずいぶん不公平じゃないか
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 06:16:53
本当のことを言ってしまえば

武士とは王朝国家成立過程の「アダ花」。
古代律令国家から王朝国家への転換は「職」の「社会的再分業」的確立によって
可能になった訳で「職」の確立は「社会的要請」だったともいえる。

律令以前の職能集団「部」が時代を超えて更に構成要素を「部の民」から「家人」
に変貌させ、「職」を業とする特定の「家」に再編集約された訳だよ。
技能と排他的独占権は「家職」として世襲継承されていくことになる。

「兵(つわもの)」とは「器(うつわ)」=「武器」を「技能」とする者。

「武士(もののふ)」とは「物」=「軍事」を「専業」とする集団。

日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 08:38:06
王朝期以降、「家職」は貴族社会において「家」が固定され世襲継承されていくよ。

例えば、「歌道」「華道」「陰陽道」「明法道」「書道」「包丁の道」そして「弓馬の道」
お分かりのように初期武士(軍事貴族)は貴族社会の一員であり「家職」をもって「王権」に奉仕したんだね。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 08:57:28
それまで少数だった「兵の家」は11世紀以降、全国各地に武士団を編成し増殖していき
保元の乱あたりを境に地位を向上させ爆発的に質・量ともにバブルを呈する。
平清盛っていう天才の出現によってね。

平治の乱後、義平が清盛暗殺を成就させていたら日本の歴史は大きく変わっていたことだろう。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/03(水) 12:46:53
>武士の発生した理由には『穢れ』観を論ずるのがまず重要である。
> 令外の官として中央と地方に検非違使、地方に押領使を置いた目的は警察機能の
> 強化だけではなく『穢れ』のアウトソーシングであった。
> 衛門府の官と兼帯して実務者の最高位は大尉判官で従六位でしかなかったのだ。
> しかし承平・天慶の乱後、鎮圧勲功者に対する論功行賞として異例の従四位の叙勲が行われた(昇殿資格である)。
> だがそれは『穢れ』を引き受ける(封じ込める)特定の家(兵の家)の成立であったのだ。
> 「軍事貴族」とは聞こえはいいが「穢れた貴族」と位置付けられとのである。
> 紛争事の解決手段として、また暴力装置として朝廷から公認されていたと言える。

> 公には死刑廃止であっても死刑は行われていた。

> 源満仲を例に上げれば、源氏重代の宝刀「膝切丸」「髭切丸」の命名は罪人を試し斬りしたことに由来する。
> 朝廷の機関で罪人を死刑執行するのでは無く、摂津の源氏居館へ送られたと伝う。
> どのように執行処理されたか定かではないがその門塀には生首が沢山転がっていたとの記述もある。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 13:24:00
公的に死刑を復活させたの信西だよな。

薬子の変以来だっけ?
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 13:27:53

そういう面が無いとは言わんが、
やはり「武」は権力、政治、支配とダイレクトに繋がるだけ特別だよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 13:38:43

> 律令以前の職能集団「部」が時代を超えて更に構成要素を「部の民」から「家人」
> に変貌させ、「職」を業とする特定の「家」に再編集約された訳

「部の民」→家人

これは興味深い。

もともと律令制度なんて日本の政治風土に合わなかったから、その実施も実際は上澄み部分だけのことで、
(地方政治などの)中身は、相変わらず律令制施行以前の、氏姓制度や部民制度時代のものが多少アレンジされて相変わらず政治上機能していた考えているんで。

ただ「部」や「部民」はその実態もほとんどわかっておらず難しい。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 13:43:43
例えば、医師は和気氏や丹波氏、陰陽道は安倍氏や賀茂氏だろ。
しかし、「武」は源や平や藤原。
どれだけ「武」が当時の政治と強く結びついていたかわかる。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 13:50:36

下向井氏によれば
受領(介以上)の専任官が俘囚との接触によって狩猟技術を身につけ家伝としたらしいね。
藤原利仁、藤原秀郷の祖父は受領で専任(俘囚慰撫)だったとのこと。
時代的には寛平・延喜以前に「兵の家」の下地は出来てた訳だ。
ということは下向井氏説では「追捕官符」を受けた最初の押領使が最初の武士ということになるね。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/03(水) 14:19:30

そこで橘が忘れ去られる所に哀愁を感じる。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 14:23:55

奈良時代の木簡は大量出土しているので律令期の庶民の生活実態は「万葉集」の東歌でも
窺がい知ることは出来るね。
しかし律令以前の「曲部」「部民」の実態については史料が乏しいので解明は相当難しいだろうね。

律令期、公民以外に準公民、奴婢、神人等がいた訳だし、公民に課せられた租庸調は調(布・特産品)
は租として公納する稲穂・米の余剰部分で他の公民(恐らく元部民の職能者)や奴婢が生産した布・特産品と
物々交換によって得ていたと考えた方が自然だと思うよ。
これは僕の私見だけどみんなはどう思う?
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 14:26:29
部民→奴婢→家人か
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 14:37:37

古代、中世の身分制度は絶対超えられない壁だったみたいだね。
承平・天慶勲功者は異例中の異例で四位に叙勲されてるけどね。

誰だっけ?高名な東洋史・国史の学者が言ってたけど応仁の乱以前以後では
全く別の国の様相を呈してるんだって。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 14:39:02
部民は奴婢にされちゃったの?

カワイソス
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 14:56:37

奴婢の元締めが居たらぼろ儲けだよな。

日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 14:57:27

大蔵氏も天慶乱後しばらくは中央軍事貴族として活躍したし、後には辺境軍事貴族としてしっかり存続してるよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 15:01:07
今昔物語でもそうだけど平安時代の昔話で奴婢を暴力的に支配してた長者(富豪層)の話も多いね
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 15:04:31
映画「山椒大夫」(安寿と厨子王)は、当時の荘園の実態をかなり正確に描いたものとして学者の評価も得ているとのことです。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 15:08:28

あ〜、橘氏もそれなりに残ったね。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 15:20:15
貞観期には「兵の家」の下地が出来ていたし
「浪人」「富豪層」も萌芽してたわけだね。

もしかしたら高橋説までは行かないにしても武士の発生時期は定説よりも早まるかもね。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 15:40:31
近藤好和によれば、令制時代の軍団制や健児制から、武士の時代に至るまでの騎兵戦闘術にはかなりの共通性が認められるらしい。
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 16:21:46
阿部比羅夫の時代から蝦夷遠征は続いてるわけだから武器(蕨手刀)や騎兵戦闘術は知ってたはずだよ。
寧ろ大和朝廷が馬を持ち込んだ可能性は非常に高いね。
武器、騎兵戦闘術がUターンしてきた可能性も捨てきれないね。
俘囚は元倭人(大和朝廷とは別系統)だった可能性もある。

日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 16:53:03
>俘囚は元倭人(大和朝廷とは別系統)だった可能性もある。

それはどうか分らないけど
俘囚長を名乗った出羽清原氏、陸奥安倍氏は朝廷の帰還事業該当者じゃなかったのでは?
朝廷に帰順し故地蝦夷に戻された俘囚の末裔と考えることが出来る。

根拠@両氏とも秋田城、金沢柵、胆沢柵以南の朝廷支配地域を根拠地としていた。
根拠A外従五位を紫綬された者もいた。
根拠B後三年の役では源義家の戦闘行為は朝廷から私闘(もし安倍氏が夷荻であれば陸奥守に反逆したと討伐令が迅速に出た)と判断されている。

日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 18:09:24

最近は専門家の間では、出羽仙北三郡清原氏はもちろんのこと、陸奥奥六郡安倍氏も中央貴族末裔説が有力になりつつある。

日本@名無史さん [sage] 2010/11/03(水) 18:34:22
末裔というより婿取り
日本@名無史さん [] 2010/11/03(水) 18:53:39

> 末裔というより婿取り

まあそうだけどね。
中央貴族が地方に「土着」するっていうのは、早い話が在地豪族の婿に入るってことだから。

例えば、
平氏でいえば国香、良兼など高望の息子達の多くは常陸大掾源護(恐らく嵯峨源氏or仁明源氏)の婿に入っているし、
又、その嵯峨源氏・護自体も常陸の在地豪族に婿入りして自身在地豪族化したものだと推測されるからね。

他の源・平・藤・橘その他の地方土着貴族もみなそうだろう。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 01:07:42
嵯峨源氏の渡辺氏は摂津源氏の郎党とされてるけど家格的に臣籍降下が新しい家程、優越してたのだろうか?
実は主従関係ではなく与党だったのだろうか?

奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/11/04(木) 01:28:08
家子という便利な語句で片付くような。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 02:11:57

>実は主従関係ではなく与党だったのだろうか?

そんなところじゃね?
藤原保昌とかの頼光四天王もたぶん家来じゃなくて与党的なもの。


家子はより血縁的な関係なんじゃないの?

日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 02:16:52
河内源氏嫡流は従四位下左兵衛権佐義高。
同時代の義朝よりも高位高官。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 02:30:46
頼光と綱は義理の従兄弟関係で同格の家で主従関係があったとは考えにくい。
家子の関係とするには全くの別家なんで有り得ない。
一つ可能性が有るのは当時、頼光は摂津の受領であり摂津渡辺津に本拠地があった綱に
対して国内武士の動員権を持ってたことだろうね。
源三位頼政の代には臣従してただろうけど。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/04(木) 02:35:04
位階の順で言ったら清和源氏嫡流は摂津源氏・源三位頼政になっちゃうな。

けど頼政も義高もその高い位階は平家の後ろ楯によるものだから、ちょっと微妙ではある。

日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 02:46:08
仲綱の息子は頼朝によって葬り去られるし

多田源氏は本願地多田庄を強引に奪われて清和源氏嫡流候補者はTHE END。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 02:54:36
だけど頼朝は傷物源氏ばかり温存してるなw

足利、佐竹、武田、近江、美濃、大和etc
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 03:03:58
新田、安田、平賀、土岐、佐々木、山本、石川
日本@名無史さん [sage] 2010/11/04(木) 03:10:18
自分に人畜無害に近いものは残しとくの
日本@名無史さん [sage] 2010/11/04(木) 10:14:28

自ら嫡流を僭称したわけだから当然そうなる罠。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 11:33:44

神輿を担ぎたい坂東武者達は騙されたふりをして実利をとったんだね。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 12:04:41
太田道灌は摂津源氏嫡流仲綱の弟であり養子である広綱の子孫なんだね。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 12:18:48
太田道灌は山内上杉の分家である扇谷上杉の家宰であるので足利将軍から見れば
分家の家来の分家の家来という陪臣以下の地位なんだね。
足利家自体が清和源氏嫡流とも言える源三位頼政のはるか格下。
250年でここまで没落するとは・・・
日本@名無史さん [sage] 2010/11/04(木) 14:49:50

>家格的に臣籍降下が新しい家程、優越してたのだろうか?

後になって別れた家ほど血筋も中央政権内での位置も、天皇や政治の中心部により近いからね。

粟田だの柿本だの巨勢だの平群だの額田だの阿倍だの佐々貴山だの高向だの南淵だの建部だの丹比だの淡海だの清原だの高階だの文屋だの氷上だの中原だの在原だのと、
一部を除いて古くに別れた皇別は、みんな政治の中枢から遠くなって聞かれなくなっちゃう。

加えて、清和源氏は天慶乱鎮圧勲功者だから、この点に於いても特別だというのもある。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 21:28:07
河内源氏が関東で坂東平氏を引き入れながら勢力を伸ばしたことは有名だが、
伊勢平氏の勢力伸長のプロセスはあまり知られてないよな?
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 21:58:52
「清盛以前」とかいう本があったが
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 22:01:23

元木が知ってんじゃね?
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 22:05:19
>清和源氏は天慶乱鎮圧勲功者だから

九州大分県に満仲が陣を敷いたと伝えられる「大将陣山」ってのがあるよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 23:20:30

のいう『清盛以前』(高橋昌明著)が有名だよ。高いけど。
日本@名無史さん [] 2010/11/04(木) 23:44:35
ここはいいスレだな
他スレみたいに脳内定説主張ばかりじゃなく学者や近年の研究を引用してる参加者が多いからとても参考になるよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/06(土) 12:27:35
源義平が主人公の本があったら教えてください
日本@名無史さん [] 2010/11/06(土) 12:56:22
「相模武士―全系譜とその史蹟〈1〉鎌倉党」湯山 学
ttp://www.amazon.co.jp/gp/product/images/486403012X/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books
日本@名無史さん [sage] 2010/11/06(土) 14:07:39
前にこのスレに出てきた「相模公」って何者?
鎌倉はかつて相模公の居所だったから、源氏の本拠地なったとかなんとか。
日本@名無史さん [] 2010/11/06(土) 14:43:27
丸子公景と違うのか
日本@名無史さん [] 2010/11/06(土) 16:45:30

「相模公」って12世紀以前によばれた人物は
正暦3年に薨去した太政大臣藤原為光が死後、正一位追贈され相模国を封ぜられたとあるね。
これは「国封国公諡号」の制度。

為光自身は鎌倉に居住した事実は認められないので相続した子孫か?
その子孫が山内首藤氏か波多野氏に連なるのであれば大変興味深い。
山内首藤氏の祖、佐藤資清の祖父相模守藤原公光の出自を「尊卑分脈」
にもとめれば魚名流秀郷五世となっている。

公光の養子となった通家という人物がいる。彼の祖父が藤原為任と謂い
藤原北家真楯流帥伊の孫である。
摂関家の祖、藤原兼家と近い人物でありその弟、為光と同じ通名「為」を持つことから
養子関係、若しくは父親の女婿関係を推測することは可能である。

山内首藤氏が鎌倉に居したのは事実であり、資清の兄弟佐藤季清は鳥羽院に
仕えた北面の武士で従五位下左衛門尉であり京においては藤原秀郷の嫡流とみなされてたようだ。

まあ、「相模公」を源義朝と勘違いしたのではと推測するけどね。
日本@名無史さん [] 2010/11/06(土) 18:18:35
山内荘って、今の鎌倉の山内だけじゃなくて、そこから現在の横浜市戸塚区、栄区にまたがる広大な領域だったそう。
日本@名無史さん [] 2010/11/06(土) 19:39:25

>その子孫が山内首藤氏か波多野氏に連なるのであれば大変興味深い

波多野氏は秦野だから、鎌倉とは遠すぎる。
それに波多野氏の前身は佐伯氏で、佐伯経資が源頼信の郎等となり、頼信が相模守の時にその目代を務めて以来、相模に根拠地を築いたというから、どう考えてもの言う、源氏が根拠地にした理由とするには程遠い。
ちなみに、相模波多野荘司となった後の佐伯氏はあなたも挙げている相模守佐藤公光から婿を取って、藤原氏秀郷流になったとのこと。

この点は山内首藤氏も同様なものらしい。
555 [] 2010/11/06(土) 20:17:43

だけど山内首藤氏についてちょっと補足。

山内首藤氏は本姓守部氏で、代々美濃国席田郡司を務めていた氏族。
同郡は8世紀初頭に新羅系渡来人たちを入植させたことにより、本巣郡より独立して建郡されたものらしい。
ただ、同郡々司の守部氏自体は渡来系でなく、那須国造と同族と思われる。

この守部氏がやはり相模佐伯氏と同様に藤原氏秀郷流の佐藤氏から婿として資清を迎え、この資清が主馬首に任官したことにより、首藤姓を名乗るようになる。
資清義父の守部資信が源頼義の郎等になったというから、のちの相模国山内荘荘司職もこの頼義の斡旋によるものか、あるいは相模守だった祖父の佐藤公光の代に既に同荘に根拠を得ていたか、そのどちらかだと思われる。

ちなみに山内首藤という姓は、「山内荘を根拠地とした首藤氏」ということ。
日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 00:32:47

そうだね。
本来、秀郷流公光の息子は源氏の郎党風情になるような家柄ではない。
資清が庶子であったことで守部氏に請われて入り婿した結果、河内源氏家老格の郎党に
なったらしいね。
「相模公」にこだわるならば「相模守」受領レベルでは有り得ない。頼信しかり公光しかり。
だとしたら太政大臣藤原為光の所縁しかないね。
日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 01:59:01
ひとつ疑問が
首藤頼清は北面武士左衛門少尉で弟通清は河内権守。
主人のはずの源為義は検非違使判官ってことは同格?
本当に為義は義忠から家督相続したのかな?
それとも河内源氏棟梁説って虚構?
日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 03:08:07
当時の「主従」関係なんてそんなもん。

戦国期の寄親寄子の関係みたいなもんだと思えばいい。

日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 07:15:59

>戦国期の寄親寄子の関係みたいなもんだと思えばいい。

まったく違うんじゃね?

以下参考までに引用してみると

>この種の主従制は、契約制の強い主従制にほかならず、それはまた、本来のレーン制的主従制に接近している。
>佐藤進一氏や上横手雅敬氏の中世主従制にかんする提言を参考にするならば、かかる主従制は広汎かつ一貫して中世社会に存在し、
>量的には「譜代相伝の家人」を圧倒して、中世の権力編成や政治過程に重大な影響を与え続けていた。
日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 10:18:56
中世武士文化論
黒田俊雄氏が指摘している点

「日本の中世という時代にあっても武士の武勇は決して賞賛の対象ではなく
鎌倉三代執権北条泰時ですら統制下にない武勇を危険なものとして見ていたという事実。」

伊藤善良氏による指摘
「鎌倉時代末のいわゆる『悪党』たちの性格、つまり『狼藉をし、人殺しをし、放火・山賊
をするなど、人倫に異なる集団』という性格を、決して鎌倉末期の特殊現象ではなく、中世武士の
本質をよく体現したもの」

中世社会論では武士とは傍若無人な時として恐れ侮蔑の対象ながらも「武」の職能をもって王権(権門)に
奉仕する(統制される)自力救済の輩である。

日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 11:58:23
中世武士の主従関係を論じるならば
主人と郎党の関係性について

「寄人」「家人」などの根本被官と「名簿」の授受などに起因する与党とを分けて考えなければならない。

「郎党」は騎馬の権利を有するが出自については千差万別である。
日本@名無史さん [] 2010/11/07(日) 13:41:46

高橋氏のその文なら、俺とちっとも違わないじゃないか。

氏はその前段階として、当時の郎等というものは、同時に複数の主と契約を結ぶ存在であり、鎌倉期以降に徐々に現れてくる堅固な主従関係とは違って、
当時の主従関係はとても「ルース」なものだったと書いている。


それから引用文を用いる場合は出典をしっかり明記するように!


※高橋昌明『清盛以前』p34〜35(第一章伊勢平氏の成立)

日本@名無史さん [] 2010/11/08(月) 16:48:51
伴類のルーツはなんだろう?
日本@名無史さん [] 2010/11/08(月) 23:33:51
この時代には、自らも「従類」「伴類」を従えていた私営田経営者が、「血脈(ちのみち)」と言われる血縁関係、「因縁」と呼ばれる姻戚関係
を中心に結びつき、また「同党」と呼ばれる同盟関係で行動を共にしていた。しかし彼らはそれぞれ独立した勢力、経済単位である。
(福田豊彦 1996年 『東国の兵乱ともののふたち』 p13)

日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 01:31:02

イ就馬(しゅうば)の党。

つまり郡司富豪層やその一族後裔たちから成る者。
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 07:29:06
じゃあ従類は?
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 08:09:57
中世的武士団と古代的戦闘集団とを区別するとき、この後者から前者への発展が11世紀から12世紀にかけての時代、
すなわち、白河・鳥羽院政期に著しかったと考えねばならない。そしてその時代は、これまでに見てきたとおり、
まさに社会経済の発展と土地支配体制の新しい整備が進行した時代である。
この社会構造の再編成と武士団の成立とが密接に関連しあうことは、十分に推察しうるであろう。

安田元久氏 講談社『日本歴史全集第7巻 院政と平氏』 (1974年)「在地武士団の成長」
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 08:20:10
平将門の頃から平忠常の乱の頃までは、配下の伴類、つまり農民、漁民、樵夫(きこり)などの住民が
軍勢の大半を占め、それが故に、「戦闘が終わったあとで敵の根拠地を掠奪して回り、農民の家々まで
火を付けて焼いて引き上げ、敵方の所領を占領し支配しようとはしなかった」と言う「12世紀とは違った10世紀の合戦の特徴」

(福田豊彦『東国の兵乱ともののふたち』p13 :吉川弘文館)
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 13:07:36

従類こそ上で出ている古代の専門集団「部の民」ぽいと感じる。
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 16:13:01
「従類」は主人に隷属した下兵
「伴類」は非隷属の下兵
「郎党」は騎乗の権利を持つ兵、上兵
「血脈」「因縁」「同党」は主人の与党、同盟者
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 22:30:55
「従類」が徴用兵
「伴類」が志願兵
「郎党」が将校
「血脈」「因縁」「同党」が同盟軍?
日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 22:50:58
従類はやっぱり、部民or私奴婢の後身かなあ。

伴類は、福田豊彦氏の説では、上は後の郎党的騎乗兵から、下は歩兵や荷駄運送係までを含めての総称としている。

元木泰雄氏は、伴類を延喜期の党(群党)の後身的存在と見なしているし、
「上兵」を、従類や伴類とは別のものとして分類している。


いずれにせよ従類伴類が活躍した時代は、基本的に史料が乏しいので、学者研究者によっても微妙に説明が違う。

誰か川尻秋生氏の著作読んだ人いない?

日本@名無史さん [] 2010/11/09(火) 23:15:47
時代の変わり目には誰かの従類やってた人間が成り上がったりしてたんだろうな。
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 03:37:43
京の随身に毛野氏系出身者が多かったと聞いたが

佐伯氏系も六衛府の下級武官に数多くいた

検非違使の府生・随兵も毛野氏・佐伯氏系か?
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 04:14:15
靭負・・西国の国造の子弟

門部・・大伴、佐伯、犬養、丹治比

舎人・・国造の子弟、中央下級貴族の子弟

騎舎人→授刀舎人→内舎人
         滝口
         帯刀
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 04:29:38
毛野氏が出てきたか・・

なんだか奥が深い話になりそうだ。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/10(水) 05:46:12
近衛舎人は弓矢を具すといえども武勇には及ばぬものなり
(続古事談)
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 07:32:15
下毛野氏の現存する家系の一つが調子氏だね。

武門の名家、宇都宮氏も下毛野氏の後裔とされているね。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/10(水) 11:23:20
源義平のことも、たまには思い出してあげて
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 16:25:18

毛野氏は古墳時代の関東、あるいは東国の覇者といって良い氏族だからね。

「日本書紀」巻第五・祟神天皇四十八年四月十九日条では、
祟神天皇の第一皇子・豊城入彦命を上毛野・下毛野両氏の始祖とする。

同巻第九・神功皇后四十九年三月条では、
新羅再征において、荒田別(上毛野君祖)と鹿我別(下毛野君祖)の二名が将軍に任命されて半島に赴いている。

さらに、
同巻第二十七・天智天皇二年条では、上毛野君稚子が白村江会戦の前将軍に任じられている。

下って律令時代に入ってからも、8c前半の多賀城造営など陸奥出羽両国の経営に尽力した大野朝臣東人も毛野氏の一族で、
毛野氏は半島での戦争や、奥羽の蝦夷征討などにさかんに派遣されている一族なので、
物部氏や大伴・佐伯氏と並んで、での軍事氏族に加えても良いだろう。

日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 17:38:58
上毛野君氏祖の荒田別だが、彼が被葬されているのが群馬県太田天神山古墳であると言われる。
ここはかつて上野国新田郡の郡衙のあったところ。
吉田東伍の「大日本地名辞書」によると、新田郡の「新田」とは、元は「荒田」であるという。

のちにこの地の開発領主となる新田氏は、源義国が荒田別の後裔・上毛野氏の婿に入って誕生したものと考えると合点が行く。

同様に新田郡のすぐ東隣、下野国足利郡は鹿我別(下毛野氏)の本拠地であり、この下毛野氏の婿にまずは藤原氏が入って藤姓足利氏となり、更にその藤姓足利氏の婿に源義国が入り源姓足利氏となったものであろう。

日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 19:59:33
どうして元木泰雄氏などの学者は衛府武官人と京武者を断絶的に論説しているが

私には納得出来ない。

前時代の毛野氏、佐伯氏をプレ京武者と捉えても差し支えないんじゃないだろうか?
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 20:46:13
承平天慶の乱勲功者子孫が身分的勢力的に前時代武官末裔を凌駕し飲み込んでしまったんだろう。
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 20:57:55
秀郷は鳥取氏だね
日本@名無史さん [] 2010/11/10(水) 22:52:44

秀郷の祖父豊澤、父村雄の2代に渡っての母親が、下野国目(さかん)鳥取氏の出。

秀郷自体の母親は下野大掾・鹿島氏(中臣貞忠か?)の娘。

この時代に鹿島姓といったら、鹿島神宮大宮司の鹿島中臣氏しか考えられないので、秀郷の母の実家も同氏の一族であると考えられる。

とすると、天慶の乱で将門に与していた藤原玄明も、その母が鹿島氏と思われ、別名鹿島玄明とも称しているので、
秀郷はこの玄明と(そしてやはり将門方であった常陸掾・藤原玄茂とも)母方繋がりで同族だった可能性が高い。

日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 01:21:57

>前時代の毛野氏、佐伯氏をプレ京武者と捉えても差し支えないんじゃないだろうか?

かつての軍事氏族、軍事官僚、中央豪族の多くは、
律令制が立ち行かなくなって来た頃〜王朝国家時代が幕を開けて来た頃には、藤原氏の数が増えすぎて、すっかり閑職組に回されてる感があるからね。

また、六衛府もこの頃には、やはりすっかり形骸化していたらしい。

だから、例えば上毛野氏は本拠地である上野で反受領闘争を起こしているし、

坂上氏の中には坂東に土着して将門に与している者もいるし、

また、佐伯氏の中には源頼信や頼義の郎党になって相模に下り、波多野庄司や糟屋庄司のような荘園領主になっている者もいる。

だから彼らは断絶したり、消えたりしたのではなくて、
の言う通り、天慶乱鎮圧勲功者=中央軍事貴族に、婚姻その他のやり方で収斂されていったんだと思うよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 04:03:08

>九州大分県に満仲が陣を敷いたと伝えられる「大将陣山」ってのがあるよ。


経基じゃなくて満仲??
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 10:39:32

本当だったら燃えるなー
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 16:30:47

毛野氏、佐伯氏は基本的に律令時代以前の、
氏姓制度の時代の武門氏族だから、
律令時代の次の時代である王朝国家体制期にに誕生した京武者の時代から見ると、
彼らは「前時代」じゃなくて「前々時代」の武人貴族的存在ということになる。

だから、そんな彼らを「プレ京武者」と呼ぶには、彼らは流石に影が薄い存在となりすぎている。

それに彼らが多く担当したという六衛府の下級職だが、律令末期に入ると、これら六衛府の存在自体がすっかり形骸化しており、その任務は検非違使が担うようになっていた。

「前時代」(=律令時代)の“プレ武者”というなら、坂上氏や小野氏や文屋氏などの、武官職を多く担当した役人(=軍事官僚)がそれに当たる。

でも彼らが軍事役人として名を成したのは、時の国家政策であった征夷事業があったからで、
同事業が終了した9世紀に入ると、彼らの武官役人としての重要性は急速に失われて行くことになる。

京武者=軍事貴族というのは、征夷事業が終わって、しばらく経ったのちに起こった俘囚の乱や群盗蜂起や、それらを鎮圧した京下りの土着貴族の子孫たちによる勢力争いの結果として成立したものだから。

特に朝廷からの独立を企てた将門(の乱)は、朝廷や公家達にとっては本当に悪夢のような出来事であったらしく、
従って同乱を鎮圧した秀郷、貞盛、経基らは、これ以後の朝廷の軍制形成上のエポックメイキングになっている。
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 16:32:44

日本@名無史さん[] 08/07/12(土) 03:24:50
九州北部には宇佐から耶馬溪を抜けて筑前に向かう間道に英彦山山系の
大将陣山という場所があります。
藤原純友を追討する時に大将(源満仲)が陣を敷いたことが故事となっています。

942年の時点で一軍の将を務めるには年齢的にも二十代半ば以上であることが
自然(律令の兵士は武官も含めて二十一歳以上)だと思われます。
数え年としても少なくとも923年以前の生まれだと推定できます。
これだけでも経基との親子説は微妙です。

冒頭に上げた大将陣山の件は軍事的に宇佐八幡の勢力を背後に控えた
布陣であったことに注目されます。
さらに後の源氏の八幡神信仰の謎を解く鍵とも言えます。
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 17:05:55
氏姓制度以来の毛野氏、佐伯氏は時代を降る度に王臣系上級武官が登場し
その地位は低下して行く。
軍事貴族の「家」が固定されたのは院政の社会的役割「家の分業」によってもたらされた
のであり、その時点で毛野氏、佐伯氏は「家の分業」ほぼ脱落しており
中央においては地下官人、地方においては良くて在地領主多くは所従郎党の小領主格に甘んじる
こととなった。
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 18:58:30
満仲ら三兄弟が経基の養子に入り込んだということで説明がつく。

日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 19:09:18

「律令末期」とはいつの時代でしょうか?年号で
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 22:52:42

「年号」ってあんた・・・(絶句)

たとえば西暦901年を以て律令時代は幕を閉じ、次の王朝国家時代が幕を開けました、とか言うものではない。
そもそも「王朝国家体制」という言葉自体が学術用語であり、又学術概念でもある。
専門家によっても、
律令時代の終わった時期、王朝国家時代の始まった時期についての認識には多少の温度差があるようだが、
一般には律令国家体制がその息の根を止められたのは、個別人別支配が完全に不可能になった10世紀前半〜半ば頃であると言われる。
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 22:57:13

出自は?
日本@名無史さん [] 2010/11/11(木) 23:20:41
満仲の方が年上なんだっけ?
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/11/11(木) 23:29:37
そうだとしても貞純親王や元平親王の孫として活動の時期はおかしくなかろ。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 01:01:16
じゃあ経基は年上の従兄弟あたりを自分の養子にでもしたっていうこと?

なんか引っかかるなー
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 01:21:59
案外満仲は渡来系かもな。
本拠地は渡来系の率が高かったらしい。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 01:31:36
満仲兄弟は元平親王の庶子で陽成源氏。
経基が天皇からの親等を繰り上げる目的で元平親王の養子に。
義兄弟にあたる満仲らが、承平天慶勲功者の経基没後の子を称し武勇を売り物に。
暴王にして長生の陽成天皇の血筋は、かくして「清和源氏」に引き継がれることに。

なんて仮説はどうかな?
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 02:08:19
たとえ陽成源氏としても、経基-満仲の年齢逆転現象の謎は解消されないんだよな。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 07:38:22
満仲兄弟ってそんな高貴の出じゃないよーな。
八幡信仰ってのも気になる。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 08:53:40
満仲三兄弟って案外、ツングース系の渡来人の子孫かもね。

元々、八幡神は九州国造宇佐氏の氏神であり、八幡はヤハタと読む。

「幡」は「旗」と同意であり「八幡」は数多くの旗を意味する。

後の満州人(ツングース系)の国家に「八旗制」というのがあるが「旗」とは

軍事集団である。お分かりのように「八幡神」はツングース系の軍事の神である。

国造宇佐氏は秦氏系ともいわれるが秦氏をツングース系とするならば

満仲三兄弟はツングース系渡来人子孫を出自とすると推論される。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 10:22:25
八幡っていう語句は唐にも有ったから、ツングースとか持ってくる必要は無さそう。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 11:48:06
高句麗、渤海、金はツングース系じゃなかったけ?
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 12:05:01
源氏の白旗
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 12:07:56
でも満仲の生年をそのまま信じると、
頼信とは50くらい離れてることになるぞ。
年号を間違えたかなんかで、本当の生年はもっと後では?
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 12:49:30

天慶の乱で純友討伐に参加してるし将門息子入京騒ぎに召集されている(息子の顔を知っている可能性)
ので920年代前半まで(状況証拠として)に生まれていると推論されます。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 14:36:33
父・貞純親王は916年に死んでいるのに息子・経基王は917年に生まれている(尊卑分脈)。

まあ母親ならあり得ないけど、父親だから経基を身ごもらせてすぐ死んだとかはあり得る。
でもすると経基の同父弟のはずの経生王は何者?ということになる。

そして次代の経基と満仲の年齢矛盾。

源氏の初期は明らかにおかしい。

日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 15:32:04
経基の承平の乱の屁たれぶりと天慶の乱の武功は余りにも隔たりを感じる。

「いまだ兵の道に練れず」

天慶の乱では武勇のある満仲兄弟を養子として出陣したのではないか?

または、武功を上げた満仲兄弟を養子にしたのかもね。

子の手柄は父の武功になるからね。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 16:09:34
2人とも告げ口が得意だから、類は友を呼ぶ式に意気投合して養子縁組みしたんだろ。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 16:31:02
陽成天皇
宮中で天皇の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺
貞観10年12月16日(869年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日)、つまり享年81の長寿

源満仲
延喜12年4月10日(912年4月29日)? - 長徳3年8月27日(997年10月6日)、享年87と伝えられている
藤原実資は『小右記』で「殺生放逸の者が、菩薩心を起こして、出家した」と書いている。

これに対して、清和天皇は享年32、源経基は享年45で、特段、暴虐の逸話もなし。

清和源氏の承平天慶勲功者としての虚名を陽成源氏の暴虐の血脈がうまく利用したと考えると
なんとなく腑に落ちる。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 18:44:30

満仲は皇孫なんかじゃないってば
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 18:59:03

陽成天皇の暴君説は藤原基経の陰謀で17歳の若さで退位させられた説もあるね。
源益殺害事件は宮中で殺されたとあるだけで陽成天皇の手によるものか定かではない。

退位後、上皇として歴代最長位を記録している。
後院とした冷泉院で陽成上皇は旱魃のおり京の一般庶民に池の水を開放している逸話が
残っている。
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 19:17:53
そういやなんで義光は新羅明神で元服したんだ?
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 19:27:03
>614
ソースは?
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 19:36:05
ブルドッグ
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 19:39:41

頼義の東国戦略では?
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 19:55:00

賀茂次郎義綱は賀茂神社で元服したよ
日本@名無史さん [] 2010/11/12(金) 20:59:09
頼義の全国戦略でしょ
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 00:40:11
八幡、賀茂、新羅と全て新羅と縁がある神社なのが気になるな。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 02:00:57

> 経基の承平の乱の屁たれぶりと天慶の乱の武功は余りにも隔たりを感じる。

そもそも対純友戦でも経基に

>武功

なんてあるのか?
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 02:19:56
純友の手下を討ち取ったと適当に自己申告したんだろ
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 07:26:45

武功なしで天慶の乱鎮圧勲功者なんかになれたんだろう?

なりすまし?

それとも陽成上皇(存命中だから)のバックアップ?
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 07:38:24
いまの国土交通大臣みたいに末端の部下の独断専行でも責任問題になることもあるし、
その逆にたまたま勝ち戦の幹部に名を連ねていただけで論功行賞にあずかれることもあるということだろ
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 07:52:11
満仲非皇孫説を否定したいだけじゃないのか?
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 08:06:02
経基は承平乱時点ですでに臣籍降下(出典はあるよ)してるわけだし

たとえ王家であったとしても近世の宮家なんかとは違ってスペア機能は

ほとんどない(史料上、継体天皇、光仁天皇の例以外)。

だから清和(陽成)源氏が血統的に非皇孫であっても何ら支障は無い。


日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 08:39:33
文徳、清和、陽成の皇統は意図的に断絶させられてる。

光孝、宇多、醍醐の皇統が現皇室だね。しかも宇多源氏は圧倒的に家格が高い。

清和源氏を名乗ることで鎮魂思想に訴えるメリットはあったであろう。

朝廷にしてみれば王家の守護者として清和源氏は適任(頼光の魔物退治)であった。



日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 09:00:19
以降のほぼ10分おきのレスは同一人物か?

満仲(以降)は俺だって疑ってますよ。

経基は、たまたま勝ち組に乗っかってたっていうだけで、恩賞組には間違いないにしても、やけにその程度が高いなと常々思っていたわけで。

秀郷や貞盛みたいに激戦をくぐり抜けてるわけでもなければ、橘遠保みたいに敵の首領を捕縛という手柄をあげているわけでもないのにね。

その遠保なんて叙爵(従五位下)の栄誉にすら授かっていないんだよ。

手下を1人捕まえた程度らしい経基程度の「武功」なら、他にも大勢いただろうに。

この差は何故だ?

というのを前から感じていたわけよ。

やはり、将門の時の誣告が一転して評価されたというあれなのか?

それこそ当時は経基のブレーンだった満仲が、経基に本当の「武功」の1つでも上げさせてあげようと、
花を添えた“プレゼント”だったかもね。

日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 09:30:32
朝廷にしてみれば血統的に正当な皇統子孫が武力を持つことは恐いよね。
非皇孫の満仲が経基の名跡だけを継いでくれた方が安全だし、が言ってるように
「陽成源氏」への鎮魂思想で「王家の守護者」として利用出来るからで
非皇孫満仲、頼光が「陽成源氏」と名乗っても寧ろ都合が良い。

頼信の石清水八幡宮に残る応神天皇陵に奉げた告文の写しも当時の「陽成源氏」のスタンスであり
「清和源氏」への改称はおそらく院政確立期(家の分業成立)になされたのであろう。

日本@名無史さん [sage] 2010/11/13(土) 09:34:33

無駄に空行作るなボケ
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 09:38:27

図星突かれたからって話そらすなよw


連投の「同一人物」さんw
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 09:50:53

は無関係だよ。
それよりみんなの考えを聞かせてくれ
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 10:24:47

>それよりみんなの考えを聞かせてくれ


何に対する

>みんなの考え

だよ?
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 11:00:17

満仲非皇孫説。
文徳系からの皇位簒奪に伴う「清和(陽成)源氏」への鎮魂思想から「王家の守護者」と成り得た説。
631 [] 2010/11/13(土) 11:04:42

一連の連投は俺だよ。

重要な問題提議をしてるんだよ。が俺の考え。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 12:07:07

>重要
ねえ。

そんなに
>重要
ならとっくに研究者諸氏によって
>問題提議
されてると思うんだがその変はどうなのよ?
それに陽成帝が
>鎮魂
が必要とされるほどの悲惨な存在と見なされたのならば、
満仲以下の非血縁に繋がせてどうのこうのと、そんなまわりくどいことをする前に、
まずは御霊神社でも建てて祭るはずだとも思うんだが、その辺はどうなのよ?
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 12:17:39
言っとくけど、で既にレスしたが、
俺は経基-満仲前後の清和源氏の系譜は明らかにおかしいとは思っているよ。

だが、それは陽成への鎮魂がどうとか、天慶乱よりも1世紀も前の承和の変なんかを持ち出すよりも、

もっと直載的に、「経基」そのものにその原因があるような気がしている。

631 [] 2010/11/13(土) 12:59:12
「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」
日本@名無史さん [sage] 2010/11/13(土) 14:26:44
満仲は多田の豪族か
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 15:19:45
宇佐八幡は辛嶋氏、賀茂は秦氏で新羅つながり。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 15:57:31
満仲非皇孫説というのはよくわからないな。ソースを訪ねても、ブルドックしかないらしいし。
ちなみに連投のなかでだけは自分だが、経基が大した武功もないのに他の連中より
不当に高い恩賞にあずかれたということ自体が皇孫の特権だったとしか思えんのだがな。

満仲にしても、皇孫でも藤氏でもないどこの馬の骨とも分からない殺生放逸の者が、
どうして世襲万能主義の朝廷権力の中枢に食い込めた等と思えるのかが不思議なんだが。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 16:27:32
九州の大蔵氏の者が源氏に偽装しようとしてギリギリのところでバレた事件を思い出した。
山のような源氏を全部チェック出来るハズもなく、
不可能とはとても思えない。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 16:53:37
九州のような僻遠の地でさえ結局ばれたんだろ
どうして朝廷権力のど真ん中で罷り通るっていうんだよ
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 17:08:55
よく覚えてないが、たしかそいつは三位くらいの位階を得ようとしてた。だから審査も緩くなかったんだろ。
それに、遠隔地ゆえに中央の事情を知らずに「源光」という同名の奴が存在する名前にしてしまった。
あと、満仲には経基という保証人がついてる。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 18:26:30
>偽装
も何も、正式に養子にするなり、婿に取るなりすれば、家を他人に継がせること自体は何の問題もないだろう。
それと、経基のパッとしない戦功と、その出世ぶりが釣り合わないという理由は、
確かに「皇孫の故」という風にも考えられるのだが、
しかしそれだと逆に何故、天皇の孫であるにも関わらず、経基は天慶3(940)年になるまで、叙爵されていないのかという疑問が生じる。

しかも、その叙爵は将門“謀反”の訴えが二転三転した末に結果として認められたという2年がかりの「功績」によるものだ。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 18:56:23
こんな仮説はどうだろう?

@陽成上皇は冷泉院で庶民とも交流をもってた事実があるので満仲を一旦猷子とした上で経基と養子縁組させた。

A将門密告に失敗し衛門府に拘留中に下級武官であった満仲に捻じ込まれて養子とした。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 19:43:42
多田についても調べなければな
631 [] 2010/11/13(土) 20:50:30
どうして清和天皇の孫王のみ蔭位の制が従五位下だったのだろうか?

他の天皇孫王の蔭位は従四位下である。
631 [] 2010/11/13(土) 20:53:26
皇位簒奪事件を念頭に論じて下さい。
日本@名無史さん [] 2010/11/13(土) 21:00:11
なるほどねー。

その流れで見るとなんとなく見えてくることはあるな、たしかに。
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 02:51:38
清和源氏か陽成源氏かの問題だが(養子云々は問題外として)
問題になったのは明治の末星野恒が岩清水八幡宮の古文書の中から頼信の願文を発見したことに始まる(但し原本でなく写し)
それ以来学者の間では問題になり現在まで決着していない
ただ清和源氏とする方が多数派なのは
1)陽成源氏とする文書がこれのみでしかも写しにすぎずこれの真贋も不明(発見の時期も遅すぎる、敢えていえば学者の功名心の可能性?)
2)経基以降義家まで五位以上に叙されており血筋を詐称するのは困難(確か経基の父が貞純親王という史料はほとんど同時代にあるはず)

年齢の混乱といえば頼義、義家親子も奇妙だ
生年を比較すれば父が50歳の時生まれたことになる(長男なのに?)
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 03:02:51
化石みたいな話されてもなー
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 04:30:14
故安田元久氏の執念
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 05:03:13

>どうして清和天皇の孫王のみ蔭位の制が従五位下だったのだろうか?
>他の天皇孫王の蔭位は従四位下である。

しかも、密告が評価されたという、功を成した上での昇進だもんな。

ふつう何も成さなくても叙爵されるだろ、皇孫なら。

日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 09:59:47
のことを考えれば経基と満仲が実親子でないのは確定でしょ?
631 [] 2010/11/14(日) 10:27:46
ここで清和(陽成)源氏と醍醐源氏の因縁について考えてみよう。

まづ思いつくのが安和の変であるが、これは周知のように満仲による密告で左大臣源高明
が失脚した事件である。

清和天皇皇子貞純親王はその邸宅桃園第にちなんで桃園親王と呼ばれていたが
貞純親王没後、その所有は醍醐天皇皇子代明親王に移り息子源保光(醍醐源氏)
に相続され経基王、満仲に相伝されることはなかった。

満仲は醍醐天皇皇女斉子内親王を殺害していた。後年内親王の実兄式明親王の息子
源親繁(醍醐源氏)が満仲邸に入った賊の頭目として親王は検非違使に捕縛された。
因みに式明親王は天慶の乱当時、太宰帥であり太宰少弐であった経基の上官だったのだ。

日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 10:47:17
満仲の前身は陽成上皇の暴力装置(退位後の庶子)だったかもね。
なんらかの理由で(斉子内親王殺害?)で皇族位を剥奪されていて陽成上皇の
甥にあたる経基の養子にもぐり込ませたかも。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/14(日) 12:04:13
なぜ多田を本拠地にしたのか
日本@名無史さん [s・a・g・e] 2010/11/14(日) 12:07:37
なぜ多田を本拠地にしたのか?
満仲の出自は?(貴族か否か)
そして満仲と経基の間に姻戚関係はあったのか?
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 15:29:06
鎌倉頼朝
伊豆頼朝
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 16:23:18
多田神社のホームページより

満仲公は武門の棟梁として、国家鎮護の大役を果たされたのみならず、沼地を開拓して多くの田畑を造り、
又河川を改修して港湾を築き、又鉱山事業など殖産興業に力を注ぎ、国力の増進と源家繁栄の基礎を築かれました。

>鉱山事業
これが気になる。

多田鉱山は元々、銅を産出してたらしい。天平年間に産出された銅は東大寺大仏鋳造に使われたと伝わっている。
また鉱山労働に従事したのは俘囚で彼らは多田別所と呼ばれたらしい。

満仲は摂津国国司を歴任しているが国司としての収入以外に多田鉱山が産出する銅が蓄財に大きく寄与し、
武士団を編成し摂関家の有力な武力となったのであろう。
鉱山と清和源氏は密接であり、頼光の大江山の鬼退治は大江山鉱山の頭目であった酒天童子からの鉱山利権奪取
だったと言われているし、頼義の前九年の役の目的が奥州の金であったことは疑いない。

満仲の出自は宇佐八幡に関係深いだろう。
北部九州には満仲の伝承が幾つか遺されており、所縁のある地名もある。
また、八幡神は軍事の神であるのと同時に銅の生産の神でもあるらしい。
宇佐八幡は全国八幡社の総本社であり「宇佐神宮」の祭神は応神天皇、比売大神、神功皇后である。

日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 18:58:17
鉱山といえば、河内源氏の本拠地・河内国は元は百済王(くだらのこにきし)氏の本拠地だよな。

日本で最初に金を発見したのは陸奥守・百済王敬福だし、同氏は鉱山と縁が深いはず。

河内源氏は百済王一族を配下に取り込んでいると考えるのが自然だよな。

日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 19:46:26
百済なんかくだらん
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 21:11:51
百済王氏は、秦氏や東漢氏などと同じ帰化系の日本人だ。

それに同氏は武蔵や陸奥の国司に多く任じられている等、軍事貴族と重なる部分もあって大事だよ。
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 21:20:34
宇佐氏は秦氏系
日本@名無史さん [sage] 2010/11/14(日) 22:37:20
義平は忘却の彼方だな
日本@名無史さん [] 2010/11/14(日) 22:48:19
だから新羅明神も渡来人つながりかと思いまして。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 00:34:25
はぁ?馬鹿じゃないの?
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 01:35:50
日本の歴史は朝鮮からの渡来人無しでは語れん。
まあ朝鮮にも同じこと言えるかもしれんが。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 02:02:45
義平と関係なさすぎ
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 03:00:29
いやいや義平の先祖の話ですぞ!
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 08:54:21
応神天皇期に弓月君に率いられて渡来してきた秦氏は百済系ではなく、新羅系である。
物的証拠として秦氏根拠地広隆寺出土の瓦は新羅様式であり、弥勒菩薩半迦思惟像は
新羅領域で出土した弥勒菩薩半迦思惟像と酷似している点があげられる。

また、京都太秦以外に現在の福岡県大分県に住み着いた大きな集団が居て
宇佐の地に八幡社を祭ったという事実があり、その社家は秦氏系だという。

満仲の八幡信仰、軍事力、鉱山技術はこの秦氏に負う所が多かったと推測される。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 12:06:35
頼義は長男・義家を八幡神社、次男・義綱を賀茂神社、三男・義光を新羅神社で元服させた。
源氏の八幡信仰は義家流の頼朝が幕府を開いた鎌倉期に確立したにすぎない。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 12:12:56
一応賀茂も秦氏に関係あるからな。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 12:33:10

んなこたない
頼信と石清水八幡宮の関係は密接だよ。

清和源氏と大神氏の関係も気になる。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 14:53:25
 八幡権現大菩薩は、本朝大日本人帝16代の武皇。(中略)第15代の女帝
 神功皇后の御懐中より降誕の当初、閭巷の諺、謚号としての誉田天皇と称しき。
 (中略)八幡大菩薩の号を申す也。

  先祖の本系をあきら奉れば、大菩薩の聖体はかたじけなくも某が22世の氏祖
 なり、先人は、新発(満仲)、其の先は経基、其の先は元平親王、其の先は陽成
 天皇、其の先は清和天皇、其の先は文徳天皇、其の先は仁明(深草)天皇、其の
 先は嵯峨天皇、其の先は桓武(柏原)天皇、其の先は光仁(白壁)天皇、其の先
 は天智天皇、其の先は施基皇子、其の先は舒明天皇、其の先は敏達天皇、其の先
 は欽明天皇、其の先は継体天皇、其の先は彦主人王子、八幡宮五世孫也。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 15:25:33

俺は妙見信仰と八幡神の関係(混淆)、
及び妙見信仰を関東に持ち込んだ新羅系渡来人集団と、のちの源氏の関係が気になるな。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 18:30:39
原八幡信仰は仏教、道教そして景教(ネストリウス派キリスト教)の影響があるという。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 19:38:17

まさかそこから満仲が?
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 19:52:38
秦氏は当初、豊前国香春岳山麓で銅を採掘していた。また宇佐にも秦氏の一族である辛島氏が入植。
この香春岳近くの福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮が宇佐八幡の元宮で、その新宮として辛島氏が
宇佐神宮を建てたとされている。
日本@名無史さん [] 2010/11/15(月) 21:02:57

摂津国久々知広済寺の縁起
天徳元年(957)多田満仲が矢文を放ち、それが矢文石に当たり、その地に北辰星(妙見宮)
を祀ったことに由来する。

また関東での妙見信仰は武士団の弓箭神(戦勝神)として、越後(平氏)城氏、下総千葉氏、武蔵秩父氏に
見られるように、武士団の団結の象徴として信仰された。

日本@名無史さん [] 2010/11/16(火) 06:32:26
波豆八幡神社
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E8%B1%86%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

源満政(満仲弟)創建だそうで。
この伝承によれば、清和源氏は実質初代から八幡信仰を持っていたことになるね。

日本@名無史さん [] 2010/11/16(火) 21:34:08

>関東での妙見信仰は武士団の弓箭神(戦勝神)として、越後(平氏)城氏、下総千葉氏、武蔵秩父氏に
>見られるように、武士団の団結の象徴として信仰された。

両総平氏や秩父氏は北辰妙見信仰で有名だけど、
同じ良文流でも三浦党や中村党など相模平氏は北辰妙見信仰ではないよな。

ここに鍵がありそう。

つまり、父方は同じ良文流平氏だとしても、
平氏が婿に入って平姓を名乗るようになる前の母体一族は、両総・武蔵系平氏と
相模平氏とではそれぞれ違った一族ということなんだろう。

そして千葉氏や秩父氏は、その母体氏族(おそらく国造)が北辰妙見神を奉る一族だったのだと考えることが出来る。

日本@名無史さん [] 2010/11/16(火) 22:27:17
三浦青雲介とかいたよな。
日本@名無史さん [] 2010/11/16(火) 23:01:28
三浦氏の前身は御浦郡司代・太田部直氏(相模国造氏族)。

相模国造は出雲臣族で、武蔵(無邪志)国造と同族。
足立(安達)氏などは本来はこの系統だろう。
房総の菊麻国造も同族で、この菊麻国造はもしかしたらもしかしたら上総党の母系・母体一族かもしれない。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/17(水) 00:29:08
相馬御厨を巡る争いが激しかったのは何故なんですか?
義朝も争いに加わってきますし、それほど価値のある荘園だったのですか?
日本@名無史さん [] 2010/11/17(水) 00:36:25
伊勢神宮領の荘園(御厨)は、院宮王臣家の荘園に比べて押領がしやすかったとか。
だから相馬御厨も大庭御厨も、義朝に押し入られている。
日本@名無史さん [] 2010/11/17(水) 06:10:52

竹芝もそうだったのか

北関東が毛野氏系で
南関東は出雲氏系。

武蔵一ノ宮の氷川神社は出雲神の須佐之男命を祭神としている。
「国造本紀」によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝えている。

日本@名無史さん [] 2010/11/17(水) 06:18:13
だんだん分ってきたぞ。

武士団の主力部隊は古代軍事氏族だったんだな。

棟梁レベルでは従来の定説を疑わないけど。
691 [] 2010/11/17(水) 06:47:59
武士団の棟梁は王臣子孫の寛平延喜勲功者、承平天慶勲功者で

実行部隊「郎党」は古代軍事氏族の毛野氏系、出雲氏系、佐伯氏系、大伴氏系、物部氏残党

没落した律令軍事官僚子孫で渡来氏族の秦氏は鉱山製鉄、武器製造技術、牧馬を「俘囚」に関しては

(騎馬)戦闘技術を摂取したに過ぎないな。

従類レベルでは知らないけどね。



日本@名無史さん [] 2010/11/17(水) 07:58:17
出雲氏族とは島根県に勢力を張っていた氏族ではなく出雲を橋頭堡として朝鮮半島から渡ってきた氏族です。
日本@名無史さん [] 2010/11/17(水) 09:06:22
婿入婚はよく言われるが、婿をとる古代氏族の末裔の男子はどうなった?
庶流の坂東平家等の庶流の一部を構成?
日本@名無史さん [] 2010/11/17(水) 21:53:24
三浦氏←御浦氏←大田部直氏←(相模宿禰氏)←漆部直氏←出雲臣氏

鎌倉氏←鎌倉別氏←日本武尊

中村氏←師長国造

波多野氏←佐藤氏←佐伯宿禰氏←秦氏

秩父氏←知知夫国造氏
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 00:27:15
なんで秦から佐伯になるの?
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/11/18(木) 00:29:22

郎党に自然降下。
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 00:38:03

俺もそう思う。
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 02:03:52

佐伯氏が秦野に土着、及至は根拠地を得たのは、佐伯経資かその子・経範の代で
その時期は早くとも11世紀前半頃と思われる。

佐伯経資は源頼信の郎党となり、頼信が相模守時代(1036〜40?)に、その目代となって相模国に赴任しているとされる。

では、1030〜40年代以前の秦野盆地は無人地帯だったのか?

もちろん、そんなわけはあるまい。

現に秦野には、6世紀後半の築造といわれる二子塚古墳が存在している。

秦野(ふるくは幡多)及びその周辺には、加羅子神社のような渡来人起源を持つと思われる神社があり、また徐福(秦徐福)伝説も数多く存在する地であることから、
佐伯氏土着前の秦野の地は秦氏の根拠地であり、佐伯氏はその秦氏の婿に入ったと考えるのが今のところ最も理に敵った見方だと考えている。

日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 02:12:07
↑で書いた秦野の二子塚古墳だけど、今年7月の発掘調査で、同古墳内から長さ約58センチの直刀「銀装太刀」がほぼ完全な形で出土した。

秦氏との関連が気になる。

日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 03:20:31
古代氏族側が中央官人子孫、王臣子孫を婿入りさせるメリットってやはり王権か?
律令制が正常であれば婿入りさせるメリットは無いわけで
王朝期へと時代が変遷し王権のメリットに与るためだね。

王臣子孫は手ぶらで婿入りしたのかな?家臣団なんていないだろうから少数の従者だけだろうね。
その従者が武術のインストラクターかな?
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 03:57:36
武士の起源を武器の面から話すると

大鎧やその元と考えられる桂甲は片田舎で作れるような物じゃないみたいだね。
製作技術者は無論、「小札」の鉄、兜の鉄の成形、なめし牛革、威しの組紐は当時としては
高度な生産技術であり、家内生産出来るようなものじゃないらしい。
場所としては人と物資物流の集積地か寄人(職人集団)を維持出来る経済力が無いと
駄目みたいだね。
ということは京の都しか考えられない。

武器は使用者によって発展するから在京の人ということになる。
京では弓箭武装は禁止されてたから可能だったのは武官、府生といった
検非違使構成員だね。
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 05:05:42

招婿婚自体は律令時代どころか、遥か神代の時代から行われていた日本の婚姻形態・婚姻制度だったと思うよ。
国造だって大王の一族で地方に派遣された者が、その地方に既に存在していた有力在地豪族に婿入りしたものだってあっただろうし。

当時の結婚は政治行為の一環だから(現代ですら多分にそういうところはあるが)、
中央貴族と地方豪族の婚姻は、双方にメリットがある双務条約と考えたらいいと思う。

もちろん中央貴族同志、地方豪族同志の婚姻も同じこと。

日本@名無史さん [sage] 2010/11/18(木) 07:39:50
馬具
関東=実戦的
畿内=儀礼的

治承寿永期もだが
古墳時代から戦国時代に至るまで
この傾向は続いたようだ。
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 17:00:52

> 古代氏族側が中央官人子孫、王臣子孫を婿入りさせるメリットってやはり王権か?
> 律令制が正常であれば婿入りさせるメリットは無いわけで

律令制は地方においては最初から無理があったから、
国司の裁量で、その土地土地に合わせたやり方で柔軟に対応して施策を実行してた部分も最初からあったと思う。

> 王朝期へと時代が変遷し王権のメリットに与るためだね。

後期王朝国家体制期に入ってからの田堵負名層と中央との直接の結び付きに、受領が対抗するため、
受領は任国内における武士身分の田堵負名層(多くは国造、郡司層の子孫)に公領経営を任せるようになった。
やがて、彼ら武士身分の田堵負名たちは在地領主化して行く。

そうした過程を通して中下級貴族である受領と、武士身分の田堵負名層との姻戚による結び付きなども起こって行ったのだと思う。

日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 18:16:17

継体天皇もそんな出自かな。
そして雄略の粛清で皇族がほぼ消えた中央に入婿
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 20:53:59

>継体天皇もそんな出自かな。

畏れ多くも八幡大菩薩様5世の孫です
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 21:47:43
応神天皇って何なんだ?
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 21:53:10
シャーマニズムかなんかで臣下は大王家と婚姻出来なかったんだよね。
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 22:25:41
んなアホな。

日本武尊は穂積氏の弟橘媛を后にしてるし、
だいたい初代神武天皇からして大和のヒメタタライスズ媛と結婚してるじゃん。
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 23:17:23
連と臣の話じゃない?
日本@名無史さん [] 2010/11/18(木) 23:22:37

既に臣従してる豪族とは婚姻しない。
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 04:20:03
穂積氏は「臣」姓だし、物部支族だしで、
日本武尊や景行天皇の代にはとっくに臣従しているはずだが?
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 13:38:06
ということは、実際には日本武尊や景行天皇よりもあとに穂積氏、物部氏は臣従したということか。
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 17:11:48
が言ってることは
皇族女性(内親王)と臣下は、基本的に婚姻関係を結ばないということだろう。

皇族・皇孫男性と臣下娘・地方豪族娘との姻戚関係は常識で考えたって山ほどもあるだろ。
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 18:02:01

>シャーマニズムかなんかで臣下は大王家と婚姻出来なかった

伊勢神宮の斎宮のことか?

シャーマニズムかなんか

日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 18:32:04
満仲の斉子内親王(斎宮になる予定だった)殺害疑惑を知ってる人は教えて。
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 18:58:27


満仲は裏の粛清暗殺(穢れ)を担当する請負業者の長だな。
特高やモサド・KGBとおんなじ匂いがする

無能っぽい経基とは匂いが全然違う。

満仲のことを考えるといつも背中がゾクゾクするのを覚える。

日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 19:26:00

wikiに出ているけど、ソースは一体何なんだろう? ネット上ではほかに見当たらないけど。
「承平6年(936年)、斉子内親王を伊勢斎宮に左遷して謀殺した疑いを持たれる。天徳4年(960年)、平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこれの捜索を命じられた武士のひとりとして現れたのが史料上の初見。」
とあるけど、「史料上の初見」より24年も前の「謀殺の疑い」って、そもそも誰にが疑われたという史実なの?
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 19:35:07
もし満仲が主人公の映画かドラマをやるとしたら主役は北村一輝で決まりだね。
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 19:54:34
誰か満仲スレ立てないかな
日本@名無史さん [] 2010/11/19(金) 22:46:25
「悪源太義平」でこれだけ語りまくれるとは
おまいら凄いぞw
日本@名無史さん [] 2010/11/20(土) 00:52:03

大蔵春実の大蔵氏は秦氏系だと言われてるね。

雄略朝以来、国庫「大蔵」を管理する職に就いていて大蔵氏を名乗ったらしい。

天慶の乱勲功者、大蔵春実の子孫は九州に土着し原田氏、秋月氏等が出た。
日本@名無史さん [] 2010/11/20(土) 01:05:27
百済出身の東漢氏じゃないか?
日本@名無史さん [] 2010/11/20(土) 10:29:32
経基と満仲は実親子でないことは確実なのか?
日本@名無史さん [] 2010/11/20(土) 14:11:17

DNA鑑定とか科学調査が必要だね。
経基と満仲の本当の墓はどこにあるのだろう?
日本@名無史さん [] 2010/11/20(土) 18:08:49
内親王殺しが事実なら確実に親子じゃない
日本@名無史さん [] 2010/11/21(日) 03:18:53
満仲は皇孫なんかじゃないね。
日本@名無史さん [] 2010/11/21(日) 03:23:32
それじゃ
清和源氏将軍を信じてきた日本人がかわいそう。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [sage] 2010/11/21(日) 03:58:30
そりゃどう見ても満仲は皇孫ではなかろ。
日本@名無史さん [] 2010/11/21(日) 04:21:43
満仲は秦氏か東漢氏で論を進めたいね。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/11/21(日) 04:54:38
入婿込みで?
日本@名無史さん [] 2010/11/21(日) 11:41:15
初期の清和源氏の本拠地は渡来人の地域だったらしいからな。
どこだったかは忘れた。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/21(日) 13:19:41

主に河内
次いで大和、摂津、山城周辺
日本@名無史さん [] 2010/11/21(日) 14:23:38
河内かぁ、

河内なら、
上は百済王氏、
中間は秦氏、
下は畿内各地から逃げ込んできた逃亡俘囚の貧民窟(アジール)と。

そんな土壌ですね。
日本@名無史さん [] 2010/11/22(月) 22:32:36
頼信は河内弁喋ってたのかな?
頼義、義家親子が東北で河内弁まくしたててたと思うとおもろいな。
日本@名無史さん [] 2010/11/22(月) 22:40:16
河内弁知らないけどこんなもん?

雁の乱れよう見てみいや われw
草原に伏兵よ〜けいおるわ 知らいでか〜ボケw
日本@名無史さん [sage] 2010/11/22(月) 23:03:35
つか京都在住
河内は関係ない
日本@名無史さん [sage] 2010/11/22(月) 23:06:06
既に河内弁が成立してたかどうかから検証する必要がある。
日本@名無史さん [] 2010/11/22(月) 23:17:48

源頼信
河内国に土着して石川郡に壺井荘を拓き、香炉峰の館を建てる。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 01:27:20

>雁の乱れよう見てみいや 

この話も後付けされた話臭いよなあ。

後三年役は義家が官符(国の許可)も得ずに、
勝手に清原氏一族の内紛に軍事介入した事件。
従って配下(てか実質与党?)の関東武士にそんな真似が出来るとは思えないんだよな。
関東武士に見限られたら義家はおしまいだから。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 01:30:48
義家「われ、何さらしてけつかるんじゃ!」
貞任「んだば、はっぱり、ほでねなはん」

日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 02:13:39
古代?中世初期じゃ 畿内以外じゃ言葉なんて通じたのかな?
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 14:32:08
国衙で京下りの国司は標準語(京言葉)で在庁官人は訛の有る標準語。

郡司はなんとか標準語は理解できるけど普段は方言。

公民以下は方言というか当たり前に地域言語。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 14:51:36
日本語の方言じゃなくて、完全な別言語が有っても不思議ではないな。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/23(火) 15:26:23
河内居住だったら中央軍事貴族ではなく
地方軍事貴族になるぞ
生まれはまちまちだが住まいは都だ
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 15:43:03
奥羽の安倍氏や清原氏のような僻遠の地の豪族ですら、以外と奥羽と京の間を往ったり来たりしていたという説もあるくらいだしね。

日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 16:03:07
私営田経営や馬牧管理人と並ぶ、
武士発生当初からの
武士や地方豪族の主要な職業の1つが、(官物などの)物流・輸送業だからね。

平将門も若い頃は藤原忠平に私的に仕えて都に住んでいたりしたのも、そうした武士の職掌の流れをひいた上でのことだろう。

また、ライバルの藤原秀郷についても、直接の記録は残っていないものの、状況証拠などから、彼は若い頃から醍醐源氏に仕えていた形跡があり、やはり都住まいをしていたことがあると推論している学者もいる。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 22:37:49

上京経験が有るとか居住経験が有るとかと訛が有ったり方言話者であることとは
無関係である。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 22:55:17
スレ違いになるんだが
江戸下町の「べらんめぇ調」は向島、深川に移住してきた大阪の漁民達がルーツらしいね。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 23:14:26
「〜だべ」「〜だっぺ」が中世関東標準語だね。
日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 23:22:39
言葉は親子でも生まれ育った居住地域による差異によって大きく異なるよ。

義朝は関東訛の京言葉で義平は関東弁、頼朝が生粋の京言葉だった可能性は高いね。

日本@名無史さん [] 2010/11/23(火) 23:38:09
河内源氏が東国武士に号令出来たのは河内弁による威圧に他ならないね。
日本@名無史さん [] 2010/11/24(水) 00:58:39
関西では河内、摂津。関東では上州がやくざの本場とされる件。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/24(水) 01:26:27
人国記(岩波文庫)

下野国
多くは清の内の濁を得たる人多くして、その清濁流通することなくして邪気甚だしく、傍若無人にして、
常に業とする事とては、辻切・強盗の類にて少しも恥づる事なく、欲心ありてつれなく、而も悪を知りて直なることを用ひず、
形の如く風俗悪しし。
然れどもその勇気の強きことは、上方の五か国七か国を合はせたるよりは猶も上なるべけれども、
更に理非を弁ふることなきが故に、法外のみ多し。
日本@名無史さん [] 2010/11/24(水) 02:29:14

での中央軍事貴族、地方軍事貴族という概念を踏まえた上での論なので関係大有りである。

それとも、ここでは方言に特化したレスをしなければならないという「決まり」でもいつの間にか成立したのか?
日本@名無史さん [] 2010/11/24(水) 02:45:44

>言葉は親子でも生まれ育った居住地域による差異によって大きく異なるよ。

> 義朝は関東訛の京言葉で義平は関東弁、頼朝が生粋の京言葉だった可能性は高いね。

前半には同意。
親が転勤族だったので、自分と親とでは今でも話し言葉が違う。

後半は、ちょっと疑問。
自分でいうと、14歳になって暮らした土地の方言も強烈に身に付いてしまった。
頼朝が伊豆に流されたのは満12〜13歳の時なので、
>生粋の京言葉
のまま成人したとはちょっと考えにくい。
752 [] 2010/11/24(水) 07:53:28
ごめん

平治の乱時点でということで
日本@名無史さん [sage] 2010/11/24(水) 13:47:45

その前にここは義平スレであることを忘れている奴が多数。
日本@名無史さん [] 2010/11/24(水) 17:18:23

「義平」は古代、中世初期の武士(起源と成立)を語る上での記号としての認識です。


日本@名無史さん [] 2010/11/24(水) 19:00:17
そうだね。
どうしても兵の家、京武者、軍事貴族
といった武士の発生論、成立論の話はついて回ってくる。

方言とかまではどうか知らんが。
日本@名無史さん [] 2010/11/24(水) 19:37:56
ここを「総合武士論スレ」にすればいいかも
日本@名無史さん [] 2010/11/25(木) 03:51:07
経基が清和源氏に非ずとか
経基と満仲が実親子でないとか
疑わしい史料に基づく一部の学者の説をあたかも事実という議論にはついて行けない
それよりも俺としては
・義平は嫡男とみなされていたか?(特に義朝配下の武士から)
・母の身分からの頼朝との比較は?
・保元の乱時点の本来棟梁である筈の為義の配下に義家以来の関東武士は皆無
この辺を書き込みたいのだが・・・
日本@名無史さん [] 2010/11/25(木) 04:16:24

>・義平は嫡男とみなされていたか?(特に義朝配下の武士から)

とてもみなされていたとは思えない(任官、位階などの点で)。


>・母の身分からの頼朝との比較は?

比較にならないと思う(故に上での任官の差などにも現れてくる)。

>・保元の乱時点の本来棟梁である筈の為義の配下に義家以来の関東武士は皆無

2つの点で疑問がある。
これまで散々述べられて来たように為義が果たして「本来の棟梁」であると言えるのかどうか、というのが1つ。
次に、「義家以来の関東武士の配下」など果たして存在するのか、というのが2つ。

それこそ後世に作られた
>疑わしい史料に基づく
>説
であることが濃厚と思われる(特に第2点目)。

日本@名無史さん [sage] 2010/11/25(木) 13:32:30
寧ろ頼政の方が河内源氏の棟梁格。
日本@名無史さん [] 2010/11/25(木) 14:47:04
頼政は摂津源氏
日本@名無史さん [] 2010/11/25(木) 19:49:57
112 :日本@名無史さん:2010/10/12(火) 17:37:28
河内源氏の先祖伝来の本拠地でと言うのであれば義時の子孫の石川源氏が正当であるが

嫡出子の系譜で考えれば義家から家督を相続した義忠の子孫が正当と考えられるが義忠の嫡男

経国はなぜか義兄の為義に家督を譲ったことになっている。 

幼くして実親を亡くすと義兄や叔父に好い様にやられてしまういい例だな。

その後、経国は叔父義国に坂東に連れて行かれ義国の家人同然にされてしまうんだな。

経国の没後、家督は弟義高が継ぎ母方の伊勢平氏の背景もあり従四位下左兵衛権佐まで

官位を進めてるんだな。

義高の系統は平家滅亡で散位となるが子の義成は後鳥羽上皇に近侍し従五位上河内守となっている。

河内源氏の嫡流は義高の系統なんだな。


日本@名無史さん [] 2010/11/25(木) 23:06:02
長男=義平・・・・→橋本遊女(三浦義明養女?)→坂東武者
次男=朝長・・・・波多野義通妹→京武者
三男=頼朝・・・・熱田季範娘→院近臣
四男=義門・・・・同上?
五男=希義・・・・同上
六男=範頼・・・・池田遊女→(範頼は院近臣高倉範季養子となるが母の後見は不明)
七男=全成・・・・九条院雑仕女(常盤御前)
八男=義円・・・・同上
九男=義経・・・・同上→一条長成養子
日本@名無史さん [] 2010/11/25(木) 23:19:01
十郎
五郎
日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 01:40:16
波多野氏の離反は一族出身の朝長が嫡子の座を頼朝にとられたかららしいが、院近臣と京武者じゃさいしょから話にならない
日本@名無史さん [sage] 2010/11/26(金) 02:03:09
頼朝は、義朝の主人藤原信頼から「頼」をもらっていると考えると、別枠だが。
義平のほうが、通字の「義」がついていて、朝長にはついてない。
これをみると義平の地位もそう低くなかったといえるんじゃないか。
ただし、なんかのきっかけで、地位が低下したと考えられるが。
日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 03:01:23
112 :日本@名無史さん:2010/10/12(火) 17:37:28
河内源氏の先祖伝来の本拠地でと言うのであれば義時の子孫の石川源氏が正当であるが

嫡出子の系譜で考えれば義家から家督を相続した義忠の子孫が正当と考えられるが義忠の嫡男

経国はなぜか義兄の為義に家督を譲ったことになっている。 

幼くして実親を亡くすと義兄や叔父に好い様にやられてしまういい例だな。

その後、経国は叔父義国に坂東に連れて行かれ義国の家人同然にされてしまうんだな。

経国の没後、家督は弟義高が継ぎ母方の伊勢平氏の背景もあり従四位下左兵衛権佐まで

官位を進めてるんだな。

義高の系統は平家滅亡で散位となるが子の義成は後鳥羽上皇に近侍し従五位上河内守となっている。

河内源氏の嫡流は義高の系統なんだな。


日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 12:11:39

いや、清和源氏初期の系譜はかなり怪しいだろ。
日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 16:45:47
洞院公定が『尊卑分脈』を編む時に、公定に清和源氏の系図を提出したのは源氏のどの一族だったのか?

また、公定ほどの当代一流の博識が、提出されたその系図を見て、清和源氏初期の諸矛盾に気付かぬ筈もなく、公定はその点を源氏の者に尋ねてみたりはしなかったのか?。

更に、『尊卑分脈』として世に出た系図集を見て、
数多ある源氏の一族の内、その矛盾に気付いたであろう者の中から
「自家の系譜を怪しげな、胡散臭いものに仕立てあげられた」と怒りを表明したり、洞院公定にクレームをつけたり、その修正を迫ったりした者は現れなかったのか?

現れなかったとしたらそれは何故なのか?

日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 21:45:55
国史大系の尊卑文脈は注意が必要
日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 22:28:48
そうなの?
日本@名無史さん [] 2010/11/26(金) 23:18:59
日本国王「源道義」を名乗る義満の時代でしょ。
それ。

答えはもう分るはず。

皇統簒奪も考える奴だよ。
777 [] 2010/11/26(金) 23:21:17
先ず
義国を義忠の兄とした時点でアウトでしょ
日本@名無史さん [] 2010/11/27(土) 03:46:26
源氏長者まで手に入れた義満はその権限は強大だった。
スレ違いでスマソ。

日本@名無史さん [] 2010/11/27(土) 09:55:21

たしかに義満の将軍在職中と重なるね。

しかしそれだと、逆に
皇位簒奪まで図ったとされるような権力絶大なる人物ですら、のような杜撰な内容を抱えたままの系図を世に送り出さざるを得なかった、ということにもなってしまうんだな。

矛盾が解消されるように系図を書き換えて差し出したら差し出したで、他の源氏諸氏(佐竹、武田、小笠原、etc)のものと比べられて、すぐにバレてしまうだろうし。
日本@名無史さん [] 2010/11/27(土) 11:42:10
尊卑文脈には佐竹、武田、小笠原の始祖について、極めて悪し様な記事が載せられているが文句はいえなかったようだな。
日本@名無史さん [] 2010/11/27(土) 12:11:37
新羅三郎義光は、後三年の役で苦戦する兄・義家を助けようとして、奥州に駆け付けたとされるが、
後の、もう一人の兄・義綱に無実の罪を着せたアコギなやり方を見ると、奥州に駆け付けた理由は全く別のものなんだろうな。

おそらく「義家一人に武功を独占されてたまるか」
とか、
「自分も義家に便乗して少しでも恩賞にあずかってやれ」
とか、そんな動機からだろう。
日本@名無史さん [] 2010/11/27(土) 12:39:38
どう考えても義国流の嫡流は義庚じゃなくて義重だろw
義庚は義朝と藤原季範の相婿であり頼朝から血縁的に近いので足利が優遇されただけだよ。

ところで義国が叔父義光と常陸合戦をしたのは偶然にも義平と同い年の十五歳なんだね。
結果は、この足利の先祖は佐竹、武田、小笠原の先祖に負けたけどね。
250年前の因縁か佐竹、武田、小笠原は室町幕府じゃ全然優遇されてない。
日本@名無史さん [] 2010/11/27(土) 15:13:10
殺さないで









君を殺すから
日本@名無史さん [sage] 2010/11/27(土) 18:12:44
武田、小笠原は守護大名としても、奉公人としても活躍していたような。
三管四職と比べちゃ劣るけど。
日本@名無史さん [] 2010/11/28(日) 00:18:22
義光と常陸合戦をした義国の子孫の傍系・足利がつくらせたのが尊卑文脈だということ。
日本@名無史さん [sage] 2010/11/28(日) 00:34:32

三浦娘説>>>>>遊女説 
(上横手)
日本@名無史さん [] 2010/11/28(日) 02:33:00

ん?足利家がなんでわざわざ自分の家の信頼性を著しく損なわせるような事蹟を尊卑分脈として書かせるんだ?
室町幕府将軍家としての権威が失墜してしまうじゃん。

日本@名無史さん [] 2010/11/28(日) 02:37:47
じゃあ、一体誰が?
日本@名無史さん [] 2010/11/28(日) 09:14:48

俺はじゃないけど答えよう。

「尊卑分脈」作成時の14世紀中葉はご存知のように義満が権力を極めた時期である。
義満の権力の源泉は河内源氏でも征夷大将軍でもなく「淳和奨学両院別当源氏長者」である。
村上源氏(公卿)を含めた全ての源氏の氏長者ということで清和源氏の出自の云々をも凌駕させて
しまった訳だね。
さらに義満は室町幕府を日本国総追捕使右大将家頼朝の正当な後継者と位置付ける必要も有り
「尊卑分脈」の義国流嫡流義庚(頼朝の母方叔父)を明記強調したのだよ。

准三后の宣下により義満は臣下の立場も超えてしまい公武両勢力の頂点に立ったんだな。
790 [] 2010/11/28(日) 12:28:42
義満が征夷大将軍を受け継いだ時点では足利家(嫡流としても)は武家の棟梁としてまだ
認められてた訳じゃないし、北朝室町幕府政権は国際的にも日本を代表する政権としては
認められていないんだよね。

南朝は論外として一門筆頭の斯波氏は管領職を忌避してるし山名氏、大内氏は公然と反抗している。
守護大名さえ手に余ってる状態だった。
対外的には懐良親王が大明帝国から「日本国王」の冊封を受けてしまっていたので国書も書けない状態
だったのだよ。

義満が権力の階段を登り始めたのは1378年(天授4年/永和4年)3月に右近衛大将に任ぜられ権大納言を
兼務して以後なんだね。内大臣、左大臣と昇進し1383年(弘和3年/永徳3年)には武家として初めて源氏長者
となり淳和・奨学両院別当を兼任している。
出家して天皇の臣下の立場を解消して1401年(応永8年)、「日本国准三后源道義」の名義で建文帝から冊封
を受けているんだね。
日本@名無史さん [] 2010/11/29(月) 05:29:54
つまり「尊卑分脈」は洞院公定が自分の意志で編纂したのではなくて、
足利義満が編纂させたということなのか?
日本@名無史さん [] 2010/11/29(月) 08:56:28
頼義流>義家の弟・義光のことをひどく誹謗中傷(義光は義国と常陸合戦で対立)
義家流>次男・義親の子とされる為義を三男・義国の弟と位置づけ
義国流>新田でなく足利を嫡流扱い

尊卑分脈の編纂に当たって足利義満の圧力がかかっていることは自明といえるだろう
日本@名無史さん [] 2010/11/29(月) 08:59:38
為義=義朝・頼朝の父祖
つまり、本来、義国流は鎌倉幕府を開いた頼朝よりも本流と主張
(何しろ、義家が八代後に生まれ変わり云々が足利家に伝えられていたなどという家伝を主張するほど)
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/11/29(月) 09:41:09
>義家が八代後に

後付なんだから阿野でも吉見でも別に問題ないね。
日本@名無史さん [] 2010/11/29(月) 15:28:40
そもそも「嫡流」なんてのが後付けそのものだろ
日本@名無史さん [] 2010/11/29(月) 20:31:01
摂関忠実の指名じゃね。
または白河院か
日本@名無史さん [] 2010/11/29(月) 23:13:08

どの事案について言ってるの?

「尊卑分脈」の作成時期は14世紀だし。

義国の嫡流云々にそんな高貴な方々が関与する訳ないしね。
日本@名無史さん [] 2010/11/30(火) 06:32:03
「尊卑分脈の編纂に圧力をかけられる」義満ほどの権力者でも、
経基‐満仲の間の年齢矛盾は是正できなかったんだな。
日本@名無史さん [] 2010/11/30(火) 15:49:48

後世から見ればそうだね
日本@名無史さん [] 2010/11/30(火) 19:24:51

経基ー満仲の年齢矛盾を指摘出来る度胸の有る同時代者は居なかったから
罷り通ったんだろうけど、近代以降は関係ないから論議の的になってるてことだよ。

日本@名無史さん [] 2010/11/30(火) 20:00:46

徳川時代でも「経基ー満仲」に触れた時点で首が飛んだだろうね。
日本@名無史さん [] 2010/11/30(火) 20:07:06
幕末編纂の「系図纂要」でやっと矛盾を修正してきてる。
その頃には徳川将軍家の権威もだいぶ落ちてたんだろうな。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/01(水) 06:07:27
多田源氏と嵯峨源氏の互いの本拠地である摂津多田荘と渡辺津の密接な関係は、
後世の皮革関係でもそっくりそのまま維持されてますね。

ちなみに浅草の弾左衛門も摂津多田の生まれ。

やはり満仲はただ者ではないですね。

日本@名無史さん [] 2010/12/01(水) 07:36:52
「穢れ」「職能民」
殺生、皮革工芸、鉱山、製鉄、武器武具製造、水運
日本@名無史さん [] 2010/12/01(水) 17:01:54
「穢れ」、「殺生放免」、「武具製造」、「秦氏」・・・

キーワードはぴったり重なるなw
日本@名無史さん [] 2010/12/01(水) 17:02:44

>矛盾を修正

だから系図纂要は要注意
日本@名無史さん [やっぱ渡来系かも…] 2010/12/01(水) 23:51:22
新羅
日本@名無史さん [] 2010/12/02(木) 17:40:07

>だんだん分ってきたぞ。
>武士団の主力部隊は古代軍事氏族だったんだな。

俺はそう思っているよ。
国造に代表されるような古代地方豪族が、そうそう簡単に消えて無く無くなってしまうわけがない。
彼らは形(衣)を変えながらしぶとく残っているよ。

氏姓制度の時代には、大伴氏や佐伯氏や安倍氏などの主に軍事氏族から入り婿させ(国造の場合は、自身がそれらの氏族である場合も多い)、
律令時代には、小野氏や坂上氏などの主に軍事官僚から入り婿させ、
そして王朝国家時代には、清和源氏や桓武平氏や秀郷流藤原氏などの軍事貴族から入り婿させる、
といった具合に、時代ごとに第一線の中央氏族の血を順々に取り入れて、
その都度本姓を、入り婿させた中央氏族のものに変えながらね。

また、それが1つの氏族に対して複数のルーツが言われる理由にもなってくる。
実はそれらは仮冒なのではなくて、上記の理由から全て正しかったりする。

809訂正 [] 2010/12/02(木) 17:43:27
無く無くなってしまうわけがない(×)

無くなってしまうわけがない(○)
日本@名無史さん [] 2010/12/03(金) 11:50:38
安倍氏じゃなくて阿部(阿倍)氏だよね。
阿倍氏は吉師部を統率していた伴部と考えられているよ。
吉師氏は出雲国造氏、土師連、武蔵国造と同族であり、応神朝期に来朝した吉師は東漢氏の祖で、
坂上田村麻呂の先祖でもある阿智吉師(あちきし)と、河内国古市郡に住む、西文(かわちのふみ)氏
の祖、王仁(和邇)吉師(わにきし)といわれているよ。

坂上田村麻呂の本姓は東漢氏だよ。
日本@名無史さん [] 2010/12/03(金) 19:07:19

おおまかには同意。
日本@名無史さん [] 2010/12/03(金) 19:10:18
ところで
武士起源論で「俘囚」は人的関連で無関係で桶?
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 04:09:15



>374 :日本@名無史さん:2010/10/23(土) 15:50:40
>@とAは武士に繋がらない

それは違うと思う。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/12/04(土) 08:16:04
軍事氏族と呼べるほど洗練されていたかどうかは疑問だけどな。
一門共同体だったということでいいんじゃないの。
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 08:57:36
母系で古代軍事氏族末裔を擁するメリットは
中核戦力である十分に訓練された多数の騎乗の郎党層を構成することが出来るし
普段は家業である田堵・負名、僦馬、馬牧で富の集積に努め
和戦両面で「自力救済」を可能にしたんだな。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/04(土) 09:06:18
中央氏族に騎馬戦術を期待するのは無理だろ
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 09:23:40
70年代以降、唱えられて来た「武士職能論」では中央貴族出身の受領が狩猟を通して
「俘囚」の騎馬戦闘技術を習得したとされてるけど眉唾だね。
そもそも「俘囚」の戦闘技術が高かったら、どうして律令軍に負けるんだ?@@;
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 15:18:45
受領級の中央貴族と、国造、郡司などの地方豪族とが姻戚関係を結ぶことにメリットがあるのは、
中央と地方双方に相克があるから。

氏姓制以前にせよ、律令制以降にせよ、
中央政権側は地方を管理下に置かなきゃならないから、
基本的に中央としての威厳は示さなければならないが、あまり抑圧的にやってしまうと地方豪族が反乱を起こしかねない。

地方豪族の側でも、在地のそれまでの既得権益を守るためには、時には中央(国司)に対して抗ったりもしなければならないが、これまたあまりやりすぎると「征伐」されてしまいかねない。

双方その兼ね合いが難しい。

そんな双方の相克を解消するのに一番手っ取り早いのが、姻戚関係を結ぶこと。

また、受領級の中下級貴族は、地方に赴任したり、留住・土着したりして、在地豪族と関係を蜜にしていけば、
その既得権益のいくばかに与り、経済的にも都に留まり続けているのとは比較にならぬほどの富を築くことが出来る。

地方豪族も中央貴族を婿に迎えれば、晴れてその一員となることが出来るので、
都で上級公卿などに出仕しやすくなるし、またそれによって位階、官職などを得て、在地での支配権を更に強固にすることが出来る。
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 16:49:29
今昔物語の「芋粥」だな。
利仁将軍はまさにそうだね。
母親は越前国の秦氏だよ。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/04(土) 17:10:20
その秦氏自体ももしかして
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 19:23:23
西域から来た原秦氏が辰韓人に婿入りし土着。
さらに日本に来てまた婿入りして土着。
そんな感じか。
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 19:43:32
九州の豊前国に土着。
宇佐八幡宮を創建してさらに山城国に土着して
摂津、河内、越前に伸張。
日本@名無史さん [] 2010/12/04(土) 23:36:05
古代朝鮮の新羅の民が古代出雲と同様に敦賀地方から越前、北近江にやって来て開発土着した。

新羅神社や白鬚神社は渡来人の奉祀に始まる神々と関係が深いようである。

中でも、当地方には秦氏が集住していたと考えられている。そして足羽郡や三方郡・遠敷郡には

多くの秦氏の集団跡が確認されている。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 01:47:29
吉師の東漢氏、西文氏と同様に秦氏もまた複数系統を持つようだ。
偶然にもこの渡来系諸氏は応神朝期に来朝している。
秦氏の統率者弓月君は1万人以上の民を引き連れて来たらしい。
応神朝自体が渡来して来て大和王朝に入り婿したと考えるのが自然だろう。

それではなぜ頼義の息子達は八幡宮、新羅神社、賀茂神社で元服したかは自明の理である。
息子の養育は母方に負う所が大きい故であり、背景氏族(渡来系氏族)の掌握が肝心であつた。
河内源氏自身もまた八幡信仰(秦氏)を基盤としており、多田源氏初代満仲もまた摂津多田庄を
基盤としたのも満仲自身が渡来系氏族の系譜に居た事を物語っていると言える。
満仲は延喜十二年(912年)摂津国多田館で武蔵守橘繁古女を母として生まれた(小笠原氏系図)
とされているが当時、経基が多田庄に居館を持っていたか甚だ疑わしい。

武蔵守橘繁古とは誰なのか?
彼は中央貴族、橘諸兄流ではなく河内国古市郡を本拠地とする県犬養橘宿禰系であったと比定出来る。
河内国古市郡は王仁(和邇)吉師の西文氏の本拠地でもある。
渡来系の西文氏に県犬養橘氏が入婿し経基は橘繁古に婿入りしてその連れ子満仲兄弟を養子としたと
考えるのが自然であろう。
当然、河内国多田庄は多田鉱山を擁する秦氏の根拠地であり、秦氏と因縁を持つ満仲の八幡信仰の源流
を見ることが出来る。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 02:40:59
まあ、確かに応神は朝鮮から渡来し、入り婿したと読めなくもない。
日本@名無史さん [sagenai] 2010/12/05(日) 02:49:35

そう。八幡、賀茂、新羅、と皆渡来色の強い神社なんだよな。
なぜそれらを選んだのか。理由は分かっていないのか。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 03:00:53
秦氏は景教徒だから、直接には新羅からやってきたとしても
もっと西域の出身だろう。
あと太秦の地名は京都だけじゃなく
河内にもあるね。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 03:43:11

> 軍事氏族と呼べるほど洗練されていたかどうかは疑問だけどな。

もちろんそう。

現代の観点から見て、
氏姓制の時代はそこまで軍事に特化されていないからこそ、「軍事貴族」とは呼ばれない。
現に蘇我氏など軍事氏族以外の氏族も軍隊を擁してもいた。

これは律令時代の軍事官僚についても似たようなことが言える(ちなみに「軍事官僚」は元木泰雄氏の造語)。

ただ、氏姓時代は
いわゆる「名負いの氏」という言われ方をして、
(後世の軍事貴族に比べるべくはないものの)それはそれで各氏ごとに決まった職分を担っていたことも事実。
軍事もその1つ。
829一部訂正 [] 2010/12/05(日) 03:57:48
現代の観点から見て、
氏姓制の時代はそこまで軍事に特化されていないからこそ、「軍事貴族」とは呼ばれない。


現代の観点から見て、
氏姓制の時代は、後世の王朝国家時代における軍事貴族ほどには軍事に特化されていない。
だからこそ、彼らは「軍事貴族」とは呼ばれない。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/05(日) 05:42:56

記紀の応神天皇の異常に長い妊娠期間は、それこそ景教(キリスト教)を信仰する秦氏のキリスト受胎話が記紀に取り入れられた結果だと主張する人もいるね。
その他にも応神の父親説としては、住吉神説とか武内宿禰説とかいろいろ。

日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 10:57:34

経基が婿入りした県犬養橘宿禰繁古女の連れ子が満仲兄弟ということであれば年齢差矛盾は
説明出来るな。
おそらく満仲兄弟が幼い時に死別(?)した父親は多田庄を領有する秦氏の有力者だった
のではないか?
経基には県犬養宿禰橘繁古に婿入りし満仲兄弟を養子とすることでその渡来系氏族を
基盤とした富と勢力を手に入れることが出来る算段があった。
また、満仲兄弟は貴種に連なることに与り、その渡来系氏族の技能とネットワークを
フルに活用してのし上がって行く野心があった。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 12:22:20

縣犬養氏なら中央橘氏の一族でいいんでないの?
縣犬養三千代に始まるのが橘氏でしょ?
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 12:39:57
確かに新羅に秦人がいたのは事実だが、秦氏との関わりは不明。
というか、新羅と加羅からバラバラに渡ってきた人達を纏めて秦氏と呼んだだけかもしれん。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 12:47:46

橘諸兄流ではない、諸兄以前に別れた県犬養宿禰系の橘氏だということだよ。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 12:52:36
スレ違いだが
平将門の母親も懸犬養宿禰系だったように思う。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 15:04:34

そうだね。
将門の乱の前半戦は、実質的に将門と、国香、良兼、良正らとのそれぞれの母系一族の戦いでもあるよね。
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 17:18:48

> 橘諸兄流ではない、諸兄以前に別れた県犬養宿禰系の橘氏だということだよ。

諸兄の母が天皇から橘姓を賜った県犬養橘三千代だけど、
三千代の先祖から分かれた遠縁の県犬養氏とかも諸兄と一緒に橘姓になったの?

ちなみに三千代が橘姓を賜る以前から「橘」や「橘○」「△橘」などの姓を持つ氏族はいたんだけど
承和7(840)年に中央貴族である諸兄流の橘朝臣氏との混同を避けるために、これらの氏族は一斉に
「椿」「椿○」「△椿」と、橘の字を椿の字に改めるように仁明天皇からの勅令が出されている(続日本紀)。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/05(日) 17:28:25
野間大坊
日本@名無史さん [] 2010/12/05(日) 19:47:04

俺は懸犬養宿禰橘三千代のもう一人の息子、佐為の流れだと考えている。
この系統から娘が高望王を産む橘春成が出ている。
日本@名無史さん [] 2010/12/06(月) 20:43:07
やはり多田は渡来人の密集地だったらしい。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/12/07(火) 02:19:54
いかに六孫王と満仲にツッコミ入れても、世代的に経基の生年を疑えば不自然ではなくなるのがまた。
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 02:47:00
だが、それだと2世源氏のくせに異常に遅い初任官(武蔵介)
&叙爵
となるので不自然。

やはり尊卑分脈の記述は信頼すべきと思う。
奇矯屋onぷらっと ◆/T/r/a/P/I [] 2010/12/07(火) 02:51:51
じゃあ別人だったり。
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 04:05:07
たしか経基と同時代に王氏爵不正事件があったような
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 07:09:49
アリがちなのが、孫を養子として迎えるパターンとかあるが

兄弟を嫡子として迎えるパターンもあんのかね
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 08:33:27

源平合戦は基本的に新羅と百済の戦争。

源氏の白旗は新羅。
平家の赤旗は百済。
新羅が勝って、百済が負けたのは半島国家と一緒だった。
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 08:50:16
よし、帰れ。
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 11:35:52

>よし、帰れ。

俺はじゃないけどは母系氏族について論じてるこのスレの流れからは外れて
ない書込みだと思うよ。

それとも君はそれを否定出来る論拠でもあるの?
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 11:59:23
犬養部は五世紀末から六世紀初めころに県・屯倉のクラを守衛するために置かれた部民であって、
この部民を掌握した伴造氏族が県犬養連で、同氏はまた朝廷の大蔵の守衛の任にもあたった
黛弘道著「犬養氏および犬養部の研究」

連→宿禰
懸犬養宿禰は古代軍事氏族だと言えるね。


850 [] 2010/12/07(火) 12:15:54
高望王の母親は橘春成の娘だし将門の母親は懸犬養宿禰氏であるので将門には二重に
懸犬養宿禰系の血が入っている。勿論坂東の懸犬養宿禰氏は在地の古代豪族に婿入りして
在地化したと考えられる。

同時に満仲の母親が橘繁古の娘であることに注目したい。
清和源氏、桓武平氏ともにその草創期には母系に於いては同族だった可能性が非常に高い。
軍事貴族の成立背景には古代軍事氏族の存在があったのではないだろうか?

郎党層は狩猟戦闘のプロ犬養部出身者が主力であったことは疑いない。
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 13:12:33
源平合戦のときに百済系だの新羅系だのって。
百済や新羅から一体何世紀経ってると思ってるんだよ?
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 16:04:56
平姓発祥の謎
ttp://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/fq&a.htm

↑によると、平氏と平群氏(大和→安房)は関係があるらしい。
祭神は百済諸神を祭る平野神社。

平群と平野というのは同じ意味?
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 16:15:53
ありゃ、わかりずらいな。

上記サイトの

『Q19.源平藤橘の多い理由について』

の中の

『平姓発祥の謎』

をクリックね。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 16:34:01
新羅や百済の話は、戦後司馬が広めたデマだよ
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 18:51:05

司馬批判はよく聞くけど
君は何故、司馬批判でこの重要な案件を誤魔化そうとするわけ?
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 19:16:02
確かに、清和源氏は新羅色が強すぎ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 19:23:09
多田には百済人高句麗人もいたそうだがな
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 19:43:07
信憑性なさすぎ
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 19:47:00

君は何を根拠に「信憑性なさすぎ」というのか?
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 19:48:44
もうちょっとまともな資料だしてくれ
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 19:50:47

史料云々よりも君はどう思うのか?
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 19:54:40
どこぞのサイトの茶臼理論と変わらないと思う
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 20:25:00
じゃあ 楽しめる者のみで語ろう。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 21:12:49
多田の渡来人については新撰姓氏録より
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 21:32:37

> 百済や新羅から一体何世紀経ってると思ってるんだよ?

それを言ったら渡来系に関わらず、同じ理由から、氏姓制度時代の軍事氏族や国造などの話もできなくなる。

例えば百済系の代表的氏族である百済王(くだらのこにきし)氏だが、
10世紀前半に清和源氏初代・経基が武蔵介に就任し、皇族の興世王が武蔵権守に就任した時、
正官たる武蔵守に任命されているのは百済王貞連であるように、少なくとも同氏は平安時代中期までは武蔵国や陸奥国の受領に多く任じられる等(のちの中央軍事貴族と重なる履歴である)、中央貴族としての命脈を保っている。

また、8世紀半ばに日本で初めて金山を発見した陸奥守・百済王敬福以来、同氏は代々河内国をその本拠地としながら金山・鉱山の開発経営に密接に関わってきており、
満仲以降その百済王氏の本拠地や鉱山事業を継いだような節がある清和源氏との関連を考えるのは決して無理のあることとは言えまい。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 21:38:08
葛原親王の母は百済王氏
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 22:01:23
>866
そういうことじゃなくて、百済、新羅の対立から何世紀経っているんだということ。
源平合戦がその蒸し返しというのは無理ありすぎ。
南北朝の遺恨対決が500年後に別の国でなされたみたないことを考えてみろや。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 22:06:14
桓武天皇の生母は日本に来て10世孫だそうです
もう百済は出自以外のなにものでもありません、ありがとうございました
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 22:06:15
ユダヤとアラブの遺恨は500年どころではないけどな
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 22:07:12
いいえ、たった50年です
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 22:10:28
まあ、アシュケナージはトルコ系だからな
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 22:15:38
ユダヤといえば秦氏です。
ありがとうございました。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 22:27:07

それでいくなら源平とも母系は百済、新羅入り混じってるじゃないですか?
てか母系で渡来人を辿っても渡来人同士も入り混じってるだろうし
一概に何系で括れないんじゃないかと
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 22:41:36

だけど渡来人同士(百済、新羅、高句麗など)の遺恨云々を言ってるのは俺ではない。

ただ、百済王氏や秦氏のような渡来系氏族は、
例え中央政権内で占める位置は徐々に低下しつつあったとしても、特殊技能その他においては古代後期〜中世前期まではまだまだ隠然たる力は有していたとは思っている。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 22:56:08

それは同意ですね
中央で占める影響や存在が低下してったからこそ生き残るために、より中央に近い血筋の入婿をとったんだろうし
新しく臣籍降下した側にとって入り婿で地位低下したかつての渡来系集団を母系として支配開始しやすかったというか
母系で渡来系集団が入り混じってるのを考えたら何系って母系集団が大きな力を持っていたとは考えにくいですよね
かつての渡来系集団が形を変え新しい勢力に統合されていったみたいな感じに思います
日本@名無史さん [] 2010/12/07(火) 23:09:46
遺恨で戦ったとかは無いにせよ、源平が新羅百済に重ね合わせられたことはないのだろうか。
ただ偶然だろうけど確かに桓武平氏は百済と、清和源氏は新羅と縁があるのは興味深い。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 23:40:25
平家が勃興したのってすっげーたまたまな気がするが
伊勢平氏以外は源氏に下ってるしさ
基本はじめから源氏一強だよな

しかも、同じ鎮守府将軍の末裔で対比させるなら秀郷流も見てやらないといけないし
日本@名無史さん [sage] 2010/12/07(火) 23:44:00
氏のレスにあるように源氏は百済王氏にも縁があるわけで
一概に百済と新羅を思い浮かべる人間もいたって考えるのは難しくないでしょうか
現に源平に百済と新羅を重ね合わせて思い描いた古文献はないですしね
むしろ新しく対等した入り婿側である軍事貴族に併呑されてく過程で、すでに民間伝承のようになっていた状況がアイデンティティーを完全に喪失していったと考えた方がいいんじゃないですか?
まぁ言語を失った時点で渡来人は帰化人になると思いますけどね
なぜなら先祖の伝承が途絶える事を意味しますから
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 01:00:46

> 中央で占める影響や存在が低下してったからこそ生き残るために、より中央に近い血筋の入婿をとったんだろうし
> 新しく臣籍降下した側にとって入り婿で地位低下したかつての渡来系集団を母系として支配開始しやすかったというか
(中略)
> かつての渡来系集団が形を変え新しい勢力に統合されていったみたいな感じに思います

同意。
そして、でも既に述べたが、
渡来系氏族だけではなく、
国造などの古代以来の在地豪族にとっても、それは同じことが言えると考えている。

>中央(最初の方)

>在地
に、
>渡来系集団

>在地豪族
に置き換えると、今度は地方豪族のことをほぼ言い表していることになる。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 01:18:15
ふむ
しかし、江戸時代まで物部氏は家を保ってるの多いけど
関東の名家と言われるものたちはけっこう鎌倉・室町と没落してるよね

武家、郎党集団というものは家裁機関として発達したものだし
家人として仕えるにしても、その家のしきたりに従うことで、武術や兵法の相伝にあづかったわけだから
土豪と結びついて、いざというときに裏切らず従ってくれるよう血族関係を維持するにしても
その人たちがそのまま、その家と同化した、とは言えないんじゃないかな
日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 01:23:46

物部氏は平安時代に没落してるよ
朴井朝臣なんかは奈良時代にほぼ消えてるよ
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 01:34:27

関東の名家の没落を決定付けたのは応仁の乱の前哨戦といわれた結城合戦だよ。
今川氏が持ち込んだ軍制(寄子、足軽)によって関東名家の血縁戦闘部隊は壊滅した。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 01:37:32

全面的に同意です
特にの考察は興味深いですね
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 01:41:32

>平家が勃興したのってすっげーたまたまな気がするが
>伊勢平氏以外は源氏に下ってるしさ

まあ平直方がいたけど河内源氏(まさに義平のご先祖様)に収斂されちゃってるしね。
ただ、院・天皇家やその側近が、故事から準えるそのやり方にはすごいものがあるからね。
対抗馬を立てるにしても、ちゃんと他の承平天慶勲功者子孫の中から選んでいるわけで。これはのちの承久の変の時、院方の大将に秀郷流の藤原秀康を立てたことからも分かる。

> 基本はじめから源氏一強だよな
> しかも、同じ鎮守府将軍の末裔で対比させるなら秀郷流も見てやらないといけないし

むしろ、軍事貴族成立草創期は「源平」じゃなくて、
満仲VS千晴の「源藤」の争いだった(安和の変で「藤」が滑り落ちる)。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 01:44:35

ああ、やっぱ結城合戦あたりで消えてるの多いよね
日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 01:46:11

中央だと源vs藤ですけど坂東と東北に目をやって在地豪族への入り婿を考えると平vs藤ですよね
日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 01:56:07
東海道沿いに足利氏族多いけど入地はいつなんだろ
承久後?
新田の不遇はそこからはじまんのかね
日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 12:13:57
一応、百済=赤・新羅=白 という考えはあった。
しかし、対立する二つのものを紅白で分けるというのは珍しくないことだったのかもしれない。
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 17:55:58

> 中央だと源vs藤ですけど坂東と東北に目をやって在地豪族への入り婿を考えると平vs藤ですよね

関東だとざっくり言って北関東の藤氏、南関東の平氏か。
相模あたりだと両氏の混在。

奥羽だと、なんと言っても陸奥・奥六郡の大族安倍氏。
安倍頼良は平永衡(繁盛流)と藤原経清(秀郷流)の二人(二氏)の軍事貴族から婿をとっている。
安倍氏は11世紀に、旧豪族たちが「衣」を中央軍事貴族のものに着替える端境期に滅んでしまったので本姓安倍氏のままで終わったが、
もしもそのまま存続していたなら、
永衡との間に出来た男子か、経清との間に出来た男子かのどちらかを安倍氏当主に据えて(他の関東豪族たちがそうしていったように)、桓武平氏か秀郷流藤原氏に「変身」するつもりだったのではないかと推測している。
現に、隣国出羽国仙北三郡の大豪族清原氏は海道平氏(国香・繁盛流)から婿をとって、清原真人から桓武平氏に「変身」している。

日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 18:41:17
(*^o^*)
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 19:13:47
西国、鎮西武士は大蔵氏系、大神氏系、古代豪族宗像氏系、阿蘇国造氏、宇佐国造氏
それに天慶勲功者子孫とバラエティーに富んでるけど鎌倉中期以降は新補地頭の鎌倉武士の
全国拡散と同じ傾向が見られる。
892 [] 2010/12/08(水) 19:25:02
古代豪族がそのまま武士化したのは諏訪氏、海野氏など信濃にもいるね。
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 19:51:10
源氏対藤原って朝廷内部と一緒じゃん。
日本@名無史さん [] 2010/12/08(水) 22:44:28

>古代豪族がそのまま武士化したのは諏訪氏、海野氏など信濃にもいるね。

両氏とも系図上は清和源氏を称していなかったっけ?



それだけ中央で力を持っていたから、
軍事貴族内部での権力闘争や、地方社会での勢力争いにも波及していったんじゃないか?
日本@名無史さん [sage] 2010/12/08(水) 23:27:04

普通、利根川が境界線になりそうなんですが上総、下総に平氏が進出して相模は藤平混沌とした状態はおもしろいですよね
律令時代からの国家事業として東北征服があると思いますが
兵站基地になった坂東から大量の兵が出たんでしょうから、後の東北でも藤平が入り婿に入るのは頷けます
この百済王氏のような古代豪族の力の低下と東北征服による坂東からの入り婿
そして藤平より新しい源氏が百済王氏と縁があるって興味深いですよね
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 01:30:16

九州、四国、山陰、信越あたりの重要じゃない場所じゃ軍事貴族の「衣」を
まとう意味があまりなかったんじゃないかな。
まあ、それでも王臣家との縁も系図上にはあったりする。
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 01:49:47

常陸平氏もいるから境界線が利根川は微妙。
関東でうまみのある所は平氏がとり、遅れてきた源氏が北関東にはいったというかんじか。
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 03:58:25

利根川は江戸湾に流入していたよ。
北関東は秀郷流の本場だし、義国は未だ京武者で晩年移住したか本拠地としたのは
義重、義庚といった息子の時代で所領も狭い。
常陸にはは義光流が根を下ろし始めているので
武蔵、相模に目を付けたのが義朝。武蔵は主人の信頼が知行国主だからやり易い。
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 05:10:12
保元、平治の乱を時代の転換点と捉えたとき
京武者のまま在地化しないという選択が命運を分けたと言える。
伊勢平氏正盛流清盛、摂津源氏頼綱流頼政、河内源氏為義流義朝、摂津源氏国房流光保。
彼等に共通することは母親の身分が高く自身も院との関係も深いということだ。
前二者は勝者で後二者は敗者である。
勝てば受領から昇殿資格のある中流貴族へ、さらに公卿へ。
負ければ在地母系氏族を持たない彼等の命運は過酷であったろう。

頼朝は過酷さと高揚を味わうこととなる。在地化しない京武者故の命運であった。
関東武士にとって頼朝は担ぎやすかった。
最後まで京武者のまま在地化しない選択が時代の覇者への道を偶然にも拓いたと言える。
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 06:27:25

>そして藤平より新しい源氏が百済王氏と縁があるって興味深いですよね

後発のうえ、将門の乱では坂東武者たちから臆病者扱いされ、
純友の乱でもイマイチ華々しい活躍が出来なかったことから、清和源氏(経基)はなりふり構わぬ帰化系氏族や伴造系氏族の取り込みを図っていったんじゃないか?と俺には思える。
つづき [] 2010/12/09(木) 06:48:38
おととい(7日)の一連のレスのやりとりをしていてふと思ったのだが、
天慶の乱鎮圧勲功者の内、京で取り立てられた者、つまり中央軍事貴族は、母系で主に伴造系氏族(渡来系氏族も広義には伴造系氏族)を取り込んでいき(特に清和源氏)、
在庁などとして地方で活路を開いていった者たち(=辺境軍事貴族)は、主に国造系氏族を母系で取り込んでいく、
ということをしていったのではないかな、と考えるに至ったよ。
900 [] 2010/12/09(木) 18:11:26
母系氏族として伴造系、渡来系氏族を取り入れて中央軍事貴族(京武者)の任務を果たしていた。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/09(木) 19:34:15
しかし、古代氏族ってどれほど命脈を保ってたかって不明だよね

645年、天智天皇の改新を端緒として、
白村江の戦いで、国内の中央集権化がすすみ、
壬申の乱で、天武天皇へと切り替わり、平城京遷都
701年に大宝律令が出され、令制国が定着する
この時点で国造は国司や郡司にとって代わられる
桓武天皇によって9世紀初頭には律令制が崩壊する
荘園の増加と、反乱の多発し
10世紀までには武士集団が歴史に登場しはじめる。

律令が二官八省で、太政官と神祇官と祭政分離され、神祇官が独立していたために
神社系統は古代氏族がよく保存されたが、
こと行政に関しては、古代氏族は新興勢力によって、大部分とって変わられたんじゃね?

戦国期の大名だって、明治までもってたのっって
毛利、島津、伊達、細川、徳川、ぐらいだよね
ほとんど、信長、豊臣、徳川の家臣だし、上杉に関しちゃ、乗っ取られてるっしょ
あとは、ほんと一家臣としてほそぼそ禄をはむか、高家として珍重されるぐらいじゃん
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 19:56:09

お前馬鹿だろ?
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 21:08:51
清和源氏は経基と満仲らへんが怪しいが、
桓武平氏の初期にも怪しいところはある?
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 21:16:37
高見の実在性とかか
日本@名無史さん [] 2010/12/09(木) 23:47:23
タカミーもかよ…
当時の朝廷は強固な身分社会だったみたいに言われるが、身分の低い者でも一度天皇や摂関のお墨付きを得て潜り込めば
なんとかなりそうだよな。
天皇と摂関は有力な手駒になりそうな者を同族認定したんじゃね?(天皇なら源氏か平氏、摂関なら藤原氏と認定するとか)
日本@名無史さん [sage] 2010/12/10(金) 00:02:25

そんな悠長な同族認定は危険すぎだろ
へたすると乗っ取られるんだから

系図なんて庶民には見せないものなんだから
誰々の流れの何々でございますっていったら一応調べるに決まってるだろう
で、ばれたら確実に殺される

仮になりすましが可能であるとしても
少なくとも、その家に仕えるなりして、事情をよく知った後で
自分の子供を、高貴な誰それが旅の途中で手をつけてできた庶子ってことにしないとダメ
で、形見の刀でございます、みたいな
それも生半可な自演じゃ住んでた村の周りの人間に嫌疑をかけられるから
根回しも相当いる
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 00:22:28
そうかな。
上で九州の大蔵氏が源氏の三位だったかになり損なった話が出てきたが、
三位みたいな高位じゃなくてさらに根回しやコネ作りがよく出来てたら成功したんじゃね?
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 00:46:21
それが
満仲兄弟。
親父の経基が言えばOK
日本@名無史さん [sage] 2010/12/10(金) 00:48:53
いやいや、バレたって事例があっても、やりやすいともやりにくいとも言えないだろw

まあ、歴史上、どうどうとなりすました例は秀吉と家康だが、やつら最高権力者だからな・・・
むしろ、称号ほしさに金にいとめをつけずに買収しまくってるからバレバレだったし

ほんとのなりすましがどの程度だったかっていうのはやっぱ不明だなあ

そもそも百済や新羅の王族ってのがなりすまし臭いしな
漢の皇帝の子孫というのに至っては明らかに嘘臭い
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 00:49:44
その大蔵氏だって大した一族だろうに。
大蔵氏のままでいることの何が不服だったのかね。
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 01:40:35
筆者によると、もしそいつが三位になったら九州全域に君臨できるほどの権威を持つことになるらしいが。
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 04:57:23
スレ違い覚悟で
以仁王の令旨の有効性だけど

以仁王は後白河の庶子だけど親王宣下を受けてない諸王の身分だよね。
八条女院の猷子の待遇は私的なもので公的に令旨が出せる立場だったのかな?

敗死後、直ちに源姓下賜で臣籍降下してるし法的にどうなんだろう。
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 10:59:45
勝てば官軍負ければ賊軍
最終的に頼朝が勝ったので有効ということだろう
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 12:06:55

桓武の母親が百済王族の子孫だったというのもな。
土師氏との関係やカマド信仰をみるに、職人の渡来人か?
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 12:27:42
結局本妻の子って、頼朝だけなの?
義経も、「ときわ」だか「ときこ」っていう妾の子だし
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 19:55:32
希義が頼朝の同母弟
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 21:30:57
 以仁王の令旨について「吾妻鏡」にのっている文章が本物かどうかの議論があるようだ。
また、以仁王は後白河法皇が再び権力を握っても以仁王の復権がなされなかった、
以仁王自身いつまでも謀反人扱いだったとの説もある。チラ見だったからソースは覚えていない。
もしその説のソースをご存知の方がいらしたら教えてください。


頼朝、希義、坊門姫が正室の子。
『尊卑分脈では』義門も正室の子となっているが、義門が存在したかどうかがわからない。
ちなみに坊門姫の娘二人が摂関家・西園寺家に嫁いでその子孫が繁栄したために、
宮廷社会に義朝とその正室由良御前の血が入り込むことになる。
日本@名無史さん [] 2010/12/10(金) 21:35:56

>701年に大宝律令が出され、令制国が定着する
>この時点で国造は国司や郡司にとって代わられる
>桓武天皇によって9世紀初頭には律令制が崩壊する
>荘園の増加と、反乱の多発し
>10世紀までには武士集団が歴史に登場しはじめる。

基本的に国造がそのまま郡司にとって代わってるよ。
しかも彼らは世襲。

律令制が立ち行かなくなったり、
武士の萌芽が芽生えてくる10世紀になっても、相変わらず武蔵武芝のような旧国造階層の者が郡司(武蔵足立郡司)を務めている。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/11(土) 01:25:08
>「ときわ」だか「ときこ」っていう
義経散々だな
カワイソス
日本@名無史さん [sage] 2010/12/11(土) 01:36:37

うーん

しかし国衙軍制になってからは地方は、律令下ではなく、名田といわれる
新興勢力によって治められる領域を認めるかたちで、世情に即した政治体制になっていく分
すべてがすべて古代氏族がいきのこったとは考えられないと思うけどなあ
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 06:14:19

>国衙軍制になってからは地方は、律令下ではなく、名田といわれる
>新興勢力によって治められる領域を認めるかたちで、世情に即した政治体制になっていく

その名田経営を担った者たちこそ、郡司やその一族の変形バージョンである田堵負名層だ。
もちろん田堵負名層には、その他にも留住・土着した前任国司や、その子孫たちがいるのだが、
その土着貴族たちが地方社会に根を下ろす際に母系で取り込んでいったのが、主に国造以来の系譜を引く郡司層だったのだと俺は考えている。
924書き忘れ [] 2010/12/11(土) 06:32:04

>世情に即した政治体制になっていく

のは、何も律令制度に陰りが見えてきてから始まったことではないよ。

地方に於いては、
>世情に即した政治体制
は、律令制導入期とともに始まっていると言っても過言ではない。
そもそも世襲の上に終身官だったということが、
何よりも郡司が「律令」という法体系の、ある意味外側にいたことを示している。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 08:25:41

血統、身分が厳格で社会の全ての古代末期において
王臣子孫、古代地方氏族子孫、渡来系氏族子孫以外でいったい誰が新興勢力を形成するんだ?

新興勢力もその系譜にあるんだよ。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 08:46:58
これまでの教科書での常識=「律令武官」「健児」は武士のプロトタイプではない

これは間違いだね。

武士の中身の人達は彼等の子孫でその系譜上にいる。
王臣子孫の寛平延喜勲功者、承平天慶勲功者を武士と定義しても母系氏族としてね。
軍事力の主力は母系氏族が構成してたしね。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 09:04:33
その身分も各時代の境にはかなり不安定になるものじゃん。平安時代半ばには村が再編成されて没落した者も多く出たようだから、低い身分から成り上がった者もいないかね。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 10:19:29

>その身分も各時代の境にはかなり不安定になるものじゃん

古代地方氏族が「装いを新たにする」のはそういう時期。生き残るためにね。

・古代氏族制社会→律令制

律令官僚(受領、押領使など)から招婿

・律令制→王朝国家制

受領、軍事貴族などから招婿

・王朝国家制→鎌倉幕府

鎌倉御家人(守護、地頭)から招婿

・・・以下同様


>平安時代半ばには村が再編成されて没落した者も多く出たようだから、低い身分から成り上がった者もいないかね

そりゃあそういうのもゼロではないとは思うよ。

日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 10:20:03

そう簡単に成りあがれる社会、時代じゃないよ。
網野善彦氏の著書を読めば良い。

因みに
関東じゃ結城合戦
全国的には応仁の乱まで待たないとね。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 11:42:32
変動期に自身で成り上がった者は在地豪族や中央貴族の姓を称するんじゃないかね?
で、何代か経つうちに追認されると。
930 [] 2010/12/11(土) 12:04:30

それは戦国期以降の話でしょ。

まず、どうやって「自身で成り上が」る?

中世中期までは男系のままで身分(地位)上昇を図るのは無理。
王臣中央貴族の男系子孫が貴種であり、その貴種も出自が新しい程優位である。
時代を降るに従って相対的に従来の男系の身分は低下。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 12:05:05

同族による後ろ楯・バックグラウンドがないから無理。
一時的に成り上がることはあってもすぐ薄っぺらな正体を晒して終わり。
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 12:09:13
俺は戦国期ですら言われるほど仮冒・僭称の類いは多くはないと思ってるんで。
日本@名無史さん [age] 2010/12/11(土) 12:27:58
もとの姓(凡河内だったか)から藤原に変えてた郡司いたぞ。
だいたい、地方豪族一件一件全部チェックするわけ?
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 12:52:08
凡河内氏であれば、畿内複数国の国造だから“成り上がり”でも何でもない。
藤原氏から十分招婿するに足る家柄だ。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/11(土) 15:57:17

だから、古代氏族が中央貴族になりかわろうとするのと同じように
古代氏族の名家になりかわろうとする下層民もいるわけで
古代氏族の命脈だけは鉄板ってわけじゃないだろってこと

母系集団という話にしても、再考の余地はあると思う
当時貴族は入り婿形態が多かったが、武家社会では入り嫁形態にかわる
寝殿造から武家造にも変わる
たしかに、母系集団の財力武力が嫡子を決定づけていたし、室に対する待遇にも
影響を与えていたが、たとえば武家同士の結婚であれば母系集団は一代ごとにかわる。
頼朝死後の鎌倉幕府の混乱は将軍家の外戚同士の争いが原因にあるし
母系集団が武家社会に一定の力をもちつづけようとするなら、自ら武士化するしかなかったと思う
日本@名無史さん [] 2010/12/11(土) 16:35:24

で、王の身分で令旨出せるの?
930 [] 2010/12/11(土) 16:46:03

残念ですが下層民は無理です。
網野善彦氏「無縁・公界・楽」を一読することをお勧めします。

>母系集団が武家社会に一定の力をもちつづけようとするなら、自ら武士化するしかなかったと思う
招婿婚が理解出来てないようですね。
貴種の血統を受け
入れて母系集団がそっくり改姓してしまうんだよ。
例えば母方の従兄弟たちは「因縁」として新しい主人家(貴種)に従属して財産と勢力の温存を図り
場合によっては主人家(貴種)を担いで勢力伸張を図ったんだよ。
あくまでも「因縁」「郎党」身分としてね。

日本@名無史さん [sage] 2010/12/11(土) 18:59:57

小早川家みたいな母系でつながっていったケースはあるね
家制度において、当主は絶対権力者というよりリーダーだからね
だけど、母系集団てのは、一代かぎり、あくまでも男系でつながる集団に属するだけで
結局、当主の家系が増えていくにしたがって、分散していく傾向にあったんじゃないの?

>網野善彦
本みてるわけじゃないから、分からんが。

アイヌみたいな自由民が、律令体制に囲い込まれていくのが大和朝廷の拡大化だと思ってるんだがね。
庶民がかならずしも律令からはずれた人たちであったとはかぎらないと思うけどなー
下層民がそのまま下層民のままであるとはかぎらないし
たとえば、河原乞食といわれる歌舞伎役者たち、あの人たちは流れ者で
場所をうつしては興行して日銭をかせいでたわけだが、
(つーても江戸の町民もほとんどフリーターだがね)
同じように、神楽や能や狂言をやってた人たちもかせいでた。
これらの人は、ある一つの土地の戸籍に登録されるわけじゃないし、結局は不可触民
差別される人ということになるわけ
これは別に、芸能を生業としていた人たちだけにあてはまることじゃない。
そういう人たちの青年が、ある村に婿として迎えられて定住するということもよくある話だ。
日本@名無史さん [sge] 2010/12/12(日) 01:52:39
確か10世紀くらいに日本全国で従来の村落が崩壊して、
新しい村落に編成されたことがあったらしい。
下層民の成り上がりが有りそうな時期だ。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 02:36:48

>だから、古代氏族が中央貴族になりかわろうとするのと同じように
> 古代氏族の名家になりかわろうとする下層民もいるわけで
> 古代氏族の命脈だけは鉄板ってわけじゃないだろってこと

「鉄板」とか
「古代豪族は一人残らず生き残った」とか
「古代豪族で没落したものは一家もない」とか
「庶民のもので上の階層に成り上がれなかったものは一人もいない」とか
そういう話はしていないんだが。
何故に数少ない例外の方に拘るのかね?

>母系集団という話にしても、再考の余地はあると思う

むしろ母系氏族・招婿婚の方こそ、再考される余地のある話なのだよ。

>頼朝死後の鎌倉幕府の混乱は将軍家の外戚同士の争いが原因にあるし

そう。彼ら(北条氏、伊賀氏、比企氏、畠山氏、三浦氏)といった将軍家外戚や、外戚の外戚による権勢争い。その彼らにしても、
これまで再三述べている、中央氏族(軍事貴族)から招婿して自身がその一族化した元は在地豪族たちだ。


>母系集団が武家社会に一定の力をもちつづけようとするなら、自ら武士化するしかなかったと思う

これまで再三述べてきた理由により、とうに「武家化」しているが何を堂々巡りさせている?

日本@名無史さん [sage] 2010/12/12(日) 08:59:24

>そう。彼ら(北条氏、伊賀氏、比企氏、畠山氏、三浦氏)といった将軍家外戚や、外戚の外戚による権勢争い。その彼らにしても、
>これまで再三述べている、中央氏族(軍事貴族)から招婿して自身がその一族化した元は在地豪族たちだ。

これこそ矛盾してるだろ

外戚たちが豪族によるなりかわりだったなら、将軍家になりかわろうとしてたはずで
それはできていないじゃないか

反対に、比企氏が豪族であったなら、比企氏が代替わりするごとに豪族間で闘争が起こっているはずだろう。

それがおきていないということは、家という制度ができて以来、男系継承は貴族にしろ定着する傾向にあり
それにとりいろうとする他の集団は、母系、父系関係なく
代替わりごとに嫡子の外戚になろうと交渉する以外の方法がなかったということ。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 09:19:30
養子縁組による武士団結束の例として義国と高階惟頼(高氏の祖)がある。
惟頼は母親を日野有綱とする義家の子義頼を高階惟章が養子として迎えて高階惟頼と
なったと高氏の伝承は伝えている。

高階氏は頼信の時代、筑前守高階成佐が頼信に婿入りして河内守高階惟章をもうけている。
河内源氏と高階(高)氏は持ちつ持たれつであり主従でありつつも二重三重の縁で結ばれた
同族であり、勃興期の武士団では同様な養子、入婿による結束の強化、勢力の拡大が行われてたと思う。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 10:45:26
なりかわろうとしてた「はず」とか変わった御仁が見えてるなw。

基本は招婿婚という総論を論じているレスの流れの中で、
何故に代替わり時には
「外戚が必ず将軍にとって代わろうとしなければならない」
などと「べき論」で論じられねばならないのか意味不明なんだが。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/12(日) 13:22:08

ネタ元がwikiなので信憑性がイマイチなのだが、
元々は皇后・皇太后・太皇太后と皇太子が発行する文書が「令旨」だったのだが
平安中期以降になるとそれ以外の皇族(女院・親王・諸王)も「令旨」を出せるようになったとある。

以仁王の令旨の有用性についてだが以下個人的意見。
1.令旨が出された時点では以仁王は皇族だった。
2.以仁王は自分が皇位につくつもりで令旨を発行したのだから
  以仁王の後継者を皇位につける。そのために令旨は何が何でも有効にしなければならないという立場の義仲。
  (以仁王の子北陸宮を保護し北陸宮を皇位につけようとした義仲の論理)
3.とりあえず、挙兵しなければならない状況に追い込まれたのでその時だけ一応は「以仁王の令旨」を利用する。
  その後の自軍の正統性は後々の朝廷との政治折衝において獲得する、頼朝の立場。
  (とりあえず以仁王の令旨を利用したが、すぐに朝廷や法皇に接触をはかり、
  その結果、反乱軍を脱して自らの東国支配権力を認めさせた。
  頼朝は挙兵して間もなく以仁王の令旨を掲げるの路線を廃棄した)
甲斐源氏や畿内、美濃、尾張、九州、伊予河野氏などの反乱勢力が以仁王の令旨をどのように捉えていたかはわからないが
とりあえず、最終的勝利者となった頼朝にとっては、蜂起初期だけ以仁王の令旨を利用したが
すぐに後白河法皇との交渉に軸足を移し、
頼朝の挙兵の正統性は後白河法皇に求めるようになったということになると思われる。
よって頼朝は以仁王の令旨にさほどの価値を見出していなかったと推察される。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 13:54:02
招婿婚から嫁入婚への婚姻形態の変化には家の制度の確立と密接な関係がある。

院政そのものが天皇家の家長の権限で行われたものであり、王臣中央貴族も摂関家を
始めとして家格が定まることによって男系の身分(地位)が安定したことによる。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 14:13:28
中世からは父系制に変わっていった。
それでも母系制も室町期まではまだ残っていたらしい。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 14:20:38

かつて先祖が成り代わりしたからといって、
幕府成立後もまたやる必要はないだろ。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 14:28:11
男系で家系を伝えなきゃいけなくなると
近世以降の皇室の宮家や徳川の御三家、御三卿みたいに無駄にスペア作んないと
いけなくなるね。朱子学の影響だろうけど。

源氏が一族を粛清しまくったのとは真逆だね。
実朝は家が絶えるだろうから家名を上げたいと願ってたと言われてるけど本当かな??
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 15:07:18

以仁王は「最勝親王」と自称してたから令旨でいいのかな?
吾妻鏡だけでなく平家物語なんかも令旨と書いてるね。
愚管抄では「宮ノ宣」と言っているけど、書き出しの「應・・・事」や
文末の「宣承知依宣行之」を見ると確かに宣旨に似ているが。
誰か古文書にくわしい人説明してほしい。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/12(日) 15:38:18

それは家制度における、家司、家宰だろ
前から言ってるよな
ヨーロッパでもそうだが、家産を運営する火星機関において
執事は世襲される傾向にある
それは家人が家族ごと主従関係を結ぶから
上杉家における、太田氏、長尾氏のようなもんだ
それは母系集団とは言わない
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 15:52:39
火星機関って?

それと「母系集団」って一言も言ってないぜ。
妄想もたいがいにせえよw
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 16:02:26
>養子縁組による武士団結束の例として

と確かに言ってるね。

何の脈絡もなく突然w
日本@名無史さん [age] 2010/12/12(日) 18:31:28
もし庶民が変動期に成り上がって豪族になることがあったとしても、
そんな証拠や記録が現在まで残るハズがないな。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 18:41:04
可能性のみで歴史を語ることは危険この上ない。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 18:45:32

安心していいよ。
それは無いから。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 19:28:31
古代末期において成り上がるとしたら下層民から検非違使の手先がせいぜいだろうな。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 19:50:31
高階氏は義国の乳母兄妹じゃないの?
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 21:34:41
wiki以仁王には次のような注がありますた。

2 東国平定以後三善康信など京都出身官人を自己の陣営に招いていた源頼朝は
朝廷との以仁王に対する認識の違いを知って、以仁王の令旨を「なかったこと
」として代わりの大義名分となる寿永二年十月宣旨を朝廷から受けた。一方、
源義仲は以仁王の令旨は「正当な主張」と受け止めて北陸宮擁立論を唱えて結
果的に公家社会と敵対した。これが後の両者の命運を分ける一因となる。河内
祥輔『頼朝の時代 一一八〇年代内乱史』、平凡社、1990年。
日本@名無史さん [] 2010/12/12(日) 21:47:44
みんなショックを受けるかもしれないけど
律令軍団の司令官である大毅・小毅は無位で郡司の少領は正八位でしかないんだよ。

古代末期という時代は庶民は逼塞を余儀なくされていたんだよ。

その残照が残る中世はいまだ貴種優先の時代であり、大和朝廷から500年経てもなお
社会において血統が全てにおいて優先されていたんだよ。
「成り上がり」なんて有り得ない。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/12(日) 22:12:23
逼塞というほど中央政権の恩恵が日本津々浦々に行き渡ってもいないのでは
日本@名無史さん [age] 2010/12/12(日) 22:47:18
俺の住む石川県でも郡司の家系は変動してたぞ。
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 06:06:16
それを言ったら、氏姓制度時代における国造だって一家とは限らなかった。
交替したり、複数の国造がたったりするところもあった。
一国内(氏姓時代)、一郡内(律令時代)における有力氏族は一氏族しか存在しないというわけではないからね。
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 06:53:53
以仁王令旨をめぐっては、その存在の真偽をめぐって古くから議論が交わされてきており、
公文書としての令旨と形式が異なっていたり、『吾妻鏡』などの諸史料に見える令旨の文言が互いに相違していたりすることが問題視されてきた。
だが、令旨の文言についてはともかく、当時の公家日記などの良質な史料によるかぎり、
平氏の打倒を命じる以仁王の命令文書が多くの武士や寺社に伝達され、
全国規模で展開する源平の争乱の引き金となったことを疑うことはできない。
なお、一般に「以仁王令旨」という呼び方がされているが、
王の命令文書はさまざまな呼び方がされ、たとえば『玉葉』には「一院(後白河法皇)第三親王宣」という表現が見える。
また、源仲綱が奉じた令旨本文には、王の命令を「最勝親王勅」とする表現が見えるが、
これは、信仰する金光明最勝王経にちなんで、王が「最勝王」を自称していたことによるものである。

上杉和彦「源平の争乱」(吉川弘文館)p26〜27
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 07:17:22

江戸時代の目明かし
・岡っ引みたいなもんだな。
266 [] 2010/12/13(月) 12:20:13
よく覚えてないが、奈良時代くらいには加賀郡ナンバー1だった道君という豪族の地位が
平安時代半ばには渡来系氏族に取って替わられてた(四番手くらいに落ちてた。)。
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 13:45:20
まさに氏の言うように、
氏姓制以来の国造や軍事氏族は、
氏姓時代→律令時代→王朝国家時代と、時代が変遷するごとに登場する軍事最高司令官氏族(軍事官僚、軍事貴族)に押される形で、そのままだと順次その地位は下がって行くわけだ。
ただ、その過程で古族の側もただ手をこまねいていたわけではなく、
中央在地を問わず、それまで培ってきた実力を通して、それらの軍事官僚や軍事貴族から招婿してその一族化を図り、自家の生き残り・既得権益の維持に努めていった。
それが例えば坂東だと、
このスレで既に見てきた、源平藤などから招婿した坂東平氏や下野の秀郷流諸氏や山内氏や波多野氏や、常陸や両毛などの源氏諸氏たちだ。
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 18:00:02
ただし満仲や高見の出身は不明。
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 21:23:42
平治の乱つながりで信西のこと聞きたいのですが
信西は高階氏へ養子にだされたそうですが
信西以前の異姓の養子はあまり聞いたことがないのですが
異姓の養子縁組はこのころも頻繁にあったのでしょうか?
日本@名無史さん [] 2010/12/13(月) 22:52:33

平高見に関しては、天皇家に時々生まれてくる口のきけない子(誉津別命や建皇子)とかの類いの可能性もあるかもね。
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 02:38:51

の言う河内源氏と高階氏とか、
中原親能と大友能直とか、
もっと古くは藤原頼通と源師房とかままあるんじゃね?





あとはなんといっても経基と満仲w
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 08:01:00
満仲の元姓として可能性があるのは

@懸犬養橘宿禰(母親、小笠原氏系図)

A東漢氏(渡来系古代軍事氏族)

B秦氏(摂津多田庄との関係、鉱山・製鉄・皮革・武具製造職能民、八幡信仰)
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 19:30:02
古代軍事貴族を考えるに弩を日本にもたらしたのは渡来系か?ってとこじゃないだろうか?
ちなみに秦氏あたりだと、弩の出土から元々大陸にいた一族が半島を通過して(半島に弩はない)日本に渡来したって出自と重なってくる
少なからず律令国家の軍隊は弩を使ってたわけで、これが和弓にとって変わる変遷が新しい軍事貴族の婿入り(生き残りっても本当に吸収されることで生き残ったに近いと思う)による統合の証拠に感じる
日本が弩を使い出した頃から和弓に変わってく時期、ちなみに装備ってのは民族のアイデンティティーや特徴に近い物があると思うので
弩やコンポッジットボウに色んな足跡が残ってると思うんだが
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 19:47:10

貴方の指摘は興味深い。
武具、戦術から武士の起源を洞察することは大事だと思う。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 20:12:52

日本の装備は特徴的なんですよね
古代アジアで弩を使ったのは中国大陸と日本(列島全体じゃなく朝廷ですけど)だけだし
和弓はコンポッジットボウで長弓
これはモンゴル軍などと比べたら騎馬民族のそれとは明らかに違う
蝦夷から狩猟の技術として武士は弓馬の技術をって説がありますが、和弓を考えたら騎射をするために和弓が発達したのでなく
和弓がもうあって後に騎射をするために取り回しを改良したって作りですよね
まず馬に乗ることが前提なら長弓にする必要がないわけで、特徴が騎馬民族などと共通点が出てこないといけないわけで
この弩と和弓の存在は考察すればするほど面白いですよね
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 20:20:19
和弓は南方系だと聞いたことがある。
平安中期まで丸木長弓でその後、合成弓の重籐弓が登場したらしい。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 20:36:19

鐙が伝わった後の平安中期も長弓を使って、それがコンポッジットボウに変化して和弓になってくなら
やっぱり弓が騎馬より先って感じですよね
もちろん鐙が長弓を騎射出来るようにしたんでしょうけど
元々長弓があったからこそ短弓にならずに馬の背に長弓を持って上がったんじゃないかと思うんですが
つまり日本で長弓を扱ってた人々が騎乗技術を取り入れていったってなると思うんですよね
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 20:58:03
扶余族はバイカル湖周辺のツングース系を出自とするが南下して1世紀前後に中国山東省にいた
部族が圧迫され中国東北・朝鮮北部に移動して高句麗、百済の祖となったと言われてるね。
彼らが日本列島に渡来系氏族として渡ってきたと思われる。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 21:17:47
だとすると律令国家ですでに弩を使ってたので律令時代の武官は高句麗、百済系の渡来氏族がメインじゃなかったことになりません?
ちなみに弩か長弓を使った形跡のある人々じゃないと古代を通じて日本の軍事関連に大きな影響を与えたとは思えない
弩が日本独自に発祥したとも思えないので、彼らが渡来する前に渡来していた氏族が弩を伝え武官になり弩を使用した
もちろん騎馬技術を伝えたのが高句麗、百済系になるかも知れないですけど
後の武士が長弓を持って馬に乗ったとなると伝えられた側がメインで伝えた側は飲み込まれていった(事実帰化したんでしょうけど)ことになります
もちろんこれは彼らの言語が死滅してしまっているので当然と思いますが
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 21:23:04
騎馬の習慣は渤海か金から来たと思うけどな
アイヌ系は日本海で貿易してるし、
渤海は日本に朝貢してるしな
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 21:26:50
大陸
南船北馬

列島
西船東馬
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 21:53:27
長弓を持った人たちが後に馬に乗った事を考えると(つまり騎乗を伝えた側は消えた)騎馬技術を伝えたのは勃海や西船東馬の坂東の可能性はありますよね
勃海自体は高句麗の後裔を名乗ってたりで高句麗とまったく関係ないわけじゃないですが
坂東は万葉集の時代ですでに訛はあるものの歌を読むくらいの日本文化の地域
ただ私も蝦夷が騎馬で狩猟してたかは疑問です
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:01:01
蝦夷は騎馬してないよ
そもそも一つの集団として蝦夷があったわけじゃないし
操る集団はあったかもしれないが、狩りというよりは移動手段だろうね

坂東には牧がたくさんあったから馬を育てやすい環境が整っていたことが
騎馬の習慣が発達した原因にあると思う
利根川がまだ江戸湾に流れているころで、河川の氾濫で稲作は考えられていなかったろうし
まだ森林も広がっていたろうから、牧場経営には困らなかったろう
とは言っても、生まれつきの騎兵だった遊牧民には劣っていて
富裕層がこどものころから英才教育をほどこさないといけなかったと思う
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 22:17:13
興味深い話だけど黒潮は最終氷河期以前は対馬海峡から日本海に流れてないんだよね。
縄文前期は南方からの海流は九州に到達せず四国沖から紀伊半島沖を通って本州にも漂着する
可能性は少なかったと思われている。
縄文中期には黒潮が対馬海峡から日本海に流入するようになって東北地方まで農耕が可能になったと言われている。
長弓が南方から日本に伝わったのは縄文中期以降と思われる。

長弓での騎射を考察する場合、大陸からの騎馬文化(鐙の使用)は明らかにツングース系の技術(漢民族は五胡十六国まで
鐙の使用を知らない)であり、遠くはスキタイから中央アジア・ステップを経由して伝わったと証明されている(クルガン古墳、
日本における円墳)。
日本の長弓騎兵は在来の長弓狩猟民子孫(地方豪族子弟、舎人)を征服者が中央(都で)騎馬技術を教え訓練して騎兵としたと推察される。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:22:11

やっぱり蝦夷は文化として騎馬があったわけじゃないんですね
もしあったら朝廷の蝦夷征圧戦で短弓騎乗兵が敵として出て来てもおかしくないですもんね
私も良く西船東馬って言われますけど鹿島海や東海道の存在も考えたら
元々坂東で騎馬が盛んだったとも思わないんですよね
馬の飼育に長けた渡来氏族が牧の運営(実質上のオーナーは中央なわけで)に坂東に入植させらていったって考えた方がいいでしょうか?
長弓を持った人々が彼らから騎乗を学習したって感じですかね
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:30:43
実戦からは程遠いものを好んだ中央の騎馬芸を教えて貰ったところで
何の役にも立たないよ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:32:27

その征服者側の律令国家は弩を使ってたわけで征服者側が騎馬技術を持ってたとも思えないんですよね
もちろん征服者側が渡来系から得た騎馬技術を長弓を持つ狩猟土着民に教えたって考えはありだと思いますが
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:39:58

私は本来、長弓で騎射するって実戦に程遠いものだと思うんですよね
それがコンポッジットボウの長弓で騎射する武士にまで昇華したのがすごいと思うんですよ
騎馬技術自体は短弓がない以上は騎馬技術を持った大量の人間が渡来して征服したは有り得ない
だから後に帰化して消え去る少数の渡来人に騎馬文化だけ伝えてもらったと思うんですよね
日本@名無史さん [] 2010/12/16(木) 22:42:12

王朝は交代しています。
応神朝は征服王朝(渡来人を引き連れて)と言われています。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:46:46
技術というのは日々進化するものだよ
渡来人が入植した頃のものなんて馬具を考えても何の役にも立たない代物
当時は戦うというより移動手段としての要素が強いし
故実に拘って問題ない分野もあるが、戦闘となればそうはいかないよ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:54:52

律令制下では基本歩兵だから
騎馬の風習はやはり平安中期からと考えた方がいいよ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:55:02

律令国家で弩を使ってたわけですから応神の後にも王朝交代があったことになるじゃないですか
弩を使ってた律令国家の律令体制が崩れていく中で長弓騎馬の武士が出てきたんですよ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 22:57:27

やっぱり坂東に牧が現れた後ですよね
平安中期以降で同意です
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 23:09:10
古墳時代に馬の生育が盛んだったのは信濃、上野、甲斐など
平安期になると良馬の産地は陸奥、出羽、常陸、下野、信濃など
馬の起源は畿内に限らず、東国でも高句麗や百済加耶方面の渡来人(4世紀後半)が持ち込んだものが主なルーツだが
かといって馬で戦うという技術は数世紀以上経たのちの日本人が独自の形態を創造していったものだよ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/16(木) 23:25:51

縄文以来の土着土豪で長弓を使ってた人々が騎乗技術を取り入れて和弓に改良して日本独自の騎射兵武士に昇華したって考えたほうが良いですよね
日本@名無史さん [] 2010/12/17(金) 02:36:38

応神朝の後の王朝交代は白村江から壬申の乱によって成立した親唐・新羅の天武朝。
彼等が律令軍制と弩を導入した。
騎馬民族である応神朝期に渡来した騎馬技術は渡来氏族とともに甲斐、信濃、坂東に
すでに扶植されていて律令国家から王朝国家への端境期に王臣子孫、富豪層が彼の地方に
入婿し根を下す過程で歴史に再登場(再発見)したのが真相だろう。
日本@名無史さん [sage] 2010/12/17(金) 04:10:24

騎馬民族が日本を征服して、その後再び武士として登場したなら
長弓をわざわざ騎射用に改良して和弓にするんじゃなく短弓をコンポッジットボウに改良するんじゃないですか?
いくら征服者の騎馬民族が土着の長弓の民に騎乗技術を教えたっても、わざわざ騎乗技術だけ教えて武装は、そのままじゃ使いづらい長弓を使わせ続けたは無理がある見解だと思いますよ
それに日本に騎馬民族が征服者として入ってるなら短弓が出て来ないのはおかしいじゃないですか?
騎馬に長けた騎馬民族に弓がなかったとするのは無理がありすぎるんですよ
日本@名無史さん [sage] 2010/12/17(金) 04:18:47
ちなみに騎馬民族が征服したなら軍事力の中核は馬と弓になるわけで
(当然、征服者なら馬も弓もセットで伝承されなければおかしい)
騎馬民族にとってどちらも不可分なもので、騎馬民族の騎乗技術だけ教えて騎射の技術(つまり短弓の装備)は伝わらなかったはちょっと賛同出来ませんね
日本@名無史さん [sage] 2010/12/17(金) 04:27:05
1000
1001 [] Over 1000 Thread
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。

勢い5万以上のスレをメールでお知らせするサービス、実施中!!
憧れボディをGETしたい!その夢、ボニックで!

2ch勢いランキング アーカイブ 日本史板ランキング

凡例:

レス番

100 (赤) → 2つ以上レスが付いている
100 (紫) → 1つ以上レスが付いている

名前

名無しさん (青) → sage のレス
名無しさん (緑) → age のレス

ID

ID:xxxxxxx (赤) → 発言が3つ以上のID
ID:xxxxxxx (青) → 発言が2つ以上のID

このページは2ch勢いランキングが作成したアーカイブです。削除についてはこちら